大和古仏探訪

京阪神を中心に内外の古仏についていろいろと書いてみたいと思います。

法隆寺宝物館と飛鳥白鳳彫刻

法隆寺宝物館

東京上野、国立博物館法隆寺宝物館には学生時代から何度となく足を運んでいる。広々とした前面の広場は充ち満ちる水を配した回廊となっており、宝物館自体は近代的な建物ながら、大胆で開放的な空間を演出し、ユニークかつ清々しい。

中にはいると、金銅仏 光背 押出仏が展示されている第2室のほか、灌頂幡(1階)、木・漆工、金工、絵画・書跡・染織など(2階)もあり日がな一日過ごしても飽きないほどの物量である。同館は名前のとおり、なんとも贅沢な歴史の「宝庫」であり、飛鳥白鳳彫刻への最良の道標である。

ここには、「1878(明治11)年に奈良・法隆寺から皇室に献納され、戦後国に移管された宝物300件あまりが収蔵・展示されている。これらの文化財は、正倉院宝物と双璧をなす古代美術のコレクションとして高い評価を受けているが、正倉院宝物が8世紀の作品が中心であるのに対して、それよりも一時代古い7世紀の宝物が数多く含まれていることが大きな特色」(同館案内)とされる。

法隆寺宝物館の仏像のもつ意味は、ここに飛鳥白鳳時代のいくつかのタイプの仏像群が一堂に会していることにある。


<目次>
1.止利仏師系 N145(分類番号)、N155、N165、N166

2.半跏思惟像 N156、N157、N160、N161、N162

3.朝鮮三国時代系 N143、N151、N158
【朝鮮の影響】N152、N189
【中国の影響】N146、N169、N173、N178、N185
【インド的仏像】N186、N187

4.摩耶夫人及び天人像 N191

5.木造仏 N193

6.山田殿像系、童子系、法隆寺系
【山田殿像系】N144、N148、N167、N177 
【童子形像系】N153、N168、N175、N176、N179、N188 
【法隆寺系】N163、N164、N172 
(関連掲載)N182、N183

7.その他
【他寺院仏との比較】N147、N154、N157、N180、N181
【拾遺集】N170、N174、N184、N190

(以下Nの解説部分は全て東博からの引用)
http://www.tnm.jp/modules/r_collection/index.php?controller=list_img&start=42&limit=&t=search&search%5Bname%5D=&search%5Bcreator%5D=&search%5Btype%5D=&search%5Bperiod%5D=&search%5Bcentury%5D=&search%5Bregion%5D=&search%5Bdesignation%5D=&id=0

1.止利仏師系

まず、もっとも有名な止利仏師系について。実は、ここでは止利派工房作品のいわばエッセンスをみることができるのである。

N145(分類番号)の如来坐像(銅製鍍金 像高30.8 飛鳥時代 7世紀 重文)をみてみよう。この坐像は、法隆寺・戊子年銘三尊像の中尊(628年)や法隆寺金堂釈迦三尊像(推古31年・623)の中尊とよく似ている。

N155の菩薩半跏像(飛鳥時代・7世紀 重文)は、法隆寺大宝蔵殿・菩薩立像が、そのまま観想にはいった姿といわれても、なるほどと首肯できるのではないだろうか。

また、N165、N166の両翼に広がった天衣(鳥≒とり≒止利の羽根、飛翔のイメージがある)は法隆寺救世観音に共通する。さらにN149の如来立像(飛鳥時代・7世紀 重文)のご尊顔は、止利派の不愛想な「仏頂面」(失礼!)と二重写しになる。

さて、止利仏師系は、当時にあって最有力の工房であったが、中国北魏から東魏時代(6世紀)の影響を色濃く受けているといわれる。上記は、飛鳥寺(元興寺)や法隆寺の諸仏と共通するが、N155は第二次世界大戦後の復興になるものだが、四天王寺の本尊のサンプルの一つともいえよう。

止利派工房の場合、小金銅仏はより大きな造仏にあたっての準備段階の試験作品(サンプル)といった位置づけがあったかもしれない。一般的な近親者への追善供養といった持念仏は個人ユースだが、国家的な事業を念頭に、そのミニチュアをつくるという目的からは、発注者などへの配慮から、全体の出来栄えのよさ(精緻さ)も必要となろう。そうした観点からみると、小金銅仏と関連寺院の現存作との近似も興味深いだろう。


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如来坐像 1躯 銅製鍍金 像高30.8 飛鳥時代 7世紀 重文 N145
【東博の解説】止利仏師の作として知られる法隆寺金堂釈迦三尊像(推古31年・623)の中尊とよく似た形の像である。しかし,その中尊にくらべて顔の表情はずっと穏やかで,頭髪や懸裳のデザインも異なっており,当時,同グループでも作風に一定の幅があったことを示している。

N-145:推古31年(623)に止利仏師によって造られた法隆寺金釈迦尊像の中尊とよく似た形を示す。また、大衣の末端を正面では左前膞に懸けるのに対し、背面では左肩に懸けるように表わす矛盾した着衣の処理までも共通するが、金堂像と比べると表情がより穏やかとなり、渦巻き状の頭髪や懸裳の衣文などには著しい意匠化がみられる。

法隆寺・戊子年銘三尊像~中尊
(参考)法隆寺・戊子年銘三尊像~中尊

法隆寺・戊子年銘三尊像
(参考)法隆寺・戊子年銘三尊像

法隆寺釈迦三尊N1
(参考)法隆寺金堂釈迦三尊像
◆法隆寺金堂釈迦三尊像
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-97.html

【止利仏師系】

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如来半跏像 1躯 銅製鋳造鍍金 像高38.0 飛鳥時代・7世紀 重文 N-155

N-155:止利派の菩薩半跏像で、目を杏仁形とせず仰月形にややつり上げて表わす他は、法隆寺の菩薩立像とかなり近い造形を示している。また、本像は通例の半跏思惟像とは異なり、右手を頬につけず掌を正面に向けて立てているが、この形は『別尊雑記』にみえる四天王寺本尊救世観音像の図像と一致するものである。

法隆寺大宝蔵殿・菩薩立像
(参考)法隆寺大宝蔵殿・菩薩立像

法隆寺金堂三尊脇侍
(参考)法隆寺金堂三尊脇侍像

四天王寺・菩薩半跏像
(参考)四天王寺・菩薩半跏像
(これは四天王寺に伝わる仏さまだが、上記のとおり、『別尊雑記』にみえる四天王寺本尊救世観音像の図像は、N155である)

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観音菩薩立像 1躯 銅製鋳造鍍金 像高22.4 飛鳥時代・7世紀 重文 N-165
【東博解説】台脚の天板部に銘文があり、「辛亥年七月十日に崩去した笠評君のため、その日、遺児と伯父の二人が造像を発願した」ことが知られる。「辛亥年」については、銘文中の「評」が大化(645〜650)から大宝(701〜704)にかけて使用された用字であることが解明されており、白雉2年(651)に比定できる。また、銘文の内容から、本像は笠評君の死亡当日に造像が発願されたもので、さらにその日のうちに銘記までなされるという興味深い状況もうかがえる。

N-165:天衣に鰭状の出を表わし、全体の形を左右対称にまとめることなどは止利派の流れを汲むものといえるが、眉や目を面と面の段差で表わすなごやかな顔立ち、先端を束ね、蕨手をつくらない垂髪、鰭状の出の各先端が後方に反りをみせる天衣など、止利派の造形から一歩ぬけ出した感覚もうかがえる。また、本像は、宝冠に化仏が表わされる観音像として、年紀の明らかなわが国最古の作例でもある。

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N-166:「辛亥年」の銘をもつN-165とほぼ同一の形式を示す像であるが、垂髪を蕨手状に表わし、鰭状の天衣が正面に向けて真直ぐに垂下し先端に反りをつけないなど、全体にN-165よりもむしろ古様な面もうかがえる。しかし、その一方で、丸く張った頬や愛らしい顔立ちには7世紀後半の童子形像と通じる面もあり、本像は、7世紀前半から後半にかけてのいわば過渡期に位置づけられるとも思われる。

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(参考)法隆寺救世観音立像
◆法隆寺・小考2:救世観音
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-91.html
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N150
N-149:体部に比べて頭や手を大きく表わした止利派の如来立像である。大衣の末端を正面では左前膞に懸けるのに対し、背面では左肩に懸けるように処理するのも止利派の如来像に共通するものといえる。また、手指の関節を明瞭に刻線で表わし、爪を指端からのぞかせる表現も止利派の諸像にみられるものである。

N150

N-150:止利派の如来立像に近い形式を示すが、通肩にまとう大衣の末端を左肩から腕に懸ける着衣はなく、頭や手の大きさも特に強調されない。また、衣文の処理にも厳格な左右対称の図式性から多少離れた趣があるなど、止利派の諸像と比べて全体に表現がやわらいでおり、別系統の作例とも思われる。

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2.半跏思惟像

次に人気の高い半跏思惟像をみてみよう。N156の菩薩半跏像(銅製鍍金 像高38.8 重文)はその銘文から推古14年(606)または天智5年(666)の作とされる。飛鳥時代または奈良時代の作品であるが、朝鮮三国時代の仏像との関連が濃いといわれる。

菩薩半跏像では、N157、N160(下記7.【他寺院仏との比較】に掲載)およびN162は、飛鳥時代・7世紀の作、N161は、やや時代が下って、飛鳥時代・7~8世紀の作とされるが、このように多くの作品が残されているのは、当時、この形の半跏思惟像を好む風潮があり、それは弥勒菩薩信仰とも結びつき、また、聖徳太子との関係も論じられるところである。

こうした仏像をみていると、多くの観察者は京都・広隆寺の半跏思惟像を連想するだろう。表情こそ異なれ、ここには朝鮮半島との多くの仏さまとの類似性がある。止利仏師系が、さきにみたとおり、中国北魏から東魏時代(6世紀)の影響を色濃く受けているとすれば、この半跏思惟像のグループは別の流れ、朝鮮三国時代の仏像との近接性があるということである。

