大和古仏探訪

京阪神を中心に内外の古仏についていろいろと書いてみたいと思います。

韓国と日本の半跏思惟像が出会う

日韓半跏思惟像7
左から、6世紀に朝鮮半島で作られた国宝78号金銅半跏思惟像と、日本の国宝で7世紀に作られた奈良の中宮寺の木造半跏思惟像=キム・ソングァン記者//ハンギョレ新聞社

とても注目される展示会が開かれる。まずは、関連記事の引用から。

【以下は韓国側記事から引用】

韓国と日本の半跏思惟像が出会う

韓国と日本の古代美術を代表する半跏思惟像2点が、史上初めて出会った。 6世紀に朝鮮半島で作られた国宝78号の金銅半跏思惟像と、日本の国宝で7世紀に作られた奈良中宮寺の木造半跏思惟像が23日、ソウル龍山(ヨンサン)の国立中央博物館企画展示室で互いに向かい合う形で公開された。

韓日修交50周年を記念して24日から開かれる「韓日国宝、半跏思惟像の出会い」展で披露される二つの仏像は、神秘的な微笑を浮かべ思索に浸る姿を見せた。 素材が異なるだけに、表情の印象もそれぞれ独特だ。 二つとも思索する悉達多(シッタルタ)太子の姿を形象化した半跏像だが、子供のような表情に曲がった身体と指の描写が秀逸な国宝78号像と、鈍く黒光りする双髷とうすい目元が印象的な中宮寺の像は、造形的に際だった差異を見せた。

京都の広隆寺仏像と共に日本の半跏思惟像の名作に挙げられる中宮寺の像の海外展示は今回が初めてだ。 展示は6月12日までの3週間、休館日なしで続く。 6月21日~7月10日は東京の国立博物館本館へ場所を移して披露される予定だ。

ノ・ヒョンソク記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
韓国語原文入力:2016-05-23 21:05

1400年の時を経て一堂に会した韓日の至宝

広さ80坪(約260平方メートル)の展示場は暗く、2体の仏像だけに光が当てられている。そっと目を伏せて物思いにふける2体の半跏思惟(はんかしゆい)像が、10メートルの距離で向かい合っている。韓国の国宝第78号「金銅半跏思惟像」と日本の国宝「奈良中宮寺・木造菩薩(ぼさつ)半跏像」。韓国と日本の古代仏教彫刻を代表する2体の半跏像が、1400年の時を経て初めて一堂に会した。

韓国国立中央博物館(李栄勲〈イ・ヨンフン〉館長)企画展示室で24日から始まる特別展「韓日国宝半跏思惟像の出会い」は、この2体の仏像だけのために企画された展示だ。韓国の国宝第78号は、西暦6世紀に作られた三国時代を代表する仏像で、中宮寺木造菩薩半跏像は7世紀の飛鳥時代を代表するもの。どちらの仏像も、当時流行した弥勒信仰に基づいて作られた半跏思惟像の名品だが、材質や大きさ、細部の表現などは明らかに異なる。

まず材質。韓国の国宝78号は金銅で鋳造された。華麗な宝冠や装身具、美しく流れ下るような天衣の裾、S字のしわが寄った着衣後面の表現などが際立っている。金銅を一定の厚みで鋳造できた当時最先端の鋳造技術が、優れた造形と調和を実現した。一方、中宮寺木造菩薩半跏像は、クスノキを削って作られた。11個のクスノキの部材を組み立てるという手法を採り、よく見ると接合部の線が分かる。中宮寺の仏像が国宝78号より暗めに展示してある理由も、材質の差にある。同博物館のクォン・ガンミ学芸研究士は「中宮寺像は温度・湿度の変化に弱い木造なので、日本側から『100ルクス以下で展示してほしい』と要請された。韓国の国宝78号は、それよりやや明るく展示した」と語った。

高さは、中宮寺像の方が国宝78号の2倍以上もある。国宝78号は82センチ、中宮寺像は167.6センチ。ミン・ビョンチャン学芸研究室長は「国宝78号は小さいが、ラインが軽快で力がある。一方で中宮寺像は、丸くて柔らかさがある。中宮寺像は、見たところ顔の表情が表れていないけれど、眺め続けていると温和なほほ笑みが見える、というところに日本人特有の性質がうかがわれる」と語った。

今回の展示を推進してきた大橋一章・早稲田大学名誉教授は「『双子の仏像』と呼ばれる韓国の国宝83号半跏思惟像と日本の広隆寺・木造弥勒菩薩半跏像が一緒に展示されたらよかったのだが、広隆寺像は新羅で作られた仏像なので、韓日両国を代表する半跏像を比較・鑑賞するという趣旨には今回の2体の方が合っている」と語った。展示は6月12日まで。韓国国立中央博物館での展示終了後は、日本の東京国立博物館に移り、6月21日から7月10日まで展示される。

許允僖(ホ・ユンヒ)記者
朝鮮日報/朝鮮日報日本語版

【萬物相】韓国と日本の半跏思惟像

日本人はその仏像を「絶対秘仏」と呼ぶ。長野県の善光寺にある高さ40センチを少し上回る三尊仏のことだ。6世紀に百済が日本に仏教を伝える際、信仰の象徴として送られたもので、日本では最も古い仏像だ。善光寺は6年に1度、この仏像を一般に公開する。「仏像に触れば願いがかなう」という信仰もあることから、日本中から信者が訪れる。しかし彼らが実際に触ることができるのは、金堂の中に安置された仏像と長い糸でつながった庭の柱だけだ。それでも多くの人たちが柱を抱いて祈っている。その様子はまさに壮観だ。

奈良県の法隆寺にある百済観音像も1000年以上にわたり保存されている。2メートル以上の8頭身に、指先まで細かく再現した職人の繊細な腕前を目の当たりにすると「百済の美」を改めて思い起こす。日本はこの仏像を「くだらかんのん」と呼ぶが、それでも「日本の美学の精髄」として世界に誇っている。同じ法隆寺の金堂釈迦(しゃか)三尊像も日本が誇る国宝だ。7世紀に作られたものだが、背面には「止利」という制作者の名前が刻まれている。韓半島(朝鮮半島)から渡ってきた職人の子孫とされている。

奈良県は日本における古代史の中心地だ。古代の前半期に当たる飛鳥時代は韓半島の文明を受け入れ、国が大きく発展した時期だった。飛鳥地域を実際に歩けば、古代の韓国人が伝えた芸術の魂を実感することができる。中には韓国の慶州や扶余よりも多くの遺跡が残る所もある。東北アジアの奥地で、なおかつ外国からの侵略や略奪を逃れることができたからだろう。またこれらをしっかりと管理し保存してきた日本の貢献も否定できない。

