大和古仏探訪

京阪神を中心に内外の古仏についていろいろと書いてみたいと思います。

聖徳太子と仏像

広隆寺弥勒(拡大)

聖徳太子と仏像との関係について、少しく所感を述べたい。四天王像、弥勒菩薩像、釈迦三尊像を中心に、以下若干メモしてみたいと思う。

第1章 四天王像

◆四天王寺と幻の四天王像

聖徳太子の初陣。そこから太子と仏像のストーリーははじまる。以下は四天王寺のHPからの引用

「四天王寺は、推古天皇元年(593)に建立されました。 今から1400年以上も前のことです。 『日本書紀』の伝えるところでは、物部守屋と蘇我馬子の合戦の折り、崇仏派の蘇我氏についた聖徳太子が形勢の不利を打開するために、 自ら四天王像を彫り 「もし、この戦いに勝たせていただけるなら、四天王を安置する寺院を建立しましょう」 と誓願され、勝利の後その誓いを果すために、建立されました。(中略)」

聖徳太子は用明天皇の子である。587年7月に物部守屋を蘇我馬子とともに滅ぼす闘いに太子は参戦する。時に用明2年、彼は「天皇の皇子」としてのおそらくは初陣であった。太子当時14才、実戦とは関係のうすい象徴的な存在であり、だからこそ仏を彫る余裕があったのかも知れない。しかし、彼の早熟ぶりからは相応の判断力をもった若き指揮官だったとも考えられる。物部VS蘇我戦争で太子は前線にあった。生死を分ける戦場、そこでの戦勝への強い祈願。そこで太子は、みずから鑿をとって四天王像を彫り、その仏像にたいして、勝利の暁には四天王寺の建立を誓願する。ドラマティックな逸話である。四天王寺とは、日本歴史上も由緒正しき寺院であり、もしも後世、火災や戦禍で焼けなかったら法隆寺と並び立つ世界遺産になっても不思議のない名刹である。

もともと四天王寺はいまの森の宮近辺にあったが、これが上町台地に位置する現伽藍に移ったとの説がある。摂津国玉造の東岸にあったのが、おなじく摂津国難波の荒陵(あらはた)に移されたと日本書紀に記載がある。
そこは当時にあって帰化人の住む一種の大きな「居留地」であったのだろう。はじめは「倭人」が住んでいたところに「帰化人」が入植したのではとの先入主をもっていたが、もしかすると、難波宮というもっとも古い都は、帰化人がつくり、そこに住んだ新都市だったと考えたほうが正確かも知れない。そして、その中心に置かれたのが総合寺院、四天王寺だったのではないか。

http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-129.html

いまの四天王寺。上町台地の中端に位置する四天王寺の大鳥居に彼岸に沈む夕陽は、淡路島と六甲山系の合間の瀬戸内海に「入滅」するという。海からのアプローチ。中国、朝鮮からの外交使節や新知識や文物は海路をへて当時は湾に隣接する難波四天王寺にあがる。ここから陸路をへて斑鳩へ。海の玄関口としての四天王寺、そして内陸都市斑鳩でも同様に壮大な仏教伽藍が迎える、聖徳太子直轄の「二大寺院」はまた外交上の迎賓館、知的拠点としての大学としても機能していただろう。

日本書紀編纂が720年。太子没(622年)後約1世紀の時が流れている。日本書紀の記載には政治的な思惑もあり、「太子実在」に疑問を投げかける向きもあるが、では日本書紀などに書かれなかったがゆえに、多くの失われた太子関連の足跡や重要な事象もあっただろうとの<逆推論>も当然なりたつ。

聖徳太子は生前はあきらかに「蘇我ファミリー」の一員だった。また、過去帳からは四天王寺には、滅ぼされた物部一族関係の多くの人々もいたとも・・。複雑さ、多義的なゆえにそこに面白さもある。さらに、四天王寺には、当初、如来、菩薩はなく眷属たる四天王のみが直線的におかれていたとの説もある。それは外交上のプレゼンスか、外敵に対する守護神としての本来の意味か・・?

http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-39.html

四天王寺という武神を奉る寺院を太子が建てたこと、そこが興味深い。しかも、その四天王は直線的におかれていたとの説にも多くの想像が働く。現在の四天王寺金堂。中央に巨大な本尊救世観音菩薩像、仏壇周囲に四天王像を配する。本尊は、彫刻家平櫛田中の指導で造像され、四隅に立つ四天王像は仏師松久朋琳・宗琳の作とのことである。

残念ながら、創建された四天王寺の四天王像は現存していない。しかし、幻の四天王像を想像できる得がた素材がある。法隆寺金堂の四天王像がそれである。以下は引用。

「仏像の世界でひときわ異彩を放つ一群がいる。険しい形相でにらみをきかせる守護神・四天王像。現在、奈良国立博物館で開催されている「国宝・法隆寺金堂展」には1400年前の飛鳥時代に造られた最古の四天王像(国宝)が展示されている。法隆寺以外の場所で4体そろって展示されるのは史上初のことである。
そもそも四天王とは、持国・広目・増長・多聞の4天。古代インドで方位の守り神として信仰されてきた。仏教では、その世界観の中心にそびえる須弥山という山で東西南北の守りを担っている。
まっすぐ正面を見据える姿。飛鳥時代の仏が醸し出す静かなるまなざしは、見るものに独特な緊張感を感じさせる。身の丈はそれぞれ130センチ余り、顔つきはまゆ尻を上げて口元はかすかな笑みを浮かべている。
法隆寺の四天王像は、後の時代の四天王像とは全く姿や表情が異なり、多くの謎に包まれている。最初から法隆寺にあったのか、足元の邪鬼が大きいのはなぜか、あの静かなるまなざしは何を見つめているのか。番組ではこれまでベールに包まれてきた法隆寺の四天王像を克明に撮影し、その謎に迫る。そこから、日本に仏教が伝来したころ、人々が仏教をどうとらえていたかが明らかになってくる。」

http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-82.html

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◆聖徳太子という人物像

用明天皇の次の天皇は崇峻だが、592年11月に暗殺される。わずかに在位5年目だったが、蘇我馬子とともに太子も加担していたとも言われる。翌推古元年に聖徳太子は摂政になる。ちょうど二十歳の時であった。そして、この年(593年)に太子の誓願によって難波に上記四天王寺が建立される。また、596年には蘇我馬子が法興寺(現飛鳥寺)を建立、598年には中宮寺が創建されたと言われる(法隆寺伽藍縁起併流記資材帳)。

太子28才の601年には斑鳩宮を造り、603年12月には「冠位十二階」、604年4月には「十七条憲法」を定める。31才である。太子の10代は血なまぐさい政争の時代、20代は宰相として内政で猛烈に頑張った時代といったこととなる。

一方、仏像との関係においては、606年4月に止利仏師が飛鳥寺金堂に丈六の銅製釈迦如来を安置し、7月には橘寺が創建される(法隆寺東院資材帳)。さらに翌年、父用明天皇のために、法隆寺金堂の薬師如来が造られる(光背造像記)。

次に外交にスポットをあてると、600年任那救援、新羅討伐のために軍派遣、さらに602年に来目皇子(※)を新羅征討将軍に任命。自らの若き日の物部守屋掣肘のことを思ったかも知れない。607年には小野妹子を第二次遣隋使として派遣(翌年にも再派遣)、609年に小野妹子が帰還。610年3月には高句麗王、朝貢。10月には新羅、任那の使者入京、さらに611年8月に新羅、朝貢。614年6月犬上御田鍬を第4次遣隋使として派遣、翌年、犬上御田鍬帰朝。百済の使を伴って来朝。この年、太子は42才。
20代後半から30代を通じてこの時まで、聖徳太子の外交政策の記述が続く。史家は内政にくらべて外交についてはあまり重視していないように思えるが、太子の30代は相当、外交に腐心していた様子が窺える。対中、対朝鮮政策でも太子はそれ以前にはない大きな成果を上げている。

※『来目皇子―志摩・幣の浜から聖徳太子を仰げば』
 聖徳太子の同母の弟・来目皇子について、福岡県志摩町、奈良県橿原市久米町、大阪府羽曳野市などのゆかりの地を探訪し、その系譜、久米氏と来目皇子、聖徳太子と推古天皇と来目皇子の関係などについてまとめる。 梓書院 (2003/09)
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-71.html

 612年は熊凝寺(のちの額安寺)が創建される(太子伝)。翌年には難波から大和に至る大道(横大路、現在の竹内街道)や「太子道」が整備され、さらに法隆寺が建立されたとの記録がある(興福寺略年代記)。また、616年に聖徳太子が法貴寺を建立し、秦河勝に与えたとも言われる(法貴寺縁起)。

622年に磯長に太子は葬られるが、この年、法輪寺が建立されたと伝えられる(聖徳太子伝私記)。そして光背銘文にある釈迦三尊像が翌年、法隆寺金堂に造像される。このように仏教史のみならず、仏教寺院、仏像の歴史からみても太子の存在がいかに巨大であったかに驚かされる。

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第2章 弥勒菩薩

聖徳太子と仏像、その第2章は弥勒菩薩である。武神、四天王像からはじまった太子と仏像との縁は、弥勒菩薩によって現実の政治との接点をえる。あるいは、太子自身の日々の迷いを払拭する意味でも弥勒菩薩は、近しい存在であったと思う。

太子ゆかりの寺々(法隆寺、中宮寺、広隆寺、鶴林寺、四天王寺など)を歩いていると、弥勒菩薩や聖観音像のもつ意味をおのずと考えたくなる。 すでに記したとおり凄惨な殺戮や疫病の蔓延に人心乱れた時代にあって、聖徳太子は名宰相としてならし、その治世の時期は限られてはいたが人びとに安寧をあたえ、それなればこそ後に、救世主的な「超人伝説」を多くつくってきたとも言えよう。

太子はまた秦氏を重用し、秦氏が百済系帰化人であったことから、その系譜から弥勒菩薩が舶来され、次第にわが国に広まっていったとの説も強い。広隆寺「宝冠弥勒」と大韓民国ソウル特別市国立中央博物館所蔵仏などの比較はその有力な根拠だろう。
弥勒菩薩はなぜこの時代多くつくられ、またそれ以降は衰微していくのか。太子逝去後、その一族が根絶やしにされ、それとともに弥勒菩薩、とりわけ半跏思惟像は次第につくられなくなる。

以下は自分の推論ないし裏付けの乏しい空想であるが、広隆寺「宝冠弥勒」は当時にあって一種の百済系仏像の「ステロタイプ」であったかも知れない。その移入後、形式的には半跏思惟像の姿を踏襲しながら、各工房によって様々なヴァリエーションも展開されていく。その証として、東京国立博物館法隆寺館の48体仏を丹念に見ていくと広隆寺や中宮寺と座像「形式」こそ似ているが全く別のタイプのお顔の仏像に遭遇することに気づくだろう。

さて、想像の翼を広げれば、48体仏のなかには実は意外にも人間臭さを感じさせる弥勒像も多い。理不尽な死は、血生臭い政争や予防できない流行病によっても突然もたらされる。最愛の肉親や知人を喪った残された者が、生前の姿を仏として刻み、それを身近に置いて追悼することは不思議ではないだろう。そうしたニーズが豪族などの権力者集団には恒常的にあったのではないか。

さらに、弥勒菩薩と聖観音系(法隆寺<夢違>、<百済>、<救世>や鶴林寺など)の造像には信仰上の違いが当時どこまであったのだろうか。追善供養にはいくつかのパターンがあり、それによって座像の場合は弥勒が好まれ、立像の場合は聖観音系が選好されたとは考えられないだろうか。

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◆広隆寺 弥勒菩薩

数多くの仏像愛好者が、その道にはいるきっかけとなったのは、この仏さまや中宮寺観音の魅力に強く惹きつけられて・・・という体験からではないだろうか。見れば言葉はいらない。こうしたすばらしい仏さまが今日、存在していること、そのことの不可思議さに深い感動を覚える。それは日本人にかぎらず国籍をとわず、世界中の人々がおなじ思いをもつことだろう。この奇跡の仏さまと聖徳太子との縁は深い。その特色を以下3点に要約してみたい。

1.歴史的な不可思議さ

 推古天皇、聖徳太子といった歴史上のスーパースターと渡来人・帰化人の有力一族、秦河勝といった人々が、この仏さまを巡る関係者である、と「日本書紀」は伝えている。「日本書紀」の確からしさについての議論もあるが、来歴がこれだけ残っている仏さまは珍しい。

