大和古仏探訪

京阪神を中心に内外の古仏についていろいろと書いてみたいと思います。

空海と運慶 3

六波羅密寺 「弘法大師坐像」
木造弘法大師坐像 鎌倉時代 長快

7.六波羅密寺

六波羅密寺というのは、名前のとおり、狷介なる寺である。はじめて、そこを訪問したのは、はるかに昔のことだが、空也上人像を拝顔して、そのお姿のスーパーリアリズムと内から発せられた念仏表現のスーパーシンポリズムの表現ぶりに感激した。そのあとの混乱にみちた驚愕は、ここに、弘法大師がおあし、平清盛も、運慶も、湛慶も「同居」している不可思議さについてである。

川崎龍性「六波羅密寺の歴史と信仰」(『杉本苑子・川崎龍性 『六波羅密寺』 古寺巡礼京都25 1978年 淡交社)を読むと、この寺の数奇な来し方は複雑で、歴史に翻弄されつつも、したたかであり、宗派も天台宗から真言宗にかわるなどの変転がある。

さはあれど、いまここにおあす多くの、優れた仏像は、有名な地蔵菩薩像をふくめ慶派の影響が大きい。

【以下は引用(一部編集)】

六波羅密寺

京都市東山区にある真言宗智山派の寺。空也の創設といわれる。天台宗に属していたが,のち真言宗となった。空也上人立像をはじめ重要な美術品が収められている。 山号は、普陀落山。西国三十三所第17番札所。

寺域は京都の葬送地鳥辺野の入口で〈六道(ろくどう)の辻〉と呼ばれた地点にあり,古来葬送と死者追善の寺として庶民の信仰を集めてきた。963年(応和3)悪疫が流行した際、空也が建立した。当初は西光寺と称し,十一面観音像と脇士の二王・四王像を造立安置したという。977年(貞元2)中信が堂舎を修造し,寺号を六波羅蜜寺と改めて天台別院とし,法華八講や念仏を修して貴賤の信仰を集め,迎講(むかえこう)や地蔵講を行い,以後京都の諸人が講を行う寺として親しまれた。 平安後期の1110年(天永1)平正盛は六波羅蜜寺内に阿弥陀堂を建立したが,このころから六波羅の地名が多く行われるようになった。貞治年間(1362~1368)に再興され、真言宗に改宗。

この地は、源平時代には平家の一族の邸宅が建ち並び、鎌倉時代には六波羅探題が置かれていた。このため幾度か兵火にあい、応仁の乱(1467~77)にも焼失したが、豊臣氏、徳川氏の帰依(きえ)によって復興した。現に本堂は室町初期の建造物で、本尊十一面観音立像(秘仏。12年ごとの辰年に開扉)、脇侍の地蔵菩薩像、四天王像(以上、平安後期)、空也上人像(鎌倉時代)など(以上、国重要文化財)を安置している。このうち地蔵菩薩は「山送りの地蔵」「鬘掛(かずらかけ)の地蔵」として知られ、空也上人の立像は念仏を象徴した小さな阿弥陀仏像六体が口から出る形式のものとして有名である。そのほか、運慶・湛慶の自作と称する肖像彫刻や、平清盛の像と伝えられる僧形坐像、弘法大師坐像、吉祥天立像、閻魔王坐像(以上、国重要文化財)などがある。12月13~31日には空也踊躍(ゆうやく)念仏が行われる。

https://kotobank.jp/word/%E5%85%AD%E6%B3%A2%E7%BE%85%E8%9C%9C%E5%AF%BA-152681

◆仏像解説

<国宝>
・木造十一面観音立像平安時代。10世紀頃の作風を示し、伝承のとおり、951年に空也が創建した西光寺の本尊像であると思われる。本堂中央の厨子に安置され、12年に一度辰年にのみ開帳される秘仏である。像高258cmの巨像でありながら、頭・体の根幹部を一材から彫り出す一木造とする。表情は温和であり、平安前期彫刻から平安後期の和様彫刻に至る過渡期を代表する作例である。歴史的にも重要な作例として1999年、国宝に指定された。

<重要文化財>
・本堂木造空也上人立像鎌倉時代、運慶の四男・康勝の作。僧侶の肖像彫刻は坐像に表すものが多いが、本像はわらじ履きで歩く空也の姿を表している。疫病が蔓延していた京の街中を、空也が鉦(かね)を鳴らし、念仏を唱えながら悪疫退散を祈りつつ歩くさまを迫真の描写力で表現している。空也は首から鉦を下げ、右手には鉦を叩くための撞木(しゅもく)、左手には鹿の角のついた杖をもっている。空也の口からは6体の阿弥陀仏の小像が吐き出されている。6体の阿弥陀仏は「南無阿弥陀仏」の6字を象徴し、念仏を唱えるさまを視覚的に表現している。六体の小像は針金でつながっている。

・木造僧形坐像(伝・平清盛像)鎌倉時代。平清盛とされる経を持った僧形の像である。木造地蔵菩薩坐像鎌倉時代。銘文はないが、寺伝、作風等から運慶作とされる像。運慶一族の菩提寺である地蔵十輪院から移されたとする伝承がある。理知的でさわやかな表情、切れ味するどい衣文などから運慶作とする説がある。

・木造伝・運慶坐像、伝・湛慶坐像鎌倉時代。日本仏像彫刻史上もっとも有名な仏師親子の肖像彫刻とされている。精悍な伝・湛慶像と、老いてまだまだ盛んな巨匠といった風貌の伝・運慶像とそれぞれの個性が表現されている。前記の地蔵菩薩坐像とともに地蔵十輪院に伝わった。

・木造四天王立像平安時代。本尊の十一面観音像とともに、空也による創建期の遺作である。宝物収蔵庫には4体のうちの持国天像と増長天像が安置され、残りの広目天像と多聞天像は京都国立博物館に寄託されている。4体のうち、増長天像のみは鎌倉時代の補作である。木造薬師如来坐像平安時代。天台様式がみられ、中信による中興時の像と考えられる。

・木造地蔵菩薩立像平安時代。六波羅地蔵堂に安置されていた。左手に頭髪を持ち、鬘掛(かつらかけ)地蔵と呼ばれ信仰されている。『今昔物語集』にもこの像に関する説話が取り上げられるなど、古来著名な像である。

・木造弘法大師坐像鎌倉時代。快慶の弟子長快 (仏師)の作

・木造閻魔王坐像鎌倉時代木造吉祥天立像鎌倉時代
その他、重要有形民俗文化財として、泥塔、皇服茶碗、版木、萬燈会関係用具二千百余点などがある。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E6%B3%A2%E7%BE%85%E8%9C%9C%E5%AF%BA

龍樹について
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-453.html

研究論文 - 神戸大学人文学研究科 三宅久雄氏の論文
http://www.lit.kobe-u.ac.jp/art-history/ronshu/10-1.pdf

8.長快

弘法大師坐像の製作者は快慶の後継者たる長快である。先にみたとおり、弘法大師坐像のベンチマークは、運慶の第4子、康勝の手になる東寺像だが、快慶一門でもこうした優れた作例を残しているのである。両像の作風は異なり、剛毅な康勝、柔和な長快といった要約をすると、いかにも運慶と快慶のステロタイプ化した相違を安易に連想しがちだが、小生は、むしろ施主の要望の反映の要素が強いという考え方をとる。

【以下は引用】

長快(ちょうかい、生没年未詳)は、 鎌倉時代の慶派仏師。

<略歴>

阿弥号は定阿弥陀仏。快慶の弟子だが、湛慶も補佐し法橋位を得たという。1256年(建長8年)、湛慶に従い奈良東大寺講堂で文殊菩薩像を制作したが現存しない。(この時、兄弟子の栄快が地蔵菩薩像を制作した。)蓮華王院本堂の千体千手観音のうち28体に1256年(建長8年)に長快が実験した旨を示す銘があり、もう1体には長快自身が結縁した銘がある。また、蓮華王院から移されたとみられる朝光寺の像にも「実検了/長快」の銘がある。

<現存作品>

・「弘法大師像」 六波羅蜜寺蔵 制作時期不明
・「木造十一面観音立像」 パラミタミュージアム蔵 1256年(建長8年)以前の作。右足柄の外側に「巧匠定阿弥陀佛長快」銘。師・快慶作の長谷寺の本尊・十一面観音像(現存せず)を8分の1のサイズで忠実に模刻したもので、長谷観音の余材で作られた。もとは、興福寺禅定院観音堂本像であった可能性が高い。

(今日はここまで)

空海と運慶 2

弘法大師像天福元年・1233康勝作)

6.康勝

康勝は運慶の息子で、運慶工房の優れた担い手であった。その康勝の代表作といわれるのが、東寺の弘法大師座像である。この坐像はその後の大師像のベンチマークとなる。しかも、この像の存在によって、東寺は空海所縁の寺として、弘法大師信仰の京都における拠点として復活するのである。このことは東寺の歴史を紐解くとたしかに刻まれている。

そう考えると、運慶一門の修復によって、東寺講堂の諸像が蘇り、それに続いて康勝によって東寺そのものの存在が高まったということになる。空海と運慶 ー 空海が請来し、また世に送った平安初期の仏像によって運慶は多くを学び、その後、自身の作風を作りあげた。一方、親子二代、運慶一門の「彫技」によって、空海の重要な拠点が再興されたことの意義は大きい。

【以下は引用】
康勝(こうしょう、生没年不詳)は、日本の鎌倉時代の仏師。運慶の四男。湛慶は兄。慶派。

<略伝>

建久8 - 9年(1197 - 1198年)、東寺南大門の金剛力士(仁王)像(明治時代初頭に焼失し現存せず)の造立に運慶らとともに携わったのが、史料上の初見である。運慶が一門の仏師を率いて建暦2年(1212年)に完成させた興福寺北円堂復興造仏にあたっては、四天王のうちの多聞天像を担当しているが、この四天王像は現在、所在不明である(現在、興福寺北円堂に安置する四天王像は全く時代の違う平安時代初期のもの)。

現存する康勝の作品としては、日本の肖像彫刻として屈指の著名作である空也上人像(六波羅蜜寺蔵)、後世の弘法大師像の規範となった東寺御影堂の弘法大師(空海)像(『東宝記』に「仏師康勝法眼作」の記述あり)などがある

東大寺念仏堂の地蔵菩薩坐像(康清作)の銘記から、この像は運慶と康勝の尊霊のために造られ、嘉禎3年(1237年)より以前に康勝が没していることが知られる。子に、康誉、康清。

<作品>

六波羅蜜寺 空也上人像六波羅蜜寺 空也上人立像(重要文化財) - 制作年不明だが、銘から法橋に叙される前の初期作。口から6体の阿弥陀仏の小像を吐き出している特異な姿の像。6体の阿弥陀仏は「南無阿弥陀仏」の6字が仏と化したことを意味する。
・法隆寺金堂西の間 阿弥陀三尊像(銅造、重要文化財) - 貞永元年(1232年)。「法橋康勝」銘あり。当初安置されていた阿弥陀三尊像が盗難にあった後、飛鳥様式を模して造られた像。両脇侍のうち勢至菩薩像は明治時代初期に寺から流出して、パリのギメ東洋美術館の所蔵となっている。
東寺御影堂 弘法大師坐像(国宝) - 天福元年(1233年)
・推定作円成寺四天王像(重要文化財) - 建保5年(1217年)

<参考資料>
伊藤史朗 『日本の美術535 京都の鎌倉時代彫刻』 ぎょうせい、2011年 ISBN 978-4-324-08744-2
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%B7%E5%8B%9D

東寺の歴史
http://kousin242.sakura.ne.jp/wordpress016/%E7%BE%8E%E8%A1%93/%E7%BE%8E%E8%A1%93%E5%8F%B2/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%BE%8E%E8%A1%93/%E5%A5%88%E8%89%AF%E6%99%82%E4%BB%A3/%E6%9D%B1%E5%AF%BA%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2/

伊藤史朗氏の論文として、以下も参照
http://www.kyohaku.go.jp/jp/pdf/gaiyou/gakusou/6/006_ronbun_c.pdf

空也上人像(康勝)

空海と運慶 1

運慶 円城寺

1.円成寺

円成寺の有名な大日如来坐像。運慶初期の秀作である。その円成寺とは? 以下は同寺のHPからの引用

「創建については諸説あります。当山に伝わる『和州忍辱山円成寺縁起』(江戸時代)によると、天平勝宝8年(756)聖武上皇・孝謙天皇の勅願で、鑑真和上の弟子、唐僧虚滝和尚の開山であるとされていますが、同書のなかで中興の祖とされている命禅上人が、万寿3年(1026)、この地に十一面観音像を安置したのが始まりのようです。
天永3年(1112)には、「小田原聖」と呼ばれた経源(迎接上人・京都南山城の随願寺もしくは浄瑠璃寺の僧)が、阿弥陀堂を建て、阿弥陀如来像を安置し、仁平3年(1153)、広隆寺別当、東寺長者、高野山管長、東大寺別当を歴任した京都御室仁和寺の寛遍上人が忍辱山に登り、真言宗の一派忍辱山流を始めるに及び当山の基礎が築かれました。」
http://www.enjyouji.jp/about/index.html

真言宗の開祖は空海。運慶の実質デビュー作は真言宗の最高神、大日如来坐像であり、それを定めたのは空海である。

2.寛遍上人

円成寺の大日如来坐像は安元2年(1176年)に完成したとされる。運慶の生年は不詳だが、二十歳頃からの作像との説がある。仮に1150年頃の生まれとすれば、勧進元の上記、寛遍上人から直接の依頼があったかも知れない。以下は、寛遍上人についての引用。

「寛遍(かんぺん、康和2年(1100年) - 永万2年6月30日(1166年7月28日))は、平安時代後期の真言宗の僧。父は大納言源師忠。尊勝院大僧正・忍辱山大僧正とも称される。
山城国円教寺の寛蓮に師事して出家し、寛助に灌頂を受けた。その後大和国忍辱山円成寺を再興し、一字金輪法を日課とした。広隆寺別当・東寺長者・東寺法務・東大寺別当・仁和寺別当・円教寺別当を歴任し、1161年(応保元年)大僧正に至った。この間には、高野山大塔落慶供養の導師をつとめ、また、尊寿院を建立し、鳥羽天皇の皇后美福門院(藤原得子)が寄進した「御手印縁起」を尊寿院におさめた。事相にすぐれ、その後忍辱山流の祖とされる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%9B%E9%81%8D

寛遍は真言宗の高僧であり、空海の教えを継ぐ者であったことがわかる。かつ、広隆寺、東寺、東大寺、仁和寺、円教寺、高野山と深き関係があったとされる。その後の運慶の足跡とかさなる有力寺院がここに含まれている。

3.東寺(教王護国寺)

運慶と東寺との関係。運慶は建久8(1197)年5月から翌年9月にかけて、文覚上人の勧進により、数十人の小仏師を率いて東寺講堂の五仏・五菩薩・五大尊・梵天・帝釈天・四天王像の大修理を行った。いかに東寺との関係が深かったかを知ることができる。その東寺については言わずとしれた空海の創建である。以下は引用。

「東寺は平安京鎮護のための官寺として建立が始められた後、嵯峨天皇より空海(弘法大師)に下賜され、真言密教の根本道場として栄えた。中世以降の東寺は弘法大師に対する信仰の高まりとともに「お大師様の寺」として庶民の信仰を集めるようになり、21世紀の今日も京都の代表的な名所として存続している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%AF%BA

4.文覚上人

文覚は源頼朝と寝食を共にした、鎌倉幕府成立に深くかかわった武士にして真言宗僧侶。ここでは、源頼朝―文覚―運慶を線で結んでおこう。文覚の関係寺院として、以下も参照。

「頼朝が平氏や奥州藤原氏を討滅し、権力を掌握していく過程で、頼朝や後白河法皇の庇護を受けて神護寺、東寺、高野山大塔、東大寺、江の島弁財天など、各地の寺院を勧請し、所領を回復したり建物を修復した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E8%A6%9A

5.高野山(金剛峰寺)

高野山には運慶の有名作が保管されている。以下を参照。
http://www.reihokan.or.jp/syuzohin/cyokoku.html

なにわの仏教美術、順次公開 独自の神仏習合映す

大阪 渡来人マップ

面白い記事なのでピックアップ。上記は http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-449.html から。
ご参考まで。

【以下は引用】

 大阪市教委が今年度を通して、市内に点在する古寺の仏教美術を特別公開する催しを始める。数々の存亡の危機を乗り越えた多彩な仏画や仏像を順次公開する。

運慶と快慶、奈良・東京で展覧会

 大阪市内には千を超す寺院があるという。だが、江戸時代の「三大大火」や、1945年の大阪大空襲などで何度も被災。明治時代の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の影響もあり、寺宝も大半が失われたとみられていた。

 一方、近年の市教委の調査で、200点を超す仏教美術が各寺に残っていることが判明。それらを7回程度、現地の寺や「辰野ひらのまちギャラリー」(中央区平野町1丁目)で期間限定でみせる。

 1回目(30日~7月5日)は、このギャラリーで各寺社の仏画を紹介。市指定文化財を中心に、室町から江戸時代までの十数点を公開する。「刺繡(ししゅう)青面(しょうめん)金剛画像」(四天王寺蔵)は、長寿や息災を願う道教由来の「庚申(こうしん)信仰」の本尊。杭全(くまた)神社蔵の「牛頭(ごず)天王画像」は元々、インドの祇園精舎の守護神だ。

 2回目(7月9~11日)は「天下茶屋の聖天さん」で知られる正圓(しょうえん)寺(阿倍野区松虫通3丁目)で、江戸時代の珍しい仏像群二十数点を見せる。「木造天川弁才天(てんかわべんざいてん)曼荼羅(まんだら)」の異形さが際立つ。厨子(ずし)の中に水神の化身・ヘビ、童子や宝珠などがひしめく。赤い体に忿怒(ふんぬ)の顔の彫像は愛染明王にも見えるが、カメに乗って立つ「木造童子形男神(どうじぎょうだんしん)立像(りゅうぞう)」という。