昨日、奈良県の中宮寺に所蔵されている半跏思惟(はんかしゆい)像が、韓国の半跏思惟像と共に国立中央博物館に展示された。これも飛鳥時代の作品だ。法隆寺の百済観音像と同じく木造であるにもかかわらず、1000年以上保存されている。今回、海を越えて自らの源流と向かい合ったわけだが、像の仏様もにっこりと笑みを浮かべたのではないだろうか。日本の文化財といえば、日本の略奪行為や収奪をまずは思い浮かべる。そのため今回の展示は一層新鮮で喜ばしいものだった。

日本の古代史は飛鳥時代を経て平安時代へと続く。奈良から京都まで歴史の現場を実際に歩くと、韓半島文明の影響が急速に弱まることが分かる。外来文化を昇華し、輝かしい独自の文化を創り上げるプロセスは、日本の古代も韓国と共通している。中宮寺半跏思惟像は、日本がこのように自立していく文化史のどこかに位置しているはずだ。今回の展示が、開かれた心で韓日両国交流の歴史を見つめ直す前向きな機会になることを期待したい。

鮮于鉦(ソンウ・ジョン)論説委員
朝鮮日報/朝鮮日報日本語版

http://www.hani.co.kr/arti/culture/culture_general/745094.html 訳J.S(682字)

日韓半跏思惟像4

【以下は日本側記事から引用】

日韓の国宝の仏像そろって展示 ソウルで開催へ:NHK

日本と韓国の仏教を通じた交流の歴史を物語る両国の国宝の仏像をそろって特別に展示する初めての催しが、24日からソウルで開かれます。

この特別展は、日本と韓国が国交正常化して去年で50年を迎えたことを記念し、東京国立博物館と韓国の国立中央博物館が中心となって24日からソウルで開くもので、これを前に23日、内外のメディアに公開されました。
会場には、日本で7世紀に作られた奈良県の中宮寺の本尊である国宝の「菩薩半跏思惟像」と、韓国で6世紀に作られた韓国の国宝「金銅半跏思惟像」が、向かい合う形で展示されています。

いずれの仏像も、台座に腰掛けて右足を左の膝の上に組み、右手の指をほおに添えて物思いにふける姿を表現しており、その様式はインドから中国へ、そして朝鮮半島を経て日本へと伝わったとされ、仏教を通じた両国の交流の歴史を物語っています。
ソウルで記者会見した東京国立博物館の銭谷眞美館長は「日韓の至宝が出会うこの機会が両国の友好と絆を深める機会となってほしい。一人でも多くの人に見ていただきたい」と述べました。
この催しは、ソウルの国立中央博物館で来月12日まで開催されたあと、東京国立博物館でも、来月21日から7月10日まで開かれることになっています。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160523/k10010531931000.html (動画あり)

日韓の「ほほえみ仏像」、初の共同展示 ともに国宝指定:朝日新聞

日韓でそれぞれ国宝に指定されている仏像「半跏思惟像(はんかしゆいぞう)」を1体ずつ共同で展示する特別展が24日、ソウルの国立中央博物館で始まる。ほほえみを浮かべているような日韓の仏像の美を通して、文化交流を深めるのがねらい。日本では6月21日から7月10日まで東京国立博物館で展示される。

特別展は韓国の国立中央博物館と東京国立博物館などが主催。主催者側によると、半跏思惟像は、左足を下げ、右足をそのひざの上に組んで座り、右手をほおに添えて物思いにふける仏像をいう。インドから中国、朝鮮半島をへて、日本に伝わり、日本や朝鮮半島では、6~8世紀に多数作られたとされる。

今回展示される日本側の半跏思惟像は中宮寺門跡(奈良県)に伝わる国宝で、海外で公開されるのは初めて。韓国側は国立中央博物館が所蔵し、国宝として広く親しまれているという。この2体の仏像が一緒に展示されるのは初めて。

23日は特別展の開幕に先立ってメディアに公開され、韓国の李栄勲(イヨンフン)・国立中央博物館長が「(2体の仏像が展示されるのは)歴史的な出会いであり、韓日文化交流に新たな転機となる」とあいさつした。銭谷真美・東京国立博物館長も「両国の交流の結実とも言える2体の仏像が大切に守り伝えられ、展示されるのは日韓両国の歴史と意義を象徴している」と語った。(ソウル=東岡徹)

国宝仏像前に献茶式=日韓2体の同時展示開催-韓国:時事通信

【ソウル時事】日韓両国で国宝の半跏思惟像2体を同時展示する特別展が24日から、ソウルの国立中央博物館での展示を皮切りに開かれる。23日には開眼供養と献茶式が行われた。
半跏思惟像は右足を左足の膝の上に組み、右手を頬にあてて思案する姿の仏像。インドから伝わり、日本や朝鮮半島では6~8世紀に制作が始まったという。日本からは中宮寺(奈良県斑鳩町)の像が出品された。国外で初の展示となる。

23日には開会式とともに中宮寺や韓国の尼僧による開眼供養、茶道・裏千家の千玄室大宗匠による献茶式が行われた。森喜朗元首相と別所浩郎駐韓大使も参加した。
特別展はソウルで24日~6月12日、東京国立博物館(上野)で6月21日~7月10日まで開かれる。同館の銭谷真美館長は「友好と絆を深める一助になれば」と話した。(2016/05/23-19:31)

日韓半跏思惟像3 【“韓国と日本の半跏思惟像が出会う”の続きを読む】

飛鳥大仏 いま甦るその実像

飛鳥大仏 2

以前に以下の記事(2012年10月20日)を読んだ。「飛鳥大仏 ほぼ造立当初のままの可能性 文学学術院・大橋教授らがX線分析、従来の見解覆す研究成果」(https://www.waseda.jp/top/news/6373)。
今回の読売新聞の記事はそれを踏まえたものであろうか。それはさておくとしても実に興味深い。


【以下は引用】
鎌倉期焼損も、造立の姿残す

 日本最古の本格的寺院、飛鳥寺(奈良県明日香村)の本尊・銅造釈迦如来坐ざ像(通称・飛鳥大仏、重要文化財)の材質調査に、藤岡穣ゆたか・大阪大教授(東洋美術史)らの研究グループが、今夏から取り組む。鎌倉時代に火災に遭い、ほとんど原形をとどめていないとも考えられてきたが、昨年の予備調査で造立当初の部分があることを確認。頭部についても当時の造形のまま残っている可能性が高く、再評価につながりそうだ。

 飛鳥大仏は像高275センチの鋳造仏。渡来系の仏師、鞍作鳥くらつくりのとり(止利とり仏師)が手がけ、609年に完成したとされる。奈良・東大寺の大仏造立(752年開眼)を100年以上遡り、文献上、日本で制作されたことが確認できる最初の仏像だ。

 1196年、落雷による火災で、大仏が安置されていた金堂が焼失。大仏も大きく傷ついたとされる。戦前は国宝だったが、1950年に文化財保護法が施行された際、「残存状態が悪い」と判断され、国宝再指定はされなかった。