歴史の深いベールに包まれた仏さまも神秘的だが、日本最古の仏さまながら、その由緒を追うことができることの不可思議さ。聖徳太子もこの仏さまを凝視していた、そしていま、われわれが拝顔しているという歴史の連続性への思い、そのことがこの仏さまの深い背景にある。

→聖徳太子ゆかりの仏さまであることについて
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-32.html

【以下は引用】
『書紀』によれば、推古天皇11年(603年)聖徳太子が「私のところに尊い仏像があるが、誰かこれを拝みたてまつる者はいるか」と諸臣に問うたところ、秦河勝(はたのかわかつ)が、この仏像を譲り受け、「蜂岡寺」を建てたという。一方、承和5年(838年)成立の『広隆寺縁起』(承和縁起)や寛平2年(890年)頃成立の『広隆寺資財交替実録帳』冒頭の縁起には、広隆寺は推古天皇30年(622年)、同年に死去した聖徳太子の供養のために建立されたとある。『書紀』と『広隆寺縁起』とでは創建年に関して20年近い開きがある。これについては、寺は603年に草創され、622年に至って完成したとする解釈と、603年に建てられた「蜂岡寺」と622年に建てられた別の寺院が後に合併したとする解釈とがある。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E9%9A%86%E5%AF%BA

2.空間的な不可思議さ

この仏さまはどこで造られたのか。冒頭に掲げた写真をみれば一目瞭然である。また、韓国中央博物館の弥勒像をみて、日本の国宝第一号広隆寺のそれとの近似性に驚く人は多いだろう。自分も学生時代、はじめてその事実を知った衝撃は大きかった。この韓国の金銅弥勒菩薩半跏像がある以上、様式論で小うるさいことを言う日本の専門家が、日本での部材調達のわずかな可能性から日本製であると主張するなど、いささかならず我田引水の典型ではないだろうか。 

この仏さまの空間的な不可思議さは、文字通り、この2像の酷似にあり、そのことが朝鮮半島と当時の日本の緊密性をなによりも物語っていると言えよう。否、むしろ、もっと大きな仏像伝播の道からのアプローチが必要だろう。中国から朝鮮半島をへて、渡来人・帰化人によって仏像はわが国にもたらされた。朝鮮半島で熟成した技法、素晴らしいセンスが日本へ伝えられた。はじめは「直輸入」といってもよいだろう。しかし、御本地の半島では、戦禍があいつぎ他の地域と同じように、あるいはそれ以上に、固有の歴史的な資産、蓄積が壊滅的に失われる。

日本にも多くの戦争、自然災害はあったが、奇跡的に、いまある優れた資産が残された。それは、日本民族が舶載の古仏を大切に伝承してきた証であり、誇りであるといえよう。この2像の存在は、日韓のさまざまな同一性の問題を提起し、考えさせられる多くの課題をわれわれに問うている。空間的な不可思議さの所以である。

(参考文献)
第303号(1976年6月、B5判)
【特集】韓国の美術
韓国の鉄仏(田辺三郎助)
万暦十四年銘李朝螺鈿鞍の問題点(郷家 忠臣)
高麗の鉄絵青磁(長谷部 楽爾)

【以下は引用】

制作時期は7世紀とされるが、制作地については作風等から朝鮮半島からの渡来像であるとする説、日本で制作されたとする説、朝鮮半島から渡来した霊木を日本で彫刻したとする説があり、決着を見ていない。この像については、韓国ソウルの韓国国立中央博物館にある金銅弥勒菩薩半跏像との様式の類似が指摘される。

第二次世界大戦後まもない1948年、小原二郎は、本像内部の内刳り(軽量化と干割れ防止のため、木彫像の内部を空洞にすること)部分から試料を採取し、顕微鏡写真を撮影して分析した結果、本像の用材はアカマツであると結論した。日本の飛鳥時代の木彫仏、伎楽面などの木造彫刻はほとんど例外なく日本特産のクスノキ材であるのに対し、広隆寺像は日本では他に例のないアカマツ材製である点も、本像を朝鮮半島からの渡来像であるとする説の根拠となってきた。ところが、1968年に毎日新聞刊の『魅惑の仏像』4「弥勒菩薩」の撮影のさい、内刳りの背板はアカマツ材でなく、クスノキに似た広葉樹が使用されていることが判明した。この背板は後補ではなく、造像当初のものとみられる。この点に加え、アカマツが日本でも自生することから本像は日本で制作されたとする説がある。

朝鮮半島からの渡来仏だとする説からは、『日本書紀』に記される、推古天皇11年(603年)、聖徳太子から譲り受けた仏像、または推古天皇31年(623年)新羅から将来された仏像のどちらかがこの像に当たるのではないかと言われている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E9%9A%86%E5%AF%BA#.E6.9C.A8.E9.80.A0.E5.BC.A5.E5.8B.92.E8.8F.A9.E8.96.A9.E5.8D.8A.E8.B7.8F.E5.83.8F

3.哲学的な不可思議さ

この仏さまほど哲学者にインスピレーションを与えつづけている仏像もあるまい。外形上も哲学的に見えるのは、この仏さまが弥勒菩薩半跏像(かつては半跏「思惟」像といっていた)というお姿であることと無関係ではないだろう。「考える仏」、「思惟する仏」なのである。ここでは、ニーチェ哲学の後継者ヤスパースが来日し、この仏さまについて語ったあまりに有名な言葉を以下、引用しておきたい(水沢澄夫 『広隆寺』中央公論美術出版 1965年 p.21より転記)。

 「・・・・この広隆寺の弥勒像には、真に完成され切った人間実存の最高の理念が、あますところなく表現されています。それは、この地上に於けるすべての時間的なものの束縛を超えて達し得た、人間存在の最も清浄な、最も円満な、最も永久な、姿のシンポルである思います。・・・・」
(篠原正瑛「敗戦の彼岸にあるもの」から)

http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-21.html

(若干の補論)

韓国三国新羅時代の菩薩半跏思惟像(7C;メトロポリタン美術館蔵)は、野中寺の弥勒菩薩像と見まごうばかりの逸品に見える(metropolitan museumのサイトからCollection Database →Asian Artのコーナーへ。http://www.metmuseum.org/Works_of_Art/collection_database/)。こうした比較研究は、目視ばかりでなく、CT技術による成分分析、CG技術による再現技術などの飛躍的な進歩もあって、これからもどんどんと新たな展開をみることだろう。

http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-126.html

この広隆寺弥勒菩薩半跏像についても、そうした意味で新たな発見があるかも知れない。あまり指摘されることはないが、この仏さまは明治期に修理をうけるが、修理前の当時の写真が残っていると聞く。たしか久野健氏の本で読んだが、修理前はもう少し茫洋な表情で、韓国金銅弥勒菩薩半跏像により似ていた可能性があるようだ。

あまりに近代的な、完全無欠ないまのご尊顔、表情に驚くわれわれだが、(言葉に語弊はあろうが)、今風にいえば一種の「プチ整形」が施されていたかも知れないというのが久野説であったと記憶する。そんなところも尽きぬ魅力の一端かも知れない。

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◆中宮寺 観音

広隆寺宝冠菩薩は、その不可思議さのなかに、歴史的、空間的、哲学的にみて、説明可能な具体的な事柄をある程度「埋め込む」ことができる。異論はあるのだろうが、歴史的な縁起もあり、空間的には日韓両国にまたがり、哲学的にもヤスパースなどの援用もある。

それとの対比で、この中宮寺菩薩半跏像は、そうした歴史的、空間(地勢)的なバックグラウンドがよくわからない。まずは寺の説明を見てみよう。

【以下は引用】
東洋美術における「考える像」で有名な、思惟半跏のこの像は、飛鳥時代の彫刻の最高傑作であると同時に、わが国美術史上、あるいは東洋上代芸術を語る場合にも欠かすことの出来ない地位を占める作品であります。また国際美術史学者間では、この像の顔の優しさを評して、数少い「古典的微笑(アルカイックスマイル)」の典型として高く評価され、エジプトのスフィンクス、レオナルド・ダ・ヴィンチ作のモナリザと並んで「世界の三つの微笑像」とも呼ばれております。
半跏の姿勢で左の足を垂れ、右の足を膝の上に置き、右手を曲げて、その指先きをほのかに頬に触れんばかりの優美な造形は、いかにも人間の救いをいかにせんと思惟されるにふさわしい清純な気品をたたえています。斑鳩の里に伝統千三百余年の法燈を継ぐ中宮寺の、この像は、その御本尊として永遠に私たちを見守ってくださるでしょう。
http://www.chuguji.jp/index.html

しかし、神秘的なベールに包まれていればいるほど好奇心は湧いてくるもの。中宮寺菩薩半跏像については、その工法についてふれられることが多い。クスノキでできているが、特殊な矧ぎ方をしており、木寄せの技法が駆使されている。

一木造りが主流だった時代に、部材をいくつも分けて、これを巧みに組み合わせてつくっている。そこから一木造りをするだけの十分なボリュームのとれなかった霊木があり、これを最大限生かして造像するために、こうした高度な木寄せを行なったのではないかと考える向きがおおい。それにしても、一体感は実に素晴らしく、そうした矧ぎをいれているようには全く見えない。仏師の技量はたいしたものであったことだろう。 
http://www.bunkaken.net/index.files/raisan/shodana/shodana117.htm

【以下は引用】
飛鳥時代の作。像高132.0cm(左脚を除く坐高は87.0cm)。広隆寺の弥勒菩薩半跏像とよく比較される。寺伝では如意輪観音だが、これは平安時代以降の名称で、当初は弥勒菩薩像として造立されたものと思われる。国宝指定の際の官報告示は単に「木造菩薩半跏像」である。材質はクスノキ材。一木造ではなく、頭部は前後2材、胴体の主要部は1材とし、これに両脚部を含む1材、台座の大部分を形成する1材などを矧ぎ合わせ、他にも小材を各所に挟む。両脚部材と台座部材は矧ぎ目を階段状に造るなど、特異な木寄せを行っている。本像の文献上の初出は建治元年(1275年)、定円の『太子曼荼羅講式』で、同書に「本尊救世観音」とあるのが本像にあたると考えられている。それ以前の伝来は不明である。現状は全身が黒ずんでいるが、足の裏などにわずかに残る痕跡から、当初は彩色され、別製の装身具を付けていたと思われる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AE%AE%E5%AF%BA

http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-159.html

さて、中宮寺菩薩半跏像の頭部の髻に注目してみる。後世の音声菩薩同様、双髻を結っている。当時のはやりのファッション、髪型であったのだろう。いまは黒漆の地肌で、ちょっと見ると銅像(ブロンズ)のように見えるが、漆のうえには金色の彩色があり、宝冠、胸飾りなどの荘厳もあったようだ。とすると、いまわれわれが拝顔する姿とはだいぶ印象が異なっていたろう。

当時、朝鮮および日本では菩薩半跏像はブームだった。いまでも類似の作品は小金銅仏として数多く残されている。仏師は、広隆寺宝冠菩薩を見ていたかどうかはわからないが、類似の基準作は手元においていたのではないかと思う。

広隆寺宝冠菩薩はユニ・セックス的、音声菩薩はかわいい童子のようだが、中宮寺菩薩半跏像は見るからに女性的である。尼寺のご本尊にはふさわしい。たとえば、聖徳太子の御母穴穂部間人皇后、あるいは聖徳太子の妃である橘大郎女を写したという伝説ができたとしても自然にも思える。

【以下は引用】
中宮寺は聖徳太子の御母穴穂部間人皇后の御願によって、太子の宮居斑鳩宮を中央にして、西の法隆寺と対照的な位置に創建された寺であります。その旧地は、現中宮寺の東方三丁の所に土壇として残っておりましたのを、発掘調査しましたところ、南に塔、北に金堂を配した四天王寺式配置伽藍であったことが確認され、それは丁度法隆寺旧地若草伽藍が四天王式であるのに応ずるものといえましょう。而もその出土古瓦から、法隆寺は僧寺、中宮寺は尼寺として初めから計画されたものと思われます。国宝菩薩半跏像(寺伝如意輪観音)はその金堂の本尊であり、天寿国曼荼羅は、その講堂本尊薬師如来像の背面に奉安されたものと伝えております。
http://www.chuguji.jp/about/index.html