 この2回には共通テーマがある。日本古来の神々への信仰と、伝来した仏教とが融合した「神仏習合」。市教委の鈴木慎一研究副主幹は「四天王寺や住吉大社など、大阪は神仏習合の影響を受けた信仰拠点だった。色々な信仰がまじり、独自性をもった仏像や仏画も伝来している」と言う。

 3回目以降は東大寺(住吉区)、金台(こんたい)寺(天王寺区)、三津寺(中央区)でも寺宝を公開予定。辰野ひらのまちギャラリーでは、大坂(石山)本願寺の前身の御坊を築いた蓮如をテーマにした展示も構想中だ。大阪には宗教都市の歴史もあることを学べる構成になる。

 1、2回目は午後1~4時。市教委学芸員の解説もある。朝日新聞社など共催。資料代として1回100円(学生無料)。市教委文化財保護課(06・6208・9168)。(清水謙司)
http://www.asahi.com/articles/ASK6K4QWHK6KPLZL001.html

かんなみ仏の里美術館 重文の仏像、修復開始

◆さくら 富士山

仏の里美術館開館(静岡県函南町)について
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-313.html

【以下は引用】
重文の仏像、修復開始 本来の姿へ 函南の美術館
(2017/5/21 08:08)

 函南町桑原のかんなみ仏の里美術館が所蔵している国指定重要文化財「阿弥陀如来及両脇侍像」の修復作業がこのほど始まった。仏像の一部は一時、行方が分からなくなっていた左腕をつなぎ直すなどの工程を予定していて「全国的にも珍しく、大がかりな作業」(文化庁)という。
 同文化財は鎌倉時代に慶派の仏師実慶が制作した阿弥陀如来坐像と勢至菩薩立像、観音菩薩立像の3体で、800年にわたって地元住民が地域の宝として大切に守り続けてきた。鈴木勝彦館長は「後世に伝えたいという先人の思いの積み重ねが今の修理につながっている。本来の姿に戻し、200年、300年先まで見られるようにしたい」と話した。
 3体はいずれも漆が剝がれ、カビが生えるなど劣化が激しい。同美術館で行った修復では文化庁文化財調査官の指導の下、技術者がアクリル樹脂を塗って剝落止めを施したり、ほこりを除去したりした。

 左腕が亡失していたのは観音菩薩立像。同館で行っている仏像の修復事業で、1年ほど前、別の像につけられていた腕が観音菩薩立像のものと判明した。奈良国立博物館文化財保存修理所(奈良県)に持ち込んで今後、約10カ月掛けて修復するという。同様に傷みがひどかった阿弥陀如来坐像の台座も同修理所に運び入れる。
 3体の仏像が再びそろって同美術館に展示されるのは来年3月ごろになる見込み。

 <メモ>阿弥陀如来坐像の首の内側に「大仏師実慶」の墨書があり、両脇侍像の顔から首の内側に「仏師実慶」との朱書きがあることから、実慶の作と判明した。同像は鎌倉幕府の正史とされる「吾妻鏡」の記録から、鎌倉幕府初代執権の北条時政が戦死した嫡男宗時の霊を弔うため制作を命じたという説が有力だが、地元では源頼朝が造らせたと伝えられている。

http://www.at-s.com/news/article/culture/shizuoka/361518.html

木×仏像(きとぶつぞう)-飛鳥仏から円空へ 日本の木彫仏1000年 見どころ

唐招提寺 薬師立像
重要文化財 木造 薬師如来立像 奈良時代(8世紀) 奈良・唐招提寺

まず、いくつかの展示会の紹介文から。

【以下は引用】
◆【木×仏像】360度で魅了 木彫仏70体を展示

古代から近世まで木で彫られた日本の仏像の歴史をたどる「木×仏像-飛鳥仏から円空へ 日本の木彫仏1000年」(産経新聞社など主催)が8日から大阪市天王寺区の大阪市立美術館で開催される。7日は開会式・内覧会が行われた。

 古来、人間の寿命をはるかに超えた長い時間、風雪に耐えながら立ち続ける樹木に畏敬の念を抱いてきた日本人は、身近で手に入りやすい木を、仏像という祈りの対象の素材として用いてきた。

 約70体で構成される今回の展示は、時代ごとに変わる木材の種類に着目。さらに、造り方や形状がわかりやすいよう、360度どこからでも見られる配置にした。このため、飛鳥時代の「菩薩立像」は横から見ると意外に薄いこと、割れた顔から十一面観音が現れる「宝誌和尚立像」には背後下部に丸い穴があることなども確認できる。

 「いろいろなお寺に宗派を超えて仏像をお出しいただき、充実した展覧会になった」と斎藤龍一・主任学芸員。6月4日まで。
http://www.sankei.com/west/news/170407/wst1704070076-n1.html

◆大阪で、日本の木彫仏1000年の技法展 

「大阪市立美術館」(大阪市天王寺区)で、ユニークな切り口の仏教美術展「木×仏像」が、6月4日までおこなわれています。

仏像の中でも木彫仏に着目し、飛鳥時代から江戸時代まで約1000年の流れをたどるもの。通常、仏像の展覧会は、時代、様式、仏師をテーマに構成されますが、本展のキモは技法や木の種類などです。たとえば技法では、飛鳥時代から平安時代初期までは「一木造(いちぼくづくり)」といって、頭部と体幹部を1本の木から作りました。しかしこの方法には、木材の外側と内側の乾燥度の違いから「干割れ」を起こしやすい欠点があります。そこで像の内部を削る「内刳り」(「背刳り」とも)がおこなわれるようになり、平安時代初期から後期には、仏像を割り、内刳りを施して再接合する「割矧造(わりはぎづくり)」が生まれました。そして平安時代後期になると、複数の部材を組み合わせる「寄木造(よせぎづくり)」へと発展するのです。

技法の進化に伴って使用される木材も、クス(飛鳥・白鳳時代)からカヤ(奈良時代〜平安時代初期)へと変化し、それ以降は主にヒノキを使用する一方、ケヤキ、クス、サクラ、カツラも用いられています。また、霊木や寺社の古材を用いることで、仏像の霊威を高めることもおこなわれました。

本展では、そうした木彫仏の変遷を、主に地元関西の寺院から拝借した55件で紹介しています。頭でっかちのプロポーションが可愛らしい「菩薩立像」、内刳りの様子が分かる「観音菩薩立像」、裂けた顔の下から本来の姿が現れる瞬間を表現した「宝誌和尚立像」など、個性的な仏像が沢山見られるので、マニアならずとも見逃せません。仏像と観客の目線が合うように高さを調整した展示台、陰影を強調して仏像の立体感を伝える照明、360度あらゆる位置から仏像を鑑賞できる配置(担当学芸員の齋藤龍一氏談)など、展示の妙にも注目を。そして最後の展示室では「立体曼陀羅」を思わせる華やかなフィナーレが待ち受けており、観客を驚きと陶酔の世界に導いてくれます。期間は6月4日まで、一般1300円ほか。
https://www.lmaga.jp/news/2017/04/23382/

大阪市美術館 日本の木彫仏1000年の技法展

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関西の仏像集積の分厚さを感じさせる展示会である。関西在勤中に感じたことだが、関西では平安時代の仏像など古仏に、有名でない寺院でも思いがけずお目にかかれる。今回の展示会でも、四天王寺、大門寺、河合寺など大阪の諸寺から半数以上、多くの出品がある。本展の大きな特色だろう。一方で、東博、奈良博からの出品があるのに、京博や京都有力寺院からはない。とても良い企画展なのに何故かなと思う。

【大阪市立美術館】
3 塑造 菩薩立像 Standing Bosatsu, Skt. Bodhisattava 奈良時代・8世紀 Nara period, 8th century 
4 塑造 供養者上半身像 Upper Part of Body of Attendant 奈良時代・8世紀  8th century 
5 木造 塑像心木 Core Wood of Clay Statue 奈良時代・8世紀  8th century 
28 木造 大日如来坐像 Seated Dainichi Nyorai, Skt. Mahāvairocana 10~11世紀 
32 木造 飛天像 Hiten, Flying Apsaras 12世紀
33 木造 聖観音菩薩立像 Standing Sho-kannnon Bosatsu, Skt. Avalokiteśvara 12世紀 
50 木造 薬師如来立像 Standing Yakushi Nyorai, Skt. Bhaiṣajyaguru 江戸時代・17世紀 
<参考> 木造 釈迦如来坐像 Seated Shaka Nyorai, Skt. Śākyamuni 江戸時代・18世紀

【大阪・四天王寺】
9 ◎ 木造 阿弥陀三尊像 Amida Triad, Skt. Amitābha Triad 9世紀 9th century 
31 ◎木造 千手観音・二天像箱仏 Portable Shrine with Thousand-armed Kannnon, Skt Sahasra-bhuja Avalokiteśvara and Two Guardian Kings 12世紀 
43 木造 十一面観音菩薩立像 Standing Eleven-headed Kannon, Skt. Ekādaśamukha Avalokiteśvara 13世紀
45 木造 伝聖徳太子坐像 Seated Youthful Deity(Called Prince Shotoku) 13~14世紀 
46 木造 大日如来坐像 Seated Dainichi Nyorai, Skt. Mahāvairocana 14世紀 

【東京藝術大学大学美術館】
2 木造 天王立像 Standing Guardian King 飛鳥時代・7世紀 Asuka period, 7th century 
19 木造 不空羂索観音菩薩立像 Standing Fukukenzaku Kannon, Skt. Moghapāśa 10~11世紀 
54 木造 仏像寄木法標本(如来坐像) Sample of Statue of Seated Buddha by Joined Wood Block Construction 伊藤礼太郎
By Reitaro Ito 昭和23年(1948)
55 木造 仏像寄木法標本(菩薩立像) Sample of Statue of Standing Boddhisattava by Joined Wood Block Construction 伊藤礼太郎 By Reitaro Ito 昭和23年(1948)
 
【東京国立博物館】
1 木造 菩薩立像 Standing Bosatsu, Skt. Bodhisattava 飛鳥時代・7世紀 Asuka period, 7th century 
39 ◎ 木造 阿弥陀如来立像 Standing Amida Nyorai, Skt. Amitābha 永仙 By Eisen 正嘉3年(1259) 

【奈良国立博物館】
41 ◎ 木造 釈迦如来立像 Standing Shaka Nyorai, Skt. Śākyamuni 玄海 By Genkai 文永10年(1273) 

【奈良・新薬師寺】
37 木造 阿弥陀如来坐像 Seated Amida Nyorai, Skt. Amitābha 13世紀 
40 木造 四天王立像 Standing Four Guardian Kings 文永6年(1269) 
49 木造 賓頭廬尊者坐像 Seated Binzuru, Skt. Piṇḍola Bhāradvāja 室町時代・永正11年(1514) Muromachi period, 1514(Eisho 11) 

【奈良・薬師寺】
14 ◎ 木造 地蔵菩薩立像 Standing Jizo Bosatsu, Skt. Kṣitigarbha 10世紀 
23 ◎木造 吉祥天立像 Standing Kichijo Ten, Skt. Mahāśrī 11~12世紀 

【奈良・唐招提寺】
6 ◎ 木造 薬師如来立像 Standing Yakushi Nyorai, Skt. Bhaiṣajyaguru 奈良時代・8世紀 8th century 
7 ◎木造 伝獅子吼菩薩立像 Standing Bosatsu,Skt. Bodhisattava (Skt. Amoghapāśa) 8世紀 

【奈良・東大寺】
8 ◉ 木造 弥勒如来坐像《試の大仏》 Seated Miroku Buddha, Skt. Maitreya 8~9世紀 

【大阪・大門寺】
34 ◎ 木造 四天王立像 Standing Four Guardian Kings 12世紀 
35 木造 阿弥陀如来坐像 Seated Amida Nyorai, Skt. Amitābha 12世紀 
48 木造 蔵王権現立像 Standing Zao Gongen Deity 南北朝時代・14世紀 Nambokucho period, 14th century 

【大阪・河合寺】
20 ◎ 木造 持国天立像 Standing Jikoku Ten, Skt. Dhṛtarāṣṭra 11~12世紀
21 ◎ 木造 多聞天立像 Standing Tamon Ten, Skt. Vaiśravaṇa 11~12世紀 

【滋賀・櫟野寺】
24 ◎木造 十一面観音菩薩立像 Standing Eleven-headed Kannon, Skt. Ekādaśamukha Avalokiteśvara 11世紀 
25 ◎木造 観音菩薩立像 Standing Kannon Bosatsu, Skt. Avalokiteśvara 12世紀 
26 ◎木造 観音菩薩立像 Standing Kannon Bosatsu, Skt. Avalokiteśvara 12世紀
27 ◎木造 釈迦如来坐像 Seated Shaka Nyorai, Skt. Śākyamuni 11~12世紀 大阪・東光院

【兵庫・太山寺】
29 木造 不動明王立像 Standing Fudo Myoo, Skt. Acalanātha 12世紀 
47 木造 普賢菩薩騎象像 Fugen Bosatsu, Skt. Samantabhadra seated on an Elepfant 南北朝時代・14世紀

【大阪の諸寺】
11 ◎木造 十一面観音菩薩立像 Standing Eleven-headed Kannon, Skt. Ekādaśamukha Avalokiteśvara 9世紀 大阪・長圓寺
12 木造 伝聖徳太子坐像 Seated Shinto Deity(Called Prince Shotoku) 9~10世紀 大阪・若山神社
13 ◎ 木造 虚空蔵菩薩立像 Standing Kokuzo Bosatsu, Skt. Ākāśagarbha 10世紀 大阪・孝恩寺
15 木造 地蔵菩薩立像 Standing Jizo Bosatsu, Skt. Kṣitigarbha 10世紀 大阪・蓮花寺
16 木造 地蔵菩薩立像 Standing Jizo Bosatsu, Skt. Kṣitigarbha 10世紀 大阪・三津寺
17 木造 地蔵菩薩立像《あごなし地蔵》 Standing Jizo Bosatsu, Skt. Kṣitigarbha (Called Skt. Kṣitigarbha without Chin) 10世紀大阪・和光寺
36 ◎ 木造 阿弥陀如来坐像 Seated Amida Nyorai, Skt. Amitābha 鎌倉時代・13世紀 大阪・専修寺
42 木造 釈迦如来立像 Standing Shaka Nyorai, Skt. Śākyamuni 13世紀 大阪・来迎寺 
44 木造 閻魔王坐像 Seated King Enma, Skt. Yama-rāja 13世紀 13th century 大阪・正明寺
53 木造 大元帥明王像頭部 Head of Taigen Myoo, Skt. Āṭavaka 北川運長 By Uncho Kitagawa 元禄14年(1701)大阪・延命寺

【その他の諸寺など】
10 ◎ 木造 薬師如来坐像 Seated Yakushi Nyorai, Skt. Bhaiṣajyaguru 9世紀 奈良・宮古薬師堂
18 ◎ 木造 宝誌和尚立像 Standing Priest Hoshi 平安時代・11世紀 Heian period, 11th century 京都・西往寺
22 木造 二天立像 Standing Two Guardian Kings 11世紀 京都・成相寺 
30 ◎木造 十一面観音菩薩立像 Standing Eleven-headed Kannon, Skt. Ekādaśamukha Avalokiteśvara 12世紀 滋賀・誓光寺
38 ◎ 木造 地蔵菩薩立像 Standing Jizo Bosatsu, Skt. Kṣitigarbha 快成 By Kaijo 建長8年(1256) 奈良・春覚寺
51 木造 十一面観音菩薩立像 Standing Eleven-headed Kannon, Skt. Ekādaśamukha Avalokiteśvara 円空 By Enku 江戸時代・17世紀 Edo period, 17th century
52 木造 秋葉権現三尊像 Akiba Gongen Triad 円空 By Enku 江戸時代・17世紀 Edo period, 17th century

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大阪市美術館 日本の木彫仏1000年の技法展 2
滋賀・櫟野寺 観音菩薩立像 平安時代(12世紀)
https://www.lmaga.jp/news/2017/04/23382/

◆特別展「平安の秘仏―滋賀・櫟野寺の大観音とみほとけたち」
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-481.html
で拝観した櫟野寺の一部の仏さまが、大阪にも出開帳しておられる。

◆帰化人の問題3ー四天王寺
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-129.html
で書いたとおり、四天王寺には多くの寺宝がある。今回の出展でもその一部を観ることができる。

◆東京藝術大学 2013年度研究報告発表展
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-405.html
東京藝術大学美術館にもよく足をはこぶ。関西の各寺との関係を深めており、素晴らしい企画展も多い。そうした観点からか、今回の展示会でも積極的な協力姿勢がうかがえる。

◆大阪市美術館探訪
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-65.html
最後に大阪市美術館について。この美術館は一見、地味だがその収蔵品は充実している。今回の展示も目のつけどころも良いし、啓蒙普及の視点もある。だからこそ、オール関西で、もっと盛り上がるようなラインナップが組めたらと思う。また一方で、予算の制約などもあるかも知れないが、HPでの情報公開や展示のストーリー性への訴求がやや弱い気もする。

ひょうごの美(み)ほとけ-五国を照らす仏像-

圓龍寺観音立像
兵庫県指定文化財 銅造菩薩立像 (白鳳時代)/朝来市圓龍寺蔵
https://www.hyogo-c.ed.jp/~rekihaku-bo/official/ex-2017-sp1.html

ひょうごの美(み)ほとけ-五国を照らす仏像-

【以下は引用】
兵庫の仏像70体一堂、国重文も 姫路で特別展

兵庫県内の仏像を集めた特別展「ひょうごの美(み)ほとけ-五国を照らす仏像」(神戸新聞社など主催)が22日、姫路市本町の県立歴史博物館で始まった。国の重要文化財など約70体を一堂に披露し、うち半数が展示施設では初公開になる。6月4日まで。