 藤岡教授らは2013年度から、大阪市立美術館所蔵の誕生釈迦仏立像(飛鳥時代)など、5~9世紀を中心とする金銅仏約500点の調査に取り組んできた。その一環として昨年8月、この大仏の予備調査を実施。金属の成分がわかる蛍光エックス線を用いて、大仏の表面約20か所を調査した。

 その結果、右手の指と手のひらは銅87~88%、錫すず5%、鉛4%で、飛鳥時代の金銅仏の成分と特徴が一致。造立当初のものが残っていると判断した。

 予備調査では足場が組めなかったため、頭部の成分分析はできなかったが、表面は右手とよく似た仕上がり具合となっている。このため、頭部についても、造立当時の様式を保っているとみられるという。

 頭部には補修した痕跡が多数残っており、これまでは火災で大きく損傷した証拠だとされてきた。これについても、藤岡教授は「当時の技術が未熟だったため、鋳造中に欠損してしまった部位を、造立時に銅材で補った跡もあるのではないか」と指摘。大仏の顔の一部には鋳造後に金メッキを施された跡が残っており、「完成すれば、補修跡は分からなくなると考えたかもしれない」と推測する。

 本調査では、足場を組んで頭部を含む全体を詳細に分析。造立当時の部分と補修部分を区別するとともに、補修が行われた時期についても検討する。

 藤岡教授は「飛鳥大仏は我が国の仏教史上、最も重要な仏像の一つ。実態を解明したい」と話している。

2016年01月30日  読売新聞
http://www.yomiuri.co.jp/osaka/news/20160130-OYO1T50015.html

飛鳥大仏images

興福寺 仏頭  東京藝術大学大学美術館で拝顔

興福寺仏頭10

http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-369.html

  閉館近くならば、時間は短くとも人出を気にせず拝観ができると思って本日、家内と東京藝術大学大学美術館に足を運ぶ。3時40分すぎに入館したがなお結構な人でむせかえっている。しかし、ずっと仏頭のおあす3階につめて幾度も回遊しているうち、5時近くにはゆっくりと拝顔することができた。

 この仏さまについては、3年前の2010/05/07(金)にこう書いた。


http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-170.html

 いまから約40年前、この仏頭をはじめてみた時の衝撃が思い出される。いまでは想像のできないくらい粗末な宝物館で埃まみれ、無造作に置かれていたように記憶している。そして、沸々と疑問がわいてきた。なぜいま、こういう(無惨な)お姿で残っているのだろうか? 仏頭の大きさ(総高98.3㎝)から考えると、像全体の巨大さはいかばかりだろうか? 白鳳彫刻の同時代で似た仏像はあるのだろうか?・・・

 実は、そうした思いはいまもあまり変わっていない。この仏像の発見の経緯などを調べれば、いかに数奇な運命をたどってきたかがわかるが、その尊顔の素晴らしさから、これを破壊せず(鋳直さず)後世に残していこうという強い意思が働いたか、あるいはある種の呪術的な思いから須弥座の下に再度、安置されたのかも知れない。
 全体の像容の大きさは推して知るべしだが、現存の仏像では、作風はいささか異なり、一回り小さいかも知れないが蟹満寺釈迦如来像(像高約240センチの金銅像)がそのスケール感を「追体験」するうえではひとつの参考になるだろう。また、そのお顔についての類似作は、小さいけれど、法隆寺夢違観音、鶴林寺菩薩立像(聖観音)、盗難にあってレプリカしか残っていないが、新薬師寺香薬師如来立像の白鳳名品「3立像」の金銅仏が直観的に思いつく。

蟹満寺釈迦如来像
蟹満寺釈迦如来像 白鳳時代

 この仏頭の魅力は、頬のふくよかしさ、切れ長で凛々しき目元、アーカイック(古式)の笑いを消した、しかしどこか優しさを湛えたその表情にある。若々しく童子的な印象もあり、否、大人をも超越した神々しさもありといった両義性、それが微妙な均衡を保っている。さらに、観察者が、喪われた巨体を想像し、自ら見上げる姿を思い浮かべるとき、本来であれば、仏頭をこんなに間近で拝顔することはできないし、なにより合わせるべき目線の位置は決定的に異なることに気づくだろう。その1点だけでも他とは違った存在感がある。


興福寺仏頭2

 きょうは、仏頭を見上げながら(良い仰角の展示である)持統天皇とその時代についても少しく考えていた。
 これに関連し、2010/08/16(月)以下を本ブログに書いた。


【仏像彫刻試論3 政治との関係】
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-195.html

 仏像をつくる、祭るということは古代、中世にあって、いまとは比較にならないくらい重い政治的、祭儀的な意味をもっていた。ゆえに、それは時の政権の意思、庇護なくしてはなしえなかった。寺に仏像が祭られる以上、その寺がどのような位置づけで開山され、また社会的に機能したかが重要である。

 日本における造寺のはじまりは、蘇我一族によって主導された。596年法興寺(→飛鳥寺、日本書紀)、607年法隆寺(法隆寺金堂薬師光背造像記)などが創建されたのは蘇我馬子、厩戸(うまやど)皇子(→聖徳太子)らの皇族・蘇我ファミリーの仏教振興への強いリーダーシップあればこそである。日本書紀などの記述をどこまで信じるかどうかの問題は擱くとしても、587年蘇我VS物部の抗争(蘇我馬子による物部守屋討伐)が、崇仏、排仏を争点としてなされたと伝えられること自体の政治的な意味合いは実に大きい。

 その蘇我一族の強大な権勢を排除せんとしたのが中大兄皇子(→天智天皇)と藤原鎌足である。ここにも日本書紀の潤色があるかも知れないが、この二人の時代は661年白村江の敗戦など外交、内政上の非常な難局に直面していた。律令整備は独立国家としての存立上も不可欠であった。672年壬申の乱により大海人皇子(→天武天皇)の勝利は、その後、天武ー持統ー軽皇子(→文武)ー元明ー元正ー首皇子(→聖武)、光明子ー孝謙(称徳の重祚)まで約100年にわたり(政治的には別だが)「皇族系譜」としては<安定期>を迎える。

 そして、この100年こそ、いまにいたるまで、われわれがその遺産に感歎する白鳳・天平文化の象徴とでもいうべき仏像、建築の集積をみる。たびかさなる遷都については、以下のブログでも記してきたが、710年平城京(奈良)遷都後、はやくも同年(山階寺→厩坂寺→)興福寺、716年(大官大寺→)大安寺、718年(法興寺→)元興寺、薬師寺、728年(金鐘寺→)東大寺などが移設、整備され752年東大寺大仏開眼供養(続日本紀)で頂点を迎える。その後も756年正倉院(東大寺献物帳)、759年唐招提寺(伽藍開基記)などが続くが、この間の律令制の実行と鎮護国家論の影響は造像の背景として忘れてはならない。


