大和古仏探訪

京阪神を中心に内外の古仏についていろいろと書いてみたいと思います。

仏師 運慶論 その根底にあるもの

運慶展 東博

(目次)
§ プロローグ 運慶の決意
第1章 無著と世親
第2章 運慶の時代と僧侶の活躍
第3章 運慶と真言宗
第4章 僧運慶は何を目指したか
§ エピローグ 運慶は空海を彫ったか


§ プロローグ 運慶の決意

まもなく、興福寺中金堂再建記念特別展「運慶」が、東京国立博物館 平成館 特別展示室にて、 2017年9月26日(火) ~ 2017年11月26日(日) に開催される。この秋、仏像ファンにとっては最大のイベントである。

平安末期、寿永2年(1183)に運慶は願を立てた。国宝「運慶願経」である。これは周到に準備して作成された。「願主僧運慶」にはじまる奥書(第8巻)は詳細に記述されており、運慶を総帥とする慶派工房のその後の仕事ぶりを知る手掛りにもなる。そのエッセンスを以下にまとめておこう。

<作成期間>
まず、願経は安元年中の頃に発心された。元号から1175~1177年までの期間を指す。円成寺大日如来坐像は安元二年(1176)作なので、その前後となろう。出来上がったのは寿永2年(1183)なので実に6~8年もかかっていることになる。

<作成場所>
御経書写所唐橋末法住寺辺と記載される。

<作成手順>
1.色紙工と相談し、紙を打つ(女大施主阿古丸)
2.硯の水を用意する。具体的には、比叡山は僧宗実が、三井寺は快尋が、清水寺は僧康円がこれを担当する。
3.書き手を指名する。珍賀、栄印がこれを担当する。
4.軸をつくる。軸作りは源兼弘、軸の銅細工は源支正がこれを担当する。ほかに表紙作、紐織なども別に行う。
5.東大寺焼失の柱残木の軸木を用意する。最智法師がこれを担当する。

<作成にあたっての留意事項>
関係者は沐浴精進。書写の間は毎日行数をはかり、行別に三度礼拝、宝号および念仏を唱えるなど、厳密なプロトコルをもって対応。

<末尾関係者一覧>
快慶、源慶、静慶など一門に加えて多数の結縁者の名前を掲載。
(以上、三山進『鎌倉と運慶』有隣新書 1976年 pp.16-21を参照)

こうしたドキュメントがいまに伝えられていること自体が稀有なことだが、では、運慶の胸に去来するもの如何。そして、その後の彼の活動の根底にあるものは何であったのか。小考では、いささかユニークな視点を提示してみたい。


【以下は東博HPから引用】
治承4年(1180)、平重衡の軍勢が放った火によって東大寺、興福寺の主要伽藍が焼失した。運慶は幼少のころから両寺院の仏像、伽藍に親しんでいたはずで、深く胸に刻まれる事件だっただろう。焼け残った東大寺大仏殿の木を軸にして法華経八巻の書写を発願した。紙は工人に沐浴精進させて作らせ、水は比叡山横川、園城寺、清水寺から霊水を取り寄せて墨をすっている。巻第八の奥書に快慶をはじめ結縁した同僚の仏師の名前がある。
http://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=1861

第1章 無著と世親

運慶北円堂5
(左:世親菩薩立像、右:無著菩薩立像)

無著と世親について、日本仏像彫刻においては、運慶工房の秀作によって、広く知られている。世親像については、1975年の東京での展覧会ではじめて見た。その後、興福寺北円堂でいくども両像にはおめにかかっている。鎌倉彫刻における写実主義の頂点にたつ作品というのみならず、この仏教界の偉人を、イマジネーション豊かな巨魁として表現したその技量に感服する。今回の東博の展示でも、上記ポスターに使われているとおり、もっとも眉目をひく逸品だろう。

無著(無着 むぢゃく、アサンガ)はインドの大乗仏教唯識派の大学者。生没年は不詳だが、310年‐390年ころ(あるいは下って5世紀はじめ)の人といわれ、世親(せしん、ヴァスバンドゥ)は無著の実弟である。かつて、華厳経の本を読んでいて、この2人のインドの学僧がいかに偉大であったを知る。しかし、日本では上記の運慶工房の優れた2作があればこそ、われわれは教典とは別に、親しくお近づきになれるし、その実在が生々しくイメージされる。
無著は悟った表情をたたえた老人の顔をしており、一方、世親は壮年のエネルギーに満ちている。見事な対比であり、ここには「静」と「動」の相違も含意されているようにも感じる。鎌倉時代の最高の肖像彫刻であるとともに、慶派の高い知見と作像の実力を後世に残すものであることはまちがいない。


➡ 無著(着)、世親について
http://blog.livedoor.jp/shokkou/archives/1830204.html

この二人の偉大な兄弟について、もう少しメモしておこう。『無著と世親』(木村園江 第三文明社 1975年)を読む。工夫されたプロットで、筆力ある作品。二人の主役は、弟・世親(ヴァスバンドゥ)がまず前半で集中的に描かれ、後半に兄・無著(アサンガ)が登場しこれもその厳しい修業の過程が詳述される。そして、いよいよこの2人が邂逅(再会)した後、物語は終盤に劇的な展開をみせる。

日本の美術91

このプロットは、実は「止揚」の過程を描くものでもあり、ヴァスバンドゥはバラモン教(外道)から解脱し、これを破砕することで小乗仏教の一大論客として成長する。王家の手厚い庇護をうけ、いわば国教化した大僧侶に栄達する。この小乗仏教に真っ向対峙し、それを超克したアサンガは、弟のヴァスバンドゥを折伏するのだが、それは論戦に勝つことよりも、実践哲学たる大乗仏教の優位性を説くことにあった。したがって、そのプロットはバラモン教→小乗仏教→大乗仏教への進化の道程を描くことに主眼がある。

民衆に分け入り、人々の救済にこそ仏教の実践的な意味を見い出すアサンガは、ヴァスバンドゥとの論戦を制するけれども、その後の学理究明、その普及においてはヴァスバンドゥがより優れ、アサンガの最良の後継者となる逆転の展開には鮮烈な効果がある。

さらに、仏に成るべく克己に集中する小乗仏教は、貴族主義的でその信奉者もカースト制における支配階層に限定される。対して、最底辺の人々の救済をも射程にいれた大乗仏教は、その思想の大きさにおいて小乗仏教を包摂する関係にある。ヴァスバンドゥがそれまで築いてきた唯識論哲学は、けっして無為ではなく必要なる解脱のプロセスであり、むしろ、大乗仏教に乗りかえることによって、よりその普遍性を獲得する。こうしたプロットは実によく考えているなあと感心した。学理解釈にも必要な部分では筆をすすめた苦心の作である。


さて、本書を読んで唯識論について関心を深めると、ではそれがどのように日本に受容されたかが次に当然、気になる。
系譜としては、玄奘三蔵が、これを学び、『成唯識論』を記す。玄奘の弟子、慈恩大師基によって、この考え方は法相宗として立てられる。法相宗は奈良時代に、道昭、智通、智鳳、そしてかの玄昉などによって日本に伝えられ、南都六宗のひとつを形成し、それは主として、興福寺、法隆寺、薬師寺、そして京都清水寺に受けつがれていく。よって、興福寺北円堂に、運慶工房をあげての作像が 建暦2年(1212)頃に行われることになるのである。


運慶北円堂

【以下は東博HPから引用】
国宝 無著菩薩立像・世親菩薩立像  運慶作  鎌倉時代・建暦2年(1212)頃  奈良・興福寺蔵

北円堂は、奈良時代に藤原不比等の供養のために建立されたが、治承4年(1180)の兵火で焼失、復興は遅れ承元2年(1208)にようやく造仏が始まった。弥勒如来坐像と両脇侍像、二羅漢、四天王像の造像は運慶統率のもと6人の子、4人の弟子たちが分担した。無著、世親は5世紀、北インドに実在した学僧で、法相教学を体系化したことで知られる。無著が兄、世親は弟であり、2体の像は老年と壮年に作り分けられている。2メートルに迫る巨体に厚手の衣を着け、大ぶりな衣文を作って重厚な存在感を表す。一方容貌は無著の静、世親の動と対照しつつ精神的な深みを加えている。世界的な傑作と言って良い。
http://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=1861

この無著・世親像に触発されて、1冊の有名な運慶論が上梓された。岡本謙次郎『運慶論』(1972年 冬樹社)である。この本では、筆者の独特の芸術論を運慶に重ねてみている。 本書では両像について多くの記述があるが、形式・仕儀から脱して、運慶が写実主義に行きたった点が強調されている。一文のみ以下、引用する。

「無著像世親像の毅然たる姿はわれわれの想像力を封じてしまう。多分、写実とは、事物を離れてとりとめもなくなった想像力をあらためて現実の事物に引きとめておこうとする態度から生じた一形式である」(p.125)


さて、運慶は仏師であるとともに僧侶である。実は小稿では以下、ここに注目してみたい。無著・世親像について、かくも見事に彫りきった運慶は、自ら僧侶としての十分な学識ももっていたと考えたい。
運慶の父、康慶は興福寺系の一介の僧侶から仏師の道に入るが、運慶もまた「大仏師康慶、弟子運慶」の生業とともに興福寺勾当として僧侶の道を歩んでいる。
運慶に関しては、子沢山であり、慶派工房の総帥という世俗的、社会的な立場(いわば成功した同族経営の二代目、オーナー社長ともいえる)から、ともすれば僧侶としてのイメージは持ちにくい。
瀧川駿『運慶』(1962年 圭文館)では、著者の破天荒な人生観がここに投影されているようにも感じるが、六波羅蜜寺にある運慶の生前の姿を写した(かも知れない)坐像についてのくだりが面白い。以下に一部引用する。

「・・・とんがり頭の武骨い感じの、ごく平凡なおやじの顔である。口と眼がばかに大きく眉が濃い。七条仏所の造仏の秘伝からいうと、かなり枠からはみ出している作品である。・・・だが、この像にはなにか素朴さがあり、親しみのある運慶が感じられて、接していても温かい気持ちがする。そして運慶が主張していた実物写し(写実)の刀法をかんじる。この作は運慶の養子で、第三子になっている実に非凡であった康弁の作であろうといわれているが、彼の代表作の天鬼燈、竜燈鬼などと同様に、着想の奇抜さが感じられる」(pp.212-213)

運慶坐像
(運慶坐像 六波羅蜜寺)

こう書かれてしまうと取りつく島がないけれど、重要なのは僧形であることであり、運慶はそれを十分に自覚していたと思われる。さらに、興福寺の僧というステイタスについては慎重に考えるべきである。運慶は、特定の教派にとらわれていたとは考えにくい。なぜならば、施主の希望に応じて、商品カタログが豊富で、短期の納品期限にも間に合い、大規模・大量にあらゆる仏像を造像できる実力こそが慶派をスターダムに乗せえたからである。しかし、運慶の胸に秘めた僧としての矜持は奈辺にあったかは興味深い。


第2章 運慶の時代と僧侶の活躍

運慶の生きた時代は非常なる激動期であった。平家が心酔した阿弥陀如来による往生信仰は、平家の滅亡によって幻となった。取って代わった源氏一族は、いまだ不安定な政権基盤であり、疑心暗鬼と権力内での深刻な内紛を抱えていた。しかも朝廷(京)と新政権幕府(鎌倉)の確執は緊張をはらんでおり、南都(奈良)がそうであったように、京もいつ大きな戦禍に巻き込まれるか、誰にもわからない危機的な状況にあった。安心立命などどこにもないという虚無的な時代精神が支配的となっていた。末法思想の蔓延はそれを裏付けている。だからこそ、人々は心の安寧を保証してくれる新たな宗教を求めていた。

運慶とともに生きた時代の主要な僧を生年月日(推定をふくむ)順に以下、列挙してみよう。

寛遍(1100~ 1166年)は、真言宗の高僧であり、広隆寺別当、東寺長者、高野山管長、東大寺別当を歴任し応保元年(1161年)大僧正となった。重源(1121~1206年)は、東大寺大勧進職として、源平の争乱で焼失した東大寺の復興を果たした。法然(1133~1212年)は浄土宗の開祖である。文覚 (1139~1203年)は運慶ともかかわりの深い真言宗の僧である。栄西(1141~1215年)は臨済宗の開祖である。貞慶(1155~1213年)も運慶と関係のある鎌倉時代前期を代表する法相宗の僧である。明恵(1173~1232年)は、同様に華厳宗の僧である。親鸞(1173~1262年)は浄土真宗の開祖である。やや時代が下るが、道元(1200~1253年)は曹洞宗の開祖である。

さらに2人をこれに加えておこう。栃木・光得寺を創建した足利義兼は、武将にして源頼朝の盟友であったが、頼朝の誅殺を恐れて仏門に入った。式部僧都寛伝(1142~1206年)は源頼朝の従兄弟であり、愛知・瀧山寺を開いた。はじめは天台僧、後に真言宗総本山仁和寺で修行し、真言僧として大成し僧都になった人物である。次の諸像はその証であり、いずれも運慶の作である。


運慶展 (5)
重文 大日如来坐像   鎌倉時代・12~13世紀 栃木・光得寺蔵

運慶展 東博3

【以下は東博HPから引用】
重要文化財 聖観音菩薩立像  運慶・湛慶作  鎌倉時代・正治3年(1201)頃  愛知・瀧山寺蔵

建久10年(1199)に没した源頼朝の供養のため、頼朝の従兄弟にあたる僧・寛伝(かんでん)が造った像。『瀧山寺縁起(たきさんじえんぎ)』には、聖観音像の像内に頼朝の髪と歯が納められたと記され、X線写真により、頭部内に納入品が確認されている。脇侍の梵天・帝釈天を合わせ三尊とも作者は運慶・湛慶とする。肉付きの良い体体と写実的な着衣の表現など運慶の特色が顕著で、『瀧山寺縁起』の記述は信用できる。表面の彩色は後補。聖観音菩薩立像が寺から外に出るのは初めてである。
http://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=1861

以上の僧はすべて、運慶(1150頃~1224年)と同時代人として同じ空気を吸っていた。そして運慶は、自ら僧としての自覚をもっていた。
運慶は、法然や栄西や親鸞や道元のように各宗派の開祖ではない。運慶は、寛遍や重源や文覚や貞慶や明恵のように既存宗派の高僧であったわけでもない。しかし、運慶は、門閥や位階ではなく、その実力において、人々が心から祈りをささげる仏を彫ることのできる当代最高の仏師であった。人々にあたえる直接的な影響力はある意味で絶大であり、彼はそれを強く意識していた。だからこそ、日本の仏師ではじめて自分の作品にその名を記していったのではないかと思う。


第3章 運慶と真言宗

 運慶展 東博4
公益財団法人愛知教育文化振興会 HPより転載

運慶は真言宗寺院との関係が深い。運慶が生涯手掛けた作品は多く、現存作(推定をふくむ)はその一部であることはあからじめ明記しておかねばならない。その限られた作品のなかであることは一応念頭に、上表をみると、いかに真言宗との関係が深いかは一目瞭然だろう。

前述の栃木・光得寺の前身、樺崎寺は真言律宗であった。愛知・瀧山寺を開いた式部僧都寛伝は天台僧、後に真言宗総本山仁和寺で修行し、真言僧として大成し僧都になった点もすでにふれた。
興福寺、東大寺をのぞき、それ以外の各寺は京都、鎌倉ともに真言宗寺院である。城では、平城や山城などの区別があるけれど、寺院でも都の真ん中にあるような教化寺院もあれば、山岳信仰の道場のような寺院もある。真言宗は空海の教えもあって、双方がともに重視された。前者は教王護国寺(東寺)であり、後者は言わずと知れた高野山、金剛峯寺である。

運慶と東寺との関係。運慶は建久8(1197)年5月から翌年9月にかけて、文覚上人の勧進により、数十人の小仏師を率いて東寺講堂の五仏・五菩薩・五大尊・梵天・帝釈天・四天王像の大修理を行った。いかに東寺との関係が深かったかを知ることができる。
一方、高野山・金剛峯寺には今回も出展されている運慶の有名作が保管されている。一方で、六波羅密寺の宗派は、天台宗から真言宗にかわるなどの変転もある。

運慶は興福寺(法相宗)勾当であったことから、真言宗との関係にはちょっと違和感があるかも知れないが、上記に関連して、写真を掲げた瀧山寺の梵天について多少ふれよう。この像が運慶作と特定されたときに、多くの識者からは戸惑いがあった。運慶といえば、荒々しい鎌倉武士を写実的に映した新しい息吹をもった仏師。この作品からはじめに受ける印象が柔和で、いわば古風な印象もある。運慶はなぜこうした仏さまを作像したのだろうか。
教王護国寺(東寺)には、十二天屏風(六曲一双、絹本着色、1191年)がある。この梵天は瀧山寺梵天とよく似ている。運慶が、密教関係の仏典や儀軌を徹底して研究していたこれはひとつの証左であろう。


運慶展 東博5 十二天屏風(梵天)
十二天屏風(東寺、絹本着色、1191年)のうち梵天

さて、不動明王は日本ではメジャーになった仏像だが、その請来は空海によるともされる。インドや中国ではあまり流行らなかったようだが、真言密教では重要な仏さまである。運慶もその復興に尽力した神護寺には、平安時代前期に空海作の不動明王像があったとされる。これは、平将門の乱(939年)が起こった際、将門討伐を祈とうするために下総(現在の千葉県)に運ばれ、身代わり不動尊で知られる成田山新勝寺にあった、との伝承もある。運慶作など著名な不動明王は、関西よりも関東で多く残されているが、こんな伝承もそれを裏付けるものかも知れない。
空海は、絶対のパワーをもつ大日如来と金剛波羅蜜菩薩と不動明王の関係を、一般の儀軌的な序列で、

 大日如来>金剛波羅蜜菩薩>不動明王 

と階序的に位置づけるのではなく、むしろ各像は<変化仏>のパターンを表しており場合によれば、

 不動明王⇔大日如来⇔金剛波羅蜜菩薩
 
にいつでも転じることができるとした。明王とは如何。衆生は大日如来の正法をもってしても済度しがたいこともある。まして悪意をもって祟りをなさんとする場合はなおさらである。そこで、これらに対して大日如来は明王(教令輪身)となり威をもって仏法に導く。この場合、明王は如来の使者または如来の変身といわれる。
この不動明王には眷属がいる。八大童子であり、今回の展示でも人気を博すること間違いない運慶の秀作がその代表作である。
不動明王は、儀軌などでは三面六臂や四面四臂など多面多臂で作られたようだが、その後、いまのような憤怒(忿怒)相が主流となり、それに伴って矜羯羅(こんがら)、制吒迦(せいたか)の二童子が脇侍のように扱われた。八大童子自身が、不動明王の分身であり、当初の多面多臂の表情を写しているとの解釈もある。してみると、

大日如来⇔不動明王⇔八大童子

との関係性も成り立つわけで、八大童子を単なる童像などとは扱ってはならないわけである。蛮族が仏に恭順した、奴婢となったとのインドの発祥譚もひくので、その表情はいかにも曲者であるが、運慶はそこも踏まえて、卓抜な想像力と造形力でこれを生き生きと表現した。 


➡ 空海と密教美術展 空海について考える4 憤怒(忿怒)相の意味
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-254.html

【以下は引用】
八大童子:不動明王につき従う8人の童子。八大金剛童子ともいう。一般には,慧光(えこう)童子,慧喜(えき)童子,阿耨達(あくた∥あのくた)童子,持徳(指徳)(しとく)童子,烏俱婆伽(うぐばか)童子,清浄比丘(しようじようびく),矜羯羅(こんがら)童子,制吒迦(せいたか)童子をいう。中国で撰述された偽経〈聖無動尊一字出生八大童子秘要法品〉に記す諸尊である。このうち矜羯羅(Kiṃkara,随順・奴隷と漢訳),制吒迦(Ceṭaka,福聚勝者と漢訳)の2童子は,本軌にも説かれ不動明王の両脇侍とされることが多い。
(出典) 世界大百科事典 第2版の解説
https://kotobank.jp/word/%E5%85%AB%E5%A4%A7%E7%AB%A5%E5%AD%90-114802

運慶展 (3)
不動明王立像 運慶作 文治五年(1189) 神奈川・浄楽寺所蔵

運慶金剛峯寺3
八大童子立像のうち制吒迦(制多伽)童子

運慶金剛峯寺2
八大童子立像のうち矜羯羅童子

【以下は東博HPから引用】
国宝 八大童子立像のうち矜羯羅童子、制吒迦(制多伽)童子  運慶作  鎌倉時代・建久8年(1197)頃  和歌山・金剛峯寺蔵

平安時代後期、12世紀作の不動明王像に随う八大童子として造られたもので、6体が運慶作、2体は後補である。八条女院という高貴な女性の発願だからか、経典で性悪とされる制多伽童子が理知的な顔に造られるのをはじめ、いずれも上品な姿である。玉眼は視線の強さ、あるいは聡明さなどを巧みに表し、生きているように見える。造像時の華麗な彩色もよく残っている。運慶作品の中でも完成度の高さで屈指の作である。
http://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=1861

http://www.reihokan.or.jp/syuzohin/cyokoku.html


第4章 僧運慶は何を目指したか

運慶は父康慶の指導によって僧として、そして仏師の道を歩むが、康慶は苦労をして慶派を築いたファウンダーであった。また、父の期待と英才教育のもと運慶は育ったが、その才能は幼年期から明らかとなっていたとの説もある。

➡ 運慶考1 父は偉大だった
http://blog.livedoor.jp/shokkou/archives/1901969.html

➡ 運慶考2 天才児であった
http://blog.livedoor.jp/shokkou/archives/1901985.html


若き日の運慶の仏師としての志の高さは運慶願経に結実されている。そして、その熟練の技術が余すところなく生かされた傑作が、後年の無著・世親像である。ここには高邁な理想をもった仏教界の巨星が、あたかもいま眼前に降臨したような驚きがある。仏師運慶は、僧でありすぐれた宗教家であったと想像を馳せるにたる作品である。

運慶の生きた時代は、日本の歴史のなかでも著名な僧がもっとも積極的に布教活動を行った時代である。運慶は各宗派のファウンダーでもなければ、既存の大宗派で教理を説く高僧ではない。しかし、運慶が作り出す仏さまの訴求力は絶大であり、だからこそ今日にいたるまで、「仏師といえば運慶」というほど広範な影響力をもつに至った。運慶は、当時の並みいる僧の活動を観察して、自身の役割を十分に意識していたと考える。

それは危機感の表れでもあった。念仏を唱えることで極楽往生が可能とする新興勢力は、基本的に偶像を必要としない。禅宗においても同様である。それまでの皇族、貴族などのための造像に対して、大伽藍や高価な仏像とは一線を画する民衆のための仏教が台頭してきたのである。運慶は、鎌倉幕府の有力者を新たなスポンサーにすることには成功するが、だからといって民衆のために仏を彫ったとは言えない。それは、たとえば後世、円空や木喰の時代を俟たねばならないだろう。

➡ 運慶考4 政治との関係
http://blog.livedoor.jp/shokkou/archives/1903034.html

➡ 運慶考5 運慶と頼朝
http://blog.livedoor.jp/shokkou/archives/1903964.html


運慶と真言宗との関係は深い。そこで思うのは、空海が確立した密教は、マントラと曼荼羅という2つの方法論の融合であることである。前者は梵語に起源をもつ「言葉」の威力を最大限使うことであり、後者は絵画による密教世界の可視化である。さらに、東寺がそうであるように、空海は平面的な絵画を立体化して仏像による「立体曼荼羅」を考案する。マントラは鎌倉仏教の念仏に引き継がれる。一方、「立体曼荼羅」をより生き生きと表現することこそ、運慶の使命であったとは考えられないか。

➡ 空海と密教美術展 空海について考える6 <真言>+<陀羅尼>
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-256.html


運慶の並びたつ慶派工房のもう一人のスター、快慶も深く仏教に帰依し若き日、自らを「安阿弥陀仏」と号した。また、運慶の子、湛慶は41歳で最高の僧綱位である法印に叙せられるが、その後も父の遺志をつぎ慶派工房をよく維持した。

➡ 仏師 快慶論  意識した芸術家の横顔 
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-426.html 


運慶、快慶、湛慶の作品には、いずれも僧としての自覚と威風があるように思う一方、それ以降の慶派の後継者は、より作風が自由となり、また驚くべき彫技の冴えを見せる者もあるが、その分、やや規律に欠ける傾向もある。
運慶願経のみならず、その後の像内納入品(それが運慶はじめ慶派の作品の証左となるのだが)にも僧としてのきちんとした所作がある。そこも強調しておきたい。

➡ 運慶考7 運慶工房の生産性 <チーム運慶>の実力
http://blog.livedoor.jp/shokkou/archives/1905146.html

➡ 運慶考8 運慶彫刻の魅力
http://blog.livedoor.jp/shokkou/archives/1906204.html

➡ 運慶考9 運慶の継承者たち
http://blog.livedoor.jp/shokkou/archives/1906384.html


§ エピローグ 運慶は空海を彫ったか

最後に突拍子のない推論をひとつ。運慶の処女作と目されている円成寺大日如来坐像のご尊顔は、空海を念頭においているのではないかと考えた。ご関心があれば、以下の拙稿をご笑覧いただきたい。

◆空海と運慶  運慶は空海を彫ったか?
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-518.html

2017年9月22日
【“仏師 運慶論 その根底にあるもの”の続きを読む】

法隆寺宝物館と飛鳥白鳳彫刻

法隆寺宝物館

東京上野、国立博物館法隆寺宝物館には学生時代から何度となく足を運んでいる。広々とした前面の広場は充ち満ちる水を配した回廊となっており、宝物館自体は近代的な建物ながら、大胆で開放的な空間を演出し、ユニークかつ清々しい。

中にはいると、金銅仏 光背 押出仏が展示されている第2室のほか、灌頂幡(1階)、木・漆工、金工、絵画・書跡・染織など(2階)もあり日がな一日過ごしても飽きないほどの物量である。同館は名前のとおり、なんとも贅沢な歴史の「宝庫」であり、飛鳥白鳳彫刻への最良の道標である。

ここには、「1878(明治11)年に奈良・法隆寺から皇室に献納され、戦後国に移管された宝物300件あまりが収蔵・展示されている。これらの文化財は、正倉院宝物と双璧をなす古代美術のコレクションとして高い評価を受けているが、正倉院宝物が8世紀の作品が中心であるのに対して、それよりも一時代古い7世紀の宝物が数多く含まれていることが大きな特色」(同館案内)とされる。

法隆寺宝物館の仏像のもつ意味は、ここに飛鳥白鳳時代のいくつかのタイプの仏像群が一堂に会していることにある。


<目次>
1.止利仏師系 N145(分類番号)、N155、N165、N166

2.半跏思惟像 N156、N157、N160、N161、N162

3.朝鮮三国時代系 N143、N151、N158
【朝鮮の影響】N152、N189
【中国の影響】N146、N169、N173、N178、N185
【インド的仏像】N186、N187

4.摩耶夫人及び天人像 N191

5.木造仏 N193

6.山田殿像系、童子系、法隆寺系
【山田殿像系】N144、N148、N167、N177 
【童子形像系】N153、N168、N175、N176、N179、N188 
【法隆寺系】N163、N164、N172 
(関連掲載)N182、N183