 同館は1984、91年に仏像展を開催。今回は前回の展示以降、新たに確認された仏像も数多く加え、白鳳(はくほう)時代-江戸時代の順に紹介した。

 同市書写の書写山円教寺の「毘沙門天(びしゃもんてん)立像」は展示施設初公開。丹波市山南町の岡本区が管理する「薬師如来坐像(ざぞう)」は本来33年に1度しか開帳されないが、今回特別に公開が実現した。
https://www.kobe-np.co.jp/news/bunka/201704/0010121655.shtml

木×仏像(きとぶつぞう)-飛鳥仏から円空へ  展示リスト

東博 菩薩立像(飛鳥時代)
木造 菩薩立像 飛鳥時代(7世紀) 東京国立博物館

*日本列島に仏教が伝わった飛鳥時代(7世紀)にさかのぼる希少な木彫仏で、クスノキ材の一木造りです。現存作例と文献資料による限り、飛鳥時代の木彫仏はすべてクスノキで造られました
http://www.osaka-art-museum.jp/sp_evt/kitobutsuzo#cnt-3

木×仏像(きとぶつぞう)-飛鳥仏から円空へ 日本の木彫仏1000年 展示リスト

No. 指定 名称 作者 時代・世紀 所蔵

1 木造 菩薩立像 Standing Bosatsu, Skt. Bodhisattava 飛鳥時代・7世紀 Asuka period, 7th century 東京国立博物館
2 木造 天王立像 Standing Guardian King 飛鳥時代・7世紀 Asuka period, 7th century 東京藝術大学大学美術館
3 塑造 菩薩立像 Standing Bosatsu, Skt. Bodhisattava 奈良時代・8世紀 Nara period, 8th century 大阪市立美術館
4 塑造 供養者上半身像 Upper Part of Body of Attendant 奈良時代・8世紀  8th century 大阪市立美術館
5 木造 塑像心木 Core Wood of Clay Statue 奈良時代・8世紀  8th century 大阪市立美術館
6 ◎ 木造 薬師如来立像 Standing Yakushi Nyorai, Skt. Bhaiṣajyaguru 奈良時代・8世紀 8th century 奈良・唐招提寺
7 ◎木造 伝獅子吼菩薩立像 Standing Bosatsu,Skt. Bodhisattava (Skt. Amoghapāśa) 8世紀  奈良・唐招提寺
8 ◉ 木造 弥勒如来坐像《試の大仏》 Seated Miroku Buddha, Skt. Maitreya 8~9世紀 奈良・東大寺

9 ◎ 木造 阿弥陀三尊像 Amida Triad, Skt. Amitābha Triad 9世紀 9th century 大阪・四天王寺
10 ◎ 木造 薬師如来坐像 Seated Yakushi Nyorai, Skt. Bhaiṣajyaguru 9世紀 奈良・宮古薬師堂
11 ◎木造 十一面観音菩薩立像 Standing Eleven-headed Kannon, Skt. Ekādaśamukha Avalokiteśvara 9世紀 大阪・長圓寺
12 木造 伝聖徳太子坐像 Seated Shinto Deity(Called Prince Shotoku) 9~10世紀 大阪・若山神社
13 ◎ 木造 虚空蔵菩薩立像 Standing Kokuzo Bosatsu, Skt. Ākāśagarbha 10世紀 大阪・孝恩寺
14 ◎ 木造 地蔵菩薩立像 Standing Jizo Bosatsu, Skt. Kṣitigarbha 10世紀 奈良・薬師寺
15 木造 地蔵菩薩立像 Standing Jizo Bosatsu, Skt. Kṣitigarbha 10世紀 大阪・蓮花寺
16 木造 地蔵菩薩立像 Standing Jizo Bosatsu, Skt. Kṣitigarbha 10世紀 大阪・三津寺
17 木造 地蔵菩薩立像《あごなし地蔵》 Standing Jizo Bosatsu, Skt. Kṣitigarbha (Called Skt. Kṣitigarbha without Chin) 10世紀大阪・和光寺
18 ◎ 木造 宝誌和尚立像 Standing Priest Hoshi 平安時代・11世紀 Heian period, 11th century 京都・西往寺
19 木造 不空羂索観音菩薩立像 Standing Fukukenzaku Kannon, Skt. Moghapāśa 10~11世紀 東京藝術大学大学美術館
20 ◎ 木造 持国天立像 Standing Jikoku Ten, Skt. Dhṛtarāṣṭra 11~12世紀 大阪・河合寺
21 ◎ 木造 多聞天立像 Standing Tamon Ten, Skt. Vaiśravaṇa 11~12世紀 大阪・河合寺
22 木造 二天立像 Standing Two Guardian Kings 11世紀 京都・成相寺 
23 ◎木造 吉祥天立像 Standing Kichijo Ten, Skt. Mahāśrī 11~12世紀 奈良・薬師寺
24 ◎木造 十一面観音菩薩立像 Standing Eleven-headed Kannon, Skt. Ekādaśamukha Avalokiteśvara 11世紀 滋賀・櫟野寺
25 ◎木造 観音菩薩立像 Standing Kannon Bosatsu, Skt. Avalokiteśvara 12世紀 滋賀・櫟野寺
26 ◎木造 観音菩薩立像 Standing Kannon Bosatsu, Skt. Avalokiteśvara 12世紀 滋賀・櫟野寺
27 ◎木造 釈迦如来坐像 Seated Shaka Nyorai, Skt. Śākyamuni 11~12世紀 大阪・東光院
28 木造 大日如来坐像 Seated Dainichi Nyorai, Skt. Mahāvairocana 10~11世紀 大阪市立美術館
29 木造 不動明王立像 Standing Fudo Myoo, Skt. Acalanātha 12世紀 兵庫・太山寺
30 ◎木造 十一面観音菩薩立像 Standing Eleven-headed Kannon, Skt. Ekādaśamukha Avalokiteśvara 12世紀 滋賀・誓光寺
31 ◎木造 千手観音・二天像箱仏 Portable Shrine with Thousand-armed Kannnon, Skt Sahasra-bhuja Avalokiteśvara and Two Guardian Kings 12世紀 大阪・四天王寺
32 木造 飛天像 Hiten, Flying Apsaras 12世紀 大阪市立美術館
33 木造 聖観音菩薩立像 Standing Sho-kannnon Bosatsu, Skt. Avalokiteśvara 12世紀 大阪市立美術館
34 ◎ 木造 四天王立像 Standing Four Guardian Kings 12世紀 大阪・大門寺
35 木造 阿弥陀如来坐像 Seated Amida Nyorai, Skt. Amitābha 12世紀 大阪・大門寺

36 ◎ 木造 阿弥陀如来坐像 Seated Amida Nyorai, Skt. Amitābha 鎌倉時代・13世紀 大阪・専修寺
37 木造 阿弥陀如来坐像 Seated Amida Nyorai, Skt. Amitābha 13世紀 奈良・新薬師寺
38 ◎ 木造 地蔵菩薩立像 Standing Jizo Bosatsu, Skt. Kṣitigarbha 快成 By Kaijo 建長8年(1256) 奈良・春覚寺
39 ◎ 木造 阿弥陀如来立像 Standing Amida Nyorai, Skt. Amitābha 永仙 By Eisen 正嘉3年(1259) 東京国立博物館
40 木造 四天王立像 Standing Four Guardian Kings 文永6年(1269) 奈良・新薬師寺
41 ◎ 木造 釈迦如来立像 Standing Shaka Nyorai, Skt. Śākyamuni 玄海 By Genkai 文永10年(1273) 奈良国立博物館
42 木造 釈迦如来立像 Standing Shaka Nyorai, Skt. Śākyamuni 13世紀 大阪・来迎寺 
43 木造 十一面観音菩薩立像 Standing Eleven-headed Kannon, Skt. Ekādaśamukha Avalokiteśvara 13世紀 大阪・四天王寺
44 木造 閻魔王坐像 Seated King Enma, Skt. Yama-rāja 13世紀 13th century 大阪・正明寺 
45 木造 伝聖徳太子坐像 Seated Youthful Deity(Called Prince Shotoku) 13~14世紀 大阪・四天王寺
46 木造 大日如来坐像 Seated Dainichi Nyorai, Skt. Mahāvairocana 14世紀 大阪・四天王寺

47 木造 普賢菩薩騎象像 Fugen Bosatsu, Skt. Samantabhadra seated on an Elepfant 南北朝時代・14世紀 兵庫・太山寺
48 木造 蔵王権現立像 Standing Zao Gongen Deity 南北朝時代・14世紀 Nambokucho period, 14th century 大阪・大門寺
49 木造 賓頭廬尊者坐像 Seated Binzuru, Skt. Piṇḍola Bhāradvāja 室町時代・永正11年(1514) Muromachi period, 1514(Eisho 11) 奈良・新薬師寺
50 木造 薬師如来立像 Standing Yakushi Nyorai, Skt. Bhaiṣajyaguru 江戸時代・17世紀 大阪市立美術館
<参考> 木造 釈迦如来坐像 Seated Shaka Nyorai, Skt. Śākyamuni 江戸時代・18世紀 大阪市立美術館
51 木造 十一面観音菩薩立像 Standing Eleven-headed Kannon, Skt. Ekādaśamukha Avalokiteśvara 円空 By Enku 江戸時代・17世紀 Edo period, 17th century
52 木造 秋葉権現三尊像 Akiba Gongen Triad 円空 By Enku 江戸時代・17世紀 Edo period, 17th century
53 木造 大元帥明王像頭部 Head of Taigen Myoo, Skt. Āṭavaka 北川運長 By Uncho Kitagawa 元禄14年(1701)大阪・延命寺
54 木造 仏像寄木法標本(如来坐像) Sample of Statue of Seated Buddha by Joined Wood Block Construction 伊藤礼太郎
By Reitaro Ito 昭和23年(1948)東京藝術大学大学美術館
55 木造 仏像寄木法標本(菩薩立像) Sample of Statue of Standing Boddhisattava by Joined Wood Block Construction 伊藤礼太郎 By Reitaro Ito 昭和23年(1948)東京藝術大学大学美術館

◉ ̶ 国宝(National Treasure) ◎ ̶ 重要文化財(Important Cultural Property)
◇6 ◎ 木造 薬師如来立像( 奈良・唐招提寺): 展示期間 5月9日(火)~ 6月4日(日) ◆7 ◎ 木造 伝獅子吼菩薩立像(奈良・唐招提寺): 展示期間 4月8日(土)~ 5月7日(日)

http://www.osaka-art-museum.jp/wordpress/wp-content/uploads/2017/04/e6a651e8878abb9b2a5ef81d99e0a34f.pdf

西大寺 小考3 叡尊上人

西大寺 叡尊
http://saidaiji.or.jp/history/p2.html

叡尊(えいそん・えいぞん、建仁元年(1201年) - 正応3年8月25日(1290年9月29日))は、鎌倉時代中期の真言律宗の僧。字は思円(しえん)。謚号は興正菩薩(こうしょうぼさつ)。建仁元年(1201)大和国添上郡箕田里(現在の大和郡山市白土町)で興福寺学侶慶玄の子として誕生。

同時代の僧としては日蓮(1222-82年)がいる。 日蓮は叡尊よりも20歳以上年下だが、叡尊は長寿であり、日蓮よりも8年長生きしている。日蓮については以下を参照。

(参考)
日蓮論1 http://blog.livedoor.jp/shokkou/archives/2073050.html
日蓮論2 http://blog.livedoor.jp/shokkou/archives/2073080.html 
日蓮論3 http://blog.livedoor.jp/shokkou/archives/2073156.html
日蓮論4 http://blog.livedoor.jp/shokkou/archives/2073231.html
日蓮論5 http://blog.livedoor.jp/shokkou/archives/2073419.html
日蓮論6 http://blog.livedoor.jp/shokkou/archives/2073518.html

叡尊は、7歳で母と死別し、11歳で醍醐寺叡賢阿闍梨の室に入り17歳で出家。主に密教を学ぶ。つまり、真言宗において、その創始者、空海に回帰しようとした。

➡ 建保5年(1217年)醍醐寺の阿闍梨叡賢に師事して出家。
➡ 元仁元年(1224年)高野山に入り真言密教を学ぶ。

弘法大師遺戒の「仏道は戒なくしてなんぞ到らんや。すべからく顕密二戒を堅固に受持し清浄にして犯すことなかれ」の文言に触発され、密教修行を行う。菩提(悟り)に到達するためには、その前提として釈尊が定めた戒律をしっかりと遵守することが肝要であると確信し、34歳のときに生涯の活動の中心となる戒律復興の志を立てる。ここでは、大日如来に帰依するのではなく、釈迦如来に重点をおく。
翌文暦2年(1235)叡尊は荒廃只中の西大寺に入住し、更に翌年、同志四人で東大寺で「自誓受戒」を果たし菩薩比丘となる。叡尊の「自誓受戒」には原始、小乗的な自己陶冶の厳しさがあったかも知れない。

一時海龍王寺に移住するが、嘉禎4年(1238)再び西大寺に帰住し、荒廃した西大寺の再建に全力を注ぎ、密教と戒律を日月のごとく兼修する「真言律」の根本道場という西大寺を復興する一方、ここを拠点に「興法利生」をスローガンとする活発な宗教活動を推進する。

➡ 嘉禎元年(1235年)戒律の復興を志して西大寺宝塔院持斎僧となり、『四分律行事鈔』を学ぶ。
➡ 嘉禎2年(1236年)覚盛、円晴(えんせい)、有厳(うごん)らと東大寺で自誓受戒。地頭の侵奪により西大寺が荒廃したために海龍王寺に移る。
➡ 暦仁元年(1238年)持戒のあり方をめぐり海龍王寺の衆僧と対立したために西大寺に戻る。西大寺の復興に努め、結界・布薩する。
➡ 仁治元年(1240年)西大寺に入寺した忍性の文殊菩薩信仰に大きな影響を受ける。額安寺西宿で最初の文殊供養(文殊図像を安置)をおこない、近傍の非人に斎戒を授ける。
➡ 仁治2年(1241年)三輪宿で文殊供養をおこなう。
➡ 仁治3年(1242年)和爾宿・北山宿で文殊供養をおこなう。額安寺で授戒と『梵網経古迹記』の講義をおこなう。奈良の獄屋の囚人に斎戒沐浴させる。
➡ 寛元元年(1243年)額安寺西宿・三輪宿で文殊供養をおこなう。
➡ 寛元2年(1244年)河内諸宿で文殊供養をおこない、非人に施粥をおこなう。
➡ 寛元3年(1245年)家原寺で別受戒(受戒後9年を経た僧侶が受ける戒法)をうける。法華寺で授戒と『梵網経古迹記』の講義をおこなう。
➡ 寛元4年(1246年)道明寺で授戒をおこなう。
➡ 寛元5年・宝治元年(1247年)仏師善円に念持仏・愛染明王坐像をつくらせる。
➡ 建長元年(1249年)仏師善慶に京都清凉寺釈迦如来像の模刻をつくらせ西大寺四王堂に安置する。
➡ 建長2年(1250年)絵師堯尊に文殊菩薩画像・十六羅漢・十六尊者など21幅を描かせる。
➡ 建長6年(1254年)西琳寺で授戒をおこなう。 『聖徳太子講式』執筆。太子講をはじめる(以後、毎年恒例となる)。
➡ 建長7年(1255年)円仁が唐の五台山から将来した『上宮太子勝鬘経疏義私鈔』を四天王寺で筆写し法隆寺に奉納する。
➡ 正嘉2年(1258年)絵師堯尊に金剛界曼荼羅を描かせる。
➡ 文応元年(1260年)絵師堯尊に胎蔵界曼荼羅を描かせる。
➡ 弘長元年(1261年)浄住寺授戒と『四分律行事鈔』の講義をおこなう。北条実時の使者が訪れ関東への下向を懇請する。
➡ 弘長2年(1262年)太子講を諸所でおこなう。2月より関東へ下向し、新清凉寺(釈迦堂)に逗留、忍性・頼玄らの応援を得て授戒と『梵網経古迹記』の講義をおこなう。北条実時・北条時頼に拝謁し授戒する。7月に西大寺へ帰る。弟子の性海による『関東往還記』がその記録である。
➡ 文永3年(1266年)河内真福寺で非人救済をおこなう。
➡ 文永元年(1264年)光明真言を導入し、密教化をすすめる
➡ 文永5年(1268年)般若寺再建のために文殊菩薩像(仏師善慶・善春が造像)開眼供養をおこなう。 異国の難を払うため四天王寺で勤行をする。
➡ 文永6年(1269年)般若寺落慶供養をおこない、周辺で非人・癩者の救済をおこなう。紀伊の金剛宝寺で授戒と『梵網経古迹記』の講義をおこなう。
➡ 文永10年(1273年)蒙古襲来(元寇)に際して伊勢神宮に参籠し大般若経を転読する。
➡ 文永11年(1274年)蒙古襲来に際して四天王寺で亀山天皇の行幸を得て百座仁王会を修する。
➡ 文永12年・建治元年(1275年)伊勢神宮に参籠する。
➡ 建治2年(1276年)仏師善春に大黒天像をつくらせる。
➡ 弘安2年(1279年)亀山上皇以下公卿らに授戒と『梵網経古迹記』の講義をおこなう。
➡ 弘安3年(1280年)伊勢神宮に参籠する。弟子らが仏師善春に80歳を迎えた叡尊の寿像を造らせる。(西大寺蔵の興正菩薩坐像)
➡ 弘安4年(1281年)蒙古襲来に際して亀山上皇の御幸を西大寺に迎え、石清水八幡宮で尊勝陀羅尼を読誦する。
➡ 弘安7年(1284年)宇治橋修造の朝命を受け殺生禁断のために宇治川の網代を破却する。後深草上皇以下公卿らに授戒をおこなう。
➡ 弘安8年(1285年)院宣により四天王寺別当に就任する。
➡ 弘安9年(1286年)宇治橋を修築、橋南方の浮島に十三重石塔婆を建立する。
➡ 正応3年(1290年)西大寺で病を発し秋に示寂。
➡ 正安2年(1300年)伏見上皇の院宣により行基菩薩の先例により興正菩薩の尊号がおくられる。

