大和古仏探訪

京阪神を中心に内外の古仏についていろいろと書いてみたいと思います。

仏像 (ポストカード) (ヤマケイカレンダー2017)

仏像カレンダー 1

【上記および以下はすべて引用です】
https://www.amazon.co.jp/gp/product/463585213X/ref=pe_1863752_244288452_em_1p_0_ti 【“仏像 (ポストカード) (ヤマケイカレンダー2017)”の続きを読む】

特別展「平安の秘仏―滋賀・櫟野寺の大観音とみほとけたち」

櫟野寺8

特別展「平安の秘仏―滋賀・櫟野寺の大観音とみほとけたち」が、東京国立博物館(本館 特別5室)で 2016年9月13日(火) ~ 12月11日(日) まで開催される。

甲賀といえば伊賀とともに、一般には「忍者の里」というイメージが強いが、比叡山延暦寺にもちかく最澄はじめ天台宗の僧が拠点とし往時は大寺院が栄えたゾーンでもあった。ゆえに平安時代からの仏像の集積も並々ならぬものがある。その甲賀の名刹、櫟野寺諸仏のいわば引っ越し展示が東京秋の仏像探訪のハイライトである。

【以下は引用】(記載がないものは東博HPから)

1.櫟野寺 らくやじ (いちいの観音)の略縁起(当寺HPから)

福生山自性院櫟野寺(いちいの観音)は桓武天皇の延暦十一年に比叡山の開祖伝教大師様が根本中堂の用材を得る為に甲賀郡杣庄おいでにまりました時、霊夢を感じて此の地の櫟の生樹に一刀三礼の下彫刻安置されました。日本最大坐仏十一面観音菩薩がご本尊様です。(世に生えぬきの観音様と称されております。)

その後、延暦二十一年鈴鹿山の山賊追討に当たり、杣ケ谷を櫟野まで登られた坂上田村麻呂公は、当地鎮座の櫟野観音さまに祈られその御力により鈴鹿山の群賊を平定することが出来たのであります。(鈴鹿山の鬼退治と伝わる)それ故将軍は当寺を祈願寺と定め、大同元年七堂伽藍を建立、永く当山守護の為に自ら等身の毘沙門天の尊像を彫刻、そして家来に命じて国技の相撲を奉納、是が現在まで継続しております大会式十月十八日の奉納相撲なのであります。

当寺は、天台宗総本山延暦寺の末寺で、往古は甲賀六大寺の筆頭と云われ、この地方の天台文化の中心寺院であり、広大な境内地を有し、その末寺には阿弥陀寺(櫟野)・仏生寺(神)・常楽寺・地蔵寺(櫟野)・成道寺(櫟野)・安国寺(櫟野)・詮住寺(櫟野)など数々の坊がありましたが、年月不詳荒廃に帰したのであります。(転宗、合併し一部現存)
http://www.rakuyaji.jp/engi.html

2.出展仏像

滋賀県甲賀市に所在する天台宗の古刹・櫟野寺(らくやじ)には重要文化財に指定される平安時代の仏像が20体も伝わります。
その数は、優れた仏像が数多く残る 滋賀県でも特筆されます。本展は、20体すべてを寺外で展示する初めての機会です。本尊の十一面観音菩薩坐像は像高が3メートルもある圧巻の作品で、普段 は大きく重い扉に閉ざされる秘仏です。他にも、11体の観音や、どこか親しみのある毘沙門天立像、文治3年(1187)に造られたこと が知られる貴重な地蔵菩薩坐像など、櫟野寺に伝わる平安彫刻の傑作を一時にご覧いただける展覧会です。

櫟野寺1

櫟野寺2
重要文化財 十一面観音菩薩坐像  平安時代・10世紀  滋賀・櫟野寺蔵

◆木造十一面観音坐像(秘仏)
像高3mを超す大観音で、重要文化財に指定された十一面観音菩薩坐像では日本最大です。頭と体は一本の大木から彫り出されます。木の重さが伝わってくるような重厚な姿ですが、美しく整った顔を仰ぎ見ると心が癒されます。迫力と穏やかさがともにみられる表現は、10世紀の仏像の特徴です。

今から1200年前、比叡山開祖の伝教大師最澄上人が、根本中堂建立のため用材を求め、当地に来錫の折、櫟の巨木に霊夢を感じ一刀三礼のもと立木に刻まれたと伝わる、我が国最大を誇る坐仏の十一面観音さまです。(当寺HPから)

櫟野寺9
重要文化財 薬師如来坐像  平安時代・12世紀  滋賀・櫟野寺蔵

◆木造薬師如来坐像(甲賀三大仏)
左手に薬壺をもち、病気平癒をつかさどる薬師如来像です。本尊よりは小さいものの、仏像に求められる理想的な大きさである周丈六(しゅうじょうろく)を基準に表された像高2.22mの大作で、その穏やかな表現は、都の大仏師、定朝(じょうちょう)の作風を模範とする定朝様に倣います。最澄が開創した延暦寺根本中堂の本尊は薬師如来であり、いかにも天台宗の古刹、櫟野寺にふさわしいみほとけといえます。

櫟野寺の筆頭末寺であった、油日岳奥の院 詮住寺の本尊と伝わります。 作風は、定朝様の寄せ木造りで平安時代後期の周丈六仏です。台座、光背も当時のものが残る滋賀県下最大のお薬師さまです。 (当寺HPから)

櫟野寺3
重要文化財 薬師如来坐像

櫟野寺11
重要文化財 地蔵菩薩坐像  平安時代・文治3年(1187) 滋賀・櫟野寺蔵

◆木造地蔵菩薩坐像
地蔵菩薩は、釈尊が入滅したのち、弥勒がこの世にあらわれるまでの56億7千万年という長い間、我われを救って歩くという役目をもっており、古くより信仰されてきました。本像は像内の銘文から、文治3年(1187)に造られたことがわかります。仏師運慶らによって写実的な仏像が造られるようになった頃ですが、櫟野寺周辺ではまだこのように、平安風で穏やかな姿の像が造られていました。

櫟野寺末寺の地蔵院寛澤寺の本尊で、体内に文治三年(一一八九)の銘記があります。 このお地蔵さまは、腹帯を結んでおられるため、安産のお地蔵さまとして信仰され、地元では、お地蔵さまから腹帯を授かる風習が残っています。 (当寺HPから)

櫟野寺4
地蔵菩薩坐像

櫟野寺10
重要文化財 毘沙門天立像  平安時代・10~11世紀  滋賀・櫟野寺蔵

◆木造毘沙門天立像
平安時代の初めに坂上田村麻呂が鈴鹿山の山賊の追討を櫟野寺で祈願し、それが叶うと毘沙門天像を造って安置したといいます。この像は10~11世紀頃に造られたものですが、目をつり上げ、口をへの字に歪める表情にはどこか親しみをおぼえます。腹部に表された奇妙な顔にも注目してください。

この毘沙門天さまは、征夷大将軍坂上田村麻呂公、等身大(五尺八寸)の御分身と伝わる尊像で、寺伝では、櫟野観音の加護により鈴鹿山の山賊平定の報恩のために本尊守護のために祀ったと伝わります。 特に江戸時代には、田村麻呂公の信仰が盛んとなり、鈴鹿山麓の田村麻呂公を祀る田村神社と櫟野寺の二社寺を詣でる田村参りが盛んに行われました。 (当寺HPから)

櫟野寺6
毘沙門天立像

櫟野寺5
重要文化財 観音菩薩立像  平安時代・10~11世紀  滋賀・櫟野寺蔵

◆観音菩薩立像
櫟野寺には、本尊の十一面観音菩薩坐像をはじめ、10世紀~12世紀にかけて造られた観音菩薩が現在も複数残されています。このことは、観音への信仰がこの地に深く根ざしていたことをものがたっています。本像はそのなかでもすぐれたできばえの像で、切れ長の目など表情には厳しさがありますが、細身に表された体つきは優美です。

櫟野寺7

滋賀県甲賀市に位置する天台宗の古刹、櫟野寺は、延暦11年(792)に最澄が延暦寺の建立に際して良材を求めて当地を訪れ、櫟(いちい)の霊木に観音像を刻んだことがその始まりと伝えられます。鈴鹿山脈に連なる油日岳の山麓に位置し、すぐ近くを琵琶湖に注ぐ杣川(そまがわ)が流れるという立地は、世俗を離れ比叡山中で修行した最澄が、良材を求めた場所としてふさわしく感じられます。
征夷大将軍の坂上田村麻呂が山賊追討の祈願成就をよろこび、堂塔を寄進したとの伝承も残ります。また、白州正子氏が「かくれ里」とも呼んだこの櫟野(いちの)の地には、櫟野寺を拠点として数多くの天台寺院が建立され、豊かな仏教文化が花開いたのでした。秘仏本尊の十一面観音菩薩坐像はその制作が10世紀後半に遡るため、そのころには櫟野寺が甲賀における仏教文化の中心であったことが知られますが、本尊含め重要文化財に指定される平安仏は20体にも及びます。これら平安仏が林立する光景を前にすれば、かつて末寺として七坊を誇ったという名刹、櫟野寺の栄華がしのばれるでしょう。
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ミャンマー地震 仏教遺跡が損壊

ミャンマー バガン 
【以下は引用】
ヨーソー僧院(バガンから車で1時間40分、文化財保護地区に指定されているサレー地区の寺院)
http://www.sara-tour.com/tour/tour_bagan.html
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ミャンマー地震 仏教遺跡が損壊

毎日新聞2016年8月25日 東京夕刊

【ニューデリー金子淳】ミャンマー中部で24日にあったマグニチュード(M)6・8の地震で、ミャンマー情報省は同日夜、震源に近い中部バガンで少なくとも94のパゴダ(仏塔)が損壊したと明らかにした。バガンは世界3大仏教遺跡の一つとされ観光地としても人気が高いだけに、観光産業への影響が出る可能性がある。

 ロイター通信によると、地震では観光客1人も負傷したという。震源地付近では建物の倒壊に巻き込まれるなどして少なくとも4人が死亡している。
http://mainichi.jp/articles/20160825/dde/007/030/036000c

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ミャンマー地震 ユネスコ専門家が被害受けた仏教遺跡を視察

8月27日 7時11分 NHK

ミャンマー中部を震源とする地震で、大きな被害を受けた世界的な仏教遺跡のバガンに、ユネスコ=国連教育科学文化機関の専門家が入り、軍事政権時代にコンクリートなどを使って遺跡の修復や復元を行ったことが被害を大きくした可能性があるという分析を示しました。

ミャンマー中部を震源に今月24日に発生したマグニチュード6.8の地震では、少なくとも3人が死亡し、世界的な仏教遺跡のバガンも大きな被害を受けました。
これを受けて文化遺産の保護に取り組むユネスコの専門家が、26日午後、現地入りし、被害が深刻だった寺院を視察しました。
専門家は1000年近く前に作られた寺院の基礎部分が、ほぼ無傷な一方で、軍事政権時代に復元された鉄筋コンクリート製の塔が崩れ落ちていることを確認し、当時の遺跡の修復や復元の方法に問題があり、被害を大きくした可能性があるという分析を示しました。
また、損傷した仏塔などの修復や復元についてはまず安全性の確保と慎重な調査が必要だとして、ミャンマー政府への勧告には数か月かかる見通しを示しました。
ミャンマー政府は、かねてよりバガンの世界遺産への登録を目指してきましたが、今後の対応については地震の被害調査やユネスコの勧告を受けて検討するものとみられます。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160827/k10010655831000.html

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ミャンマー地震で崩れ落ちたバガン遺跡

2016 年 8 月 26 日 08:11 JST

ミャンマー中部で24日起きたマグニチュード(M)6.8の地震で、仏教遺跡のバガンが大きな被害を受けた。11世紀から250年にわたって1万を超える仏塔や寺院が建てられ、現在残るのはわずか2200程度だが、多くが地震で損壊した。

http://jp.wsj.com/articles/SB10353882736862073912504582274080133166176

ミャンマー バガン 2

観音の里の祈りとくらし展Ⅱ-びわ湖・長浜のホトケたち-

観音の里の祈りとくらし展Ⅱ-びわ湖・長浜のホトケたち- 1

【以下は引用】

観音の里の祈りとくらし展Ⅱ-びわ湖・長浜のホトケたち-

会期: 2016年7月5日(火)- 8月7日(日)
会場: 東京藝術大学大学美術館 本館 展示室3、4
* 本展をご覧のお客様は当日に限り、同時開催「平櫛田中コレクション展」を無料でご覧いただけます。
主催: 東京藝術大学、滋賀県長浜市