興福寺仏頭8

 この仏さまは、旧山田寺から略奪されて興福寺に運ばれたのだが、その興福寺のすさまじい歴史についてもかつて書いた。以下を参照されたい。

【興福寺2】2011/06/06(月)
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-234.html

 運慶、慶派についても折々に書いてきたが、今日の展示のハイライトは、この仏頭とそれを守護する十二神将が一同に会していることにある。そしてこの十二神将は慶派の手になる。運慶は1187年(文治3年)に、興福寺に運ばれてきた破損まえの本像全体をじっくりと観察していた。これは1183年の有名な「運慶願経作成」から4年後のことであり、まさに運慶、昇竜の兆しの時期と重なる。ここもまた興味は尽きない。

【運慶考3 年表】2011年01月30日
http://blog.livedoor.jp/shokkou/archives/1901995.html

興福寺 運慶仏頭
釈迦如来像頭部(木造、漆箔)運慶作 重要文化財 (注)

(注)興福寺西金堂の本尊だった釈迦如来像の頭部。『類聚世要抄』(鎌倉時代編纂)の興福寺に関する史料に、文治2(1186)年 西金堂本尊に関する記事に大仏師運慶の名がある。近時、運慶作とみなされるが、造像にあたって対にあたる東金堂本尊の本像をおそらく運慶は深く研究していたことであろう。

【興福寺 「2つの仏頭」の奇跡】
http://blog.livedoor.jp/shokkou/archives/2050143.html

 本展示についていくつかの感想を記しておこう。

1.東京藝術大学大学美術館は、立地環境、展示の配置、照明効果など素晴らしかったが、でもなぜ今回は東京国立博物館での公開ではないのだろうか?どこかを検索すればたちどころにわかることかも知れないが素朴な疑問である。

2.板彫十二神将、木造十二神将の同時展示は面白いが、そのコンセプトであれば一歩進めて、本像のもともとの脇持説もある(あった)興福寺東金堂の日光・月光菩薩を是非、両脇に鎮座させてほしかった。両像を出せないなにか特別な理由があるのだろうか?


【仏像は深い38 興福寺東金堂の日光・月光菩薩】2010年10月09日
http://blog.livedoor.jp/shokkou/archives/1857412.html

3.本当に久しぶりに再会した深大寺釈迦如来倚像の展示は、実にさりげなく、とても気が利いていて有難かった(できれば盗難にあい本物はないが新薬師寺香薬師如来立像の「レプリカ」も見ることができたら最高!)。CGでの金色シミュレーションも見事。これぞ現代技術とのコラボレーションの典型と感じいった。

深大寺 釈迦如来倚像
深大寺銅像釈迦如来倚像(白鳳時代、7世紀 重文)

<備考>
◆公式HP http://butto.exhn.jp/highlight/index.html

◆最後に、参考にさせていただいたブログhttp://www.narayaku.or.jp/narayaku/narayaku/03_1.htmlから。

【以下は引用】

(1)戊寅(ぼいん・つちのえとら)678年12月4日に丈六の仏像(薬師三尊)が銅に鋳造され、乙酉(いつゆう・きのととり)685年3月25日に山田寺創建者の蘇我倉山田石川麻呂の祥月(しょうつき・故人が死んだ月)命日に仏眼を点じた。つまり、石川麻呂の自害後36年の開眼供養であった。

(2)1187年(文治3年)、興福寺の僧が山田寺の薬師三尊像を強奪し、興福寺の東金堂の本尊とする。
興福寺は治承4年(1180年)の平重衝の焼き打ちに遭って伽藍の殆どを焼失した。その後の再建の過程で同寺の東金堂の焼けた本尊の代わりとして当時荒廃していた山田寺の薬師三尊像に目をつけ、強奪したのであろう。当時の興福寺の勢力の強さが想像される。

(3)1411年(応永18年)に東金堂は雷の火災で、この仏像の胴体が失われ、頭部だけ残った。

(4)1937年(昭和12年)に興福寺の東金堂の修理中に須弥座の下より仏頭が発見され、大きく新聞などで報道され、その後上述の如く国宝・仏頭(薬師如来)として、興福寺国宝館に展示されている。

(5)この仏頭は童顔の若々しい張りのある肉付き、眉と眼の直線的な切れ味、高い鼻梁(びりょう)、長く垂れ下がる耳は白鳳期の特徴をよく示している。
1023年(治安3年)10月に53才の藤原道長は高野山参詣の途中、飛鳥・山田寺に寄り、堂塔及び堂中は奇偉荘厳で言語に尽くしがたく黙し、心眼及ばずと感嘆した。当時の山田寺の荘厳なことと仏頭(薬師三尊)の凛然(りんぜん)とした姿に感服したのであろう。 【“興福寺 仏頭  東京藝術大学大学美術館で拝顔”の続きを読む】

テーマ:文明・文化&思想 - ジャンル:学問・文化・芸術

飛鳥白鳳彫刻試論

永青文庫1
重要文化財, 金銅如来坐像 銅造鍍金
劉宋・元嘉14年(437)銘


 飛鳥・白鳳仏にわれわれが惹かれるのはなぜだろうか。

 飛鳥・白鳳時代とはいつまでをさすのかという「論争」はひとまずおくとして、一応奈良時代の前期までの時代とゆるやかに考える。この時代の血なまぐさい歴史はまずもって驚きである。天皇家と諸豪族間の複雑で近親性の強い結合と離反、豪族間でのすさまじいばかりの権力闘争、そして多くの死と葬列。
 われわれが、いまもこころの安寧をえるこの時代につくられたすばらしい「仏像」とその辛酸な権力闘争の「時代」とのミス・マッチにはいわく言い難いほどの乖離がある。

http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-37.html
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-70.html
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-193.html


1. 仏教および仏像の受容

 仏像は、仏教のための偶像であった。よって、インドで生まれた仏教の受容について、若干の経緯をメモしておこう。

(1) 中国の受容

 日本に仏教が伝来する以前、インドから請来された仏教の中国での受容については多様な展開があった。さまざまな分派があったとも言えるし経典の解釈にも単線的でない「厚み」があり、偶像信仰についても釈迦、弥勒、観音などのヴァリエーションもすでに展開されていた(この点は「空海論」で少しく書いたので参照されたい)。
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-261.html

 また、「先進国」中国は当時にあって文化の坩堝であり、宗教という側面のみならず、「新しいイデオロギー」としての仏教も、それ以前の既存の価値観(儒教、道教など)との相克、同化、新たな定立の過程で変容していく。
 そうした中国での受容過程の一方、「先進国」中国から仏教は、時を移して「属国」に拡散する。その時期と形態のちがいによって、各国内での仏教の胚胎の仕様がかわっていく。壮大な潮流の満ち引きがダイナミックに展開されていく歴史がここにあると言えよう。