以上の年譜記載の活動は概ね以下の5点に集約されると思う。

1.戒律を重視し釈尊本来の仏教に立ち戻ろうとした戒律の復興活動のこと
2.社会的に疎外された貧困階層の人々を中心に救済の手を差しのべた救貧活動のこと
3.元寇への祈祷などをつうじて、鎌倉幕府、朝廷と接触し、上記2つの活動を認知せしめたこと
4.聖徳太子、空海について、教義の研鑽を深め、その普及をおこなったこと(アンダーラインで記載)
5.多くの仏像、仏画、石塔婆などを勧請し、後世に残したこと(赤字で記載)

【以下は、西大寺HPから引用)
その根本理念である「興法利生」とは、「興隆仏法(仏教を盛んにすること)」「利益衆生(民衆を救済すること)」の略語で、それぞれ叡尊上人の具体的活動である戒律復興と貧困階層の救済に結実している。但し、叡尊にとって興法と利生は別々のものではなく、まさしく「興法利生」という一体の言葉で捉えたように、戒律を復興し本来の仏教を追求することは民衆救済に直結する課題でもあった。この点にこそ叡尊の仏教者たる真の面目があると考えられる。  

叡尊一代の行蹟を記した『西大勅謚興正菩薩行実年譜』によれば、その生涯に菩薩戒を授けた道俗総数97710人、講席を啓くこと10721座、行法を修すること41208座、殺生禁断とした場所1356所、寺院新建100余所、修造590余所、西大寺に寄附した末寺1500余寺とあり、その活躍はまことに驚異的なものであった。

正応3年(1290)90歳の高齢に達した叡尊上人は、8月25日、自ら禅定に入るが如く遷化した。正安2年(1300)7月、亀山法皇は叡尊上人の高徳を偲んで院宣を下し、五朝の国師として四輩は菩薩と仰いだとその教化を讃美し、興正菩薩の貴号を贈った。また後伏見天皇も同年閏7月3日に、「勅す、伝灯大法師位叡尊は、一天四海の大導師にして、濁世末代の生身仏なり」として重ねて興正菩薩の号を賜わったのであった。
http://saidaiji.or.jp/history/p2.html

西大寺 小考2 四天王邪鬼は見ている

西大寺 増長天邪鬼
西大寺 増長天邪鬼(奈良時代)
https://plaza.rakuten.co.jp/takacyan/diary/201111050000/

西大寺については、創建当初の時代についての風説をふくめ、あまりにも多くの「ストーリー性」がある。普通の美術史家には書けないが、梅原猛氏は、藤原仲麻呂と孝謙上皇との情交、そしてその後の抗争と仲麻呂の頓死(恵美押勝の乱)の濃厚な可能性についてふれ、さらに、母、光明皇太后の死にショックをうけて病気となり、その治療をつうじて寵愛を受けた僧道鏡との情交にもふれている。
道鏡は、称徳天皇(孝謙上皇重祚)の後見のもと権力を握り、皇位を狙うが失脚する。称徳天皇崩御ののち、政情は大いに動揺し、やがて都は長岡京を経て平安京に移る。 大義名分なき造営、人望の失墜した称徳天皇の寺、西大寺は、南都七大寺の一つながら、その没落の道は早かった。上に掲げた「西大寺 増長天邪鬼」(奈良時代)は当初のものとのことだが、この邪鬼だけがかわらぬ歴史の証人というのもなにか皮肉なものを感じる。

(参考)梅原猛「俗と聖の間の寺」(『古寺巡礼 奈良8西大寺』1979年 淡交社)を参照

西大寺 小考1 南都七大寺

西大寺東塔跡と本堂(重要文化財)

【南都七大寺】

西大寺は南都七大寺の一つ。その七大寺とは、通常は興福寺(奈良市登大路町)、東大寺(奈良市雑司町)、西大寺 (奈良市西大寺芝町)、薬師寺(奈良市西ノ京町)、元興寺(奈良市中院町、芝新屋町)、大安寺(奈良市大安寺)および法隆寺(生駒郡斑鳩町)と言われる。
このうち、いまも大伽藍ないし多くの第一級の多くの宝物誇るのが、興福寺、東大寺、薬師寺、法隆寺の四寺であり、大安寺、元興寺および西大寺の三寺は没落の憂き目にあっている。
今回の西大寺展で面白いのは、この没落組の西大寺をはじめとする多くの寺院の連携である。今回の展示会に先立って、いまから四半世紀以上も前の1991年にも、奈良西大寺展が大規模に開かれたが、「真言律宗一門の秘法公開」と銘打たれ、今回同様、各寺院が集っている。

【真言律宗】

西大寺の興正菩薩叡尊を中興の祖とする宗派であり、真言宗の開祖、空海を特に仰いでいる。「叡尊は荒廃した既存仏教に対する批判から律宗の覚盛とともに、これまで国家が定めた手続きによる方法しか認められていなかった出家戒の授戒を自らの手で行った(自誓授戒)。その後、戒律に対する考え方の違いから覚盛と一線を画するが、彼の依頼による西大寺再興を引き受けて、続いて海龍王寺・法華寺・般若寺などの再興に従事して、朝廷の許可なくして独自の戒壇を設置した。続いて弟子の忍性が登場して叡尊が十分に達せられなかった民衆への布教に才覚を示して、鎌倉に極楽寺を建立した。」( https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E8%A8%80%E5%BE%8B%E5%AE%97

つまり、西大寺をはじめとして、海龍王寺、法華寺、般若寺、極楽寺(鎌倉)が同宗派のコアということになる。次に由緒寺として、放生院(京都府宇治市)、岩船寺(京都府木津川市)、浄瑠璃寺(木津川市)、不退寺(奈良市)、元興寺極楽坊(奈良市)、元興寺小塔院(奈良市)、白毫寺(奈良市)、額安寺(奈良県大和郡山市) などがある。こうしてみてくると、確かに大寺ではないけれど、ユニークで至宝をもつ寺院が名を連ねていることがわかる。

【元興寺】

さて、ここで南都七大寺の一つである元興寺がふたたび登場する。「日本最初の本格的伽藍である法興寺(飛鳥寺)が平城遷都にともなって、 蘇我氏寺から官大寺に性格を変え、 新築移転されたのが、元興寺 (佛法元興の場、聖教最初の地)である」(元興寺HP)という最も正統なる歴史をもつ大寺は、儚く没落するだけでなく、多くの文物は南都の他の寺へ移管され、いわば解体されてしまう。その後の数奇な変遷もほかの都七大寺にはないものである。

「飛鳥時代以来、伝統の三論宗、(『大安寺流』に対し『元興寺流』)と法相宗(興福寺の北寺伝『御蓋流』に対し南寺伝『飛鳥流』)が主に学問されていたが、平安中期には衰えてしまう。むしろ真言宗に属する多くの僧を輩出した。
その後、伽藍は荒廃し、堂塔が分離してゆくことになる。中でも伽藍の中央部、金堂、講堂など中枢部の北に当たる僧坊の地域に、東室南階大房が十二房遺って、その一室が特に極楽坊と呼ばれるようになる。この場所は奈良時代の元興寺三論宗の学僧智光法師が居住した禅室で、我が国浄土三曼荼羅(智光、当麻、清海)の随一である智光曼荼羅(掌中示現阿弥陀如来浄土変相図)発祥の地とする信仰が生まれた。
極楽坊では嘉応3年(1171)頃から盛んに百日念仏講が営まれ、南都の別所的役割を担ったようである。その後、高野聖西行法師が極楽房天井の改築勧進を行ったとか、東大寺戒壇院の圓照実相上人が僧房改築の勧進をしたとか、西大寺信空慈道上人が僧房修理のため南市で勧進を行ったとか伝わる。要するに、遁世僧や律僧の大切な道場として再出発したようである。
治承4年(1180)平重衡の南都焼き討ちによって、興福寺大乘院(今の奈良県文化会館あたり)が焼失し、元興寺禅定院に寄生した事によって、特に極楽坊は大乘院が支配することになり、住持は光圓上人を初代としてその法流が八代続いた。
寛元2年(1244)には極楽房を中心に大改築が行われ、元興寺極楽坊本堂(極楽堂)と禅室(春日影向堂)の二棟に分離された。この事から極楽房は東向き(旧元興寺は南向き)の独立的な寺院となったようである。
さらに、文永五年(1268)には約5,000人に及ぶ道俗の勧進からなる聖徳太子立像(十六才孝養像)、弘安年間に弘法大師坐像が造立され、聖徳太子と弘法大師に係わる寺院としての性格を確立していった。この時点で、恐らく西大寺叡尊思円上人や東大寺聖守中道上人の影響を多大に受けたようである。」(元興寺HP)

【興正菩薩叡尊との関係】

ここまできて、叡尊が登場する。西大寺を再興させた叡尊が、民衆信仰の基盤のもと元興寺についてもコミットするのである。

西大寺展と聖徳太子像

聖徳太子立像 元興寺
奈良県指定文化財 余木造玉眼 南無仏太子像 (鎌倉時代)

三井記念美術館で「奈良 西大寺展」創建1250年記念―叡尊と一門の名宝を観る。
展示のキーコンセプトとは少し離れるが、興味深かったのは空海と聖徳太子についてである。西大寺が真言律宗の名刹であることから、空海について、「重文 弘法大師坐像 1 軀 鎌倉時代 元興寺:7-1 63(展示リスト参照)」があることは当然として、元興寺聖徳太子関連の仏像なども展示されている。

「重文 聖徳太子立像(孝養像) 善春 1 軀 鎌倉時代・文永5 年(1268) 元興寺:4-23 55」
「重文 聖徳太子立像(孝養像) 像内納入品のうち眼清願文 1 紙 鎌倉時代 元興寺:4-23-1 55-1」
「重文 聖徳太子立像(孝養像) 像内納入品のうち木仏所画所等列名 1 紙 鎌倉時代 元興寺:4-23-2 55-2」
「聖徳太子立像(南無仏太子像)  1 軀 鎌倉時代 元興寺:7-2 54」

聖徳太子伝説から、こうした作像がなされたことは当時にあっても根強い太子信仰があったことを示している。元興寺「聖徳太子立像(孝養像)」については、「聖徳太子が16歳のとき父・用明天皇の病気平癒を祈る姿を表しています。叡尊は聖徳太子を救世観音あるいは如意輪観音の化身として篤く信仰していました。この像は文永5年(1268)5千名近い人々が結縁して、仏師善春らにより造立されました。結縁者の中には叡尊の弟子も多く、叡尊による太子信仰の広まりを物語っています」(展示解説)とある。
また、「聖徳太子立像(南無仏太子像)」については、太子2歳のときに、東を向いて「南無仏」と唱えたシーンを造像したものである。これも定例パターンながら、聖徳太子の成長とともに、こうした造像がなされてきたこと自体が意味深い。

直感だが、日本では珍しい、一種の教育的教材としての太子像という見方もありえるかも知れない。当初は限られた貴族や僧侶の母親や子供向けであったかも知れないが、その後、広く市井の一般人も含め、子供の健康を願い、そして孝養をつくし世のためになる大人への成長への期待をこめて、子供たちを像を前に誘い、太子の人となり、その業績を語るーそんな連想をはせてみた。

【以下は引用】
元興寺の聖徳太子信仰

 聖徳太子(厩戸王)は、用明天皇と穴穂部間人皇女の子である歴史的実在の人物である。が、死後間もないころから、その偉人的な性格が誇張され、太子に対する尊崇の念が高まり、追慕の念が信仰へと昇華されたものである。『上宮聖徳法王帝説』や『日本書紀』を初め、『聖徳太子伝暦』、『日本往生極楽記』や『大日本国法華験記』に見られるように、太子は日本における最初の仏教者、祖師であると意識され、佛のように礼拝される対象となっていったのである。
 すなわち、「太子伝」という物語の普及、「太子絵伝」という仏教美術の展開、「太子像」という一種の仏像であり、祖師像を生んだのである。
 また、各寺院や宗門は聖武天皇、伝教大師最澄、弘法大師空海、理源大師聖宝の太子後身説、太子が観音の化身であり、我が国最初の往生人とし、あるいは、達磨の化身、阿弥陀の化身、法華経弘通の祖師とみて、太子を立宗の根本に位置付け、競って自宗派との関係をうたい、由緒寺院は創建の基を太子として権威化を図っているのである。
 元興寺は太子建立四十六ケ寺のひとつとされ、官大寺に列せられる事になるが、その由緒として、推古天皇勅願・聖徳太子建立を唱えたり、蘇我馬子と聖徳太子の関係深さを主張する。つまり、飛鳥寺・法興寺と斑鳩寺・法隆寺とは用明天皇と推古天皇により、蘇我馬子と聖徳太子に指名された「仏法興隆」の拠点たる『法興』と『法隆』の二寺なのであった。
 平城遷都に伴って「仏法元興之場 聖教最初之地」を主張するのもこの事が認められてきたからであった。源平の合戦を経て、鎌倉時代に南都復興が大々的に行われるが、その中で元興寺も復興勧進がすすめられた。
 その中心的な活動が極楽坊の独立であり、聖徳太子信仰の宣揚だったのであろう。すなわち、「重文・聖徳太子立像(孝養像)」、「県指定・聖徳太子立像(南無佛太子)」の造立であり、太子堂(明治期に消滅)の建立である。
 孝養像は、その像内納入品から、文永5年(1268)卯月八日(4月8日つまり釈迦生誕の花まつり)から一升ずつ千杯供養の勧進をすすめ、約五千人の結縁で、仏師善春が造立している。恐らく、太子生誕700年(1275)に向けての活動だったのであろう。
 また、南無佛太子像は、像内が明らかでないが、他寺院の銘文がある作などから考え、生誕750年(1325)が想定できよう。
 太子堂は、応永年間と伝えられているが、応永33年(1425)が生誕850年で、800年遠忌に重なっており、それに向けての動きであろう。その後、南都の太子堂とは、元興寺極楽坊のことを言うようになるのだ。
 現在、「太子堂」や「太子伝」などを失ってはいるが、優秀な「孝養像」や「南無佛太子」の存在が聖徳太子信仰の高まりを物語っている。
 因みに、孝養像とは、16歳像とも呼ばれる美豆良に結って官服に袈裟、横被を付け、柄香炉を持つ姿で、用明天皇(父君)の病気平癒を祈る姿なのか、それとも葬送の姿であろうか。明確ではないが、僧俗一体の姿ではある。
 一方、南無佛太子像は2歳像ともいわれ、幼児姿で、腰袴だけ付け、合掌するもので、2月15日の出来事を表していると言う。つまり、この姿は釈迦誕生佛からの発想であり、始めと終わり、「南無佛」、すなわち釈尊入滅の涅槃会を意識しているのだろう。
http://www.gangoji.or.jp/tera/jap/midokoro/midokoro1.htm#shoutokutaishi

奈良 西大寺展 創建1250年記念 「叡尊と一門の名宝」 を観る

西大寺東塔跡と本堂(重要文化財)

西大寺は9年前にゆっくりと拝観した。秋篠寺のあとに行ったが、そのときの記憶は鮮明に覚えている。

http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-67.html

今回は三井記念美術館で上記の展示会を観る。

【以下*は公式ガイドから一部引用】

*西大寺の創建は天平神護元年(765)。光明皇太后の信任を得て淳仁天皇を擁立し権力を握った藤原仲麻呂と孝謙上皇との抗争(恵美押勝の乱)鎮定を祈願して、称徳天皇(孝謙上皇重祚)が造営した。 乱の鎮定後、今度は、僧道鏡が天皇の寵愛を受けて権力を握り、皇位を狙うが失脚。政情は大いに動揺し、やがて都は長岡京を経て平安京に移る。 西大寺は、鎮護国家仏教として栄えた南都六宗の都、平城京最後のきらめきとして残されることになった。

➡ 偉大な父母ゆかりの東大寺、対してその娘、称徳天皇(孝謙上皇重祚)が建立したのが西大寺。道鏡とのスキャンダルは、あまりにも有名だが、西大寺の縁はその点でもやや格調に欠ける。

西大寺 塔本四仏坐像
「塔本四仏坐像」のうち「釈迦如来坐像」「阿弥陀如来坐像」(奈良・西大寺)

*西大寺には創建後間もなく東塔・西塔の2基の塔が建てられました。この4軀の如来坐像は、そのいずれかの塔の初層(1階)に安置されたと伝えられています。奈良時代後期を中心に流行する木心乾漆の技法により制作されています。西大寺創建に近い時期までさかのぼり、4軀まとまって伝わる貴重な仏像です。各像の名称は後世のものと考えられます。

*都が平安京に移された後、奈良の寺社は苦難の時代を迎え、創建直後にバックボーンを失った西大寺の状況は深刻だったが、鎌倉時代に中興の祖、叡尊が登場する。 若くして真言密教を学んだ叡尊は西大寺に入り、寺を伝統的な律宗の教えと密教を組み合わせた「密・律兼修の道場」とした。
僧侶や市民の集う「光明真言会」を創始、救済事業を進めるなど精力的に活動し、その教えは大いに広まった。 叡尊はそのかたわら、愛染明王坐像や本尊釈迦如来立像、大黒天像などの造立を発願し、「大茶盛」を始めるなど、西大寺独特の文化をつくり上げた。