7.その他
【他寺院仏との比較】N147、N154、N157、N180、N181
【拾遺集】N170、N174、N184、N190

(以下Nの解説部分は全て東博からの引用)
http://www.tnm.jp/modules/r_collection/index.php?controller=list_img&start=42&limit=&t=search&search%5Bname%5D=&search%5Bcreator%5D=&search%5Btype%5D=&search%5Bperiod%5D=&search%5Bcentury%5D=&search%5Bregion%5D=&search%5Bdesignation%5D=&id=0

1.止利仏師系

まず、もっとも有名な止利仏師系について。実は、ここでは止利派工房作品のいわばエッセンスをみることができるのである。

N145(分類番号)の如来坐像(銅製鍍金 像高30.8 飛鳥時代 7世紀 重文)をみてみよう。この坐像は、法隆寺・戊子年銘三尊像の中尊(628年)や法隆寺金堂釈迦三尊像(推古31年・623)の中尊とよく似ている。

N155の菩薩半跏像(飛鳥時代・7世紀 重文)は、法隆寺大宝蔵殿・菩薩立像が、そのまま観想にはいった姿といわれても、なるほどと首肯できるのではないだろうか。

また、N165、N166の両翼に広がった天衣(鳥≒とり≒止利の羽根、飛翔のイメージがある)は法隆寺救世観音に共通する。さらにN149の如来立像(飛鳥時代・7世紀 重文)のご尊顔は、止利派の不愛想な「仏頂面」(失礼!)と二重写しになる。

さて、止利仏師系は、当時にあって最有力の工房であったが、中国北魏から東魏時代(6世紀)の影響を色濃く受けているといわれる。上記は、飛鳥寺(元興寺)や法隆寺の諸仏と共通するが、N155は第二次世界大戦後の復興になるものだが、四天王寺の本尊のサンプルの一つともいえよう。

止利派工房の場合、小金銅仏はより大きな造仏にあたっての準備段階の試験作品(サンプル)といった位置づけがあったかもしれない。一般的な近親者への追善供養といった持念仏は個人ユースだが、国家的な事業を念頭に、そのミニチュアをつくるという目的からは、発注者などへの配慮から、全体の出来栄えのよさ(精緻さ)も必要となろう。そうした観点からみると、小金銅仏と関連寺院の現存作との近似も興味深いだろう。


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如来坐像 1躯 銅製鍍金 像高30.8 飛鳥時代 7世紀 重文 N145
【東博の解説】止利仏師の作として知られる法隆寺金堂釈迦三尊像(推古31年・623)の中尊とよく似た形の像である。しかし,その中尊にくらべて顔の表情はずっと穏やかで,頭髪や懸裳のデザインも異なっており,当時,同グループでも作風に一定の幅があったことを示している。

N-145:推古31年(623)に止利仏師によって造られた法隆寺金釈迦尊像の中尊とよく似た形を示す。また、大衣の末端を正面では左前膞に懸けるのに対し、背面では左肩に懸けるように表わす矛盾した着衣の処理までも共通するが、金堂像と比べると表情がより穏やかとなり、渦巻き状の頭髪や懸裳の衣文などには著しい意匠化がみられる。

法隆寺・戊子年銘三尊像~中尊
(参考)法隆寺・戊子年銘三尊像~中尊

法隆寺・戊子年銘三尊像
(参考)法隆寺・戊子年銘三尊像

法隆寺釈迦三尊N1
(参考)法隆寺金堂釈迦三尊像
◆法隆寺金堂釈迦三尊像
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-97.html

【止利仏師系】

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如来半跏像 1躯 銅製鋳造鍍金 像高38.0 飛鳥時代・7世紀 重文 N-155

N-155:止利派の菩薩半跏像で、目を杏仁形とせず仰月形にややつり上げて表わす他は、法隆寺の菩薩立像とかなり近い造形を示している。また、本像は通例の半跏思惟像とは異なり、右手を頬につけず掌を正面に向けて立てているが、この形は『別尊雑記』にみえる四天王寺本尊救世観音像の図像と一致するものである。

法隆寺大宝蔵殿・菩薩立像
(参考)法隆寺大宝蔵殿・菩薩立像

法隆寺金堂三尊脇侍
(参考)法隆寺金堂三尊脇侍像

四天王寺・菩薩半跏像
(参考)四天王寺・菩薩半跏像
(これは四天王寺に伝わる仏さまだが、上記のとおり、『別尊雑記』にみえる四天王寺本尊救世観音像の図像は、N155である)

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観音菩薩立像 1躯 銅製鋳造鍍金 像高22.4 飛鳥時代・7世紀 重文 N-165
【東博解説】台脚の天板部に銘文があり、「辛亥年七月十日に崩去した笠評君のため、その日、遺児と伯父の二人が造像を発願した」ことが知られる。「辛亥年」については、銘文中の「評」が大化(645〜650)から大宝(701〜704)にかけて使用された用字であることが解明されており、白雉2年(651)に比定できる。また、銘文の内容から、本像は笠評君の死亡当日に造像が発願されたもので、さらにその日のうちに銘記までなされるという興味深い状況もうかがえる。

N-165:天衣に鰭状の出を表わし、全体の形を左右対称にまとめることなどは止利派の流れを汲むものといえるが、眉や目を面と面の段差で表わすなごやかな顔立ち、先端を束ね、蕨手をつくらない垂髪、鰭状の出の各先端が後方に反りをみせる天衣など、止利派の造形から一歩ぬけ出した感覚もうかがえる。また、本像は、宝冠に化仏が表わされる観音像として、年紀の明らかなわが国最古の作例でもある。

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N-166:「辛亥年」の銘をもつN-165とほぼ同一の形式を示す像であるが、垂髪を蕨手状に表わし、鰭状の天衣が正面に向けて真直ぐに垂下し先端に反りをつけないなど、全体にN-165よりもむしろ古様な面もうかがえる。しかし、その一方で、丸く張った頬や愛らしい顔立ちには7世紀後半の童子形像と通じる面もあり、本像は、7世紀前半から後半にかけてのいわば過渡期に位置づけられるとも思われる。

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(参考)法隆寺救世観音立像
◆法隆寺・小考2:救世観音
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-91.html
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N150
N-149:体部に比べて頭や手を大きく表わした止利派の如来立像である。大衣の末端を正面では左前膞に懸けるのに対し、背面では左肩に懸けるように処理するのも止利派の如来像に共通するものといえる。また、手指の関節を明瞭に刻線で表わし、爪を指端からのぞかせる表現も止利派の諸像にみられるものである。

N150

N-150:止利派の如来立像に近い形式を示すが、通肩にまとう大衣の末端を左肩から腕に懸ける着衣はなく、頭や手の大きさも特に強調されない。また、衣文の処理にも厳格な左右対称の図式性から多少離れた趣があるなど、止利派の諸像と比べて全体に表現がやわらいでおり、別系統の作例とも思われる。

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2.半跏思惟像

次に人気の高い半跏思惟像をみてみよう。N156の菩薩半跏像(銅製鍍金 像高38.8 重文)はその銘文から推古14年(606)または天智5年(666)の作とされる。飛鳥時代または奈良時代の作品であるが、朝鮮三国時代の仏像との関連が濃いといわれる。

菩薩半跏像では、N157、N160(下記7.【他寺院仏との比較】に掲載)およびN162は、飛鳥時代・7世紀の作、N161は、やや時代が下って、飛鳥時代・7~8世紀の作とされるが、このように多くの作品が残されているのは、当時、この形の半跏思惟像を好む風潮があり、それは弥勒菩薩信仰とも結びつき、また、聖徳太子との関係も論じられるところである。

こうした仏像をみていると、多くの観察者は京都・広隆寺の半跏思惟像を連想するだろう。表情こそ異なれ、ここには朝鮮半島との多くの仏さまとの類似性がある。止利仏師系が、さきにみたとおり、中国北魏から東魏時代(6世紀)の影響を色濃く受けているとすれば、この半跏思惟像のグループは別の流れ、朝鮮三国時代の仏像との近接性があるということである。

秦一族の名前が浮かぶ。言わずもがなだが、広隆寺弥勒菩薩はこの一族の持念仏である。作像が日本かどうかという問題はここでは措くとして、広隆寺には「宝冠弥勒」「宝髻(ほうけい)弥勒」と通称する2体の弥勒菩薩半跏像があり、ともに国宝に指定されている。宝冠弥勒像は日本の古代の仏像としては他に例のないアカマツ材で、作風には朝鮮半島の新羅風が強いものといわれる。一方の宝髻弥勒像は飛鳥時代の木彫像で一般に使われるクスノキ材である。

日本書記によれば、推古天皇11年(603年)、秦河勝が聖徳太子から仏像を賜ったことが記されている。『広隆寺来由記』(明応8年・1499年成立)には推古天皇24年(616年)、坐高二尺の金銅救世観音像が新羅からもたらされ、当寺に納められたという記録がある。また、日本書記には、推古天皇31年(623年、岩崎本では推古天皇30年とする)、新羅と任那の使いが来日し、将来した仏像を葛野秦寺(かどののはたでら)に安置したという記事があり、これらの仏像が上記2体の木造弥勒菩薩半跏像のいずれかに該当するとする説がある。いずれにしても、このグループに近い作例は金銅仏で弥勒菩薩半跏像として残っており、法隆寺宝物館にも収蔵されているのである。

半跏思惟像については、その後、徐々に作例が減っていく。その要因は、いくつか考えられる。もともと朝鮮半島で多くの普及をみていた半跏思惟像だが、日本において、遣隋使、遣唐使というダイレクトに中国と結びつくルートの設定が行われたことも大きな要素だろう。以降、請来された多くの仏典によって一気に仏教思想、仏教哲学、仏教文化の裾野はひろくなる。

また、それとの関連において、より現世利益的な仏さまに関心がよせられたこともあるかもしれない。釈迦如来、薬師如来、阿弥陀如来は、生老病死の人生航路において、よく生き(釈迦如来)、老病にあたってケアし(薬師如来)、そして来迎への導きをしてくださる(阿弥陀如来)。こうした至れり尽くせりの仏さまが、後世、次第に民心をとらえていく。
半跏思惟像は考える仏、弥勒菩薩と比定される場合が多いが、その弥勒「菩薩」が弥勒「如来」になったとしても、功徳は並みいる如来にくらべて、やや地味であったかもしれない。

さらに、作像形態としては、半跏思惟像よりも造像しやすい寸胴型の立像が多くなり、弥勒菩薩は観音に次第におきかわっていく。

さて、現代人はどうか。あらゆる思想、哲学、文化が相対化されるなかにあって、人はいま一度、真摯に、さまざまなことに思いを巡らせなければならない。考える仏さま、半跏思惟像に惹かれるのは、そこに自身の投影(あるいは幻影)を見ているからではないか。


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菩薩座像・飛鳥時代

菩薩半跏像 1躯 銅製鍍金 像高38.8 飛鳥又は奈良時代 推古14年(606)または天智5年(666) 重文 N156
【東博の解説】台座框の刻銘から「丙寅年に高屋大夫が亡き韓夫人のために発願造立した」ことがわかる。「丙寅年」は推古14年(606)と天智5年(666)の両説がある。また「韓夫人」銘やその痩身の体躯,腰から垂れる帯飾りなど,総じて朝鮮三国時代の仏像との関連が濃い

N-156:台座下框に刻銘があり、「丙寅年に高屋大夫が死別した夫人のために発願造立した」ことが知られる。「丙寅年」の年代比定をめぐっては推古14年(606)と天智5年(666)の2説があり定説をみていない。前説では、痩身性の強調された体軀や図式的に処理された衣文などの表現に古様さを認め、装身具も全体に簡素であることから同じ「丙寅年」の銘をもち天智5年に比定される野中寺弥勒菩薩半跏像と同時代のものとは考えられないとする。これに対し、後説は、3面頭飾や胸飾りの形式に白鳳彫刻で通例となる新しい要素がみられるとする。本像における古さと新しさの究明が1つの論点となるように思われるが、その位置づけによっては飛鳥・白鳳彫刻の様式観を大きく変えてしまう可能性もあり、本像は彫刻史の上でも見逃せない作例の1つといえる。痩身の中にも体軀の肉取りには柔軟性が認められ、鋳肌を活かした頭髪や腰から台座後面を覆うように広がる裙の表現にはそれぞれのもつ質感が見事に表わされており、その造形感覚には古代金銅仏の中でもとりわけ優れたものがある。

広隆寺(韓国比較)
(参考)広隆寺と韓国の半跏像比較
◆広隆寺&中宮寺 アンソロジー
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-226.html

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菩薩半跏像  1躯 銅造鋳造鍍金 像高20.4 朝鮮三国時代・6~7世紀 重文 N-158

N-158:上半身は装身具を全くつけない完全な裸形で、胴を細く絞り、両手を極端に細長く表現するなど、異色の作風を示す。その顔立ちもわが国の像とは異なった雰囲気があり、痩身でやや扁平な体軀表現は韓国・国立中央博物館の菩薩半跏像に通ずるものがあるなど、朝鮮からの請来像である可能性が強い。
本体・台座を含むほぼ一鋳で造り、腰部下辺まで内部を中空とし、それより上の本体上半部はムクとする。腰以下の銅厚はほぼ均一で、全体に薄手であるが、本体・台座ともに鬆が多い。右手第1指から付け根にかけては別製で造り、鋲留している。宝冠の裏面から後頭部の上半を除くほぼ全面に鍍金が残り、彩色は、正面の地髪部や垂髪に墨彩、眉、黒目、口ひげ、顎ひげに墨描きが認められる。
(注:本来は、下記の朝鮮三国時代系に分類すべきだが、半跏像という形態からここに掲げる)

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N-159:目が二重瞼の童顔の像で、背筋を表わし、柔軟な肉付けをした体軀や裙の襞などには自然なものがみうけられる。また、裙の縁取りに半截の九曜文をあしらい、榻座には山岳文を表わすなど装飾性が豊かで、特殊タガネや魚々子タガネを駆使した彫技も非常にこまやかである。台座反花の蓮弁の形が子弁を扁平に表わすなど再建期法隆寺の瓦に類似しており、本像は、その顔立ちとともにいわゆる童子形像の系統に近い作風を示している。

N-160:榻座に山岳文を刻むなど、N-159と同一の形式を示している。特殊タガネや魚々子タガネによる施文も同様にみられるが、N-159のように周倒なものではなく、裙の襞や山岳文には写しくずれにも似た造形上の簡略化、形式化が目立っている。なお、榻座部と反花の間に蓮肉部(側面に蕊を表わす)を設ける形式は兵庫・個人蔵の菩薩半跏像と共通するが、N-159にはみられないものである。

N-161:踏み下げる左脚が右脚に対して非常に短小で、結跏する右脚が左脚の下から出たり、裙の上端をかなり大きく四方に折り返すなど、その作風は極めて異色である。しかし、本像には7世紀後半の作例に通有の自由で大らかな造形が認められることも確かであり、一応わが国の白鳳彫刻の範疇に含まれる作例とみてもよいかと思われる。

N-162:眉が大きくつり上がり、切れ長の目をした特異な顔立ちをみせる像である。右脚の脛を強く反らせ膝の立ち上がりを大きく表わしたり、台座の両側面から背面にかけて、その上面から垂下する裙の間から1つおきに抑蓮をのぞかせる点などには独特の感覚がうかがわれる。また、踏蓮花座の蓮弁に棘状の毛彫りが施されることも留意すべき点である。

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3.朝鮮三国時代系

長身にして頭部は小さく頭身比率が高い、すっくと立ち姿のよい仏さま。そうした仏さまのサンプルも法隆寺宝物館に残されている。

N151の如来立像(銅製鍍金 像高33.4 朝鮮三国時代 6-7世紀 重文)はその一つである。その立ち姿からは、法隆寺の百済観音がにわかに連想される。


一方、N143の如来および両脇侍像やN158の菩薩半跏像も、同じく三国(朝鮮)時代・6~7世紀の作とされている。このグループは一様には語れず、形態でみても作風でもみても、いろいろなヴァリエーションがあるようにみえる。
 
三国(朝鮮)時代と一口に言ってもその系譜は実に複雑である。<1>朝鮮半島南部、<2>北部から中国東北部についても違いがある。

<1>は、歴史的には加耶(任那)、新羅、百済にわかれる。562年に任那が滅びて新羅になり、さらに660年に百済も新羅に統一されるが、このように、時代時代によって百済系と新羅系によってももちろん作風は異なる。

<2>の高句麗もかつては楽浪郡、扶余にわかれており、313年に楽浪郡が滅び、494年に扶余も高句麗に統合され、この高句麗時代が668年までつづく。
よって、飛鳥時代には、新羅、百済、高句麗の三国が鼎立していたことになる。

加えて、中国も隋(581-618年)以前には国が多くに分立されていた。たとえば北魏(386-535年)は、その後、東魏→北斉、西魏→北周にかわって隋に統一されていくが、ここでも作風は多彩、多様である。

三国(朝鮮)時代の3体の作風が異なるのは、以上からみても驚くにはあたらないだろう。3体(N151、N143およびN158)の仏さまが、誰のために、どこでどのようにつくられかによって、その作風はとうぜんに異なる。3体が舶載仏であり、その年代が6-7世紀と見なされるということがここでの共通項ということであろう。


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如来及両脇侍立像 3躯 銅造鋳造鍍金 像高(中尊)28.1 (左脇侍)20.9 (右脇侍)20.6
朝鮮三国時代・6~7世紀 重文 N-143

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如来立像・飛鳥時代

如来立像 1躯 銅製鍍金 像高33.4 朝鮮三国時代 6-7世紀 重文 N151
【東博の解説】裳裾を左右にピンと張り,口もとにほんのり笑みをうかべる八頭身の像で,側面観もスマートな「く」の字形をしめす。このような長身像の系譜は中国南北朝6世紀の造像に発するが,本像の様式はその南朝の影響下に展開した朝鮮三国時代の百済のそれを想わせる。

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(参考)法隆寺百済観音像

法隆寺金堂多聞天像
(参考)法隆寺金堂多聞天像

飛鳥白鳳彫刻を考えるにあたって、上記では一応、東博の分類(『法隆寺宝物館』東京国立博物館 1999年 pp.24-25)にしたがって、「朝鮮三国時代系」という言い方をとったが、前後の時代の朝鮮系もあれば、中国系もインド系もある。しかし、そもそも朝鮮の仏像は中国の影響をうけ、中国の仏像はさらにさかのぼってインドの影響もうけている。このように考えると、厳密に国別の影響という見方自体に無理があるように思う。そして、それ自体が仏像のもつ多彩で多様な魅力の源泉であろうが、下記はこれも東博のコメントにそってあくまでも便宜的に整理してみた。

【朝鮮の影響】

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N-152:左胸から右肩にかけて襷状に廻る裂をのぞかせ、右肩に肘まで覆う衣端を表わし、大衣の背面に2条の吊り紐をつけるなど、他にはあまり例のない服制を示している。右腕を垂下し掌に宝珠を載せる形もわが国では珍しいが、古新羅末の如来像(一般に薬師といわれている)にいくつかの類例が認められる

N-189:裙の裾をたくし上げ、足首をのぞかせる特色ある着衣法を示す像である。同種の着衣形式が、開元7年(719)の銘をもつ統一新羅初期の石造弥勒菩薩立像(甘山寺址出土)にもみられ、ともに唐代におけるインド風尊重の傾向を反映して造立されたものと思われる

【中国の影響】

N-146:右肩を露わにする偏祖右肩衣の像で、胸部や腹部には豊かな肉づけがみられる。一見素朴な作風を示すが、全体に大らかな気分をもち、その着衣形式や平行線を基調とする衣文表現、膝の張りに対して胴が長めに表わされる体形など、中国の隋から初唐にかけての影響が認められる

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N-178:胴を絞り腰をわずかにひねってのびやかに立つ像で、裙の柔らかな質感や天衣の流麗な動きなどにも瑞々しい造形感覚を示している。このような表現は、両耳に耳飾りをつけている点も含めて、隋から初唐にかけての様式的な影響が濃いといえる。また、台座反花の蓮弁の形が、N-181と同様に、薬師寺金堂薬師三尊の脇侍像のものと一脈通じる点も留意される。

N-173:右手を上げて水瓶を捧げ持ち、左手で天衣をつまみ腰をひねって立つ軽快な動きをみせる像で、笑みを浮かべる表情にも初々しい気分がある。片手を上げて持物を捧げる形式の菩薩像は、中国では隋以降の像に認められるものである。

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N-169:重々しく垂れる瓔珞やその表情には、中国の隋から初唐にかけての仏像の影響も一応認められる。

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N-185:向って右の像の宝冠には化仏を、左の像には水瓶を表わしており、それぞれ観音、勢至であることが知られ、本来阿弥陀三尊の両脇侍として造立されたと推定できる。腰をひねって立つ姿勢や像全体にみなぎる溌刺とした気分には初唐様式の強い影響がうかがえ、蓮花座の蓮茎前面に獅子や花形をあしらう意匠にも斬新なものがみられる。

【インド的仏像】

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N-186:ターバンのように束ねた髪、正面にだけつける髪留め風の頭飾、裾をたくし上げる裙などに、インド的な風俗を思わせる像である。その顔立ちや姿勢、天衣や裙のつけ方、先端に稜をたてる台座蓮弁の形などは、法隆寺に伝来した押出仏中、阿弥陀三尊及び比丘形像(例えばN-198)の脇侍菩薩像と共通するものが認められる。

N-187:N-186と同様の作風をみせる像であるが、本像のほうがやや大ぶりで、左掌に未敷蓮花(あるいは宝珠か)をのせ、右足では裙裾をさらに膝まで上げる点など、瓔珞や台脚部の形式等も含めて若干の違いは認められる。ともあれ、この2像の顔立ちや裙の形式等には独特の異国的な気分があり、それは、中国の初唐期に流行してインド・グプダ様式の反映とみることもできるだろう

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4.摩耶夫人及び天人像

ユニークな群像彫刻として、当館で皆がその前でたちどまるのが、N191の摩耶夫人及び天人像(全4躯 銅製鍍金 摩耶夫人 像高16.5 天人像 像高11.5-13.0 飛鳥時代 7世紀 重文)である。その物語はおもしろく、風をはらんだ天人の衣は動態表現としてもすぐれている。 

摩耶夫人

摩耶夫人及び天人像 4躯 銅製鍍金 摩耶夫人 像高16.5 天人像 像高11.5-13.0 飛鳥時代 7世紀 重文 N191
【東博の解説】ルンビニー苑にて摩耶夫人が無憂樹の花枝をた折ろうとするや釈迦が腋下から誕生したとの仏伝中の一場面を造形化したもので,この種の立体的な群像としては希有の作例。面貌や骨太い体躯には飛鳥の古様がうかがえ,衣文の表現も独特のうねりと鋭さが認められる。なお本一具は,承暦2年(1078)に橘寺から法隆寺に移された小金銅仏群のひとつである可能性が高い。

N-191:釈迦の母摩耶夫人は故郷へ帰る途中に侍者とともに立ち寄ったルンビニー園で、花咲く無憂樹の枝を手折ろうとした。まさにその時、夫人の右腋下から釈迦が誕生する。この劇的な場面を立体彫刻であらわした、めずらしい群像である。法隆寺の『金堂仏像等目録』に「釈迦誕生像一具之中」としてあげられる「摩耶夫人一躰」「所従綵女等三躰」にあたるものとみられる。摩耶夫人は蠟型(ろうがた)の1鋳で、像底から腰辺までを空洞にする。天人1・2は蠟型一鋳の無垢(むく)で、銅板製の天衣(てんね)を鋲で留めている。以上の3軀は飛鳥時代の製作とみられ、面長の顔つきや抽象的な衣文などに、止利派の金銅仏と一脈通ずるものがある。天人3は頭部と両臂先を体部と別鋳にして、蟻柄(ありほぞ)状に接合するもので、表面に鍍金が認められない。天人1にならった鎌倉時代ごろの補作である。

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5.木造仏

N193の如来立像(木造乾漆 像高52.6 飛鳥時代 7世紀 重文)には従来から注目している。献納宝物の金銅仏のなかにあって唯一の木造であり、材質はクスノキで、白鳳期の作といわれる木製の後背やそれを支える鉄製の支柱も当初からのものと目されている。同館のなかの資料室で調べても、あまりこの像のプロフィールの詳細な情報はない。横から見るとその像は百済観音によく似ていると思うところがある。

百済観音もN193同様、クスノキ製だが、この時代の多くは同様でありこれはあまり参考にはならない。体躯のバランスは大違いで長身痩躯の百済観音に対してN193は小像ながら中肉中背でやや下半身に重心がかかった感じである。服装、衣紋も異なる。しかし目元および横顔のラインは実に良く似ている。また体躯の線のカーヴも横から見ると結構似ているように観察できる。後背は、百済観音とN193では、支柱の材質こそ異なれ、これも同種の形式であり、横のラインの近似の印象の一因になっていよう。
百済観音に特徴的な指先は、N193は後捕でありこれは比較のしようがないが、作造時期はほぼ同じ時代であり、同じ仏所、工房の作であろうか。

なお、木彫の古い仏さまとして、コレクション外だが、C217の菩薩立像(木造・金箔押し・彩色 像高93.7 飛鳥時代)も大変興味深い作品である。


N193
如来立像 飛鳥時代・7世紀 木造漆箔 N193
【東博の解説】法隆寺献納宝物のなかでただ1つの木彫像。頭から台座まで通じて1本のクスノキから造られている。この像は7世紀後半の作で、木製の光背やそれを取り付けるための鉄製の支柱も当初のものです。

東博 菩薩立像(飛鳥時代)
(参考)菩薩立像 1躯 木造・金箔押し・彩色 像高93.7 飛鳥時代 C217
【東博の解説】飛鳥時代前期の木彫の稀少な作例の一つです。頭体幹部をクスノキの一材から彫り出しています。『日本書紀』には用明2年(587)に坂田寺の木の丈六仏を造った記事があり,仏像製作の初期から木彫が行なわれたことが知られます。

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6.山田殿像系、童子系、法隆寺系

時代が下ると、さらに様式のヴァリエーションは増えてくる。以下では便宜的に3つをかかげたが、ここで注目したいのは、「様式」というものの捉えかたについてである。東博の金銅仏ほか48体仏は、はやくから多くの専門家による膨大な研究が行われてきた。

その理由はよくわかる。研究対象としては、素材や大きさの似た、時代的にも6~8世紀(中心は7世紀)に集中した格好な「標本」が50以上も、いながらにしてあるのだから、研究者であれば、誰しも食指が動こう。<注1>

専門家による本仏像研究は、長きにわたって、海外比較、鋳造技術、個別の仏像の微細な特色にいたるまで積み上げられてきており、拙稿でもその成果を十分に使わせていただいている。さて、そこから導かれるメッセージとはなにか。

それは、様式の分類学と「純化」論への根源的な疑問である。あえていえば、様式は「純化」ではなく「混在」化されてきたといえるのではないか。もちろん、個々の特色の抽出は可能だが、そこには「進歩」も「退潮」もなく、大勢を観察すれば、「あるがままに混然としてある」ということではないかということである。
すべてが優劣の関係ではなく、並列的にあるといった見方ともいえる。これは技巧における優劣の判定を意味しない。また、美的な意味で美醜の基準を提供するものでもない。感性の領域かも知れないが、後世のほうが優れているともいえず、また一定のグループが他に優位だともいえないとも考える。<注2>

これ以降の時代の仏像についてもいえるが、仏師は施主(発願者)の意向にそって造仏する。自身の工房の特色の反映や意図せざる造像の「クセ」などはあるかもしれないが、もともと「様式の純化」などという発想はない一方、良きものは真似をして取り込み、そうでないものは削ぎ落していくという選択は当然あるだろう。飛鳥白鳳の金銅仏の面白さは、その多様性にあり、かつたかだか1世紀のあいだに純然たる様式の変化などあろうはずもないと考えるのが常識的ではないだろうか。現存する仏像の特色をグループ別に抽出することはできるが、様式の「純化」論は、後世の機械的な分類学の一人歩きであってはならないだろう。<注3>