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 これは仏像についても同様である。インドで生まれたガンダーラ美術が、一般に仏像彫刻の淵源といわれる。西洋人的な風貌、髭をはやし屈強な骨格をもち威圧感のある彫像が多い。その特色から一目でガンダーラ美術とわかるくらいだが、立像は闘争神的でもあり、邪鬼の原型もみてとれる。衣紋は複雑に刻み律動感もある。

 次のマトゥラー彫刻は、ガンダーラよりもインド土着の影響が強いといわれるが、いろいろなパターン、多様性があり一概に特定はできない。薄く彫ったシルキーな衣紋といい、円形光背の配置といい、仏様のやや優しい表情などで、<剛>のガンダーラに対して<柔>の印象ももつが、こうした彫像はかなり日本の仏像に近いイメージをかもしているようにも思う。

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 そして、インドから中国へ。中国では石窟彫刻が有名である。その白眉とでもいうべきが、雲岡石窟第20窟の如来坐像である。「雲岡、敦煌詣で」は、かつてでは考えられなかったが、いまは一種のブームでもあり、多くの日本人観光客も目にすることができるようになった。しかし、以前からの疑問なのだが、われわれが惹かれる飛鳥・白鳳彫刻とシナジーを感じる中国の彫刻は、実は一部を除き多くはないのではないか。もちろん、様式の共通性はある。彫出仏などはその典型だし、三尊形式もしかり。しかし、そのご尊顔では一部を除き異質性を感じるほうがはるかに多いのではないかとも思う。このあたりが、仏教および仏像の各国受容の多様性のあらわれであり興味は尽きないところである。

(2)「属国」への伝搬

 高句麗(372年)に、次に百済(384年~)、遅れて新羅(514年~)に仏教は「公伝」されるが、もちろんこれ以外の民間レベルの私伝ははやくからあったと推定される。
 このうち、百済は枕流王(384年)、武寧王(501-523年)、聖明王(523-554年)の時代にそって隆盛をみていくと考えられる。これら三国は当時の中国の「冊封」(さくほう)下にあるいわば属国であり、仏教は宗主国からの一種の文化移入、「公伝」であることが重要である。

 また、朝鮮半島といっても、いくつかの系譜がある。<1>朝鮮半島南部、<2>北部から中国東北部についても違いがある。
 <1>について歴史的には、さらに、加耶(任那)、新羅、百済にわかれる。562年に任那が滅びて新羅になり、さらに660年に百済も新羅に統一されるが、百済系と新羅系によってももちろん特徴は異なる。

<2>の高句麗もかつて楽浪郡、扶余にわかれていた。313年に楽浪郡が滅び、494年に扶余も高句麗に統合され、この高句麗時代が668年までつづく。よって、飛鳥時代には、新羅、百済、高句麗の三国が鼎立していたことになる。

 加えて、中国も隋(581-618年)以前には国が多くに分立されていた。たとえば北魏(386-535年)なども固有の特色があるが、その後、東魏→北斉、西魏→北周にかわって隋に統一されていく。

(3)日本への伝来

 日本への仏教伝来については、壬申伝来説(552年)と戊午伝来説(538年)が従来からあるが、「欽明朝」のいずれかのタイミングとの説に立てば、推定レンジは、欽明元年(532年:法王帝説)から欽明帝の没年(571年:日本書紀)までの間となる。
 これは、あくまでも「公伝」であり、古墳の「四仏四獣鏡」などにはこれよりはやくから釈迦三尊像、二尊像が配されていることからも、仏教的なるものは、日本にも渡来人を中心にもたらされていた。

 前述のように、仏教とともに仏像も中国から朝鮮半島にいたる。朝鮮半島で熟成した技法、素晴らしいセンスが日本へも伝えられる。はじめは「直輸入」といっても良いだろう。しかし、御本地の半島では、戦禍があいつぎ他の地域と同じように、あるいはそれ以上に、固有の歴史的な資産、蓄積が壊滅的に失われる。
 日本にも多くの戦争、自然災害はあったが、奇跡的に、いまある優れた資産が残された。それは、日本民族が古仏を大切に伝承してきた証であり、誇りであるとも言えよう。

 韓国中央博物館の弥勒像をみて、日本の国宝第1号広隆寺のそれとの近似性に驚く人は多いだろう。自分も学生時代、はじめてその事実を知った衝撃は大きかった。
 この2像の存在は、日韓のさまざまな同一性の問題を提起し、考えさせられる多くの課題をわれわれに問うている。また、雲崗石窟交脚菩薩像のうち横顔がよく似ているものも知られている(『魅惑の仏像 弥勒菩薩』毎日新聞社 2000年 pp.68-69の写真を参照)。

広隆寺(韓国比較)

 広隆寺の宝冠弥勒は聖徳太子が没した翌年、622(推古30)年に新羅の真平王(しんぺいおう)が太子追善に送ってきた仏像という説がある。
 前述のように660年までは百済があった。広隆寺の宝冠弥勒に似た韓国ソウル国立中央博物館の金銅弥勒像は、そのふくよかで柔らかい作風から百済系ともいわれる。また、韓国国宝第78号弥勒菩薩なども、宝冠や服装は異なるが、全体の姿は宝冠弥勒によく似ている。

 任那の日本の「出城」がなくなったときに、引き揚げ者のなかには多くの朝鮮の人がいたであろう。同様に、百済が滅亡し、そのほかにも滅びた国があったから、そうした人びとのうち海を渡って日本に来た帰化人は多かった。
 当時の帰化人といえば、職種にもよるが相当な知識人、テクノクラートもいた。新羅や高句麗は中国文明などの受容を陸続きで日々にうけて、日本よりもはるかに先進国であった。また、飛鳥時代以上に、白鳳時代は統一新羅の影響が強かったことであろう。

 崇仏派たる蘇我氏と排仏派たる物部氏との抗争という日本書紀で描かれる「構図」について、帰化人動向に注目し、東漢氏および所領をめぐる権力闘争論に主軸をおいて解釈する考え方がある。その場合、物部氏にも実は仏教受容の開明性はあったのでないかといった問題提起も可能であり面白い。

 しかし、その一方で、蘇我一族が仏教受容に熱心であった事実は動かしがたく、それは当時の中国および朝鮮半島情勢を分析していれば、いずれ仏教が、東アジア全体で重要な支配モメンタムになるという可能性をみていたからかも知れない。

2. 聖徳太子について

 この時代でもっとも重要なのは聖徳太子である。関連の本を手にとってみると当時の仏教受容問題の大きさにも驚く。それまでのシャーマニズム、自然神信仰とは異質な、新たな価値理念としての仏教の到来。当時の人たちの戸惑いと畏敬はわれわれの想像をはるかに超えるものであったろう。そして、その仏教とともにもたらされた舶来品としての仏像。その尊顔をみた当時の人びとの衝撃は大きかったはずである。

 聖徳太子とは何者であったのか。ここでは、秀でた政治家で仏教などの新文物にも明るく、「鎮護国家」論以前の仏教の教典としての意義、大乗仏教のもつ信仰面での重要性を認識していた知識人像が浮かび上がる。その一方で、なんでも自分で成し遂げる「スーパースター」性には疑問もある。