秦一族の名前が浮かぶ。言わずもがなだが、広隆寺弥勒菩薩はこの一族の持念仏である。作像が日本かどうかという問題はここでは措くとして、広隆寺には「宝冠弥勒」「宝髻(ほうけい)弥勒」と通称する2体の弥勒菩薩半跏像があり、ともに国宝に指定されている。宝冠弥勒像は日本の古代の仏像としては他に例のないアカマツ材で、作風には朝鮮半島の新羅風が強いものといわれる。一方の宝髻弥勒像は飛鳥時代の木彫像で一般に使われるクスノキ材である。

日本書記によれば、推古天皇11年(603年)、秦河勝が聖徳太子から仏像を賜ったことが記されている。『広隆寺来由記』(明応8年・1499年成立)には推古天皇24年(616年)、坐高二尺の金銅救世観音像が新羅からもたらされ、当寺に納められたという記録がある。また、日本書記には、推古天皇31年(623年、岩崎本では推古天皇30年とする)、新羅と任那の使いが来日し、将来した仏像を葛野秦寺(かどののはたでら)に安置したという記事があり、これらの仏像が上記2体の木造弥勒菩薩半跏像のいずれかに該当するとする説がある。いずれにしても、このグループに近い作例は金銅仏で弥勒菩薩半跏像として残っており、法隆寺宝物館にも収蔵されているのである。

半跏思惟像については、その後、徐々に作例が減っていく。その要因は、いくつか考えられる。もともと朝鮮半島で多くの普及をみていた半跏思惟像だが、日本において、遣隋使、遣唐使というダイレクトに中国と結びつくルートの設定が行われたことも大きな要素だろう。以降、請来された多くの仏典によって一気に仏教思想、仏教哲学、仏教文化の裾野はひろくなる。

また、それとの関連において、より現世利益的な仏さまに関心がよせられたこともあるかもしれない。釈迦如来、薬師如来、阿弥陀如来は、生老病死の人生航路において、よく生き(釈迦如来)、老病にあたってケアし(薬師如来)、そして来迎への導きをしてくださる(阿弥陀如来)。こうした至れり尽くせりの仏さまが、後世、次第に民心をとらえていく。
半跏思惟像は考える仏、弥勒菩薩と比定される場合が多いが、その弥勒「菩薩」が弥勒「如来」になったとしても、功徳は並みいる如来にくらべて、やや地味であったかもしれない。

さらに、作像形態としては、半跏思惟像よりも造像しやすい寸胴型の立像が多くなり、弥勒菩薩は観音に次第におきかわっていく。

さて、現代人はどうか。あらゆる思想、哲学、文化が相対化されるなかにあって、人はいま一度、真摯に、さまざまなことに思いを巡らせなければならない。考える仏さま、半跏思惟像に惹かれるのは、そこに自身の投影(あるいは幻影)を見ているからではないか。


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菩薩座像・飛鳥時代

菩薩半跏像 1躯 銅製鍍金 像高38.8 飛鳥又は奈良時代 推古14年(606)または天智5年(666) 重文 N156
【東博の解説】台座框の刻銘から「丙寅年に高屋大夫が亡き韓夫人のために発願造立した」ことがわかる。「丙寅年」は推古14年(606)と天智5年(666)の両説がある。また「韓夫人」銘やその痩身の体躯,腰から垂れる帯飾りなど,総じて朝鮮三国時代の仏像との関連が濃い

N-156:台座下框に刻銘があり、「丙寅年に高屋大夫が死別した夫人のために発願造立した」ことが知られる。「丙寅年」の年代比定をめぐっては推古14年(606)と天智5年(666)の2説があり定説をみていない。前説では、痩身性の強調された体軀や図式的に処理された衣文などの表現に古様さを認め、装身具も全体に簡素であることから同じ「丙寅年」の銘をもち天智5年に比定される野中寺弥勒菩薩半跏像と同時代のものとは考えられないとする。これに対し、後説は、3面頭飾や胸飾りの形式に白鳳彫刻で通例となる新しい要素がみられるとする。本像における古さと新しさの究明が1つの論点となるように思われるが、その位置づけによっては飛鳥・白鳳彫刻の様式観を大きく変えてしまう可能性もあり、本像は彫刻史の上でも見逃せない作例の1つといえる。痩身の中にも体軀の肉取りには柔軟性が認められ、鋳肌を活かした頭髪や腰から台座後面を覆うように広がる裙の表現にはそれぞれのもつ質感が見事に表わされており、その造形感覚には古代金銅仏の中でもとりわけ優れたものがある。

広隆寺(韓国比較)
(参考)広隆寺と韓国の半跏像比較
◆広隆寺&中宮寺 アンソロジー
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-226.html

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菩薩半跏像  1躯 銅造鋳造鍍金 像高20.4 朝鮮三国時代・6~7世紀 重文 N-158

N-158:上半身は装身具を全くつけない完全な裸形で、胴を細く絞り、両手を極端に細長く表現するなど、異色の作風を示す。その顔立ちもわが国の像とは異なった雰囲気があり、痩身でやや扁平な体軀表現は韓国・国立中央博物館の菩薩半跏像に通ずるものがあるなど、朝鮮からの請来像である可能性が強い。
本体・台座を含むほぼ一鋳で造り、腰部下辺まで内部を中空とし、それより上の本体上半部はムクとする。腰以下の銅厚はほぼ均一で、全体に薄手であるが、本体・台座ともに鬆が多い。右手第1指から付け根にかけては別製で造り、鋲留している。宝冠の裏面から後頭部の上半を除くほぼ全面に鍍金が残り、彩色は、正面の地髪部や垂髪に墨彩、眉、黒目、口ひげ、顎ひげに墨描きが認められる。
(注:本来は、下記の朝鮮三国時代系に分類すべきだが、半跏像という形態からここに掲げる)

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N-159:目が二重瞼の童顔の像で、背筋を表わし、柔軟な肉付けをした体軀や裙の襞などには自然なものがみうけられる。また、裙の縁取りに半截の九曜文をあしらい、榻座には山岳文を表わすなど装飾性が豊かで、特殊タガネや魚々子タガネを駆使した彫技も非常にこまやかである。台座反花の蓮弁の形が子弁を扁平に表わすなど再建期法隆寺の瓦に類似しており、本像は、その顔立ちとともにいわゆる童子形像の系統に近い作風を示している。

N-160:榻座に山岳文を刻むなど、N-159と同一の形式を示している。特殊タガネや魚々子タガネによる施文も同様にみられるが、N-159のように周倒なものではなく、裙の襞や山岳文には写しくずれにも似た造形上の簡略化、形式化が目立っている。なお、榻座部と反花の間に蓮肉部(側面に蕊を表わす)を設ける形式は兵庫・個人蔵の菩薩半跏像と共通するが、N-159にはみられないものである。

N-161:踏み下げる左脚が右脚に対して非常に短小で、結跏する右脚が左脚の下から出たり、裙の上端をかなり大きく四方に折り返すなど、その作風は極めて異色である。しかし、本像には7世紀後半の作例に通有の自由で大らかな造形が認められることも確かであり、一応わが国の白鳳彫刻の範疇に含まれる作例とみてもよいかと思われる。

N-162:眉が大きくつり上がり、切れ長の目をした特異な顔立ちをみせる像である。右脚の脛を強く反らせ膝の立ち上がりを大きく表わしたり、台座の両側面から背面にかけて、その上面から垂下する裙の間から1つおきに抑蓮をのぞかせる点などには独特の感覚がうかがわれる。また、踏蓮花座の蓮弁に棘状の毛彫りが施されることも留意すべき点である。

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3.朝鮮三国時代系

長身にして頭部は小さく頭身比率が高い、すっくと立ち姿のよい仏さま。そうした仏さまのサンプルも法隆寺宝物館に残されている。

N151の如来立像(銅製鍍金 像高33.4 朝鮮三国時代 6-7世紀 重文)はその一つである。その立ち姿からは、法隆寺の百済観音がにわかに連想される。


一方、N143の如来および両脇侍像やN158の菩薩半跏像も、同じく三国(朝鮮)時代・6~7世紀の作とされている。このグループは一様には語れず、形態でみても作風でもみても、いろいろなヴァリエーションがあるようにみえる。
 
三国(朝鮮)時代と一口に言ってもその系譜は実に複雑である。<1>朝鮮半島南部、<2>北部から中国東北部についても違いがある。

<1>は、歴史的には加耶(任那)、新羅、百済にわかれる。562年に任那が滅びて新羅になり、さらに660年に百済も新羅に統一されるが、このように、時代時代によって百済系と新羅系によってももちろん作風は異なる。

<2>の高句麗もかつては楽浪郡、扶余にわかれており、313年に楽浪郡が滅び、494年に扶余も高句麗に統合され、この高句麗時代が668年までつづく。
よって、飛鳥時代には、新羅、百済、高句麗の三国が鼎立していたことになる。

加えて、中国も隋(581-618年)以前には国が多くに分立されていた。たとえば北魏(386-535年)は、その後、東魏→北斉、西魏→北周にかわって隋に統一されていくが、ここでも作風は多彩、多様である。

三国(朝鮮)時代の3体の作風が異なるのは、以上からみても驚くにはあたらないだろう。3体(N151、N143およびN158)の仏さまが、誰のために、どこでどのようにつくられかによって、その作風はとうぜんに異なる。3体が舶載仏であり、その年代が6-7世紀と見なされるということがここでの共通項ということであろう。


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如来及両脇侍立像 3躯 銅造鋳造鍍金 像高(中尊)28.1 (左脇侍)20.9 (右脇侍)20.6
朝鮮三国時代・6~7世紀 重文 N-143

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如来立像・飛鳥時代

如来立像 1躯 銅製鍍金 像高33.4 朝鮮三国時代 6-7世紀 重文 N151
【東博の解説】裳裾を左右にピンと張り,口もとにほんのり笑みをうかべる八頭身の像で,側面観もスマートな「く」の字形をしめす。このような長身像の系譜は中国南北朝6世紀の造像に発するが,本像の様式はその南朝の影響下に展開した朝鮮三国時代の百済のそれを想わせる。