➡ 零落した南都六宗の名刹を復興した叡尊は、真言宗と律宗の双方をその根底におく。「平安時代末期から鎌倉時代には実範・明恵が戒律復興を論じ、それを引き継いで嘉禎2年(1236年)覚盛・有厳・円晴・叡尊の4人が国家と結びついた戒壇によらない自誓受戒を行った。後に覚盛は「四分律」を重視して唐招提寺を復興して律宗再興の拠点としたのに対して、叡尊は西大寺を拠点に真言宗の『十誦律』を中心とした真言律宗を開いた。更に京都泉涌寺の俊芿が南宋より新たな律宗を持ち帰った。このため、俊芿の「北京律」と「南都律」と呼ばれた唐招提寺派・西大寺派(真言律宗)両派の3つの律宗が並立した。この3派の革新派を新義律と呼称して、それ以前の古義律と区別することがある。しかし、結果的にこの新義律3派が議論と交流を重ねることで律宗の深化と再興が進み、中世には禅宗と律宗を合わせて禅律とも呼ばれて重んじられた。室町時代には禅宗に押されて再び衰退するが、江戸時代には明忍・友尊・慧雲が出現して再度戒律復興が唱えられた。」(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8B%E5%AE%97)。
叡尊ゆかりの展示が多いのは以上の背景があるからだが、真言宗が主導した仏像群が、いまに伝えられる西大寺の貴重な財産になる。

西大寺 3
「愛染明王坐像」(奈良・西大寺)

*愛染堂の秘仏本尊であり、現在も美しい彩色を留めています。宝治元年(1247)叡尊と弟子たちは、西大寺に三宝(仏・法・僧)が永く伝えられることを求めて発願・結縁し、仏師善円(善慶と同一人物)が造立しました。この年は叡尊が僧堂を造営した年に当たり、当初は叡尊が三宝久住の強い願いをこめて僧堂に安置したと考えられています。
愛染堂の秘仏本尊であり、現在も美しい彩色を留めています。宝治元年(1247)叡尊と弟子たちは、西大寺に三宝(仏・法・僧)が永く伝えられることを求めて発願・結縁し、仏師善円(善慶と同一人物)が造立しました。この年は叡尊が僧堂を造営した年に当たり、当初は叡尊が三宝久住の強い願いをこめて僧堂に安置したと考えられています。

西大寺 文殊菩薩騎獅像及び四侍者像
「文殊菩薩騎獅像及び四侍者像」(奈良・西大寺)

*この形式の五尊像は、中国五台山の文殊信仰に基づくもので、渡海文殊として鎌倉時代に多く制作されました。叡尊は文殊信仰に基づき多くの民衆救済の事業を行っており、文殊菩薩像も造像しています。この像は叡尊の没後弟子たちが発願して造像されたもので、叡尊の十三回忌に完成し、文殊堂の本尊とされました。現在は本堂西脇間に安置されています。

*叡尊の教えは全国各地の多くの寺院にも広がっていった。東国では、叡尊のもとで学んだ忍性が鎌倉を拠点として貧民救済など社会福祉事業や道路・橋梁(きょうりょう)の建設などに尽力し、鎌倉幕府の要人から庶民まで広く信仰を集めた。
畿内や西国でも叡尊に連なる律僧たちが寺院の復興や社会事業に従事し、江戸時代には奈良・生駒に宝山寺を興した湛海らが活躍。
明治期に入ると廃仏毀釈や宗教統制の荒波にさらされるが、教義を貫き法灯を守った。 現在、真言律宗には元興寺、浄瑠璃寺、岩船寺、不退寺、海龍王寺、般若寺、白毫寺、宝山寺など、関西を中心に多くの名刹が名を連ねる。

➡ 西大寺はいまもひっそりと佇む鄙びた古刹だが、元興寺、浄瑠璃寺、岩船寺、不退寺、海龍王寺、般若寺、白毫寺、宝山寺などのうち、浄瑠璃寺などは人気抜群のスポットとなっている。今回に限らず過去においても、これらの寺院が「西大寺展」に協力している。 【“奈良 西大寺展 創建1250年記念 「叡尊と一門の名宝」 を観る”の続きを読む】

奈良 西大寺展 創建1250年記念 「叡尊と一門の名宝」 展示リスト

西大寺

<以下は引用>
南都七大寺の一つである奈良の西大寺は、奈良時代に称徳天皇によって創建された由緒ある寺です。創建1250年を記念する本展覧会は、西大寺に伝わる仏像・肖像彫刻・仏教絵画・密教法具など工芸品の名宝の数々と、元興寺・浄瑠璃寺・白毫寺さらには東国の極楽寺・称名寺など、真言律宗一門の珠玉の美術作品を一堂に展示します。
http://saidaiji.exhn.jp/

<展示リスト:入れ替え制、展示期間注意>
番号指定 名称 作者 数量 時代 所蔵

【展示室1:密教と修法具】

1-1 69 重文 金銅密教法具(五鈷鈴・独鈷杵・三鈷杵・五鈷杵・金剛盤) 5  鎌倉時代 西大寺
1-2 71 金銅一面器(火舎・花瓶・六器) 1 括 鎌倉時代 西大寺
1-3 117 重文 愛染明王坐像(厨子入) 1 軀 鎌倉時代・永仁5 年(1297) 称名寺(金沢文庫保管)
1-4 76 黒漆光明真言厨子 1 基 鎌倉~南北朝時代 西大寺
1-5 68 金銅大檀具のうち(五鈷鈴・独鈷杵・三鈷杵・五鈷杵・金剛盤) 5  鎌倉時代 西大寺
1-6 70 白銅密教法具(五鈷鈴・独鈷杵・三鈷杵・五鈷杵・金剛盤) 5  鎌倉時代 西大寺
1-7 72 白銅打鳴し 2  鎌倉時代 西大寺
1-8 74 金銅金剛盤 1 面 鎌倉時代・正和3 年(1314) 奈良国立博物館
1-9 73 銅独鈷杵1  平安時代 西大寺
1-10 120 金銅密教法具(五鈷鈴・独鈷杵・三鈷杵) 3 鎌倉時代 称名寺(金沢文庫保管)
1-11 75 金銅飯食器2  鎌倉時代 西大寺

【展示室2:戒律と舎利信仰】

2-1 39 国宝 金銅透彫舎利容器 1基 鎌倉時代 西大寺

【展示室3:西大寺の瓦と塼】

3-1 9 軒瓦(創建期)、垂木先瓦、緑釉・褐釉塼 一括 奈良時代 西大寺(奈良文化財研究所保管)

【展示室3(如庵ケース):西大寺の大茶盛式】

3-2 参考 出品大茶盛式の大茶碗1  西大寺

【展示室4:⑴西大寺の創建から平安時代まで】

4-1 6 国宝 大毘盧遮那成仏神変加持経 巻1・巻2 2 巻 奈良時代・天平神護2 年(766) 西大寺
4-2 5 国宝 金光明最勝王経 巻1・巻6 2 巻 奈良時代・天平宝字6 年(762) 西大寺
4-3 5-1 国宝 月輪牡丹蒔絵経箱 1 合 鎌倉時代 西大寺
4-4 7 西大寺資財流記帳上下2 巻鎌倉〜室町時代 西大寺
4-5 2 重文 塔本四仏坐像 釈迦如来坐像・阿弥陀如来坐像 2 軀 奈良時代 西大寺
4-6 4 国宝 十二天像 帝釈天像・火天像・閻魔天像・水天像 4 幅 平安時代 西大寺 帝釈天 火天 閻魔天 水天
4-7 3 重文 如意輪観音半跏像 1 軀 平安時代 西大寺

【展示室4:⑵ 叡尊の信仰と鎌倉時代の復興】

4-8 20 重文 叡尊自筆書状 2 巻 鎌倉時代・建長元年(1249)、弘長2 年(1262) 西大寺各
4-9 13 国宝 興正菩薩坐像善春 1 軀 鎌倉時代・弘安3 年(1280) 西大寺
4-9-1 13-3 国宝 興正菩薩坐像 像内納入品のうち観海願文  1 通 鎌倉時代 西大寺
4-9-2 13-6 国宝 興正菩薩坐像 像内納入品のうち授菩薩戒弟子交名 1 巻 鎌倉時代 西大寺
4-9-3 13-5 国宝 興正菩薩坐像 像内納入品のうち西大寺有恩過去帳 1 巻 鎌倉時代 西大寺
4-10 23 重文 愛染明王坐像 善円 1 軀 鎌倉時代・宝治元年(1247) 西大寺
4-10-1 23-3 重文 愛染明王像 像内納入品のうち範恩造像願文 1 巻 鎌倉時代 西大寺
4-11 77 重文 黒漆大神宮御正体厨子 1 基 鎌倉時代 西大寺
4-12 14 重文 興正菩薩坐像 1 軀 鎌倉時代 白毫寺
4-13 16 興正菩薩像 1 幅 鎌倉時代 西大寺
4-14 19 興正菩薩像 1 幅 鎌倉〜南北朝時代 西大寺
4-15 22 重文 感身学正記 1 冊 南北朝時代・延文4 年(1359) 西大寺
4-16 52 重文 叡尊願文 1 巻 鎌倉時代・文永6 年(1269) 般若寺
4-17 27 南山大師像 1 幅 南北朝時代 西大寺

4-18 29 大智律師像 1 幅 南北朝時代 西大寺
4-19 48 重文 文殊菩薩騎獅及び四侍者像のうち文殊菩薩坐像・善財童子立像・最勝老人立像 3 軀 
鎌倉時代・正安4 年(1302) 西大寺
4-19-1 48-3 重文 文殊菩薩坐像 像内納入品のうち文殊菩薩像 1 軀 鎌倉時代 西大寺
4-19-2 48-4 重文 文殊菩薩坐像 像内納入品のうち八字文殊曼荼羅図 1 紙 鎌倉時代 西大寺
4-19-3 48-5 重文 文殊菩薩坐像 像内納入品のうち種字曼荼羅図・文殊図像・真言・種字等 1 巻 鎌倉時代 西大寺
4-20 58 重文 大黒天立像善春 1 軀 鎌倉時代・建治2 年(1276) 西大寺
4-20-1 58-2 重文 大黒天立像 像内納入品のうち大黒天像(曲物笥入)  1 軀 鎌倉時代 西大寺
4-20-2 58-3 重文 大黒天立像 像内納入品のうち弁才天懸仏(曲物笥入)  1 面 鎌倉時代 西大寺
4-21 78 地蔵菩薩立像仙算 1 軀 室町時代・永正11 年(1514)  西大寺(奥の院)
4-22 59 毘沙門天立像 1 軀 鎌倉時代 西大寺
4-23 55 重文 聖徳太子立像(孝養像) 善春 1 軀 鎌倉時代・文永5 年(1268) 元興寺
4-23-1 55-1 重文 聖徳太子立像(孝養像) 像内納入品のうち眼清願文 1 紙 鎌倉時代 元興寺
4-23-2 55-2 重文 聖徳太子立像(孝養像) 像内納入品のうち木仏所画所等列名 1 紙 鎌倉時代 元興寺
4-24 35 重文 釈迦三尊像(仁王会本尊)  1 幅 鎌倉時代 西大寺
4-25 36 釈迦三尊十六善神像 1 幅 鎌倉時代 西大寺
4-26 91 重文 愛染明王像 1 幅 鎌倉時代 宝山寺
4-27 89 尊勝曼荼羅図 1 幅 鎌倉時代 宝山寺
4-28 90 重文 弥勒菩薩像 1 幅 鎌倉時代 宝山寺
4-29 65 五大虚空蔵菩薩像 1 幅 南北朝時代 西大寺

【展示室5:戒律と舎利信仰】

5-1-1 13-1 国宝 興正菩薩坐像 像内納入品のうち金銅八角五輪塔 1 基 鎌倉時代 西大寺
5-1-2 13-2 国宝 興正菩薩坐像 像内納入品のうち舎利安置状 1 通 鎌倉時代 西大寺
5-1-3 34-1 重文 釈迦如来立像 像内納入品のうち舎利塔紐付 1 基 鎌倉時代 西大寺
5-1-4 48-1 重文 文殊菩薩坐像 像内納入品のうち舎利塔 1 基 鎌倉時代 西大寺
5-1-5 48-2 重文 文殊菩薩坐像 像内納入品のうち舎利塔容器 1 合 鎌倉時代 西大寺
5-1-6 58-1 重文 大黒天立像 像内納入品のうち五輪塔 1 基 鎌倉時代 西大寺
5-2 30 宇治浮島十三重石塔納置品のうち(金銅舎利塔1 基・水晶五輪塔 13 基・金銅筒型容器1 合・金銅瓶形容器1 合・鋳
銅経筒1 合・鋳銅五鈷鈴1 口・金銅蓮台 形容器1 合・銅版鋲留角形箱1 合・紺紙 金泥法華経第1 巻1 巻) 一括 鎌倉時代 放生院
5-3 44 重文 黒漆舎利厨子 1 基 鎌倉時代 般若寺
5-4 47 重文 十三重石塔納置品のうち(金銅五輪塔1基・金銅五輪塔1基・水晶五輪塔4基)  一括 鎌倉時代 般若寺
5-5 43 重文 金銅火焔宝珠形舎利容器 1 基 鎌倉時代・正応3 年(1290) 海龍王寺
5-6 40 舎利塔厨子 1 基 室町時代 西大寺
5-7 42 重文 金銅火焔宝珠形舎利容器 1 基 室町時代・応永21 年(1414) 西大寺
5-8 46 国宝 金銅能作生塔 1 基 鎌倉時代 長福寺(奈良県)
5-9 114 重文 金銅密教法具 (五鈷鈴・独鈷杵・五鈷杵) 3  鎌倉時代 極楽寺
5-10 121 重文 金銅装宝篋印塔 1 基 鎌倉時代・永仁5 年(1297) 称名寺(金沢文庫保管)
5-11 122 重文 玉華鬘 1 面 鎌倉時代 称名寺(金沢文庫保管)
5-12 123 重文 弥勒菩薩立像 像内納入品のうち舎利容器残闕 一括 鎌倉時代 称名寺(金沢文庫保管)

展示室6:西大寺の伽藍配置】

展示室7:⑴真言律宗一山の名宝】

7-1 63 重文 弘法大師坐像 1 軀 鎌倉時代 元興寺
7-2 54 聖徳太子立像(南無仏太子像)  1 軀 鎌倉時代 元興寺
7-3 56 如意輪観音坐像 1 軀 鎌倉時代 元興寺
7-4 49 文殊菩薩坐像 1 軀 鎌倉時代 法華寺
7-5 96 重文 普賢菩薩騎象像 1 軀 平安時代 岩船寺
7-6 94 重文 普賢菩薩坐像 1 軀 平安時代 文化庁
7-7 57 重文 不空羂索観音坐像 1 軀 鎌倉時代 不空院
7-8 101 重文 吉祥天立像 1 軀 鎌倉時代 浄瑠璃寺(6/6 ~ 6/11)
7-9 99 重文 地蔵菩薩立像(延命地蔵)  1 軀 平安時代 浄瑠璃寺
7-10 82 地蔵菩薩立像 1 軀 平安時代 不退寺
7-11 61 重文 太山王坐像康円 1 軀 鎌倉時代・正元元年(1259) 白毫寺
7-12 62 重文 司命半跏像・司録半跏像 2 軀 鎌倉時代 白毫寺
7-13 97 四天王立像のうち多聞天立像 1 軀 鎌倉時代 岩船寺

【展示室7:⑵忍性と東国の真言律宗】

7-14 110 忍性菩薩坐像 1 軀頭部 鎌倉時代 体部 室町時代 極楽寺
7-15 113 釈迦如来像 1 幅 南北朝〜室町時代 極楽寺
7-16 112 重文 釈迦如来坐像 1 軀 鎌倉時代 極楽寺
7-17 111 文殊菩薩坐像 1 軀 鎌倉時代 極楽寺
7-18 115 重文 釈迦如来立像院保他 1 軀 鎌倉時代・徳治3 年(1308) 称名寺(金沢文庫保管)
7-19 116 十大弟子立像のうち舎利弗像・富楼那像・迦旃延像・優波離像 4 軀 鎌倉時代称名寺(金沢文庫保管)
7-20 124 重文 地蔵菩薩坐像院誉 1 軀 鎌倉時代・元亨4 年(1324) 長福寺(福島県)
7-20-1 124-1 重文 地蔵菩薩坐像 像内納入品のうち妙法蓮華経巻8 1 巻 鎌倉時代 長福寺(福島県)(金沢文庫保管)
7-20-2 124-2 重文 地蔵菩薩坐像 像内納入品のうち某願文断簡 1 紙 鎌倉時代 長福寺(福島県)(金沢文庫保管)
http://www.mitsui-museum.jp/pdf/mokuroku_170415.pdf

聖徳太子と仏像

広隆寺弥勒(拡大)

聖徳太子と仏像との関係について、少しく所感を述べたい。四天王像、弥勒菩薩像、釈迦三尊像を中心に、以下若干メモしてみたいと思う。

第1章 四天王像

◆四天王寺と幻の四天王像

聖徳太子の初陣。そこから太子と仏像のストーリーははじまる。以下は四天王寺のHPからの引用

「四天王寺は、推古天皇元年(593)に建立されました。 今から1400年以上も前のことです。 『日本書紀』の伝えるところでは、物部守屋と蘇我馬子の合戦の折り、崇仏派の蘇我氏についた聖徳太子が形勢の不利を打開するために、 自ら四天王像を彫り 「もし、この戦いに勝たせていただけるなら、四天王を安置する寺院を建立しましょう」 と誓願され、勝利の後その誓いを果すために、建立されました。(中略)」

聖徳太子は用明天皇の子である。587年7月に物部守屋を蘇我馬子とともに滅ぼす闘いに太子は参戦する。時に用明2年、彼は「天皇の皇子」としてのおそらくは初陣であった。太子当時14才、実戦とは関係のうすい象徴的な存在であり、だからこそ仏を彫る余裕があったのかも知れない。しかし、彼の早熟ぶりからは相応の判断力をもった若き指揮官だったとも考えられる。物部VS蘇我戦争で太子は前線にあった。生死を分ける戦場、そこでの戦勝への強い祈願。そこで太子は、みずから鑿をとって四天王像を彫り、その仏像にたいして、勝利の暁には四天王寺の建立を誓願する。ドラマティックな逸話である。四天王寺とは、日本歴史上も由緒正しき寺院であり、もしも後世、火災や戦禍で焼けなかったら法隆寺と並び立つ世界遺産になっても不思議のない名刹である。