長浜市には、130を超える観音をはじめとするたくさんの仏像が伝わり、古くは奈良・平安時代に遡るものも多くあります。また、この地域は、戦国時代には「近江を制する者が、天下を制す」と言われ、幾多の戦乱や災害に見舞われましたが、そのたびに、地域住民の手によって観音像は難を逃れ、今日まで大切に守り継がれてきました。
これらの仏像は、大きな寺社に守られてきたのではありません。地域の暮らしに根付き、そこに住む人々の信仰や生活、地域の風土などと深く結び付きながら、今なお大切にひそやかに守り継がれています。
この展覧会では、このようなホトケたちの優れた造形とともに、こうした精神文化や生活文化を「祈りの文化」として紹介し、長い歴史の中で守り継がれてきた地域に息づく信仰のこころを全国に発信していきたいと考えています。
歴史・文化に彩られた北近江の長浜、この地に息づく「祈りの文化」と「観音の里」の魅力を通して、一人でも多くの方に、ホトケたちとそれを守る人びとの姿を感じ取って頂ければと考えています。

http://www.geidai.ac.jp/museum/exhibit/2016/nagahama2/nagahama2_ja.htm

今回、気に入り集中して拝観したのは、総持寺の2仏(特に千手観音立像:10,11 以下は下記掲載リスト「出品目録」の番号)、阿弥陀寺の阿弥陀如来立像(29)、宝厳寺の聖観音立像(39)、十一面腹帯観音堂蔵の阿弥陀如来坐像(32)など(参考ブログ1の写真を参照)。もちろん、野趣あふれる、素朴で愛らしい、魁偉な風貌に特色のある、多くの仏さまも堪能した。

なぜか小生のお気に入りは、長浜市指定文化財(出品目録では▲表記、◎国の重要文化財ではない)が多く、いつもの感想ー国宝、重文の指定のありかたへの大きな疑問ーがもたげてくるが、今回はここまでで留め置き。


(参考ブログ1)展示写真がよく撮れています

◆観音の里の祈りとくらし展@東京藝術大美術館 <内覧会レポートと感想>
http://tourdefrance.blog62.fc2.com/blog-entry-3175.html

◆「観音の里の祈りとくらし展Ⅱ-びわ湖・長浜のホトケたち-」
http://kamisavil.blog40.fc2.com/blog-entry-293.html
http://kamisavil.blog40.fc2.com/blog-entry-294.html
http://kamisavil.blog40.fc2.com/blog-entry-295.html
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(参考ブログ2)他の湖北の仏像を知りたい向きには・・・

◇特別展 湖北の観音
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-335.html

◇近江路の神と仏1  三井記念美術館 快慶 石山寺多宝塔本尊大日如来坐像
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-338.html

◇近江路の神と仏2  三井記念美術館 善水寺誕生釈迦仏立像
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-339.html

◇近江路の神と仏3  三井記念美術館 報恩寺観世音菩薩立像
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-340.html

◇近江路の神と仏4  三井記念美術館 吉祥天立像と女神坐像ほか
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-341.html

◇近江路の神と仏5  三井記念美術館 聖衆来迎寺 国宝「六道絵」ほか
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-342.html 【“観音の里の祈りとくらし展Ⅱ-びわ湖・長浜のホトケたち-”の続きを読む】

仏像によるイタリア使節団!

毘沙門天像 湛慶作(鎌倉時代)

湛慶の毘沙門様ほか日本の仏像がイタリア・ローマへ。

【以下は引用】
文化庁主催海外展「日本仏像展」の開催

文化庁では,平成28年7月から9月にかけて,イタリア共和国ローマ市のクイリナーレ宮美術館において「日本仏像展」を開催します。

1.開催目的・概要

 平成26年6月,イタリア共和国で行われた日伊首脳会談において,平成28年の日伊外交関係開設150周年等を契機として,両国の文化・人的交流を飛躍的に拡大することで合意し,その一環として日本の仏教美術に関する展覧会の開催を安倍総理からレンツィ首相に提案しました。
 6~7世紀に朝鮮半島や中国より伝えられた仏教彫刻は,10世紀以降に題材や表現の上で独自性を強め,平安後期には優美さを至上価値とする王朝美術を成立させ,次の鎌倉時代には迫真的で力強く,またそれまで日本彫刻の総決算とも捉えられる豊かな内容をもつ彫刻が生み出されました。各時代におびただしい数の仏像が造られ,現在までに多数の作品が伝えられています。
 この展覧会は,そのような日本仏教彫刻の特色をよく示し,また異なる文化を有する観覧者にも共感をもって眺められるような,飛鳥時代から鎌倉時代までの作品21件(35点)を選び展示します。

2.主催・後援

主催:文化庁,パラエクスポ財団(クイリナーレ宮美術館)後援:イタリア文化財・文化活動・観光省

3.会期・会場
開会式:平成28年7月28日(木)一般公開:平成28年7月29日(金)~平成28年9月4日(日)会場:クイリナーレ宮美術館(イタリア共和国・ローマ市)

4.出品件数
 21件(35点)
http://www.bunka.go.jp/koho_hodo_oshirase/hodohappyo/pdf/2016041901_besshi01.pdf

深大寺 釈迦如来倚像2
重要文化財釈迦如来像(飛鳥時代)

薬師如来像 国宝
国宝薬師如来像(平安時代)

梵天像 奈良時代 重文
重要文化財梵天像(奈良時代)

http://www.bunka.go.jp/koho_hodo_oshirase/hodohappyo/pdf/2016041901.pdf 【“仏像によるイタリア使節団!”の続きを読む】

日韓国交正常化50周年記念 特別展「ほほえみの御仏―二つの半跏思惟像―」

日韓半跏思惟像3

東博に二度通って、日韓国交正常化50周年記念 特別展「ほほえみの御仏―二つの半跏思惟像―」を観た。すでに韓国で先行開催されており、東京はその後半にあたる。

http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-476.html

さまざまな思いが去来した。まず、概要については、写真をふくめて、今回の展覧会の模様を丁寧に書いてある以下のブログ(祗是未在)を参照。

http://butszo.jp/2016/07/4229/

結論からいえば、韓国からの「半跏思惟像」(三国時代・韓国国宝78号、銅像鍍金 像高82.0cm 坐高50.75cm)は本当に素晴らしいものだと思った。高貴にして優雅なるお姿に心から魅了された。

一方で、中宮寺「半跏思惟像」(伝如意輪観音、飛鳥時代・国宝、像高167.7cm 坐高87.9cm)は照明のあてかたに大いに疑問を感じた。両像ともに同一条件で展示することを旨とされたのかも知れないが、中宮寺観音にあたる照明が補正なく上からすぎて、額の照り返しが目につき、逆に目元がぼやけて受け口に見えるといった案配であった。1階の映像コーナーで見る本来のお姿に比べて、その清楚な印象が損なわれて誠に残念であった(拙稿「光と仰角」を参照)。

◆「光と仰角」の大切さ
(参考1) http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-192.html

一方で、韓国国宝78号の由来は誰しもが気になるところだが、その「発見」と「保護」は1910年代との指摘は、事実なら経緯をふくめて衝撃的である(下記、辻本武 tsujimoto blog の詳細連載などを参照)。

http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/07/07/8127143

さて、そうした形而下の煩いは措くとして、「ほほえみの御仏―二つの半跏思惟像―」という名称はよく考え抜かれていると思う。
ただでさえ、剣呑でぎくしゃくしがちな日韓関係を「ほほえみの」という言葉でやわらかく包み込み、「半跏思惟像」という、文字通り沈着冷静、深く黙考する仏さまにある種の象徴的な意味をもたせているように感じたのは、小生のみではないだろう。

以下、4つの拙稿を添付。韓国国宝78号を拝顔したことの意味、時間をかけてよく考えてみたい。

◆中宮寺観音について
(参考2) http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-416.html

◆飛鳥彫刻の独自性
(参考3) http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-190.html

◆渡来人の系譜 3つのファクター ー百済・新羅・中国(隋唐)
(参考4) http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-445.html

◆渡来人の系譜 百済・高句麗と「亡命準備」論
(参考5) http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-446.html

韓国と日本の半跏思惟像が出会う

日韓半跏思惟像7
左から、6世紀に朝鮮半島で作られた国宝78号金銅半跏思惟像と、日本の国宝で7世紀に作られた奈良の中宮寺の木造半跏思惟像=キム・ソングァン記者//ハンギョレ新聞社

とても注目される展示会が開かれる。まずは、関連記事の引用から。

【以下は韓国側記事から引用】

韓国と日本の半跏思惟像が出会う

韓国と日本の古代美術を代表する半跏思惟像2点が、史上初めて出会った。 6世紀に朝鮮半島で作られた国宝78号の金銅半跏思惟像と、日本の国宝で7世紀に作られた奈良中宮寺の木造半跏思惟像が23日、ソウル龍山(ヨンサン)の国立中央博物館企画展示室で互いに向かい合う形で公開された。

韓日修交50周年を記念して24日から開かれる「韓日国宝、半跏思惟像の出会い」展で披露される二つの仏像は、神秘的な微笑を浮かべ思索に浸る姿を見せた。 素材が異なるだけに、表情の印象もそれぞれ独特だ。 二つとも思索する悉達多(シッタルタ)太子の姿を形象化した半跏像だが、子供のような表情に曲がった身体と指の描写が秀逸な国宝78号像と、鈍く黒光りする双髷とうすい目元が印象的な中宮寺の像は、造形的に際だった差異を見せた。

京都の広隆寺仏像と共に日本の半跏思惟像の名作に挙げられる中宮寺の像の海外展示は今回が初めてだ。 展示は6月12日までの3週間、休館日なしで続く。 6月21日~7月10日は東京の国立博物館本館へ場所を移して披露される予定だ。

ノ・ヒョンソク記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
韓国語原文入力:2016-05-23 21:05

1400年の時を経て一堂に会した韓日の至宝

広さ80坪(約260平方メートル)の展示場は暗く、2体の仏像だけに光が当てられている。そっと目を伏せて物思いにふける2体の半跏思惟(はんかしゆい)像が、10メートルの距離で向かい合っている。韓国の国宝第78号「金銅半跏思惟像」と日本の国宝「奈良中宮寺・木造菩薩(ぼさつ)半跏像」。韓国と日本の古代仏教彫刻を代表する2体の半跏像が、1400年の時を経て初めて一堂に会した。

韓国国立中央博物館(李栄勲〈イ・ヨンフン〉館長)企画展示室で24日から始まる特別展「韓日国宝半跏思惟像の出会い」は、この2体の仏像だけのために企画された展示だ。韓国の国宝第78号は、西暦6世紀に作られた三国時代を代表する仏像で、中宮寺木造菩薩半跏像は7世紀の飛鳥時代を代表するもの。どちらの仏像も、当時流行した弥勒信仰に基づいて作られた半跏思惟像の名品だが、材質や大きさ、細部の表現などは明らかに異なる。

まず材質。韓国の国宝78号は金銅で鋳造された。華麗な宝冠や装身具、美しく流れ下るような天衣の裾、S字のしわが寄った着衣後面の表現などが際立っている。金銅を一定の厚みで鋳造できた当時最先端の鋳造技術が、優れた造形と調和を実現した。一方、中宮寺木造菩薩半跏像は、クスノキを削って作られた。11個のクスノキの部材を組み立てるという手法を採り、よく見ると接合部の線が分かる。中宮寺の仏像が国宝78号より暗めに展示してある理由も、材質の差にある。同博物館のクォン・ガンミ学芸研究士は「中宮寺像は温度・湿度の変化に弱い木造なので、日本側から『100ルクス以下で展示してほしい』と要請された。韓国の国宝78号は、それよりやや明るく展示した」と語った。

