大和古仏探訪

京阪神を中心に内外の古仏についていろいろと書いてみたいと思います。

長谷川宏『日本精神史』

阿修羅像5

長谷川宏氏では、ヘーゲル『哲学史講義』(河出書房)などの新翻訳をかつて入手した。この方は気鋭のヘーゲル研究家と思っていたのだが、今回、以下の本を出版。その領域の広さに驚くとともに、是非、読んでみたいと思っている。もっとも、ヘーゲル『美学講義』『精神現象学』『法哲学講義』なども非常に高価であったし、今回の上下2冊本(上下巻ともに各2800円)も安くはない。ちょっと入手に逡巡しているのだが、内容は以下のとおり興味津々である。

【以下は引用】
『日本精神史』を書き終えて 文/長谷川宏(哲学者)

■奈良へ

初めて奈良の仏寺・仏像を見に行ったのは、1974年、34歳の春のことだ。それまでどうして奈良に足が向かなかったのか、振り返っても確たる理由が見つからず、そういうめぐり合わせだったと思うしかない。

前の年にわたしの塾に通う中学3年の男子2人が、卒業記念にと奈良を旅行し、それがなんともすてきな旅だったから今年は是非いっしょに、と強く誘ってくれたのがきっかけの古都訪問だった。

最初に訪れたのが西の京の薬師寺だった。金堂が工事中で、薬師三尊像は入口近くの仮りのお堂に安置されていた。がらんとした空間に無造作に置かれた黒光りする三体の仏像。思いがけぬ出会いに衝撃を受けた。

圧倒的な力強さと安定感と精神性を具えた像を目の前にして、その場を動けなくなった。右に左に移動しつつ1時間ばかり三体と向き合い、目を凝らし思いにふけり、ようやくそこを立ち去る心の落ち着きが得られた。

4、5日の奈良旅行だったが、薬師寺のあとも溢れるほどの仏寺と仏像の魅力を身に浴びて、奈良は、もう一つの古都・京都と並んで、わたしの美意識の核心をなす場所となった。その年以降、いまに至る41年間、春先に欠かさず奈良を訪れることになったのも、美意識の自然な導きによるものだった。

こんどの『日本精神史』では、奈良の寺では飛鳥寺、法隆寺、興福寺、東大寺などを、仏像では百済観音像、(中宮寺)半跏思惟像、阿修羅像、鑑真和上像、東大寺南大門金剛力士像、無著・世親像などを取り上げることになったが、それらを論じる際に自分の思考がある種の安定感とゆとりをもって前へと進むことに、わたしは長年の旅の経験が確かに生きていると感じることができた。

芸術作品とのつき合いは親炙こそが王道だとつねづね思っているわたしは、その実感を心底うれしく思った。

■三内丸山遺跡から『東海道四谷怪談』まで

とはいえ、こんどの本のめざすところが、美術、文学、思想の三領域を相手としつつ、縄文の三内丸山遺跡、火炎土器、土偶から江戸晩期の『東海道四谷怪談』に至る精神の流れを大きく展望することにあるとすれば、慣れ親しんだ文物や文献のあいだをめぐり歩いて、それで事が片付くわけにはとうてい行かない。

必要とあらば、なじみの薄い分野に乗り出し、不慣れな対象に向き合わねばならない。例を挙げれば、写経や『今昔物語集』や「蒙古襲来絵詞」などがそうで、おのれの知識不足と思考の不如意を思い知らされて、なんども原資料に当たり、構想の組み変えを図ったりもした。

その一方、もともと関心があり、折に触れて思いをめぐらしてきた作品について、いざ論の対象として本腰を入れて取り組んでみると、いままで気づかなかったおもしろさや深さが見えてくる、という幸運な例も少なくなかった。

絵でいえば「一遍聖絵」や与謝蕪村の南画がそうだし、文学でいえば『伊勢物語』や世阿弥の能楽論が、思想でいえば「御成敗式目」や伊藤仁斎の『童子問』がそうだった。

そうした魅力の発見は一通り原稿を書き上げたあとも続いて、校正の仕事といえば神経の尖るしんどい作業となるのが通例だが、「一遍聖絵」を扱った22章や、能楽論を扱った25章では、初校ゲラでも再校ゲラでも、もとになる絵や文章に改めて当たり直す作業にしばしば心楽しさや新鮮さを覚えたのだった。

■日本の精神の流れをたどる

さて、わたしの採用した精神史の方法について述べておかねばならない。

日本史上に名の残る美術品、文学作品、思想書を大きく見わたし、そのなかから、作品としてすぐれた出来栄えを示していること、時代を語るにふさわしい内容を具えていること、という二つの条件を満たすものを厳選し、その一つ一つをおおむね年代順に論じつつ精神の流れをたどる、という方策を取った。