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(参考)法隆寺百済観音像

法隆寺金堂多聞天像
(参考)法隆寺金堂多聞天像

飛鳥白鳳彫刻を考えるにあたって、上記では一応、東博の分類(『法隆寺宝物館』東京国立博物館 1999年 pp.24-25)にしたがって、「朝鮮三国時代系」という言い方をとったが、前後の時代の朝鮮系もあれば、中国系もインド系もある。しかし、そもそも朝鮮の仏像は中国の影響をうけ、中国の仏像はさらにさかのぼってインドの影響もうけている。このように考えると、厳密に国別の影響という見方自体に無理があるように思う。そして、それ自体が仏像のもつ多彩で多様な魅力の源泉であろうが、下記はこれも東博のコメントにそってあくまでも便宜的に整理してみた。

【朝鮮の影響】

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N-152:左胸から右肩にかけて襷状に廻る裂をのぞかせ、右肩に肘まで覆う衣端を表わし、大衣の背面に2条の吊り紐をつけるなど、他にはあまり例のない服制を示している。右腕を垂下し掌に宝珠を載せる形もわが国では珍しいが、古新羅末の如来像(一般に薬師といわれている)にいくつかの類例が認められる

N-189:裙の裾をたくし上げ、足首をのぞかせる特色ある着衣法を示す像である。同種の着衣形式が、開元7年(719)の銘をもつ統一新羅初期の石造弥勒菩薩立像(甘山寺址出土)にもみられ、ともに唐代におけるインド風尊重の傾向を反映して造立されたものと思われる

【中国の影響】

N-146:右肩を露わにする偏祖右肩衣の像で、胸部や腹部には豊かな肉づけがみられる。一見素朴な作風を示すが、全体に大らかな気分をもち、その着衣形式や平行線を基調とする衣文表現、膝の張りに対して胴が長めに表わされる体形など、中国の隋から初唐にかけての影響が認められる

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N-178:胴を絞り腰をわずかにひねってのびやかに立つ像で、裙の柔らかな質感や天衣の流麗な動きなどにも瑞々しい造形感覚を示している。このような表現は、両耳に耳飾りをつけている点も含めて、隋から初唐にかけての様式的な影響が濃いといえる。また、台座反花の蓮弁の形が、N-181と同様に、薬師寺金堂薬師三尊の脇侍像のものと一脈通じる点も留意される。

N-173:右手を上げて水瓶を捧げ持ち、左手で天衣をつまみ腰をひねって立つ軽快な動きをみせる像で、笑みを浮かべる表情にも初々しい気分がある。片手を上げて持物を捧げる形式の菩薩像は、中国では隋以降の像に認められるものである。

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N-169:重々しく垂れる瓔珞やその表情には、中国の隋から初唐にかけての仏像の影響も一応認められる。

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N-185:向って右の像の宝冠には化仏を、左の像には水瓶を表わしており、それぞれ観音、勢至であることが知られ、本来阿弥陀三尊の両脇侍として造立されたと推定できる。腰をひねって立つ姿勢や像全体にみなぎる溌刺とした気分には初唐様式の強い影響がうかがえ、蓮花座の蓮茎前面に獅子や花形をあしらう意匠にも斬新なものがみられる。

【インド的仏像】

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N-186:ターバンのように束ねた髪、正面にだけつける髪留め風の頭飾、裾をたくし上げる裙などに、インド的な風俗を思わせる像である。その顔立ちや姿勢、天衣や裙のつけ方、先端に稜をたてる台座蓮弁の形などは、法隆寺に伝来した押出仏中、阿弥陀三尊及び比丘形像(例えばN-198)の脇侍菩薩像と共通するものが認められる。

N-187:N-186と同様の作風をみせる像であるが、本像のほうがやや大ぶりで、左掌に未敷蓮花(あるいは宝珠か)をのせ、右足では裙裾をさらに膝まで上げる点など、瓔珞や台脚部の形式等も含めて若干の違いは認められる。ともあれ、この2像の顔立ちや裙の形式等には独特の異国的な気分があり、それは、中国の初唐期に流行してインド・グプダ様式の反映とみることもできるだろう

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4.摩耶夫人及び天人像

ユニークな群像彫刻として、当館で皆がその前でたちどまるのが、N191の摩耶夫人及び天人像(全4躯 銅製鍍金 摩耶夫人 像高16.5 天人像 像高11.5-13.0 飛鳥時代 7世紀 重文)である。その物語はおもしろく、風をはらんだ天人の衣は動態表現としてもすぐれている。 

摩耶夫人

摩耶夫人及び天人像 4躯 銅製鍍金 摩耶夫人 像高16.5 天人像 像高11.5-13.0 飛鳥時代 7世紀 重文 N191
【東博の解説】ルンビニー苑にて摩耶夫人が無憂樹の花枝をた折ろうとするや釈迦が腋下から誕生したとの仏伝中の一場面を造形化したもので,この種の立体的な群像としては希有の作例。面貌や骨太い体躯には飛鳥の古様がうかがえ,衣文の表現も独特のうねりと鋭さが認められる。なお本一具は,承暦2年(1078)に橘寺から法隆寺に移された小金銅仏群のひとつである可能性が高い。

N-191:釈迦の母摩耶夫人は故郷へ帰る途中に侍者とともに立ち寄ったルンビニー園で、花咲く無憂樹の枝を手折ろうとした。まさにその時、夫人の右腋下から釈迦が誕生する。この劇的な場面を立体彫刻であらわした、めずらしい群像である。法隆寺の『金堂仏像等目録』に「釈迦誕生像一具之中」としてあげられる「摩耶夫人一躰」「所従綵女等三躰」にあたるものとみられる。摩耶夫人は蠟型(ろうがた)の1鋳で、像底から腰辺までを空洞にする。天人1・2は蠟型一鋳の無垢(むく)で、銅板製の天衣(てんね)を鋲で留めている。以上の3軀は飛鳥時代の製作とみられ、面長の顔つきや抽象的な衣文などに、止利派の金銅仏と一脈通ずるものがある。天人3は頭部と両臂先を体部と別鋳にして、蟻柄(ありほぞ)状に接合するもので、表面に鍍金が認められない。天人1にならった鎌倉時代ごろの補作である。

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5.木造仏

N193の如来立像(木造乾漆 像高52.6 飛鳥時代 7世紀 重文)には従来から注目している。献納宝物の金銅仏のなかにあって唯一の木造であり、材質はクスノキで、白鳳期の作といわれる木製の後背やそれを支える鉄製の支柱も当初からのものと目されている。同館のなかの資料室で調べても、あまりこの像のプロフィールの詳細な情報はない。横から見るとその像は百済観音によく似ていると思うところがある。

百済観音もN193同様、クスノキ製だが、この時代の多くは同様でありこれはあまり参考にはならない。体躯のバランスは大違いで長身痩躯の百済観音に対してN193は小像ながら中肉中背でやや下半身に重心がかかった感じである。服装、衣紋も異なる。しかし目元および横顔のラインは実に良く似ている。また体躯の線のカーヴも横から見ると結構似ているように観察できる。後背は、百済観音とN193では、支柱の材質こそ異なれ、これも同種の形式であり、横のラインの近似の印象の一因になっていよう。
百済観音に特徴的な指先は、N193は後捕でありこれは比較のしようがないが、作造時期はほぼ同じ時代であり、同じ仏所、工房の作であろうか。

なお、木彫の古い仏さまとして、コレクション外だが、C217の菩薩立像(木造・金箔押し・彩色 像高93.7 飛鳥時代)も大変興味深い作品である。


N193
如来立像 飛鳥時代・7世紀 木造漆箔 N193
【東博の解説】法隆寺献納宝物のなかでただ1つの木彫像。頭から台座まで通じて1本のクスノキから造られている。この像は7世紀後半の作で、木製の光背やそれを取り付けるための鉄製の支柱も当初のものです。

東博 菩薩立像(飛鳥時代)
(参考)菩薩立像 1躯 木造・金箔押し・彩色 像高93.7 飛鳥時代 C217
【東博の解説】飛鳥時代前期の木彫の稀少な作例の一つです。頭体幹部をクスノキの一材から彫り出しています。『日本書紀』には用明2年(587)に坂田寺の木の丈六仏を造った記事があり,仏像製作の初期から木彫が行なわれたことが知られます。

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6.山田殿像系、童子系、法隆寺系

時代が下ると、さらに様式のヴァリエーションは増えてくる。以下では便宜的に3つをかかげたが、ここで注目したいのは、「様式」というものの捉えかたについてである。東博の金銅仏ほか48体仏は、はやくから多くの専門家による膨大な研究が行われてきた。

その理由はよくわかる。研究対象としては、素材や大きさの似た、時代的にも6~8世紀(中心は7世紀)に集中した格好な「標本」が50以上も、いながらにしてあるのだから、研究者であれば、誰しも食指が動こう。<注1>

専門家による本仏像研究は、長きにわたって、海外比較、鋳造技術、個別の仏像の微細な特色にいたるまで積み上げられてきており、拙稿でもその成果を十分に使わせていただいている。さて、そこから導かれるメッセージとはなにか。

それは、様式の分類学と「純化」論への根源的な疑問である。あえていえば、様式は「純化」ではなく「混在」化されてきたといえるのではないか。もちろん、個々の特色の抽出は可能だが、そこには「進歩」も「退潮」もなく、大勢を観察すれば、「あるがままに混然としてある」ということではないかということである。
すべてが優劣の関係ではなく、並列的にあるといった見方ともいえる。これは技巧における優劣の判定を意味しない。また、美的な意味で美醜の基準を提供するものでもない。感性の領域かも知れないが、後世のほうが優れているともいえず、また一定のグループが他に優位だともいえないとも考える。<注2>

これ以降の時代の仏像についてもいえるが、仏師は施主(発願者)の意向にそって造仏する。自身の工房の特色の反映や意図せざる造像の「クセ」などはあるかもしれないが、もともと「様式の純化」などという発想はない一方、良きものは真似をして取り込み、そうでないものは削ぎ落していくという選択は当然あるだろう。飛鳥白鳳の金銅仏の面白さは、その多様性にあり、かつたかだか1世紀のあいだに純然たる様式の変化などあろうはずもないと考えるのが常識的ではないだろうか。現存する仏像の特色をグループ別に抽出することはできるが、様式の「純化」論は、後世の機械的な分類学の一人歩きであってはならないだろう。<注3>