高さは、中宮寺像の方が国宝78号の2倍以上もある。国宝78号は82センチ、中宮寺像は167.6センチ。ミン・ビョンチャン学芸研究室長は「国宝78号は小さいが、ラインが軽快で力がある。一方で中宮寺像は、丸くて柔らかさがある。中宮寺像は、見たところ顔の表情が表れていないけれど、眺め続けていると温和なほほ笑みが見える、というところに日本人特有の性質がうかがわれる」と語った。

今回の展示を推進してきた大橋一章・早稲田大学名誉教授は「『双子の仏像』と呼ばれる韓国の国宝83号半跏思惟像と日本の広隆寺・木造弥勒菩薩半跏像が一緒に展示されたらよかったのだが、広隆寺像は新羅で作られた仏像なので、韓日両国を代表する半跏像を比較・鑑賞するという趣旨には今回の2体の方が合っている」と語った。展示は6月12日まで。韓国国立中央博物館での展示終了後は、日本の東京国立博物館に移り、6月21日から7月10日まで展示される。

許允僖(ホ・ユンヒ)記者
朝鮮日報/朝鮮日報日本語版

【萬物相】韓国と日本の半跏思惟像

日本人はその仏像を「絶対秘仏」と呼ぶ。長野県の善光寺にある高さ40センチを少し上回る三尊仏のことだ。6世紀に百済が日本に仏教を伝える際、信仰の象徴として送られたもので、日本では最も古い仏像だ。善光寺は6年に1度、この仏像を一般に公開する。「仏像に触れば願いがかなう」という信仰もあることから、日本中から信者が訪れる。しかし彼らが実際に触ることができるのは、金堂の中に安置された仏像と長い糸でつながった庭の柱だけだ。それでも多くの人たちが柱を抱いて祈っている。その様子はまさに壮観だ。

奈良県の法隆寺にある百済観音像も1000年以上にわたり保存されている。2メートル以上の8頭身に、指先まで細かく再現した職人の繊細な腕前を目の当たりにすると「百済の美」を改めて思い起こす。日本はこの仏像を「くだらかんのん」と呼ぶが、それでも「日本の美学の精髄」として世界に誇っている。同じ法隆寺の金堂釈迦(しゃか)三尊像も日本が誇る国宝だ。7世紀に作られたものだが、背面には「止利」という制作者の名前が刻まれている。韓半島(朝鮮半島)から渡ってきた職人の子孫とされている。

奈良県は日本における古代史の中心地だ。古代の前半期に当たる飛鳥時代は韓半島の文明を受け入れ、国が大きく発展した時期だった。飛鳥地域を実際に歩けば、古代の韓国人が伝えた芸術の魂を実感することができる。中には韓国の慶州や扶余よりも多くの遺跡が残る所もある。東北アジアの奥地で、なおかつ外国からの侵略や略奪を逃れることができたからだろう。またこれらをしっかりと管理し保存してきた日本の貢献も否定できない。

昨日、奈良県の中宮寺に所蔵されている半跏思惟(はんかしゆい)像が、韓国の半跏思惟像と共に国立中央博物館に展示された。これも飛鳥時代の作品だ。法隆寺の百済観音像と同じく木造であるにもかかわらず、1000年以上保存されている。今回、海を越えて自らの源流と向かい合ったわけだが、像の仏様もにっこりと笑みを浮かべたのではないだろうか。日本の文化財といえば、日本の略奪行為や収奪をまずは思い浮かべる。そのため今回の展示は一層新鮮で喜ばしいものだった。

日本の古代史は飛鳥時代を経て平安時代へと続く。奈良から京都まで歴史の現場を実際に歩くと、韓半島文明の影響が急速に弱まることが分かる。外来文化を昇華し、輝かしい独自の文化を創り上げるプロセスは、日本の古代も韓国と共通している。中宮寺半跏思惟像は、日本がこのように自立していく文化史のどこかに位置しているはずだ。今回の展示が、開かれた心で韓日両国交流の歴史を見つめ直す前向きな機会になることを期待したい。

鮮于鉦(ソンウ・ジョン)論説委員
朝鮮日報/朝鮮日報日本語版

http://www.hani.co.kr/arti/culture/culture_general/745094.html 訳J.S(682字)

日韓半跏思惟像4

【以下は日本側記事から引用】

日韓の国宝の仏像そろって展示 ソウルで開催へ:NHK

日本と韓国の仏教を通じた交流の歴史を物語る両国の国宝の仏像をそろって特別に展示する初めての催しが、24日からソウルで開かれます。

この特別展は、日本と韓国が国交正常化して去年で50年を迎えたことを記念し、東京国立博物館と韓国の国立中央博物館が中心となって24日からソウルで開くもので、これを前に23日、内外のメディアに公開されました。
会場には、日本で7世紀に作られた奈良県の中宮寺の本尊である国宝の「菩薩半跏思惟像」と、韓国で6世紀に作られた韓国の国宝「金銅半跏思惟像」が、向かい合う形で展示されています。

いずれの仏像も、台座に腰掛けて右足を左の膝の上に組み、右手の指をほおに添えて物思いにふける姿を表現しており、その様式はインドから中国へ、そして朝鮮半島を経て日本へと伝わったとされ、仏教を通じた両国の交流の歴史を物語っています。
ソウルで記者会見した東京国立博物館の銭谷眞美館長は「日韓の至宝が出会うこの機会が両国の友好と絆を深める機会となってほしい。一人でも多くの人に見ていただきたい」と述べました。
この催しは、ソウルの国立中央博物館で来月12日まで開催されたあと、東京国立博物館でも、来月21日から7月10日まで開かれることになっています。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160523/k10010531931000.html (動画あり)

日韓の「ほほえみ仏像」、初の共同展示 ともに国宝指定:朝日新聞

日韓でそれぞれ国宝に指定されている仏像「半跏思惟像(はんかしゆいぞう)」を1体ずつ共同で展示する特別展が24日、ソウルの国立中央博物館で始まる。ほほえみを浮かべているような日韓の仏像の美を通して、文化交流を深めるのがねらい。日本では6月21日から7月10日まで東京国立博物館で展示される。

特別展は韓国の国立中央博物館と東京国立博物館などが主催。主催者側によると、半跏思惟像は、左足を下げ、右足をそのひざの上に組んで座り、右手をほおに添えて物思いにふける仏像をいう。インドから中国、朝鮮半島をへて、日本に伝わり、日本や朝鮮半島では、6~8世紀に多数作られたとされる。

今回展示される日本側の半跏思惟像は中宮寺門跡(奈良県)に伝わる国宝で、海外で公開されるのは初めて。韓国側は国立中央博物館が所蔵し、国宝として広く親しまれているという。この2体の仏像が一緒に展示されるのは初めて。

23日は特別展の開幕に先立ってメディアに公開され、韓国の李栄勲(イヨンフン)・国立中央博物館長が「(2体の仏像が展示されるのは)歴史的な出会いであり、韓日文化交流に新たな転機となる」とあいさつした。銭谷真美・東京国立博物館長も「両国の交流の結実とも言える2体の仏像が大切に守り伝えられ、展示されるのは日韓両国の歴史と意義を象徴している」と語った。(ソウル=東岡徹)

国宝仏像前に献茶式=日韓2体の同時展示開催-韓国:時事通信

【ソウル時事】日韓両国で国宝の半跏思惟像2体を同時展示する特別展が24日から、ソウルの国立中央博物館での展示を皮切りに開かれる。23日には開眼供養と献茶式が行われた。
半跏思惟像は右足を左足の膝の上に組み、右手を頬にあてて思案する姿の仏像。インドから伝わり、日本や朝鮮半島では6~8世紀に制作が始まったという。日本からは中宮寺(奈良県斑鳩町)の像が出品された。国外で初の展示となる。

23日には開会式とともに中宮寺や韓国の尼僧による開眼供養、茶道・裏千家の千玄室大宗匠による献茶式が行われた。森喜朗元首相と別所浩郎駐韓大使も参加した。
特別展はソウルで24日~6月12日、東京国立博物館(上野)で6月21日~7月10日まで開かれる。同館の銭谷真美館長は「友好と絆を深める一助になれば」と話した。(2016/05/23-19:31)

日韓半跏思惟像3 【“韓国と日本の半跏思惟像が出会う”の続きを読む】

平和の燈明 オバマ大統領、広島訪問について

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【平和の灯】
オバマ大統領が広島を訪問し、歴史的な演説を行った。そのバックには広島平和公園の平和の灯が映っていた。不滅の法灯ともいうべきものである。この元火のひとつは、安芸の宮島の弥山「消えずの霊火」から運ばれたものである。

【消えずの霊火】
その「消えずの霊火」とは、大同元年(806年)、空海が宮島で修行をした時に焚かれた護摩の火が現在まで昼夜燃え続け、元火の絶えない霊火といわれ、山頂の「不消霊火堂」にある(もっとも空海が宮島を訪れたという事実はないらしいが)。

その伝説のルーツは、高野山金剛峯寺である。ここには「燈籠堂」がある。"貧女の一燈、長者の万燈"と言われ、「自らの髪を売って父母の菩提のために燈明を献じた貧女の小さな燈火も長者の盛大な燈火も等し」いものとされる。
燈籠堂は空海の弟子だった真然により建立され、治安3年(1023年)に藤原道長によって現在にほぼ近いかたちで完成。堂の正面にある二つの火は「消えずの火」と呼ばれ、1000年近く燃え続けているとされる(http://kukai2011.jp/construction.htmlから一部引用)。これに基づいて、安芸の宮島の弥山「消えずの霊火」も後世考案されたものであろう。

【護摩について】
オバマ大統領の演説の力点は、核兵器の廃絶を謳ったところに置かれていた。空海が構想した密教には火をつかった「護摩」という勤行がある。

護摩には2つの種類がある。第1は「外護摩」であり、 護摩壇に火を点じ、火中に供物を投じ、ついで護摩木を投じて祈願するもの、第2は「内護摩」であり、 自分自身を壇にみたて、仏の智慧の火で自分の心の中にある煩悩や業に火をつけ焼き払うものと言われる。

さらに、護摩は「目的別」に5つの種類がある。

1.息災法:災害のないことを祈るもので、旱魃、強風、洪水、地震、火事をはじめ、個人的な苦難、煩悩も対象
2.増益法(そうやくほう):単に災害を除くだけではなく、積極的に幸福を倍増させる。福徳繁栄を目的とする修法。長寿延命、縁結びもその対象
3.調伏法(ちょうぶくほう):怨敵、魔障を除去する修法。悪行をおさえることが目的
4.敬愛法:調伏とは逆に、他を敬い愛する平和円満を祈る法
5.鉤召法(こうちょうほう):諸尊・善神・自分の愛する者を召し集めるための修法
(以上、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AD%B7%E6%91%A9 から一部引用)

もしもいまも高野山にて生き続けているとされる空海に、オバマ大統領の広島訪問について尋ねたら、それは、「内護摩」における「敬愛法」に通じるものであり、核戦争による「調伏法」を断じて否定するもの、とのご託宣があるかも知れない。

仏像と国民性 秋篠寺の伎芸天

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 さまざまな国で好まれる仏像には違いがありますね。同じ仏教国でも、仏像表現は実に多様です。また、それは歴史、時代とともに変化します。一種の流行もある。しかもその流行は、国内の好みだけを反映するわけではなく、外国の影響を色濃く受ける。ある時代の仏像の特色は、地域性も反映するけれど、一種の時代精神も表している。
  さらに、担い手に注目すれば、仏像は為政者にとっても、一般の民衆にも等しく開かれた存在であるべきものと考えられますが、時代によっては、為政者の「目的と手段」という観点から仏像をとらえることもできる。一方、民衆の側からみれば、政治とは関係なく、不条理な世界にあって救済のよすがに仏像を求める。

 いまののお話しは仏像だけに限りませんね。文明、文化、文物にかかわる多くのものが共通してもっている特質でもあると思うのです。しかし、後半の部分は仏像にしかできないことかも知れません。信仰の対象という点はとても大切です。

 秋篠寺の伎芸天を見てみましょう。この有名な仏さまには3つの特色があります。

1.相貌(頭部)は「天平時代」、身体は「鎌倉時代」という幾世紀をも超えた時代間の<合作>であること
2.頭部は脱活乾漆造、躯体は木造といった全く彫刻技法が異なっていること。こうした手法の異なる<合体>は珍しい事例
3.「伎芸天」という名称が、なかなか類例がなく、数少ないその代表的な名品であること

以上について、海外との関係も踏まえて、この仏さまの様式などの解説をお願いできますか?