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第3章 釈迦三尊像

武人たる太子の守護神だった四天王、現実政治での懊悩を克服せんとする弥勒菩薩、そして太子は死して神となる。そうした連想から以下を参照。

◆法隆寺金堂釈迦三尊像

【釈迦三尊】
 仏像配置の1形式である三尊仏の一種。釈迦如来を中心に,左に薬王菩薩,右に薬上菩薩,または左に文殊菩薩,右に普賢菩薩を配する。
  法隆寺金堂の本尊である釈迦三尊像は,鞍作鳥(止利仏師)が623年につくったものといわれ,左右対称の厳格な構成など,飛鳥彫刻の特徴を示す代表作であり国宝。
【鞍作鳥】
 7世紀初ごろ飛鳥時代の代表的な仏像彫刻師。渡来人で仏教をつたえたといわれる司馬達等の孫で,止利仏師ともいわれ,聖徳太子に用いられた。その作風には中国の北魏の影響が見られる。代表作に法隆寺金堂の釈迦三尊像がある。「鳥」は「止利」とも書く。
http://kids.gakken.co.jp/jiten/3/30024490.html

 さて、この釈迦三尊像については、恐るべきシンメトリーさが隠されている。その点を学生時代に少しく書いたことがある。また、光背などにみる文様分析もその時に囓った。意匠を見抜くには図版のほうが良い場合もあるが、法隆寺金堂から上御堂へ移座された釈迦三尊像をこの目でいくども観察して、その尊顔の素晴らしさに魅入りながら、この仏様には「稚拙さ」などとはほど遠い完成度が秘められていると感じた。止利(工房)の渾身の作であったことは間違いないが、この釈迦三尊と同じ(ないし類似)タイプの、より巨大なものも別に鋳られ、炎上前の(旧)法隆寺に鎮座したかも知れない。何故なら、同じ止利(工房)の飛鳥寺の釈迦仏の大きさとこの釈迦三尊の大きさは、「丈六」と言われてもあまりにも合わない。後者は抜群に優れているがあまりに小さく見える。
 鋳造された年月を信じるとしても、これはいまの法隆寺金堂のために造られたのではなく、有力な関連寺院に置かれた客仏で、金堂建立(再建)時に移設された可能性が高いというのが小生の勝手な意見であり、これについては以前も書いた。
 一種の<サンプル作>であるとすれば、あらゆる意味でさまざまな意匠を実験、積載しており、だからこそシンメトリーさや文様だけでなく、当時の粋を結集している、また、鋳直しの謎も解明できるのではないかと思う次第である。
 様式論にはあまり興味がないが、その尊顔の厳しさとともに角度によってかいま見せる慈しみの優しさ、また、後世の剥落の影響からか、全般に漂うほの寂しさなどの<複雑な印象>は、生前の聖徳太子を写したという伝説にリアリティを与える。その一方、険しくも高貴なお顔からは、既に人心をこえた超越的なものを感じさせずにはおかない。<神>を鋳てさらに仕上げて彫ったと言ってよいと思う。

中国とオランダ 章公祖師像

中国 章公祖師像

様々な影響が今後、気になる事案。ナショナリズムの発露、過去の簒奪(盗品など)についての考え方、文化と政治のありようなど考えるべき問題は多い。日本と韓国の関係にも一石を投じる可能性もある。

【以下は引用】

盗まれてオランダに渡った中国の仏像、中国が返還提訴

2017/3/15(水)7:00 NEWSポストセブン

 中国福建省の博物館から1995年に盗まれた仏像が「オランダのアムステルダムの博物館に所蔵されている仏像と同じだ」として、同省在住の博物館関係者が仏像の返還を求め、オランダ人所有者をアムステルダムの裁判所に訴えた。その第1回公判が今年7月に開かれることが分かった。「盗品」である文化財の返還を求めて、中国の関係者が海外で裁判を起こすのは極めて珍しい。

 ユネスコ(国際連合教育科学文化機関)によると、海外に流出している中国の文化財は167万件以上とみられており、今回の裁判の結果次第では、「盗品」の返還を求め、中国の関係機関による裁判ラッシュが起きることも懸念されている。香港の英字紙「サウスチャイナ・モーニング・ポスト」が報じた。

 中国側の主張によると、この仏像は福建省太田県陽春村の博物館に所蔵されていた「章公祖師像」という北宋時代 (960-1127年)に作成されたもの。

「章公」という僧侶は実在した人物で、医術の心得があり、住民が病気の時に治療をしたことで多くの人々の命を救ったとされる。住民から深く慕われており、章公が死んだ際、住民は彼をミイラにして、その身体に合わせて、すっぽりと金属で覆い金色の仏像を作ったとされる。

 それ以来、仏像は村民に受け継がれ、新中国建国後前後には博物館に展示されるようになったが、1995年には博物館から盗まれていた。

 ところが、この仏像と思われるものが2014年1月から8月までオランダのドレンテ博物館で展示された後、10月からハンガリーの自然史博物館で展示。そして、陽春村の博物館関係者が同展示会を見た際、「章公祖師像ではないか」と指摘。展示は2015年3月20日に中止され、オランダに戻された。

 仏像の所有者はアムステルダムの建築家で、1996年に約1万8100ユーロ(約235万円)で購入した。かつて1000万ユーロ(約13億円)で譲ってほしいという希望者もいたが、売らなかったという。「この仏像が本当に福建省から盗まれたものであるならば、返還しても良い」と述べている。

 その後、オランダ人所有者は「この仏像が盗まれたと中国側が主張する時期以前に、私はこの仏像をオランダで見たことがある。鑑定をするなどして、本当に盗品かどうかを証明してほしい」と反論。一転して、所有をめぐって中国側と争う姿勢に転換した。

 その結果、中国側がオランダの裁判所に訴え出て、裁判が開かれることになったという。

 中国から海外に流出した文化遺産の返還を求める動きは年々強まっているが、最も有名なのは円明園の12支像問題で、その一部がパリのオークションで競売にかけられ、中国側が返還を求めるなど国際問題に発展した。中国の文化財は、47カ国の約200カ所の博物館で展示されており、そうしたことも、今回の裁判が注目される理由でもある。
http://news.nicovideo.jp/watch/nw2688873

快慶展 奈良国立博物館

会計
特別展で展示される国宝「僧形八幡神坐像」

快慶作品がたくさん展示される。快慶の凄さの一端ー仏さまの豊かな頬、その薄い皮膚の質感を冴え冴えと彫れる天才である。次の快慶論も参照。

➡ 仏師 快慶論  意識した芸術家の横顔
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-426.html

【以下は引用】

傑作ずらり、「快慶」展…奈良国博で4月から

 奈良市の奈良国立博物館は22日、鎌倉時代の仏師・快慶の代表作を集めた特別展「快慶 日本人を魅了した仏のかたち」(読売新聞社など主催)を4月8日~6月4日に開くと発表した。

 鮮やかな彩色が残る「僧形八幡神坐像そうぎょうはちまんしんざぞう」(東大寺蔵)など国宝7件を含む88件を出展。うち37件は、銘文などから快慶が手がけたことが裏付けられており、快慶作と判明している作品のうち8割強が集う。

 快慶は、鎌倉彫刻の完成に大きな影響を与えたが、生没年など生涯については不明な点が多い。特別展では仏像のほか、作品成立にまつわる資料なども展示し、快慶の魅力や人物像に迫る。

 湯山賢一館長は「快慶作品がこれほど集まるのは初めて。快慶の魅力にふれてほしい」と話す。

 午前9時30分~午後5時(金、土曜は午後7時まで)。月曜休館(5月1日は開館)。観覧料金は一般1500円、高校大学生1000円、小・中学生500円。

 問い合わせは同館ハローダイヤル(050・5542・8600)。
http://www.narahaku.go.jp/exhibition/2017toku/kaikei/kaikei_index.html

2017年02月23日 Copyright © The Yomiuri Shimbun
http://www.yomiuri.co.jp/osaka/news/20170223-OYO1T50004.html
【“快慶展 奈良国立博物館”の続きを読む】

テクノ法要

テクノ法要

お寺さんも少子高齢化、限界集落論などの動きのなかで、さまざまな取り組みを行っている。

【以下は引用】
プロジェクター投影&舞台照明で極楽浄土を表現!?
 「テクノ法要」実践の福井・照恩寺がクラウドファンディング


文化庁の『宗教年鑑』によると、仏教のお寺(宗教法人)の数は全国で約74000件。信者数は約4775万人とされていますが、その数は年々減少傾向にあり、一説によると2040年には30~40%のお寺が消える可能性があるとか。
そんな中、仏様の存在をより近しいものへとする斬新な取り組み、その名も「テクノ法要」が福井県福井市の浄土真宗本願寺派・照恩寺で実践されています。

照恩寺の朝倉行宣住職は、20代前半にはDJとして活動。YMOに影響を受けたと公言し、「細野(晴臣)さんの精神性の中に仏教を感じていた」といいます。また、Perfumeの「Dream Land」のパフォーマンスに特に感銘を受けたとして、その歌詞についても「阿弥陀様の気持ちを歌っているのではないかと感じるようなもの」と語り、妻の後押しもあり「テクノ法要」へと昇華したといいます。

『YouTube』では、2016年10月25日に勤めた「テクノ法要」がアップされており、その光に照らされる境内と仏様の様子、さらにはテクノ版のお経と木魚の音が一体となった映像を見ることができます。

照恩寺 テクノ法要 2016/10/25 – YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=8dmPCC5EYTQ

一見奇想天外ですが、その曼荼羅のような色彩豊かな世界観が展開され、サイバーな雰囲気の声明も違和感なく聞こえてくるように感じます。
なんでも、住職のお母さんも本番前日のリハーサルを観て「これはお浄土だわ」と納得し、お年寄りも「お浄土って奇麗やねぇ」という反応だったとか。
すでに照明などの機材に60万円費やしているという朝倉住職ですが、現在クラウドファンディングサイト『Readyfor』で2017年2月24日まで30万円の出資を募っています。資金はプロジェクター購入費、プロジェクションマッピング等ソフト、舞台照明機材などに充てるとのこと。

「阿弥陀仏は光の仏様」であり、「僧侶として大切なのは、仏の教えを伝えること。テクノ法要は単なる”客寄せパンダ”ではない」と力説する朝倉住職のクラウドファンディングが成功するのかどうか、音楽ファンの視点からも注目されます。

固定観念を崩せ!テクノ法要で仏教を身近にー照恩寺住職の挑戦(Readyfor)
https://readyfor.jp/projects/techno-hoyo

【対馬の盗難仏像判決】韓国専門家の相当数、日本返還求める 「国際的信用失墜させる」「略奪の確証なし」と断言

対馬市観音寺観世音菩薩(盗難品)

慰安婦像問題が片付かないさなか、とても不味いタイミングで以下の記事が配信されている。本ブログでも紹介してきたように、仏像についても文化交流で地道な関係者の努力がある一方で、そうした動きを台無しにするような、砂を噛むような事態が発生している。司法の権威が失墜すれば、その国の信頼は根底から揺らぐ。ことは小金銅仏の問題にとどまらないだろう。

【以下は引用】

【ソウル=名村隆寛】長崎県対馬市の観音寺から韓国人窃盗団が盗み出し、韓国に持ち込まれた「観世音菩薩坐像」を、元の所有権を主張する韓国中部・瑞山(ソサン)の浮石(プソク)寺に引き渡すよう命じた大田(テジョン)地裁の判決について、27日付の韓国紙は、日韓関係のさらなる悪化や、韓国の専門家の否定的な見方を伝えた。

 朝鮮日報は、韓国の専門家の相当数が「たとえ略奪された文化財であろうが、適法な手続きで返還せねばならない」と指摘していることに言及。「具体的な略奪、搬出の経緯が証明されずに(日本からの)盗品をを“略奪文化財”と認めたことで国際的な信用を失墜させるのはもちろん、今後日本などとの文化財交流に与える影響は小さくはない」とする西江大学教授の見方を紹介した。

 同紙によると、国際法の専門家は匿名で「略奪された確証がなく、韓国人が盗んできたことが明らかな文化財を『韓国のものだ』と主張するのは国益にならない」と述べたという。

 東亜日報は「韓国の文化財界では歓迎と憂慮が交錯している」とし、「判決により、韓日の文化財交流や日本国内の文化財の(韓国への)返還運動に多くの困難が出るだろう」とする複数の学者の見方を伝えた。

産経新聞記事

ギメ東洋美術館(パリ)蔵 勢至菩薩立像 里帰り

パリ ギメ東洋美術館 勢至菩薩
パリのギメ東洋美術館に渡った勢至菩薩

【以下は引用】
2017年1月24日12時02分

法隆寺からフランスに渡っていた仏さまが里帰りする。それも、寺宝調査の完成を祝うタイミングで。高田良信さんの念願が絶妙な形でかなうことになった。

     ◇

 1981(昭和56)年に始まった法隆寺昭和資財帳調査ですが、その編纂(へんさん)には時間的な限度があります。いつ打ち切るか、どこまでするか。絶対完全ということはありません。ひとつの区切りとして、94(平成6)年に完成を祝う「法隆寺昭和資財帳調査完成記念―国宝法隆寺展」を開催することになりました。