実は、東京国立博物館の所蔵の小金銅仏を分析する「プロ」の客観的、かつ誠実な文章にそれは色濃く反映されているようにも思う。しかし、プロはある意味、不自由な義務も負っており、研究結果として、「あるがままに混然としてある」などといったら、仕事をしていないと怒られるのではとの強迫観念もあるかも知れない。
このことが、個人的にはとても興味深いし、そこを出発点として次の仮説(というよりも妄想)をいま書いてみたいと思っているのだが、それは稿をあらためてとしたい。


<注>
(1) たとえば、『東京国立博物館法隆寺宝物特別調査概報Ⅰ~Ⅹ』(白本)などを参照。30名以上の専門家による各作品の分析(品質、形状、技法、保存状況、法量)にくわえて、東京国立文化財研究所 平井良光「金銅仏の蛍光X線分析法による材質調査」などが掲載されている。1979年から7年間にわたっての継続調査であり、厖大かつ詳細な情報(報告書Xは1990年)の公刊である。特に、形状分析は微細にわたっており、そのエッセンス部分が東博HPでの記載になっていることがわかる。

(2) たとえば、東京国立博物館特別展「金銅仏―中国・朝鮮・日本―」図録(1987年)を参照。この国際比較展の作品の集積は素晴らしいが、丹念に作品図録をみていくと、そこからうける印象は「めくるめく」ような多様性であり、全体からなにかを抽出することの難しさ(裏をかえせば、豊富なボキャブラリーの面白さ)を感じる。拙稿を書くにあたっては、ハンディな東京国立博物館『法隆寺宝物館』1999年を参考としているが、両者をくらべると、金銅仏研究において、48体仏は全体の沃野の一部であることを改めて実感する。

(3) 浜田青陵『百済観音』(東洋文庫149 平凡社 1969年)を参照。戦前の仏像研究は、視野が大きく、国際比較(同時代の西欧における日本の仏像研究も多く紹介)の視点も広く瞠目させられる。たとえば、「中宮寺如意輪観音像の様式」では、その後、飛鳥白鳳仏研究でいまもよく使われる正面観賞性や側面観賞性という言葉の意味が実によくわかる。その一方、この言葉が戦後の仏像研究の「様式論」のなかで、あまりに安易に使われてきたのではないかとの疑問も持つ。

(参考)正面性 Frontality 「人体表現において、対象が観る者に対し正面を向いているという特徴を表わす概念。デンマークの学者、ユリウス・ランゲが1899年の著書『造形芸術における人間の形態』において、それ以前からも使用されてきたこの語に明瞭な定義を与えた。ランゲは紀元前500年以前のエジプト美術やギリシャ美術の彫像について、それらが頭の頂上から鼻、背柱、胸骨、臍、陰部を貫く正中線を持つこと、この正中線を軸に身体が左右相称的に展開すること、またこのときの身体の両側面がいかなる捻転も屈折も受けずに不変のまま留まることを考察し、これを「正面性の法則(Gesetzes der Frontalität)」と名付けた。正面性による姿態は運動の自然な表出を許さず、厳格な幾何学的規則に制限される。ランゲはこうした単純な規則への服従は、原始人類の生活における倫理や慣習と相応するものと説明した。ただし、ランゲの説は人間の横臥像や動物像といった逸脱例を除外しており、この法則についてはさまざまな反論や解釈が提示されている。例えば古典考古学者のE・レーヴィは、古代美術の彫像が記憶像の概念的再現に基づくとし、こうした原初的な創造活動が短縮法や背面・側面観の獲得につれ次第に発展していく過程を進化論的見地から論じた。また、古代ローマのレリーフやビザンティン美術、イコン画などに見られるように、正面性が権威や威厳の表現と結びつく場合もある。なお、ランゲの論文の抄訳は吉川逸治による翻訳で『ロマネスク美術を索めて』(1979)に収録されている。(著者: 中島水緒)
http://artscape.jp/artword/index.php/%E6%AD%A3%E9%9D%A2%E6%80%A7

【山田殿像系】

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N-144:左右脇侍の宝冠にそれぞれ観音を示す化仏と勢至を示す水瓶が表わされ、阿弥陀三尊像であることが確かなわが国最古の遺例である。中尊の倚坐形式や両脇時の三面頭飾、瓔珞の懸け方などに中国の北斉から隋にかけての仏像の様式を示すが、像全体のもつ大らかで瑞々しい気分は白鳳彫刻の本領ともいえよう。台座背面に刻まれた「山田殿像」の銘については、その「山田」という文字から、大化の改新で活躍した蘇我倉山田石川麻呂や彼が創建した山田寺との関連も想起されるが、その詳細については不明である。

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N-167:瓔珞の形や天衣のつけ方が「山田殿像」銘のN-144の両脇侍像と通ずるものがあり、魚々子タガネや特殊で随所に施文する点も同様である。

N-177:全体に大ぶりの像で、張りのある頬やその顔立ちにN-144「山田殿像」銘阿弥陀三尊像の中尊に近い感覚がみられ、体部正面に垂下する瓔珞の構成も同三尊像の脇侍のものに通じる。

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N-148:丸く張った頬やその表情に、法隆寺夢違観音像などと通じるものがあり、また、豊かな肉づけをもつ体部や衣の自然な表現に初唐様式の影響がうかがえる。宣字座の台脚部に残る枘や枘穴の位置から、本来、N-144の「山田殿像」銘阿弥陀三尊像と似た三尊形式の像であったことがわかる。

深大寺・釈迦如来倚像
(参考)深大寺・釈迦如来倚像


【童子形像系】

N153
N-153:体軀にたいして頭部や手足を大きく表わす愛らしい顔立ちの如来像である。台座の懸布には柔らかな質感が表わされ、また、頭髪部には魚々子文、衣の縁や衣文の稜には複連点文をそれぞれ各種のタガネで施すなど、その刻技もこまやかである。このような童子形像は7世紀後半に様々なヴァリエーションを示しながら展開し、この時期の彫刻に重要な位置を占めている。

海神神社の国指定重要文化財「銅造如来立像」
(参考)銅造如来立像 海神神社 重文

N-168:童子形像の一例で、全体に大ぶりの装飾が施されている。48体仏中には童子形像の代表例が他に4例あり、これらは法隆寺金堂天蓋の飛天、同寺の「六観音」と呼ばれる諸像、奈良・金竜寺の木造聖観音像等と同一系統といえる。特に、これら諸像のうち菩薩像の台座に表わされる蓮弁の形(複弁で子弁が扁平である)が再建期法隆寺の瓦の蓮花文と類似しており、童子形像と同期の法隆寺との深い関係が想定される。

N-175:童顔、童身の菩薩像である。その顔立ちは、N-179に代表される諸像とは作風を異にするが、7世紀後半に展開した童子形像の1つヴァリエーションとしてとらえられる像である。

観音菩薩立像・奈良時代

観音菩薩立像 1躯 銅製鍍金 像高29.3 飛鳥時代 7世紀 重文 N176 
【東博の解説】三面頭飾の正面に化仏をあらわし,右手に小珠をもつ観音像。体にくらべて手足が大きく,二重瞼の表情もあどけない童子形を示す。また台座の子弁が平らな複弁の形や,特殊タガネによる魚々子文と複連点文の多用は,法隆寺再建期の造像に特徴的な傾向といえる。

N-176:魚々子タガネや特殊タガネを駆使した入念で多彩な施文など、童子形像の中ではかなり繊細な表現をみせる像であり、胴をやや細く絞り下肢を長めに表わす体軀にも微妙な抑揚がみられる。また、蓮肉上面には蓮子が表わされており、N-179などに比べても、よりこまやかな感覚を示している。

(参考)近江路の神と仏3  三井記念美術館 報恩寺観世音菩薩立像
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-340.html

N-179:あどけない目鼻立ち、頭部や手足に対して短小な体軀など、本像は童子形像の代表例といえるものである。童子形像の源流は、朝鮮の新羅、さらには中国の斉周から隋の彫刻に求められるといわれるが、本像のように眉と目が大きく離れた特色ある顔立ちは中国や朝鮮の作例にも見出し難く、日本独自の作風的な展開があったこともうかがえる。

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N-188:N-179とほぼ同大で同一の形式を示す像である。ただし、正面の頭飾を花形とし、背面に明確な背筋を表わさないなど、若干の相違点は認められる。本像とN-153、N-179が本来三尊一具であったとみる説もあるが、それぞれ作風に微妙な違いがあり、また、中尊となるべきN-153の台座がN-179とくらべてやや簡素ともみなされることなど、なお検討すべき問題は多いと思われる。

金龍寺・菩薩立像
(参考)金龍寺・菩薩立像

香薬師如来像
(参考)香薬師如来像

【法隆寺系】
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N-163:本像と類似する作風の像としては、N-164、N-172、法隆寺観音菩薩立像(伝金堂阿弥陀如来脇侍)などがあり、いずれも像内に太い鉄心を残す技法も共通する。また、法隆寺伝来の押出仏中にも顔立ちのよく似た菩薩像が見出され(例えばN-198、N-206など)、これらは、法隆寺またはその周辺で活躍した一連の仏師たちによって制作されたものと考えられる。

N-164:腹帯の有無や衣文構成に多少異なる点はあるが、N-163とほぼ同大同形の像で、鋳造技法も全く共通し、型持の数やその位置までほぼ一致している。ただし、本像の場合、中空部内の中型土は頸部辺まで除去され、鉄心も残存するが、N-163のものよりも短く、頭部から腹部辺までである。また、榻座部の左側面下方を鋳懸けている。以上のように若干の相違点はあるものの、これだけ酷似した2像がそれぞれ独尊として造立されたか、はじめから1具として造立されたかについては極めて興味深い問題を提起していると思われる。

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N-172:幅の広い顔立ち、周囲に蕨手をあしらった頭飾やX状に懸かる瓔珞の形式、左手の第1指と3指で宝珠をつまみ、右手で水瓶を握って立つ姿勢など、法隆寺観音菩薩立像(伝金堂阿弥陀如来右脇侍)と強い共通性を示している。また、N-163、N-164とは顔立ちが類似するが、いずれも体内に太い鉄心を残している点、技法的にも共通する。