取り上げた文物・文献は百数十点に及ぶが、大切なのは、それらを相手とするとき、時代の精神を体現する史料として対峙する、という姿勢と、作り手の思いのこもった完成度の高いすぐれた作品として鑑賞する、という姿勢とをともども堅持することだった。

一方の面を文物・文献の史料性と名づけ、他方の面を作品性と名づけるとすれば、自分の対象との向き合いかたが作品性に傾きやすいことが執筆途中から意識され、史料性に意を用いるようあえて自分に言いきかせる場面が一再ならずあった。

ともあれ、十数年の労苦がこうして一つの形を取ったことをいまは素直に喜びたい。場面場面で自分一個の作品評価や社会的・文化的価値判断の表明を辞さなかったから、読者の側に異見や異論も多いことと思う。

執筆中も、原稿の一部を読んでくれた友人・知人の異見・異論が考えを進める上で大きな刺激となった。異見や異論の喚起をもふくめて、この本が精神のゆたかさへと人びとを導くものとなってくれたらと思う。

読書人の雑誌「本」2015年9月号より

長谷川宏(はせがわ・ひろし)
1940年生まれ。東京大学大学院哲学科博士課程修了。大学闘争に参加後アカデミズムを離れ、学習塾を開くかたわら、在野の哲学者として活躍。とくにヘーゲルの明快な翻訳で高く評価される。主な著書に、『ヘーゲルの歴史意識』(紀伊國屋新書)、『同時代人サルトル』『ことばへの道』(以上、講談社学術文庫)、『新しいヘーゲル』『丸山眞男をどう読むか』(以上、講談社現代新書)、『初期マルクスを読む』(岩波書店)など。またヘーゲルの翻訳として、『哲学史講義』(河出書房)、『美学講義』『精神現象学』(レッシング翻訳賞、日本翻訳大賞)『法哲学講義』(以上、作品社)などがある。

http://gendai.ismedia.jp/articles/-/45228

http://www.mammo.tv/interview/archives/no264.html

【以下は抜粋引用】

Q:塾での教育のかたわら、先生自身の研究の成果としてもっとも有名なのは、ヘーゲルの翻訳かと思います。現在は、どういう研究をされているのですか?

A:いまは日本精神史を研究していて、いよいよ書き始めようかというところです。スタートはヨーロッパの近代でしたが、そこからさらに視野を広げていきたいわけです。

ヘーゲルに打ち込んで、かなりはっきりとその輪郭が見えてきたので、さらに研究することによってその奥へ行くことも可能です。特にヘーゲルと付き合いは長く、さらに読めば理解もますます深まるだろうけれど、まあもういいか、ほかのことをやろうと思った。

その上で、自分が生きているこの場でのものの考え方を開いていけないか。その開く手立てとして、日本精神史を考えようと思いました。縄文から始めて江戸の終わりまでやろうと構想しています。

Q:「この場でのものの考え方」が、なぜ日本精神史という全体を扱うことにつながったのですか?

A:きっかけは奈良でした。高校の頃から奈良時代の古典や美術が好きで、以来毎年奈良を訪れていまして、どきどきする楽しさがいつもあります。これは自分ひとりの問題ではなく、奈良文化のいちばん優れた頂点に触れている感触がもたらすものじゃないか。その感触を言葉にすればどうなるか。
作品におもしろさを感じるだけでなく、それを生み出した時代、人々の思いとか、そういうものにも触れておもしろいと思っているわけです。文物と交流することの持つ意味を考えたいのです。

たとえば阿修羅像を見れば、「いったいどういうつもりでこんな美しい青年像をつくったのだろう。そのとき青年とは、どういうものとして考えられていたんだろう」とか「異国でつくられた仏に対し、仏師はどういう気持ちでいたんだろう」と思うわけです。

美術的に優れた作品に対し、いろんな観点からものを言えますが、僕としては、それを生んだ時代になるべく肉薄して展開していきたい。

いまの日本とつながりながらも、それとは違う独自の時代のあり方に触れたときの手触りは、なかなかうまくいえないものですね。

言えないけれど手触りが明らかに違う。それを「うまく言えたらいいな」という思いは、関心を持っている人のうちのかなり多くに共有されていると思います。少しでも、言葉にできる糸口でもつかめたらうれしいです。

Q:先生の試みは、自分の知らないことへの挑戦という意味で、本来の学ぶ姿ではないかと思います。昨今、学習の場において、「情報」という語が重用されています。学ぶことと情報を活用することの違いについて、どう考えていますか?