 千数百年来の仕事が完成したのだから思い切った出陳をしたいと、寺内に諮り、お許しを得ました。聖霊院のご本尊である聖徳太子坐像(ざぞう)も含め、ありとあらゆる寺宝を出させていただきました。

 念願だったのは、パリのギメ東洋美術館に渡った勢至菩薩(せいしぼさつ)像の里帰りを実現させ、本来安置されていた阿弥陀如来像と並んで展示したいということでした。それが実現したのは大変な喜びでした。2月28日のことです。また、同年末にはお身代わり像を金堂に安置することができました。

     ◇

《展示に先立ち、2月24日付の朝日新聞朝刊はこう伝えた。

 盗まれた法隆寺の菩薩像が120年ぶり里帰り

 奈良県斑鳩町・法隆寺の金堂から明治時代に盗まれてパリのギメ美術館で一九九一年三月、百十五年ぶりに見つかった阿弥陀如来座像の両側に立つ脇侍(きょうじ)の一体、「金銅・勢至菩薩立像(せいしぼさつりゅうぞう)」が里帰りし、二十三日、奈良市の奈良国立博物館で荷を解かれた。

 三月一日から同博物館で開かれる「法隆寺昭和資財帳調査完成記念―国宝法隆寺展」で、阿弥陀如来座像、観音菩薩立像(いずれも重文)とともに阿弥陀三尊像として展示される。三尊がそろって公開されるのは、勢至菩薩が姿を消したとみられる一八七六年以来。

 勢至菩薩は高さ約六十センチ。貞永元年(一二三二)、運慶の四男康勝(こうしょう)が造ったと、阿弥陀如来座像の光背の銘文などに記されている。》

http://www.asahi.com/articles/ASK1F55X5K1FPLZU002.html

仏像修理の技、企画展が開幕 京産大ギャラリー

京都産業大ギャラリー
朝日新聞デジタル映像から

【以下は引用】
仏像修理の技、企画展が開幕 京産大ギャラリー

2017年1月24日12時02分

 文化財の修復作業を紹介する企画展「仏像修理の現場」が23日、下京区中堂寺の京都産業大ギャラリーで始まった。3月11日まで。

 京産大では5年前から、学芸員課程の学生が学ぶ機会も兼ねて京都の歴史や文化財に関連した企画展を開いてきた。今回は、公益財団法人美術院の修理技術者が実際に使用する道具などを展示。木材に直線を引く「墨壺(すみつぼ)」や「槍鉋(やりがんな)」などの伝統的な道具から、木材の腐敗を防ぐため近年使われるようになった合成樹脂、紫外線に強いアクリル絵の具などを紹介。東寺(南区)の千手観音立像(国重要文化財)修復の際、もとの形を正確に再現するためにつくられた模型も並ぶ。

 この日訪れた公務員の池田剛さん(45)は「元々あったものに近づける技術は素晴らしいし、大切にしなければいけない」と話した。

 入場無料。日祝休館(2月5、19日は開館)。2月19日には京産大むすびわざ館ホールで、美術院・西洞院工房長の八坂寿史さん(61)による講演会がある。問い合わせは同館事務室(075・277・0254)へ。

http://www.asahi.com/articles/ASK1R3V9KK1RPLZB005.html

『韓国仏像史 三国時代から朝鮮王朝まで』 水野さや著

韓国仏像史

日本も多くの戦禍を経験している。しかし朝鮮半島のほうがはるかに厳しかったと思う。一方で、日本人が仏像を大切に継承してきた歴史は重いし世界に誇りうるものである。火事で池に仏様と「入水」したこともあろう、地中に埋めて秘かに守ったこともあろう、客仏というかたちで宗派をこえて避難したこともあろう。為政者がパトロンして古き仏様を修復したこともあろう、そしてなによりも、無名の僧侶や民衆が永きにわたって大切に手渡ししてきた歴史がある。

【以下は引用】
半島ならではの色合い

 西暦五三八年、百済の聖明王から仏像と経文が大和朝廷にもたらされ、日本に仏教が伝来した、と高校日本史で習う。次の世紀には日本でも本格的な仏像製作がはじまるが、法隆寺の釈迦三尊像や「百済観音」、中宮寺の菩薩半跏ぼさつはんか像、広隆寺の弥勒みろく菩薩半跏思惟像など、飛鳥時代を代表する作品には朝鮮半島の影響が強く残ると教えられる。だが、かの地の仏像について、私たちは多くを知らないままに済ませてきた。

 朝鮮半島では、三国時代、中国の前秦からまず高句麗に、続いて東晋から百済に仏教は伝わった。四世紀後半のことであり、半世紀ほど遅れて新羅にも仏教は伝わる。こうして、三国時代の朝鮮半島は仏教色に染まってゆく。仏像製作がそれに伴った。仏像製作は三国の間で刺激しあい、中国からの影響も受けながら、半島ならではの色合いを滲にじませてゆく。統一新羅時代から高麗時代にかけても王朝に手厚く保護された仏教信仰は民間に浸透し、仏像は時代ごとの表情をみせてゆく。崇儒すうじゅ廃仏を掲げた李氏朝鮮時代でさえも、面相が優雅で温和、姿勢が荘重で温雅な仏像が数多く製作されていた。

 朝鮮半島の今に残る仏像は、古くはもっぱら金銅仏と石造仏である。統一新羅時代から鉄造の仏像がこれに加わる。塑像は朝鮮時代になって普及した。日本には「百済観音」をはじめ木造仏が伝わったが、なぜか朝鮮半島に木造仏は残らなかったのだ。それでも、三国時代の金銅菩薩半跏思惟像は広隆寺に伝わる木造の弥勒菩薩像を思わせずにはおかないだろう。慶州の石窟庵ソックラムに坐ざす如来像(八世紀中頃)は、写真からでも、その静寂の内に秘めたのびやかな力量感が伝わってくる。

 本書は日本で最初の朝鮮半島の仏像通史である。著者は東アジア、なかでも朝鮮半島の仏像史研究に携わる美術史家。各時代に目を配り、韓国の研究者たちとの議論をふまえつつ、個々の作例にじつに丁寧な解説をほどこしてゆく。

 ◇みずの・さや=愛知県生まれ。金沢美術工芸大准教授、文学博士。著書に『図説 韓国の国宝』など。

 名古屋大学出版会 4800円

元の記事を読む
http://www.yomiuri.co.jp/life/book/review/20161031-OYT8T50008.html#csidxd9c67098fc5e77fa843d09727ffb3a5
Copyright © The Yomiuri Shimbun

香薬師像の右手

香薬師像の右手

➡ まず、本の紹介から。こんな面白そうな本がでているのを知らなかった。是非、手に取ってみたい。

【以下は書籍の「内容紹介」から引用】

奈良・新薬師寺の香薬師立像は、旧国宝に指定され、白鳳の最高傑作と言われていた美仏。あまりの美しさから「金無垢でできている」という噂がたち、明治時代に2度盗まれたが、手足を切られ、純金製でないことが分かると2度とも道端に捨てられているのが発見され、寺に戻った。そして昭和18年、3回目の盗難に遭う。
「国宝香薬師盗難事件」は、戦時中の新聞にも報じられ、仏像ファンたちに大きな衝撃を与えた。2度盗まれて戻ってきた像だったが、今回ばかりは発見されず、未だ行方が分からない。
この行方不明の香薬師を見つけ出そうと、元産経新聞の記者である著者が取材を開始。新薬師寺住職の全面的な協力を得た調査では、まるでミステリー小説を地で行くような展開に。その結果、衝撃の新事実が発覚。ついに、「本物の右手」の存在をつかむ……。

https://www.amazon.co.jp/%E9%A6%99%E8%96%AC%E5%B8%AB%E5%83%8F%E3%81%AE%E5%8F%B3%E6%89%8B-%E5%A4%B1%E3%82%8F%E3%82%8C%E3%81%9F%E3%81%BF%E3%81%BB%E3%81%A8%E3%81%91%E3%81%AE%E8%A1%8C%E6%96%B9-%E8%B2%B4%E7%94%B0-%E6%AD%A3%E5%AD%90/dp/4062202891/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1484415108&sr=1-1&keywords=%E9%A6%99%E8%96%AC%E5%B8%AB%E5%83%8F%E3%81%AE%E5%8F%B3%E6%89%8B

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➡ 次に、この労作をきっかけとして、見つかった右手が大きな話題になっていることについて。

【以下は記事引用】

◆70年前盗難の重文仏像の右手戻り公開 「本体発見につながれば」 新薬師寺、奈良博

2016.12.26 20:31更新

 奈良市の新薬師寺から約70年前に盗まれて所在不明となっている白鳳期(7~8世紀)の「銅造薬師如来立像」(重要文化財、香薬師(こうやくし)像)の右手部分が見つかり、奈良国立博物館(奈良市)に寄託された。27日から一般公開され、関係者らは「本体発見につながれば」と、消えた傑作が戻ることを願っている。

 香薬師像は高さ約75センチで白鳳仏の代表的存在。明治時代に2度盗まれて寺に戻ったが、昭和18年に再び盗まれた。右手は最初の盗難後に切断され、3度目の盗難時に本体と一緒に盗まれたとみられていた。

 しかし、ノンフィクション作家、貴田(きだ)正子さん(47)が調べた結果、右手は別に保管され、神奈川県鎌倉市の寺に寄贈されていたことが判明。東京文化財研究所の調査で「白鳳期の金銅仏として矛盾する要素はない」と判断された。

 文化庁によると、平成27年度末現在で、国宝・重要文化財の美術工芸品のうち香薬師像を含む172件が「所在不明」。新薬師寺の中田定観住職は「これを機に情報が寄せられれば」と話している。

http://www.sankei.com/west/news/161226/wst1612260078-n1.html

◆行方不明の旧国宝、香薬師像の右手を72年ぶりに発見!

2016.10.12 19:39更新
㈱講談社
国宝盗難の謎に迫る衝撃のノンフィクション!「香薬師像の右手~失われたみほとけの行方~」は講談社から発売!

白鳳時代の仏像の最高傑作といわれる奈良・新薬師寺の香薬師像。昭和18年に3度目の盗難に遭い、行方不明になっていたが、このほどその一部である「右手」が昨年発見され、新薬師寺に返還された。

仏像の右手にたどり着いたのは、元新聞記者で、20年以上香薬師像の取材を続けている貴田正子氏。新薬師寺住職の全面的な協力を得て地道な調査取材をするうち、昭和18年の盗難時に本体と右手がバラバラになり、実は右手だけが盗まれていなかったこと、その右手も行方不明になっていることが判明する。本体とは別に右手探しを本格始動すると、彫刻家や美術史家らの証言が得られ、ついに右手の所在を突き止める。そして無事、新薬師寺への返還が行われた。行方不明であることさえ知られていなかった文化財を探し当て、元の寺に戻すという「前例のない文化財発見のニュース」だ。

東京芸術大学名誉教授で、日本彫刻史研究の権威である水野敬三郎氏も、この右手を「本物」と認め、「この手の出現は美術史的にも大きな意義を持っています」とコメントしている。

また、7月末に行われた東京文化財研究所の科学調査により、「白鳳時代の金銅仏であることを否定するものは何も出なかった」という結果が得られた。

今回発見されたのは、紛れもなく本物の香薬師像の右手。その美しい造形と発見までの物語に、仏像ファンならずとも魅了されること、間違いない。

[画像: http://prtimes.jp/i/1719/1143/resize/d1719-1143-671295-0.jpg ]

今回の歴史的発見に至る経緯をまとめたノンフィクション「香薬師像の右手~失われたみほとけの行方~」が講談社より刊行される。書籍には、発見までの経緯の詳細のみならず、調査取材中に見つかった衝撃的な写真や、著者が丹念に調べ上げた当時の新聞記事、資料などが多数掲載されている。

http://www.sankei.com/economy/news/161012/prl1610120316-n1.html

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➡ 過去に書いた以下の記事も参照。たまたまだが、これも産経新聞にて掲載されたもの

http://blog.livedoor.jp/shokkou/archives/1879505.html

香薬師如来像

松蔭寺銅製如来坐像 飛鳥後期の作品か

松蔭寺銅製如来坐像
銅造如来坐像(横浜市教育委員会提供)

京都で飛鳥仏発見かのビック・ニュース(下記参照)、一方横浜からも同様な配信あり。日本のモノを大切にする伝統、誇れると思う。

◆京都妙傳寺・半跏思惟像 飛鳥仏の可能性
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-491.html

【以下は引用】
松蔭寺の仏像 市文化財に 市内最古の彫刻

東寺尾の松蔭寺(川上敬之住職)が所有する銅造如来坐像(伝阿弥陀如来像)が、このほど横浜市の文化財に指定された。

 横浜市は、1987年に横浜市文化財保護条例を制定し、重要な価値を持つ市内の文化財や史跡などを指定・登録している。

 銅造如来坐像は、高さ25・3cmの飛鳥時代後期の金銅仏。仏像彫刻としては市内最古で、関東地方でも希少な作例。もともとは松蔭寺が管理していた神奈川区の八幡宮に祀られていたが、明治期の神仏分離で同寺へ移された。「当時は天皇の権威を高めるため、壊された仏像もあったが、苦難を乗り越えた」と同寺の川上敬吾閑栖は話す。

 現在は東京国立博物館へ寄託され、寺内で見ることはできない。川上住職は、「地元で知る人は少ない。実は鶴見にあったと知ってもらえたら」と話している。

http://www.townnews.co.jp/0116/2017/01/12/365306.html 

興福寺 梵天・帝釈天 根津美術館で再会!