実は、東京国立博物館の所蔵の小金銅仏を分析する「プロ」の客観的、かつ誠実な文章にそれは色濃く反映されているようにも思う。しかし、プロはある意味、不自由な義務も負っており、研究結果として、「あるがままに混然としてある」などといったら、仕事をしていないと怒られるのではとの強迫観念もあるかも知れない。
このことが、個人的にはとても興味深いし、そこを出発点として次の仮説(というよりも妄想)をいま書いてみたいと思っているのだが、それは稿をあらためてとしたい。


<注>
(1) たとえば、『東京国立博物館法隆寺宝物特別調査概報Ⅰ~Ⅹ』(白本)などを参照。30名以上の専門家による各作品の分析(品質、形状、技法、保存状況、法量)にくわえて、東京国立文化財研究所 平井良光「金銅仏の蛍光X線分析法による材質調査」などが掲載されている。1979年から7年間にわたっての継続調査であり、厖大かつ詳細な情報(報告書Xは1990年)の公刊である。特に、形状分析は微細にわたっており、そのエッセンス部分が東博HPでの記載になっていることがわかる。

(2) たとえば、東京国立博物館特別展「金銅仏―中国・朝鮮・日本―」図録(1987年)を参照。この国際比較展の作品の集積は素晴らしいが、丹念に作品図録をみていくと、そこからうける印象は「めくるめく」ような多様性であり、全体からなにかを抽出することの難しさ(裏をかえせば、豊富なボキャブラリーの面白さ)を感じる。拙稿を書くにあたっては、ハンディな東京国立博物館『法隆寺宝物館』1999年を参考としているが、両者をくらべると、金銅仏研究において、48体仏は全体の沃野の一部であることを改めて実感する。

(3) 浜田青陵『百済観音』(東洋文庫149 平凡社 1969年)を参照。戦前の仏像研究は、視野が大きく、国際比較(同時代の西欧における日本の仏像研究も多く紹介)の視点も広く瞠目させられる。たとえば、「中宮寺如意輪観音像の様式」では、その後、飛鳥白鳳仏研究でいまもよく使われる正面観賞性や側面観賞性という言葉の意味が実によくわかる。その一方、この言葉が戦後の仏像研究の「様式論」のなかで、あまりに安易に使われてきたのではないかとの疑問も持つ。

(参考)正面性 Frontality 「人体表現において、対象が観る者に対し正面を向いているという特徴を表わす概念。デンマークの学者、ユリウス・ランゲが1899年の著書『造形芸術における人間の形態』において、それ以前からも使用されてきたこの語に明瞭な定義を与えた。ランゲは紀元前500年以前のエジプト美術やギリシャ美術の彫像について、それらが頭の頂上から鼻、背柱、胸骨、臍、陰部を貫く正中線を持つこと、この正中線を軸に身体が左右相称的に展開すること、またこのときの身体の両側面がいかなる捻転も屈折も受けずに不変のまま留まることを考察し、これを「正面性の法則(Gesetzes der Frontalität)」と名付けた。正面性による姿態は運動の自然な表出を許さず、厳格な幾何学的規則に制限される。ランゲはこうした単純な規則への服従は、原始人類の生活における倫理や慣習と相応するものと説明した。ただし、ランゲの説は人間の横臥像や動物像といった逸脱例を除外しており、この法則についてはさまざまな反論や解釈が提示されている。例えば古典考古学者のE・レーヴィは、古代美術の彫像が記憶像の概念的再現に基づくとし、こうした原初的な創造活動が短縮法や背面・側面観の獲得につれ次第に発展していく過程を進化論的見地から論じた。また、古代ローマのレリーフやビザンティン美術、イコン画などに見られるように、正面性が権威や威厳の表現と結びつく場合もある。なお、ランゲの論文の抄訳は吉川逸治による翻訳で『ロマネスク美術を索めて』(1979)に収録されている。(著者: 中島水緒)
http://artscape.jp/artword/index.php/%E6%AD%A3%E9%9D%A2%E6%80%A7

【山田殿像系】

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N-144:左右脇侍の宝冠にそれぞれ観音を示す化仏と勢至を示す水瓶が表わされ、阿弥陀三尊像であることが確かなわが国最古の遺例である。中尊の倚坐形式や両脇時の三面頭飾、瓔珞の懸け方などに中国の北斉から隋にかけての仏像の様式を示すが、像全体のもつ大らかで瑞々しい気分は白鳳彫刻の本領ともいえよう。台座背面に刻まれた「山田殿像」の銘については、その「山田」という文字から、大化の改新で活躍した蘇我倉山田石川麻呂や彼が創建した山田寺との関連も想起されるが、その詳細については不明である。

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N-167:瓔珞の形や天衣のつけ方が「山田殿像」銘のN-144の両脇侍像と通ずるものがあり、魚々子タガネや特殊で随所に施文する点も同様である。

N-177:全体に大ぶりの像で、張りのある頬やその顔立ちにN-144「山田殿像」銘阿弥陀三尊像の中尊に近い感覚がみられ、体部正面に垂下する瓔珞の構成も同三尊像の脇侍のものに通じる。

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N-148:丸く張った頬やその表情に、法隆寺夢違観音像などと通じるものがあり、また、豊かな肉づけをもつ体部や衣の自然な表現に初唐様式の影響がうかがえる。宣字座の台脚部に残る枘や枘穴の位置から、本来、N-144の「山田殿像」銘阿弥陀三尊像と似た三尊形式の像であったことがわかる。

深大寺・釈迦如来倚像
(参考)深大寺・釈迦如来倚像


【童子形像系】

N153
N-153:体軀にたいして頭部や手足を大きく表わす愛らしい顔立ちの如来像である。台座の懸布には柔らかな質感が表わされ、また、頭髪部には魚々子文、衣の縁や衣文の稜には複連点文をそれぞれ各種のタガネで施すなど、その刻技もこまやかである。このような童子形像は7世紀後半に様々なヴァリエーションを示しながら展開し、この時期の彫刻に重要な位置を占めている。

海神神社の国指定重要文化財「銅造如来立像」
(参考)銅造如来立像 海神神社 重文

N-168:童子形像の一例で、全体に大ぶりの装飾が施されている。48体仏中には童子形像の代表例が他に4例あり、これらは法隆寺金堂天蓋の飛天、同寺の「六観音」と呼ばれる諸像、奈良・金竜寺の木造聖観音像等と同一系統といえる。特に、これら諸像のうち菩薩像の台座に表わされる蓮弁の形(複弁で子弁が扁平である)が再建期法隆寺の瓦の蓮花文と類似しており、童子形像と同期の法隆寺との深い関係が想定される。

N-175:童顔、童身の菩薩像である。その顔立ちは、N-179に代表される諸像とは作風を異にするが、7世紀後半に展開した童子形像の1つヴァリエーションとしてとらえられる像である。

観音菩薩立像・奈良時代

観音菩薩立像 1躯 銅製鍍金 像高29.3 飛鳥時代 7世紀 重文 N176 
【東博の解説】三面頭飾の正面に化仏をあらわし,右手に小珠をもつ観音像。体にくらべて手足が大きく,二重瞼の表情もあどけない童子形を示す。また台座の子弁が平らな複弁の形や,特殊タガネによる魚々子文と複連点文の多用は,法隆寺再建期の造像に特徴的な傾向といえる。

N-176:魚々子タガネや特殊タガネを駆使した入念で多彩な施文など、童子形像の中ではかなり繊細な表現をみせる像であり、胴をやや細く絞り下肢を長めに表わす体軀にも微妙な抑揚がみられる。また、蓮肉上面には蓮子が表わされており、N-179などに比べても、よりこまやかな感覚を示している。

(参考)近江路の神と仏3  三井記念美術館 報恩寺観世音菩薩立像
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-340.html

N-179:あどけない目鼻立ち、頭部や手足に対して短小な体軀など、本像は童子形像の代表例といえるものである。童子形像の源流は、朝鮮の新羅、さらには中国の斉周から隋の彫刻に求められるといわれるが、本像のように眉と目が大きく離れた特色ある顔立ちは中国や朝鮮の作例にも見出し難く、日本独自の作風的な展開があったこともうかがえる。

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N-188:N-179とほぼ同大で同一の形式を示す像である。ただし、正面の頭飾を花形とし、背面に明確な背筋を表わさないなど、若干の相違点は認められる。本像とN-153、N-179が本来三尊一具であったとみる説もあるが、それぞれ作風に微妙な違いがあり、また、中尊となるべきN-153の台座がN-179とくらべてやや簡素ともみなされることなど、なお検討すべき問題は多いと思われる。

金龍寺・菩薩立像
(参考)金龍寺・菩薩立像

香薬師如来像
(参考)香薬師如来像

【法隆寺系】
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N-163:本像と類似する作風の像としては、N-164、N-172、法隆寺観音菩薩立像(伝金堂阿弥陀如来脇侍)などがあり、いずれも像内に太い鉄心を残す技法も共通する。また、法隆寺伝来の押出仏中にも顔立ちのよく似た菩薩像が見出され(例えばN-198、N-206など)、これらは、法隆寺またはその周辺で活躍した一連の仏師たちによって制作されたものと考えられる。

N-164:腹帯の有無や衣文構成に多少異なる点はあるが、N-163とほぼ同大同形の像で、鋳造技法も全く共通し、型持の数やその位置までほぼ一致している。ただし、本像の場合、中空部内の中型土は頸部辺まで除去され、鉄心も残存するが、N-163のものよりも短く、頭部から腹部辺までである。また、榻座部の左側面下方を鋳懸けている。以上のように若干の相違点はあるものの、これだけ酷似した2像がそれぞれ独尊として造立されたか、はじめから1具として造立されたかについては極めて興味深い問題を提起していると思われる。

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N-172:幅の広い顔立ち、周囲に蕨手をあしらった頭飾やX状に懸かる瓔珞の形式、左手の第1指と3指で宝珠をつまみ、右手で水瓶を握って立つ姿勢など、法隆寺観音菩薩立像(伝金堂阿弥陀如来右脇侍)と強い共通性を示している。また、N-163、N-164とは顔立ちが類似するが、いずれも体内に太い鉄心を残している点、技法的にも共通する。

観音菩薩立像・奈良時代.j

観音菩薩立像 1躯 銅製鍍金 像高30.9 飛鳥時代 7世紀 重文 N182
【東博の解説】右手を心にそえてすっきりと立つ像で,頭飾には観無量寿経に説く観音の標幟である阿弥陀仏の化仏立像をあらわす。脚前をわたる天衣上に瓔珞を沿わせて片膝に一花をあしらう形や,素弁と複弁を組み合わせた台座などは,7世紀末ごろの像によくみられる特色である。

N-182:右手で胸飾りの垂飾を押え、左手で天衣をとって直立する端正な像である。装身具の連珠の一部や裙、天衣、台座蓮弁の各縁に特殊タガネで表わした複連点文にはこまやかなものがあり、また衣の縁取り線や連珠の刻出も丁寧で、全体に気品ある作風を示している。

観音菩薩立像・奈良時代.3

観音菩薩立像 1躯 銅製鍍金 像高31.4 飛鳥時代 7世紀 重文 N183
【東博の解説】三面頭飾をつけ,体部正面にX状の瓔珞を懸ける。この瓔珞および胸飾りには可愛らしい鈴もみえる。両肩を覆う天衣の端をピンと左右に張ったり,上半身に僧祇支をまとう形式は古様だが,やや幅の広い顔立ちには,いわゆる白鳳期のおおどかな情趣がうかがえる。

N-183:両肩に懸かる天衣が側面に強く張り出すなど古様な要素も認められるが、宝冠の意匠をはじめ、大小様々な玉に鈴を混える胸飾りや瓔珞には装飾性の著しいものがある。全体に重厚な体形を示すが、僧祇支や裙、天衣の縁取りに施された刻線、胸飾りと瓔珞の連珠の刻出などには極めて繊細な感覚がみられる。

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7.その他

以下では、他の寺院との比較のコメントがあるものなどをかかげる。なお、金銅仏そのものが、わが国で作られなくなる事情については、拙ブログ 仏像彫刻試論4 「造像の技法と素材」などもあわせてご覧いただければと思う。
また、法隆寺は聖徳太子ゆかりの寺である。その観点から「聖徳太子と仏像」では、法隆寺、広隆寺および中宮寺、四天王寺についてふれている。

◆仏像彫刻試論4 「造像の技法と素材」
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-206.html
◆「聖徳太子と仏像」
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-503.html

【他寺院仏との比較】

N-147:やや面長で口もとに笑みを浮かべる顔立ちには古様さを残すが、手指にはしなやかな動きがあり、衣文線も流麗な曲線を描くなど、その表現には自然なものがみられる。大衣は右肩に少し懸かって右肘下から左前膞に至り、内衣は右前膊で大袖状を呈するものであるが、その着衣形式は奈良・法輪寺の木造薬師如来坐像と同じであり、さらに古様な顔立ちながら瞼を二重にうねらす表現など、作風的にも共通する。僧祇支に施された半截九曜文(蜀江綿を表わすか)は一般に童子形の像をはじめとする7世紀後半の作例にみられるもので、本像の制作年代にもほぼその頃と考えられる。

N154
N-154:太く短い鼻、厚い唇など独得の顔立ちをした像で、その作風も全体に素朴な趣がある。平安時代の9世紀以降の製作とする見解もあるが、偏祖右肩につけた大衣の衣文構成や大らかな笑みを浮かべるふくよかな表情には、親王院如来立像など白鳳彫刻一般にみられる表現と通ずるものがあり、年代もそれほど下げる必要はないと思われる。

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N-157:台座全体の構成(抑蓮、上框、腰部、下框、反花、地付き枠からなる)が基本的に野中寺弥勒菩薩半跏像の台座と一致するが、像全体の造形は、野中寺像に比べると、頭体のバランスが整い、顔立ちもより穏やかなものとなっている。

野中寺弥勒菩薩2
(参考)野中寺弥勒菩薩半跏像 銅造鍍金 像高18.5 白鳳時代 天智天皇5年(666)
【奈良博解説】
台座に「弥勒(みろく)」の尊名と「丙寅(へいいん)」の暦年を刻む。6世紀から7世紀に東アジアで数多く造像された半跏思惟像(はんかしいぞう)の中で、唯一弥勒と銘記された、極めて重要な作品。裙(くん)に連珠円文(れんじゅえんもん)を表し、冠繒(かんぞう)(宝冠から下がった紐状の飾り)・腰佩(ようはい)(腰脇につけた装身具)を別製とするなど先駆的な要素が強い。

N-180:全体の姿勢や顔立ち、台座の形式などに大阪・金剛寺の観音菩薩像と共通するものが認められ、同系統の作家による作例と思われる。ただし本像の場合、胸飾りや瓔珞、腕釧、両足など十分に仕上げられないままに鍍金が施されている。何らかの事情で完成を急いだためかとも考えられるが、他方、タガネで細部を仕上げる以前の状態を確認できる点でも貴重である。
http://www.narahaku.go.jp/exhibition/2015toku/hakuhou/hakuhou_index.html

N-181:体軀に対して頭部が大きく、装身具も比較的簡素であり、一見すると古様さの残る像であるが、胸飾り中央の垂飾にみられる房形の飾りは薬師寺東院堂の聖観音像のものに通じる趣があり、さらに台座反花の立ち上がりの強い形が薬師寺金堂の薬師三尊の脇侍像のものと類似する点は注目される。また台座の仰蓮を魚鱗葺とすることも新しい意匠といえよう。

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【拾遺集】

N-170:面長のやや古風な顔立ちをした像で、宝冠も完全な三面頭飾にはなっておらず、7世紀前半の作例に多くみられる三山冠の趣が残っている。しかし、目を二重瞼とする点や流れるように垂下する天衣の柔らかな表情には7世紀後半の作例に通ずる感覚もあり、過渡的な時期の作例とも考えられる。

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N-171:左足をやや前に腰をひねって立ち、体軀に微妙な抑揚をつけている。像全体に捻塑的な感覚がみられ、また、目などは塑土に箆描きしたような形を示し、左右の位置がずれるなどやや無造作なところもある。像表面の仕上げが不十分のためか、全体として造形的に粗雑な印象は否めない。

N-174:蕨手状の文様で装飾される大ぶりの三面頭飾、連珠をあしらう胸飾りや瓔珞、二重に表わす瞼など、本像は7世紀後半に入って一般的となる特色を示している。しかし、端厳な顔立ちや体軀に対して大きめの両手、膝上でX状に交叉する天衣など、古様な要素も多分に残している。

N-184:満面に笑みをたたえ、腰を右にひねって立つ。蓮肉上で一度たるみをつけて裙裾の下を通り垂下する天衣、乳頭を表わす胸など、顔の表情を含めて、像全体に自然な表現が意図されている。特に、抑蓮を銅板切り抜きで別につくり、上下2枚を重ねて蓮肉下の角枘に挿し込んでいる点などは、そうした造形意識をよく示している。

N-190:腰をひねった体軀にはしなやかさがあり、腰裳や天衣の天衣線には軽快なリズムがある。正面頭飾後方の地髪部に丸枘穴が残り、本来別製の飾り(化仏か)をつけていたと思われる。各装身具の連珠の一部に魚々子タガネを使用し、裙と天衣の縁や衣文の稜等には特殊タガネで複連点文を表わすなど、その刻技は多彩でこまやかである。

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(参考)Nナンバー別のインデックス

☆は画像掲載分

☆N143、3.朝鮮三国時代系
☆N144、6.【山田殿像系】
☆N145、1.止利仏師系☆
 N146、3.【中国の影響】
  N147、7.【他寺院仏との比較】
☆N148、6.【山田殿像系】
☆N149、1.止利仏師系
☆N150、1.止利仏師系
☆N151、3.朝鮮三国時代
☆N152、3.【朝鮮の影響】
☆N153、6.【童子形像系】
☆N154、7.【他寺院仏との比較】
☆N155、1.止利仏師系
☆N156、2.半跏思惟像
☆N157、2.半跏思惟像(7.【他寺院仏との比較】に掲載)
☆N158、3.朝鮮三国時代系
☆N159、2.半跏思惟像
 N160、2.半跏思惟像
 N161、2.半跏思惟像
  N162、2.半跏思惟像
☆N163、6.【法隆寺系】
  N164、6.【法隆寺系】
☆N165、1.止利仏師系
☆N166、1.止利仏師系
☆N167、6.【山田殿像系】
 N168、6.【童子形像系】
☆N169、3.【中国の影響】
 N170、7.その他【拾遺集】
☆N171、7.その他【拾遺集】
☆N172、6.【法隆寺系】
 N173、3.【中国の影響】
  N174、7.その他【拾遺集】
 N175、6.【童子形像系】
☆N176、6.【童子形像系】
 N177、6.【山田殿像系】
☆N178、3.【中国の影響】
 N179、6.【童子形像系】
 N180、7.【他寺院仏との比較】
 N181、7.【他寺院仏との比較】
☆N182、6.(画像、関連掲載)
☆N183、6.(画像、関連掲載)
 N184、7.その他【拾遺集】
☆N185、3.【中国の影響】
☆N186、3.【インド的仏像】
 N187、3.【インド的仏像】
☆N188、6.【童子形像系】
 N189、3.【朝鮮の影響】
 N190、7.その他【拾遺集】
☆N191、4.摩耶夫人及び天人像 
☆N193、5.木造仏  【“法隆寺宝物館と飛鳥白鳳彫刻”の続きを読む】

源頼朝と運慶 2

運慶展 (8)
願成就院 毘沙門天像 

2.北条時政 1138年 (保延4年)~1215 (建保3年)

激動の時代を生きた武将であり、常に権力の中心にあることを目指し、鞍替え、謀略など目まぐるしく変転する政治状況のなかにあった。武断的な逸話が多いなかで、歴史的トレースのなかで運慶が登場するのも面白い。以下は諸情報の引用を組み合わせて書いた。

鎌倉幕府の初代執権 (在職 1203~05年) 。通称は四郎。法名は明盛。伊豆国の在庁官人北条時方と伊豆掾伴為房の娘との間に生まれ,「当国の豪傑」と称された。伊豆国北条 (現在の静岡県田方郡) の出身。娘政子は源頼朝の妻。
1180 (治承4) 年8月頼朝挙兵の最初から頼朝に従って功をあげた。挙兵後、頼朝は鎌倉を目指すが、ここは時政の祖先平直方が源頼義に譲った地である。石橋山の戦に敗れて長子の宗時を失うが、次子義時とともに海路安房国に逃れてやがて甲斐源氏を誘い、富士川の戦で頼朝軍と合体する。その後は政子に孫の頼家が生まれたことから,頼朝の外威として重きをなした。

85 (文治1) 年11月には頼朝追討の宣旨が源義経に出されたのに応じて,頼朝の代官として大軍を率いて上洛する。朝廷は義経追討宣旨を出すことでそれに対応したが、時政はさらに諸国、荘園に守護、地頭を置く権限や兵糧米を徴収することを認めさせ、また頼朝の目指す朝廷政治の改革の方針を伝えてこれを実行させた。こうして朝廷からは後白河法皇の近臣が除かれ,幕府の推す九条兼実が関白となって朝廷政治は刷新された。 だがその後の京都での時政の動きは頼朝の望むところではなく、一条能保が頼朝代官として上洛したのを受けて任を解かれ、京都の警備を甥の時定に託して鎌倉に戻る。

その後の動きははっきりしないが、伊豆、駿河の守護として活動し文治5年には奥州の藤原氏追討を願う願成就院を伊豆の北条に建立し、奥州合戦に従う。やがて頼朝の後継者をめぐる動きとともに時政の行動は目立ちはじめ、1192 (建久3)年に源実朝が生まれると、その誕生の儀式を行った。1199 (正治1)年1月に頼朝が亡くなると,政子とともに頼家を補佐して幕府政治を主導した。

1200 (正治2) 年4月従五位下。1203 (建仁3)年政所別当、執権。頼家の親裁権を削減するとともに御家人の意見を幕府政治に反映する体制を築き、自らは頼家の後見として遠江守に任じられた。しかし頼家の側近の勢力を排除するなかで、頼家の外戚となった比企能員と対立が生じ、これを自邸に誘って謀殺し、実朝を将軍に据えて政所別当となって幕府の実権を握った。しかし子の義時や政子と路線が合わず、後妻牧の方の娘婿となっていた源氏の平賀朝雅を将軍に擁立することを計って失敗、伊豆に引退させられその地で亡くなる。

https://kotobank.jp/word/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%99%82%E6%94%BF-132162

(以下は一部重複するがWikipediaからの引用)

文治元年(1185年)11月、頼朝の命を受けた時政は千騎の兵を率いて入京し、朝廷に対して「守護・地頭の設置」を認めさせた(文治の勅許)。
時政の任務は京都の治安維持、平氏残党の捜索、義経問題の処理、朝廷との政治折衝など多岐に渡り、その職務は京都守護と呼ばれるようになる。在京中の時政は郡盗を検非違使庁に渡さず処刑するなど強権的な面も見られたが、その施策は「事において賢直、貴賎の美談するところなり」(『吾妻鏡』文治2年2月25日条)、「公平を思い私を忘るるが故なり」(『吾妻鏡』文治2年3月24日条)と概ね好評だった。しかし3月1日になると、時政は「七ヶ国地頭」を辞任して惣追捕使の地位のみを保持するつもりでいることを後白河院に院奏し、その月の終わりに甥の時定以下35名を洛中警衛に残して離京した。後任の京都守護には一条能保が就任した。時政の在任期間は4ヶ月間と短いものだったが、義経失脚後の混乱を収拾して幕府の畿内軍事体制を再構築し、後任に引き継ぐ役割を果たした。
鎌倉に帰還した時政は京都での活躍が嘘のように、表立った活動を見せなくなる。文治5年(1189年)6月6日、奥州征伐の戦勝祈願のため北条の地に願成就院を建立しているが、寺に残る運慶作の諸仏はその3年前の文治2年(1186年)から造り始められており、本拠地である伊豆の掌握に力を入れていたと思われる

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%99%82%E6%94%BF

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願成就院 毘沙門天像は実によきお姿である。それ以前の毘沙門天像(多聞天像)と共通する部分もあるが、力感と生き生きとした顔の表情は抜群である。さて、このお顔に安易に北条時政を重ねることはできないだろうが、施主たる北条時政がおそらくこの像を気にいったことは想像にかたくないだろう。運慶にとって、願成就院は鎌倉幕府の中枢と堅固な関係をもつうえで重要なステップとなった。

源頼朝と運慶 1

運慶展 (3)
神奈川・浄楽寺 不動明王(重要文化財)、文治5年[1189年]

1.文覚再考

この人は波乱万丈の人生を歩んだ。以下は諸情報を組み合わせて書いた。関連する物語(フィクション)も多いことから、どこまでが実像かがわからないところもあるが、源頼朝と運慶を結ぶキーパースンであることだけは確かである。

一般には生没年不詳だが、1139年(保延5年)~1203年(建仁3年)という説もある。これによれば65歳で没したことになる。
 
平安時代末期~鎌倉時代初頭の真言宗僧侶。摂津の渡辺党の遠藤茂遠(もちとお)の子で遠藤盛遠(もりとお)と称し、もと北面の武士。初め鳥羽天皇の皇女上西門院(じょうさいもんいん)に仕えたが、同僚の源渡(わたる)の妻袈裟(けさ)に恋慕し、誤って彼女を殺したのが動機で出家し、諸国の霊場を遍歴、修行したという。文覚は空海を崇敬し、1168年(仁安3年)その旧跡である神護寺に住み、修復に努めた。73年(承安3年)後白河法皇の御所法住寺殿を訪ね、神護寺興隆のために荘園の寄進を強請して伊豆に流され、そこで配流中の源頼朝に会い一時寝食を共にした。
78年(治承2年)許されて帰京したが、流されてのちも文覚は信仰の篤い法皇への敬愛の情を失わず、翌年、平清盛が法皇を幽閉したのを憤り、伊豆の頼朝に平氏打倒を勧め、80年には平氏追討を命ずる法皇の院宣を仲介して、頼朝に挙兵を促した。83年(寿永2年)法皇から紀伊国田荘(かせだのしょう)を寄進されたのをはじめとして、法皇や頼朝から寺領の寄進を受けた。

鎌倉幕府成立後は頼朝の信任厚く,京都と鎌倉を往復して京都,諸国の情勢を頼朝に伝えるなどの活躍をする一方,その協力を得て神護寺はじめ東寺の復興など、幕府、法皇の援助で空海ゆかりの諸寺を復興した。90年(建久1年)には神護寺の堂宇はほぼ完成し、法皇の御幸を仰いだ。文覚はさらに空海の古跡である東寺の復興をも図り、89年(文治5年)播磨国が造営料国にあてられ、文覚は復興事業を主催し、97年には諸堂の修造を終えた。

一時大いに権勢をふるったが、92年に法皇が没し、99年(正治1年)に頼朝が没すると、文覚は後援者を失い、内大臣源通親の策謀で佐渡に流された。1202年(建仁2年)許されて帰京したが、後鳥羽上皇の怒りを買い、翌年、さらに対馬に流され、やがて失意のうちに没したという。

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(メモ)文覚と運慶

◆文覚が、1173年(承安3年)から78年(治承2年)までの伊豆配流中、1177年 康慶は静岡県瑞林寺地蔵菩薩像を作っている。 文覚は関東で康慶に会っていた可能性がある。

◆文覚は83年(寿永2年)に法皇から紀伊国田荘(かせだのしょう)を寄進され経済的に安定する。この年、運慶願経作成。運慶も本格的に活動を開始する。

◆文覚は90年(建久1年)には神護寺の堂宇をほぼ完成し、法皇の御幸を仰いだ。さらに空海の古跡である東寺の復興をも図り、89年(文治5年)播磨国が造営料国にあてられ、文覚は復興事業を主催し、97年には諸堂の修造を終えた。
この間、運慶は1196 年に神護寺中門二天、夜叉像を作り(神護寺略記より)、翌年は金剛峰寺八大童子を作り(高野春秋)、さらに東寺講堂諸像を修理した(東宝記)。文覚の意向を受けての運慶の活動であった。

文覚は98年、明恵に運慶作釈迦如来像を与えた(明恵上人伝記)。

◆文覚は1202年(建仁2年)は配流先の佐渡から許されて帰京したが、運慶は翌年、神護寺講堂諸像を作っている(神護寺略記)。

空海と運慶  運慶は空海を彫ったか?