 蘇我馬子、厩戸(聖徳太子)、鞍作(止利)といった名称から共通に導かれる<馬>は、騎馬兵のイメージにいきつく。斑鳩から大和(明日香)まで約20キロの行程、馬を疾駆する若き、そして壮年の太子の姿は想像にかたくない。斑鳩近郊には馬場もあったようだ。そこでは平時にあっても騎兵の教練が行われていたかも知れない。

 また、外交の<海の道>は、豊かな瀬戸内海の食糧資源確保のための<海上補給路>でもある。太子がいまの松山を天寿国に見立てたのは、ユートピア論からばかりとは思えない。網干や加古川の太子ゆかりの海洋都市は当時にあって有力なロジスティックスの拠点でもあったろう。そう考えると任那への救援を名目とした瀬戸内への身内の出兵は一種の軍事訓練の色彩もあったかも知れない。

 その一方、蘇我氏の所領も大変な大きさをもっていた。黛弘道『古代史を彩る女人像』(講談社学術文庫 1985年)を読んでいると、実は、聖徳太子(上宮家)の拠点はおおむね「点と線」でむすばれていたにすぎず、蘇我一族は河内、大和ともに「面的」に広大な領地を掌握していたことがわかる。しかも、そうした領地はいずれも物部討伐によって、旧物部氏所有地を塗り替えたところも多く、蘇我家、上宮家とも、そこに住まう住民を含めて割譲、統治したとも言えそうである。そこにはしたたかな政治的な行動原理も貫徹されていた。

 「三宝」とは政治的資源でもあり、また最先端の人文・科学知識の集積でもあったろう。僧は還俗すれば優秀なテクノクラートであったし、寺は危急の際は軍事的砦にもなりえた。そうした観点からは、仏像は、ひとびとに威厳を示し安寧をあたえるシンボルでもありえたし、もっと機能主義的に考えれば、文字通り軍事的「守護神」とも考えられる。もちろん、現存する仏像がすべてそうしたことを念頭に造像されたわけではない。小金銅仏などは持念仏や鎮魂的な意味からつくられた仏様も多かったろう。しかし丈六の巨大な仏像などはもっと多義的な意味をもっていたと考えるほうがよいかも知れない。

 聖徳太子の時代、多くの国からの舶載品はあったが、太子が隋と直接に交流し、そこから多くの新文物がはいってきたことこそ重要だろう。朝鮮半島経由のほかに中国からのいわば「直入」のルートは、その後、白鳳~天平にかけての日本文化の胚胎に決定的な影響をあたえたという視点は興味深い。

 
3.飛鳥彫刻の作り手 

 死と隣り合わせの凄惨な政治的闘争や疫病の蔓延、仏教受容という一種の文化革命の只中にあって、仏像のもつ意味は現代人からみた「鑑賞体」とはまったく異なる大きさをもっていたと考えるべきだろう。

 仏像そのものの一種の「発展史」的な捉え方からみても、この飛鳥・白鳳時代は興味が尽きない。奈良時代後期以降の形式主義に至らない自由奔放の伸びやかな作風こそ、この時代の仏様の魅力の源泉である。教典や儀軌の影響を一種の「マニュアル主義」とでも呼べば、未だマニュアル未整備のおおらかさがあった時代とも言えるだろう。止利様式、非止利様式といった分類がしっくりとこないのは、原初的な時代に、後世からみた様式論を(後講釈的に)物差しとしてあてがおうとしているように思われるからである。
 それでは、止利様式、非止利様式以外の見方とはなにか。ここでは飛鳥彫刻は誰によって作られたかから少しく考えてみよう。

 飛鳥彫刻の作り手はおおむね4つくらいに分類できるのではないかと思っている。第1の系譜は、止利系である。第2は、山口大口費系である。第3は、秦氏系である。第4は、その他のグループである。

 まず、第1の止利系であるが、鞍作止利(くらつくりのとり、生没年不詳)を棟梁とする一族で、飛鳥時代に活躍した渡来系の仏師。名は鳥とも記される。司馬達等の孫で、鞍部多須奈の子。子に福利・人足・真枝がいたとされる。法隆寺釈迦三尊像をはじめ、法隆寺救世観音像ほかこのグループの作品はいくつも現存している。「鞍作」に表象されるとおり、武具制作にたずさわり、その後、仏教に帰依してから、その技法を駆使して仏像の造像にもあたったのであろう。蘇我氏一門に属し、聖徳太子とも近しい集団である。

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 第2は、山口大口費(やまぐちのおおぐちあたい)のグループである。またの名は、漢山口直大口(あやのやまぐちのあたいおおぐち)ともいわれ、650年(白雉元年)10月、日本書紀によれば千仏像を制作したと記載される。法隆寺金堂の四天王像(広目天像)をつくった。また、この四天王像と法隆寺百済観音には多くの共通点があり、自分は百済観音像は、このグループの作ではないかと秘かに考えている。そのほか、東京国立博物館法隆寺館のN193も、同様にこのグループの作ではないかと思う。
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-24.html

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法隆寺金堂多聞天像

 第3は、秦一族に近いグループである。言わずもがなだが、広隆寺弥勒菩薩がこの一族の持念仏である。作像が日本かどうかという問題はここでは措くとして、広隆寺には「宝冠弥勒」「宝髻(ほうけい)弥勒」と通称する2体の弥勒菩薩半跏像があり、ともに国宝に指定されている。宝冠弥勒像は日本の古代の仏像としては他に例のないアカマツ材で、作風には朝鮮半島の新羅風が強いものである。一方の宝髻弥勒像は飛鳥時代の木彫像で一般に使われるクスノキ材である。

 日本書記によれば、推古天皇11年(603年)、秦河勝が聖徳太子から仏像を賜ったことが記されている。『広隆寺来由記』(明応8年・1499年成立)には推古天皇24年(616年)、坐高二尺の金銅救世観音像が新羅からもたらされ、当寺に納められたという記録がある。また、日本書記には、推古天皇31年(623年、岩崎本では推古天皇30年とする)、新羅と任那の使いが来日し、将来した仏像を葛野秦寺(かどののはたでら)に安置したという記事があり、これらの仏像が上記2体の木造弥勒菩薩半跏像のいずれかに該当するとする説があるようだ。いずれにしても、このグループに近い作例は金銅仏で弥勒菩薩半跏像として残っている。

菩薩座像・飛鳥時代

 第4は、その他の系譜であり、実は特定できる仏師や仏所がいるわけではない。帰化人(渡来人)的な分類では、第1グループは、鞍部村主司馬達等(止)(大唐漢人、継体朝・敏達朝)、鞍部多須奈(用明朝)、鞍作止利仏師(推古朝)、第2グループは<東漢>系、第3グループは<秦>系で新羅と親しい関係。
 そう考えてくると、帰化人の一大勢力<文>系ほか独自のグループはほかにもあったのではないかとの類推に行きつく。それは、実際の観察でも、たとえば法隆寺館48体仏を丹念にみていけば、まだまだ上記3つには属さないが個性的な仏像があり、実に多様性があると得心することだろう。