興福寺 梵天・帝釈天
112年ぶりに並べて展示された興福寺の梵天立像(右)と帝釈天立像(6日、東京都港区の根津美術館)

【以下は引用】

興福寺の仏像2体、112年ぶり「再会」 梵天と帝釈天
東京・根津美術館で並んで展示
2017/1/6 18:25

東京・根津美術館で7日に始まる「再会―興福寺の梵天(ぼんてん)・帝釈天」展で、高さ180センチ超の2体の仏像が112年ぶりに並んで展示される。

 興福寺が所蔵する梵天立像(重要文化財)と同館所蔵の帝釈天立像は明治期まで興福寺東金堂に安置されていた一組の像。1905年、廃仏毀釈で疲弊した寺を支援した実業家の益田鈍翁に帝釈天像が返礼として譲られ、その後、同館に渡った。

 運慶の父の門下の仏師、定慶による貴重な仏像の“再会”に「2体を対照できるまれな機会」と興福寺国宝館の金子啓明館長は話す。

http://www.nikkei.com/article/DGXLASFG06H6B_W7A100C1000000/

京都妙傳寺・半跏思惟像 飛鳥仏の可能性

半跏思惟像 京都小寺院

新春にふさわしいニュース。下記の記事を読むかぎり、かなりの確度で「本物」ではないかと思われる。その理由は、このくらいの大きさの仏像の場合、ポータビリティが高いので、さまざまな数奇な出来事はあったにせよ、今日まで奇跡的に引き継がれてきたとしても、それは十分にありうる話であること(以下の2記事を参照。特に向原寺は最近の事例)。是非、ご尊顔を拝してみたい。

◆日韓国交正常化50周年記念 特別展「ほほえみの御仏―二つの半跏思惟像―」
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-477.html

◆向原寺観音菩薩立像
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-200.html

【以下は引用】

小さな寺の仏像 実は朝鮮半島伝来の貴重な仏像か
1月7日 16時42分

京都市の小さな寺にある、江戸時代のものと思われていた仏像が、実は、仏教が日本に伝来して間もない頃に朝鮮半島で作られた極めて貴重な仏像の可能性が高いことが、大阪大学などによる最新の調査でわかりました。専門家は「こうした貴重な文化財は、ほかにも埋もれている可能性がある」と指摘しています。

京都市左京区八瀬近衛町にある「妙傳寺」では、「半跏思惟像」という高さおよそ50センチの青銅製の仏像が本尊として安置されていて、これまでは、寺が建てられたのと同じ江戸時代のものと思われていました。

この仏像について、大阪大学や東京国立博物館の研究者が改めて鑑定したところ、額に刻まれた模様や装飾品の龍のデザインなどが6世紀から7世紀ごろに朝鮮半島で作られた仏像や出土品の特徴と一致していました。さらに、仏像にX線を当てて金属の成分を詳しく調べた結果、銅がおよそ90%、スズがおよそ10%で鉛はほとんど含まれていませんでした。こうした割合は日本や中国の仏像にはなく、7世紀ごろに朝鮮半島で作られた仏像である可能性が極めて高いことがわかったということです。

この時代は、日本に仏教が伝わってまもない時期に当たりますが、この仏像がどういう経緯でこの寺に伝わったかはわかっていません。
調査に当たった大阪大学の藤岡穣教授は、「韓国では国宝級となる最高レベルの仏像で、こうした仏像が見つかったことは大きな意味がある。ほかにも、埋もれている貴重な文化財がまだまだ見つかる可能性があり、価値に気付かれないまま盗難などの被害に遭う前に、調査が進んでほしい」と話しています。

決め手の一つとなった調査方法

今回、仏像の由来が明らかになった決め手の一つは、仏像に使われている金属の成分の分析でした。

寺などに安置されている仏像を分析するには、傷つけずに、しかもその場で調べる必要があります。このため、今回の調査に当たった大阪大学の藤岡穣教授が使ったのは、X線を金属に当て、含まれる成分によって跳ね返ってくるX線の波長が異なることを利用した、「蛍光X線分析」と呼ばれる手法でした。
かつては機器が大きくて持ち運びできませんでしたが、技術の進歩によってドライヤーほどの大きさまで小型化し、研究者が現場に持ち運んで測定できるようになりました。

藤岡教授らは、この機器を使って日本国内だけでなく中国や韓国などの古い仏像およそ400体の分析を積み重ねていて、そのデータの蓄積が今回の成果に結びついたということです。

3Dスキャナー使い盗難対策

地域に根ざした小さな寺にあった仏像が、極めて貴重なものとわかったことで、新たな心配も浮上しました。盗難のおそれです。
このため、妙傳寺の荒木正宏住職は、地元の人たちの理解を得たうえで、専門の業者に依頼し、仏像の複製品を作ることにしました。大阪の業者が「3Dスキャナー」と呼ばれる装置で仏像の細かなデザインの立体的なデータをとり、富山県高岡市の仏像作りの職人がこのデータを基に鋳型を作りました。さらに別の職人が仕上げの細工や色つけを施し、最新の技術と伝統の技法によって、1000年を超える歴史とともに刻まれた風合いまで再現した本物そっくりの仏像が完成しました。

本物の仏像は博物館で保管し、寺には新しく完成した仏像が安置されることになっていて、今月、寺で地元の人たちにお披露目されました。集まった女性の1人は「本物そっくりでびっくりしています。本物が移されるのは少し寂しいですが、しかたないと思います。博物館にちゃんとすてきなご本尊様がいらっしゃると思って手を合わせたいです」と話していました。
荒木住職は「博物館でできるだけ多くの方に見ていただきたい。将来、寺で安全に保管できる設備が整ったときに、ご本尊様に帰ってきてほしい」と話していました。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170107/k10010831921000.html
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2017/01/10/2017011000989.html

「定朝」論  高田博厚

平等院阿弥陀如来2

高田博厚『思索の遠近』(読売新聞社1975年)を読んで大いに啓発された。日本の仏像彫刻家の文章は結構、見ているのだが、この人はフランス文学や音楽に造詣の深い近代彫刻家(あるいは文明評論家)とばかり思っていて、日本彫刻についての論考は手に取ったことがなかった。本書中、「定朝」「円空上人」「彫刻家高村光太郎と時代」などがあるが、ここでは「定朝」を中心に取り上げる。

◆「定朝」(淡交社『歴史の京都』第4巻 芸術家と芸能家 1971年1月)
定朝、その人を論じるのではなく、歴史・思想・権力と彫刻家との関係性に着目している。少し長い引用になるがコアとなる主張の部分を見よう。

「時代による感覚や型の推移は、現代と異なり、昔の遡るほど緩慢大らかに行われ、そこに人力を超える『時』の力と、徳を素直に示している。これを理解するならば、作品鑑定の場合、大陸の作だとか、日本人の作だとか論議するのはむしろ愚かに近い。中宮寺や広隆寺の弥勒菩薩が朝鮮製であろうと日本産であろうと問題ではない。影響と継承は堂々として行われー天平までの芸術がこれを雄弁に示しているーそこに世界の全民族に共通する『美』を生むとともに、その土地や時代の性格を自然に現すのであり、それが真の『伝統』であろう。だから藤原期に明らかになった『日本的』なものは、それに先行した大和の数世紀間に徐々に支度されていたものであるーたとえば唐招提寺は支那から直接導入されていたものであるが、そこの鑑真像は、どこの国、どの民族のものとも言えない普遍美を持っており、世界中の肖像彫刻中の最高傑作であろう。この『普遍美』は同寺金堂の列柱やそのふくらみがギリシア神殿のそれに似ているから、普遍的だとする以上のものを持っている。その興味ある例証は、同寺講堂にある如来型胴体であろう。頭部や両腕を落して、教義的型を無くしただけに、エジプトやギリシア、またロマネスクゴティックの直立像に共通する、時空を超えた普遍美そのものを示しているー。」(p.43)

高田の仏像彫刻についての考え方は、他の部分でも同様な見解を示し、様式史などには見向きもせず、その仏像が美の本質にどこまで迫っているかに価値をおいている。一方、時代の思想がその仏像に投下されていることを指摘し、これは仏師にとっての創作の意思に影響する。しかし、優れた仏像は時代精神を反映しつつも、仏師が結果として普遍美を追求しているかどうかにかかっている。

彼の審美眼からは、江戸時代にも良き作品があるとし、特に円空を高く評価する一方、明治時代の木彫の作品は、伝統とその継承から厳しく批判し、高村光太郎の作品のみが価値あるものとされる。その場合、作品の優劣を分けるのは「品位」を宿しているか否かであるとし、創作に悩みぬく気高き知性がそこに投影されていることが条件である。自身が彫刻家であるがゆえに書ける文章であるとともに、高田が当時にあって最高の知性を希求していた証でもあろう。

恭賀新年

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本年もどうぞよろしくお願いします。
2017年 元旦

東大寺 よみがえる仏の大宇宙

東大寺大仏3

NHKのBS深夜番組で、「東大寺 よみがえる仏の大宇宙」を見た。

http://cgi2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009010743_00000

【以下はNHKの番組案内からの引用】

天平時代、聖武天皇の発願により築かれた東大寺。幾たびもの戦乱に巻き込まれ、創建当初の大仏や建物は失われた。天平時代の寺や仏像の調査を基に、創建当初の大仏を30分の1のサイズで、当時の製造方法を用いて再現。また100メートルもの七重塔がそびえていた大伽藍(がらん)や、巨大な仏像が林立していた極彩色の大仏殿内部を、デジタル技術で再現する。リポーターは演出家の宮本亜門。語り:森田美由紀

http://www.nhk.or.jp/docudocu/program/3599/2315723/index.html
東大寺大仏images

これはDVDで「東大寺 ~よみがえる仏の大宇宙 [DVD]」として 販売されており、その解説が詳しい。

https://www.amazon.co.jp/%E6%9D%B1%E5%A4%A7%E5%AF%BA-~%E3%82%88%E3%81%BF%E3%81%8C%E3%81%88%E3%82%8B%E4%BB%8F%E3%81%AE%E5%A4%A7%E5%AE%87%E5%AE%99-DVD-%E5%AE%AE%E6%9C%AC%E4%BA%9C%E9%96%80/dp/B000R1AAFC

【以下はAmazonからの引用】

NHK BS hiで放映された特別番組をDVD化。世界最大級の木造建築物であり、世界最大級の木造鋳造物=大仏を蔵する奈良の東大寺。古来の信仰と謎に満ちたその大宇宙を、演出家・宮本亜門がデジタル技術で再現した東大寺の映像などを元に紐解く。

東大寺大仏殿そして大仏。
今は失われた天平創建当時のその姿を、最新のデジタル技術と当時の製造方法を用いて再現する。
1250年のときを経て、荘厳な仏の宇宙が今よみがえる。
(NHK BS-hiにて2006年12月11日に放送)