運慶展
大日如来坐像 運慶作 国宝 

空海は日本仏教界のスーパースターである。空海以降の仏教者は、すべて何らかの影響を空海から受けていると言っても過言ではないだろう。仏師運慶も例外ではない。ここまではいかにも平凡なる指摘であろう。

しかし、運慶のデビュー作と目されている円成寺大日如来坐像のその素晴らしいご尊顔は、運慶のイメージする空海を彫ったものである、と言えばその点については、異論、反論以前に「いい加減なことを言うな」との大方のお叱りをうけそうではある。

以下、推理小説仕立てで5つの「状況証拠」をあげよう。真夏の夜の夢と思っていただきたい。

1.発注者は誰であったか

円成寺大日如来坐像は、安元2年(1176年)に完成した。施主(発注者)は誰か。寛遍上人かその後継者(定遍か)である。彼は、真言宗の名僧であり、広隆寺別当、東寺長者、高野山管長、東大寺別当を歴任し応保元年(1161年)大僧正に至った。仁平3年(1153年)忍辱山に登り、真言宗の一派忍辱山流を自ら興した。円成寺の要請をうけて、康慶および運慶は真言宗の最高神、大日如来を彫るが、真言宗の一派の新たな立ち上げにあたって、そのご尊顔には「開祖」空海をイメージしたと考える。

2.運慶と真言宗との深い関係

円成寺大日如来坐像は、東寺金剛菩薩坐像(839年)と似ている。同様に、運慶最後の現存作、称名寺光明院大威徳明王像(1216年)は東寺大威徳明王騎牛像(839年)と実によく似ている。ここからは、運慶はじめ慶派が、東寺、高野山など先行する真言密教系尊像を研究しわがものとしていることがわかる。
後に、運慶は建久8(1197)年5月から翌年9月にかけて、数十人の小仏師を率いて東寺講堂の五仏・五菩薩・五大尊・梵天・帝釈天・四天王像の大修理を行うが、その東寺については言わずとしれた空海の創建である。

◆【特別展】運慶 中世密教と鎌倉幕府 神奈川県立金沢文庫80年
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-212.html


3.大日如来は慶派カタログの主力

施主(クライアント)の意向の尊重は仏師にとって最重要事項の一つ。施主には事前に仏画や儀軌を見てもらい周到な打ち合わせが肝要。大日如来は慶派カタログの主力であった。たとえば快慶の石山寺多宝塔本尊大日如来像(1194年)は快慶初期の作で、円成寺大日如来像との比較は誰しもが関心のあるところであろう。制作年代では約20年の隔たりがあるが、両者の同質性(とくに全体構成、手印、腰部衣文などの胴体表現)と異質性(とくにご尊顔の表現、もちろん宝冠、光背の有無などは前提としたうえで)は明らかであろう。ちなみに石山寺も真言宗の名刹である。

◆近江路の神と仏1  三井記念美術館 快慶 石山寺多宝塔本尊大日如来坐像
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-338.html


4.弘法大師座像は慶派工房の大ヒット作

運慶の時代には弘法大師座像はそのカタログになかった。ゆえに、運慶は大日如来のご尊顔に空海をイメージしたが、快慶は別。一方、次世代の弟子は、弘法大師そのものを彫って大成功した。運慶の四男、康勝は、日本の肖像彫刻として屈指の作である空也上人像(六波羅蜜寺蔵)で有名だが、後世の弘法大師像の規範となった東寺御影堂の弘法大師像を天福元年(1233年)に世に送る。これが大師堂信仰とともに庶民にうけて、傾いた東寺を立て直す最強アイテムとなったと言われる。そのご尊顔は厳ついもので、円成寺大日如来像とは似ても似つかない。ゆえに、円成寺像にイメージとしての空海が投影されているなどという発想はおそらくは誰も持たなかったと思う。しかし、慶派の持ち味は豊富なヴァリエーションにある。同時代、快慶の弟子長快作の六波羅密寺弘法大師坐像は優しいお顔立ちで、円成寺像に通じるものがある。

5.納入品にみる空海の影響

運慶は自身の名を作品の中に残した仏師である。浄楽寺諸像(1189年)や興福寺北円堂弥勒如来像(1212年)には、有名な月輪の納入があり、これをもって運慶の真作と特定されるところだが、その月輪の思想的背景は、空海の「無量壽次第」に根拠が求められるとの説がある(伊藤史郎「高野山不動堂の八大童子像と運慶」参照)。これは、空海の思想や仕儀を運慶が熟知していた一つの証左ではないかと思う。

いまだ父康慶の弟子と墨書した若き運慶の円成寺大日如来像には、気品をたたえた表情とともに秘められた意志力が内から漲り、観る者に強い印象をあたえる。その解析不能な神々しさに、筆者は青年期の空海のイメージを重ねてみた。着想したはじめは、空海と運慶は朧な二重写しであったが、以上の5つの「状況証拠」を考えてきて、徐々に二人の若者の画像がくっきりとしていくような気がした。

その前提は、冒頭に記した寛遍(1100年(康和2年)~ 1166年(永万2年))およびその後継がいかに康慶および運慶に影響を与えたかにあろう。また、同時にあるいはやや時代は下って、文覚(1139年(保延5年)~1203年(建仁))の影響も気になるところである。若き運慶は、父から一任され、そのご尊顔の造型に乾坤一擲の気持ちで臨んだのではないか。そして意識的に若き空海の悟りの姿をここに彫ったのではないかと愚考した次第である。


【以下は引用】
 大日如来坐像 運慶作 国宝 像高98.8 平安時代末期
台座内墨書から鎌倉新様式を切り開いた、運慶の最初期の作と知れる記念碑的仏像。若々しい面相と体躯には、新時代の気風と青年運慶の想念が伝わってくるようです。 大日如来は密教における根本仏。サンスクリット語のヴァイローチャナという名は「遍く光を照らす者」の意味をもち、如来でありながら、宝冠、瓔珞、臂釧、腕釧を身に着け、一種の王者の姿をとっています。 運慶の生年は不明ですが、造像は20歳代と推定されています。

< 銘文>
運慶承安永元年(1175)十一月廿四日始之
給料物上品八丈絹肆拾参(四十三)疋也
已上御身料也
奉渡安元弐年丙申十月十九日
大仏師康慶
実弟子運慶(花押)
http://www.enjyouji.jp/treasure/p1.html

********
◆「空海と運慶 1~3」を参照

➡ 空海と運慶 1
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-515.html

➡ 空海と運慶 2
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-516.html

➡ 空海と運慶 3
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-517.html

空海と運慶 3

六波羅密寺 「弘法大師坐像」
木造弘法大師坐像 鎌倉時代 長快

7.六波羅密寺

六波羅密寺というのは、名前のとおり、狷介なる寺である。はじめて、そこを訪問したのは、はるかに昔のことだが、空也上人像を拝顔して、そのお姿のスーパーリアリズムと内から発せられた念仏表現のスーパーシンポリズムの表現ぶりに感激した。そのあとの混乱にみちた驚愕は、ここに、弘法大師がおあし、平清盛も、運慶も、湛慶も「同居」している不可思議さについてである。

川崎龍性「六波羅密寺の歴史と信仰」(『杉本苑子・川崎龍性 『六波羅密寺』 古寺巡礼京都25 1978年 淡交社)を読むと、この寺の数奇な来し方は複雑で、歴史に翻弄されつつも、したたかであり、宗派も天台宗から真言宗にかわるなどの変転がある。

さはあれど、いまここにおあす多くの、優れた仏像は、有名な地蔵菩薩像をふくめ慶派の影響が大きい。

【以下は引用(一部編集)】

六波羅密寺

京都市東山区にある真言宗智山派の寺。空也の創設といわれる。天台宗に属していたが,のち真言宗となった。空也上人立像をはじめ重要な美術品が収められている。 山号は、普陀落山。西国三十三所第17番札所。

寺域は京都の葬送地鳥辺野の入口で〈六道(ろくどう)の辻〉と呼ばれた地点にあり,古来葬送と死者追善の寺として庶民の信仰を集めてきた。963年(応和3)悪疫が流行した際、空也が建立した。当初は西光寺と称し,十一面観音像と脇士の二王・四王像を造立安置したという。977年(貞元2)中信が堂舎を修造し,寺号を六波羅蜜寺と改めて天台別院とし,法華八講や念仏を修して貴賤の信仰を集め,迎講(むかえこう)や地蔵講を行い,以後京都の諸人が講を行う寺として親しまれた。 平安後期の1110年(天永1)平正盛は六波羅蜜寺内に阿弥陀堂を建立したが,このころから六波羅の地名が多く行われるようになった。貞治年間(1362~1368)に再興され、真言宗に改宗。

この地は、源平時代には平家の一族の邸宅が建ち並び、鎌倉時代には六波羅探題が置かれていた。このため幾度か兵火にあい、応仁の乱(1467~77)にも焼失したが、豊臣氏、徳川氏の帰依(きえ)によって復興した。現に本堂は室町初期の建造物で、本尊十一面観音立像(秘仏。12年ごとの辰年に開扉)、脇侍の地蔵菩薩像、四天王像(以上、平安後期)、空也上人像(鎌倉時代)など(以上、国重要文化財)を安置している。このうち地蔵菩薩は「山送りの地蔵」「鬘掛(かずらかけ)の地蔵」として知られ、空也上人の立像は念仏を象徴した小さな阿弥陀仏像六体が口から出る形式のものとして有名である。そのほか、運慶・湛慶の自作と称する肖像彫刻や、平清盛の像と伝えられる僧形坐像、弘法大師坐像、吉祥天立像、閻魔王坐像(以上、国重要文化財)などがある。12月13~31日には空也踊躍(ゆうやく)念仏が行われる。

https://kotobank.jp/word/%E5%85%AD%E6%B3%A2%E7%BE%85%E8%9C%9C%E5%AF%BA-152681

◆仏像解説

<国宝>
・木造十一面観音立像平安時代。10世紀頃の作風を示し、伝承のとおり、951年に空也が創建した西光寺の本尊像であると思われる。本堂中央の厨子に安置され、12年に一度辰年にのみ開帳される秘仏である。像高258cmの巨像でありながら、頭・体の根幹部を一材から彫り出す一木造とする。表情は温和であり、平安前期彫刻から平安後期の和様彫刻に至る過渡期を代表する作例である。歴史的にも重要な作例として1999年、国宝に指定された。

<重要文化財>
・本堂木造空也上人立像鎌倉時代、運慶の四男・康勝の作。僧侶の肖像彫刻は坐像に表すものが多いが、本像はわらじ履きで歩く空也の姿を表している。疫病が蔓延していた京の街中を、空也が鉦(かね)を鳴らし、念仏を唱えながら悪疫退散を祈りつつ歩くさまを迫真の描写力で表現している。空也は首から鉦を下げ、右手には鉦を叩くための撞木(しゅもく)、左手には鹿の角のついた杖をもっている。空也の口からは6体の阿弥陀仏の小像が吐き出されている。6体の阿弥陀仏は「南無阿弥陀仏」の6字を象徴し、念仏を唱えるさまを視覚的に表現している。六体の小像は針金でつながっている。

・木造僧形坐像(伝・平清盛像)鎌倉時代。平清盛とされる経を持った僧形の像である。木造地蔵菩薩坐像鎌倉時代。銘文はないが、寺伝、作風等から運慶作とされる像。運慶一族の菩提寺である地蔵十輪院から移されたとする伝承がある。理知的でさわやかな表情、切れ味するどい衣文などから運慶作とする説がある。

・木造伝・運慶坐像、伝・湛慶坐像鎌倉時代。日本仏像彫刻史上もっとも有名な仏師親子の肖像彫刻とされている。精悍な伝・湛慶像と、老いてまだまだ盛んな巨匠といった風貌の伝・運慶像とそれぞれの個性が表現されている。前記の地蔵菩薩坐像とともに地蔵十輪院に伝わった。

・木造四天王立像平安時代。本尊の十一面観音像とともに、空也による創建期の遺作である。宝物収蔵庫には4体のうちの持国天像と増長天像が安置され、残りの広目天像と多聞天像は京都国立博物館に寄託されている。4体のうち、増長天像のみは鎌倉時代の補作である。木造薬師如来坐像平安時代。天台様式がみられ、中信による中興時の像と考えられる。

・木造地蔵菩薩立像平安時代。六波羅地蔵堂に安置されていた。左手に頭髪を持ち、鬘掛(かつらかけ)地蔵と呼ばれ信仰されている。『今昔物語集』にもこの像に関する説話が取り上げられるなど、古来著名な像である。

・木造弘法大師坐像鎌倉時代。快慶の弟子長快 (仏師)の作

・木造閻魔王坐像鎌倉時代木造吉祥天立像鎌倉時代
その他、重要有形民俗文化財として、泥塔、皇服茶碗、版木、萬燈会関係用具二千百余点などがある。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E6%B3%A2%E7%BE%85%E8%9C%9C%E5%AF%BA

龍樹について
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-453.html

研究論文 - 神戸大学人文学研究科 三宅久雄氏の論文
http://www.lit.kobe-u.ac.jp/art-history/ronshu/10-1.pdf

8.長快

弘法大師坐像の製作者は快慶の後継者たる長快である。先にみたとおり、弘法大師坐像のベンチマークは、運慶の第4子、康勝の手になる東寺像だが、快慶一門でもこうした優れた作例を残しているのである。両像の作風は異なり、剛毅な康勝、柔和な長快といった要約をすると、いかにも運慶と快慶のステロタイプ化した相違を安易に連想しがちだが、小生は、むしろ施主の要望の反映の要素が強いという考え方をとる。

【以下は引用】

長快(ちょうかい、生没年未詳)は、 鎌倉時代の慶派仏師。

<略歴>

阿弥号は定阿弥陀仏。快慶の弟子だが、湛慶も補佐し法橋位を得たという。1256年(建長8年)、湛慶に従い奈良東大寺講堂で文殊菩薩像を制作したが現存しない。(この時、兄弟子の栄快が地蔵菩薩像を制作した。)蓮華王院本堂の千体千手観音のうち28体に1256年(建長8年)に長快が実験した旨を示す銘があり、もう1体には長快自身が結縁した銘がある。また、蓮華王院から移されたとみられる朝光寺の像にも「実検了/長快」の銘がある。

<現存作品>

・「弘法大師像」 六波羅蜜寺蔵 制作時期不明
・「木造十一面観音立像」 パラミタミュージアム蔵 1256年(建長8年)以前の作。右足柄の外側に「巧匠定阿弥陀佛長快」銘。師・快慶作の長谷寺の本尊・十一面観音像(現存せず)を8分の1のサイズで忠実に模刻したもので、長谷観音の余材で作られた。もとは、興福寺禅定院観音堂本像であった可能性が高い。

空海と運慶 2

弘法大師像天福元年・1233康勝作)

6.康勝

康勝は運慶の息子で、運慶工房の優れた担い手であった。その康勝の代表作といわれるのが、東寺の弘法大師座像である。この坐像はその後の大師像のベンチマークとなる。しかも、この像の存在によって、東寺は空海所縁の寺として、弘法大師信仰の京都における拠点として復活するのである。このことは東寺の歴史を紐解くとたしかに刻まれている。

そう考えると、運慶一門の修復によって、東寺講堂の諸像が蘇り、それに続いて康勝によって東寺そのものの存在が高まったということになる。空海と運慶 ー 空海が請来し、また世に送った平安初期の仏像によって運慶は多くを学び、その後、自身の作風を作りあげた。一方、親子二代、運慶一門の「彫技」によって、空海の重要な拠点が再興されたことの意義は大きい。

【以下は引用】
康勝(こうしょう、生没年不詳)は、日本の鎌倉時代の仏師。運慶の四男。湛慶は兄。慶派。

<略伝>

建久8 - 9年(1197 - 1198年)、東寺南大門の金剛力士(仁王)像(明治時代初頭に焼失し現存せず)の造立に運慶らとともに携わったのが、史料上の初見である。運慶が一門の仏師を率いて建暦2年(1212年)に完成させた興福寺北円堂復興造仏にあたっては、四天王のうちの多聞天像を担当しているが、この四天王像は現在、所在不明である(現在、興福寺北円堂に安置する四天王像は全く時代の違う平安時代初期のもの)。

現存する康勝の作品としては、日本の肖像彫刻として屈指の著名作である空也上人像(六波羅蜜寺蔵)、後世の弘法大師像の規範となった東寺御影堂の弘法大師(空海)像(『東宝記』に「仏師康勝法眼作」の記述あり)などがある

東大寺念仏堂の地蔵菩薩坐像(康清作)の銘記から、この像は運慶と康勝の尊霊のために造られ、嘉禎3年(1237年)より以前に康勝が没していることが知られる。子に、康誉、康清。

<作品>

六波羅蜜寺 空也上人像六波羅蜜寺 空也上人立像(重要文化財) - 制作年不明だが、銘から法橋に叙される前の初期作。口から6体の阿弥陀仏の小像を吐き出している特異な姿の像。6体の阿弥陀仏は「南無阿弥陀仏」の6字が仏と化したことを意味する。
・法隆寺金堂西の間 阿弥陀三尊像(銅造、重要文化財) - 貞永元年(1232年)。「法橋康勝」銘あり。当初安置されていた阿弥陀三尊像が盗難にあった後、飛鳥様式を模して造られた像。両脇侍のうち勢至菩薩像は明治時代初期に寺から流出して、パリのギメ東洋美術館の所蔵となっている。
東寺御影堂 弘法大師坐像(国宝) - 天福元年(1233年)
・推定作円成寺四天王像(重要文化財) - 建保5年(1217年)

<参考資料>
伊藤史朗 『日本の美術535 京都の鎌倉時代彫刻』 ぎょうせい、2011年 ISBN 978-4-324-08744-2
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%B7%E5%8B%9D

東寺の歴史
http://kousin242.sakura.ne.jp/wordpress016/%E7%BE%8E%E8%A1%93/%E7%BE%8E%E8%A1%93%E5%8F%B2/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%BE%8E%E8%A1%93/%E5%A5%88%E8%89%AF%E6%99%82%E4%BB%A3/%E6%9D%B1%E5%AF%BA%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2/

伊藤史朗氏の論文として、以下も参照
http://www.kyohaku.go.jp/jp/pdf/gaiyou/gakusou/6/006_ronbun_c.pdf

空也上人像(康勝)

空海と運慶 1

運慶 円城寺

1.円成寺

円成寺の有名な大日如来坐像。運慶初期の秀作である。その円成寺とは? 以下は同寺のHPからの引用

「創建については諸説あります。当山に伝わる『和州忍辱山円成寺縁起』(江戸時代)によると、天平勝宝8年(756)聖武上皇・孝謙天皇の勅願で、鑑真和上の弟子、唐僧虚滝和尚の開山であるとされていますが、同書のなかで中興の祖とされている命禅上人が、万寿3年(1026)、この地に十一面観音像を安置したのが始まりのようです。
天永3年(1112)には、「小田原聖」と呼ばれた経源(迎接上人・京都南山城の随願寺もしくは浄瑠璃寺の僧)が、阿弥陀堂を建て、阿弥陀如来像を安置し、仁平3年(1153)、広隆寺別当、東寺長者、高野山管長、東大寺別当を歴任した京都御室仁和寺の寛遍上人が忍辱山に登り、真言宗の一派忍辱山流を始めるに及び当山の基礎が築かれました。」
http://www.enjyouji.jp/about/index.html

真言宗の開祖は空海。運慶の実質デビュー作は真言宗の最高神、大日如来坐像であり、それを定めたのは空海である。

2.寛遍上人

円成寺の大日如来坐像は安元2年(1176年)に完成したとされる。運慶の生年は不詳だが、二十歳頃からの作像との説がある。仮に1150年頃の生まれとすれば、勧進元の上記、寛遍上人から父康慶には直接の依頼があったかも知れない。また、寛遍およびその後継からの影響をうけて造像が行われた可能性は高いだろう。以下は、寛遍上人についての引用。

「寛遍(かんぺん、康和2年(1100年) - 永万2年6月30日(1166年7月28日))は、平安時代後期の真言宗の僧。父は大納言源師忠。尊勝院大僧正・忍辱山大僧正とも称される。
山城国円教寺の寛蓮に師事して出家し、寛助に灌頂を受けた。その後大和国忍辱山円成寺を再興し、一字金輪法を日課とした。広隆寺別当・東寺長者・東寺法務・東大寺別当・仁和寺別当・円教寺別当を歴任し、1161年(応保元年)大僧正に至った。この間には、高野山大塔落慶供養の導師をつとめ、また、尊寿院を建立し、鳥羽天皇の皇后美福門院(藤原得子)が寄進した「御手印縁起」を尊寿院におさめた。事相にすぐれ、その後忍辱山流の祖とされる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%9B%E9%81%8D

寛遍は真言宗の高僧であり、空海の教えを継ぐ者であったことがわかる。かつ、広隆寺、東寺、東大寺、仁和寺、円教寺、高野山と深き関係があったとされる。その後の運慶の足跡とかさなる有力寺院がここに含まれている。

3.東寺(教王護国寺)

運慶と東寺との関係。運慶は建久8(1197)年5月から翌年9月にかけて、文覚上人の勧進により、数十人の小仏師を率いて東寺講堂の五仏・五菩薩・五大尊・梵天・帝釈天・四天王像の大修理を行った。いかに東寺との関係が深かったかを知ることができる。その東寺については言わずとしれた空海の創建である。以下は引用。

「東寺は平安京鎮護のための官寺として建立が始められた後、嵯峨天皇より空海(弘法大師)に下賜され、真言密教の根本道場として栄えた。中世以降の東寺は弘法大師に対する信仰の高まりとともに「お大師様の寺」として庶民の信仰を集めるようになり、21世紀の今日も京都の代表的な名所として存続している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%AF%BA

4.文覚上人

文覚は源頼朝と寝食を共にした、鎌倉幕府成立に深くかかわった武士にして真言宗僧侶。ここでは、源頼朝―文覚―運慶を線で結んでおこう。文覚の関係寺院として、以下も参照。

「頼朝が平氏や奥州藤原氏を討滅し、権力を掌握していく過程で、頼朝や後白河法皇の庇護を受けて神護寺、東寺、高野山大塔、東大寺、江の島弁財天など、各地の寺院を勧請し、所領を回復したり建物を修復した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E8%A6%9A

5.高野山(金剛峰寺)

高野山には運慶の有名作が保管されている。以下を参照。
http://www.reihokan.or.jp/syuzohin/cyokoku.html

なにわの仏教美術、順次公開 独自の神仏習合映す

大阪 渡来人マップ

面白い記事なのでピックアップ。上記は http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-449.html から。
ご参考まで。

【以下は引用】

 大阪市教委が今年度を通して、市内に点在する古寺の仏教美術を特別公開する催しを始める。数々の存亡の危機を乗り越えた多彩な仏画や仏像を順次公開する。

運慶と快慶、奈良・東京で展覧会

 大阪市内には千を超す寺院があるという。だが、江戸時代の「三大大火」や、1945年の大阪大空襲などで何度も被災。明治時代の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の影響もあり、寺宝も大半が失われたとみられていた。

 一方、近年の市教委の調査で、200点を超す仏教美術が各寺に残っていることが判明。それらを7回程度、現地の寺や「辰野ひらのまちギャラリー」(中央区平野町1丁目)で期間限定でみせる。

 1回目(30日~7月5日)は、このギャラリーで各寺社の仏画を紹介。市指定文化財を中心に、室町から江戸時代までの十数点を公開する。「刺繡(ししゅう)青面(しょうめん)金剛画像」(四天王寺蔵)は、長寿や息災を願う道教由来の「庚申(こうしん)信仰」の本尊。杭全(くまた)神社蔵の「牛頭(ごず)天王画像」は元々、インドの祇園精舎の守護神だ。

 2回目(7月9~11日)は「天下茶屋の聖天さん」で知られる正圓(しょうえん)寺(阿倍野区松虫通3丁目)で、江戸時代の珍しい仏像群二十数点を見せる。「木造天川弁才天(てんかわべんざいてん)曼荼羅(まんだら)」の異形さが際立つ。厨子(ずし)の中に水神の化身・ヘビ、童子や宝珠などがひしめく。赤い体に忿怒(ふんぬ)の顔の彫像は愛染明王にも見えるが、カメに乗って立つ「木造童子形男神(どうじぎょうだんしん)立像(りゅうぞう)」という。

 この2回には共通テーマがある。日本古来の神々への信仰と、伝来した仏教とが融合した「神仏習合」。市教委の鈴木慎一研究副主幹は「四天王寺や住吉大社など、大阪は神仏習合の影響を受けた信仰拠点だった。色々な信仰がまじり、独自性をもった仏像や仏画も伝来している」と言う。

 3回目以降は東大寺(住吉区)、金台(こんたい)寺(天王寺区)、三津寺(中央区)でも寺宝を公開予定。辰野ひらのまちギャラリーでは、大坂(石山)本願寺の前身の御坊を築いた蓮如をテーマにした展示も構想中だ。大阪には宗教都市の歴史もあることを学べる構成になる。

 1、2回目は午後1~4時。市教委学芸員の解説もある。朝日新聞社など共催。資料代として1回100円(学生無料)。市教委文化財保護課(06・6208・9168)。(清水謙司)
http://www.asahi.com/articles/ASK6K4QWHK6KPLZL001.html

かんなみ仏の里美術館 重文の仏像、修復開始

◆さくら 富士山

仏の里美術館開館(静岡県函南町)について
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-313.html

【以下は引用】
重文の仏像、修復開始 本来の姿へ 函南の美術館
(2017/5/21 08:08)

 函南町桑原のかんなみ仏の里美術館が所蔵している国指定重要文化財「阿弥陀如来及両脇侍像」の修復作業がこのほど始まった。仏像の一部は一時、行方が分からなくなっていた左腕をつなぎ直すなどの工程を予定していて「全国的にも珍しく、大がかりな作業」(文化庁)という。
 同文化財は鎌倉時代に慶派の仏師実慶が制作した阿弥陀如来坐像と勢至菩薩立像、観音菩薩立像の3体で、800年にわたって地元住民が地域の宝として大切に守り続けてきた。鈴木勝彦館長は「後世に伝えたいという先人の思いの積み重ねが今の修理につながっている。本来の姿に戻し、200年、300年先まで見られるようにしたい」と話した。
 3体はいずれも漆が剝がれ、カビが生えるなど劣化が激しい。同美術館で行った修復では文化庁文化財調査官の指導の下、技術者がアクリル樹脂を塗って剝落止めを施したり、ほこりを除去したりした。