摩耶夫人

4.帰化人の問題

 帰化人(渡来人)の問題については、平野邦男「畿内の帰化人」(坪井清足・岸俊男編『古代の日本 5近畿』1970年 角川書店)が参考になる。以下は本書からの示唆である。

(1)活動期

 書き出しは「古代の畿内は、帰化人の集住した地域である」からはじまる。帰化の定義は「『王化にマイオモムク』という大和朝廷成立後の歴史的な概念」であるとされ、「秦(はた)・漢(あや)・文(ふみ)の三氏を応神朝に渡来するという伝承」を是としている。
結語は、「畿内における帰化人の歴史は、ほぼ9世紀に、その幕を閉じるといえよう」とされるから、5~9世紀が主としてその活動期といえよう。

(2)どこに住んだか
 
 以下に要約される。「8,9世紀の帰化人の分布の実態をみると、摂津では東生(ひがしなり)・西生(にしなり)、住吉(すみよし)・百済(くだら)などの南部諸群を中心とし、それから北、淀川をへだてた島上(しまのかみ)・島下(しまのした)・豊島(てしま)などの諸群にも及んでいる。しかし、それにもまして、淀川と大和川の<川内>である河内地方、つまり摂津の海辺からやや内陸よりの平野が、帰化人集団のもっとも顕著な居住地であった」。このように海沿い、川沿いの移動のほか、新たに建都された地域への移住を含めて帰化人の分布は広汎におよんでいく。

(3)帰化人の役割

 以下の記述がある。「彼らは、豪族に私有されるのではなく、朝廷の支配するなかば国家の民としての立場におかれ、ある者は朝廷の官人として登用され、他の者は朝廷に租税をはらい、天皇の土地を耕し、灌漑施設をつくり、官廷工房で生産に従った。5,6世紀の大和朝廷の飛躍的な発展は、彼らに負うといっても過言ではないのである」。

 帰化人の多くが、自国か日本に来てからかの違いはあるが、われわれがいま見ている至宝の仏像を当時、造像したとすれば、専門の研究者はいざ知らず、どこでつくったかは実は二次的な問題かも知れない。
 仏像に限らず、あらゆる文物が海をわたってもたらされたことを、よく考えると、聖徳太子が瀬戸内海の「海上の道」を、要所要所でピシリと押さえていたことは政治的、経済的、文化的にも興味深い。

 この論文では詳細に以上の諸点が明らかにされるが、飛鳥以降の彫刻史の観点からもこの点は考えさせられる。文明の伝承には一般にながい時間がかかるが、帰化人はその時代背景と機能において、「即製的」にそれを成し遂げたのではないか。つまり、建都から、仏教国家的シンボルとしての彫刻の造像まで、彼らが主体的にそれを実行したのではないか。
 9世紀に帰化人の歴史が終わるとすると、それ以降に文明の伝承とその内在化の過程をへて、いわゆる日本的な折衷が顕著になるのではないか。
 われわれが、飛鳥、白鳳、天平、貞観の彫刻に異質、異国のものを直観するのは、そうした帰化人の盛衰を垣間見ているのではないかといったことを感じる次第である(つづく)。

(参考)


◆東京国立博物館で見ることができる舶載品、飛鳥・奈良時代の作品など
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-43.html
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-44.html
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-45.html
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-46.html
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-47.html
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-48.html
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-49.html
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-50.html
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-51.html
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-52.html

http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-147.html
勢至菩薩立像1躯 銅造鍍金 総高36.0 像高17.1 隋 重文 TC652
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-148.html
観音菩薩立像1躯 大理石 像高253.6 隋 重文 TC376
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-149.html
菩薩半跏像1躯 砂岩 山西省天龍山石窟第14窟 総高139.4 像高97.0 唐 TC374
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-150.html
浮彫十一面観音龕1面 石灰岩 陝西省西安宝慶寺 総高113.8 唐 重文 TC719 細川護立氏寄贈
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-151.html
仏頭1個 ストゥッコ アフガニスタン・ハッダ 高25.7 TC411

◆東京で見ることができる東博以外の展示仏

http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-201.html
【根津美術館】
弥勒菩薩立像
クシャーン時代 3世紀 石造(片岩) 1軀 高153.0cm [20097]
如来立像
北斉時代 6世紀 石造(白大理石) 1軀 総高291.3cm [20070]
菩薩坐像頭部
天龍山石窟将来 唐時代 7〜8世紀 石造(砂岩) 1個 高35.0cm [20082]
十一面観音立像龕
花塔寺 (宝慶寺将来 唐時代 7世紀 石造(石灰岩) 1面 総高107.0cm [20341]
釈迦多宝二仏並坐像
北魏時代 太和13年(489) 銅造鍍金 1基 高23.5cm [20059]ほか

http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-122.html
【松岡美術館】「菩薩半跏思惟像」 ガンダーラ 3世紀頃
http://www.matsuoka-museum.jp/

http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-124.html
【東京藝術大学大学美術館】「仏頭」北斉-隋時代
http://db.am.geidai.ac.jp/object.cgi?id=341

http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-199.html
【永青文庫】 
三尊仏坐像  北周・建徳元年(572)
阿弥陀如来坐像  唐・咸亨3年銘(672)
菩薩立像  隨・開皇二十年銘(600)ほか


◆大阪市美術館で見ることができる舶載品、飛鳥、奈良時代の作品など

http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-60.html
黄花石 如来三尊像(こうかせき)、西魏時代・大統8年(542)
山口コレクションH23.5
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-61.html
白大理石 如来三尊龕(がん)、北斉時代・天保8年(557)
山口コレクションH55.0
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-62.html
石灰岩 仏三尊像、北魏時代・景明元年(500)
山口コレクションH164.8
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-63.html
石灰岩 道教四面像、西魏時代・甲戌年(554)
山口コレクションH70.6
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-64.html
砂岩 如来坐像、北魏時代・天安元年(466)
山口コレクションH28.7

→通常展で①龍門石窟 古陽洞、②供養人行列図、③龍門石窟 賓陽中洞 菩薩立像頭部、④龍門石窟 敬善寺洞 如来坐像頭部、⑤龍門石窟 奉先寺洞 如来立像頭部、⑥天龍山石窟 第3窟 維摩居士坐像、⑦天龍山石窟 第1窟 如来坐像頭部、⑧砂岩 如来坐像、⑨砂岩 菩薩交脚龕、⑩砂岩 太子半跏思惟龕、⑪石灰岩 仏三尊像、⑫砂岩 道教三尊像、⑬砂岩 四面像、⑭黄花石 如来三尊像、⑮石灰岩 道教四面像、⑯白大理石 如来三尊龕、⑰石灰岩 如来倚坐像、⑱石灰岩 如来坐像龕などを見ることができる。
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-65.html