演出家・宮本亜門がナビゲーターとなり辿る復元プロジェクト。
「なぜ仏様がこれほど美しいのか」という想いを胸に、人間の叡智と精神から生まれる永遠の美しさを伝える。
古都、奈良を象徴する東大寺。
「奈良の大仏」として親しまれる国宝・盧舎那仏坐像を本尊とする華厳宗大本山である。
歴史的にも文化的にも貴重な建造物であり、1998年に世界遺産 に登録されている。
しかし、その東大寺の建造物には今なお謎が多い。
聖武天皇によって天平時代に創建されたが、大仏は大部分の建築物とともに焼失してしまった。
現在の大仏は、鎌倉時代と江戸時代に再建されたものである。
聖武天皇の没後1250年にあたる平成18年は、東大寺では盛大な法要が営まれると同時に、東大寺のオリジナルの姿、極彩色の仏像が立ち並ぶ「荘厳な仏の大宇宙」を復元する試みが行われた。
本作では往時の姿を最新のテクノロジーによって現代によみがえらせ、あらためて東大寺や大仏を検証する。
天平の大宇宙と呼べる空間、そして人々の信仰を紐解き、奈良の東大寺の全貌を映し出す。
復元プロジェクトの目玉は、かつては大仏を含む7体の巨大仏が林立していたという大仏殿のCG化。
最新の研究成果を通して細部まで再現する。鮮やかな文様な仏画までも甦らせる。

<内容>
・プロローグ 天平の大仏と大仏殿を復元する
・平成18年 聖武天皇1250年忌
【謎1 大仏はどんな姿だったのか パート1】
【謎2 大量の銅をどこで確保したのか】
【謎1 大仏はどんな姿だったのか パート2】
・1260年ぶりの燃灯供養
【謎3 大仏を囲んだ謎の巨大仏とは】
【謎4 どのように銅は採り出されたのか】
【謎5 どのように鋳造は行われたのか】
【謎6 なぜ大勢の人を動員できたのか】
・開眼から続く修二会
・鋳造の完遂
【謎7 天平の大仏殿の姿とは】
・大仏復元プロジェクト完遂
・未完成で行われた開眼供養会
・完成した天平大仏殿
・エピローグ 万燈供養会

特典映像:影絵劇 大仏建立物語

東大寺大仏images

以下では、若干の感想を付しておきたい。この番組は良くできていると感心した。特に、1/30のスケールの大仏復元プロジェクトは見ごたえ十分で、多くの人たちの手をへて作像される過程は感動的ですらあった。その一方、為政者の捉え方には疑問を禁じえなかった。

東大寺大仏

東大寺は大きな寺である。見どころも数知れず。大仏殿の前の八角灯籠火袋音声菩薩は目立たないけれど必見のものである。しかし、この温和の表情とは全く異なり、当時の聖武天皇は、一種のノイローゼ状態であり、動員された多くの民は非常な労苦に苦しみ、さらに大仏建立には鉛害という厳しい公害問題が伴った。
番組では、このあたりの事情は一切無視して、聖武天皇の「聖人」君主ぶりが強調されていたが、ここにはいささかならず違和感を感じた。

◆東大寺大仏殿前八角灯籠火袋音声菩薩
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-397.html

東大寺は、聖武天皇がつくった最大、最強の国営寺院である。前身にあたる金鐘寺(こんしゅじ)は古密教の強い影響を受けている。大仏をもって東大寺はその威光を放つが、当初大仏造立は紫香楽宮(滋賀県甲賀寺が措定)で計画された。聖武天皇は天然痘の猛威などの国情の動揺もあり、これを放棄して東大寺での造像を命じた。計画途上での変更であり、それだけでも厖大なる浪費があったことが最近の研究でも明らかになりつつある。
番組でも詳細の紹介があるが、平安時代の絵巻物『信貴山縁起』 (尼君の巻、朝護孫子寺蔵)には聖武天皇が建立した大仏殿の当時のありさまをうかがわせる貴重な絵がある。このクローズアップ映像は本番組の白眉であった。

開眼の導師は菩提僊那だが大仏という「モノ」はできたが、仏法僧の「ひと」たる僧がいなければ鎮護国家はできない。鑑真の入都は大仏開眼の1年後であり、ここに戒壇院ができる。聖武天皇自身に加えて多くの僧が戒を受けた。文字通り「ひと」を得てこれではじめて鎮護国家の体裁が整うこととなる。

東大寺大仏images

◆大仏関連年表

天平13年(741年) - 聖武天皇による国分寺建立の詔
天平15年 - 聖武天皇による大仏造立の詔
天平16年 - 甲賀寺において、大仏造立開始
天平17年 - 恭仁京から平城京へ遷都

天平勝宝4年(752年) - 大仏開眼供養
天平勝宝7歳 - 戒壇院建立

承和3年(836年) - 空海、真言院を創建。
斉衡2年(855年) - 大仏の頭部落つ、同年修理。
保安元年(1120年) - 大宰府の観世音寺、東大寺の末寺となる。
治承4年(1180年) - 平重衡による南都焼討。東大寺、興福寺は大被害。
文治元年(1185年) - 大仏落慶供養。
建久6年(1195年) - 東大寺総供養。

永禄10年(1567年) - 東大寺大仏殿の戦い、大仏殿や大仏など東大寺大被害。
永禄11年(1568年) - 山田道安による大仏頭などの修復、清玉による勧進はじまる。
天正11年(1583年) - 西大門が倒壊。
慶長11年(1606年) - 中御門が焼失。
寛文7年(1667年) - 二月堂焼失。
元禄元年(1688年) - 公慶による大勧進、復興始まる。
元禄5年(1692年) - 大仏開眼供養。
明治元年(1868年) - 神仏分離令
明治5年 - 浄土宗に組込まれる。
明治12年 - 大仏殿修造開始。
明治16年 - 華厳宗として独立。
大正4年(1915年) - 大仏殿修理落慶供養。
昭和48年(1973年) - 昭和大修理開始。
昭和55年(1980年) - 昭和大修理なる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%A4%A7%E5%AF%BA%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2

東大寺大仏images

大橋 一章・ 斎藤理恵子 編著『東大寺―美術史研究のあゆみ』(里文出版  2003年)では多くの研究成果が紹介されている。しかし、寺の協力を仰げば仰ぐほど、寺の権力構造の暗部は書きにくいこともあろう。東大寺は先に指摘したとおり、最大、最強の国営寺院として建立された。しかし、それゆえの強い桎梏などもあったであろう。インサイダーとは言わないが、内実を知る者の発言は重い。狭川 普文『東大寺物語―シルクロードの終着駅・奈良』(フジタ  1985年)はこうした視点では面白く読める。

◆狭川 普文氏について
http://www.asahi.com/articles/ASJ283J37J28POMB008.html

東大寺大仏2

ものごとにはすべて功罪があり、作用・反作用がある。聖武天皇の強迫観念にも近い思い入れがなければ、当時において民を疲弊させた「身の丈をわきまえない」大仏建立という国家事業はありえなかった。それによって奈良の平城京自体の運営が傾いた。だが、反作用の振り子は平安京への遷都という別の権力構造を導く。

東大寺はじめ南都六宗は、新興勢力たる密教に国教の地位を奪われるが、東大寺の大仏は厳然として残った。その後の歴史を見ても、日本唯一の大仏があったからこそ、その保持のために東大寺は残った面もある。もちろん後世、重源、公慶といった傑僧がでて必死の勧請をし、多くの関係者の努力なくして東大寺の今日の存立はありえなかっただろう。しかし、そうした傑僧を生み出す力も大仏の人知の及ばぬ超越的エネルギーゆえであったかも知れない。

そして、造東大寺司は滅びても南都で慶派が彗星のように出でて鎌倉彫刻の黄金時代を築く。

◆造東大寺司
https://kotobank.jp/word/%E9%80%A0%E6%9D%B1%E5%A4%A7%E5%AF%BA%E5%8F%B8-848024

◆重源と快慶ーその絆と気脈
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-426.html 【“東大寺 よみがえる仏の大宇宙”の続きを読む】

法隆寺の謎

法隆寺金堂壁画

法隆寺の謎、そう聞くとワクワクするものがあるが、いくつかの源流がある。第1に、戦前からつづく法隆寺、再建・非再建論争というのがあって、ここには謎解きのような趣きがある。近年、科学の力で随分と見通しがよくなっている。

➡ 法隆寺再建の謎
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-98.html

第2に、梅原猛『隠された十字架・法隆寺論』という書物が、挑戦的にいくつかの謎を提起した。「隠された十字架」と言われれば誰でも、「隠れキリシタン」を連想しそうだが、古くから大陸には「景教」があり、そのアナロジーをここに滲ませているかも知れない。
しかし、本書を読むと、「景教」ではなくむしろ呪術的な要素が強く、これは平安初期の密教的な色彩が強い。ちなみに「秘密」という言葉も密教からきている。具体的な指摘に対しては、多くの反論(というより誤りの指摘)がなされている。
たとえば、梅原 猛『隠された十字架―法隆寺論』(新潮社 1972年)、梅原 猛『聖徳太子(1)~(4)』(集英社 1993年)に対して、武澤 秀一『法隆寺の謎を解く』(筑摩書房 2006年)などを参照。

➡ 隠された十字架
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%A0%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%9F%E5%8D%81%E5%AD%97%E6%9E%B6

第3に、古くから伝承などで語られてきた謎がある。なかには「日本昔ばなし」のような微笑ましいものもある。

法隆寺の謎
http://www.nikkei.com/article/DGXLASIH22H07_S4A021C1AA1P00/

さて、こうした3つの源流をすべて踏まえ、法隆寺の公式見解?を表明した本がある。高田良信『法隆寺のなぞ』 (主婦の友社 1977年) である。この本を読むと、「なあんだ、法隆寺の謎のネタ本はここにあったのか」と合点がいく。

➡ 参考文献リスト2
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-57.html

ところで、法隆寺は高田良信さんの発想力が豊かで、「謎」をいまにいたるまでブームとしているが、もともと「謎」という字を分解すれば、よまいごと(世+)に通じる。
また、法隆寺は「持てる寺」で古くから分厚い文物の蓄積があるが、持てば持つほど、わからないことが多くなるのは理の当然。その点では、興福寺も東大寺も薬師寺なども同様。しかし、なんと言っても、法隆寺は聖徳太子がらみの寺であり、その太子の実在についても諸説が提起されているので、これに拍車がかかっているとは言えるだろう。

➡ 聖徳太子のまなざし
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-485.html

➡ 聖徳太子について(11)
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-146.html

法隆寺金堂壁画2



『韓国仏像史 三国時代から朝鮮王朝まで』 水野さや著

日韓半跏思惟像4
注目すべき書物である。時間があるときに、じっくりと手にとってみたいと思う。以下はそのための備忘録まで。

【以下は引用】
半島ならではの色合い

 西暦五三八年、百済の聖明王から仏像と経文が大和朝廷にもたらされ、日本に仏教が伝来した、と高校日本史で習う。次の世紀には日本でも本格的な仏像製作がはじまるが、法隆寺の釈迦三尊像や「百済観音」、中宮寺の菩薩半跏ぼさつはんか像、広隆寺の弥勒みろく菩薩半跏思惟像など、飛鳥時代を代表する作品には朝鮮半島の影響が強く残ると教えられる。だが、かの地の仏像について、私たちは多くを知らないままに済ませてきた。

 朝鮮半島では、三国時代、中国の前秦からまず高句麗に、続いて東晋から百済に仏教は伝わった。四世紀後半のことであり、半世紀ほど遅れて新羅にも仏教は伝わる。こうして、三国時代の朝鮮半島は仏教色に染まってゆく。仏像製作がそれに伴った。仏像製作は三国の間で刺激しあい、中国からの影響も受けながら、半島ならではの色合いを滲にじませてゆく。統一新羅時代から高麗時代にかけても王朝に手厚く保護された仏教信仰は民間に浸透し、仏像は時代ごとの表情をみせてゆく。崇儒すうじゅ廃仏を掲げた李氏朝鮮時代でさえも、面相が優雅で温和、姿勢が荘重で温雅な仏像が数多く製作されていた。

 朝鮮半島の今に残る仏像は、古くはもっぱら金銅仏と石造仏である。統一新羅時代から鉄造の仏像がこれに加わる。塑像は朝鮮時代になって普及した。日本には「百済観音」をはじめ木造仏が伝わったが、なぜか朝鮮半島に木造仏は残らなかったのだ。それでも、三国時代の金銅菩薩半跏思惟像は広隆寺に伝わる木造の弥勒菩薩像を思わせずにはおかないだろう。慶州の石窟庵ソックラムに坐ざす如来像(八世紀中頃)は、写真からでも、その静寂の内に秘めたのびやかな力量感が伝わってくる。

 本書は日本で最初の朝鮮半島の仏像通史である。著者は東アジア、なかでも朝鮮半島の仏像史研究に携わる美術史家。各時代に目を配り、韓国の研究者たちとの議論をふまえつつ、個々の作例にじつに丁寧な解説をほどこしてゆく。