 わかりました。以下は私見ですけれど。秋篠寺は775(宝亀6)年の建立(「秋篠寺真言院之縁起」)です。宝亀は天平、神護につづく時代で延暦のまえの年号です。彫刻史では天平末期ないし貞観初期にあたりますが、ここでは天平仏としましょう。
 まず、海外の仏像との比較で連想されるのが中国の敦煌莫高窟第45窟像であり、これは微笑と、ふくよかな体のラインが特徴的な脇侍菩薩の塑像です。この柔らかな表情としなやかな擬態の絶妙な<バランス>こそ、日中の両像に共通し、いまもわれわれをとらえる湛えた魅力でしょう。もともと、伎芸天はインドに淵源があり、シヴァ神が楽器の演奏をしているときに、その髪の生え際から生まれ落ちた天女といわれます。そこから「容姿端麗で器楽の技芸が群を抜いていたため、技芸修達、福徳円満の守護善神とされる」ということになります。
 伎芸天像は(雅楽面は別として)日本ではとても珍しいのですが、これは諸「観音」信仰が広範に浸透し主流となることに加えて、女性を強く感じさせる彫刻群では「弁財天」が首座を占めたといった事情もあったということでしょうか。
 しかし伎芸天というゆかしい名の響きとともに、その希少価値性が、本像の注目集度を近時、いっそう高めているかも知れません。そして、本像には大振り、自立のイメージが強いゆえか、現代を生きる働く女性の根強いファンが多いことも特筆に価するでしょう。
 なお、伎芸天はギリシア神話のアテナ像との関係も指摘されています。女性神であり、技芸に優れた立像という共有項があると、これに限らず、どの国でも一定程度は似たイメージは形成されるのかも知れません。 
 さらに、ご尊顔をアップでみると柔らかな表情の口元をわずかにほころばせ、メロディを口ずさんでいるようにも見えます。そこから音声菩薩の一種ではないかといった類推解釈もでてくるのでしょう。

 一方、鎌倉時代に躯体をつくった仏師の力量に新たなる驚きを感じます。巧みの技法をもった一流の仕事師です。本像でも、なで肩で量感のある身体は、しなやかさ、豊かさを見事に表象しています。
 細かく特色をあげれば別の見方も当然あるでしょうが、今日からみた大勢の観察では、お顔は、天平期にあって威厳ある大「唐風」というよりも(あたかも当時の日本人のイメージを写したような一種の)和様を感じます。
 また、ご身体は、鎌倉時代にあって「宋風」の形式主義、煩瑣な技巧に走らず、毅然として自然な写実を考慮しているように見受けられます。両時代においても当時の流行に妥協せぬ異色の作風であり、特に、鎌倉の仏師は、そこをよくわきまえて実に見事な仕事をしたと思います。
 つまり、この独特の仏像では、天平時代の造像した仏師は、ご尊顔を儀軌に捉われない自由度(躯体は形式的につくっても、頭部のリアリティは別。たとえば興福寺阿修羅像を思い起こしてください!)をもって造像、これをよく検分し鎌倉時代に修復した仏師が心を込めて彫ったご身体は、当時の形式主義には陥らず、慶派に代表される写実の妙味を表現していると感じます。
 ここには、南都復興の棟梁、慶派の天平、その後の奈良時代期の仏像を徹底して研究した成果が生かされていると思います。
 写実的な装いにおいて、頭部と身体は時代こそ異なれ、同様なコンセプトを<共有>、<融合>していまいか、ここに本像の意図せざる隠された意匠を感じます。
 
  漠然と観察していると、ただ良いお顔だなあ、で終わってしまうのですが、やはり、この仏さまも「時代精神」といったものをはっきりと投影しているのですね。補足的に造像された時代をみておきましょう。ここでも1.秋篠寺の淵源、2.造像された時代、3.後補された時代について以下3点に要約すれば、

【秋篠寺の淵源】
1.秋篠寺の淵源はふるく、780年(宝亀11年)光仁天皇勅願の最後の官寺である。774年に本堂建立とされるが、この年には吉備真備が没し、空海が生まれた。この由緒正しき大寺院の開祖、善珠(ぜんじゅ)僧正は、その時代の代表的な名僧でかの法相六祖の一人である。資材もあり寺格も高い恵まれた条件で、当初この伎芸天は造像されたことだけは間違いないだろう。

【造像された時代】
2.この寺には霊験あらたかな薬師如来像が祭られたが、玄昉との血縁もあったといわれる善珠は、平城天皇が皇太子のときに、早良親王の怨霊を封じる加持祈祷をここで行なったといわれる。光仁天皇自身、いくどもクーデターの動きに悩まされていたようで、平城京から平安京への移行期のこの時代は政治的にも、宗教的にも実に不安定であった。最後の官寺、秋篠寺は、そして伎芸天はこうした時代に世にお目見えしたのである。 

【後補された時代】
3.1135年(保延元年)に秋篠寺は大火で講堂以外を失う。零落の道をたどるが、伎芸天の首から下の胴体の破損は、おそらくこの火災の影響などをうけたのだろう。伎芸天同様の後捕がおこなわれている伝梵天像には、1289年(正応2年)の墨書が首まわりにあるとのことで、伎芸天もほぼこの頃の修復か。前年には興福寺金剛二力士像が造像された時代であり鎌倉彫刻初期の写実的な技量を大いに反映しているとみてもよいだろう。

ところで、信仰の対象という重要な視点からみて、コメントはありますか?

  伎芸天については、「大自在天つまりシヴァ神が天界で諸伎楽を行なうとき、その髪ぎわから生まれたといい、左手に花を盛った皿を捧げ、その容姿は端正で、あらゆる芸に長じ、諸芸成就、福徳円満をつかさどる芸術、芸能の神である。日本でどれほど信仰されたかは明らかでないが、奈良の秋篠寺に伝わる奈良時代の伎芸天像は、日本の女神像の最高の美女といわれている」(佐和隆研『仏像 祈りの美』(1974年 平凡社カラー新書 P.142)という指摘があります。

 さらに、伎芸天の淵源を知りたければ、ヒンドュー教(「摩醯首羅天法要」など)までさかのぼることが必要です。たとえば古代、若い女性が学ぶべき64項目のリストがありましたが、それは歌、器楽、舞踏、絵画、部屋の飾り方、寝床のしつらえ方、花輪の作り方、化粧術、裁縫、謎々遊び、書物の朗読、文芸に関する教養などが列挙されています。いま風にいえば、ダンス、フラワーデザイン、ルーム&ベッドメイキングなどもふくまれている。伎芸天は、経典ではこれらすべてを具備している神様ですね(中村元編著『仏像散策』1982年 東京書籍を参照)。

 おそらく、以上見てきたようないきさつもあり、秋篠寺の僧や民衆が、この不明な梵天様を伎芸天と名づけたのではないか、と思います。そして、それを今日まで継承させてきたことには、日本の国民性をもしかしたら強く反映しているかも知れませんね。いまや日本だけでなく、海外からの来訪者の心をとらえているのですから、伎芸天の名前を冠したことはとても賞賛されるべきことであろうと思います。

別ブログ記事「秋篠寺 伎芸天 なぞの美人」http://blog.livedoor.jp/shokkou/archives/2025275.html を参照

諏訪 神宮寺本尊か

◆◆◆解体修理を終えた普賢菩薩騎象像=諏訪市の仏法紹隆寺で
解体修理を終えた普賢菩薩騎象像=諏訪市の仏法紹隆寺で

【以下は引用】

諏訪市の仏法紹隆寺(ぶっぽうしょうりゅうじ)が所有する「普賢菩薩騎象像(ふげんぼさつきぞうぞう)」が、諏訪大社上社(同市)近くにあった神宮寺の本尊だったことが確認された。昨年六月から行ってきた解体修理で像内部に「信州すは(諏訪)の本尊也」との書付が見つかった。仏法紹隆寺が十一日、会見を開き明らかにした。

 普賢菩薩騎象像は、上社の祭神「建御名方神(たけみなかたのかみ)」の本地仏と伝えられる。神仏習合思想のもとで、神は仏の仮の姿とされていた。像は神宮寺境内の普賢堂にまつられていたが、明治初年、廃仏毀釈(きしゃく)で寺が取り壊された際、仏法紹隆寺に移管された。

 本尊だったことを示す書付は、普賢菩薩像の頭部の木製部材にあった。神宮寺ゆかりの普賢菩薩騎象像は三体存在し、どれが本尊なのか明確ではなかった。像の大きさや象をかたどった台座が作られた時代などからも、今回修理した像が本尊であることは間違いないとしている。

 また、台座の上の普賢菩薩像は織田信長軍の兵火で焼失したが、その後、一五九三年に「康俊」という慶派の仏師の手で造像されたことが分かった。一方、台座はそれよりも古く、作風や神宮寺の歴史などから、普賢堂が建てられた一二九二年当時に作られた可能性が高いとしている。台座内部は空洞になっており、三体の仏像が納められていた。

 調査に関わった飯田市美術博物館の織田顕行学芸員は「どれも貴重な発見で、上社の歴史を考える上で、非常に重要な仏像」と話している。普賢菩薩騎象像は四月二日から特別公開する。
(中沢稔之)
http://www.chunichi.co.jp/article/nagano/20160312/CK2016031202000013.html 

真岡・専修寺 一光三尊仏

◆◆◆◆
高田山専修寺  一光三尊仏像

【以下は引用】
【真岡】高田の国指定史跡・高田山専修寺の本尊で、2014年3月の御開帳後に津市の真宗高田派本山に移されていた「一光三尊仏像」が31日、2年ぶりに同寺に戻る。同寺は翌日の4月1日から3日間、本尊の帰還を祝う「御復座法会」を実施、同仏像を再び一般公開するほか、貴重な所蔵品の数々も合わせて展示する。

 一光三尊仏像は鎌倉時代、同寺建築中の親鸞(しんらん)が長野の善光寺から譲り受けたと伝えられる秘仏。本山の意向や秘仏という性格上、文化庁などの調査を受け入れていないため「隠れた国重文」と言われる。1998年以来の御開帳となった14年は、3日間だけ同寺で公開。その後は慣例に従って本山に運ばれていた。

 今回の法会では午前8時から午後4時(最終日は午後2時半)まで、御影堂須弥壇(しゅみだん)に安置された同仏像を無料参拝できる。500円の参拝料を支払えば仏像により近い「内陣(ないじん)」での参拝が可能になる時間帯も設ける。

 同寺の長岡辰夫(ながおかたつお)総代(75)は「貴重なこの機会に、ぜひ参拝してしてほしい」と話している。(問)同寺0285・75・0103。

 【一光三尊仏像】 インド、中国、百済を経て538年に日本に渡り、三国伝来の仏像としては日本最古とされる。
http://www.shimotsuke.co.jp/news/tochigi/top/news/20160328/2277252

静嘉堂文庫美術館

静嘉堂十二神像
(作品解説/引用)
京都・浄瑠璃寺旧蔵と伝えられ、明治初期に寺を離れたという。子神、丑神、寅神、卯神、午神、酉神、亥神が静嘉堂、辰神、巳神、未神、申神、戌神が東京国立博物館所蔵である。いずれも運慶流の正統な作風を示しており、同一工房の作と考えられる。興福寺東金堂像とともに鎌倉時代前半の代表的な十二神将像の一つで、十二躯のすべてが残ることでも貴重。この亥神像は冑を本体とは別に造り、円頂の頭に被せるなど、写実をもとにした説明的な着想のあることも特色の一つである。
http://www.seikado.or.jp/collection/sculpture/001.html

興味深い展覧会がある。静嘉堂文庫美術館(東京都・二子玉川)で修理された仏像や仏画を修理過程とともに展示する展覧会を開催する。
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【以下は引用】
東京都・二子玉川の静嘉堂文庫美術館は、同館の修理した仏像や仏画を展示する「よみがえる仏の美~修理完成披露によせて~」を開催する。会期は4月23日~6月5日(月曜休館)。開館時間は10:00~16:30(入館は16:00まで)。入館料は一般1,000円、大高生700円、中学生以下無料。
http://news.mynavi.jp/news/2016/03/14/170/