 左腕が亡失していたのは観音菩薩立像。同館で行っている仏像の修復事業で、1年ほど前、別の像につけられていた腕が観音菩薩立像のものと判明した。奈良国立博物館文化財保存修理所(奈良県)に持ち込んで今後、約10カ月掛けて修復するという。同様に傷みがひどかった阿弥陀如来坐像の台座も同修理所に運び入れる。
 3体の仏像が再びそろって同美術館に展示されるのは来年3月ごろになる見込み。

 <メモ>阿弥陀如来坐像の首の内側に「大仏師実慶」の墨書があり、両脇侍像の顔から首の内側に「仏師実慶」との朱書きがあることから、実慶の作と判明した。同像は鎌倉幕府の正史とされる「吾妻鏡」の記録から、鎌倉幕府初代執権の北条時政が戦死した嫡男宗時の霊を弔うため制作を命じたという説が有力だが、地元では源頼朝が造らせたと伝えられている。

http://www.at-s.com/news/article/culture/shizuoka/361518.html

木×仏像(きとぶつぞう)-飛鳥仏から円空へ 日本の木彫仏1000年 見どころ

唐招提寺 薬師立像
重要文化財 木造 薬師如来立像 奈良時代(8世紀) 奈良・唐招提寺

まず、いくつかの展示会の紹介文から。

【以下は引用】
◆【木×仏像】360度で魅了 木彫仏70体を展示

古代から近世まで木で彫られた日本の仏像の歴史をたどる「木×仏像-飛鳥仏から円空へ 日本の木彫仏1000年」(産経新聞社など主催)が8日から大阪市天王寺区の大阪市立美術館で開催される。7日は開会式・内覧会が行われた。

 古来、人間の寿命をはるかに超えた長い時間、風雪に耐えながら立ち続ける樹木に畏敬の念を抱いてきた日本人は、身近で手に入りやすい木を、仏像という祈りの対象の素材として用いてきた。

 約70体で構成される今回の展示は、時代ごとに変わる木材の種類に着目。さらに、造り方や形状がわかりやすいよう、360度どこからでも見られる配置にした。このため、飛鳥時代の「菩薩立像」は横から見ると意外に薄いこと、割れた顔から十一面観音が現れる「宝誌和尚立像」には背後下部に丸い穴があることなども確認できる。

 「いろいろなお寺に宗派を超えて仏像をお出しいただき、充実した展覧会になった」と斎藤龍一・主任学芸員。6月4日まで。
http://www.sankei.com/west/news/170407/wst1704070076-n1.html

◆大阪で、日本の木彫仏1000年の技法展 

「大阪市立美術館」(大阪市天王寺区)で、ユニークな切り口の仏教美術展「木×仏像」が、6月4日までおこなわれています。

仏像の中でも木彫仏に着目し、飛鳥時代から江戸時代まで約1000年の流れをたどるもの。通常、仏像の展覧会は、時代、様式、仏師をテーマに構成されますが、本展のキモは技法や木の種類などです。たとえば技法では、飛鳥時代から平安時代初期までは「一木造(いちぼくづくり)」といって、頭部と体幹部を1本の木から作りました。しかしこの方法には、木材の外側と内側の乾燥度の違いから「干割れ」を起こしやすい欠点があります。そこで像の内部を削る「内刳り」(「背刳り」とも)がおこなわれるようになり、平安時代初期から後期には、仏像を割り、内刳りを施して再接合する「割矧造(わりはぎづくり)」が生まれました。そして平安時代後期になると、複数の部材を組み合わせる「寄木造(よせぎづくり)」へと発展するのです。

技法の進化に伴って使用される木材も、クス(飛鳥・白鳳時代)からカヤ(奈良時代〜平安時代初期)へと変化し、それ以降は主にヒノキを使用する一方、ケヤキ、クス、サクラ、カツラも用いられています。また、霊木や寺社の古材を用いることで、仏像の霊威を高めることもおこなわれました。

本展では、そうした木彫仏の変遷を、主に地元関西の寺院から拝借した55件で紹介しています。頭でっかちのプロポーションが可愛らしい「菩薩立像」、内刳りの様子が分かる「観音菩薩立像」、裂けた顔の下から本来の姿が現れる瞬間を表現した「宝誌和尚立像」など、個性的な仏像が沢山見られるので、マニアならずとも見逃せません。仏像と観客の目線が合うように高さを調整した展示台、陰影を強調して仏像の立体感を伝える照明、360度あらゆる位置から仏像を鑑賞できる配置(担当学芸員の齋藤龍一氏談)など、展示の妙にも注目を。そして最後の展示室では「立体曼陀羅」を思わせる華やかなフィナーレが待ち受けており、観客を驚きと陶酔の世界に導いてくれます。期間は6月4日まで、一般1300円ほか。
https://www.lmaga.jp/news/2017/04/23382/

大阪市美術館 日本の木彫仏1000年の技法展

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関西の仏像集積の分厚さを感じさせる展示会である。関西在勤中に感じたことだが、関西では平安時代の仏像など古仏に、有名でない寺院でも思いがけずお目にかかれる。今回の展示会でも、四天王寺、大門寺、河合寺など大阪の諸寺から半数以上、多くの出品がある。本展の大きな特色だろう。一方で、東博、奈良博からの出品があるのに、京博や京都有力寺院からはない。とても良い企画展なのに何故かなと思う。

【大阪市立美術館】
3 塑造 菩薩立像 Standing Bosatsu, Skt. Bodhisattava 奈良時代・8世紀 Nara period, 8th century 
4 塑造 供養者上半身像 Upper Part of Body of Attendant 奈良時代・8世紀  8th century 
5 木造 塑像心木 Core Wood of Clay Statue 奈良時代・8世紀  8th century 
28 木造 大日如来坐像 Seated Dainichi Nyorai, Skt. Mahāvairocana 10~11世紀 
32 木造 飛天像 Hiten, Flying Apsaras 12世紀
33 木造 聖観音菩薩立像 Standing Sho-kannnon Bosatsu, Skt. Avalokiteśvara 12世紀 
50 木造 薬師如来立像 Standing Yakushi Nyorai, Skt. Bhaiṣajyaguru 江戸時代・17世紀 
<参考> 木造 釈迦如来坐像 Seated Shaka Nyorai, Skt. Śākyamuni 江戸時代・18世紀

【大阪・四天王寺】
9 ◎ 木造 阿弥陀三尊像 Amida Triad, Skt. Amitābha Triad 9世紀 9th century 
31 ◎木造 千手観音・二天像箱仏 Portable Shrine with Thousand-armed Kannnon, Skt Sahasra-bhuja Avalokiteśvara and Two Guardian Kings 12世紀 
43 木造 十一面観音菩薩立像 Standing Eleven-headed Kannon, Skt. Ekādaśamukha Avalokiteśvara 13世紀
45 木造 伝聖徳太子坐像 Seated Youthful Deity(Called Prince Shotoku) 13~14世紀 
46 木造 大日如来坐像 Seated Dainichi Nyorai, Skt. Mahāvairocana 14世紀 

【東京藝術大学大学美術館】
2 木造 天王立像 Standing Guardian King 飛鳥時代・7世紀 Asuka period, 7th century 
19 木造 不空羂索観音菩薩立像 Standing Fukukenzaku Kannon, Skt. Moghapāśa 10~11世紀 
54 木造 仏像寄木法標本(如来坐像) Sample of Statue of Seated Buddha by Joined Wood Block Construction 伊藤礼太郎
By Reitaro Ito 昭和23年(1948)
55 木造 仏像寄木法標本(菩薩立像) Sample of Statue of Standing Boddhisattava by Joined Wood Block Construction 伊藤礼太郎 By Reitaro Ito 昭和23年(1948)
 
【東京国立博物館】
1 木造 菩薩立像 Standing Bosatsu, Skt. Bodhisattava 飛鳥時代・7世紀 Asuka period, 7th century 
39 ◎ 木造 阿弥陀如来立像 Standing Amida Nyorai, Skt. Amitābha 永仙 By Eisen 正嘉3年(1259) 

【奈良国立博物館】
41 ◎ 木造 釈迦如来立像 Standing Shaka Nyorai, Skt. Śākyamuni 玄海 By Genkai 文永10年(1273) 

【奈良・新薬師寺】
37 木造 阿弥陀如来坐像 Seated Amida Nyorai, Skt. Amitābha 13世紀 
40 木造 四天王立像 Standing Four Guardian Kings 文永6年(1269) 
49 木造 賓頭廬尊者坐像 Seated Binzuru, Skt. Piṇḍola Bhāradvāja 室町時代・永正11年(1514) Muromachi period, 1514(Eisho 11) 

【奈良・薬師寺】
14 ◎ 木造 地蔵菩薩立像 Standing Jizo Bosatsu, Skt. Kṣitigarbha 10世紀 
23 ◎木造 吉祥天立像 Standing Kichijo Ten, Skt. Mahāśrī 11~12世紀 

【奈良・唐招提寺】
6 ◎ 木造 薬師如来立像 Standing Yakushi Nyorai, Skt. Bhaiṣajyaguru 奈良時代・8世紀 8th century 
7 ◎木造 伝獅子吼菩薩立像 Standing Bosatsu,Skt. Bodhisattava (Skt. Amoghapāśa) 8世紀 

【奈良・東大寺】
8 ◉ 木造 弥勒如来坐像《試の大仏》 Seated Miroku Buddha, Skt. Maitreya 8~9世紀 

【大阪・大門寺】
34 ◎ 木造 四天王立像 Standing Four Guardian Kings 12世紀 
35 木造 阿弥陀如来坐像 Seated Amida Nyorai, Skt. Amitābha 12世紀 
48 木造 蔵王権現立像 Standing Zao Gongen Deity 南北朝時代・14世紀 Nambokucho period, 14th century 

【大阪・河合寺】
20 ◎ 木造 持国天立像 Standing Jikoku Ten, Skt. Dhṛtarāṣṭra 11~12世紀
21 ◎ 木造 多聞天立像 Standing Tamon Ten, Skt. Vaiśravaṇa 11~12世紀 

【滋賀・櫟野寺】
24 ◎木造 十一面観音菩薩立像 Standing Eleven-headed Kannon, Skt. Ekādaśamukha Avalokiteśvara 11世紀 
25 ◎木造 観音菩薩立像 Standing Kannon Bosatsu, Skt. Avalokiteśvara 12世紀 
26 ◎木造 観音菩薩立像 Standing Kannon Bosatsu, Skt. Avalokiteśvara 12世紀
27 ◎木造 釈迦如来坐像 Seated Shaka Nyorai, Skt. Śākyamuni 11~12世紀 大阪・東光院

【兵庫・太山寺】
29 木造 不動明王立像 Standing Fudo Myoo, Skt. Acalanātha 12世紀 
47 木造 普賢菩薩騎象像 Fugen Bosatsu, Skt. Samantabhadra seated on an Elepfant 南北朝時代・14世紀

【大阪の諸寺】
11 ◎木造 十一面観音菩薩立像 Standing Eleven-headed Kannon, Skt. Ekādaśamukha Avalokiteśvara 9世紀 大阪・長圓寺
12 木造 伝聖徳太子坐像 Seated Shinto Deity(Called Prince Shotoku) 9~10世紀 大阪・若山神社
13 ◎ 木造 虚空蔵菩薩立像 Standing Kokuzo Bosatsu, Skt. Ākāśagarbha 10世紀 大阪・孝恩寺
15 木造 地蔵菩薩立像 Standing Jizo Bosatsu, Skt. Kṣitigarbha 10世紀 大阪・蓮花寺
16 木造 地蔵菩薩立像 Standing Jizo Bosatsu, Skt. Kṣitigarbha 10世紀 大阪・三津寺
17 木造 地蔵菩薩立像《あごなし地蔵》 Standing Jizo Bosatsu, Skt. Kṣitigarbha (Called Skt. Kṣitigarbha without Chin) 10世紀大阪・和光寺
36 ◎ 木造 阿弥陀如来坐像 Seated Amida Nyorai, Skt. Amitābha 鎌倉時代・13世紀 大阪・専修寺
42 木造 釈迦如来立像 Standing Shaka Nyorai, Skt. Śākyamuni 13世紀 大阪・来迎寺 
44 木造 閻魔王坐像 Seated King Enma, Skt. Yama-rāja 13世紀 13th century 大阪・正明寺
53 木造 大元帥明王像頭部 Head of Taigen Myoo, Skt. Āṭavaka 北川運長 By Uncho Kitagawa 元禄14年(1701)大阪・延命寺

【その他の諸寺など】
10 ◎ 木造 薬師如来坐像 Seated Yakushi Nyorai, Skt. Bhaiṣajyaguru 9世紀 奈良・宮古薬師堂
18 ◎ 木造 宝誌和尚立像 Standing Priest Hoshi 平安時代・11世紀 Heian period, 11th century 京都・西往寺
22 木造 二天立像 Standing Two Guardian Kings 11世紀 京都・成相寺 
30 ◎木造 十一面観音菩薩立像 Standing Eleven-headed Kannon, Skt. Ekādaśamukha Avalokiteśvara 12世紀 滋賀・誓光寺
38 ◎ 木造 地蔵菩薩立像 Standing Jizo Bosatsu, Skt. Kṣitigarbha 快成 By Kaijo 建長8年(1256) 奈良・春覚寺
51 木造 十一面観音菩薩立像 Standing Eleven-headed Kannon, Skt. Ekādaśamukha Avalokiteśvara 円空 By Enku 江戸時代・17世紀 Edo period, 17th century
52 木造 秋葉権現三尊像 Akiba Gongen Triad 円空 By Enku 江戸時代・17世紀 Edo period, 17th century

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大阪市美術館 日本の木彫仏1000年の技法展 2
滋賀・櫟野寺 観音菩薩立像 平安時代(12世紀)
https://www.lmaga.jp/news/2017/04/23382/

◆特別展「平安の秘仏―滋賀・櫟野寺の大観音とみほとけたち」
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-481.html
で拝観した櫟野寺の一部の仏さまが、大阪にも出開帳しておられる。

◆帰化人の問題3ー四天王寺
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-129.html
で書いたとおり、四天王寺には多くの寺宝がある。今回の出展でもその一部を観ることができる。

◆東京藝術大学 2013年度研究報告発表展
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-405.html
東京藝術大学美術館にもよく足をはこぶ。関西の各寺との関係を深めており、素晴らしい企画展も多い。そうした観点からか、今回の展示会でも積極的な協力姿勢がうかがえる。

◆大阪市美術館探訪
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-65.html
最後に大阪市美術館について。この美術館は一見、地味だがその収蔵品は充実している。今回の展示も目のつけどころも良いし、啓蒙普及の視点もある。だからこそ、オール関西で、もっと盛り上がるようなラインナップが組めたらと思う。また一方で、予算の制約などもあるかも知れないが、HPでの情報公開や展示のストーリー性への訴求がやや弱い気もする。

ひょうごの美(み)ほとけ-五国を照らす仏像-

圓龍寺観音立像
兵庫県指定文化財 銅造菩薩立像 (白鳳時代)/朝来市圓龍寺蔵
https://www.hyogo-c.ed.jp/~rekihaku-bo/official/ex-2017-sp1.html

ひょうごの美(み)ほとけ-五国を照らす仏像-

【以下は引用】
兵庫の仏像70体一堂、国重文も 姫路で特別展

兵庫県内の仏像を集めた特別展「ひょうごの美(み)ほとけ-五国を照らす仏像」(神戸新聞社など主催)が22日、姫路市本町の県立歴史博物館で始まった。国の重要文化財など約70体を一堂に披露し、うち半数が展示施設では初公開になる。6月4日まで。

 同館は1984、91年に仏像展を開催。今回は前回の展示以降、新たに確認された仏像も数多く加え、白鳳(はくほう)時代-江戸時代の順に紹介した。

 同市書写の書写山円教寺の「毘沙門天(びしゃもんてん)立像」は展示施設初公開。丹波市山南町の岡本区が管理する「薬師如来坐像(ざぞう)」は本来33年に1度しか開帳されないが、今回特別に公開が実現した。
https://www.kobe-np.co.jp/news/bunka/201704/0010121655.shtml

木×仏像(きとぶつぞう)-飛鳥仏から円空へ  展示リスト

東博 菩薩立像(飛鳥時代)
木造 菩薩立像 飛鳥時代(7世紀) 東京国立博物館

*日本列島に仏教が伝わった飛鳥時代(7世紀)にさかのぼる希少な木彫仏で、クスノキ材の一木造りです。現存作例と文献資料による限り、飛鳥時代の木彫仏はすべてクスノキで造られました
http://www.osaka-art-museum.jp/sp_evt/kitobutsuzo#cnt-3

木×仏像(きとぶつぞう)-飛鳥仏から円空へ 日本の木彫仏1000年 展示リスト

No. 指定 名称 作者 時代・世紀 所蔵

1 木造 菩薩立像 Standing Bosatsu, Skt. Bodhisattava 飛鳥時代・7世紀 Asuka period, 7th century 東京国立博物館
2 木造 天王立像 Standing Guardian King 飛鳥時代・7世紀 Asuka period, 7th century 東京藝術大学大学美術館
3 塑造 菩薩立像 Standing Bosatsu, Skt. Bodhisattava 奈良時代・8世紀 Nara period, 8th century 大阪市立美術館
4 塑造 供養者上半身像 Upper Part of Body of Attendant 奈良時代・8世紀  8th century 大阪市立美術館
5 木造 塑像心木 Core Wood of Clay Statue 奈良時代・8世紀  8th century 大阪市立美術館
6 ◎ 木造 薬師如来立像 Standing Yakushi Nyorai, Skt. Bhaiṣajyaguru 奈良時代・8世紀 8th century 奈良・唐招提寺
7 ◎木造 伝獅子吼菩薩立像 Standing Bosatsu,Skt. Bodhisattava (Skt. Amoghapāśa) 8世紀  奈良・唐招提寺
8 ◉ 木造 弥勒如来坐像《試の大仏》 Seated Miroku Buddha, Skt. Maitreya 8~9世紀 奈良・東大寺

9 ◎ 木造 阿弥陀三尊像 Amida Triad, Skt. Amitābha Triad 9世紀 9th century 大阪・四天王寺
10 ◎ 木造 薬師如来坐像 Seated Yakushi Nyorai, Skt. Bhaiṣajyaguru 9世紀 奈良・宮古薬師堂
11 ◎木造 十一面観音菩薩立像 Standing Eleven-headed Kannon, Skt. Ekādaśamukha Avalokiteśvara 9世紀 大阪・長圓寺
12 木造 伝聖徳太子坐像 Seated Shinto Deity(Called Prince Shotoku) 9~10世紀 大阪・若山神社
13 ◎ 木造 虚空蔵菩薩立像 Standing Kokuzo Bosatsu, Skt. Ākāśagarbha 10世紀 大阪・孝恩寺
14 ◎ 木造 地蔵菩薩立像 Standing Jizo Bosatsu, Skt. Kṣitigarbha 10世紀 奈良・薬師寺
15 木造 地蔵菩薩立像 Standing Jizo Bosatsu, Skt. Kṣitigarbha 10世紀 大阪・蓮花寺
16 木造 地蔵菩薩立像 Standing Jizo Bosatsu, Skt. Kṣitigarbha 10世紀 大阪・三津寺
17 木造 地蔵菩薩立像《あごなし地蔵》 Standing Jizo Bosatsu, Skt. Kṣitigarbha (Called Skt. Kṣitigarbha without Chin) 10世紀大阪・和光寺
18 ◎ 木造 宝誌和尚立像 Standing Priest Hoshi 平安時代・11世紀 Heian period, 11th century 京都・西往寺
19 木造 不空羂索観音菩薩立像 Standing Fukukenzaku Kannon, Skt. Moghapāśa 10~11世紀 東京藝術大学大学美術館
20 ◎ 木造 持国天立像 Standing Jikoku Ten, Skt. Dhṛtarāṣṭra 11~12世紀 大阪・河合寺
21 ◎ 木造 多聞天立像 Standing Tamon Ten, Skt. Vaiśravaṇa 11~12世紀 大阪・河合寺
22 木造 二天立像 Standing Two Guardian Kings 11世紀 京都・成相寺 
23 ◎木造 吉祥天立像 Standing Kichijo Ten, Skt. Mahāśrī 11~12世紀 奈良・薬師寺
24 ◎木造 十一面観音菩薩立像 Standing Eleven-headed Kannon, Skt. Ekādaśamukha Avalokiteśvara 11世紀 滋賀・櫟野寺
25 ◎木造 観音菩薩立像 Standing Kannon Bosatsu, Skt. Avalokiteśvara 12世紀 滋賀・櫟野寺
26 ◎木造 観音菩薩立像 Standing Kannon Bosatsu, Skt. Avalokiteśvara 12世紀 滋賀・櫟野寺
27 ◎木造 釈迦如来坐像 Seated Shaka Nyorai, Skt. Śākyamuni 11~12世紀 大阪・東光院
28 木造 大日如来坐像 Seated Dainichi Nyorai, Skt. Mahāvairocana 10~11世紀 大阪市立美術館
29 木造 不動明王立像 Standing Fudo Myoo, Skt. Acalanātha 12世紀 兵庫・太山寺
30 ◎木造 十一面観音菩薩立像 Standing Eleven-headed Kannon, Skt. Ekādaśamukha Avalokiteśvara 12世紀 滋賀・誓光寺
31 ◎木造 千手観音・二天像箱仏 Portable Shrine with Thousand-armed Kannnon, Skt Sahasra-bhuja Avalokiteśvara and Two Guardian Kings 12世紀 大阪・四天王寺
32 木造 飛天像 Hiten, Flying Apsaras 12世紀 大阪市立美術館
33 木造 聖観音菩薩立像 Standing Sho-kannnon Bosatsu, Skt. Avalokiteśvara 12世紀 大阪市立美術館
34 ◎ 木造 四天王立像 Standing Four Guardian Kings 12世紀 大阪・大門寺
35 木造 阿弥陀如来坐像 Seated Amida Nyorai, Skt. Amitābha 12世紀 大阪・大門寺

36 ◎ 木造 阿弥陀如来坐像 Seated Amida Nyorai, Skt. Amitābha 鎌倉時代・13世紀 大阪・専修寺
37 木造 阿弥陀如来坐像 Seated Amida Nyorai, Skt. Amitābha 13世紀 奈良・新薬師寺
38 ◎ 木造 地蔵菩薩立像 Standing Jizo Bosatsu, Skt. Kṣitigarbha 快成 By Kaijo 建長8年(1256) 奈良・春覚寺
39 ◎ 木造 阿弥陀如来立像 Standing Amida Nyorai, Skt. Amitābha 永仙 By Eisen 正嘉3年(1259) 東京国立博物館
40 木造 四天王立像 Standing Four Guardian Kings 文永6年(1269) 奈良・新薬師寺
41 ◎ 木造 釈迦如来立像 Standing Shaka Nyorai, Skt. Śākyamuni 玄海 By Genkai 文永10年(1273) 奈良国立博物館
42 木造 釈迦如来立像 Standing Shaka Nyorai, Skt. Śākyamuni 13世紀 大阪・来迎寺 
43 木造 十一面観音菩薩立像 Standing Eleven-headed Kannon, Skt. Ekādaśamukha Avalokiteśvara 13世紀 大阪・四天王寺
44 木造 閻魔王坐像 Seated King Enma, Skt. Yama-rāja 13世紀 13th century 大阪・正明寺 
45 木造 伝聖徳太子坐像 Seated Youthful Deity(Called Prince Shotoku) 13~14世紀 大阪・四天王寺
46 木造 大日如来坐像 Seated Dainichi Nyorai, Skt. Mahāvairocana 14世紀 大阪・四天王寺

47 木造 普賢菩薩騎象像 Fugen Bosatsu, Skt. Samantabhadra seated on an Elepfant 南北朝時代・14世紀 兵庫・太山寺
48 木造 蔵王権現立像 Standing Zao Gongen Deity 南北朝時代・14世紀 Nambokucho period, 14th century 大阪・大門寺
49 木造 賓頭廬尊者坐像 Seated Binzuru, Skt. Piṇḍola Bhāradvāja 室町時代・永正11年(1514) Muromachi period, 1514(Eisho 11) 奈良・新薬師寺
50 木造 薬師如来立像 Standing Yakushi Nyorai, Skt. Bhaiṣajyaguru 江戸時代・17世紀 大阪市立美術館
<参考> 木造 釈迦如来坐像 Seated Shaka Nyorai, Skt. Śākyamuni 江戸時代・18世紀 大阪市立美術館
51 木造 十一面観音菩薩立像 Standing Eleven-headed Kannon, Skt. Ekādaśamukha Avalokiteśvara 円空 By Enku 江戸時代・17世紀 Edo period, 17th century
52 木造 秋葉権現三尊像 Akiba Gongen Triad 円空 By Enku 江戸時代・17世紀 Edo period, 17th century
53 木造 大元帥明王像頭部 Head of Taigen Myoo, Skt. Āṭavaka 北川運長 By Uncho Kitagawa 元禄14年(1701)大阪・延命寺
54 木造 仏像寄木法標本(如来坐像) Sample of Statue of Seated Buddha by Joined Wood Block Construction 伊藤礼太郎
By Reitaro Ito 昭和23年(1948)東京藝術大学大学美術館
55 木造 仏像寄木法標本(菩薩立像) Sample of Statue of Standing Boddhisattava by Joined Wood Block Construction 伊藤礼太郎 By Reitaro Ito 昭和23年(1948)東京藝術大学大学美術館

◉ ̶ 国宝(National Treasure) ◎ ̶ 重要文化財(Important Cultural Property)
◇6 ◎ 木造 薬師如来立像( 奈良・唐招提寺): 展示期間 5月9日(火)~ 6月4日(日) ◆7 ◎ 木造 伝獅子吼菩薩立像(奈良・唐招提寺): 展示期間 4月8日(土)~ 5月7日(日)

http://www.osaka-art-museum.jp/wordpress/wp-content/uploads/2017/04/e6a651e8878abb9b2a5ef81d99e0a34f.pdf

西大寺 小考3 叡尊上人

西大寺 叡尊
http://saidaiji.or.jp/history/p2.html

叡尊(えいそん・えいぞん、建仁元年(1201年) - 正応3年8月25日(1290年9月29日))は、鎌倉時代中期の真言律宗の僧。字は思円(しえん)。謚号は興正菩薩(こうしょうぼさつ)。建仁元年(1201)大和国添上郡箕田里(現在の大和郡山市白土町)で興福寺学侶慶玄の子として誕生。

同時代の僧としては日蓮(1222-82年)がいる。 日蓮は叡尊よりも20歳以上年下だが、叡尊は長寿であり、日蓮よりも8年長生きしている。日蓮については以下を参照。

(参考)
日蓮論1 http://blog.livedoor.jp/shokkou/archives/2073050.html
日蓮論2 http://blog.livedoor.jp/shokkou/archives/2073080.html 
日蓮論3 http://blog.livedoor.jp/shokkou/archives/2073156.html
日蓮論4 http://blog.livedoor.jp/shokkou/archives/2073231.html
日蓮論5 http://blog.livedoor.jp/shokkou/archives/2073419.html
日蓮論6 http://blog.livedoor.jp/shokkou/archives/2073518.html