A:情報はパッケージされ、確定されたものをただ受け取るだけでしょう。僕がいちばん充実感を味わうのは、奈良に毎年行きながら、同じことの繰り返しでなく、慣れ親しむことでわかってくる貴重さ、不思議さに出会うときです。親しむうちに自分の身体ごとどう対象と向き合うか、その向き合い方がわかってくる。

たとえば「法隆寺は午前中に行ったほうがいいし、できれば晴れの日がいい」とわかってくる。開門の9時とともに、まず五重塔と金堂を訪れ、そこから先へどう進むかは、いわば自分の中で奥の手のようにして持っている。それは何年も行かないとわからないことで、初めての人にはできない。慣れ親しむことで、相手の見え方が違ってきます。そうやって自分の付き合い方が広がっていくことが快感です。

人間関係も同じですね。塾を初めて40年の付き合いの中で、たとえば前は建築の仕事をやっていたけれど、いまはガスや水道の修理の仕事をしている人だとか、教師をやっていたけれど、いまは書店で本を売っている人とかがいます。人生の転機を迎えた人との付き合いがおもしろいなと感じますね。

運慶北円堂5

中宮寺観音

中宮寺観音2
 あまりにも有名な仏さまなので解説、感想はあまたある。まずは、JR東海のものから。

【以下は引用】

聖徳太子ゆかりの尼寺。中宮寺縁起

日本最古の尼寺・中宮寺は、聖徳太子が生母・穴穂部間人皇后(あなほべはしひとこうごう)のために創建したといわれています。
現在の中宮寺は、法隆寺東院伽藍の隣にありますが、創建当時は現在地より500メートルほど東に位置し、金堂、塔を持つ立派な伽藍だったことが発掘調査によってわかりました。
天平時代の文書に「聖徳太子創建七ヶ寺」のひとつとの記載が残る太子ゆかりの中宮寺は、平安、鎌倉、室町の時代の流れのなかで幾度かの荒廃と再興を経験し、1602(慶長7)年、慈覚院宮を初代門跡に迎えました。以来、門跡尼寺として今日に至っています。門跡とは、皇族や貴族が住職に就いた場合の呼称であり、そのような格式の高い特定のお寺を門跡寺院と称します。

1400年の「美笑」。本尊 如意輪観音像(国宝 菩薩半跏像)

中宮寺の本尊は、とても美しい観音さま。右手をそっと頬に当て、優しい微笑みを浮かべる如意輪観音像(国宝 菩薩半跏像)は、人々の信仰の対象として敬われてきたばかりでなく、飛鳥時代の彫刻の最高傑作としても有名です。
神秘的な黒い光沢を放つ如意輪観音像ですが、その色彩は下塗りの漆の色が現れたもので、造立当時は現在とは異なり、全身が鮮やかに彩色(さいしき)されていました(身体は肌色だったともいわれています)。また宝冠や華やかな装飾具を身に着けていたと推測されます。そして、如意輪観音像が愛され、称賛されている理由は、何といっても魅惑の微笑。優しさに満ちた表情は、「古典的微笑(アルカイックスマイル)」として国際的にも高く評価されており、エジプトの「スフィンクス」、レオナルド・ダ・ヴィンチ作「モナ・リザ」と共に「世界の三つの微笑像」と呼ばれています。
中宮寺を訪ねて如意輪観音と向かい合ってみてください。1400年のあいだ、人々を魅了してきた美しいほほえみが待っています。
http://nara.jr-central.co.jp/campaign/chuguji/special/