繊細な美しさと引き換えに、様々な損傷を受けやすい脆弱さをはらんでいる東洋の文化財。静嘉堂は、守り伝えられてきた貴重な所蔵品をよりよい形で後世に引き継ぐため、作品の修理事業にも力を入れています。
本展では、運慶作か!?と話題の仏像「木造十二神将立像」のうち4軀をはじめ、修理を終えた仏画を初披露するとともに、作業の際に使用する材料や道具もともに展示し、修理過程をよりわかりやすく御覧いただきます。また、伊藤若冲「釈迦三尊像」(京都・相国寺蔵)の原画としても知られる伝 張思恭「文殊・普賢菩薩像」など、仏教美術の名品も合わせて展示いたします。
先人の努力を受け継ぎ、現在の技術によりよみがえった仏の美をお楽しみください。

◆「木造十二神将立像」7軀のうち、「寅神像」「卯神像」「午神像」「酉神像」の4軀を展示 鎌倉時代・13世紀

京都・浄瑠璃寺旧蔵の本作は、明治時代に寺を離れ、現在「子神」「丑神」「寅神」「卯神」「午神」「酉神」「亥神」の7軀が当館に、「辰神」「巳神」「未神」「申神」「戌神」の5軀が東京国立博物館に所蔵されています。
近年、明治の新聞に、十二神将像の像内に「大仏師運慶」という名を含む銘文があった、という記事が掲載されていた事実が提示され、運慶作か!?との議論が活発になっています。調査の結果、修理を終えた4軀の中に銘文は見つかりませんでしたが、今後、引き続き3軀の修理を進める中で、新たな発見があることが期待されます。

◆「普賢菩薩像」鎌倉時代・13世紀

左へと向けられた普賢菩薩と白象の視線、流れ出る五色の雲の表現は、菩薩が今まさに顕現する瞬間を印象的に描き出します。また繊細な表現や画面を彩る透明感あふれる色彩は、普賢菩薩の厳かさを余すところなく伝えているといえるでしょう。類例の多い普賢菩薩像の中でも優品として知られる本作が、このたび、修理後初披露となります。

◆「羅漢図」南宋時代・13世紀

岩座に座す羅漢が、金に変わろうとしている岩を指し示す様子が描かれています。羅漢や他の人物、器物等には柔らかな色彩と金泥(きんでい)がほどこされ、画面右上には青みがかったグラデーションの雲霞がたなびくなど、清雅な雰囲気を漂わせています。宮廷絵画の優品の新たな装いをぜひご覧ください。

◆「百万塔」 奈良時代・神護景雲4年(770)

「百万塔陀羅尼」は、印刷年代が明確な、現存する世界最古の印刷物の可能性が指摘されています。奈良時代に称徳天皇(718~770)の発願によって作られました。6年をかけて木造三重小塔を百万基制作し、その中に、印刷した4種の陀羅尼(仏教の呪文)を1枚ずつ納め、法隆寺をはじめとする十大寺に各10万基ずつ分置したものです。このたび、静嘉堂所蔵の全40基を一堂に公開いたします。

◆伝 張思恭「文殊・普賢菩薩像」元時代・14世紀

本図は、「釈迦文殊普賢 張思恭(ちょうしきょう)筆 三幅」として、京都・東福寺に伝来しました。現在は、そのうちの左右2幅が静嘉堂に伝存しています(中幅はクリーブランド美術館蔵)。精緻な文様や多様な色彩、金泥を使用して描かれた本図は、伊藤若冲(じゃくちゅう)(1716~1800)が「動植綵絵(どうしょくさいえ)」とともに相国寺に寄進した「釈迦三尊像」(京都・相国寺蔵)の原画としても知られ、若冲が「巧妙無比」と称えた名品です。

http://www.seikado.or.jp/exhibition/next.html

目指せ「クローン仏像」 富山、制作中の釈迦三尊像公開

法隆寺釈迦三尊N1

タイトルを含めて面白い記事。以下は引用。
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 奈良・法隆寺の国宝「釈迦(しゃか)三尊像」の再現に取り組む富山県の高岡、南砺両市などは21日、制作中の仏像を高岡市で公開した。伝統の鋳物と木彫り技術を用いて、単なるレプリカではなく、同じ成分の素材を使った「クローン仏像」を目指している。実現すれば門外不出の文化財でもクローンを世界各地で展示でき、手触りまで楽しめる。

 この日は、鋳造を終えた中央の釈迦如来(高さ87.5センチ)と両脇の脇侍と呼ばれる立像や木製の台座などを組み立て前の状態で披露。東京芸大で表面の仕上げをし、秋ごろに完成させ、2016年度中に公開する予定という。

 再現仏像は、東京芸大が法隆寺の釈迦三尊像から3次元データや成分データを取得。3Dプリンターで型をつくり、高岡の鋳物業者が約2カ月かけて鋳造した。ヒノキとクスノキでできた台座部分は、精密な浮き彫り技術で知られる南砺市の井波彫刻の職人が彫った。

 高岡市は鋳物作りに400年以上の歴史を持ち、再現事業に計4500万円を計上、「プロジェクトをきっかけに、国内外で鋳物技術を売り込みたい」と意気込む。〔共同〕
http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG21H3T_R20C16A3000000/

「学際」的仏像研究私論

「学際」的仏像研究私論

はじめに―かんなみ仏の里美術館

地域開発の仕事をしていると思いがけない機会をいただくことがある。山口建・静岡県立静岡がんセンター総長のご紹介で森延彦・函南市長と知り合い、筆者は現在、かんなみ仏の里美術館運営審議会委員を拝命しているが、そのメンバーそのものが実に「学際」的である。

清水眞澄・三井記念美術館館長は日本美術史の泰斗であり、近著『仏像の顔―形と表情を読む』(岩波新書、2013年)を手にとられた方も多かろう。栗生明・千葉大学名誉教授は著名な建築家である。京都府宇治市の平等院宝物館鳳翔堂は国宝鳳凰堂と見事に調和した日本初のテンプルミュージアム(指定博物館、日本芸術院賞受賞)だが、当館に加えて、その設計を手がけられた先駆者である。
齋藤弘会長、富永和彦副会長はともに地元の教育関係者のトップを務められ、当館を教育施設、地域交流拠点として常に真剣に考えておられる。他にもビジネスや観光の専門家が審議会に集まり、毎回幅広い議論が展開されている。

桑原薬師堂2
木造薬師如来坐像(静岡県指定有形文化財/平安時代/桑原薬師堂にて筆者撮影。現在はかんなみ仏の里美術館にて展示中)

さて、かんなみ仏の里美術館では、平安時代の逸品、薬師如来坐像のほか、鎌倉時代の運慶一門(慶派)の仏師實慶作の阿弥陀三尊像( 重要文化財) や十二神将などを常設展示している(http://www.kannami-museum.jp/)。
もともとこうした諸仏は永らく、鄙びた桑原薬師堂で地域の信仰の対象としてひっそりと息づいてきた。日本で古い木造の仏像が全国各地でかくも分厚い蓄積をもって保存されてきたこと自体が驚異的である。戦乱や風水害、堂宇の劣化による雨漏りや虫害などのさまざまな脅威にさらされながら、パトロンをもった大寺院ですら多くの艱難辛苦があったなか、市井で民衆によって大切に守り継がれてきた地方仏の存在そのものが、一種の社会的共通資本といってよい価値があると思う。

筆者は中学生の時に、慶派の流れをくむ鎌倉市二階堂覚園寺の薬師三尊坐像(重要文化財)によって仏像の魅力に目覚め、大学ではサークル活動として、古美術研究会に所属し、飛鳥彫刻を研究するチーフを経験させてもらった(「飛鳥彫刻への文化史的接近」、『毘首羯磨』早稲田大学古美術研究会編、1974年、所収)。以来、仏像は変わらぬ関心事項ながらも単なる一好事家にすぎない。そうした立場ながら、以下、ささやかな仏像研究私論を述べてみたい。

グローバリズムと仏像研究

かつて京都や奈良に遊ぶ観光客の座右の書といえば、和辻哲郎『古寺巡礼』(初版1919年)や亀井勝一郎『大和古寺風物誌』(同1943年)であった。これらは仏像研究の専門家によって書かれたものではなく、哲学者や文芸評論家による仏像論であり、それゆえに多くの読者を獲得したかもしれない。
しかし、日本の仏像の価値をグローバリズムから位置づけた最初の試みは、岡倉天心の英文出版 The Ideals of the East with Special Reference of the Art of Japan (London: John Murray, 1903、富原芳彰訳『東洋の理想―特に日本美術について』ぺりかん社、1980年を参照)であろう。岡倉天心はフェノロサとともに1884年法隆寺夢殿救世観音像を世に出したことで有名だが、約20年後に書かれた本書は、インド・韃靼文明、中国文明を論じ、それらを背景とした仏教芸術(仏像もその一典型)を抽出しつつ、それらが「極東」の日本にあって「アジアの思想と文化を託す真の貯蔵庫たらしめた」(p.29)と論じた。世界文明のなかで、仏像などの日本仏教美術の価値をはじめて明確に位置づけた書物といわれる所以である。

戦前の仏像研究

邦訳による天心全集が出版されたのは1922年、これ以降戦前の仏像研究には見るべきものも多い。例示として、書架にあるものを拾っただけでも、木村小舟『推古より天平へ』(1928年)、黒田鵬心『日本美術史講話』(1929年)、加藤泰『日本美術史話』(1937年)、濱田耕筰『日本美術史研究』(1940年)、井上政次『大和古寺』(1941年)、『法隆寺図説』(1942年)、望月信成『日本上代の彫刻』(1943年)、野間清六『日本彫刻の美』(1943年)、井島勉『日本美術図譜』(1944年)、足立康『日本彫刻史の研究』(1944年)などがある。また、戦後の出版となるが、田中豊蔵や上野直昭の研究はいかにも浩瀚であり、和辻や亀井だけでなく、職業的専門的な研究家がこの時期、多く輩出されていたことがわかる。

多くの研究の特色としては、仏像彫刻において和様(日本的な特色の抽出)という視点が重視されていることである。朝鮮、大陸からの仏典、仏像、仏画、仏具などの伝搬、舶載はあったが、それが日本において胚胎して、日本独自の仏教彫刻文化が花開いたといった見方である。その結果、今日から見ると歴史的バイアスを感じるが、渡来人や帰化人の影響の濃い飛鳥白鳳彫刻よりも天平以降の彫刻を高く評価し、残存作のすくない定朝(じょうちょう)こそが日本的な特質の表象となり、さらに慶派彫刻をもって日本のルネサンスに至るという「様式史」が形成されていく。

学際的研究の時代へ

昨年は戦後70年だったが、仏像研究においてこの間には大きな変貌があった。「様式史」重視の姿勢はいまもなお強いが、それにとどまらない三つの「学際」的な潮流が変化を促しているように思う。

(1)仏師(製作者)からのメッセージ

戦前にも本郷新『彫刻の美』(冨山房、1942年)といった彫刻家からの問題提起はあったが、京仏師の松久朋琳による『京佛師六十年』、『仏像彫刻のすすめ』(日貿出版社、1973年)や奈良仏師の太田古朴の仏像観賞シリーズ〈1~3〉(『飛鳥・奈良』、『平安藤原』、『鎌倉吉野』綜芸舎、1971~75年)、『日本の仏像 意味と観賞の仕方』(淡屋俊吉との共著、三学出版、1978年)は創作技法を知るうえでも興味深い。これに続き、西村公朝師は『仏像の再発見 鑑定への道』(吉川弘文館、1976年)、『仏の世界観 仏像造形の条件』(吉川弘文館、1979年)ほか多くの著作を残され、最近では彫刻家の藪内佐斗司・東京芸術大学大学院教授などが多彩な情報発信をしている。

仏師、仏像修理の専門家が仏像を論じる―それはまちがいなく「プロ」の眼である。彼らは、当初造像した仏師や、後世に修理しバトン・タッチしてきた先達の仕事を自ら追体験するのみならず、復旧作業を通じて各々の時代の証人ともなり、歴史の継承者でもある。こうした仏師たちは、かつては無言の技術者であった。しかし現代では、その知見、経験、思想を自ら積極的に語るようになってきている。