叡尊は、7歳で母と死別し、11歳で醍醐寺叡賢阿闍梨の室に入り17歳で出家。主に密教を学ぶ。つまり、真言宗において、その創始者、空海に回帰しようとした。

➡ 建保5年(1217年)醍醐寺の阿闍梨叡賢に師事して出家。
➡ 元仁元年(1224年)高野山に入り真言密教を学ぶ。

弘法大師遺戒の「仏道は戒なくしてなんぞ到らんや。すべからく顕密二戒を堅固に受持し清浄にして犯すことなかれ」の文言に触発され、密教修行を行う。菩提(悟り)に到達するためには、その前提として釈尊が定めた戒律をしっかりと遵守することが肝要であると確信し、34歳のときに生涯の活動の中心となる戒律復興の志を立てる。ここでは、大日如来に帰依するのではなく、釈迦如来に重点をおく。
翌文暦2年(1235)叡尊は荒廃只中の西大寺に入住し、更に翌年、同志四人で東大寺で「自誓受戒」を果たし菩薩比丘となる。叡尊の「自誓受戒」には原始、小乗的な自己陶冶の厳しさがあったかも知れない。

一時海龍王寺に移住するが、嘉禎4年(1238)再び西大寺に帰住し、荒廃した西大寺の再建に全力を注ぎ、密教と戒律を日月のごとく兼修する「真言律」の根本道場という西大寺を復興する一方、ここを拠点に「興法利生」をスローガンとする活発な宗教活動を推進する。

➡ 嘉禎元年(1235年)戒律の復興を志して西大寺宝塔院持斎僧となり、『四分律行事鈔』を学ぶ。
➡ 嘉禎2年(1236年)覚盛、円晴(えんせい)、有厳(うごん)らと東大寺で自誓受戒。地頭の侵奪により西大寺が荒廃したために海龍王寺に移る。
➡ 暦仁元年(1238年)持戒のあり方をめぐり海龍王寺の衆僧と対立したために西大寺に戻る。西大寺の復興に努め、結界・布薩する。
➡ 仁治元年(1240年)西大寺に入寺した忍性の文殊菩薩信仰に大きな影響を受ける。額安寺西宿で最初の文殊供養(文殊図像を安置)をおこない、近傍の非人に斎戒を授ける。
➡ 仁治2年(1241年)三輪宿で文殊供養をおこなう。
➡ 仁治3年(1242年)和爾宿・北山宿で文殊供養をおこなう。額安寺で授戒と『梵網経古迹記』の講義をおこなう。奈良の獄屋の囚人に斎戒沐浴させる。
➡ 寛元元年(1243年)額安寺西宿・三輪宿で文殊供養をおこなう。
➡ 寛元2年(1244年)河内諸宿で文殊供養をおこない、非人に施粥をおこなう。
➡ 寛元3年(1245年)家原寺で別受戒(受戒後9年を経た僧侶が受ける戒法)をうける。法華寺で授戒と『梵網経古迹記』の講義をおこなう。
➡ 寛元4年(1246年)道明寺で授戒をおこなう。
➡ 寛元5年・宝治元年(1247年)仏師善円に念持仏・愛染明王坐像をつくらせる。
➡ 建長元年(1249年)仏師善慶に京都清凉寺釈迦如来像の模刻をつくらせ西大寺四王堂に安置する。
➡ 建長2年(1250年)絵師堯尊に文殊菩薩画像・十六羅漢・十六尊者など21幅を描かせる。
➡ 建長6年(1254年)西琳寺で授戒をおこなう。 『聖徳太子講式』執筆。太子講をはじめる(以後、毎年恒例となる)。
➡ 建長7年(1255年)円仁が唐の五台山から将来した『上宮太子勝鬘経疏義私鈔』を四天王寺で筆写し法隆寺に奉納する。
➡ 正嘉2年(1258年)絵師堯尊に金剛界曼荼羅を描かせる。
➡ 文応元年(1260年)絵師堯尊に胎蔵界曼荼羅を描かせる。
➡ 弘長元年(1261年)浄住寺授戒と『四分律行事鈔』の講義をおこなう。北条実時の使者が訪れ関東への下向を懇請する。
➡ 弘長2年(1262年)太子講を諸所でおこなう。2月より関東へ下向し、新清凉寺(釈迦堂)に逗留、忍性・頼玄らの応援を得て授戒と『梵網経古迹記』の講義をおこなう。北条実時・北条時頼に拝謁し授戒する。7月に西大寺へ帰る。弟子の性海による『関東往還記』がその記録である。
➡ 文永3年(1266年)河内真福寺で非人救済をおこなう。
➡ 文永元年(1264年)光明真言を導入し、密教化をすすめる
➡ 文永5年(1268年)般若寺再建のために文殊菩薩像(仏師善慶・善春が造像)開眼供養をおこなう。 異国の難を払うため四天王寺で勤行をする。
➡ 文永6年(1269年)般若寺落慶供養をおこない、周辺で非人・癩者の救済をおこなう。紀伊の金剛宝寺で授戒と『梵網経古迹記』の講義をおこなう。
➡ 文永10年(1273年)蒙古襲来(元寇)に際して伊勢神宮に参籠し大般若経を転読する。
➡ 文永11年(1274年)蒙古襲来に際して四天王寺で亀山天皇の行幸を得て百座仁王会を修する。
➡ 文永12年・建治元年(1275年)伊勢神宮に参籠する。
➡ 建治2年(1276年)仏師善春に大黒天像をつくらせる。
➡ 弘安2年(1279年)亀山上皇以下公卿らに授戒と『梵網経古迹記』の講義をおこなう。
➡ 弘安3年(1280年)伊勢神宮に参籠する。弟子らが仏師善春に80歳を迎えた叡尊の寿像を造らせる。(西大寺蔵の興正菩薩坐像)
➡ 弘安4年(1281年)蒙古襲来に際して亀山上皇の御幸を西大寺に迎え、石清水八幡宮で尊勝陀羅尼を読誦する。
➡ 弘安7年(1284年)宇治橋修造の朝命を受け殺生禁断のために宇治川の網代を破却する。後深草上皇以下公卿らに授戒をおこなう。
➡ 弘安8年(1285年)院宣により四天王寺別当に就任する。
➡ 弘安9年(1286年)宇治橋を修築、橋南方の浮島に十三重石塔婆を建立する。
➡ 正応3年(1290年)西大寺で病を発し秋に示寂。
➡ 正安2年(1300年)伏見上皇の院宣により行基菩薩の先例により興正菩薩の尊号がおくられる。

以上の年譜記載の活動は概ね以下の5点に集約されると思う。

1.戒律を重視し釈尊本来の仏教に立ち戻ろうとした戒律の復興活動のこと
2.社会的に疎外された貧困階層の人々を中心に救済の手を差しのべた救貧活動のこと
3.元寇への祈祷などをつうじて、鎌倉幕府、朝廷と接触し、上記2つの活動を認知せしめたこと
4.聖徳太子、空海について、教義の研鑽を深め、その普及をおこなったこと(アンダーラインで記載)
5.多くの仏像、仏画、石塔婆などを勧請し、後世に残したこと(赤字で記載)

【以下は、西大寺HPから引用)
その根本理念である「興法利生」とは、「興隆仏法(仏教を盛んにすること)」「利益衆生(民衆を救済すること)」の略語で、それぞれ叡尊上人の具体的活動である戒律復興と貧困階層の救済に結実している。但し、叡尊にとって興法と利生は別々のものではなく、まさしく「興法利生」という一体の言葉で捉えたように、戒律を復興し本来の仏教を追求することは民衆救済に直結する課題でもあった。この点にこそ叡尊の仏教者たる真の面目があると考えられる。  

叡尊一代の行蹟を記した『西大勅謚興正菩薩行実年譜』によれば、その生涯に菩薩戒を授けた道俗総数97710人、講席を啓くこと10721座、行法を修すること41208座、殺生禁断とした場所1356所、寺院新建100余所、修造590余所、西大寺に寄附した末寺1500余寺とあり、その活躍はまことに驚異的なものであった。

正応3年(1290)90歳の高齢に達した叡尊上人は、8月25日、自ら禅定に入るが如く遷化した。正安2年(1300)7月、亀山法皇は叡尊上人の高徳を偲んで院宣を下し、五朝の国師として四輩は菩薩と仰いだとその教化を讃美し、興正菩薩の貴号を贈った。また後伏見天皇も同年閏7月3日に、「勅す、伝灯大法師位叡尊は、一天四海の大導師にして、濁世末代の生身仏なり」として重ねて興正菩薩の号を賜わったのであった。
http://saidaiji.or.jp/history/p2.html

西大寺 小考2 四天王邪鬼は見ている

西大寺 増長天邪鬼
西大寺 増長天邪鬼(奈良時代)
https://plaza.rakuten.co.jp/takacyan/diary/201111050000/

西大寺については、創建当初の時代についての風説をふくめ、あまりにも多くの「ストーリー性」がある。普通の美術史家には書けないが、梅原猛氏は、藤原仲麻呂と孝謙上皇との情交、そしてその後の抗争と仲麻呂の頓死(恵美押勝の乱)の濃厚な可能性についてふれ、さらに、母、光明皇太后の死にショックをうけて病気となり、その治療をつうじて寵愛を受けた僧道鏡との情交にもふれている。
道鏡は、称徳天皇(孝謙上皇重祚)の後見のもと権力を握り、皇位を狙うが失脚する。称徳天皇崩御ののち、政情は大いに動揺し、やがて都は長岡京を経て平安京に移る。 大義名分なき造営、人望の失墜した称徳天皇の寺、西大寺は、南都七大寺の一つながら、その没落の道は早かった。上に掲げた「西大寺 増長天邪鬼」(奈良時代)は当初のものとのことだが、この邪鬼だけがかわらぬ歴史の証人というのもなにか皮肉なものを感じる。

(参考)梅原猛「俗と聖の間の寺」(『古寺巡礼 奈良8西大寺』1979年 淡交社)を参照

西大寺 小考1 南都七大寺

西大寺東塔跡と本堂(重要文化財)

【南都七大寺】

西大寺は南都七大寺の一つ。その七大寺とは、通常は興福寺(奈良市登大路町)、東大寺(奈良市雑司町)、西大寺 (奈良市西大寺芝町)、薬師寺(奈良市西ノ京町)、元興寺(奈良市中院町、芝新屋町)、大安寺(奈良市大安寺)および法隆寺(生駒郡斑鳩町)と言われる。
このうち、いまも大伽藍ないし多くの第一級の多くの宝物誇るのが、興福寺、東大寺、薬師寺、法隆寺の四寺であり、大安寺、元興寺および西大寺の三寺は没落の憂き目にあっている。
今回の西大寺展で面白いのは、この没落組の西大寺をはじめとする多くの寺院の連携である。今回の展示会に先立って、いまから四半世紀以上も前の1991年にも、奈良西大寺展が大規模に開かれたが、「真言律宗一門の秘法公開」と銘打たれ、今回同様、各寺院が集っている。

【真言律宗】

西大寺の興正菩薩叡尊を中興の祖とする宗派であり、真言宗の開祖、空海を特に仰いでいる。「叡尊は荒廃した既存仏教に対する批判から律宗の覚盛とともに、これまで国家が定めた手続きによる方法しか認められていなかった出家戒の授戒を自らの手で行った(自誓授戒)。その後、戒律に対する考え方の違いから覚盛と一線を画するが、彼の依頼による西大寺再興を引き受けて、続いて海龍王寺・法華寺・般若寺などの再興に従事して、朝廷の許可なくして独自の戒壇を設置した。続いて弟子の忍性が登場して叡尊が十分に達せられなかった民衆への布教に才覚を示して、鎌倉に極楽寺を建立した。」( https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E8%A8%80%E5%BE%8B%E5%AE%97

つまり、西大寺をはじめとして、海龍王寺、法華寺、般若寺、極楽寺(鎌倉)が同宗派のコアということになる。次に由緒寺として、放生院(京都府宇治市)、岩船寺(京都府木津川市)、浄瑠璃寺(木津川市)、不退寺(奈良市)、元興寺極楽坊(奈良市)、元興寺小塔院(奈良市)、白毫寺(奈良市)、額安寺(奈良県大和郡山市) などがある。こうしてみてくると、確かに大寺ではないけれど、ユニークで至宝をもつ寺院が名を連ねていることがわかる。

【元興寺】

さて、ここで南都七大寺の一つである元興寺がふたたび登場する。「日本最初の本格的伽藍である法興寺(飛鳥寺)が平城遷都にともなって、 蘇我氏寺から官大寺に性格を変え、 新築移転されたのが、元興寺 (佛法元興の場、聖教最初の地)である」(元興寺HP)という最も正統なる歴史をもつ大寺は、儚く没落するだけでなく、多くの文物は南都の他の寺へ移管され、いわば解体されてしまう。その後の数奇な変遷もほかの都七大寺にはないものである。

「飛鳥時代以来、伝統の三論宗、(『大安寺流』に対し『元興寺流』)と法相宗(興福寺の北寺伝『御蓋流』に対し南寺伝『飛鳥流』)が主に学問されていたが、平安中期には衰えてしまう。むしろ真言宗に属する多くの僧を輩出した。
その後、伽藍は荒廃し、堂塔が分離してゆくことになる。中でも伽藍の中央部、金堂、講堂など中枢部の北に当たる僧坊の地域に、東室南階大房が十二房遺って、その一室が特に極楽坊と呼ばれるようになる。この場所は奈良時代の元興寺三論宗の学僧智光法師が居住した禅室で、我が国浄土三曼荼羅(智光、当麻、清海)の随一である智光曼荼羅(掌中示現阿弥陀如来浄土変相図)発祥の地とする信仰が生まれた。
極楽坊では嘉応3年(1171)頃から盛んに百日念仏講が営まれ、南都の別所的役割を担ったようである。その後、高野聖西行法師が極楽房天井の改築勧進を行ったとか、東大寺戒壇院の圓照実相上人が僧房改築の勧進をしたとか、西大寺信空慈道上人が僧房修理のため南市で勧進を行ったとか伝わる。要するに、遁世僧や律僧の大切な道場として再出発したようである。
治承4年(1180)平重衡の南都焼き討ちによって、興福寺大乘院(今の奈良県文化会館あたり)が焼失し、元興寺禅定院に寄生した事によって、特に極楽坊は大乘院が支配することになり、住持は光圓上人を初代としてその法流が八代続いた。
寛元2年(1244)には極楽房を中心に大改築が行われ、元興寺極楽坊本堂(極楽堂)と禅室(春日影向堂)の二棟に分離された。この事から極楽房は東向き(旧元興寺は南向き)の独立的な寺院となったようである。
さらに、文永五年(1268)には約5,000人に及ぶ道俗の勧進からなる聖徳太子立像(十六才孝養像)、弘安年間に弘法大師坐像が造立され、聖徳太子と弘法大師に係わる寺院としての性格を確立していった。この時点で、恐らく西大寺叡尊思円上人や東大寺聖守中道上人の影響を多大に受けたようである。」(元興寺HP)

【興正菩薩叡尊との関係】

ここまできて、叡尊が登場する。西大寺を再興させた叡尊が、民衆信仰の基盤のもと元興寺についてもコミットするのである。

西大寺展と聖徳太子像

聖徳太子立像 元興寺
奈良県指定文化財 余木造玉眼 南無仏太子像 (鎌倉時代)

三井記念美術館で「奈良 西大寺展」創建1250年記念―叡尊と一門の名宝を観る。
展示のキーコンセプトとは少し離れるが、興味深かったのは空海と聖徳太子についてである。西大寺が真言律宗の名刹であることから、空海について、「重文 弘法大師坐像 1 軀 鎌倉時代 元興寺:7-1 63(展示リスト参照)」があることは当然として、元興寺聖徳太子関連の仏像なども展示されている。

「重文 聖徳太子立像(孝養像) 善春 1 軀 鎌倉時代・文永5 年(1268) 元興寺:4-23 55」
「重文 聖徳太子立像(孝養像) 像内納入品のうち眼清願文 1 紙 鎌倉時代 元興寺:4-23-1 55-1」
「重文 聖徳太子立像(孝養像) 像内納入品のうち木仏所画所等列名 1 紙 鎌倉時代 元興寺:4-23-2 55-2」
「聖徳太子立像(南無仏太子像)  1 軀 鎌倉時代 元興寺:7-2 54」

聖徳太子伝説から、こうした作像がなされたことは当時にあっても根強い太子信仰があったことを示している。元興寺「聖徳太子立像(孝養像)」については、「聖徳太子が16歳のとき父・用明天皇の病気平癒を祈る姿を表しています。叡尊は聖徳太子を救世観音あるいは如意輪観音の化身として篤く信仰していました。この像は文永5年(1268)5千名近い人々が結縁して、仏師善春らにより造立されました。結縁者の中には叡尊の弟子も多く、叡尊による太子信仰の広まりを物語っています」(展示解説)とある。
また、「聖徳太子立像(南無仏太子像)」については、太子2歳のときに、東を向いて「南無仏」と唱えたシーンを造像したものである。これも定例パターンながら、聖徳太子の成長とともに、こうした造像がなされてきたこと自体が意味深い。

直感だが、日本では珍しい、一種の教育的教材としての太子像という見方もありえるかも知れない。当初は限られた貴族や僧侶の母親や子供向けであったかも知れないが、その後、広く市井の一般人も含め、子供の健康を願い、そして孝養をつくし世のためになる大人への成長への期待をこめて、子供たちを像を前に誘い、太子の人となり、その業績を語るーそんな連想をはせてみた。

【以下は引用】
元興寺の聖徳太子信仰

 聖徳太子(厩戸王)は、用明天皇と穴穂部間人皇女の子である歴史的実在の人物である。が、死後間もないころから、その偉人的な性格が誇張され、太子に対する尊崇の念が高まり、追慕の念が信仰へと昇華されたものである。『上宮聖徳法王帝説』や『日本書紀』を初め、『聖徳太子伝暦』、『日本往生極楽記』や『大日本国法華験記』に見られるように、太子は日本における最初の仏教者、祖師であると意識され、佛のように礼拝される対象となっていったのである。
 すなわち、「太子伝」という物語の普及、「太子絵伝」という仏教美術の展開、「太子像」という一種の仏像であり、祖師像を生んだのである。
 また、各寺院や宗門は聖武天皇、伝教大師最澄、弘法大師空海、理源大師聖宝の太子後身説、太子が観音の化身であり、我が国最初の往生人とし、あるいは、達磨の化身、阿弥陀の化身、法華経弘通の祖師とみて、太子を立宗の根本に位置付け、競って自宗派との関係をうたい、由緒寺院は創建の基を太子として権威化を図っているのである。
 元興寺は太子建立四十六ケ寺のひとつとされ、官大寺に列せられる事になるが、その由緒として、推古天皇勅願・聖徳太子建立を唱えたり、蘇我馬子と聖徳太子の関係深さを主張する。つまり、飛鳥寺・法興寺と斑鳩寺・法隆寺とは用明天皇と推古天皇により、蘇我馬子と聖徳太子に指名された「仏法興隆」の拠点たる『法興』と『法隆』の二寺なのであった。
 平城遷都に伴って「仏法元興之場 聖教最初之地」を主張するのもこの事が認められてきたからであった。源平の合戦を経て、鎌倉時代に南都復興が大々的に行われるが、その中で元興寺も復興勧進がすすめられた。
 その中心的な活動が極楽坊の独立であり、聖徳太子信仰の宣揚だったのであろう。すなわち、「重文・聖徳太子立像(孝養像)」、「県指定・聖徳太子立像(南無佛太子)」の造立であり、太子堂(明治期に消滅)の建立である。
 孝養像は、その像内納入品から、文永5年(1268)卯月八日(4月8日つまり釈迦生誕の花まつり)から一升ずつ千杯供養の勧進をすすめ、約五千人の結縁で、仏師善春が造立している。恐らく、太子生誕700年(1275)に向けての活動だったのであろう。
 また、南無佛太子像は、像内が明らかでないが、他寺院の銘文がある作などから考え、生誕750年(1325)が想定できよう。
 太子堂は、応永年間と伝えられているが、応永33年(1425)が生誕850年で、800年遠忌に重なっており、それに向けての動きであろう。その後、南都の太子堂とは、元興寺極楽坊のことを言うようになるのだ。
 現在、「太子堂」や「太子伝」などを失ってはいるが、優秀な「孝養像」や「南無佛太子」の存在が聖徳太子信仰の高まりを物語っている。
 因みに、孝養像とは、16歳像とも呼ばれる美豆良に結って官服に袈裟、横被を付け、柄香炉を持つ姿で、用明天皇(父君)の病気平癒を祈る姿なのか、それとも葬送の姿であろうか。明確ではないが、僧俗一体の姿ではある。
 一方、南無佛太子像は2歳像ともいわれ、幼児姿で、腰袴だけ付け、合掌するもので、2月15日の出来事を表していると言う。つまり、この姿は釈迦誕生佛からの発想であり、始めと終わり、「南無佛」、すなわち釈尊入滅の涅槃会を意識しているのだろう。
http://www.gangoji.or.jp/tera/jap/midokoro/midokoro1.htm#shoutokutaishi

奈良 西大寺展 創建1250年記念 「叡尊と一門の名宝」 を観る

西大寺東塔跡と本堂(重要文化財)

西大寺は9年前にゆっくりと拝観した。秋篠寺のあとに行ったが、そのときの記憶は鮮明に覚えている。

http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-67.html

今回は三井記念美術館で上記の展示会を観る。

【以下*は公式ガイドから一部引用】

*西大寺の創建は天平神護元年(765)。光明皇太后の信任を得て淳仁天皇を擁立し権力を握った藤原仲麻呂と孝謙上皇との抗争(恵美押勝の乱)鎮定を祈願して、称徳天皇(孝謙上皇重祚)が造営した。 乱の鎮定後、今度は、僧道鏡が天皇の寵愛を受けて権力を握り、皇位を狙うが失脚。政情は大いに動揺し、やがて都は長岡京を経て平安京に移る。 西大寺は、鎮護国家仏教として栄えた南都六宗の都、平城京最後のきらめきとして残されることになった。

➡ 偉大な父母ゆかりの東大寺、対してその娘、称徳天皇(孝謙上皇重祚)が建立したのが西大寺。道鏡とのスキャンダルは、あまりにも有名だが、西大寺の縁はその点でもやや格調に欠ける。

西大寺 塔本四仏坐像
「塔本四仏坐像」のうち「釈迦如来坐像」「阿弥陀如来坐像」(奈良・西大寺)

*西大寺には創建後間もなく東塔・西塔の2基の塔が建てられました。この4軀の如来坐像は、そのいずれかの塔の初層(1階)に安置されたと伝えられています。奈良時代後期を中心に流行する木心乾漆の技法により制作されています。西大寺創建に近い時期までさかのぼり、4軀まとまって伝わる貴重な仏像です。各像の名称は後世のものと考えられます。

*都が平安京に移された後、奈良の寺社は苦難の時代を迎え、創建直後にバックボーンを失った西大寺の状況は深刻だったが、鎌倉時代に中興の祖、叡尊が登場する。 若くして真言密教を学んだ叡尊は西大寺に入り、寺を伝統的な律宗の教えと密教を組み合わせた「密・律兼修の道場」とした。
僧侶や市民の集う「光明真言会」を創始、救済事業を進めるなど精力的に活動し、その教えは大いに広まった。 叡尊はそのかたわら、愛染明王坐像や本尊釈迦如来立像、大黒天像などの造立を発願し、「大茶盛」を始めるなど、西大寺独特の文化をつくり上げた。

➡ 零落した南都六宗の名刹を復興した叡尊は、真言宗と律宗の双方をその根底におく。「平安時代末期から鎌倉時代には実範・明恵が戒律復興を論じ、それを引き継いで嘉禎2年(1236年)覚盛・有厳・円晴・叡尊の4人が国家と結びついた戒壇によらない自誓受戒を行った。後に覚盛は「四分律」を重視して唐招提寺を復興して律宗再興の拠点としたのに対して、叡尊は西大寺を拠点に真言宗の『十誦律』を中心とした真言律宗を開いた。更に京都泉涌寺の俊芿が南宋より新たな律宗を持ち帰った。このため、俊芿の「北京律」と「南都律」と呼ばれた唐招提寺派・西大寺派(真言律宗)両派の3つの律宗が並立した。この3派の革新派を新義律と呼称して、それ以前の古義律と区別することがある。しかし、結果的にこの新義律3派が議論と交流を重ねることで律宗の深化と再興が進み、中世には禅宗と律宗を合わせて禅律とも呼ばれて重んじられた。室町時代には禅宗に押されて再び衰退するが、江戸時代には明忍・友尊・慧雲が出現して再度戒律復興が唱えられた。」(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8B%E5%AE%97)。
叡尊ゆかりの展示が多いのは以上の背景があるからだが、真言宗が主導した仏像群が、いまに伝えられる西大寺の貴重な財産になる。

西大寺 3
「愛染明王坐像」(奈良・西大寺)

*愛染堂の秘仏本尊であり、現在も美しい彩色を留めています。宝治元年(1247)叡尊と弟子たちは、西大寺に三宝(仏・法・僧)が永く伝えられることを求めて発願・結縁し、仏師善円(善慶と同一人物)が造立しました。この年は叡尊が僧堂を造営した年に当たり、当初は叡尊が三宝久住の強い願いをこめて僧堂に安置したと考えられています。
愛染堂の秘仏本尊であり、現在も美しい彩色を留めています。宝治元年(1247)叡尊と弟子たちは、西大寺に三宝(仏・法・僧)が永く伝えられることを求めて発願・結縁し、仏師善円(善慶と同一人物)が造立しました。この年は叡尊が僧堂を造営した年に当たり、当初は叡尊が三宝久住の強い願いをこめて僧堂に安置したと考えられています。

西大寺 文殊菩薩騎獅像及び四侍者像
「文殊菩薩騎獅像及び四侍者像」(奈良・西大寺)

*この形式の五尊像は、中国五台山の文殊信仰に基づくもので、渡海文殊として鎌倉時代に多く制作されました。叡尊は文殊信仰に基づき多くの民衆救済の事業を行っており、文殊菩薩像も造像しています。この像は叡尊の没後弟子たちが発願して造像されたもので、叡尊の十三回忌に完成し、文殊堂の本尊とされました。現在は本堂西脇間に安置されています。

*叡尊の教えは全国各地の多くの寺院にも広がっていった。東国では、叡尊のもとで学んだ忍性が鎌倉を拠点として貧民救済など社会福祉事業や道路・橋梁(きょうりょう)の建設などに尽力し、鎌倉幕府の要人から庶民まで広く信仰を集めた。
畿内や西国でも叡尊に連なる律僧たちが寺院の復興や社会事業に従事し、江戸時代には奈良・生駒に宝山寺を興した湛海らが活躍。
明治期に入ると廃仏毀釈や宗教統制の荒波にさらされるが、教義を貫き法灯を守った。 現在、真言律宗には元興寺、浄瑠璃寺、岩船寺、不退寺、海龍王寺、般若寺、白毫寺、宝山寺など、関西を中心に多くの名刹が名を連ねる。

➡ 西大寺はいまもひっそりと佇む鄙びた古刹だが、元興寺、浄瑠璃寺、岩船寺、不退寺、海龍王寺、般若寺、白毫寺、宝山寺などのうち、浄瑠璃寺などは人気抜群のスポットとなっている。今回に限らず過去においても、これらの寺院が「西大寺展」に協力している。 【“奈良 西大寺展 創建1250年記念 「叡尊と一門の名宝」 を観る”の続きを読む】