もともと四天王寺はいまの森の宮近辺にあったが、これが上町台地に位置する現伽藍に移ったとの説がある。摂津国玉造の東岸にあったのが、おなじく摂津国難波の荒陵(あらはた)に移されたと日本書紀に記載がある。
そこは当時にあって帰化人の住む一種の大きな「居留地」であったのだろう。はじめは「倭人」が住んでいたところに「帰化人」が入植したのではとの先入主をもっていたが、もしかすると、難波宮というもっとも古い都は、帰化人がつくり、そこに住んだ新都市だったと考えたほうが正確かも知れない。そして、その中心に置かれたのが総合寺院、四天王寺だったのではないか。

http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-129.html

いまの四天王寺。上町台地の中端に位置する四天王寺の大鳥居に彼岸に沈む夕陽は、淡路島と六甲山系の合間の瀬戸内海に「入滅」するという。海からのアプローチ。中国、朝鮮からの外交使節や新知識や文物は海路をへて当時は湾に隣接する難波四天王寺にあがる。ここから陸路をへて斑鳩へ。海の玄関口としての四天王寺、そして内陸都市斑鳩でも同様に壮大な仏教伽藍が迎える、聖徳太子直轄の「二大寺院」はまた外交上の迎賓館、知的拠点としての大学としても機能していただろう。

日本書紀編纂が720年。太子没(622年)後約1世紀の時が流れている。日本書紀の記載には政治的な思惑もあり、「太子実在」に疑問を投げかける向きもあるが、では日本書紀などに書かれなかったがゆえに、多くの失われた太子関連の足跡や重要な事象もあっただろうとの<逆推論>も当然なりたつ。

聖徳太子は生前はあきらかに「蘇我ファミリー」の一員だった。また、過去帳からは四天王寺には、滅ぼされた物部一族関係の多くの人々もいたとも・・。複雑さ、多義的なゆえにそこに面白さもある。さらに、四天王寺には、当初、如来、菩薩はなく眷属たる四天王のみが直線的におかれていたとの説もある。それは外交上のプレゼンスか、外敵に対する守護神としての本来の意味か・・?

http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-39.html

四天王寺という武神を奉る寺院を太子が建てたこと、そこが興味深い。しかも、その四天王は直線的におかれていたとの説にも多くの想像が働く。現在の四天王寺金堂。中央に巨大な本尊救世観音菩薩像、仏壇周囲に四天王像を配する。本尊は、彫刻家平櫛田中の指導で造像され、四隅に立つ四天王像は仏師松久朋琳・宗琳の作とのことである。

残念ながら、創建された四天王寺の四天王像は現存していない。しかし、幻の四天王像を想像できる得がた素材がある。法隆寺金堂の四天王像がそれである。以下は引用。

「仏像の世界でひときわ異彩を放つ一群がいる。険しい形相でにらみをきかせる守護神・四天王像。現在、奈良国立博物館で開催されている「国宝・法隆寺金堂展」には1400年前の飛鳥時代に造られた最古の四天王像(国宝)が展示されている。法隆寺以外の場所で4体そろって展示されるのは史上初のことである。
そもそも四天王とは、持国・広目・増長・多聞の4天。古代インドで方位の守り神として信仰されてきた。仏教では、その世界観の中心にそびえる須弥山という山で東西南北の守りを担っている。
まっすぐ正面を見据える姿。飛鳥時代の仏が醸し出す静かなるまなざしは、見るものに独特な緊張感を感じさせる。身の丈はそれぞれ130センチ余り、顔つきはまゆ尻を上げて口元はかすかな笑みを浮かべている。
法隆寺の四天王像は、後の時代の四天王像とは全く姿や表情が異なり、多くの謎に包まれている。最初から法隆寺にあったのか、足元の邪鬼が大きいのはなぜか、あの静かなるまなざしは何を見つめているのか。番組ではこれまでベールに包まれてきた法隆寺の四天王像を克明に撮影し、その謎に迫る。そこから、日本に仏教が伝来したころ、人々が仏教をどうとらえていたかが明らかになってくる。」

http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-82.html

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◆聖徳太子という人物像

用明天皇の次の天皇は崇峻だが、592年11月に暗殺される。わずかに在位5年目だったが、蘇我馬子とともに太子も加担していたとも言われる。翌推古元年に聖徳太子は摂政になる。ちょうど二十歳の時であった。そして、この年(593年)に太子の誓願によって難波に上記四天王寺が建立される。また、596年には蘇我馬子が法興寺(現飛鳥寺)を建立、598年には中宮寺が創建されたと言われる(法隆寺伽藍縁起併流記資材帳)。

太子28才の601年には斑鳩宮を造り、603年12月には「冠位十二階」、604年4月には「十七条憲法」を定める。31才である。太子の10代は血なまぐさい政争の時代、20代は宰相として内政で猛烈に頑張った時代といったこととなる。

一方、仏像との関係においては、606年4月に止利仏師が飛鳥寺金堂に丈六の銅製釈迦如来を安置し、7月には橘寺が創建される(法隆寺東院資材帳)。さらに翌年、父用明天皇のために、法隆寺金堂の薬師如来が造られる(光背造像記)。

次に外交にスポットをあてると、600年任那救援、新羅討伐のために軍派遣、さらに602年に来目皇子(※)を新羅征討将軍に任命。自らの若き日の物部守屋掣肘のことを思ったかも知れない。607年には小野妹子を第二次遣隋使として派遣(翌年にも再派遣)、609年に小野妹子が帰還。610年3月には高句麗王、朝貢。10月には新羅、任那の使者入京、さらに611年8月に新羅、朝貢。614年6月犬上御田鍬を第4次遣隋使として派遣、翌年、犬上御田鍬帰朝。百済の使を伴って来朝。この年、太子は42才。
20代後半から30代を通じてこの時まで、聖徳太子の外交政策の記述が続く。史家は内政にくらべて外交についてはあまり重視していないように思えるが、太子の30代は相当、外交に腐心していた様子が窺える。対中、対朝鮮政策でも太子はそれ以前にはない大きな成果を上げている。

※『来目皇子―志摩・幣の浜から聖徳太子を仰げば』
 聖徳太子の同母の弟・来目皇子について、福岡県志摩町、奈良県橿原市久米町、大阪府羽曳野市などのゆかりの地を探訪し、その系譜、久米氏と来目皇子、聖徳太子と推古天皇と来目皇子の関係などについてまとめる。 梓書院 (2003/09)
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-71.html

 612年は熊凝寺(のちの額安寺)が創建される(太子伝)。翌年には難波から大和に至る大道(横大路、現在の竹内街道)や「太子道」が整備され、さらに法隆寺が建立されたとの記録がある(興福寺略年代記)。また、616年に聖徳太子が法貴寺を建立し、秦河勝に与えたとも言われる(法貴寺縁起)。

622年に磯長に太子は葬られるが、この年、法輪寺が建立されたと伝えられる(聖徳太子伝私記)。そして光背銘文にある釈迦三尊像が翌年、法隆寺金堂に造像される。このように仏教史のみならず、仏教寺院、仏像の歴史からみても太子の存在がいかに巨大であったかに驚かされる。

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第2章 弥勒菩薩

聖徳太子と仏像、その第2章は弥勒菩薩である。武神、四天王像からはじまった太子と仏像との縁は、弥勒菩薩によって現実の政治との接点をえる。あるいは、太子自身の日々の迷いを払拭する意味でも弥勒菩薩は、近しい存在であったと思う。

太子ゆかりの寺々(法隆寺、中宮寺、広隆寺、鶴林寺、四天王寺など)を歩いていると、弥勒菩薩や聖観音像のもつ意味をおのずと考えたくなる。 すでに記したとおり凄惨な殺戮や疫病の蔓延に人心乱れた時代にあって、聖徳太子は名宰相としてならし、その治世の時期は限られてはいたが人びとに安寧をあたえ、それなればこそ後に、救世主的な「超人伝説」を多くつくってきたとも言えよう。

太子はまた秦氏を重用し、秦氏が百済系帰化人であったことから、その系譜から弥勒菩薩が舶来され、次第にわが国に広まっていったとの説も強い。広隆寺「宝冠弥勒」と大韓民国ソウル特別市国立中央博物館所蔵仏などの比較はその有力な根拠だろう。
弥勒菩薩はなぜこの時代多くつくられ、またそれ以降は衰微していくのか。太子逝去後、その一族が根絶やしにされ、それとともに弥勒菩薩、とりわけ半跏思惟像は次第につくられなくなる。

以下は自分の推論ないし裏付けの乏しい空想であるが、広隆寺「宝冠弥勒」は当時にあって一種の百済系仏像の「ステロタイプ」であったかも知れない。その移入後、形式的には半跏思惟像の姿を踏襲しながら、各工房によって様々なヴァリエーションも展開されていく。その証として、東京国立博物館法隆寺館の48体仏を丹念に見ていくと広隆寺や中宮寺と座像「形式」こそ似ているが全く別のタイプのお顔の仏像に遭遇することに気づくだろう。

さて、想像の翼を広げれば、48体仏のなかには実は意外にも人間臭さを感じさせる弥勒像も多い。理不尽な死は、血生臭い政争や予防できない流行病によっても突然もたらされる。最愛の肉親や知人を喪った残された者が、生前の姿を仏として刻み、それを身近に置いて追悼することは不思議ではないだろう。そうしたニーズが豪族などの権力者集団には恒常的にあったのではないか。

さらに、弥勒菩薩と聖観音系(法隆寺<夢違>、<百済>、<救世>や鶴林寺など)の造像には信仰上の違いが当時どこまであったのだろうか。追善供養にはいくつかのパターンがあり、それによって座像の場合は弥勒が好まれ、立像の場合は聖観音系が選好されたとは考えられないだろうか。

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◆広隆寺 弥勒菩薩

数多くの仏像愛好者が、その道にはいるきっかけとなったのは、この仏さまや中宮寺観音の魅力に強く惹きつけられて・・・という体験からではないだろうか。見れば言葉はいらない。こうしたすばらしい仏さまが今日、存在していること、そのことの不可思議さに深い感動を覚える。それは日本人にかぎらず国籍をとわず、世界中の人々がおなじ思いをもつことだろう。この奇跡の仏さまと聖徳太子との縁は深い。その特色を以下3点に要約してみたい。

1.歴史的な不可思議さ

 推古天皇、聖徳太子といった歴史上のスーパースターと渡来人・帰化人の有力一族、秦河勝といった人々が、この仏さまを巡る関係者である、と「日本書紀」は伝えている。「日本書紀」の確からしさについての議論もあるが、来歴がこれだけ残っている仏さまは珍しい。

歴史の深いベールに包まれた仏さまも神秘的だが、日本最古の仏さまながら、その由緒を追うことができることの不可思議さ。聖徳太子もこの仏さまを凝視していた、そしていま、われわれが拝顔しているという歴史の連続性への思い、そのことがこの仏さまの深い背景にある。

→聖徳太子ゆかりの仏さまであることについて
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-32.html

【以下は引用】
『書紀』によれば、推古天皇11年(603年)聖徳太子が「私のところに尊い仏像があるが、誰かこれを拝みたてまつる者はいるか」と諸臣に問うたところ、秦河勝(はたのかわかつ)が、この仏像を譲り受け、「蜂岡寺」を建てたという。一方、承和5年(838年)成立の『広隆寺縁起』(承和縁起)や寛平2年(890年)頃成立の『広隆寺資財交替実録帳』冒頭の縁起には、広隆寺は推古天皇30年(622年)、同年に死去した聖徳太子の供養のために建立されたとある。『書紀』と『広隆寺縁起』とでは創建年に関して20年近い開きがある。これについては、寺は603年に草創され、622年に至って完成したとする解釈と、603年に建てられた「蜂岡寺」と622年に建てられた別の寺院が後に合併したとする解釈とがある。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E9%9A%86%E5%AF%BA

2.空間的な不可思議さ

この仏さまはどこで造られたのか。冒頭に掲げた写真をみれば一目瞭然である。また、韓国中央博物館の弥勒像をみて、日本の国宝第一号広隆寺のそれとの近似性に驚く人は多いだろう。自分も学生時代、はじめてその事実を知った衝撃は大きかった。この韓国の金銅弥勒菩薩半跏像がある以上、様式論で小うるさいことを言う日本の専門家が、日本での部材調達のわずかな可能性から日本製であると主張するなど、いささかならず我田引水の典型ではないだろうか。 

この仏さまの空間的な不可思議さは、文字通り、この2像の酷似にあり、そのことが朝鮮半島と当時の日本の緊密性をなによりも物語っていると言えよう。否、むしろ、もっと大きな仏像伝播の道からのアプローチが必要だろう。中国から朝鮮半島をへて、渡来人・帰化人によって仏像はわが国にもたらされた。朝鮮半島で熟成した技法、素晴らしいセンスが日本へ伝えられた。はじめは「直輸入」といってもよいだろう。しかし、御本地の半島では、戦禍があいつぎ他の地域と同じように、あるいはそれ以上に、固有の歴史的な資産、蓄積が壊滅的に失われる。

日本にも多くの戦争、自然災害はあったが、奇跡的に、いまある優れた資産が残された。それは、日本民族が舶載の古仏を大切に伝承してきた証であり、誇りであるといえよう。この2像の存在は、日韓のさまざまな同一性の問題を提起し、考えさせられる多くの課題をわれわれに問うている。空間的な不可思議さの所以である。

(参考文献)
第303号(1976年6月、B5判)
【特集】韓国の美術
韓国の鉄仏(田辺三郎助)
万暦十四年銘李朝螺鈿鞍の問題点(郷家 忠臣)
高麗の鉄絵青磁(長谷部 楽爾)

【以下は引用】

制作時期は7世紀とされるが、制作地については作風等から朝鮮半島からの渡来像であるとする説、日本で制作されたとする説、朝鮮半島から渡来した霊木を日本で彫刻したとする説があり、決着を見ていない。この像については、韓国ソウルの韓国国立中央博物館にある金銅弥勒菩薩半跏像との様式の類似が指摘される。

第二次世界大戦後まもない1948年、小原二郎は、本像内部の内刳り(軽量化と干割れ防止のため、木彫像の内部を空洞にすること)部分から試料を採取し、顕微鏡写真を撮影して分析した結果、本像の用材はアカマツであると結論した。日本の飛鳥時代の木彫仏、伎楽面などの木造彫刻はほとんど例外なく日本特産のクスノキ材であるのに対し、広隆寺像は日本では他に例のないアカマツ材製である点も、本像を朝鮮半島からの渡来像であるとする説の根拠となってきた。ところが、1968年に毎日新聞刊の『魅惑の仏像』4「弥勒菩薩」の撮影のさい、内刳りの背板はアカマツ材でなく、クスノキに似た広葉樹が使用されていることが判明した。この背板は後補ではなく、造像当初のものとみられる。この点に加え、アカマツが日本でも自生することから本像は日本で制作されたとする説がある。

朝鮮半島からの渡来仏だとする説からは、『日本書紀』に記される、推古天皇11年(603年)、聖徳太子から譲り受けた仏像、または推古天皇31年(623年)新羅から将来された仏像のどちらかがこの像に当たるのではないかと言われている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E9%9A%86%E5%AF%BA#.E6.9C.A8.E9.80.A0.E5.BC.A5.E5.8B.92.E8.8F.A9.E8.96.A9.E5.8D.8A.E8.B7.8F.E5.83.8F

3.哲学的な不可思議さ

この仏さまほど哲学者にインスピレーションを与えつづけている仏像もあるまい。外形上も哲学的に見えるのは、この仏さまが弥勒菩薩半跏像(かつては半跏「思惟」像といっていた)というお姿であることと無関係ではないだろう。「考える仏」、「思惟する仏」なのである。ここでは、ニーチェ哲学の後継者ヤスパースが来日し、この仏さまについて語ったあまりに有名な言葉を以下、引用しておきたい(水沢澄夫 『広隆寺』中央公論美術出版 1965年 p.21より転記)。

 「・・・・この広隆寺の弥勒像には、真に完成され切った人間実存の最高の理念が、あますところなく表現されています。それは、この地上に於けるすべての時間的なものの束縛を超えて達し得た、人間存在の最も清浄な、最も円満な、最も永久な、姿のシンポルである思います。・・・・」
(篠原正瑛「敗戦の彼岸にあるもの」から)

http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-21.html

(若干の補論)

韓国三国新羅時代の菩薩半跏思惟像(7C;メトロポリタン美術館蔵)は、野中寺の弥勒菩薩像と見まごうばかりの逸品に見える(metropolitan museumのサイトからCollection Database →Asian Artのコーナーへ。http://www.metmuseum.org/Works_of_Art/collection_database/)。こうした比較研究は、目視ばかりでなく、CT技術による成分分析、CG技術による再現技術などの飛躍的な進歩もあって、これからもどんどんと新たな展開をみることだろう。

http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-126.html

この広隆寺弥勒菩薩半跏像についても、そうした意味で新たな発見があるかも知れない。あまり指摘されることはないが、この仏さまは明治期に修理をうけるが、修理前の当時の写真が残っていると聞く。たしか久野健氏の本で読んだが、修理前はもう少し茫洋な表情で、韓国金銅弥勒菩薩半跏像により似ていた可能性があるようだ。

あまりに近代的な、完全無欠ないまのご尊顔、表情に驚くわれわれだが、(言葉に語弊はあろうが)、今風にいえば一種の「プチ整形」が施されていたかも知れないというのが久野説であったと記憶する。そんなところも尽きぬ魅力の一端かも知れない。

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◆中宮寺 観音

広隆寺宝冠菩薩は、その不可思議さのなかに、歴史的、空間的、哲学的にみて、説明可能な具体的な事柄をある程度「埋め込む」ことができる。異論はあるのだろうが、歴史的な縁起もあり、空間的には日韓両国にまたがり、哲学的にもヤスパースなどの援用もある。