観音菩薩立像・奈良時代.j

観音菩薩立像 1躯 銅製鍍金 像高30.9 飛鳥時代 7世紀 重文 N182
【東博の解説】右手を心にそえてすっきりと立つ像で,頭飾には観無量寿経に説く観音の標幟である阿弥陀仏の化仏立像をあらわす。脚前をわたる天衣上に瓔珞を沿わせて片膝に一花をあしらう形や,素弁と複弁を組み合わせた台座などは,7世紀末ごろの像によくみられる特色である。

N-182:右手で胸飾りの垂飾を押え、左手で天衣をとって直立する端正な像である。装身具の連珠の一部や裙、天衣、台座蓮弁の各縁に特殊タガネで表わした複連点文にはこまやかなものがあり、また衣の縁取り線や連珠の刻出も丁寧で、全体に気品ある作風を示している。

観音菩薩立像・奈良時代.3

観音菩薩立像 1躯 銅製鍍金 像高31.4 飛鳥時代 7世紀 重文 N183
【東博の解説】三面頭飾をつけ,体部正面にX状の瓔珞を懸ける。この瓔珞および胸飾りには可愛らしい鈴もみえる。両肩を覆う天衣の端をピンと左右に張ったり,上半身に僧祇支をまとう形式は古様だが,やや幅の広い顔立ちには,いわゆる白鳳期のおおどかな情趣がうかがえる。

N-183:両肩に懸かる天衣が側面に強く張り出すなど古様な要素も認められるが、宝冠の意匠をはじめ、大小様々な玉に鈴を混える胸飾りや瓔珞には装飾性の著しいものがある。全体に重厚な体形を示すが、僧祇支や裙、天衣の縁取りに施された刻線、胸飾りと瓔珞の連珠の刻出などには極めて繊細な感覚がみられる。

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7.その他

以下では、他の寺院との比較のコメントがあるものなどをかかげる。なお、金銅仏そのものが、わが国で作られなくなる事情については、拙ブログ 仏像彫刻試論4 「造像の技法と素材」などもあわせてご覧いただければと思う。
また、法隆寺は聖徳太子ゆかりの寺である。その観点から「聖徳太子と仏像」では、法隆寺、広隆寺および中宮寺、四天王寺についてふれている。

◆仏像彫刻試論4 「造像の技法と素材」
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-206.html
◆「聖徳太子と仏像」
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-503.html

【他寺院仏との比較】

N-147:やや面長で口もとに笑みを浮かべる顔立ちには古様さを残すが、手指にはしなやかな動きがあり、衣文線も流麗な曲線を描くなど、その表現には自然なものがみられる。大衣は右肩に少し懸かって右肘下から左前膞に至り、内衣は右前膊で大袖状を呈するものであるが、その着衣形式は奈良・法輪寺の木造薬師如来坐像と同じであり、さらに古様な顔立ちながら瞼を二重にうねらす表現など、作風的にも共通する。僧祇支に施された半截九曜文(蜀江綿を表わすか)は一般に童子形の像をはじめとする7世紀後半の作例にみられるもので、本像の制作年代にもほぼその頃と考えられる。

N154
N-154:太く短い鼻、厚い唇など独得の顔立ちをした像で、その作風も全体に素朴な趣がある。平安時代の9世紀以降の製作とする見解もあるが、偏祖右肩につけた大衣の衣文構成や大らかな笑みを浮かべるふくよかな表情には、親王院如来立像など白鳳彫刻一般にみられる表現と通ずるものがあり、年代もそれほど下げる必要はないと思われる。

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N-157:台座全体の構成(抑蓮、上框、腰部、下框、反花、地付き枠からなる)が基本的に野中寺弥勒菩薩半跏像の台座と一致するが、像全体の造形は、野中寺像に比べると、頭体のバランスが整い、顔立ちもより穏やかなものとなっている。

野中寺弥勒菩薩2
(参考)野中寺弥勒菩薩半跏像 銅造鍍金 像高18.5 白鳳時代 天智天皇5年(666)
【奈良博解説】
台座に「弥勒(みろく)」の尊名と「丙寅(へいいん)」の暦年を刻む。6世紀から7世紀に東アジアで数多く造像された半跏思惟像(はんかしいぞう)の中で、唯一弥勒と銘記された、極めて重要な作品。裙(くん)に連珠円文(れんじゅえんもん)を表し、冠繒(かんぞう)(宝冠から下がった紐状の飾り)・腰佩(ようはい)(腰脇につけた装身具)を別製とするなど先駆的な要素が強い。

N-180:全体の姿勢や顔立ち、台座の形式などに大阪・金剛寺の観音菩薩像と共通するものが認められ、同系統の作家による作例と思われる。ただし本像の場合、胸飾りや瓔珞、腕釧、両足など十分に仕上げられないままに鍍金が施されている。何らかの事情で完成を急いだためかとも考えられるが、他方、タガネで細部を仕上げる以前の状態を確認できる点でも貴重である。
http://www.narahaku.go.jp/exhibition/2015toku/hakuhou/hakuhou_index.html

N-181:体軀に対して頭部が大きく、装身具も比較的簡素であり、一見すると古様さの残る像であるが、胸飾り中央の垂飾にみられる房形の飾りは薬師寺東院堂の聖観音像のものに通じる趣があり、さらに台座反花の立ち上がりの強い形が薬師寺金堂の薬師三尊の脇侍像のものと類似する点は注目される。また台座の仰蓮を魚鱗葺とすることも新しい意匠といえよう。

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【拾遺集】

N-170:面長のやや古風な顔立ちをした像で、宝冠も完全な三面頭飾にはなっておらず、7世紀前半の作例に多くみられる三山冠の趣が残っている。しかし、目を二重瞼とする点や流れるように垂下する天衣の柔らかな表情には7世紀後半の作例に通ずる感覚もあり、過渡的な時期の作例とも考えられる。

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N-171:左足をやや前に腰をひねって立ち、体軀に微妙な抑揚をつけている。像全体に捻塑的な感覚がみられ、また、目などは塑土に箆描きしたような形を示し、左右の位置がずれるなどやや無造作なところもある。像表面の仕上げが不十分のためか、全体として造形的に粗雑な印象は否めない。

N-174:蕨手状の文様で装飾される大ぶりの三面頭飾、連珠をあしらう胸飾りや瓔珞、二重に表わす瞼など、本像は7世紀後半に入って一般的となる特色を示している。しかし、端厳な顔立ちや体軀に対して大きめの両手、膝上でX状に交叉する天衣など、古様な要素も多分に残している。

N-184:満面に笑みをたたえ、腰を右にひねって立つ。蓮肉上で一度たるみをつけて裙裾の下を通り垂下する天衣、乳頭を表わす胸など、顔の表情を含めて、像全体に自然な表現が意図されている。特に、抑蓮を銅板切り抜きで別につくり、上下2枚を重ねて蓮肉下の角枘に挿し込んでいる点などは、そうした造形意識をよく示している。

N-190:腰をひねった体軀にはしなやかさがあり、腰裳や天衣の天衣線には軽快なリズムがある。正面頭飾後方の地髪部に丸枘穴が残り、本来別製の飾り(化仏か)をつけていたと思われる。各装身具の連珠の一部に魚々子タガネを使用し、裙と天衣の縁や衣文の稜等には特殊タガネで複連点文を表わすなど、その刻技は多彩でこまやかである。

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(参考)Nナンバー別のインデックス

☆は画像掲載分

☆N143、3.朝鮮三国時代系
☆N144、6.【山田殿像系】
☆N145、1.止利仏師系☆
 N146、3.【中国の影響】
  N147、7.【他寺院仏との比較】
☆N148、6.【山田殿像系】
☆N149、1.止利仏師系
☆N150、1.止利仏師系
☆N151、3.朝鮮三国時代
☆N152、3.【朝鮮の影響】
☆N153、6.【童子形像系】
☆N154、7.【他寺院仏との比較】
☆N155、1.止利仏師系
☆N156、2.半跏思惟像
☆N157、2.半跏思惟像(7.【他寺院仏との比較】に掲載)
☆N158、3.朝鮮三国時代系
☆N159、2.半跏思惟像
 N160、2.半跏思惟像
 N161、2.半跏思惟像
  N162、2.半跏思惟像
☆N163、6.【法隆寺系】
  N164、6.【法隆寺系】
☆N165、1.止利仏師系
☆N166、1.止利仏師系
☆N167、6.【山田殿像系】
 N168、6.【童子形像系】
☆N169、3.【中国の影響】
 N170、7.その他【拾遺集】
☆N171、7.その他【拾遺集】
☆N172、6.【法隆寺系】
 N173、3.【中国の影響】
  N174、7.その他【拾遺集】
 N175、6.【童子形像系】
☆N176、6.【童子形像系】
 N177、6.【山田殿像系】
☆N178、3.【中国の影響】
 N179、6.【童子形像系】
 N180、7.【他寺院仏との比較】
 N181、7.【他寺院仏との比較】
☆N182、6.(画像、関連掲載)
☆N183、6.(画像、関連掲載)
 N184、7.その他【拾遺集】
☆N185、3.【中国の影響】
☆N186、3.【インド的仏像】
 N187、3.【インド的仏像】
☆N188、6.【童子形像系】
 N189、3.【朝鮮の影響】
 N190、7.その他【拾遺集】
☆N191、4.摩耶夫人及び天人像 
☆N193、5.木造仏  【“法隆寺宝物館と飛鳥白鳳彫刻”の続きを読む】

韓国と日本の半跏思惟像が出会う

日韓半跏思惟像7
左から、6世紀に朝鮮半島で作られた国宝78号金銅半跏思惟像と、日本の国宝で7世紀に作られた奈良の中宮寺の木造半跏思惟像=キム・ソングァン記者//ハンギョレ新聞社

とても注目される展示会が開かれる。まずは、関連記事の引用から。

【以下は韓国側記事から引用】

韓国と日本の半跏思惟像が出会う

韓国と日本の古代美術を代表する半跏思惟像2点が、史上初めて出会った。 6世紀に朝鮮半島で作られた国宝78号の金銅半跏思惟像と、日本の国宝で7世紀に作られた奈良中宮寺の木造半跏思惟像が23日、ソウル龍山(ヨンサン)の国立中央博物館企画展示室で互いに向かい合う形で公開された。