(2)科学的アプローチ

紫外線、赤外線、X線、β線、γ線などの光学的分析、顕微鏡、微量化学分析法などの科学的アプローチが仏像研究の方法論を一変してしまった(山﨑一雄『古文化財の科学』思文閣出版、1988年)。
信仰の対象である仏像に光学的分析を加えることには根強い抵抗があったようだが、戦前からの研究成果もあって、1950年代から本格化する(久野健『仏像』学生社、1961年)。いまやこうした手法は定番であり、目視によって様式の差を確認し推量するだけの「様式史」は過去のものとなってしまった。

筆者もかつて、兵庫県加古川市鶴林寺に白鳳仏の名品、金銅聖観音像を拝顔に行った際に、国宝太子堂(法華堂)の壁画がサイバーショットデジタルカメラによる赤外写真で現代に甦ったことを見てその威力に驚いた(『産経新聞』2007年10月29日、拙稿「感・彩・人コラム」 http://blog.livedoor.jp/shokkou/archives/1879505.html)。
また、仏像の修理技法の高度化にとっても微量化学分析法は不可欠であり、たとえば鋳金、鍛金、彫金などの金工全般で活用されている(『金工の伝統技法』理工学社、1986年)。

(3)経済学、経営学的な視点

杉山二郎『大仏以降』(学生社、1986年)では、東大寺大仏建立に伴う銅鋳造、水銀塗金法が深刻な重金属公害を発生させたのではないかとの推論を展開している。斬新な視点であり、大いに興味をそそられる。

東大寺参詣の際、大仏に至る導線上にある南大門の仁王像。誰しもが、足下から見上げ、その「巨大さ」に驚く。阿形像836cm、吽形像838cm、重量は各6.6t。阿形は、運慶+快慶、小仏師13名ほか、吽形は、定覚+湛慶、小仏師12名でつくられたことが、1998年から5年間の両像解体、修復工事で明らかとなったが、この2像はわずか約70日でつくられた。運慶工房の「生産性の高さ」については、これにとどまらない。現存しないが、東大寺大仏殿の脇侍は、観音菩薩(定覚+快慶)、虚空蔵菩薩(康慶+運慶)2体(座高で約900cm)、四天王4体(像高約1,300cm)は約80日間で完成、さらに、東大寺中門像高約700㎝の2天王については制作日数76日、東方天が快慶ほか小仏師14名、西方天が定覚ほか小仏師13名のチームであったという(副島弘道『運慶 その人と芸術』吉川弘文館、2000年、pp.136-137参照)。
こうした造像システムは早くも定朝によって確立されたとされ、1026年中宮威子御産祈祷のための27体の等身仏は、工期3カ月、仏師動員125名の記録がある。運慶工房は、その伝統を引き継いでいる(根立研介『運慶 天下復タ彫刻ナシ』ミネルヴァ書房、2009年、pp.8-9参照)。

筆者は、<チーム運慶>の活動に日本の製造業の源流を想像し、加工・組立技術の分業によるその生産性の高さに驚くが、近年のこうした研究成果はいかにも学際的である。

おわりに隣接学問との関係

飛鳥白鳳時代を考える時、考古学ではそれ以前の古墳時代から多くの実証的なデータが得られる(町田章『平城京』考古学ライブラリー44、ニュー・サイエンス社、1986年)。また、この時代の朝鮮、大陸との国際関係は緊密であり、歴史学における海外との比較研究からも新たな発見がある(速水侑『日本仏教史〈古代〉』吉川弘文館、1986年)。
戦前の仏像研究から続く「様式史」では、この時代のグローバルなダイナミズムが十分に捉えられていないと感じることがある一方、考古学や歴史学からの飛鳥白鳳時代の解析は魅力的である。

文化庁のデータ( http://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/searchlist.asp)によれば、日本には現在、128件の国宝の仏像がある。しかし鎌倉時代を最後に、以降の国宝の指定はない。
「様式史」の呪縛といっては専門家からのご叱正があるかもしれないが、江戸時代の円空、木喰はじめ胸を打つ仏像は後世にも多く存在しており、この点はかねてからの強い疑問である。

学界のアウトサイダー、保田與重郎はかつて「美術やその歴史を語る上で、様式とか形式といふことを目安にする考へ方は、わが国では、文明開化以前にはなかった。かうした方法の始まりは、近々百年この方美学を芸術学としてつくる時に、凡庸で美のわからぬ分類家が考えへたものである」(『日本の美術史』新潮社、1968年、p.89、漢字のみ新字体に変更)と辛辣に批判した。
ところで、最近は、飛鳥、白鳳、天平、貞観といった従来の区分ではなく、よりスマートに、時代別に前期、後期で分類する傾向も強いが、筆者は旧表記のニュアンスを大切にしたいし、学界の分類学重視の傾向に保田のこの言葉を想起する。
むしろ、上記で指摘したような学際的な分野の成果を踏まえ、「様式史」を相対化し、より総合化した仏像研究が求められていると思う次第である。

http://www.isr.or.jp/TokeiKen/pdf/gakusai/1_14.pdf
(『学際』第1号(2016年1月)所収 http://www.isr.or.jp/TokeiKen/publication/gakusai/gakusai_new.html

仏像による日米親善 NYでケネディ大使が着物姿で参加

NYでケネディ大使が鏡開き、着物姿で
オープニングセレモニーで、着物姿であいさつするケネディ駐日大使=2月11日、米ニューヨーク(共同)

鎌倉時代の慶派の仏像(快慶作品など)が日米親善に一役買ったという記事。今回は米国発だが、これに限らず、キャロライン・ケネディ駐日大使は日本全国を行脚しよく活躍されていると思う。

【以下は引用】
米ニューヨークの教育・広報機関アジア・ソサエティーで11日夜、鎌倉時代の仏像を紹介する特別展のオープニングセレモニーがあり、米国に帰国中のキャロライン・ケネディ駐日大使が着物姿で鏡開きに加わった。

 ケネディ氏はあいさつで「日本の美術作品はとても深みがあり、歴史も豊かで、私にとって毎日が素晴らしい学習体験です」と日本での暮らしぶりを紹介。「世界で米国にとって(日本以外に)より強固な盟友で、偉大なパートナーは考えつかない」と持ち上げた。

 ケネディ氏はこの後、法被を着け、高橋礼一郎ニューヨーク総領事らと共に鏡開きを行った。

 特別展は、北米や欧州の博物館などが所蔵する仏像など計約30点を集めたもので、鎌倉時代を代表する仏師の快慶の作品も含まれる。5月8日までの期間中、日本文化紹介の関連イベントも開かれる。(共同)
http://www.sankei.com/world/news/160212/wor1602120032-n1.html

ーーーーーーーーーーーー
展示されている作品の一部は、以下で見ることができる。いずれも慶派の特色をよく示すものである。

http://asiasociety.org/new-york/exhibitions/kamakura-realism-and-spirituality-sculpture-japan

【以下は引用】

Kamakura: Realism and Spirituality in the Sculpture of Japan
9 February 2016 - 8 May 2016

"Kamakura: Realism and Spirituality in the Sculpture of Japan" examines the interplay of realism and the sacred in more than thirty Buddhist masterpieces from the Kamakura period (1185–1333).

鎌倉時代の貴重な仏像を集めた特別展「Kamakura: Realism and Spirituality in the Sculpture of Japan」が、2月9日から、ニューヨークのアジア・ソサエティーで開かれている。5月8日まで。
アメリカで鎌倉時代の彫刻などが貸し出し公開されるのは30年ぶりだという。快慶の仏像など、貴重な作品が多く鑑賞できる。  
11日に行われたオープニング・セレモニーには、訪米中のキャロライン・ケネディ駐日大使も出席した。

アジア・ソサエティーは今年で創設60年。日本文化を祝う「Season of Japan」を実施中で、この特別展もその一部だ。シンポジウム、能や歌舞伎のパフォーマンス、古典映画、文学、折り紙、日本をテーマにしたハッピーアワーなど、さまざまなイベントが予定されている。

◾️会場:Asia Society (725 Park Avenue at 70th St, NYC)
◾️開館時間:火〜日11am〜6pm、金11am〜9pm、月休
◾️入場料:一般12ドル、シニア10ドル、学生7ドル、16歳以下無料。金曜6pm以降は無料。
◾️問い合わせ:212-288-6400
◾️詳細:asiasociety.org/new-york/
http://usfl.com/mimiyori/event/96490

Head of a Guardian King
Head of a Guardian King
Brooklyn Museum, Gift of Mr. and Mrs. Alastair B. Martin, the Guennol Collection, 86.21
Image courtesy of Brooklyn Museum

Nyoirin Kannon
Nyoirin Kannon
Asia Society, New York: Mr. and Mrs. John D. Rockefeller 3rd Collection, 1979.205
Photography by Synthescape, courtesy of Asia Society

About Kamakura

The magnificent sculpture of the Kamakura period (1185–1333) has long been considered a high point in the history of Japanese art. Stylistic and technical innovations led to sculpture that displayed greater realism than ever before. Sculptors began signing their works, allowing us to trace the development of individual and workshop styles that influenced later generations for centuries. Religious developments—often combinations of traditional and new practices—brought devotees into closer proximity with the deities they worshipped.

The icons in this exhibition commanded the faith of passionate devotees, some of whom hoped to gain merit from the making of a Buddhist image, to ensure salvation in the afterlife, or to obtain tangible benefits in this life. Others aimed to achieve ultimate awakening through ritual unification with the deity represented by the icon. In their original contexts these powerful icons were “real presences,” brought to life by their naturalistic form, ritual activation, and sacred interior contents.

Craftsmen created these icons during a time of profound political and social disruption. For the first time in Japanese history, powerful warrior clans challenged the imperial court that had dominated the political and cultural landscape for centuries. In the civil war of the 1180s, the great Buddhist temples of the ancient capital in Nara burned to the ground. The devastation shocked the entire country, but rebuilding and repopulating the temples with new sculptures and paintings began almost immediately. Renewed contact with the Asian mainland, which flourished in the early Kamakura period, further invigorated arts and religious practices.

Elite warriors became an important new source of patronage for religious arts, while the imperial court and aristocratic clergy continued their sponsorship of sculpture workshops in Kyoto and Nara even as their fortunes gradually declined. One major new patron was Minamoto Yoritomo, who became the first ruling shogun and established a military government headquartered in the town of Kamakura in eastern Japan. Later in the thirteenth century, however, the continued threat of invasion by the Mongol empire created further instability. In 1333, a cunning Japanese emperor launched a rebellion ending the Kamakura shogunate not even 150 years after its founding.

Despite the brevity of this historical period, it had a lasting impact on the political, artistic, and religious legacy of Japan. Shoguns and warlords were the dominant rulers up until the mid-nineteenth century. Even in the eighteenth century, sculptors proudly traced their artistic lineages back to early Kamakura master sculptors, while religious movements established during the period continue to be some of the most popular forms of Buddhism practiced in Japan today.