奈良 西大寺展 創建1250年記念 「叡尊と一門の名宝」 展示リスト

西大寺

<以下は引用>
南都七大寺の一つである奈良の西大寺は、奈良時代に称徳天皇によって創建された由緒ある寺です。創建1250年を記念する本展覧会は、西大寺に伝わる仏像・肖像彫刻・仏教絵画・密教法具など工芸品の名宝の数々と、元興寺・浄瑠璃寺・白毫寺さらには東国の極楽寺・称名寺など、真言律宗一門の珠玉の美術作品を一堂に展示します。
http://saidaiji.exhn.jp/

<展示リスト:入れ替え制、展示期間注意>
番号指定 名称 作者 数量 時代 所蔵

【展示室1:密教と修法具】

1-1 69 重文 金銅密教法具(五鈷鈴・独鈷杵・三鈷杵・五鈷杵・金剛盤) 5  鎌倉時代 西大寺
1-2 71 金銅一面器(火舎・花瓶・六器) 1 括 鎌倉時代 西大寺
1-3 117 重文 愛染明王坐像(厨子入) 1 軀 鎌倉時代・永仁5 年(1297) 称名寺(金沢文庫保管)
1-4 76 黒漆光明真言厨子 1 基 鎌倉~南北朝時代 西大寺
1-5 68 金銅大檀具のうち(五鈷鈴・独鈷杵・三鈷杵・五鈷杵・金剛盤) 5  鎌倉時代 西大寺
1-6 70 白銅密教法具(五鈷鈴・独鈷杵・三鈷杵・五鈷杵・金剛盤) 5  鎌倉時代 西大寺
1-7 72 白銅打鳴し 2  鎌倉時代 西大寺
1-8 74 金銅金剛盤 1 面 鎌倉時代・正和3 年(1314) 奈良国立博物館
1-9 73 銅独鈷杵1  平安時代 西大寺
1-10 120 金銅密教法具(五鈷鈴・独鈷杵・三鈷杵) 3 鎌倉時代 称名寺(金沢文庫保管)
1-11 75 金銅飯食器2  鎌倉時代 西大寺

【展示室2:戒律と舎利信仰】

2-1 39 国宝 金銅透彫舎利容器 1基 鎌倉時代 西大寺

【展示室3:西大寺の瓦と塼】

3-1 9 軒瓦(創建期)、垂木先瓦、緑釉・褐釉塼 一括 奈良時代 西大寺(奈良文化財研究所保管)

【展示室3(如庵ケース):西大寺の大茶盛式】

3-2 参考 出品大茶盛式の大茶碗1  西大寺

【展示室4:⑴西大寺の創建から平安時代まで】

4-1 6 国宝 大毘盧遮那成仏神変加持経 巻1・巻2 2 巻 奈良時代・天平神護2 年(766) 西大寺
4-2 5 国宝 金光明最勝王経 巻1・巻6 2 巻 奈良時代・天平宝字6 年(762) 西大寺
4-3 5-1 国宝 月輪牡丹蒔絵経箱 1 合 鎌倉時代 西大寺
4-4 7 西大寺資財流記帳上下2 巻鎌倉〜室町時代 西大寺
4-5 2 重文 塔本四仏坐像 釈迦如来坐像・阿弥陀如来坐像 2 軀 奈良時代 西大寺
4-6 4 国宝 十二天像 帝釈天像・火天像・閻魔天像・水天像 4 幅 平安時代 西大寺 帝釈天 火天 閻魔天 水天
4-7 3 重文 如意輪観音半跏像 1 軀 平安時代 西大寺

【展示室4:⑵ 叡尊の信仰と鎌倉時代の復興】

4-8 20 重文 叡尊自筆書状 2 巻 鎌倉時代・建長元年(1249)、弘長2 年(1262) 西大寺各
4-9 13 国宝 興正菩薩坐像善春 1 軀 鎌倉時代・弘安3 年(1280) 西大寺
4-9-1 13-3 国宝 興正菩薩坐像 像内納入品のうち観海願文  1 通 鎌倉時代 西大寺
4-9-2 13-6 国宝 興正菩薩坐像 像内納入品のうち授菩薩戒弟子交名 1 巻 鎌倉時代 西大寺
4-9-3 13-5 国宝 興正菩薩坐像 像内納入品のうち西大寺有恩過去帳 1 巻 鎌倉時代 西大寺
4-10 23 重文 愛染明王坐像 善円 1 軀 鎌倉時代・宝治元年(1247) 西大寺
4-10-1 23-3 重文 愛染明王像 像内納入品のうち範恩造像願文 1 巻 鎌倉時代 西大寺
4-11 77 重文 黒漆大神宮御正体厨子 1 基 鎌倉時代 西大寺
4-12 14 重文 興正菩薩坐像 1 軀 鎌倉時代 白毫寺
4-13 16 興正菩薩像 1 幅 鎌倉時代 西大寺
4-14 19 興正菩薩像 1 幅 鎌倉〜南北朝時代 西大寺
4-15 22 重文 感身学正記 1 冊 南北朝時代・延文4 年(1359) 西大寺
4-16 52 重文 叡尊願文 1 巻 鎌倉時代・文永6 年(1269) 般若寺
4-17 27 南山大師像 1 幅 南北朝時代 西大寺

4-18 29 大智律師像 1 幅 南北朝時代 西大寺
4-19 48 重文 文殊菩薩騎獅及び四侍者像のうち文殊菩薩坐像・善財童子立像・最勝老人立像 3 軀 
鎌倉時代・正安4 年(1302) 西大寺
4-19-1 48-3 重文 文殊菩薩坐像 像内納入品のうち文殊菩薩像 1 軀 鎌倉時代 西大寺
4-19-2 48-4 重文 文殊菩薩坐像 像内納入品のうち八字文殊曼荼羅図 1 紙 鎌倉時代 西大寺
4-19-3 48-5 重文 文殊菩薩坐像 像内納入品のうち種字曼荼羅図・文殊図像・真言・種字等 1 巻 鎌倉時代 西大寺
4-20 58 重文 大黒天立像善春 1 軀 鎌倉時代・建治2 年(1276) 西大寺
4-20-1 58-2 重文 大黒天立像 像内納入品のうち大黒天像(曲物笥入)  1 軀 鎌倉時代 西大寺
4-20-2 58-3 重文 大黒天立像 像内納入品のうち弁才天懸仏(曲物笥入)  1 面 鎌倉時代 西大寺
4-21 78 地蔵菩薩立像仙算 1 軀 室町時代・永正11 年(1514)  西大寺(奥の院)
4-22 59 毘沙門天立像 1 軀 鎌倉時代 西大寺
4-23 55 重文 聖徳太子立像(孝養像) 善春 1 軀 鎌倉時代・文永5 年(1268) 元興寺
4-23-1 55-1 重文 聖徳太子立像(孝養像) 像内納入品のうち眼清願文 1 紙 鎌倉時代 元興寺
4-23-2 55-2 重文 聖徳太子立像(孝養像) 像内納入品のうち木仏所画所等列名 1 紙 鎌倉時代 元興寺
4-24 35 重文 釈迦三尊像(仁王会本尊)  1 幅 鎌倉時代 西大寺
4-25 36 釈迦三尊十六善神像 1 幅 鎌倉時代 西大寺
4-26 91 重文 愛染明王像 1 幅 鎌倉時代 宝山寺
4-27 89 尊勝曼荼羅図 1 幅 鎌倉時代 宝山寺
4-28 90 重文 弥勒菩薩像 1 幅 鎌倉時代 宝山寺
4-29 65 五大虚空蔵菩薩像 1 幅 南北朝時代 西大寺

【展示室5:戒律と舎利信仰】

5-1-1 13-1 国宝 興正菩薩坐像 像内納入品のうち金銅八角五輪塔 1 基 鎌倉時代 西大寺
5-1-2 13-2 国宝 興正菩薩坐像 像内納入品のうち舎利安置状 1 通 鎌倉時代 西大寺
5-1-3 34-1 重文 釈迦如来立像 像内納入品のうち舎利塔紐付 1 基 鎌倉時代 西大寺
5-1-4 48-1 重文 文殊菩薩坐像 像内納入品のうち舎利塔 1 基 鎌倉時代 西大寺
5-1-5 48-2 重文 文殊菩薩坐像 像内納入品のうち舎利塔容器 1 合 鎌倉時代 西大寺
5-1-6 58-1 重文 大黒天立像 像内納入品のうち五輪塔 1 基 鎌倉時代 西大寺
5-2 30 宇治浮島十三重石塔納置品のうち(金銅舎利塔1 基・水晶五輪塔 13 基・金銅筒型容器1 合・金銅瓶形容器1 合・鋳
銅経筒1 合・鋳銅五鈷鈴1 口・金銅蓮台 形容器1 合・銅版鋲留角形箱1 合・紺紙 金泥法華経第1 巻1 巻) 一括 鎌倉時代 放生院
5-3 44 重文 黒漆舎利厨子 1 基 鎌倉時代 般若寺
5-4 47 重文 十三重石塔納置品のうち(金銅五輪塔1基・金銅五輪塔1基・水晶五輪塔4基)  一括 鎌倉時代 般若寺
5-5 43 重文 金銅火焔宝珠形舎利容器 1 基 鎌倉時代・正応3 年(1290) 海龍王寺
5-6 40 舎利塔厨子 1 基 室町時代 西大寺
5-7 42 重文 金銅火焔宝珠形舎利容器 1 基 室町時代・応永21 年(1414) 西大寺
5-8 46 国宝 金銅能作生塔 1 基 鎌倉時代 長福寺(奈良県)
5-9 114 重文 金銅密教法具 (五鈷鈴・独鈷杵・五鈷杵) 3  鎌倉時代 極楽寺
5-10 121 重文 金銅装宝篋印塔 1 基 鎌倉時代・永仁5 年(1297) 称名寺(金沢文庫保管)
5-11 122 重文 玉華鬘 1 面 鎌倉時代 称名寺(金沢文庫保管)
5-12 123 重文 弥勒菩薩立像 像内納入品のうち舎利容器残闕 一括 鎌倉時代 称名寺(金沢文庫保管)

展示室6:西大寺の伽藍配置】

展示室7:⑴真言律宗一山の名宝】

7-1 63 重文 弘法大師坐像 1 軀 鎌倉時代 元興寺
7-2 54 聖徳太子立像(南無仏太子像)  1 軀 鎌倉時代 元興寺
7-3 56 如意輪観音坐像 1 軀 鎌倉時代 元興寺
7-4 49 文殊菩薩坐像 1 軀 鎌倉時代 法華寺
7-5 96 重文 普賢菩薩騎象像 1 軀 平安時代 岩船寺
7-6 94 重文 普賢菩薩坐像 1 軀 平安時代 文化庁
7-7 57 重文 不空羂索観音坐像 1 軀 鎌倉時代 不空院
7-8 101 重文 吉祥天立像 1 軀 鎌倉時代 浄瑠璃寺(6/6 ~ 6/11)
7-9 99 重文 地蔵菩薩立像(延命地蔵)  1 軀 平安時代 浄瑠璃寺
7-10 82 地蔵菩薩立像 1 軀 平安時代 不退寺
7-11 61 重文 太山王坐像康円 1 軀 鎌倉時代・正元元年(1259) 白毫寺
7-12 62 重文 司命半跏像・司録半跏像 2 軀 鎌倉時代 白毫寺
7-13 97 四天王立像のうち多聞天立像 1 軀 鎌倉時代 岩船寺

【展示室7:⑵忍性と東国の真言律宗】

7-14 110 忍性菩薩坐像 1 軀頭部 鎌倉時代 体部 室町時代 極楽寺
7-15 113 釈迦如来像 1 幅 南北朝〜室町時代 極楽寺
7-16 112 重文 釈迦如来坐像 1 軀 鎌倉時代 極楽寺
7-17 111 文殊菩薩坐像 1 軀 鎌倉時代 極楽寺
7-18 115 重文 釈迦如来立像院保他 1 軀 鎌倉時代・徳治3 年(1308) 称名寺(金沢文庫保管)
7-19 116 十大弟子立像のうち舎利弗像・富楼那像・迦旃延像・優波離像 4 軀 鎌倉時代称名寺(金沢文庫保管)
7-20 124 重文 地蔵菩薩坐像院誉 1 軀 鎌倉時代・元亨4 年(1324) 長福寺(福島県)
7-20-1 124-1 重文 地蔵菩薩坐像 像内納入品のうち妙法蓮華経巻8 1 巻 鎌倉時代 長福寺(福島県)(金沢文庫保管)
7-20-2 124-2 重文 地蔵菩薩坐像 像内納入品のうち某願文断簡 1 紙 鎌倉時代 長福寺(福島県)(金沢文庫保管)
http://www.mitsui-museum.jp/pdf/mokuroku_170415.pdf

聖徳太子と仏像

広隆寺弥勒(拡大)

聖徳太子と仏像との関係について、少しく所感を述べたい。四天王像、弥勒菩薩像、釈迦三尊像を中心に、以下若干メモしてみたいと思う。

第1章 四天王像

◆四天王寺と幻の四天王像

聖徳太子の初陣。そこから太子と仏像のストーリーははじまる。以下は四天王寺のHPからの引用

「四天王寺は、推古天皇元年(593)に建立されました。 今から1400年以上も前のことです。 『日本書紀』の伝えるところでは、物部守屋と蘇我馬子の合戦の折り、崇仏派の蘇我氏についた聖徳太子が形勢の不利を打開するために、 自ら四天王像を彫り 「もし、この戦いに勝たせていただけるなら、四天王を安置する寺院を建立しましょう」 と誓願され、勝利の後その誓いを果すために、建立されました。(中略)」

聖徳太子は用明天皇の子である。587年7月に物部守屋を蘇我馬子とともに滅ぼす闘いに太子は参戦する。時に用明2年、彼は「天皇の皇子」としてのおそらくは初陣であった。太子当時14才、実戦とは関係のうすい象徴的な存在であり、だからこそ仏を彫る余裕があったのかも知れない。しかし、彼の早熟ぶりからは相応の判断力をもった若き指揮官だったとも考えられる。物部VS蘇我戦争で太子は前線にあった。生死を分ける戦場、そこでの戦勝への強い祈願。そこで太子は、みずから鑿をとって四天王像を彫り、その仏像にたいして、勝利の暁には四天王寺の建立を誓願する。ドラマティックな逸話である。四天王寺とは、日本歴史上も由緒正しき寺院であり、もしも後世、火災や戦禍で焼けなかったら法隆寺と並び立つ世界遺産になっても不思議のない名刹である。

もともと四天王寺はいまの森の宮近辺にあったが、これが上町台地に位置する現伽藍に移ったとの説がある。摂津国玉造の東岸にあったのが、おなじく摂津国難波の荒陵(あらはた)に移されたと日本書紀に記載がある。
そこは当時にあって帰化人の住む一種の大きな「居留地」であったのだろう。はじめは「倭人」が住んでいたところに「帰化人」が入植したのではとの先入主をもっていたが、もしかすると、難波宮というもっとも古い都は、帰化人がつくり、そこに住んだ新都市だったと考えたほうが正確かも知れない。そして、その中心に置かれたのが総合寺院、四天王寺だったのではないか。

http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-129.html

いまの四天王寺。上町台地の中端に位置する四天王寺の大鳥居に彼岸に沈む夕陽は、淡路島と六甲山系の合間の瀬戸内海に「入滅」するという。海からのアプローチ。中国、朝鮮からの外交使節や新知識や文物は海路をへて当時は湾に隣接する難波四天王寺にあがる。ここから陸路をへて斑鳩へ。海の玄関口としての四天王寺、そして内陸都市斑鳩でも同様に壮大な仏教伽藍が迎える、聖徳太子直轄の「二大寺院」はまた外交上の迎賓館、知的拠点としての大学としても機能していただろう。

日本書紀編纂が720年。太子没(622年)後約1世紀の時が流れている。日本書紀の記載には政治的な思惑もあり、「太子実在」に疑問を投げかける向きもあるが、では日本書紀などに書かれなかったがゆえに、多くの失われた太子関連の足跡や重要な事象もあっただろうとの<逆推論>も当然なりたつ。

聖徳太子は生前はあきらかに「蘇我ファミリー」の一員だった。また、過去帳からは四天王寺には、滅ぼされた物部一族関係の多くの人々もいたとも・・。複雑さ、多義的なゆえにそこに面白さもある。さらに、四天王寺には、当初、如来、菩薩はなく眷属たる四天王のみが直線的におかれていたとの説もある。それは外交上のプレゼンスか、外敵に対する守護神としての本来の意味か・・?

http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-39.html

四天王寺という武神を奉る寺院を太子が建てたこと、そこが興味深い。しかも、その四天王は直線的におかれていたとの説にも多くの想像が働く。現在の四天王寺金堂。中央に巨大な本尊救世観音菩薩像、仏壇周囲に四天王像を配する。本尊は、彫刻家平櫛田中の指導で造像され、四隅に立つ四天王像は仏師松久朋琳・宗琳の作とのことである。

残念ながら、創建された四天王寺の四天王像は現存していない。しかし、幻の四天王像を想像できる得がた素材がある。法隆寺金堂の四天王像がそれである。以下は引用。

「仏像の世界でひときわ異彩を放つ一群がいる。険しい形相でにらみをきかせる守護神・四天王像。現在、奈良国立博物館で開催されている「国宝・法隆寺金堂展」には1400年前の飛鳥時代に造られた最古の四天王像(国宝)が展示されている。法隆寺以外の場所で4体そろって展示されるのは史上初のことである。
そもそも四天王とは、持国・広目・増長・多聞の4天。古代インドで方位の守り神として信仰されてきた。仏教では、その世界観の中心にそびえる須弥山という山で東西南北の守りを担っている。
まっすぐ正面を見据える姿。飛鳥時代の仏が醸し出す静かなるまなざしは、見るものに独特な緊張感を感じさせる。身の丈はそれぞれ130センチ余り、顔つきはまゆ尻を上げて口元はかすかな笑みを浮かべている。
法隆寺の四天王像は、後の時代の四天王像とは全く姿や表情が異なり、多くの謎に包まれている。最初から法隆寺にあったのか、足元の邪鬼が大きいのはなぜか、あの静かなるまなざしは何を見つめているのか。番組ではこれまでベールに包まれてきた法隆寺の四天王像を克明に撮影し、その謎に迫る。そこから、日本に仏教が伝来したころ、人々が仏教をどうとらえていたかが明らかになってくる。」

http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-82.html

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◆聖徳太子という人物像

用明天皇の次の天皇は崇峻だが、592年11月に暗殺される。わずかに在位5年目だったが、蘇我馬子とともに太子も加担していたとも言われる。翌推古元年に聖徳太子は摂政になる。ちょうど二十歳の時であった。そして、この年(593年)に太子の誓願によって難波に上記四天王寺が建立される。また、596年には蘇我馬子が法興寺(現飛鳥寺)を建立、598年には中宮寺が創建されたと言われる(法隆寺伽藍縁起併流記資材帳)。

太子28才の601年には斑鳩宮を造り、603年12月には「冠位十二階」、604年4月には「十七条憲法」を定める。31才である。太子の10代は血なまぐさい政争の時代、20代は宰相として内政で猛烈に頑張った時代といったこととなる。

一方、仏像との関係においては、606年4月に止利仏師が飛鳥寺金堂に丈六の銅製釈迦如来を安置し、7月には橘寺が創建される(法隆寺東院資材帳)。さらに翌年、父用明天皇のために、法隆寺金堂の薬師如来が造られる(光背造像記)。

次に外交にスポットをあてると、600年任那救援、新羅討伐のために軍派遣、さらに602年に来目皇子(※)を新羅征討将軍に任命。自らの若き日の物部守屋掣肘のことを思ったかも知れない。607年には小野妹子を第二次遣隋使として派遣(翌年にも再派遣)、609年に小野妹子が帰還。610年3月には高句麗王、朝貢。10月には新羅、任那の使者入京、さらに611年8月に新羅、朝貢。614年6月犬上御田鍬を第4次遣隋使として派遣、翌年、犬上御田鍬帰朝。百済の使を伴って来朝。この年、太子は42才。
20代後半から30代を通じてこの時まで、聖徳太子の外交政策の記述が続く。史家は内政にくらべて外交についてはあまり重視していないように思えるが、太子の30代は相当、外交に腐心していた様子が窺える。対中、対朝鮮政策でも太子はそれ以前にはない大きな成果を上げている。

※『来目皇子―志摩・幣の浜から聖徳太子を仰げば』
 聖徳太子の同母の弟・来目皇子について、福岡県志摩町、奈良県橿原市久米町、大阪府羽曳野市などのゆかりの地を探訪し、その系譜、久米氏と来目皇子、聖徳太子と推古天皇と来目皇子の関係などについてまとめる。 梓書院 (2003/09)
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-71.html

 612年は熊凝寺(のちの額安寺)が創建される(太子伝)。翌年には難波から大和に至る大道(横大路、現在の竹内街道)や「太子道」が整備され、さらに法隆寺が建立されたとの記録がある(興福寺略年代記)。また、616年に聖徳太子が法貴寺を建立し、秦河勝に与えたとも言われる(法貴寺縁起)。

622年に磯長に太子は葬られるが、この年、法輪寺が建立されたと伝えられる(聖徳太子伝私記)。そして光背銘文にある釈迦三尊像が翌年、法隆寺金堂に造像される。このように仏教史のみならず、仏教寺院、仏像の歴史からみても太子の存在がいかに巨大であったかに驚かされる。

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第2章 弥勒菩薩

聖徳太子と仏像、その第2章は弥勒菩薩である。武神、四天王像からはじまった太子と仏像との縁は、弥勒菩薩によって現実の政治との接点をえる。あるいは、太子自身の日々の迷いを払拭する意味でも弥勒菩薩は、近しい存在であったと思う。

太子ゆかりの寺々(法隆寺、中宮寺、広隆寺、鶴林寺、四天王寺など)を歩いていると、弥勒菩薩や聖観音像のもつ意味をおのずと考えたくなる。 すでに記したとおり凄惨な殺戮や疫病の蔓延に人心乱れた時代にあって、聖徳太子は名宰相としてならし、その治世の時期は限られてはいたが人びとに安寧をあたえ、それなればこそ後に、救世主的な「超人伝説」を多くつくってきたとも言えよう。

太子はまた秦氏を重用し、秦氏が百済系帰化人であったことから、その系譜から弥勒菩薩が舶来され、次第にわが国に広まっていったとの説も強い。広隆寺「宝冠弥勒」と大韓民国ソウル特別市国立中央博物館所蔵仏などの比較はその有力な根拠だろう。
弥勒菩薩はなぜこの時代多くつくられ、またそれ以降は衰微していくのか。太子逝去後、その一族が根絶やしにされ、それとともに弥勒菩薩、とりわけ半跏思惟像は次第につくられなくなる。

以下は自分の推論ないし裏付けの乏しい空想であるが、広隆寺「宝冠弥勒」は当時にあって一種の百済系仏像の「ステロタイプ」であったかも知れない。その移入後、形式的には半跏思惟像の姿を踏襲しながら、各工房によって様々なヴァリエーションも展開されていく。その証として、東京国立博物館法隆寺館の48体仏を丹念に見ていくと広隆寺や中宮寺と座像「形式」こそ似ているが全く別のタイプのお顔の仏像に遭遇することに気づくだろう。

さて、想像の翼を広げれば、48体仏のなかには実は意外にも人間臭さを感じさせる弥勒像も多い。理不尽な死は、血生臭い政争や予防できない流行病によっても突然もたらされる。最愛の肉親や知人を喪った残された者が、生前の姿を仏として刻み、それを身近に置いて追悼することは不思議ではないだろう。そうしたニーズが豪族などの権力者集団には恒常的にあったのではないか。

さらに、弥勒菩薩と聖観音系(法隆寺<夢違>、<百済>、<救世>や鶴林寺など)の造像には信仰上の違いが当時どこまであったのだろうか。追善供養にはいくつかのパターンがあり、それによって座像の場合は弥勒が好まれ、立像の場合は聖観音系が選好されたとは考えられないだろうか。

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◆広隆寺 弥勒菩薩

数多くの仏像愛好者が、その道にはいるきっかけとなったのは、この仏さまや中宮寺観音の魅力に強く惹きつけられて・・・という体験からではないだろうか。見れば言葉はいらない。こうしたすばらしい仏さまが今日、存在していること、そのことの不可思議さに深い感動を覚える。それは日本人にかぎらず国籍をとわず、世界中の人々がおなじ思いをもつことだろう。この奇跡の仏さまと聖徳太子との縁は深い。その特色を以下3点に要約してみたい。

1.歴史的な不可思議さ

 推古天皇、聖徳太子といった歴史上のスーパースターと渡来人・帰化人の有力一族、秦河勝といった人々が、この仏さまを巡る関係者である、と「日本書紀」は伝えている。「日本書紀」の確からしさについての議論もあるが、来歴がこれだけ残っている仏さまは珍しい。

歴史の深いベールに包まれた仏さまも神秘的だが、日本最古の仏さまながら、その由緒を追うことができることの不可思議さ。聖徳太子もこの仏さまを凝視していた、そしていま、われわれが拝顔しているという歴史の連続性への思い、そのことがこの仏さまの深い背景にある。

→聖徳太子ゆかりの仏さまであることについて
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-32.html

【以下は引用】
『書紀』によれば、推古天皇11年(603年)聖徳太子が「私のところに尊い仏像があるが、誰かこれを拝みたてまつる者はいるか」と諸臣に問うたところ、秦河勝(はたのかわかつ)が、この仏像を譲り受け、「蜂岡寺」を建てたという。一方、承和5年(838年)成立の『広隆寺縁起』(承和縁起)や寛平2年(890年)頃成立の『広隆寺資財交替実録帳』冒頭の縁起には、広隆寺は推古天皇30年(622年)、同年に死去した聖徳太子の供養のために建立されたとある。『書紀』と『広隆寺縁起』とでは創建年に関して20年近い開きがある。これについては、寺は603年に草創され、622年に至って完成したとする解釈と、603年に建てられた「蜂岡寺」と622年に建てられた別の寺院が後に合併したとする解釈とがある。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E9%9A%86%E5%AF%BA

2.空間的な不可思議さ

この仏さまはどこで造られたのか。冒頭に掲げた写真をみれば一目瞭然である。また、韓国中央博物館の弥勒像をみて、日本の国宝第一号広隆寺のそれとの近似性に驚く人は多いだろう。自分も学生時代、はじめてその事実を知った衝撃は大きかった。この韓国の金銅弥勒菩薩半跏像がある以上、様式論で小うるさいことを言う日本の専門家が、日本での部材調達のわずかな可能性から日本製であると主張するなど、いささかならず我田引水の典型ではないだろうか。 

この仏さまの空間的な不可思議さは、文字通り、この2像の酷似にあり、そのことが朝鮮半島と当時の日本の緊密性をなによりも物語っていると言えよう。否、むしろ、もっと大きな仏像伝播の道からのアプローチが必要だろう。中国から朝鮮半島をへて、渡来人・帰化人によって仏像はわが国にもたらされた。朝鮮半島で熟成した技法、素晴らしいセンスが日本へ伝えられた。はじめは「直輸入」といってもよいだろう。しかし、御本地の半島では、戦禍があいつぎ他の地域と同じように、あるいはそれ以上に、固有の歴史的な資産、蓄積が壊滅的に失われる。

日本にも多くの戦争、自然災害はあったが、奇跡的に、いまある優れた資産が残された。それは、日本民族が舶載の古仏を大切に伝承してきた証であり、誇りであるといえよう。この2像の存在は、日韓のさまざまな同一性の問題を提起し、考えさせられる多くの課題をわれわれに問うている。空間的な不可思議さの所以である。