 ◇みずの・さや=愛知県生まれ。金沢美術工芸大准教授、文学博士。著書に『図説 韓国の国宝』など。

 名古屋大学出版会 4800円

2016年11月07日 05時28分 Copyright © The Yomiuri Shimbun

聖徳太子のまなざし

法隆寺釈迦三尊2

日経新聞で日曜日「美の美」のコーナーで3回にわたって「聖徳太子のまなざし」という特集があった。第1回では釈迦三尊像と聖徳太子二王子像(唐本御影)が、第2回では聖徳太子坐像(聖霊院御影)と塔本塑像(北面)が、そして第3回では救世観音菩薩立像と聖徳太子供養像(孝養御影)が取り上げられている。全体としてはオーソドックスな解釈と丁寧な解説で良い記事だと思った。

聖徳太子についても、法隆寺に関しても拙ブログでいままで随分書いてきたのでここでは繰り返さない。前者については、一部はいささかユニークな(へそ曲がりの)本を読んで書いたものだが、以下のカテゴリーの「聖徳太子論」をご覧いただきたい。

◆飛鳥・白鳳彫刻の魅力(5):聖徳太子
小林惠子『聖徳太子の正体―英雄は海を渡ってやってきた』 (文春文庫)
◆聖徳太子について(1)
「奈良検定」の聖徳太子創建七ヶ寺:橘寺、法隆寺、中宮寺、法起寺、四天王寺(大阪)、広隆寺(京都)、葛木寺
◆聖徳太子について(2)
勝鬘師子吼一乗大方便方広経(勝鬘経)
◆聖徳太子について(3)
法隆寺伽藍縁起併流記資材帳、法貴寺縁起、法貴寺縁起ほか
◆聖徳太子について(4)
法華義疏、法蓮華経(鳩摩羅什訳、5世紀)
◆聖徳太子について(5)
日本書紀
◆聖徳太子について(6)
上原和『斑鳩の白い道のうえに―聖徳太子論』(朝日新聞社 1975年)
◆聖徳太子について(7)
黛弘道『古代史を彩る女人像』(講談社学術文庫 1985年)
◆聖徳太子について(8)
門脇禎二『蘇我蝦夷・入鹿』(人物叢書 日本歴史学会研編集 吉川弘文館刊 1977年)
松本清張「聖徳太子の謎」(『日本史謎と鍵』平凡社刊 1976年所収)
◆聖徳太子について(9)
石渡信一郎『聖徳太子はいなかった』(三一書房 1992年)
◆聖徳太子について(10)
谷沢永一『聖徳太子はいなかった』(新潮新書 2004年)
◆聖徳太子について(11)
3冊の「聖徳太子はいなかった」本
◆大遣唐使展 6 <聖徳太子>
法華義疏写本と天寿国繍帳残闕
◆聖徳太子と中大兄皇子
家系図
◆聖徳太子と空海
田村圓澄『聖徳太子 斑鳩宮の争い』 (中央公論社 1969年(第5版))

特別展「平安の秘仏―滋賀・櫟野寺の大観音とみほとけたち」

櫟野寺9
重要文化財 薬師如来坐像 平安時代・12世紀 滋賀・櫟野寺蔵

特別展「平安の秘仏―滋賀・櫟野寺の大観音とみほとけたち」を見に午前中、東博に行く。天気がよく10月とは思えぬ強い日差しと台風接近もあってかむし暑い。
巨大な十一面観音菩薩坐像(重要文化財)平安時代・10世紀や素朴な地方仏も良かったけれど、なんといっても薬師如来坐像(重要文化財)平安時代・12世紀が素晴らしい。定朝様のなかでも逸品である。
平等院鳳凰堂や法界寺では、これほど間近にて拝顔ができないが、今日の展示は距離が近く十分に堪能した。
地蔵菩薩坐像(重要文化財)平安時代・文治3年(1187)が次に興味深い。作風はいささか異なれども康慶作の静岡瑞林寺地蔵菩薩坐像を連想する。

さて、近江牛のファストフードのコーナーで「焼きしゃぶ+おにぎり」で腹ごしらえをして、13:30から平成館大講堂で、櫟野寺のご住職、三浦密照師による「近江の仏教文化と櫟野寺」を、つづいて滋賀県教育委員会事務局文化財保護課の井上優主幹による「近江の仏教文化『史』と櫟野寺」を15:30まで聴く。井上主幹の話は巧みで厭きさせず、かつ内容豊富で大いに啓発された。その後、もう一度会場に戻り再度拝観して帰る。

(参考)
特別展「平安の秘仏―滋賀・櫟野寺の大観音とみほとけたち」
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-481.html 【“特別展「平安の秘仏―滋賀・櫟野寺の大観音とみほとけたち」”の続きを読む】

仏像 (ポストカード) (ヤマケイカレンダー2017)

仏像カレンダー 1

【上記および以下はすべて引用です】
https://www.amazon.co.jp/gp/product/463585213X/ref=pe_1863752_244288452_em_1p_0_ti 【“仏像 (ポストカード) (ヤマケイカレンダー2017)”の続きを読む】

特別展「平安の秘仏―滋賀・櫟野寺の大観音とみほとけたち」

櫟野寺8

特別展「平安の秘仏―滋賀・櫟野寺の大観音とみほとけたち」が、東京国立博物館(本館 特別5室)で 2016年9月13日(火) ~ 12月11日(日) まで開催される。

甲賀といえば伊賀とともに、一般には「忍者の里」というイメージが強いが、比叡山延暦寺にもちかく最澄はじめ天台宗の僧が拠点とし往時は大寺院が栄えたゾーンでもあった。ゆえに平安時代からの仏像の集積も並々ならぬものがある。その甲賀の名刹、櫟野寺諸仏のいわば引っ越し展示が東京秋の仏像探訪のハイライトである。

【以下は引用】(記載がないものは東博HPから)

1.櫟野寺 らくやじ (いちいの観音)の略縁起(当寺HPから)

福生山自性院櫟野寺(いちいの観音)は桓武天皇の延暦十一年に比叡山の開祖伝教大師様が根本中堂の用材を得る為に甲賀郡杣庄おいでにまりました時、霊夢を感じて此の地の櫟の生樹に一刀三礼の下彫刻安置されました。日本最大坐仏十一面観音菩薩がご本尊様です。(世に生えぬきの観音様と称されております。)

その後、延暦二十一年鈴鹿山の山賊追討に当たり、杣ケ谷を櫟野まで登られた坂上田村麻呂公は、当地鎮座の櫟野観音さまに祈られその御力により鈴鹿山の群賊を平定することが出来たのであります。(鈴鹿山の鬼退治と伝わる)それ故将軍は当寺を祈願寺と定め、大同元年七堂伽藍を建立、永く当山守護の為に自ら等身の毘沙門天の尊像を彫刻、そして家来に命じて国技の相撲を奉納、是が現在まで継続しております大会式十月十八日の奉納相撲なのであります。

当寺は、天台宗総本山延暦寺の末寺で、往古は甲賀六大寺の筆頭と云われ、この地方の天台文化の中心寺院であり、広大な境内地を有し、その末寺には阿弥陀寺(櫟野)・仏生寺(神)・常楽寺・地蔵寺(櫟野)・成道寺(櫟野)・安国寺(櫟野)・詮住寺(櫟野)など数々の坊がありましたが、年月不詳荒廃に帰したのであります。(転宗、合併し一部現存)
http://www.rakuyaji.jp/engi.html

2.出展仏像

滋賀県甲賀市に所在する天台宗の古刹・櫟野寺(らくやじ)には重要文化財に指定される平安時代の仏像が20体も伝わります。
その数は、優れた仏像が数多く残る 滋賀県でも特筆されます。本展は、20体すべてを寺外で展示する初めての機会です。本尊の十一面観音菩薩坐像は像高が3メートルもある圧巻の作品で、普段 は大きく重い扉に閉ざされる秘仏です。他にも、11体の観音や、どこか親しみのある毘沙門天立像、文治3年(1187)に造られたこと が知られる貴重な地蔵菩薩坐像など、櫟野寺に伝わる平安彫刻の傑作を一時にご覧いただける展覧会です。

櫟野寺1

櫟野寺2
重要文化財 十一面観音菩薩坐像  平安時代・10世紀  滋賀・櫟野寺蔵

◆木造十一面観音坐像(秘仏)
像高3mを超す大観音で、重要文化財に指定された十一面観音菩薩坐像では日本最大です。頭と体は一本の大木から彫り出されます。木の重さが伝わってくるような重厚な姿ですが、美しく整った顔を仰ぎ見ると心が癒されます。迫力と穏やかさがともにみられる表現は、10世紀の仏像の特徴です。

今から1200年前、比叡山開祖の伝教大師最澄上人が、根本中堂建立のため用材を求め、当地に来錫の折、櫟の巨木に霊夢を感じ一刀三礼のもと立木に刻まれたと伝わる、我が国最大を誇る坐仏の十一面観音さまです。(当寺HPから)

櫟野寺9
重要文化財 薬師如来坐像  平安時代・12世紀  滋賀・櫟野寺蔵

◆木造薬師如来坐像(甲賀三大仏)
左手に薬壺をもち、病気平癒をつかさどる薬師如来像です。本尊よりは小さいものの、仏像に求められる理想的な大きさである周丈六(しゅうじょうろく)を基準に表された像高2.22mの大作で、その穏やかな表現は、都の大仏師、定朝(じょうちょう)の作風を模範とする定朝様に倣います。最澄が開創した延暦寺根本中堂の本尊は薬師如来であり、いかにも天台宗の古刹、櫟野寺にふさわしいみほとけといえます。

櫟野寺の筆頭末寺であった、油日岳奥の院 詮住寺の本尊と伝わります。 作風は、定朝様の寄せ木造りで平安時代後期の周丈六仏です。台座、光背も当時のものが残る滋賀県下最大のお薬師さまです。 (当寺HPから)

櫟野寺3
重要文化財 薬師如来坐像

櫟野寺11
重要文化財 地蔵菩薩坐像  平安時代・文治3年(1187) 滋賀・櫟野寺蔵

◆木造地蔵菩薩坐像
地蔵菩薩は、釈尊が入滅したのち、弥勒がこの世にあらわれるまでの56億7千万年という長い間、我われを救って歩くという役目をもっており、古くより信仰されてきました。本像は像内の銘文から、文治3年(1187)に造られたことがわかります。仏師運慶らによって写実的な仏像が造られるようになった頃ですが、櫟野寺周辺ではまだこのように、平安風で穏やかな姿の像が造られていました。

櫟野寺末寺の地蔵院寛澤寺の本尊で、体内に文治三年(一一八九)の銘記があります。 このお地蔵さまは、腹帯を結んでおられるため、安産のお地蔵さまとして信仰され、地元では、お地蔵さまから腹帯を授かる風習が残っています。 (当寺HPから)

櫟野寺4
地蔵菩薩坐像

櫟野寺10
重要文化財 毘沙門天立像  平安時代・10~11世紀  滋賀・櫟野寺蔵

◆木造毘沙門天立像
平安時代の初めに坂上田村麻呂が鈴鹿山の山賊の追討を櫟野寺で祈願し、それが叶うと毘沙門天像を造って安置したといいます。この像は10~11世紀頃に造られたものですが、目をつり上げ、口をへの字に歪める表情にはどこか親しみをおぼえます。腹部に表された奇妙な顔にも注目してください。

この毘沙門天さまは、征夷大将軍坂上田村麻呂公、等身大(五尺八寸)の御分身と伝わる尊像で、寺伝では、櫟野観音の加護により鈴鹿山の山賊平定の報恩のために本尊守護のために祀ったと伝わります。 特に江戸時代には、田村麻呂公の信仰が盛んとなり、鈴鹿山麓の田村麻呂公を祀る田村神社と櫟野寺の二社寺を詣でる田村参りが盛んに行われました。 (当寺HPから)

櫟野寺6
毘沙門天立像

櫟野寺5
重要文化財 観音菩薩立像  平安時代・10~11世紀  滋賀・櫟野寺蔵

◆観音菩薩立像
櫟野寺には、本尊の十一面観音菩薩坐像をはじめ、10世紀~12世紀にかけて造られた観音菩薩が現在も複数残されています。このことは、観音への信仰がこの地に深く根ざしていたことをものがたっています。本像はそのなかでもすぐれたできばえの像で、切れ長の目など表情には厳しさがありますが、細身に表された体つきは優美です。