それとの対比で、この中宮寺菩薩半跏像は、そうした歴史的、空間(地勢)的なバックグラウンドがよくわからない。まずは寺の説明を見てみよう。

【以下は引用】
東洋美術における「考える像」で有名な、思惟半跏のこの像は、飛鳥時代の彫刻の最高傑作であると同時に、わが国美術史上、あるいは東洋上代芸術を語る場合にも欠かすことの出来ない地位を占める作品であります。また国際美術史学者間では、この像の顔の優しさを評して、数少い「古典的微笑(アルカイックスマイル)」の典型として高く評価され、エジプトのスフィンクス、レオナルド・ダ・ヴィンチ作のモナリザと並んで「世界の三つの微笑像」とも呼ばれております。
半跏の姿勢で左の足を垂れ、右の足を膝の上に置き、右手を曲げて、その指先きをほのかに頬に触れんばかりの優美な造形は、いかにも人間の救いをいかにせんと思惟されるにふさわしい清純な気品をたたえています。斑鳩の里に伝統千三百余年の法燈を継ぐ中宮寺の、この像は、その御本尊として永遠に私たちを見守ってくださるでしょう。
http://www.chuguji.jp/index.html

しかし、神秘的なベールに包まれていればいるほど好奇心は湧いてくるもの。中宮寺菩薩半跏像については、その工法についてふれられることが多い。クスノキでできているが、特殊な矧ぎ方をしており、木寄せの技法が駆使されている。

一木造りが主流だった時代に、部材をいくつも分けて、これを巧みに組み合わせてつくっている。そこから一木造りをするだけの十分なボリュームのとれなかった霊木があり、これを最大限生かして造像するために、こうした高度な木寄せを行なったのではないかと考える向きがおおい。それにしても、一体感は実に素晴らしく、そうした矧ぎをいれているようには全く見えない。仏師の技量はたいしたものであったことだろう。 
http://www.bunkaken.net/index.files/raisan/shodana/shodana117.htm

【以下は引用】
飛鳥時代の作。像高132.0cm(左脚を除く坐高は87.0cm)。広隆寺の弥勒菩薩半跏像とよく比較される。寺伝では如意輪観音だが、これは平安時代以降の名称で、当初は弥勒菩薩像として造立されたものと思われる。国宝指定の際の官報告示は単に「木造菩薩半跏像」である。材質はクスノキ材。一木造ではなく、頭部は前後2材、胴体の主要部は1材とし、これに両脚部を含む1材、台座の大部分を形成する1材などを矧ぎ合わせ、他にも小材を各所に挟む。両脚部材と台座部材は矧ぎ目を階段状に造るなど、特異な木寄せを行っている。本像の文献上の初出は建治元年(1275年)、定円の『太子曼荼羅講式』で、同書に「本尊救世観音」とあるのが本像にあたると考えられている。それ以前の伝来は不明である。現状は全身が黒ずんでいるが、足の裏などにわずかに残る痕跡から、当初は彩色され、別製の装身具を付けていたと思われる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AE%AE%E5%AF%BA

http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-159.html

さて、中宮寺菩薩半跏像の頭部の髻に注目してみる。後世の音声菩薩同様、双髻を結っている。当時のはやりのファッション、髪型であったのだろう。いまは黒漆の地肌で、ちょっと見ると銅像(ブロンズ)のように見えるが、漆のうえには金色の彩色があり、宝冠、胸飾りなどの荘厳もあったようだ。とすると、いまわれわれが拝顔する姿とはだいぶ印象が異なっていたろう。

当時、朝鮮および日本では菩薩半跏像はブームだった。いまでも類似の作品は小金銅仏として数多く残されている。仏師は、広隆寺宝冠菩薩を見ていたかどうかはわからないが、類似の基準作は手元においていたのではないかと思う。

広隆寺宝冠菩薩はユニ・セックス的、音声菩薩はかわいい童子のようだが、中宮寺菩薩半跏像は見るからに女性的である。尼寺のご本尊にはふさわしい。たとえば、聖徳太子の御母穴穂部間人皇后、あるいは聖徳太子の妃である橘大郎女を写したという伝説ができたとしても自然にも思える。

【以下は引用】
中宮寺は聖徳太子の御母穴穂部間人皇后の御願によって、太子の宮居斑鳩宮を中央にして、西の法隆寺と対照的な位置に創建された寺であります。その旧地は、現中宮寺の東方三丁の所に土壇として残っておりましたのを、発掘調査しましたところ、南に塔、北に金堂を配した四天王寺式配置伽藍であったことが確認され、それは丁度法隆寺旧地若草伽藍が四天王式であるのに応ずるものといえましょう。而もその出土古瓦から、法隆寺は僧寺、中宮寺は尼寺として初めから計画されたものと思われます。国宝菩薩半跏像(寺伝如意輪観音)はその金堂の本尊であり、天寿国曼荼羅は、その講堂本尊薬師如来像の背面に奉安されたものと伝えております。
http://www.chuguji.jp/about/index.html

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第3章 釈迦三尊像

武人たる太子の守護神だった四天王、現実政治での懊悩を克服せんとする弥勒菩薩、そして太子は死して神となる。そうした連想から以下を参照。

◆法隆寺金堂釈迦三尊像

【釈迦三尊】
 仏像配置の1形式である三尊仏の一種。釈迦如来を中心に,左に薬王菩薩,右に薬上菩薩,または左に文殊菩薩,右に普賢菩薩を配する。
  法隆寺金堂の本尊である釈迦三尊像は,鞍作鳥(止利仏師)が623年につくったものといわれ,左右対称の厳格な構成など,飛鳥彫刻の特徴を示す代表作であり国宝。
【鞍作鳥】
 7世紀初ごろ飛鳥時代の代表的な仏像彫刻師。渡来人で仏教をつたえたといわれる司馬達等の孫で,止利仏師ともいわれ,聖徳太子に用いられた。その作風には中国の北魏の影響が見られる。代表作に法隆寺金堂の釈迦三尊像がある。「鳥」は「止利」とも書く。
http://kids.gakken.co.jp/jiten/3/30024490.html

 さて、この釈迦三尊像については、恐るべきシンメトリーさが隠されている。その点を学生時代に少しく書いたことがある。また、光背などにみる文様分析もその時に囓った。意匠を見抜くには図版のほうが良い場合もあるが、法隆寺金堂から上御堂へ移座された釈迦三尊像をこの目でいくども観察して、その尊顔の素晴らしさに魅入りながら、この仏様には「稚拙さ」などとはほど遠い完成度が秘められていると感じた。止利(工房)の渾身の作であったことは間違いないが、この釈迦三尊と同じ(ないし類似)タイプの、より巨大なものも別に鋳られ、炎上前の(旧)法隆寺に鎮座したかも知れない。何故なら、同じ止利(工房)の飛鳥寺の釈迦仏の大きさとこの釈迦三尊の大きさは、「丈六」と言われてもあまりにも合わない。後者は抜群に優れているがあまりに小さく見える。
 鋳造された年月を信じるとしても、これはいまの法隆寺金堂のために造られたのではなく、有力な関連寺院に置かれた客仏で、金堂建立(再建)時に移設された可能性が高いというのが小生の勝手な意見であり、これについては以前も書いた。
 一種の<サンプル作>であるとすれば、あらゆる意味でさまざまな意匠を実験、積載しており、だからこそシンメトリーさや文様だけでなく、当時の粋を結集している、また、鋳直しの謎も解明できるのではないかと思う次第である。
 様式論にはあまり興味がないが、その尊顔の厳しさとともに角度によってかいま見せる慈しみの優しさ、また、後世の剥落の影響からか、全般に漂うほの寂しさなどの<複雑な印象>は、生前の聖徳太子を写したという伝説にリアリティを与える。その一方、険しくも高貴なお顔からは、既に人心をこえた超越的なものを感じさせずにはおかない。<神>を鋳てさらに仕上げて彫ったと言ってよいと思う。

中国とオランダ 章公祖師像

中国 章公祖師像

様々な影響が今後、気になる事案。ナショナリズムの発露、過去の簒奪(盗品など)についての考え方、文化と政治のありようなど考えるべき問題は多い。日本と韓国の関係にも一石を投じる可能性もある。

【以下は引用】

盗まれてオランダに渡った中国の仏像、中国が返還提訴

2017/3/15(水)7:00 NEWSポストセブン

 中国福建省の博物館から1995年に盗まれた仏像が「オランダのアムステルダムの博物館に所蔵されている仏像と同じだ」として、同省在住の博物館関係者が仏像の返還を求め、オランダ人所有者をアムステルダムの裁判所に訴えた。その第1回公判が今年7月に開かれることが分かった。「盗品」である文化財の返還を求めて、中国の関係者が海外で裁判を起こすのは極めて珍しい。

 ユネスコ(国際連合教育科学文化機関)によると、海外に流出している中国の文化財は167万件以上とみられており、今回の裁判の結果次第では、「盗品」の返還を求め、中国の関係機関による裁判ラッシュが起きることも懸念されている。香港の英字紙「サウスチャイナ・モーニング・ポスト」が報じた。

 中国側の主張によると、この仏像は福建省太田県陽春村の博物館に所蔵されていた「章公祖師像」という北宋時代 (960-1127年)に作成されたもの。

「章公」という僧侶は実在した人物で、医術の心得があり、住民が病気の時に治療をしたことで多くの人々の命を救ったとされる。住民から深く慕われており、章公が死んだ際、住民は彼をミイラにして、その身体に合わせて、すっぽりと金属で覆い金色の仏像を作ったとされる。

 それ以来、仏像は村民に受け継がれ、新中国建国後前後には博物館に展示されるようになったが、1995年には博物館から盗まれていた。

 ところが、この仏像と思われるものが2014年1月から8月までオランダのドレンテ博物館で展示された後、10月からハンガリーの自然史博物館で展示。そして、陽春村の博物館関係者が同展示会を見た際、「章公祖師像ではないか」と指摘。展示は2015年3月20日に中止され、オランダに戻された。

 仏像の所有者はアムステルダムの建築家で、1996年に約1万8100ユーロ(約235万円)で購入した。かつて1000万ユーロ(約13億円)で譲ってほしいという希望者もいたが、売らなかったという。「この仏像が本当に福建省から盗まれたものであるならば、返還しても良い」と述べている。

 その後、オランダ人所有者は「この仏像が盗まれたと中国側が主張する時期以前に、私はこの仏像をオランダで見たことがある。鑑定をするなどして、本当に盗品かどうかを証明してほしい」と反論。一転して、所有をめぐって中国側と争う姿勢に転換した。

 その結果、中国側がオランダの裁判所に訴え出て、裁判が開かれることになったという。

 中国から海外に流出した文化遺産の返還を求める動きは年々強まっているが、最も有名なのは円明園の12支像問題で、その一部がパリのオークションで競売にかけられ、中国側が返還を求めるなど国際問題に発展した。中国の文化財は、47カ国の約200カ所の博物館で展示されており、そうしたことも、今回の裁判が注目される理由でもある。
http://news.nicovideo.jp/watch/nw2688873

快慶展 奈良国立博物館

会計
特別展で展示される国宝「僧形八幡神坐像」

快慶作品がたくさん展示される。快慶の凄さの一端ー仏さまの豊かな頬、その薄い皮膚の質感を冴え冴えと彫れる天才である。次の快慶論も参照。

➡ 仏師 快慶論  意識した芸術家の横顔
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-426.html

【以下は引用】

傑作ずらり、「快慶」展…奈良国博で4月から

 奈良市の奈良国立博物館は22日、鎌倉時代の仏師・快慶の代表作を集めた特別展「快慶 日本人を魅了した仏のかたち」(読売新聞社など主催)を4月8日~6月4日に開くと発表した。

 鮮やかな彩色が残る「僧形八幡神坐像そうぎょうはちまんしんざぞう」(東大寺蔵)など国宝7件を含む88件を出展。うち37件は、銘文などから快慶が手がけたことが裏付けられており、快慶作と判明している作品のうち8割強が集う。

 快慶は、鎌倉彫刻の完成に大きな影響を与えたが、生没年など生涯については不明な点が多い。特別展では仏像のほか、作品成立にまつわる資料なども展示し、快慶の魅力や人物像に迫る。

 湯山賢一館長は「快慶作品がこれほど集まるのは初めて。快慶の魅力にふれてほしい」と話す。

 午前9時30分~午後5時(金、土曜は午後7時まで)。月曜休館(5月1日は開館)。観覧料金は一般1500円、高校大学生1000円、小・中学生500円。

 問い合わせは同館ハローダイヤル(050・5542・8600)。
http://www.narahaku.go.jp/exhibition/2017toku/kaikei/kaikei_index.html

2017年02月23日 Copyright © The Yomiuri Shimbun
http://www.yomiuri.co.jp/osaka/news/20170223-OYO1T50004.html

快慶の名品 ギャラリー(手元の画像のみ。今回の出展内容とは一部異なります)

日本の美術241 阿弥陀如来像 
東大寺 阿弥陀如来立像

金泥塗(きんでいぬり)に截金文様(きりかねもんよう)を表した髪際高(はっさいこう)3尺の立像。文献および足枘(あしほぞ)の刻銘と針書(はりがき)により、快慶を作者として建仁3年に完成した後、承元2年(1208)に截金を施したと見られる。頭部内に金属製の五輪塔が、像内右脚部に2巻の巻子(かんす)が納められている。

快慶 光台院 阿弥陀三尊
光台院 阿弥陀三尊

浄土寺阿弥陀三尊
浄土寺 阿弥陀三尊
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-293.html

快慶 耕林寺 宝冠阿弥陀如来坐像
耕林寺 宝冠阿弥陀如来坐像

快慶 大日如来 石山寺
石山寺 大日如来坐像 
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-338.html

快慶 西方寺 阿弥陀如来立像
西方寺 阿弥陀如来立像

木造 金泥塗・截金 像高98.5 cm
鎌倉時代(12~13世紀) 快慶作

足枘(あしほぞ)に「巧匠(梵字アン)阿弥陀仏」の墨書があり、無位時代の快慶の作とわかる。明快な表情や衣文の表現、体軀(たいく)の肉取りなどに、若々しい感覚が充溢する。袈裟(けさ)を左肩から紐で吊り、末端を左腕に懸ける表現は、快慶の三尺(さんじゃく)如来立像では本像のみ。

快慶地蔵菩薩立像
東大寺 地蔵菩薩立像
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-85.html

快慶 藤田美術館 地蔵菩薩立像
藤田美術館 地蔵菩薩立像
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-166.html

快慶 大圓寺 阿弥陀如来立像
大圓寺 阿弥陀如来立像

http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-272.html

快慶 釈迦如来立像
アメリカ・キンベル美術館 釈迦如来立像

木造 金泥塗・截金 像高81.8 cm
鎌倉時代(13世紀) 快慶作

表面の美しい金泥塗(きんでいぬり)や截金文様(きりかねもんよう)をよく残す保存状態の良い作品。足枘(あしほぞ)に「巧匠/法眼快慶」(/は改行)の墨書があり、快慶の比較的晩年に近い時期の作と見られる。光背は当初のもので、周縁部に春日四所明神(かすがししょみょうじん)の種子(しゅじ)を表すことから、春日大社ないし興福寺周辺に伝来したと推測される。

快慶 ボストン2
ボストン美術館 弥勒菩薩立像

内納入品により、文治5年に快慶が造立した弥勒菩薩立像であることが判明する。今日知られる快慶作品のうち最も制作年代が早い。もと奈良・興福寺に伝来した。平安時代後期の作風も残るが、みずみずしい肉取りには作者の若さが溢(あふ)れ出るかのようである。
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-317.html

快慶 金剛峯寺 四天王像
金剛峯寺 四天王像

髪際高(はっさいこう)(髪ぎわまでの高さ)で約4尺の四天王像のうちの2軀。広目天像の左足枘(あしほぞ)外側に「巧匠快慶/アン(梵字)阿弥陀仏」(/は改行)の刻銘がある。鎌倉再建期の東大寺大仏殿内に安置された巨大な四天王像と同図像の作品で、そのひな型として造られた可能性がある。

快慶 高野山霊宝館収蔵 深沙大将
高野山霊宝館収蔵 深沙大将
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-266.html
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-315.html

快慶木造騎獅文殊菩薩及脇侍像
安倍文殊院 騎獅文殊菩薩及脇侍像
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-430.html

【“快慶展 奈良国立博物館”の続きを読む】

テクノ法要

テクノ法要

お寺さんも少子高齢化、限界集落論などの動きのなかで、さまざまな取り組みを行っている。

【以下は引用】
プロジェクター投影&舞台照明で極楽浄土を表現!?
 「テクノ法要」実践の福井・照恩寺がクラウドファンディング


文化庁の『宗教年鑑』によると、仏教のお寺(宗教法人)の数は全国で約74000件。信者数は約4775万人とされていますが、その数は年々減少傾向にあり、一説によると2040年には30~40%のお寺が消える可能性があるとか。
そんな中、仏様の存在をより近しいものへとする斬新な取り組み、その名も「テクノ法要」が福井県福井市の浄土真宗本願寺派・照恩寺で実践されています。

照恩寺の朝倉行宣住職は、20代前半にはDJとして活動。YMOに影響を受けたと公言し、「細野(晴臣)さんの精神性の中に仏教を感じていた」といいます。また、Perfumeの「Dream Land」のパフォーマンスに特に感銘を受けたとして、その歌詞についても「阿弥陀様の気持ちを歌っているのではないかと感じるようなもの」と語り、妻の後押しもあり「テクノ法要」へと昇華したといいます。

『YouTube』では、2016年10月25日に勤めた「テクノ法要」がアップされており、その光に照らされる境内と仏様の様子、さらにはテクノ版のお経と木魚の音が一体となった映像を見ることができます。

照恩寺 テクノ法要 2016/10/25 – YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=8dmPCC5EYTQ