(参考文献)
第303号(1976年6月、B5判)
【特集】韓国の美術
韓国の鉄仏(田辺三郎助)
万暦十四年銘李朝螺鈿鞍の問題点(郷家 忠臣)
高麗の鉄絵青磁(長谷部 楽爾)

【以下は引用】

制作時期は7世紀とされるが、制作地については作風等から朝鮮半島からの渡来像であるとする説、日本で制作されたとする説、朝鮮半島から渡来した霊木を日本で彫刻したとする説があり、決着を見ていない。この像については、韓国ソウルの韓国国立中央博物館にある金銅弥勒菩薩半跏像との様式の類似が指摘される。

第二次世界大戦後まもない1948年、小原二郎は、本像内部の内刳り(軽量化と干割れ防止のため、木彫像の内部を空洞にすること)部分から試料を採取し、顕微鏡写真を撮影して分析した結果、本像の用材はアカマツであると結論した。日本の飛鳥時代の木彫仏、伎楽面などの木造彫刻はほとんど例外なく日本特産のクスノキ材であるのに対し、広隆寺像は日本では他に例のないアカマツ材製である点も、本像を朝鮮半島からの渡来像であるとする説の根拠となってきた。ところが、1968年に毎日新聞刊の『魅惑の仏像』4「弥勒菩薩」の撮影のさい、内刳りの背板はアカマツ材でなく、クスノキに似た広葉樹が使用されていることが判明した。この背板は後補ではなく、造像当初のものとみられる。この点に加え、アカマツが日本でも自生することから本像は日本で制作されたとする説がある。

朝鮮半島からの渡来仏だとする説からは、『日本書紀』に記される、推古天皇11年(603年)、聖徳太子から譲り受けた仏像、または推古天皇31年(623年)新羅から将来された仏像のどちらかがこの像に当たるのではないかと言われている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E9%9A%86%E5%AF%BA#.E6.9C.A8.E9.80.A0.E5.BC.A5.E5.8B.92.E8.8F.A9.E8.96.A9.E5.8D.8A.E8.B7.8F.E5.83.8F

3.哲学的な不可思議さ

この仏さまほど哲学者にインスピレーションを与えつづけている仏像もあるまい。外形上も哲学的に見えるのは、この仏さまが弥勒菩薩半跏像(かつては半跏「思惟」像といっていた)というお姿であることと無関係ではないだろう。「考える仏」、「思惟する仏」なのである。ここでは、ニーチェ哲学の後継者ヤスパースが来日し、この仏さまについて語ったあまりに有名な言葉を以下、引用しておきたい(水沢澄夫 『広隆寺』中央公論美術出版 1965年 p.21より転記)。

 「・・・・この広隆寺の弥勒像には、真に完成され切った人間実存の最高の理念が、あますところなく表現されています。それは、この地上に於けるすべての時間的なものの束縛を超えて達し得た、人間存在の最も清浄な、最も円満な、最も永久な、姿のシンポルである思います。・・・・」
(篠原正瑛「敗戦の彼岸にあるもの」から)

http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-21.html

(若干の補論)

韓国三国新羅時代の菩薩半跏思惟像(7C;メトロポリタン美術館蔵)は、野中寺の弥勒菩薩像と見まごうばかりの逸品に見える(metropolitan museumのサイトからCollection Database →Asian Artのコーナーへ。http://www.metmuseum.org/Works_of_Art/collection_database/)。こうした比較研究は、目視ばかりでなく、CT技術による成分分析、CG技術による再現技術などの飛躍的な進歩もあって、これからもどんどんと新たな展開をみることだろう。

http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-126.html

この広隆寺弥勒菩薩半跏像についても、そうした意味で新たな発見があるかも知れない。あまり指摘されることはないが、この仏さまは明治期に修理をうけるが、修理前の当時の写真が残っていると聞く。たしか久野健氏の本で読んだが、修理前はもう少し茫洋な表情で、韓国金銅弥勒菩薩半跏像により似ていた可能性があるようだ。

あまりに近代的な、完全無欠ないまのご尊顔、表情に驚くわれわれだが、(言葉に語弊はあろうが)、今風にいえば一種の「プチ整形」が施されていたかも知れないというのが久野説であったと記憶する。そんなところも尽きぬ魅力の一端かも知れない。

****************

◆中宮寺 観音

広隆寺宝冠菩薩は、その不可思議さのなかに、歴史的、空間的、哲学的にみて、説明可能な具体的な事柄をある程度「埋め込む」ことができる。異論はあるのだろうが、歴史的な縁起もあり、空間的には日韓両国にまたがり、哲学的にもヤスパースなどの援用もある。

それとの対比で、この中宮寺菩薩半跏像は、そうした歴史的、空間(地勢)的なバックグラウンドがよくわからない。まずは寺の説明を見てみよう。

【以下は引用】
東洋美術における「考える像」で有名な、思惟半跏のこの像は、飛鳥時代の彫刻の最高傑作であると同時に、わが国美術史上、あるいは東洋上代芸術を語る場合にも欠かすことの出来ない地位を占める作品であります。また国際美術史学者間では、この像の顔の優しさを評して、数少い「古典的微笑(アルカイックスマイル)」の典型として高く評価され、エジプトのスフィンクス、レオナルド・ダ・ヴィンチ作のモナリザと並んで「世界の三つの微笑像」とも呼ばれております。
半跏の姿勢で左の足を垂れ、右の足を膝の上に置き、右手を曲げて、その指先きをほのかに頬に触れんばかりの優美な造形は、いかにも人間の救いをいかにせんと思惟されるにふさわしい清純な気品をたたえています。斑鳩の里に伝統千三百余年の法燈を継ぐ中宮寺の、この像は、その御本尊として永遠に私たちを見守ってくださるでしょう。
http://www.chuguji.jp/index.html

しかし、神秘的なベールに包まれていればいるほど好奇心は湧いてくるもの。中宮寺菩薩半跏像については、その工法についてふれられることが多い。クスノキでできているが、特殊な矧ぎ方をしており、木寄せの技法が駆使されている。

一木造りが主流だった時代に、部材をいくつも分けて、これを巧みに組み合わせてつくっている。そこから一木造りをするだけの十分なボリュームのとれなかった霊木があり、これを最大限生かして造像するために、こうした高度な木寄せを行なったのではないかと考える向きがおおい。それにしても、一体感は実に素晴らしく、そうした矧ぎをいれているようには全く見えない。仏師の技量はたいしたものであったことだろう。 
http://www.bunkaken.net/index.files/raisan/shodana/shodana117.htm

【以下は引用】
飛鳥時代の作。像高132.0cm(左脚を除く坐高は87.0cm)。広隆寺の弥勒菩薩半跏像とよく比較される。寺伝では如意輪観音だが、これは平安時代以降の名称で、当初は弥勒菩薩像として造立されたものと思われる。国宝指定の際の官報告示は単に「木造菩薩半跏像」である。材質はクスノキ材。一木造ではなく、頭部は前後2材、胴体の主要部は1材とし、これに両脚部を含む1材、台座の大部分を形成する1材などを矧ぎ合わせ、他にも小材を各所に挟む。両脚部材と台座部材は矧ぎ目を階段状に造るなど、特異な木寄せを行っている。本像の文献上の初出は建治元年(1275年)、定円の『太子曼荼羅講式』で、同書に「本尊救世観音」とあるのが本像にあたると考えられている。それ以前の伝来は不明である。現状は全身が黒ずんでいるが、足の裏などにわずかに残る痕跡から、当初は彩色され、別製の装身具を付けていたと思われる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AE%AE%E5%AF%BA

http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-159.html

さて、中宮寺菩薩半跏像の頭部の髻に注目してみる。後世の音声菩薩同様、双髻を結っている。当時のはやりのファッション、髪型であったのだろう。いまは黒漆の地肌で、ちょっと見ると銅像(ブロンズ)のように見えるが、漆のうえには金色の彩色があり、宝冠、胸飾りなどの荘厳もあったようだ。とすると、いまわれわれが拝顔する姿とはだいぶ印象が異なっていたろう。

当時、朝鮮および日本では菩薩半跏像はブームだった。いまでも類似の作品は小金銅仏として数多く残されている。仏師は、広隆寺宝冠菩薩を見ていたかどうかはわからないが、類似の基準作は手元においていたのではないかと思う。

広隆寺宝冠菩薩はユニ・セックス的、音声菩薩はかわいい童子のようだが、中宮寺菩薩半跏像は見るからに女性的である。尼寺のご本尊にはふさわしい。たとえば、聖徳太子の御母穴穂部間人皇后、あるいは聖徳太子の妃である橘大郎女を写したという伝説ができたとしても自然にも思える。

【以下は引用】
中宮寺は聖徳太子の御母穴穂部間人皇后の御願によって、太子の宮居斑鳩宮を中央にして、西の法隆寺と対照的な位置に創建された寺であります。その旧地は、現中宮寺の東方三丁の所に土壇として残っておりましたのを、発掘調査しましたところ、南に塔、北に金堂を配した四天王寺式配置伽藍であったことが確認され、それは丁度法隆寺旧地若草伽藍が四天王式であるのに応ずるものといえましょう。而もその出土古瓦から、法隆寺は僧寺、中宮寺は尼寺として初めから計画されたものと思われます。国宝菩薩半跏像(寺伝如意輪観音)はその金堂の本尊であり、天寿国曼荼羅は、その講堂本尊薬師如来像の背面に奉安されたものと伝えております。
http://www.chuguji.jp/about/index.html

****************

第3章 釈迦三尊像

武人たる太子の守護神だった四天王、現実政治での懊悩を克服せんとする弥勒菩薩、そして太子は死して神となる。そうした連想から以下を参照。

◆法隆寺金堂釈迦三尊像

【釈迦三尊】
 仏像配置の1形式である三尊仏の一種。釈迦如来を中心に,左に薬王菩薩,右に薬上菩薩,または左に文殊菩薩,右に普賢菩薩を配する。
  法隆寺金堂の本尊である釈迦三尊像は,鞍作鳥(止利仏師)が623年につくったものといわれ,左右対称の厳格な構成など,飛鳥彫刻の特徴を示す代表作であり国宝。
【鞍作鳥】
 7世紀初ごろ飛鳥時代の代表的な仏像彫刻師。渡来人で仏教をつたえたといわれる司馬達等の孫で,止利仏師ともいわれ,聖徳太子に用いられた。その作風には中国の北魏の影響が見られる。代表作に法隆寺金堂の釈迦三尊像がある。「鳥」は「止利」とも書く。
http://kids.gakken.co.jp/jiten/3/30024490.html

 さて、この釈迦三尊像については、恐るべきシンメトリーさが隠されている。その点を学生時代に少しく書いたことがある。また、光背などにみる文様分析もその時に囓った。意匠を見抜くには図版のほうが良い場合もあるが、法隆寺金堂から上御堂へ移座された釈迦三尊像をこの目でいくども観察して、その尊顔の素晴らしさに魅入りながら、この仏様には「稚拙さ」などとはほど遠い完成度が秘められていると感じた。止利(工房)の渾身の作であったことは間違いないが、この釈迦三尊と同じ(ないし類似)タイプの、より巨大なものも別に鋳られ、炎上前の(旧)法隆寺に鎮座したかも知れない。何故なら、同じ止利(工房)の飛鳥寺の釈迦仏の大きさとこの釈迦三尊の大きさは、「丈六」と言われてもあまりにも合わない。後者は抜群に優れているがあまりに小さく見える。
 鋳造された年月を信じるとしても、これはいまの法隆寺金堂のために造られたのではなく、有力な関連寺院に置かれた客仏で、金堂建立(再建)時に移設された可能性が高いというのが小生の勝手な意見であり、これについては以前も書いた。
 一種の<サンプル作>であるとすれば、あらゆる意味でさまざまな意匠を実験、積載しており、だからこそシンメトリーさや文様だけでなく、当時の粋を結集している、また、鋳直しの謎も解明できるのではないかと思う次第である。
 様式論にはあまり興味がないが、その尊顔の厳しさとともに角度によってかいま見せる慈しみの優しさ、また、後世の剥落の影響からか、全般に漂うほの寂しさなどの<複雑な印象>は、生前の聖徳太子を写したという伝説にリアリティを与える。その一方、険しくも高貴なお顔からは、既に人心をこえた超越的なものを感じさせずにはおかない。<神>を鋳てさらに仕上げて彫ったと言ってよいと思う。

中国とオランダ 章公祖師像

中国 章公祖師像

様々な影響が今後、気になる事案。ナショナリズムの発露、過去の簒奪(盗品など)についての考え方、文化と政治のありようなど考えるべき問題は多い。日本と韓国の関係にも一石を投じる可能性もある。

【以下は引用】

盗まれてオランダに渡った中国の仏像、中国が返還提訴

2017/3/15(水)7:00 NEWSポストセブン

 中国福建省の博物館から1995年に盗まれた仏像が「オランダのアムステルダムの博物館に所蔵されている仏像と同じだ」として、同省在住の博物館関係者が仏像の返還を求め、オランダ人所有者をアムステルダムの裁判所に訴えた。その第1回公判が今年7月に開かれることが分かった。「盗品」である文化財の返還を求めて、中国の関係者が海外で裁判を起こすのは極めて珍しい。

 ユネスコ(国際連合教育科学文化機関)によると、海外に流出している中国の文化財は167万件以上とみられており、今回の裁判の結果次第では、「盗品」の返還を求め、中国の関係機関による裁判ラッシュが起きることも懸念されている。香港の英字紙「サウスチャイナ・モーニング・ポスト」が報じた。

 中国側の主張によると、この仏像は福建省太田県陽春村の博物館に所蔵されていた「章公祖師像」という北宋時代 (960-1127年)に作成されたもの。

「章公」という僧侶は実在した人物で、医術の心得があり、住民が病気の時に治療をしたことで多くの人々の命を救ったとされる。住民から深く慕われており、章公が死んだ際、住民は彼をミイラにして、その身体に合わせて、すっぽりと金属で覆い金色の仏像を作ったとされる。

 それ以来、仏像は村民に受け継がれ、新中国建国後前後には博物館に展示されるようになったが、1995年には博物館から盗まれていた。

 ところが、この仏像と思われるものが2014年1月から8月までオランダのドレンテ博物館で展示された後、10月からハンガリーの自然史博物館で展示。そして、陽春村の博物館関係者が同展示会を見た際、「章公祖師像ではないか」と指摘。展示は2015年3月20日に中止され、オランダに戻された。

 仏像の所有者はアムステルダムの建築家で、1996年に約1万8100ユーロ(約235万円)で購入した。かつて1000万ユーロ(約13億円)で譲ってほしいという希望者もいたが、売らなかったという。「この仏像が本当に福建省から盗まれたものであるならば、返還しても良い」と述べている。

 その後、オランダ人所有者は「この仏像が盗まれたと中国側が主張する時期以前に、私はこの仏像をオランダで見たことがある。鑑定をするなどして、本当に盗品かどうかを証明してほしい」と反論。一転して、所有をめぐって中国側と争う姿勢に転換した。

 その結果、中国側がオランダの裁判所に訴え出て、裁判が開かれることになったという。

 中国から海外に流出した文化遺産の返還を求める動きは年々強まっているが、最も有名なのは円明園の12支像問題で、その一部がパリのオークションで競売にかけられ、中国側が返還を求めるなど国際問題に発展した。中国の文化財は、47カ国の約200カ所の博物館で展示されており、そうしたことも、今回の裁判が注目される理由でもある。
http://news.nicovideo.jp/watch/nw2688873

快慶展 奈良国立博物館

会計
特別展で展示される国宝「僧形八幡神坐像」

快慶作品がたくさん展示される。快慶の凄さの一端ー仏さまの豊かな頬、その薄い皮膚の質感を冴え冴えと彫れる天才である。次の快慶論も参照。

➡ 仏師 快慶論  意識した芸術家の横顔
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-426.html

【以下は引用】

傑作ずらり、「快慶」展…奈良国博で4月から

 奈良市の奈良国立博物館は22日、鎌倉時代の仏師・快慶の代表作を集めた特別展「快慶 日本人を魅了した仏のかたち」(読売新聞社など主催)を4月8日~6月4日に開くと発表した。

 鮮やかな彩色が残る「僧形八幡神坐像そうぎょうはちまんしんざぞう」(東大寺蔵)など国宝7件を含む88件を出展。うち37件は、銘文などから快慶が手がけたことが裏付けられており、快慶作と判明している作品のうち8割強が集う。

 快慶は、鎌倉彫刻の完成に大きな影響を与えたが、生没年など生涯については不明な点が多い。特別展では仏像のほか、作品成立にまつわる資料なども展示し、快慶の魅力や人物像に迫る。

 湯山賢一館長は「快慶作品がこれほど集まるのは初めて。快慶の魅力にふれてほしい」と話す。

 午前9時30分~午後5時(金、土曜は午後7時まで)。月曜休館(5月1日は開館)。観覧料金は一般1500円、高校大学生1000円、小・中学生500円。

 問い合わせは同館ハローダイヤル(050・5542・8600)。
http://www.narahaku.go.jp/exhibition/2017toku/kaikei/kaikei_index.html

2017年02月23日 Copyright © The Yomiuri Shimbun
http://www.yomiuri.co.jp/osaka/news/20170223-OYO1T50004.html

快慶の名品 ギャラリー(手元の画像のみ。今回の出展内容とは一部異なります)

日本の美術241 阿弥陀如来像 
東大寺 阿弥陀如来立像

金泥塗(きんでいぬり)に截金文様(きりかねもんよう)を表した髪際高(はっさいこう)3尺の立像。文献および足枘(あしほぞ)の刻銘と針書(はりがき)により、快慶を作者として建仁3年に完成した後、承元2年(1208)に截金を施したと見られる。頭部内に金属製の五輪塔が、像内右脚部に2巻の巻子(かんす)が納められている。

快慶 光台院 阿弥陀三尊
光台院 阿弥陀三尊

浄土寺阿弥陀三尊
浄土寺 阿弥陀三尊
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-293.html

快慶 耕林寺 宝冠阿弥陀如来坐像
耕林寺 宝冠阿弥陀如来坐像

快慶 大日如来 石山寺
石山寺 大日如来坐像 
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-338.html

快慶 西方寺 阿弥陀如来立像
西方寺 阿弥陀如来立像

木造 金泥塗・截金 像高98.5 cm
鎌倉時代(12~13世紀) 快慶作

足枘(あしほぞ)に「巧匠(梵字アン)阿弥陀仏」の墨書があり、無位時代の快慶の作とわかる。明快な表情や衣文の表現、体軀(たいく)の肉取りなどに、若々しい感覚が充溢する。袈裟(けさ)を左肩から紐で吊り、末端を左腕に懸ける表現は、快慶の三尺(さんじゃく)如来立像では本像のみ。

快慶地蔵菩薩立像
東大寺 地蔵菩薩立像
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-85.html

快慶 藤田美術館 地蔵菩薩立像
藤田美術館 地蔵菩薩立像
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-166.html

快慶 大圓寺 阿弥陀如来立像
大圓寺 阿弥陀如来立像

http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-272.html

快慶 釈迦如来立像
アメリカ・キンベル美術館 釈迦如来立像

木造 金泥塗・截金 像高81.8 cm
鎌倉時代(13世紀) 快慶作

表面の美しい金泥塗(きんでいぬり)や截金文様(きりかねもんよう)をよく残す保存状態の良い作品。足枘(あしほぞ)に「巧匠/法眼快慶」(/は改行)の墨書があり、快慶の比較的晩年に近い時期の作と見られる。光背は当初のもので、周縁部に春日四所明神(かすがししょみょうじん)の種子(しゅじ)を表すことから、春日大社ないし興福寺周辺に伝来したと推測される。

快慶 ボストン2
ボストン美術館 弥勒菩薩立像

内納入品により、文治5年に快慶が造立した弥勒菩薩立像であることが判明する。今日知られる快慶作品のうち最も制作年代が早い。もと奈良・興福寺に伝来した。平安時代後期の作風も残るが、みずみずしい肉取りには作者の若さが溢(あふ)れ出るかのようである。
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-317.html

快慶 金剛峯寺 四天王像
金剛峯寺 四天王像

髪際高(はっさいこう)(髪ぎわまでの高さ)で約4尺の四天王像のうちの2軀。広目天像の左足枘(あしほぞ)外側に「巧匠快慶/アン(梵字)阿弥陀仏」(/は改行)の刻銘がある。鎌倉再建期の東大寺大仏殿内に安置された巨大な四天王像と同図像の作品で、そのひな型として造られた可能性がある。

快慶 高野山霊宝館収蔵 深沙大将
高野山霊宝館収蔵 深沙大将
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-266.html
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-315.html

快慶木造騎獅文殊菩薩及脇侍像
安倍文殊院 騎獅文殊菩薩及脇侍像
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-430.html

【“快慶展 奈良国立博物館”の続きを読む】

テクノ法要

テクノ法要

お寺さんも少子高齢化、限界集落論などの動きのなかで、さまざまな取り組みを行っている。

【以下は引用】
プロジェクター投影&舞台照明で極楽浄土を表現!?
 「テクノ法要」実践の福井・照恩寺がクラウドファンディング


文化庁の『宗教年鑑』によると、仏教のお寺(宗教法人)の数は全国で約74000件。信者数は約4775万人とされていますが、その数は年々減少傾向にあり、一説によると2040年には30~40%のお寺が消える可能性があるとか。
そんな中、仏様の存在をより近しいものへとする斬新な取り組み、その名も「テクノ法要」が福井県福井市の浄土真宗本願寺派・照恩寺で実践されています。

照恩寺の朝倉行宣住職は、20代前半にはDJとして活動。YMOに影響を受けたと公言し、「細野(晴臣)さんの精神性の中に仏教を感じていた」といいます。また、Perfumeの「Dream Land」のパフォーマンスに特に感銘を受けたとして、その歌詞についても「阿弥陀様の気持ちを歌っているのではないかと感じるようなもの」と語り、妻の後押しもあり「テクノ法要」へと昇華したといいます。

『YouTube』では、2016年10月25日に勤めた「テクノ法要」がアップされており、その光に照らされる境内と仏様の様子、さらにはテクノ版のお経と木魚の音が一体となった映像を見ることができます。

照恩寺 テクノ法要 2016/10/25 – YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=8dmPCC5EYTQ

一見奇想天外ですが、その曼荼羅のような色彩豊かな世界観が展開され、サイバーな雰囲気の声明も違和感なく聞こえてくるように感じます。
なんでも、住職のお母さんも本番前日のリハーサルを観て「これはお浄土だわ」と納得し、お年寄りも「お浄土って奇麗やねぇ」という反応だったとか。
すでに照明などの機材に60万円費やしているという朝倉住職ですが、現在クラウドファンディングサイト『Readyfor』で2017年2月24日まで30万円の出資を募っています。資金はプロジェクター購入費、プロジェクションマッピング等ソフト、舞台照明機材などに充てるとのこと。

「阿弥陀仏は光の仏様」であり、「僧侶として大切なのは、仏の教えを伝えること。テクノ法要は単なる”客寄せパンダ”ではない」と力説する朝倉住職のクラウドファンディングが成功するのかどうか、音楽ファンの視点からも注目されます。

固定観念を崩せ!テクノ法要で仏教を身近にー照恩寺住職の挑戦(Readyfor)
https://readyfor.jp/projects/techno-hoyo

【対馬の盗難仏像判決】韓国専門家の相当数、日本返還求める 「国際的信用失墜させる」「略奪の確証なし」と断言

対馬市観音寺観世音菩薩(盗難品)

慰安婦像問題が片付かないさなか、とても不味いタイミングで以下の記事が配信されている。本ブログでも紹介してきたように、仏像についても文化交流で地道な関係者の努力がある一方で、そうした動きを台無しにするような、砂を噛むような事態が発生している。司法の権威が失墜すれば、その国の信頼は根底から揺らぐ。ことは小金銅仏の問題にとどまらないだろう。

【以下は引用】

【ソウル=名村隆寛】長崎県対馬市の観音寺から韓国人窃盗団が盗み出し、韓国に持ち込まれた「観世音菩薩坐像」を、元の所有権を主張する韓国中部・瑞山(ソサン)の浮石(プソク)寺に引き渡すよう命じた大田(テジョン)地裁の判決について、27日付の韓国紙は、日韓関係のさらなる悪化や、韓国の専門家の否定的な見方を伝えた。

 朝鮮日報は、韓国の専門家の相当数が「たとえ略奪された文化財であろうが、適法な手続きで返還せねばならない」と指摘していることに言及。「具体的な略奪、搬出の経緯が証明されずに(日本からの)盗品をを“略奪文化財”と認めたことで国際的な信用を失墜させるのはもちろん、今後日本などとの文化財交流に与える影響は小さくはない」とする西江大学教授の見方を紹介した。

 同紙によると、国際法の専門家は匿名で「略奪された確証がなく、韓国人が盗んできたことが明らかな文化財を『韓国のものだ』と主張するのは国益にならない」と述べたという。

 東亜日報は「韓国の文化財界では歓迎と憂慮が交錯している」とし、「判決により、韓日の文化財交流や日本国内の文化財の(韓国への)返還運動に多くの困難が出るだろう」とする複数の学者の見方を伝えた。

産経新聞記事

ギメ東洋美術館(パリ)蔵 勢至菩薩立像 里帰り

パリ ギメ東洋美術館 勢至菩薩
パリのギメ東洋美術館に渡った勢至菩薩

【以下は引用】
2017年1月24日12時02分

法隆寺からフランスに渡っていた仏さまが里帰りする。それも、寺宝調査の完成を祝うタイミングで。高田良信さんの念願が絶妙な形でかなうことになった。

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 1981(昭和56)年に始まった法隆寺昭和資財帳調査ですが、その編纂(へんさん)には時間的な限度があります。いつ打ち切るか、どこまでするか。絶対完全ということはありません。ひとつの区切りとして、94(平成6)年に完成を祝う「法隆寺昭和資財帳調査完成記念―国宝法隆寺展」を開催することになりました。

 千数百年来の仕事が完成したのだから思い切った出陳をしたいと、寺内に諮り、お許しを得ました。聖霊院のご本尊である聖徳太子坐像(ざぞう)も含め、ありとあらゆる寺宝を出させていただきました。

 念願だったのは、パリのギメ東洋美術館に渡った勢至菩薩(せいしぼさつ)像の里帰りを実現させ、本来安置されていた阿弥陀如来像と並んで展示したいということでした。それが実現したのは大変な喜びでした。2月28日のことです。また、同年末にはお身代わり像を金堂に安置することができました。

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《展示に先立ち、2月24日付の朝日新聞朝刊はこう伝えた。

 盗まれた法隆寺の菩薩像が120年ぶり里帰り

 奈良県斑鳩町・法隆寺の金堂から明治時代に盗まれてパリのギメ美術館で一九九一年三月、百十五年ぶりに見つかった阿弥陀如来座像の両側に立つ脇侍(きょうじ)の一体、「金銅・勢至菩薩立像(せいしぼさつりゅうぞう)」が里帰りし、二十三日、奈良市の奈良国立博物館で荷を解かれた。

 三月一日から同博物館で開かれる「法隆寺昭和資財帳調査完成記念―国宝法隆寺展」で、阿弥陀如来座像、観音菩薩立像(いずれも重文)とともに阿弥陀三尊像として展示される。三尊がそろって公開されるのは、勢至菩薩が姿を消したとみられる一八七六年以来。

 勢至菩薩は高さ約六十センチ。貞永元年(一二三二)、運慶の四男康勝(こうしょう)が造ったと、阿弥陀如来座像の光背の銘文などに記されている。》

http://www.asahi.com/articles/ASK1F55X5K1FPLZU002.html

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