韓日修交50周年を記念して24日から開かれる「韓日国宝、半跏思惟像の出会い」展で披露される二つの仏像は、神秘的な微笑を浮かべ思索に浸る姿を見せた。 素材が異なるだけに、表情の印象もそれぞれ独特だ。 二つとも思索する悉達多(シッタルタ)太子の姿を形象化した半跏像だが、子供のような表情に曲がった身体と指の描写が秀逸な国宝78号像と、鈍く黒光りする双髷とうすい目元が印象的な中宮寺の像は、造形的に際だった差異を見せた。

京都の広隆寺仏像と共に日本の半跏思惟像の名作に挙げられる中宮寺の像の海外展示は今回が初めてだ。 展示は6月12日までの3週間、休館日なしで続く。 6月21日~7月10日は東京の国立博物館本館へ場所を移して披露される予定だ。

ノ・ヒョンソク記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
韓国語原文入力:2016-05-23 21:05

1400年の時を経て一堂に会した韓日の至宝

広さ80坪(約260平方メートル)の展示場は暗く、2体の仏像だけに光が当てられている。そっと目を伏せて物思いにふける2体の半跏思惟(はんかしゆい)像が、10メートルの距離で向かい合っている。韓国の国宝第78号「金銅半跏思惟像」と日本の国宝「奈良中宮寺・木造菩薩(ぼさつ)半跏像」。韓国と日本の古代仏教彫刻を代表する2体の半跏像が、1400年の時を経て初めて一堂に会した。

韓国国立中央博物館(李栄勲〈イ・ヨンフン〉館長)企画展示室で24日から始まる特別展「韓日国宝半跏思惟像の出会い」は、この2体の仏像だけのために企画された展示だ。韓国の国宝第78号は、西暦6世紀に作られた三国時代を代表する仏像で、中宮寺木造菩薩半跏像は7世紀の飛鳥時代を代表するもの。どちらの仏像も、当時流行した弥勒信仰に基づいて作られた半跏思惟像の名品だが、材質や大きさ、細部の表現などは明らかに異なる。

まず材質。韓国の国宝78号は金銅で鋳造された。華麗な宝冠や装身具、美しく流れ下るような天衣の裾、S字のしわが寄った着衣後面の表現などが際立っている。金銅を一定の厚みで鋳造できた当時最先端の鋳造技術が、優れた造形と調和を実現した。一方、中宮寺木造菩薩半跏像は、クスノキを削って作られた。11個のクスノキの部材を組み立てるという手法を採り、よく見ると接合部の線が分かる。中宮寺の仏像が国宝78号より暗めに展示してある理由も、材質の差にある。同博物館のクォン・ガンミ学芸研究士は「中宮寺像は温度・湿度の変化に弱い木造なので、日本側から『100ルクス以下で展示してほしい』と要請された。韓国の国宝78号は、それよりやや明るく展示した」と語った。

高さは、中宮寺像の方が国宝78号の2倍以上もある。国宝78号は82センチ、中宮寺像は167.6センチ。ミン・ビョンチャン学芸研究室長は「国宝78号は小さいが、ラインが軽快で力がある。一方で中宮寺像は、丸くて柔らかさがある。中宮寺像は、見たところ顔の表情が表れていないけれど、眺め続けていると温和なほほ笑みが見える、というところに日本人特有の性質がうかがわれる」と語った。

今回の展示を推進してきた大橋一章・早稲田大学名誉教授は「『双子の仏像』と呼ばれる韓国の国宝83号半跏思惟像と日本の広隆寺・木造弥勒菩薩半跏像が一緒に展示されたらよかったのだが、広隆寺像は新羅で作られた仏像なので、韓日両国を代表する半跏像を比較・鑑賞するという趣旨には今回の2体の方が合っている」と語った。展示は6月12日まで。韓国国立中央博物館での展示終了後は、日本の東京国立博物館に移り、6月21日から7月10日まで展示される。

許允僖(ホ・ユンヒ)記者
朝鮮日報/朝鮮日報日本語版

【萬物相】韓国と日本の半跏思惟像

日本人はその仏像を「絶対秘仏」と呼ぶ。長野県の善光寺にある高さ40センチを少し上回る三尊仏のことだ。6世紀に百済が日本に仏教を伝える際、信仰の象徴として送られたもので、日本では最も古い仏像だ。善光寺は6年に1度、この仏像を一般に公開する。「仏像に触れば願いがかなう」という信仰もあることから、日本中から信者が訪れる。しかし彼らが実際に触ることができるのは、金堂の中に安置された仏像と長い糸でつながった庭の柱だけだ。それでも多くの人たちが柱を抱いて祈っている。その様子はまさに壮観だ。

奈良県の法隆寺にある百済観音像も1000年以上にわたり保存されている。2メートル以上の8頭身に、指先まで細かく再現した職人の繊細な腕前を目の当たりにすると「百済の美」を改めて思い起こす。日本はこの仏像を「くだらかんのん」と呼ぶが、それでも「日本の美学の精髄」として世界に誇っている。同じ法隆寺の金堂釈迦(しゃか)三尊像も日本が誇る国宝だ。7世紀に作られたものだが、背面には「止利」という制作者の名前が刻まれている。韓半島(朝鮮半島)から渡ってきた職人の子孫とされている。

奈良県は日本における古代史の中心地だ。古代の前半期に当たる飛鳥時代は韓半島の文明を受け入れ、国が大きく発展した時期だった。飛鳥地域を実際に歩けば、古代の韓国人が伝えた芸術の魂を実感することができる。中には韓国の慶州や扶余よりも多くの遺跡が残る所もある。東北アジアの奥地で、なおかつ外国からの侵略や略奪を逃れることができたからだろう。またこれらをしっかりと管理し保存してきた日本の貢献も否定できない。

昨日、奈良県の中宮寺に所蔵されている半跏思惟(はんかしゆい)像が、韓国の半跏思惟像と共に国立中央博物館に展示された。これも飛鳥時代の作品だ。法隆寺の百済観音像と同じく木造であるにもかかわらず、1000年以上保存されている。今回、海を越えて自らの源流と向かい合ったわけだが、像の仏様もにっこりと笑みを浮かべたのではないだろうか。日本の文化財といえば、日本の略奪行為や収奪をまずは思い浮かべる。そのため今回の展示は一層新鮮で喜ばしいものだった。

日本の古代史は飛鳥時代を経て平安時代へと続く。奈良から京都まで歴史の現場を実際に歩くと、韓半島文明の影響が急速に弱まることが分かる。外来文化を昇華し、輝かしい独自の文化を創り上げるプロセスは、日本の古代も韓国と共通している。中宮寺半跏思惟像は、日本がこのように自立していく文化史のどこかに位置しているはずだ。今回の展示が、開かれた心で韓日両国交流の歴史を見つめ直す前向きな機会になることを期待したい。

鮮于鉦(ソンウ・ジョン)論説委員
朝鮮日報/朝鮮日報日本語版

http://www.hani.co.kr/arti/culture/culture_general/745094.html 訳J.S(682字)

日韓半跏思惟像4

【以下は日本側記事から引用】

日韓の国宝の仏像そろって展示 ソウルで開催へ:NHK

日本と韓国の仏教を通じた交流の歴史を物語る両国の国宝の仏像をそろって特別に展示する初めての催しが、24日からソウルで開かれます。

この特別展は、日本と韓国が国交正常化して去年で50年を迎えたことを記念し、東京国立博物館と韓国の国立中央博物館が中心となって24日からソウルで開くもので、これを前に23日、内外のメディアに公開されました。
会場には、日本で7世紀に作られた奈良県の中宮寺の本尊である国宝の「菩薩半跏思惟像」と、韓国で6世紀に作られた韓国の国宝「金銅半跏思惟像」が、向かい合う形で展示されています。

いずれの仏像も、台座に腰掛けて右足を左の膝の上に組み、右手の指をほおに添えて物思いにふける姿を表現しており、その様式はインドから中国へ、そして朝鮮半島を経て日本へと伝わったとされ、仏教を通じた両国の交流の歴史を物語っています。
ソウルで記者会見した東京国立博物館の銭谷眞美館長は「日韓の至宝が出会うこの機会が両国の友好と絆を深める機会となってほしい。一人でも多くの人に見ていただきたい」と述べました。
この催しは、ソウルの国立中央博物館で来月12日まで開催されたあと、東京国立博物館でも、来月21日から7月10日まで開かれることになっています。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160523/k10010531931000.html (動画あり)

日韓の「ほほえみ仏像」、初の共同展示 ともに国宝指定:朝日新聞

日韓でそれぞれ国宝に指定されている仏像「半跏思惟像(はんかしゆいぞう)」を1体ずつ共同で展示する特別展が24日、ソウルの国立中央博物館で始まる。ほほえみを浮かべているような日韓の仏像の美を通して、文化交流を深めるのがねらい。日本では6月21日から7月10日まで東京国立博物館で展示される。

特別展は韓国の国立中央博物館と東京国立博物館などが主催。主催者側によると、半跏思惟像は、左足を下げ、右足をそのひざの上に組んで座り、右手をほおに添えて物思いにふける仏像をいう。インドから中国、朝鮮半島をへて、日本に伝わり、日本や朝鮮半島では、6~8世紀に多数作られたとされる。

今回展示される日本側の半跏思惟像は中宮寺門跡(奈良県)に伝わる国宝で、海外で公開されるのは初めて。韓国側は国立中央博物館が所蔵し、国宝として広く親しまれているという。この2体の仏像が一緒に展示されるのは初めて。

23日は特別展の開幕に先立ってメディアに公開され、韓国の李栄勲(イヨンフン)・国立中央博物館長が「(2体の仏像が展示されるのは)歴史的な出会いであり、韓日文化交流に新たな転機となる」とあいさつした。銭谷真美・東京国立博物館長も「両国の交流の結実とも言える2体の仏像が大切に守り伝えられ、展示されるのは日韓両国の歴史と意義を象徴している」と語った。(ソウル=東岡徹)