Ive Covaci, Guest Curator
Adriana Proser, John H. Foster Senior Curator for Traditional Asian Art, Asia Society

仏像は誰が守れるのか シリアスな話題

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(画像は別です)

【以下は引用】

<限界宗教法人問題>
重文3件を売却、高齢夫婦の年金生活で寺守…厳しい地方の寺院経営


国学院大学の石井研士教授の調査で浮上した「限界宗教法人」問題。世界遺産に登録されるなど著名な寺社が多くある一方、3分の2にあたる26市町村が「消滅可能性都市」とされる奈良県は、全国でも最も事態が深刻な都道府県の一つだ。今回の調査では、計3847ある宗教法人のうち、実に49・7%にあたる1912法人が「限界」と判明。地域の信仰の場をどう維持し、文化財を守っていくのかが、大きな課題になっている。

 「田舎の弱小寺が重要文化財の仏像などを持っていると、いつ盗まれるか、なくしてしまうか、と気が気でない。国が保存して貴重な文化財として継承してくれたほうがいい」

 飛鳥時代建立とされる奈良県内のある寺は、平成21年から昨年末までの間に所蔵していた仏像など、重要文化財3件を相次いで文化庁に売却した理由をこう説明した。

 この寺も試算で消滅可能性都市とされた自治体にある。特定の宗派に属さない単立寺で、檀家(だんか)はなく、観光客も少ない。住職も普段は働きに出る“兼業”だ。寺側は「敷地内の墓地も売れないし、寺をいつまで続けていけるか。将来には不安しかない」と話す。

 文化財の売却額は10億円近くになったが、寺の運営費や修理費などに充てているという。今後は「仏像を守るというより、精神の醸成を図る取り組みをしていきたい」とした。売却した文化財は、奈良市の奈良国立博物館に移された。

 文化庁によると、寺や個人からの重文などの売却申し込みの届け出数は23年度以降、毎年20~40件。同庁の国宝・文化財購入予算は24年度以降、毎年約13億円で推移している。

 関係者によると、寺が所有する重要文化財を立て続けに売却することはまだ珍しいというが、文化庁の担当者は「今後、経営難の寺院が増加すると、重文の寄託や売却は多くなるかもしれない」と話す。

 一方、同様に消滅可能性都市とされた同県大和高田市にある弥勒(みろく)寺。長年住職が不在だったが、現住職が着任してから3年後の24年、本尊の弥勒如来坐像(みろくにょらいざぞう)は県指定文化財から国の重要文化財に格上げされ、本堂などの修理が必要になった。国や自治体の補助を受けることはできたものの、約350万円は寺の自己負担だった。

 寺に檀家はなく、収入は夫婦2人の年金だけだが、伊藤教純(きょうじゅん)住職(73)は「お経をあげて茶を供え、仏様の身近に仕えるのが一番ありがたい。仏様の教えを地域の人々に伝えていくことで本来の信仰が生きる」と、今後も寺で守り続けるつもりだ。
 複数の寺を運営する若手の住職も、今後に不安を感じている。同県山添村の不動院で、7寺の住職を兼務している前川良基(りょうき)住職(42)。各寺を回るのは月1回程度だが、今は200軒前後ある檀家がそれぞれ管理にあたってくれている。だが村は22年から30年後には、総人口が約55%減の1848人になると試算されている。

 「寺の維持管理に協力してくれている檀家さんは60~80代の方々。地域の高齢化は進み、人口も減っている。15年後、20年後、寺を守り続けることはできるのだろうか」と語った。

 県内では、世界遺産の法隆寺(斑鳩町)でも、少子化の影響で参拝客の多くを占める修学旅行生が減少、維持費の確保を理由に昨年1月から拝観料を1・5倍の1500円に引き上げるなど、有名社寺であっても信仰の場をどう維持するかが、大きな課題になっている。

 奈良国立博物館の内藤栄・学芸部長(仏教工芸史)の話「長年、文化財が寺にあること自体が文化。だが、守れない場合、民間や海外への流出を防ぐため、国が買い取り、国民のものとするメリットは大きい」

 山岸公基・奈良教育大学教授(日本・東洋美術史)の話「文化財は地域の宝。個別の事情にもよるが、できるだけ地域で保存し、難しいなら寄託や寄贈が望ましい。国による買い取りは膨大な費用がかかってしまう」

http://www.sankei.com/west/news/160206/wst1602060018-n1.html

龍谷ミュージアム 行ってみたい美術館・博物館

龍谷大学 ストゥッコ仏頭

昨年はインドについての本をよく手にとった。関心は格段に増した。それもあって、今年行きたいなあと思うのが下記である。
◇インドの深さ、凄さ http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-456.html

【以下は引用】
龍谷ミュージアム 

20世紀初頭にシルクロードで大きな成果をあげた大谷探検隊のコレクションをはじめ、多くの文化財を保有する龍谷大学。身近にありながら難しく思われがちな仏教の世界を分かりやすく伝える「龍谷ミュージアム」が、世界遺産・西本願寺の正面に開館しました。

http://www.museum.or.jp/modules/im/index.php?content_id=395

龍谷ミュージアムは、社会に開かれた大学の実現に向け、龍谷大学の創立370周年事業の一環として2011(平成23)年4月5日に開館した仏教総合博物館です。 仏教を中心とした貴重な歴史的文化財や学術資料を収集・整理・保存するとともに、継続的な調査・ 研究を行い、その成果を広く社会に向けて展示・公開することを目的とします。当ミュージアムでは、年2回の特別展示を行うほか、平常展において、仏教の誕生からアジアへの広がり、日本の仏教の展開までを分かりやすく展示しています。

また、生涯学習や地域住民の交流の場として活用していただき、地域活性化の一翼を担う施設として地域と共に発展することを目指しています。

http://univ-museum-kyoto.com/museum/museum-ryukoku/

対馬の盗難仏像 その後

海神神社の国指定重要文化財「銅造如来立像」
海神神社の国指定重要文化財「銅造如来立像」

少し古い記事だが、記録のために。その後、盗難時のことか指先の破損も伝えられている。
http://www.zakzak.co.jp/society/foreign/news/20150722/frn1507221900006-n1.htm

【以下は引用】
韓国、3年ぶりに盗難仏像返還 対日関係修復狙う? 残る一体 “人質”でもなかろうに…
 2015.7.17 産経新聞

【ソウル=名村隆寛】長崎県対馬市の海神神社から2012年10月に盗まれ、韓国に持ち込まれた国の指定重要文化財の仏像「銅造如来立像」が17日、日本側に返還、まもなく対馬に戻る予定だ。仏像は、日本側の返還要求にもかかわらず、約3年間拝まれることもなく韓国に留め置かれた。しかし、韓国には他にも同時期に対馬から盗まれた仏像が返還されずにいる。日韓の懸案のひとつである仏像返還問題がこれで完全に解決したわけではない。

 仏像の返還は、15日の韓国最高検の決定によるもの。韓国では「仏像は本来、朝鮮半島から日本が持ち去ったものだ」との主張があったが、最高検は(1)鑑定により仏像が日本に渡った経路が確認できない(2)韓国国内で所有権を主張する寺などがない-ことを返還理由にあげた。

 最高検では「(決定翌日の)16日にも引き渡しは可能だ」とした。3年近く日韓の懸案としてくすぶり続けた問題の結末としては実にあっけなかった。

 現地からの情報によれば、仏像が保管されていた韓国中部・大田市の文化財研究所で17日、韓国側と日本の関係者の間で引き渡しが行われたという。日本政府は仏像が日本に到着後、返還の事実を明らかにするとみられる。

この仏像は統一新羅時代のもので、盗難後、釜山港を経て韓国に持ち込まれた。当初は一部で「文化財の奪還」の象徴とされたが、韓国国内では「盗みは盗みだ」として、日本への返還を促す意見もあった。この3年の間にすでに窃盗の実行犯ら6人の有罪が確定している。

 韓国では返還について、表立った異論は出ていない。ただ、菅義偉官房長官が15日に「盗難にあったものを返還するのは当然のことだ」と語った言葉のうち「当然」という部分が強調され報じられたほかは、反応は極めて静かだ。

 韓国メディアでは「(仏像の日本への)搬出の経路は明らかでない。壬辰倭乱(文禄・慶長の役)の時期に略奪された可能性があるが、正常な交流のうちに(日本に)渡った可能性もある」(朝鮮日報)と「日本が奪った」との当初の主張はあいまいにされている。“バツの悪さ”かどうかは分からない。とにかく、何事もなかったかのように、驚くほど速やかに返還の作業は行われたようだ。

 仏像は韓国当局が確保したあと、韓国文化財研究所の倉庫で、長らく文化財として「接近禁止」と記した札が貼られ、保管されていた。日本政府関係者によると、仏像はあくまでも宗教上の信仰の対象であり、「日本への返還後は丁重に扱われ、海神神社に戻される見通し」だという。

仏像返還を決めた韓国当局の判断については、そのタイミングから韓国が注視する安倍晋三首相の戦後70年談話を前にした措置など、対日関係修復への狙いが取り沙汰されている。さらには、日本側の要求に応じた仏像返還によって外交的に対日優位の立場を確保できる-などの憶測もある。

 ただ、菅官房長官が「強力に返還要求する」と言明したように、もう一体の仏像である長崎県の指定有形文化財「観世音菩薩坐像」の返還問題は依然として解決していない。

 こちらの仏像は「本来の所有者」と主張している韓国の寺の請求により、返還差し止めの仮処分が出されており、返還するかどうかについて最高検は「現時点では決定しない方針」としている。

 海神神社の仏像は、近く海を渡り、もともとあった神社に約3年ぶりに戻されるが、もう一体の仏像は“人質”でもなかろうに、現在も韓国国内に取り残されている。韓国がこだわる「歴史認識」の問題に翻弄されるのか。あるいは、外交の駆け引きに使われるのか。残された仏像が対馬に戻り、元のように“鎮座”する日がいつになるかは分からない。
http://www.sankei.com/world/news/150717/wor1507170039-n1.html

鎌倉の大仏 傷み具合の調査が進む

鎌倉大仏2

鎌倉の大仏については以前にも書いたと思うが、鋳造時期が特定されていないこと、また、当初は堂宇の内にあったが、地震倒壊ないし津波で流出してしまったことが知られている。国宝であり多くの海外からの賓客も拝顔する貴重な文化財である。本来、大仏殿をつくりそこに保存することが必要であると思っている。今回の調査が、そうした動きにつながっていけば良いのにと考える。

【以下は引用】
鎌倉の大仏 傷み具合の調査が進む
1月29日 4時31分 NHK配信

傷み具合の調査のため拝観ができなくなっている、神奈川県鎌倉市の大仏では、28日、調査の様子が報道関係者に公開されました。
鎌倉時代に鋳造され、国宝に指定されている大仏は、汚れやさびが目立つため、今月13日から傷み具合を調べる調査や清掃作業が行われていて、2か月間にわたって拝観することができなくなっています。
28日は調査の様子が報道関係者に公開され、およそ13メートルある大仏の頭まで何段にも組まれた足場の上では、専門家が、頭部にあるひび割れや汚れを撮影したり、専用の装置を使って表面のさびの成分などを調べていました。
鎌倉の大仏が拝観できなくなるのは、昭和34年から36年にかけて行われた「昭和の大修理」以来、55年ぶりのことです。
調査に当たっている東京文化財研究所保存修復科学センターの森井順之主任研究員は、「仏像を近くで見ると、遠くでは見えない亀裂が確認できた。これまでの調査ではすぐに壊れるようなぜい弱な部分は見つかっていないが、今後明らかになれば、修理の是非を検討してもらいたい」と話していました。
作業はことし3月10日まで行われ、作業の一部は境内に設置されたモニターで見ることができます。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160129/k10010389731000.html

鎌倉大仏修理 【“鎌倉の大仏 傷み具合の調査が進む”の続きを読む】

韓国国立中央博物館、鉄造阿弥陀を初公開

韓国国立中央博物館、鉄造阿弥陀

韓国の地方仏とのこと。鉄仏と伝えられるが、写真で見る限り保存状態は良さそうだ。
韓国国立中央博物館HPはありがたいことに日本語版もあるので以下も参照。
http://www.museum.go.kr/site/jpn/relic/represent/view?relicId=1200


【以下は引用】
韓国国立中央博物館、鉄造阿弥陀を初公開
高麗室・渤海室を新装、実生活の遺物など立体的な展示

展示場の中央に結跏趺座(けっかふざ)している鉄の仏像は、近所のおじさんのようにほのぼのとて見えた。サザエの殻のように結い上げられた頭、平たい顔…。江原道原州で出土した高麗の「鉄造阿弥陀(あみだ)仏」だ。胴や頭の一部が壊れ、コンクリートで埋められていたが、保存処理を経てきれいに生まれ変わった。

 ソウル市竜山の国立中央博物館(金英那〈キム・ヨンナ〉館長)は最近、新装成った高麗室でこの仏像を初めて公開した。台座を低くして観客の目の高さに合わせ、後ろ姿まで立体的に見ることができるように展示した。ソ・ユンヒ学芸研究士は「高麗の地方勢力を動員して作った鉄仏。首都開京(現在の開城)の華麗かつ貴族的な文化とは異なる土俗的な仏像の顔が、まさしく高麗の地方文化の特徴」と語った。