一見奇想天外ですが、その曼荼羅のような色彩豊かな世界観が展開され、サイバーな雰囲気の声明も違和感なく聞こえてくるように感じます。
なんでも、住職のお母さんも本番前日のリハーサルを観て「これはお浄土だわ」と納得し、お年寄りも「お浄土って奇麗やねぇ」という反応だったとか。
すでに照明などの機材に60万円費やしているという朝倉住職ですが、現在クラウドファンディングサイト『Readyfor』で2017年2月24日まで30万円の出資を募っています。資金はプロジェクター購入費、プロジェクションマッピング等ソフト、舞台照明機材などに充てるとのこと。

「阿弥陀仏は光の仏様」であり、「僧侶として大切なのは、仏の教えを伝えること。テクノ法要は単なる”客寄せパンダ”ではない」と力説する朝倉住職のクラウドファンディングが成功するのかどうか、音楽ファンの視点からも注目されます。

固定観念を崩せ!テクノ法要で仏教を身近にー照恩寺住職の挑戦(Readyfor)
https://readyfor.jp/projects/techno-hoyo

【対馬の盗難仏像判決】韓国専門家の相当数、日本返還求める 「国際的信用失墜させる」「略奪の確証なし」と断言

対馬市観音寺観世音菩薩(盗難品)

慰安婦像問題が片付かないさなか、とても不味いタイミングで以下の記事が配信されている。本ブログでも紹介してきたように、仏像についても文化交流で地道な関係者の努力がある一方で、そうした動きを台無しにするような、砂を噛むような事態が発生している。司法の権威が失墜すれば、その国の信頼は根底から揺らぐ。ことは小金銅仏の問題にとどまらないだろう。

【以下は引用】

【ソウル=名村隆寛】長崎県対馬市の観音寺から韓国人窃盗団が盗み出し、韓国に持ち込まれた「観世音菩薩坐像」を、元の所有権を主張する韓国中部・瑞山(ソサン)の浮石(プソク)寺に引き渡すよう命じた大田(テジョン)地裁の判決について、27日付の韓国紙は、日韓関係のさらなる悪化や、韓国の専門家の否定的な見方を伝えた。

 朝鮮日報は、韓国の専門家の相当数が「たとえ略奪された文化財であろうが、適法な手続きで返還せねばならない」と指摘していることに言及。「具体的な略奪、搬出の経緯が証明されずに(日本からの)盗品をを“略奪文化財”と認めたことで国際的な信用を失墜させるのはもちろん、今後日本などとの文化財交流に与える影響は小さくはない」とする西江大学教授の見方を紹介した。

 同紙によると、国際法の専門家は匿名で「略奪された確証がなく、韓国人が盗んできたことが明らかな文化財を『韓国のものだ』と主張するのは国益にならない」と述べたという。

 東亜日報は「韓国の文化財界では歓迎と憂慮が交錯している」とし、「判決により、韓日の文化財交流や日本国内の文化財の(韓国への)返還運動に多くの困難が出るだろう」とする複数の学者の見方を伝えた。

産経新聞記事

ギメ東洋美術館(パリ)蔵 勢至菩薩立像 里帰り

パリ ギメ東洋美術館 勢至菩薩
パリのギメ東洋美術館に渡った勢至菩薩

【以下は引用】
2017年1月24日12時02分

法隆寺からフランスに渡っていた仏さまが里帰りする。それも、寺宝調査の完成を祝うタイミングで。高田良信さんの念願が絶妙な形でかなうことになった。

     ◇

 1981(昭和56)年に始まった法隆寺昭和資財帳調査ですが、その編纂(へんさん)には時間的な限度があります。いつ打ち切るか、どこまでするか。絶対完全ということはありません。ひとつの区切りとして、94(平成6)年に完成を祝う「法隆寺昭和資財帳調査完成記念―国宝法隆寺展」を開催することになりました。

 千数百年来の仕事が完成したのだから思い切った出陳をしたいと、寺内に諮り、お許しを得ました。聖霊院のご本尊である聖徳太子坐像(ざぞう)も含め、ありとあらゆる寺宝を出させていただきました。

 念願だったのは、パリのギメ東洋美術館に渡った勢至菩薩(せいしぼさつ)像の里帰りを実現させ、本来安置されていた阿弥陀如来像と並んで展示したいということでした。それが実現したのは大変な喜びでした。2月28日のことです。また、同年末にはお身代わり像を金堂に安置することができました。

     ◇

《展示に先立ち、2月24日付の朝日新聞朝刊はこう伝えた。

 盗まれた法隆寺の菩薩像が120年ぶり里帰り

 奈良県斑鳩町・法隆寺の金堂から明治時代に盗まれてパリのギメ美術館で一九九一年三月、百十五年ぶりに見つかった阿弥陀如来座像の両側に立つ脇侍(きょうじ)の一体、「金銅・勢至菩薩立像(せいしぼさつりゅうぞう)」が里帰りし、二十三日、奈良市の奈良国立博物館で荷を解かれた。

 三月一日から同博物館で開かれる「法隆寺昭和資財帳調査完成記念―国宝法隆寺展」で、阿弥陀如来座像、観音菩薩立像(いずれも重文)とともに阿弥陀三尊像として展示される。三尊がそろって公開されるのは、勢至菩薩が姿を消したとみられる一八七六年以来。

 勢至菩薩は高さ約六十センチ。貞永元年(一二三二)、運慶の四男康勝(こうしょう)が造ったと、阿弥陀如来座像の光背の銘文などに記されている。》

http://www.asahi.com/articles/ASK1F55X5K1FPLZU002.html

仏像修理の技、企画展が開幕 京産大ギャラリー

京都産業大ギャラリー
朝日新聞デジタル映像から

【以下は引用】
仏像修理の技、企画展が開幕 京産大ギャラリー

2017年1月24日12時02分

 文化財の修復作業を紹介する企画展「仏像修理の現場」が23日、下京区中堂寺の京都産業大ギャラリーで始まった。3月11日まで。

 京産大では5年前から、学芸員課程の学生が学ぶ機会も兼ねて京都の歴史や文化財に関連した企画展を開いてきた。今回は、公益財団法人美術院の修理技術者が実際に使用する道具などを展示。木材に直線を引く「墨壺(すみつぼ)」や「槍鉋(やりがんな)」などの伝統的な道具から、木材の腐敗を防ぐため近年使われるようになった合成樹脂、紫外線に強いアクリル絵の具などを紹介。東寺(南区)の千手観音立像(国重要文化財)修復の際、もとの形を正確に再現するためにつくられた模型も並ぶ。

 この日訪れた公務員の池田剛さん(45)は「元々あったものに近づける技術は素晴らしいし、大切にしなければいけない」と話した。

 入場無料。日祝休館(2月5、19日は開館)。2月19日には京産大むすびわざ館ホールで、美術院・西洞院工房長の八坂寿史さん(61)による講演会がある。問い合わせは同館事務室(075・277・0254)へ。

http://www.asahi.com/articles/ASK1R3V9KK1RPLZB005.html

『韓国仏像史 三国時代から朝鮮王朝まで』 水野さや著

韓国仏像史

日本も多くの戦禍を経験している。しかし朝鮮半島のほうがはるかに厳しかったと思う。一方で、日本人が仏像を大切に継承してきた歴史は重いし世界に誇りうるものである。火事で池に仏様と「入水」したこともあろう、地中に埋めて秘かに守ったこともあろう、客仏というかたちで宗派をこえて避難したこともあろう。為政者がパトロンして古き仏様を修復したこともあろう、そしてなによりも、無名の僧侶や民衆が永きにわたって大切に手渡ししてきた歴史がある。

【以下は引用】
半島ならではの色合い

 西暦五三八年、百済の聖明王から仏像と経文が大和朝廷にもたらされ、日本に仏教が伝来した、と高校日本史で習う。次の世紀には日本でも本格的な仏像製作がはじまるが、法隆寺の釈迦三尊像や「百済観音」、中宮寺の菩薩半跏ぼさつはんか像、広隆寺の弥勒みろく菩薩半跏思惟像など、飛鳥時代を代表する作品には朝鮮半島の影響が強く残ると教えられる。だが、かの地の仏像について、私たちは多くを知らないままに済ませてきた。

 朝鮮半島では、三国時代、中国の前秦からまず高句麗に、続いて東晋から百済に仏教は伝わった。四世紀後半のことであり、半世紀ほど遅れて新羅にも仏教は伝わる。こうして、三国時代の朝鮮半島は仏教色に染まってゆく。仏像製作がそれに伴った。仏像製作は三国の間で刺激しあい、中国からの影響も受けながら、半島ならではの色合いを滲にじませてゆく。統一新羅時代から高麗時代にかけても王朝に手厚く保護された仏教信仰は民間に浸透し、仏像は時代ごとの表情をみせてゆく。崇儒すうじゅ廃仏を掲げた李氏朝鮮時代でさえも、面相が優雅で温和、姿勢が荘重で温雅な仏像が数多く製作されていた。

 朝鮮半島の今に残る仏像は、古くはもっぱら金銅仏と石造仏である。統一新羅時代から鉄造の仏像がこれに加わる。塑像は朝鮮時代になって普及した。日本には「百済観音」をはじめ木造仏が伝わったが、なぜか朝鮮半島に木造仏は残らなかったのだ。それでも、三国時代の金銅菩薩半跏思惟像は広隆寺に伝わる木造の弥勒菩薩像を思わせずにはおかないだろう。慶州の石窟庵ソックラムに坐ざす如来像(八世紀中頃)は、写真からでも、その静寂の内に秘めたのびやかな力量感が伝わってくる。

 本書は日本で最初の朝鮮半島の仏像通史である。著者は東アジア、なかでも朝鮮半島の仏像史研究に携わる美術史家。各時代に目を配り、韓国の研究者たちとの議論をふまえつつ、個々の作例にじつに丁寧な解説をほどこしてゆく。

 ◇みずの・さや=愛知県生まれ。金沢美術工芸大准教授、文学博士。著書に『図説 韓国の国宝』など。

 名古屋大学出版会 4800円

元の記事を読む
http://www.yomiuri.co.jp/life/book/review/20161031-OYT8T50008.html#csidxd9c67098fc5e77fa843d09727ffb3a5
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香薬師像の右手

香薬師像の右手

➡ まず、本の紹介から。こんな面白そうな本がでているのを知らなかった。是非、手に取ってみたい。

【以下は書籍の「内容紹介」から引用】

奈良・新薬師寺の香薬師立像は、旧国宝に指定され、白鳳の最高傑作と言われていた美仏。あまりの美しさから「金無垢でできている」という噂がたち、明治時代に2度盗まれたが、手足を切られ、純金製でないことが分かると2度とも道端に捨てられているのが発見され、寺に戻った。そして昭和18年、3回目の盗難に遭う。
「国宝香薬師盗難事件」は、戦時中の新聞にも報じられ、仏像ファンたちに大きな衝撃を与えた。2度盗まれて戻ってきた像だったが、今回ばかりは発見されず、未だ行方が分からない。
この行方不明の香薬師を見つけ出そうと、元産経新聞の記者である著者が取材を開始。新薬師寺住職の全面的な協力を得た調査では、まるでミステリー小説を地で行くような展開に。その結果、衝撃の新事実が発覚。ついに、「本物の右手」の存在をつかむ……。

https://www.amazon.co.jp/%E9%A6%99%E8%96%AC%E5%B8%AB%E5%83%8F%E3%81%AE%E5%8F%B3%E6%89%8B-%E5%A4%B1%E3%82%8F%E3%82%8C%E3%81%9F%E3%81%BF%E3%81%BB%E3%81%A8%E3%81%91%E3%81%AE%E8%A1%8C%E6%96%B9-%E8%B2%B4%E7%94%B0-%E6%AD%A3%E5%AD%90/dp/4062202891/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1484415108&sr=1-1&keywords=%E9%A6%99%E8%96%AC%E5%B8%AB%E5%83%8F%E3%81%AE%E5%8F%B3%E6%89%8B

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➡ 次に、この労作をきっかけとして、見つかった右手が大きな話題になっていることについて。

【以下は記事引用】

◆70年前盗難の重文仏像の右手戻り公開 「本体発見につながれば」 新薬師寺、奈良博

2016.12.26 20:31更新

 奈良市の新薬師寺から約70年前に盗まれて所在不明となっている白鳳期(7~8世紀)の「銅造薬師如来立像」(重要文化財、香薬師(こうやくし)像)の右手部分が見つかり、奈良国立博物館(奈良市)に寄託された。27日から一般公開され、関係者らは「本体発見につながれば」と、消えた傑作が戻ることを願っている。

 香薬師像は高さ約75センチで白鳳仏の代表的存在。明治時代に2度盗まれて寺に戻ったが、昭和18年に再び盗まれた。右手は最初の盗難後に切断され、3度目の盗難時に本体と一緒に盗まれたとみられていた。

 しかし、ノンフィクション作家、貴田(きだ)正子さん(47)が調べた結果、右手は別に保管され、神奈川県鎌倉市の寺に寄贈されていたことが判明。東京文化財研究所の調査で「白鳳期の金銅仏として矛盾する要素はない」と判断された。

 文化庁によると、平成27年度末現在で、国宝・重要文化財の美術工芸品のうち香薬師像を含む172件が「所在不明」。新薬師寺の中田定観住職は「これを機に情報が寄せられれば」と話している。

http://www.sankei.com/west/news/161226/wst1612260078-n1.html

◆行方不明の旧国宝、香薬師像の右手を72年ぶりに発見!

2016.10.12 19:39更新
㈱講談社
国宝盗難の謎に迫る衝撃のノンフィクション!「香薬師像の右手~失われたみほとけの行方~」は講談社から発売!

白鳳時代の仏像の最高傑作といわれる奈良・新薬師寺の香薬師像。昭和18年に3度目の盗難に遭い、行方不明になっていたが、このほどその一部である「右手」が昨年発見され、新薬師寺に返還された。

仏像の右手にたどり着いたのは、元新聞記者で、20年以上香薬師像の取材を続けている貴田正子氏。新薬師寺住職の全面的な協力を得て地道な調査取材をするうち、昭和18年の盗難時に本体と右手がバラバラになり、実は右手だけが盗まれていなかったこと、その右手も行方不明になっていることが判明する。本体とは別に右手探しを本格始動すると、彫刻家や美術史家らの証言が得られ、ついに右手の所在を突き止める。そして無事、新薬師寺への返還が行われた。行方不明であることさえ知られていなかった文化財を探し当て、元の寺に戻すという「前例のない文化財発見のニュース」だ。

東京芸術大学名誉教授で、日本彫刻史研究の権威である水野敬三郎氏も、この右手を「本物」と認め、「この手の出現は美術史的にも大きな意義を持っています」とコメントしている。

また、7月末に行われた東京文化財研究所の科学調査により、「白鳳時代の金銅仏であることを否定するものは何も出なかった」という結果が得られた。

今回発見されたのは、紛れもなく本物の香薬師像の右手。その美しい造形と発見までの物語に、仏像ファンならずとも魅了されること、間違いない。

[画像: http://prtimes.jp/i/1719/1143/resize/d1719-1143-671295-0.jpg ]

今回の歴史的発見に至る経緯をまとめたノンフィクション「香薬師像の右手~失われたみほとけの行方~」が講談社より刊行される。書籍には、発見までの経緯の詳細のみならず、調査取材中に見つかった衝撃的な写真や、著者が丹念に調べ上げた当時の新聞記事、資料などが多数掲載されている。

http://www.sankei.com/economy/news/161012/prl1610120316-n1.html

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➡ 過去に書いた以下の記事も参照。たまたまだが、これも産経新聞にて掲載されたもの

http://blog.livedoor.jp/shokkou/archives/1879505.html

香薬師如来像

松蔭寺銅製如来坐像 飛鳥後期の作品か

松蔭寺銅製如来坐像
銅造如来坐像(横浜市教育委員会提供)

京都で飛鳥仏発見かのビック・ニュース(下記参照)、一方横浜からも同様な配信あり。日本のモノを大切にする伝統、誇れると思う。

◆京都妙傳寺・半跏思惟像 飛鳥仏の可能性
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-491.html

【以下は引用】
松蔭寺の仏像 市文化財に 市内最古の彫刻

東寺尾の松蔭寺(川上敬之住職)が所有する銅造如来坐像(伝阿弥陀如来像)が、このほど横浜市の文化財に指定された。

 横浜市は、1987年に横浜市文化財保護条例を制定し、重要な価値を持つ市内の文化財や史跡などを指定・登録している。

 銅造如来坐像は、高さ25・3cmの飛鳥時代後期の金銅仏。仏像彫刻としては市内最古で、関東地方でも希少な作例。もともとは松蔭寺が管理していた神奈川区の八幡宮に祀られていたが、明治期の神仏分離で同寺へ移された。「当時は天皇の権威を高めるため、壊された仏像もあったが、苦難を乗り越えた」と同寺の川上敬吾閑栖は話す。

 現在は東京国立博物館へ寄託され、寺内で見ることはできない。川上住職は、「地元で知る人は少ない。実は鶴見にあったと知ってもらえたら」と話している。

http://www.townnews.co.jp/0116/2017/01/12/365306.html 

興福寺 梵天・帝釈天 根津美術館で再会!

興福寺 梵天・帝釈天
112年ぶりに並べて展示された興福寺の梵天立像(右)と帝釈天立像(6日、東京都港区の根津美術館)

【以下は引用】

興福寺の仏像2体、112年ぶり「再会」 梵天と帝釈天
東京・根津美術館で並んで展示
2017/1/6 18:25

東京・根津美術館で7日に始まる「再会―興福寺の梵天(ぼんてん)・帝釈天」展で、高さ180センチ超の2体の仏像が112年ぶりに並んで展示される。

 興福寺が所蔵する梵天立像(重要文化財)と同館所蔵の帝釈天立像は明治期まで興福寺東金堂に安置されていた一組の像。1905年、廃仏毀釈で疲弊した寺を支援した実業家の益田鈍翁に帝釈天像が返礼として譲られ、その後、同館に渡った。

 運慶の父の門下の仏師、定慶による貴重な仏像の“再会”に「2体を対照できるまれな機会」と興福寺国宝館の金子啓明館長は話す。

http://www.nikkei.com/article/DGXLASFG06H6B_W7A100C1000000/

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