国宝仏像前に献茶式=日韓2体の同時展示開催-韓国:時事通信

【ソウル時事】日韓両国で国宝の半跏思惟像2体を同時展示する特別展が24日から、ソウルの国立中央博物館での展示を皮切りに開かれる。23日には開眼供養と献茶式が行われた。
半跏思惟像は右足を左足の膝の上に組み、右手を頬にあてて思案する姿の仏像。インドから伝わり、日本や朝鮮半島では6~8世紀に制作が始まったという。日本からは中宮寺(奈良県斑鳩町)の像が出品された。国外で初の展示となる。

23日には開会式とともに中宮寺や韓国の尼僧による開眼供養、茶道・裏千家の千玄室大宗匠による献茶式が行われた。森喜朗元首相と別所浩郎駐韓大使も参加した。
特別展はソウルで24日~6月12日、東京国立博物館(上野)で6月21日~7月10日まで開かれる。同館の銭谷真美館長は「友好と絆を深める一助になれば」と話した。(2016/05/23-19:31)

日韓半跏思惟像3 【“韓国と日本の半跏思惟像が出会う”の続きを読む】

飛鳥大仏 いま甦るその実像

飛鳥大仏 2

以前に以下の記事(2012年10月20日)を読んだ。「飛鳥大仏 ほぼ造立当初のままの可能性 文学学術院・大橋教授らがX線分析、従来の見解覆す研究成果」(https://www.waseda.jp/top/news/6373)。
今回の読売新聞の記事はそれを踏まえたものであろうか。それはさておくとしても実に興味深い。


【以下は引用】
鎌倉期焼損も、造立の姿残す

 日本最古の本格的寺院、飛鳥寺(奈良県明日香村)の本尊・銅造釈迦如来坐ざ像(通称・飛鳥大仏、重要文化財)の材質調査に、藤岡穣ゆたか・大阪大教授(東洋美術史)らの研究グループが、今夏から取り組む。鎌倉時代に火災に遭い、ほとんど原形をとどめていないとも考えられてきたが、昨年の予備調査で造立当初の部分があることを確認。頭部についても当時の造形のまま残っている可能性が高く、再評価につながりそうだ。

 飛鳥大仏は像高275センチの鋳造仏。渡来系の仏師、鞍作鳥くらつくりのとり(止利とり仏師)が手がけ、609年に完成したとされる。奈良・東大寺の大仏造立(752年開眼)を100年以上遡り、文献上、日本で制作されたことが確認できる最初の仏像だ。

 1196年、落雷による火災で、大仏が安置されていた金堂が焼失。大仏も大きく傷ついたとされる。戦前は国宝だったが、1950年に文化財保護法が施行された際、「残存状態が悪い」と判断され、国宝再指定はされなかった。

 藤岡教授らは2013年度から、大阪市立美術館所蔵の誕生釈迦仏立像(飛鳥時代)など、5~9世紀を中心とする金銅仏約500点の調査に取り組んできた。その一環として昨年8月、この大仏の予備調査を実施。金属の成分がわかる蛍光エックス線を用いて、大仏の表面約20か所を調査した。

 その結果、右手の指と手のひらは銅87~88%、錫すず5%、鉛4%で、飛鳥時代の金銅仏の成分と特徴が一致。造立当初のものが残っていると判断した。

 予備調査では足場が組めなかったため、頭部の成分分析はできなかったが、表面は右手とよく似た仕上がり具合となっている。このため、頭部についても、造立当時の様式を保っているとみられるという。

 頭部には補修した痕跡が多数残っており、これまでは火災で大きく損傷した証拠だとされてきた。これについても、藤岡教授は「当時の技術が未熟だったため、鋳造中に欠損してしまった部位を、造立時に銅材で補った跡もあるのではないか」と指摘。大仏の顔の一部には鋳造後に金メッキを施された跡が残っており、「完成すれば、補修跡は分からなくなると考えたかもしれない」と推測する。

 本調査では、足場を組んで頭部を含む全体を詳細に分析。造立当時の部分と補修部分を区別するとともに、補修が行われた時期についても検討する。

 藤岡教授は「飛鳥大仏は我が国の仏教史上、最も重要な仏像の一つ。実態を解明したい」と話している。

2016年01月30日  読売新聞
http://www.yomiuri.co.jp/osaka/news/20160130-OYO1T50015.html

飛鳥大仏images

興福寺 仏頭  東京藝術大学大学美術館で拝顔

興福寺仏頭10

http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-369.html

  閉館近くならば、時間は短くとも人出を気にせず拝観ができると思って本日、家内と東京藝術大学大学美術館に足を運ぶ。3時40分すぎに入館したがなお結構な人でむせかえっている。しかし、ずっと仏頭のおあす3階につめて幾度も回遊しているうち、5時近くにはゆっくりと拝顔することができた。

 この仏さまについては、3年前の2010/05/07(金)にこう書いた。


http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-170.html

 いまから約40年前、この仏頭をはじめてみた時の衝撃が思い出される。いまでは想像のできないくらい粗末な宝物館で埃まみれ、無造作に置かれていたように記憶している。そして、沸々と疑問がわいてきた。なぜいま、こういう(無惨な)お姿で残っているのだろうか? 仏頭の大きさ(総高98.3㎝)から考えると、像全体の巨大さはいかばかりだろうか? 白鳳彫刻の同時代で似た仏像はあるのだろうか?・・・

 実は、そうした思いはいまもあまり変わっていない。この仏像の発見の経緯などを調べれば、いかに数奇な運命をたどってきたかがわかるが、その尊顔の素晴らしさから、これを破壊せず(鋳直さず)後世に残していこうという強い意思が働いたか、あるいはある種の呪術的な思いから須弥座の下に再度、安置されたのかも知れない。
 全体の像容の大きさは推して知るべしだが、現存の仏像では、作風はいささか異なり、一回り小さいかも知れないが蟹満寺釈迦如来像(像高約240センチの金銅像)がそのスケール感を「追体験」するうえではひとつの参考になるだろう。また、そのお顔についての類似作は、小さいけれど、法隆寺夢違観音、鶴林寺菩薩立像(聖観音)、盗難にあってレプリカしか残っていないが、新薬師寺香薬師如来立像の白鳳名品「3立像」の金銅仏が直観的に思いつく。

蟹満寺釈迦如来像
蟹満寺釈迦如来像 白鳳時代

 この仏頭の魅力は、頬のふくよかしさ、切れ長で凛々しき目元、アーカイック(古式)の笑いを消した、しかしどこか優しさを湛えたその表情にある。若々しく童子的な印象もあり、否、大人をも超越した神々しさもありといった両義性、それが微妙な均衡を保っている。さらに、観察者が、喪われた巨体を想像し、自ら見上げる姿を思い浮かべるとき、本来であれば、仏頭をこんなに間近で拝顔することはできないし、なにより合わせるべき目線の位置は決定的に異なることに気づくだろう。その1点だけでも他とは違った存在感がある。


興福寺仏頭2

 きょうは、仏頭を見上げながら(良い仰角の展示である)持統天皇とその時代についても少しく考えていた。
 これに関連し、2010/08/16(月)以下を本ブログに書いた。


【仏像彫刻試論3 政治との関係】
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-195.html

 仏像をつくる、祭るということは古代、中世にあって、いまとは比較にならないくらい重い政治的、祭儀的な意味をもっていた。ゆえに、それは時の政権の意思、庇護なくしてはなしえなかった。寺に仏像が祭られる以上、その寺がどのような位置づけで開山され、また社会的に機能したかが重要である。

 日本における造寺のはじまりは、蘇我一族によって主導された。596年法興寺(→飛鳥寺、日本書紀)、607年法隆寺(法隆寺金堂薬師光背造像記)などが創建されたのは蘇我馬子、厩戸(うまやど)皇子(→聖徳太子)らの皇族・蘇我ファミリーの仏教振興への強いリーダーシップあればこそである。日本書紀などの記述をどこまで信じるかどうかの問題は擱くとしても、587年蘇我VS物部の抗争(蘇我馬子による物部守屋討伐)が、崇仏、排仏を争点としてなされたと伝えられること自体の政治的な意味合いは実に大きい。

 その蘇我一族の強大な権勢を排除せんとしたのが中大兄皇子(→天智天皇)と藤原鎌足である。ここにも日本書紀の潤色があるかも知れないが、この二人の時代は661年白村江の敗戦など外交、内政上の非常な難局に直面していた。律令整備は独立国家としての存立上も不可欠であった。672年壬申の乱により大海人皇子(→天武天皇)の勝利は、その後、天武ー持統ー軽皇子(→文武)ー元明ー元正ー首皇子(→聖武)、光明子ー孝謙(称徳の重祚)まで約100年にわたり(政治的には別だが)「皇族系譜」としては<安定期>を迎える。

 そして、この100年こそ、いまにいたるまで、われわれがその遺産に感歎する白鳳・天平文化の象徴とでもいうべき仏像、建築の集積をみる。たびかさなる遷都については、以下のブログでも記してきたが、710年平城京(奈良)遷都後、はやくも同年(山階寺→厩坂寺→)興福寺、716年(大官大寺→)大安寺、718年(法興寺→)元興寺、薬師寺、728年(金鐘寺→)東大寺などが移設、整備され752年東大寺大仏開眼供養(続日本紀)で頂点を迎える。その後も756年正倉院(東大寺献物帳)、759年唐招提寺(伽藍開基記)などが続くが、この間の律令制の実行と鎮護国家論の影響は造像の背景として忘れてはならない。


興福寺仏頭8

 この仏さまは、旧山田寺から略奪されて興福寺に運ばれたのだが、その興福寺のすさまじい歴史についてもかつて書いた。以下を参照されたい。

【興福寺2】2011/06/06(月)
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-234.html

 運慶、慶派についても折々に書いてきたが、今日の展示のハイライトは、この仏頭とそれを守護する十二神将が一同に会していることにある。そしてこの十二神将は慶派の手になる。運慶は1187年(文治3年)に、興福寺に運ばれてきた破損まえの本像全体をじっくりと観察していた。これは1183年の有名な「運慶願経作成」から4年後のことであり、まさに運慶、昇竜の兆しの時期と重なる。ここもまた興味は尽きない。

【運慶考3 年表】2011年01月30日
http://blog.livedoor.jp/shokkou/archives/1901995.html

興福寺 運慶仏頭
釈迦如来像頭部(木造、漆箔)運慶作 重要文化財 (注)

(注)興福寺西金堂の本尊だった釈迦如来像の頭部。『類聚世要抄』(鎌倉時代編纂)の興福寺に関する史料に、文治2(1186)年 西金堂本尊に関する記事に大仏師運慶の名がある。近時、運慶作とみなされるが、造像にあたって対にあたる東金堂本尊の本像をおそらく運慶は深く研究していたことであろう。

【興福寺 「2つの仏頭」の奇跡】
http://blog.livedoor.jp/shokkou/archives/2050143.html

 本展示についていくつかの感想を記しておこう。

1.東京藝術大学大学美術館は、立地環境、展示の配置、照明効果など素晴らしかったが、でもなぜ今回は東京国立博物館での公開ではないのだろうか?どこかを検索すればたちどころにわかることかも知れないが素朴な疑問である。

2.板彫十二神将、木造十二神将の同時展示は面白いが、そのコンセプトであれば一歩進めて、本像のもともとの脇持説もある(あった)興福寺東金堂の日光・月光菩薩を是非、両脇に鎮座させてほしかった。両像を出せないなにか特別な理由があるのだろうか?