櫟野寺7

滋賀県甲賀市に位置する天台宗の古刹、櫟野寺は、延暦11年(792)に最澄が延暦寺の建立に際して良材を求めて当地を訪れ、櫟(いちい)の霊木に観音像を刻んだことがその始まりと伝えられます。鈴鹿山脈に連なる油日岳の山麓に位置し、すぐ近くを琵琶湖に注ぐ杣川(そまがわ)が流れるという立地は、世俗を離れ比叡山中で修行した最澄が、良材を求めた場所としてふさわしく感じられます。
征夷大将軍の坂上田村麻呂が山賊追討の祈願成就をよろこび、堂塔を寄進したとの伝承も残ります。また、白州正子氏が「かくれ里」とも呼んだこの櫟野(いちの)の地には、櫟野寺を拠点として数多くの天台寺院が建立され、豊かな仏教文化が花開いたのでした。秘仏本尊の十一面観音菩薩坐像はその制作が10世紀後半に遡るため、そのころには櫟野寺が甲賀における仏教文化の中心であったことが知られますが、本尊含め重要文化財に指定される平安仏は20体にも及びます。これら平安仏が林立する光景を前にすれば、かつて末寺として七坊を誇ったという名刹、櫟野寺の栄華がしのばれるでしょう。
http://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=1779#top 【“特別展「平安の秘仏―滋賀・櫟野寺の大観音とみほとけたち」”の続きを読む】

ミャンマー地震 仏教遺跡が損壊

ミャンマー バガン 
【以下は引用】
ヨーソー僧院(バガンから車で1時間40分、文化財保護地区に指定されているサレー地区の寺院)
http://www.sara-tour.com/tour/tour_bagan.html
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ミャンマー地震 仏教遺跡が損壊

毎日新聞2016年8月25日 東京夕刊

【ニューデリー金子淳】ミャンマー中部で24日にあったマグニチュード(M)6・8の地震で、ミャンマー情報省は同日夜、震源に近い中部バガンで少なくとも94のパゴダ(仏塔)が損壊したと明らかにした。バガンは世界3大仏教遺跡の一つとされ観光地としても人気が高いだけに、観光産業への影響が出る可能性がある。

 ロイター通信によると、地震では観光客1人も負傷したという。震源地付近では建物の倒壊に巻き込まれるなどして少なくとも4人が死亡している。
http://mainichi.jp/articles/20160825/dde/007/030/036000c

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ミャンマー地震 ユネスコ専門家が被害受けた仏教遺跡を視察

8月27日 7時11分 NHK

ミャンマー中部を震源とする地震で、大きな被害を受けた世界的な仏教遺跡のバガンに、ユネスコ=国連教育科学文化機関の専門家が入り、軍事政権時代にコンクリートなどを使って遺跡の修復や復元を行ったことが被害を大きくした可能性があるという分析を示しました。

ミャンマー中部を震源に今月24日に発生したマグニチュード6.8の地震では、少なくとも3人が死亡し、世界的な仏教遺跡のバガンも大きな被害を受けました。
これを受けて文化遺産の保護に取り組むユネスコの専門家が、26日午後、現地入りし、被害が深刻だった寺院を視察しました。
専門家は1000年近く前に作られた寺院の基礎部分が、ほぼ無傷な一方で、軍事政権時代に復元された鉄筋コンクリート製の塔が崩れ落ちていることを確認し、当時の遺跡の修復や復元の方法に問題があり、被害を大きくした可能性があるという分析を示しました。
また、損傷した仏塔などの修復や復元についてはまず安全性の確保と慎重な調査が必要だとして、ミャンマー政府への勧告には数か月かかる見通しを示しました。
ミャンマー政府は、かねてよりバガンの世界遺産への登録を目指してきましたが、今後の対応については地震の被害調査やユネスコの勧告を受けて検討するものとみられます。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160827/k10010655831000.html

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ミャンマー地震で崩れ落ちたバガン遺跡

2016 年 8 月 26 日 08:11 JST

ミャンマー中部で24日起きたマグニチュード(M)6.8の地震で、仏教遺跡のバガンが大きな被害を受けた。11世紀から250年にわたって1万を超える仏塔や寺院が建てられ、現在残るのはわずか2200程度だが、多くが地震で損壊した。

http://jp.wsj.com/articles/SB10353882736862073912504582274080133166176

ミャンマー バガン 2

観音の里の祈りとくらし展Ⅱ-びわ湖・長浜のホトケたち-

観音の里の祈りとくらし展Ⅱ-びわ湖・長浜のホトケたち- 1

【以下は引用】

観音の里の祈りとくらし展Ⅱ-びわ湖・長浜のホトケたち-

会期: 2016年7月5日(火)- 8月7日(日)
会場: 東京藝術大学大学美術館 本館 展示室3、4
* 本展をご覧のお客様は当日に限り、同時開催「平櫛田中コレクション展」を無料でご覧いただけます。
主催: 東京藝術大学、滋賀県長浜市

長浜市には、130を超える観音をはじめとするたくさんの仏像が伝わり、古くは奈良・平安時代に遡るものも多くあります。また、この地域は、戦国時代には「近江を制する者が、天下を制す」と言われ、幾多の戦乱や災害に見舞われましたが、そのたびに、地域住民の手によって観音像は難を逃れ、今日まで大切に守り継がれてきました。
これらの仏像は、大きな寺社に守られてきたのではありません。地域の暮らしに根付き、そこに住む人々の信仰や生活、地域の風土などと深く結び付きながら、今なお大切にひそやかに守り継がれています。
この展覧会では、このようなホトケたちの優れた造形とともに、こうした精神文化や生活文化を「祈りの文化」として紹介し、長い歴史の中で守り継がれてきた地域に息づく信仰のこころを全国に発信していきたいと考えています。
歴史・文化に彩られた北近江の長浜、この地に息づく「祈りの文化」と「観音の里」の魅力を通して、一人でも多くの方に、ホトケたちとそれを守る人びとの姿を感じ取って頂ければと考えています。

http://www.geidai.ac.jp/museum/exhibit/2016/nagahama2/nagahama2_ja.htm

今回、気に入り集中して拝観したのは、総持寺の2仏(特に千手観音立像:10,11 以下は下記掲載リスト「出品目録」の番号)、阿弥陀寺の阿弥陀如来立像(29)、宝厳寺の聖観音立像(39)、十一面腹帯観音堂蔵の阿弥陀如来坐像(32)など(参考ブログ1の写真を参照)。もちろん、野趣あふれる、素朴で愛らしい、魁偉な風貌に特色のある、多くの仏さまも堪能した。

なぜか小生のお気に入りは、長浜市指定文化財(出品目録では▲表記、◎国の重要文化財ではない)が多く、いつもの感想ー国宝、重文の指定のありかたへの大きな疑問ーがもたげてくるが、今回はここまでで留め置き。


(参考ブログ1)展示写真がよく撮れています

◆観音の里の祈りとくらし展@東京藝術大美術館 <内覧会レポートと感想>
http://tourdefrance.blog62.fc2.com/blog-entry-3175.html

◆「観音の里の祈りとくらし展Ⅱ-びわ湖・長浜のホトケたち-」
http://kamisavil.blog40.fc2.com/blog-entry-293.html
http://kamisavil.blog40.fc2.com/blog-entry-294.html
http://kamisavil.blog40.fc2.com/blog-entry-295.html
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(参考ブログ2)他の湖北の仏像を知りたい向きには・・・

◇特別展 湖北の観音
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-335.html

◇近江路の神と仏1  三井記念美術館 快慶 石山寺多宝塔本尊大日如来坐像
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-338.html

◇近江路の神と仏2  三井記念美術館 善水寺誕生釈迦仏立像
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-339.html

◇近江路の神と仏3  三井記念美術館 報恩寺観世音菩薩立像
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-340.html

◇近江路の神と仏4  三井記念美術館 吉祥天立像と女神坐像ほか
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-341.html

◇近江路の神と仏5  三井記念美術館 聖衆来迎寺 国宝「六道絵」ほか
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-342.html 【“観音の里の祈りとくらし展Ⅱ-びわ湖・長浜のホトケたち-”の続きを読む】

仏像によるイタリア使節団!

毘沙門天像 湛慶作(鎌倉時代)

湛慶の毘沙門様ほか日本の仏像がイタリア・ローマへ。

【以下は引用】
文化庁主催海外展「日本仏像展」の開催

文化庁では,平成28年7月から9月にかけて,イタリア共和国ローマ市のクイリナーレ宮美術館において「日本仏像展」を開催します。

1.開催目的・概要

 平成26年6月,イタリア共和国で行われた日伊首脳会談において,平成28年の日伊外交関係開設150周年等を契機として,両国の文化・人的交流を飛躍的に拡大することで合意し,その一環として日本の仏教美術に関する展覧会の開催を安倍総理からレンツィ首相に提案しました。
 6~7世紀に朝鮮半島や中国より伝えられた仏教彫刻は,10世紀以降に題材や表現の上で独自性を強め,平安後期には優美さを至上価値とする王朝美術を成立させ,次の鎌倉時代には迫真的で力強く,またそれまで日本彫刻の総決算とも捉えられる豊かな内容をもつ彫刻が生み出されました。各時代におびただしい数の仏像が造られ,現在までに多数の作品が伝えられています。
 この展覧会は,そのような日本仏教彫刻の特色をよく示し,また異なる文化を有する観覧者にも共感をもって眺められるような,飛鳥時代から鎌倉時代までの作品21件(35点)を選び展示します。

2.主催・後援

主催:文化庁,パラエクスポ財団(クイリナーレ宮美術館)後援:イタリア文化財・文化活動・観光省

3.会期・会場
開会式:平成28年7月28日(木)一般公開:平成28年7月29日(金)~平成28年9月4日(日)会場:クイリナーレ宮美術館(イタリア共和国・ローマ市)

4.出品件数
 21件(35点)
http://www.bunka.go.jp/koho_hodo_oshirase/hodohappyo/pdf/2016041901_besshi01.pdf

深大寺 釈迦如来倚像2
重要文化財釈迦如来像(飛鳥時代)

薬師如来像 国宝
国宝薬師如来像(平安時代)

梵天像 奈良時代 重文
重要文化財梵天像(奈良時代)

http://www.bunka.go.jp/koho_hodo_oshirase/hodohappyo/pdf/2016041901.pdf 【“仏像によるイタリア使節団!”の続きを読む】

日韓国交正常化50周年記念 特別展「ほほえみの御仏―二つの半跏思惟像―」

日韓半跏思惟像3

東博に二度通って、日韓国交正常化50周年記念 特別展「ほほえみの御仏―二つの半跏思惟像―」を観た。すでに韓国で先行開催されており、東京はその後半にあたる。

http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-476.html

さまざまな思いが去来した。まず、概要については、写真をふくめて、今回の展覧会の模様を丁寧に書いてある以下のブログ(祗是未在)を参照。

http://butszo.jp/2016/07/4229/

結論からいえば、韓国からの「半跏思惟像」(三国時代・韓国国宝78号、銅像鍍金 像高82.0cm 坐高50.75cm)は本当に素晴らしいものだと思った。高貴にして優雅なるお姿に心から魅了された。

一方で、中宮寺「半跏思惟像」(伝如意輪観音、飛鳥時代・国宝、像高167.7cm 坐高87.9cm)は照明のあてかたに大いに疑問を感じた。両像ともに同一条件で展示することを旨とされたのかも知れないが、中宮寺観音にあたる照明が補正なく上からすぎて、額の照り返しが目につき、逆に目元がぼやけて受け口に見えるといった案配であった。1階の映像コーナーで見る本来のお姿に比べて、その清楚な印象が損なわれて誠に残念であった(拙稿「光と仰角」を参照)。

◆「光と仰角」の大切さ
(参考1) http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-192.html

一方で、韓国国宝78号の由来は誰しもが気になるところだが、その「発見」と「保護」は1910年代との指摘は、事実なら経緯をふくめて衝撃的である(下記、辻本武 tsujimoto blog の詳細連載などを参照)。

http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/07/07/8127143

さて、そうした形而下の煩いは措くとして、「ほほえみの御仏―二つの半跏思惟像―」という名称はよく考え抜かれていると思う。
ただでさえ、剣呑でぎくしゃくしがちな日韓関係を「ほほえみの」という言葉でやわらかく包み込み、「半跏思惟像」という、文字通り沈着冷静、深く黙考する仏さまにある種の象徴的な意味をもたせているように感じたのは、小生のみではないだろう。

以下、4つの拙稿を添付。韓国国宝78号を拝顔したことの意味、時間をかけてよく考えてみたい。

◆中宮寺観音について
(参考2) http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-416.html

◆飛鳥彫刻の独自性
(参考3) http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-190.html

◆渡来人の系譜 3つのファクター ー百済・新羅・中国(隋唐)
(参考4) http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-445.html

◆渡来人の系譜 百済・高句麗と「亡命準備」論
(参考5) http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-446.html

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