中宮寺観音N3

 概説はおおむねこうしたものだが、では、中宮寺観音はいつできたのか?「七世紀半ば過ぎの孝徳斉明朝ごろ」という説がある。

【以下は引用】

中宮寺の創立について 大橋一章

はじめに
 奈良斑鳩の中宮寺はわが国最古の尼寺の一つで、今も美しい半跡
思惟像の彫刻と色鮮やかな刺繍製品の天寿国繍帳が伝来している。
ともに国宝に指定された飛鳥時代を代表する貴重な文化財である。
 現在の中宮寺の伽藍は法隆寺の東院にあたかも寄り添うがごとく
建っている。これが当初のものでないことはいうまでもない。創建
の地は現在地から東方四百メートルのところで、そこには今も当初
の金堂と仏塔の基壇といくつかの礎石を見ることができる。かつて
この地の発掘調査をした結果、中宮寺は創建法隆寺たる若草伽藍と
同じ時代に建立されたことが明らかとなったが、文献史料によって
直接中宮寺の創立時代を明らかにすることはできない。
 私は平成元年九月『斑鳩の寺』と題する小著を刊行し、その中で
中宮寺の創立についても私見を述べたが、概説書のため充分に論じ
尽せなかった。そこで、この小論ではあらためて中宮寺の創立に
ついて、発掘結果や聖徳太子の七寺建立説話と講経説話を通して述べ、
さらに誰がいつつくったのか、また本尊の半蜘思惟像制作の担当工
房についても言及することにしたい。
<中略>
 それ故、私は本像を止利式仏像を制作してきた造仏工たちが、法
隆寺金堂の釈迦三尊のような厳格な雰囲気のものから同じく金堂の
薬師像のような柔和な雰囲気の仏像へと変化していたその延長線上
でつくられたものと把えたい。前章で述べたように、かつて飛鳥寺
を造営していた造寺工と造仏工たちは法隆寺の造営にも参加し、法
隆寺の工事が一段落するとさらに四天王寺へと移ったと思われる。
斑鳩にのこり法隆寺を完成させた工人たちが、中宮寺をはじめとす
る斑鳩の寺院の造営を担当したであろうが、第一世代の造仏工の鞍
作鳥は推古三十年太子の病気平癒のために釈迦三尊をつくった。お
そらく第二世代の造仏工たちが中宮寺本尊のこの像をつくったので
あろうが、法隆寺という寺家が中宮寺造営を推進したのであれば、
金堂の規模は小さくなり、それに合せて本尊も丈六級の金銅仏から
等身の木彫、すなわち樟像として制作することになったのであろう。
さらにいえば、柔和な雰囲気の本像に止利式金銅仏の厳格な特色で
ある鋭利でシャープな彫り口が認められるのもこうした経緯のため
ととわれる。制作年代は中宮寺の造営が進まず、また法隆寺金堂の
薬師像が七世紀半ばごろとすると、本像は薬師像よりは後の七世紀
半ば過ぎの孝徳斉明朝ごろになろうか。

https://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/8524/1/80775_46.pdf

中宮寺菩薩(拡大)

この完成された半跏思惟像は、広隆寺の半跏思惟像と共通点が多い。

1. どちらも聖徳太子ゆかりの寺院にある。
2. 形式が半跏思惟像で共通する。
3. 両像とも木彫である。
4. 製作年代が飛鳥時代頃と近似している。
5. 尊顔からうける凛然としたイメージがある。

中宮寺観音

一方で、異なっている点もある。

1. 広隆寺像は朝鮮半島請来、中宮寺像は本邦でつくられた可能性が高い。
2. 材質は、広隆寺像はアカマツ、中宮寺像はクスノキである。
3. 工法は、広隆寺像は一木造り、中宮寺像は特異な寄木造りである。
4. 形式は、広隆寺像はやや古拙、中宮寺像はプロポーション的にもより洗練されている。
5. 修復では、広隆寺像の尊顔はかなり削られて整えられており、中宮寺像の尊顔はよりふくよかである。

中宮寺観音

そこから以下をいささか大胆な私見として指摘したい。

1. 広隆寺像を相当程度、参考として中宮寺像はつくられた。
2. 中宮寺像が「一木造ではなく、頭部は前後2材、胴体の主要部は1材とし、これに両脚部を含む1材、台座の大部分を形成する1材などを矧ぎ合わせ、他にも小材を各所に挟む。両脚部材と台座部材は矧ぎ目を階段状に造るなど、特異な木寄せを行っている」※1のは、特定のクスノキを用いたかったからではないか。おそらく聖徳太子と強いゆかりの木材が選定されたのではないか。
3. 上記、寄木造りをもちいたもうひとつの理由は、体内になんらかの太子ゆかりのものを残したかったからではないか(歴史的な修理過程でそれは失われた可能性があるのではないか)。
4. 尊顔は、太子その人ではなく、太子の妃を写した可能性がある。
5. 当初の造像の仏師、工房の技量は圧倒的にすばらしく、その後の補修も広隆寺像にくらべて慎重、丁寧になされたゆえに今日の姿があるのではないか。


※1 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AE%AE%E5%AF%BA

【中宮寺 菩薩半跏像の魅力】
http://blog.livedoor.jp/shokkou/archives/1809992.html
【広隆寺&中宮寺 アンソロジー】
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-226.html

中宮寺菩薩

謹賀新年

<唐招提寺 夜景

ことしの「ゆく年くる年」は唐招提寺の夜景からはじまりました。金堂の巨大な三尊の雄姿に久しぶりに映像でふれました。たくさんの善男善女が大晦日、新年のお参りにきています。思わず、(とても寒いだろうけれど・・・)いま奈良にいきたいなあと独り言です。
本年も稚拙な仏像探索を続けます。どうぞよろしくお願いします。

平成26年(2014)年 元旦
【“謹賀新年”の続きを読む】

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謹賀新年

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新年あけましておめでとうございます。本年が実りある佳き1年でありますように。
ことしもどうぞよろしくお願いいたします。

2013年 元旦


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