 同博物館は今回、常設展示館の高麗室と渤海室を新装した。展示遺物およそ770点のうち、230点余りが初公開。ガラスの陳列スペース場を新たに作って照明も改善し、一段と引き締まった姿になった。2009年の新設後、初めて改編された高麗室は、時期により第1室と第2室に分けられた。第1室は、開京の貴族文化と、明確な地域色を有していた地方文化とを対比した展示になっている。14年に国立中央博物館会が日本から購入して同博物館に寄贈した螺鈿(らでん)の経箱、青磁、貴金属などは、高麗王と門閥貴族の洗練された文化を物語る。一方、鉄造阿弥陀仏に代表される地方の遺物には、土俗的でありながらも個性の強い、高麗の味が感じられる。

許允僖(ホ・ユンヒ)記者
朝鮮日報/朝鮮日報日本語版
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2016/01/29/2016012901234.html

飛鳥大仏 いま甦るその実像

飛鳥大仏 2

以前に以下の記事(2012年10月20日)を読んだ。「飛鳥大仏 ほぼ造立当初のままの可能性 文学学術院・大橋教授らがX線分析、従来の見解覆す研究成果」(https://www.waseda.jp/top/news/6373)。
今回の読売新聞の記事はそれを踏まえたものであろうか。それはさておくとしても実に興味深い。


【以下は引用】
鎌倉期焼損も、造立の姿残す

 日本最古の本格的寺院、飛鳥寺(奈良県明日香村)の本尊・銅造釈迦如来坐ざ像(通称・飛鳥大仏、重要文化財)の材質調査に、藤岡穣ゆたか・大阪大教授(東洋美術史)らの研究グループが、今夏から取り組む。鎌倉時代に火災に遭い、ほとんど原形をとどめていないとも考えられてきたが、昨年の予備調査で造立当初の部分があることを確認。頭部についても当時の造形のまま残っている可能性が高く、再評価につながりそうだ。

 飛鳥大仏は像高275センチの鋳造仏。渡来系の仏師、鞍作鳥くらつくりのとり(止利とり仏師)が手がけ、609年に完成したとされる。奈良・東大寺の大仏造立(752年開眼)を100年以上遡り、文献上、日本で制作されたことが確認できる最初の仏像だ。

 1196年、落雷による火災で、大仏が安置されていた金堂が焼失。大仏も大きく傷ついたとされる。戦前は国宝だったが、1950年に文化財保護法が施行された際、「残存状態が悪い」と判断され、国宝再指定はされなかった。

 藤岡教授らは2013年度から、大阪市立美術館所蔵の誕生釈迦仏立像(飛鳥時代)など、5~9世紀を中心とする金銅仏約500点の調査に取り組んできた。その一環として昨年8月、この大仏の予備調査を実施。金属の成分がわかる蛍光エックス線を用いて、大仏の表面約20か所を調査した。

 その結果、右手の指と手のひらは銅87~88%、錫すず5%、鉛4%で、飛鳥時代の金銅仏の成分と特徴が一致。造立当初のものが残っていると判断した。

 予備調査では足場が組めなかったため、頭部の成分分析はできなかったが、表面は右手とよく似た仕上がり具合となっている。このため、頭部についても、造立当時の様式を保っているとみられるという。

 頭部には補修した痕跡が多数残っており、これまでは火災で大きく損傷した証拠だとされてきた。これについても、藤岡教授は「当時の技術が未熟だったため、鋳造中に欠損してしまった部位を、造立時に銅材で補った跡もあるのではないか」と指摘。大仏の顔の一部には鋳造後に金メッキを施された跡が残っており、「完成すれば、補修跡は分からなくなると考えたかもしれない」と推測する。

 本調査では、足場を組んで頭部を含む全体を詳細に分析。造立当時の部分と補修部分を区別するとともに、補修が行われた時期についても検討する。

 藤岡教授は「飛鳥大仏は我が国の仏教史上、最も重要な仏像の一つ。実態を解明したい」と話している。

2016年01月30日  読売新聞
http://www.yomiuri.co.jp/osaka/news/20160130-OYO1T50015.html

飛鳥大仏images

室生寺 十二神将

室生寺十二神将
http://gallery.noevir.jp/miyoshi/

【以下は引用】
三好和義氏による“土門拳氏に捧げる”写真展「室生寺 十二神将」がノエビア銀座ギャラリーで開催

2016年1月12日(火)から3月25日(金)まで、ノエビア銀座ギャラリーにて、“土門拳に捧ぐ―三好和義写真展「室生寺 十二神将」”が開催されている。1986年に写真集「RAKUEN」で木村伊兵衛写真賞を受賞した三好和義氏の写真展。奈良県北東部の室生山の山懐にある室生寺をテーマとした作品の中から、薬師如来を守護する12体の武神「十二神将」を中心に展示が行われる。入場無料で、開催時間は10:00〜18:00(土日祝は17:00まで)。

三好和義氏は1958年徳島県生まれの写真家だ。“楽園”を求め、タヒチやモルディブなど南の島々をはじめ世界各地を巡りながら活動。近年では、日本の世界遺産、京都御所、桂離宮、仏像、陶磁器、富士山、伊勢神宮など、日本人の精神性や伝統文化をテーマに撮影を続けている。本展のタイトルからも窺えるように、三好氏は中学生の頃から故・土門拳氏(1909-1990)に憧れて写真家を志した。土門拳氏は戦前から報道写真家として活躍し、日本の伝統文化から社会性の高いテーマまで、日本の写真史に偉大な功績を残したことで知られる。彼は1939年から室生寺に通い、1954年には写真集「室生寺」、1978年には写真集「女人高野室生寺」を刊行。今回の企画は、その憧れの土門氏が愛した室生寺の撮影に、三好氏が挑んだ写真展となっている。

■期間:
2016年1月12日(火)~3月25日(金)

■開催場所:
ノエビア銀座ギャラリー
東京都中央区銀座7-6-15 ノエビア銀座本社ビル 1F

http://www.mdn.co.jp/di/newstopics/43681/

インド哲学

ヴェーダ

『インド思想史』 早島鏡正, 高崎直道, 前田専学他 1982年 東京大学出版会 を読んでいる。
http://www.utp.or.jp/bd/4-13-012015-8.html

本書は、「哲学と宗教とがあい伴ったインド思想を概説する.『リグ・ヴェーダ』に始まり,仏教とジャイナ教がおこり,ヒンドゥー教を生んで後,中世にイスラーム教の浸透を受けて近―現代へ.主要な選文を引きながら,この重層した流れを紹介.参考文献,年表,地図.」(上記引用)といった内容。非常によくまとまっており座右の参考書として好適。

しかし、インド哲学の燎原は遠く広い。まず、ウィキペディアから「ヴェーダ」についての引用。


「ヴェーダ(梵: वेद 、Veda)とは、紀元前1000年頃から紀元前500年頃にかけてインドで編纂された一連の宗教文書の総称。「ヴェーダ」とは、元々「知識」の意である。
バラモン教の聖典で、バラモン教を起源として後世成立したいわゆるヴェーダの宗教群にも多大な影響を与えている。長い時間をかけて口述や議論を受けて来たものが後世になって書き留められ、記録されたものである。…

広義でのヴェーダは、分野として以下の4部に分類される。

●サンヒター(本集):中心的な部分で、マントラ(讃歌、歌詞、祭詞、呪詞)により構成される。
●ブラーフマナ(祭儀書、梵書):紀元前800年頃を中心に成立。散文形式で書かれている。祭式の手順や神学的意味を説明。
●アーラニヤカ(森林書):人里離れた森林で語られる秘技。祭式の説明と哲学的な説明。内容としてブラーフマナとウパニシャッドの中間的な位置。最新層は最古のウパニシャッドの散文につながる。
●ウパニシャッド(奥義書):哲学的な部分。インド哲学の源流でもある。紀元前500年頃を中心に成立。1つのヴェーダに複数のウパニシャッドが含まれ、それぞれに名前が付いている。他にヴェーダに含まれていないウパニシャッドも存在する。ヴェーダーンタとも呼ばれるが、これは「ヴェーダの最後」の意味。・・・」


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%80

釈迦が紀元前600年頃から紀元前500年頃の人とすれば、それ以前の長い歴史をヴェーダ哲学はもっている。むしろ、考え方次第では、ヴェーダ哲学の沃野から仏教という良質な生産物が生まれたと言えるかもしれない。
後世の密教をみると、この源流のもつ意味を少しは理解できる。まず、サンヒター(本集)のマントラについては以下に記した。


◆空海と密教美術展 空海について考える6 <真言>+<陀羅尼>
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-256.html

次にブラーフマナ(祭儀書、梵書)については、密教の体系性と秘儀に関して、同じく以下に記した。

◆空海と密教美術展 空海について考える2 十住心論の体系
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-252.html

3番目のアーラニヤカ(森林書)は、ヒンドゥー教では大きな意味がある。青年期まで学び、壮年期まで働き、老年期には森に入って瞑想するという人生の階梯論が底流にあり、森の隠者には深い学識と経験となにより悟りにいたる達観がある、といった見方である。

ウパニシャッド(奥義書)は核心的な部分である。ふたたび、ウィキペディアからの引用。

「ウパニシャッドの中心は、ブラフマン(宇宙我)とアートマン(個人我)の本質的一致(梵我一如)の思想である。ただし、宇宙我は個人我の総和ではなく、自ら常恒不変に厳存しつつ、しかも無数の個人我として現れるものと考えられたとされる」

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%91%E3%83%8B%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%83%E3%83%89

インドから日本へ 玉虫厨子

玉虫厨子2
玉虫厨子 捨身飼虎図
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%89%E8%99%AB%E5%8E%A8%E5%AD%90

はじめて、玉虫厨子を見たときに、その歴史的、文化的な意義については、解説の文章を読んでもいまひとつ得心できなかった。しかし、インド関係の書物に多少とも親しむと、この玉虫厨子の価値がいかに大きいかに思いがいたる。

仏像がいまだない時代(ざっと2000年前くらい)だが、釈迦の偉大さをどう表現すべきかに当時のインドの人々は悩んだ。なぜならば、釈迦は実在の人物でその生涯の足跡は限られているからだ。しかし、本生譚と呼ばれる前世の物語は、自由に描くことができる。ファンタジーであれば、いかようにも羽ばたける。

『ジャータカ』(skt及びPl:Jātaka、漢訳音写:闍陀迦、闍多伽など)は、その意味で必要であった。このいわば厖大な「ファンタジー集」は、インドにおいてすでに大部の蓄積があった。そこから、捨身飼虎(しゃしんしこ)や施身聞偈(せしんもんげ)といった庶民を感激させるストーリーが選択される。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%82%AB

玉虫厨子の前で、仏像彫刻や建築目当てできた観察者の戸惑いは、なぜ虎に食われる王子は、こんな格好をしているのかという点ではないか。インドの古い説話→仏教への応用→釈迦の偉大さをファンタジー(前世)で補完すること→諸国への伝播(ストーリーの斬新さゆえ)→中国での翻案(画像化)→日本への伝播、そして玉虫厨子への結実。インドの王子がここに描かれ、インドの卓抜な物語がここに息づいているのである。インド人の想像力と伝播力、凄い。

(参考)
http://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/SK/0018/SK00180R087.pdf

◆田中豊蔵と上野直昭
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-188.html

◆聖徳太子本7:聖徳太子と玉虫厨子―現代に問う飛鳥仏教 石田 尚豊 (著)
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-77.html

玉虫厨子
玉虫厨子 全体像

インドの深さ、凄さ

法隆寺金堂壁画
法隆寺金堂壁画

仏教というカテゴリーにおいて、インドは深く凄いところである。偉人伝とその彫刻の魅力を以下、各5題。

◆阿育王
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-455.html

◆カニシカ王
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-454.html

◆龍樹菩薩
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-453.html

◆無著と世親
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-452.html

◆鳩摩羅什
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-451.html

◇インドの仏像
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-434.html

◇インドの仏 東京国立博物館
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-433.html

◇MIHO美術館 ガンダーラ仏
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-361.html

◇インド彫刻 ギャラリー
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-275.html

◇シルクロード ギャラリー
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-169.html

法隆寺金堂壁画2
法隆寺金堂壁画

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