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蟹満寺釈迦如来坐像 研究進む

蟹満寺

最近読んで、注目される記事。本像については「飛鳥・白鳳彫刻の魅力(5) 蟹満寺釈迦如来座像」でその感想を書いた。下記の記載にははっきりと書かれていないが、別の記事によれば、本像は当初からここに鎮座された可能性が高まったとのこと。

http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-59.html

【以下は引用】

謎の仏像 2度焼けた? 科学的手法で解明進む 蟹満寺釈迦如来坐像

産経新聞 1月21日(土)14時56分配信

 奈良・薬師寺の薬師如来坐像(ざぞう)と並ぶ古代金銅仏の傑作、蟹満寺(かにまんじ)釈迦如来坐像(京都府木津川市、国宝)に初めて科学のメスが入った。小さな寺で約1300年にわたって守られてきた「謎の仏像」。薬師寺の像とほぼ同じ大きさながら、重さは半分しかなく、炭素14年代測定では西暦700年前後に造られたとのデータが明らかになった。(渡部裕明)

 釈迦如来坐像は高さ約2・5メートルの、いわゆる丈六(じょうろく)像。金箔(きんぱく)がわずかに残り、かつては銅に金を貼り付けた姿だった。

 本堂改築を機に、三船温尚(はるひさ)・富山大教授(鋳造技術史)や奥健夫・文化庁主任調査官(仏教美術史)らが調査を実施した。鋳造技術や炭素14年代測定、3次元レーザー計測、蛍光X線成分分析、考古学などの分野で、成果は先月末、『蟹満寺釈迦如来坐像-古代大型金銅仏を読み解く』(八木書店)として出版された。

 ◆700年ごろ造立

 調査成果によると、像は重さが約2・2トンで、2度にわたって火災を受けたらしいこと、また右手の像内に残った土の炭素14年代測定によって7世紀後半から8世紀半ばにかけて造立された可能性の大きいことが分かった。

 大型の金銅仏は材料の銅や金が高価なため、官営の工房でしか制作できなかったと考えられている。現在の蟹満寺には不似合いなほどの巨像で、いつ誰によって造られたか、移されたのならどこにあったかなど多くの説が出されている。

 ◆薬師寺像より軽く

 薬師寺像の重さは約4・9トンで、蟹満寺像の倍以上と判明した。三船教授は「有名な山田寺仏頭(ぶっとう)(興福寺蔵、国宝)も蟹満寺と似て肉厚は薄い。薬師寺像の重さがむしろ異常だ」と首をかしげる。

 また、奥調査官は「橘諸兄(たちばなの・もろえ)(684~757年)が創建した井堤寺(いでじ)跡(京都府井手町)は蟹満寺にも近く、最近の発掘調査で官寺級の遺構が見つかっている。井堤寺の本尊だったとする説は魅力的だ」と話している。

【メモ】蟹満寺

 奈良市の北約10キロにある真言宗の寺。発掘調査で7世紀末に創建されたことがわかった。『今昔物語集』などに、蟹を助けた娘に蟹が恩返しをする説話も残っている。

 ◆謎に迫る貴重な成果

 根立研介・京大教授(日本彫刻史)の話「蟹満寺像はその大きさとすばらしさに比べて由来が不明で、不思議な仏像の一つだ。今回の調査では多くの科学的データが得られており、謎に迫る貴重な成果といえる」


http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120121-00000117-san-soci

『国宝 蟹満寺釈迦如来坐像: 古代大型金銅仏を読み解く』については次のとおり。

【以下は再び引用】

 なぞの金銅仏はいつ、どうやって造られたか 約700点の図版収録! 薬師寺像との先後関係など、仏教美術史に再検討を促す! 彫刻史上の傑作のなぞに迫る! 白鳳から天平にかかる数少ない古代大型金銅仏

刊行の意義   奥 健夫(文化庁)  
 蟹満寺釈迦如来像は薬師寺金堂薬師三尊像とともに古代大型金銅仏の遺品としてよく知られた作例であり、現在127件を数える彫刻の国宝指定物件の一つとして、文字通り日本を代表する彫刻作品である。  
 しかしながら本像に関する研究は決してこれまで多くない。それは本像が重要視されていないからではなく、本像を考える手掛かりが乏しいことによる。すなわち本像は蟹満寺に後世に移坐されたとされ、原所在地について諸説があり、その製作事情について確かなことはほとんど何もいえない状況にあった。然るに近年、蟹満寺境内発掘調査により本像が7世紀末頃に建てられた蟹満寺の本来の本尊であった可能性が提示され、それに関して反論も行われるなど議論が活発化している。 
 様式からいえばその製作年代は、7世紀後半から8世紀半ばまでの間とみられるが、その中のどこに置くかについては説が一定していない。 
 本像を論じようとするとき常に問題となるのは、本像とならぶ丈六金銅仏の遺品で、かつ像容が類似する薬師寺金堂薬師三尊像の中尊像との関係であり、この点についても薬師寺像より前に置く見方と、同像より遅れるとする見方が対立している。  
 今回行われた鋳造技法を主とする調査研究ではこれらの点について考えるうえで大きな手掛かりを提供する知見がいくつか得られた。まず蟹満寺像の重量が薬師寺像よりはるかに軽い2172kgであり、銅厚が体部の主な箇所で2~3cmほどと、非常に薄手に造られていることが挙げられる。鋳掛けにより顔立ちを修整していることが知られたのも注目すべき知見である。さらにいくつかの点から本像が?型ではなく土型で造られた可能性も示されるに至っている。調査結果の分析は慎重になされるべきであることはいうまでもないが、本像と薬師寺像との関係について従来の考え方に再考を促し、本像の美術史上の位置付けに大きく寄与するデータが得られている。そしてそれは日本彫刻史上、最大の問題の一つというべき薬師寺像論争の行方にも影響を与えるものとなろう。(本書「仏教美術史から見る調査意義」を抄録)


http://www.amazon.co.jp/%E5%9B%BD%E5%AE%9D-%E8%9F%B9%E6%BA%80%E5%AF%BA%E9%87%88%E8%BF%A6%E5%A6%82%E6%9D%A5%E5%9D%90%E5%83%8F-%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E5%A4%A7%E5%9E%8B%E9%87%91%E9%8A%85%E4%BB%8F%E3%82%92%E8%AA%AD%E3%81%BF%E8%A7%A3%E3%81%8F-%E8%9F%B9%E6%BA%80%E5%AF%BA%E9%87%88%E8%BF%A6%E5%A6%82%E6%9D%A5%E5%9D%90%E5%83%8F%E8%AA%BF%E6%9F%BB%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A/dp/4840620830/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1329589245&sr=8-1

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