【仏像は深い38 興福寺東金堂の日光・月光菩薩】2010年10月09日
http://blog.livedoor.jp/shokkou/archives/1857412.html

3.本当に久しぶりに再会した深大寺釈迦如来倚像の展示は、実にさりげなく、とても気が利いていて有難かった(できれば盗難にあい本物はないが新薬師寺香薬師如来立像の「レプリカ」も見ることができたら最高!)。CGでの金色シミュレーションも見事。これぞ現代技術とのコラボレーションの典型と感じいった。

深大寺 釈迦如来倚像
深大寺銅像釈迦如来倚像(白鳳時代、7世紀 重文)

<備考>
◆公式HP http://butto.exhn.jp/highlight/index.html

◆最後に、参考にさせていただいたブログhttp://www.narayaku.or.jp/narayaku/narayaku/03_1.htmlから。

【以下は引用】

(1)戊寅(ぼいん・つちのえとら)678年12月4日に丈六の仏像(薬師三尊)が銅に鋳造され、乙酉(いつゆう・きのととり)685年3月25日に山田寺創建者の蘇我倉山田石川麻呂の祥月(しょうつき・故人が死んだ月)命日に仏眼を点じた。つまり、石川麻呂の自害後36年の開眼供養であった。

(2)1187年(文治3年)、興福寺の僧が山田寺の薬師三尊像を強奪し、興福寺の東金堂の本尊とする。
興福寺は治承4年(1180年)の平重衝の焼き打ちに遭って伽藍の殆どを焼失した。その後の再建の過程で同寺の東金堂の焼けた本尊の代わりとして当時荒廃していた山田寺の薬師三尊像に目をつけ、強奪したのであろう。当時の興福寺の勢力の強さが想像される。

(3)1411年(応永18年)に東金堂は雷の火災で、この仏像の胴体が失われ、頭部だけ残った。

(4)1937年(昭和12年)に興福寺の東金堂の修理中に須弥座の下より仏頭が発見され、大きく新聞などで報道され、その後上述の如く国宝・仏頭(薬師如来)として、興福寺国宝館に展示されている。

(5)この仏頭は童顔の若々しい張りのある肉付き、眉と眼の直線的な切れ味、高い鼻梁(びりょう)、長く垂れ下がる耳は白鳳期の特徴をよく示している。
1023年(治安3年)10月に53才の藤原道長は高野山参詣の途中、飛鳥・山田寺に寄り、堂塔及び堂中は奇偉荘厳で言語に尽くしがたく黙し、心眼及ばずと感嘆した。当時の山田寺の荘厳なことと仏頭(薬師三尊)の凛然(りんぜん)とした姿に感服したのであろう。 【“興福寺 仏頭  東京藝術大学大学美術館で拝顔”の続きを読む】

テーマ:文明・文化&思想 - ジャンル:学問・文化・芸術

飛鳥白鳳彫刻試論

永青文庫1
重要文化財, 金銅如来坐像 銅造鍍金
劉宋・元嘉14年(437)銘


 飛鳥・白鳳仏にわれわれが惹かれるのはなぜだろうか。

 飛鳥・白鳳時代とはいつまでをさすのかという「論争」はひとまずおくとして、一応奈良時代の前期までの時代とゆるやかに考える。この時代の血なまぐさい歴史はまずもって驚きである。天皇家と諸豪族間の複雑で近親性の強い結合と離反、豪族間でのすさまじいばかりの権力闘争、そして多くの死と葬列。
 われわれが、いまもこころの安寧をえるこの時代につくられたすばらしい「仏像」とその辛酸な権力闘争の「時代」とのミス・マッチにはいわく言い難いほどの乖離がある。

http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-37.html
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-70.html
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-193.html


1. 仏教および仏像の受容

 仏像は、仏教のための偶像であった。よって、インドで生まれた仏教の受容について、若干の経緯をメモしておこう。

(1) 中国の受容

 日本に仏教が伝来する以前、インドから請来された仏教の中国での受容については多様な展開があった。さまざまな分派があったとも言えるし経典の解釈にも単線的でない「厚み」があり、偶像信仰についても釈迦、弥勒、観音などのヴァリエーションもすでに展開されていた(この点は「空海論」で少しく書いたので参照されたい)。
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-261.html

 また、「先進国」中国は当時にあって文化の坩堝であり、宗教という側面のみならず、「新しいイデオロギー」としての仏教も、それ以前の既存の価値観(儒教、道教など)との相克、同化、新たな定立の過程で変容していく。
 そうした中国での受容過程の一方、「先進国」中国から仏教は、時を移して「属国」に拡散する。その時期と形態のちがいによって、各国内での仏教の胚胎の仕様がかわっていく。壮大な潮流の満ち引きがダイナミックに展開されていく歴史がここにあると言えよう。

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 これは仏像についても同様である。インドで生まれたガンダーラ美術が、一般に仏像彫刻の淵源といわれる。西洋人的な風貌、髭をはやし屈強な骨格をもち威圧感のある彫像が多い。その特色から一目でガンダーラ美術とわかるくらいだが、立像は闘争神的でもあり、邪鬼の原型もみてとれる。衣紋は複雑に刻み律動感もある。

 次のマトゥラー彫刻は、ガンダーラよりもインド土着の影響が強いといわれるが、いろいろなパターン、多様性があり一概に特定はできない。薄く彫ったシルキーな衣紋といい、円形光背の配置といい、仏様のやや優しい表情などで、<剛>のガンダーラに対して<柔>の印象ももつが、こうした彫像はかなり日本の仏像に近いイメージをかもしているようにも思う。

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 そして、インドから中国へ。中国では石窟彫刻が有名である。その白眉とでもいうべきが、雲岡石窟第20窟の如来坐像である。「雲岡、敦煌詣で」は、かつてでは考えられなかったが、いまは一種のブームでもあり、多くの日本人観光客も目にすることができるようになった。しかし、以前からの疑問なのだが、われわれが惹かれる飛鳥・白鳳彫刻とシナジーを感じる中国の彫刻は、実は一部を除き多くはないのではないか。もちろん、様式の共通性はある。彫出仏などはその典型だし、三尊形式もしかり。しかし、そのご尊顔では一部を除き異質性を感じるほうがはるかに多いのではないかとも思う。このあたりが、仏教および仏像の各国受容の多様性のあらわれであり興味は尽きないところである。

(2)「属国」への伝搬

 高句麗(372年)に、次に百済(384年~)、遅れて新羅(514年~)に仏教は「公伝」されるが、もちろんこれ以外の民間レベルの私伝ははやくからあったと推定される。
 このうち、百済は枕流王(384年)、武寧王(501-523年)、聖明王(523-554年)の時代にそって隆盛をみていくと考えられる。これら三国は当時の中国の「冊封」(さくほう)下にあるいわば属国であり、仏教は宗主国からの一種の文化移入、「公伝」であることが重要である。

 また、朝鮮半島といっても、いくつかの系譜がある。<1>朝鮮半島南部、<2>北部から中国東北部についても違いがある。
 <1>について歴史的には、さらに、加耶(任那)、新羅、百済にわかれる。562年に任那が滅びて新羅になり、さらに660年に百済も新羅に統一されるが、百済系と新羅系によってももちろん特徴は異なる。

<2>の高句麗もかつて楽浪郡、扶余にわかれていた。313年に楽浪郡が滅び、494年に扶余も高句麗に統合され、この高句麗時代が668年までつづく。よって、飛鳥時代には、新羅、百済、高句麗の三国が鼎立していたことになる。

 加えて、中国も隋(581-618年)以前には国が多くに分立されていた。たとえば北魏(386-535年)なども固有の特色があるが、その後、東魏→北斉、西魏→北周にかわって隋に統一されていく。

(3)日本への伝来

 日本への仏教伝来については、壬申伝来説(552年)と戊午伝来説(538年)が従来からあるが、「欽明朝」のいずれかのタイミングとの説に立てば、推定レンジは、欽明元年(532年:法王帝説)から欽明帝の没年(571年:日本書紀)までの間となる。
 これは、あくまでも「公伝」であり、古墳の「四仏四獣鏡」などにはこれよりはやくから釈迦三尊像、二尊像が配されていることからも、仏教的なるものは、日本にも渡来人を中心にもたらされていた。

 前述のように、仏教とともに仏像も中国から朝鮮半島にいたる。朝鮮半島で熟成した技法、素晴らしいセンスが日本へも伝えられる。はじめは「直輸入」といっても良いだろう。しかし、御本地の半島では、戦禍があいつぎ他の地域と同じように、あるいはそれ以上に、固有の歴史的な資産、蓄積が壊滅的に失われる。
 日本にも多くの戦争、自然災害はあったが、奇跡的に、いまある優れた資産が残された。それは、日本民族が古仏を大切に伝承してきた証であり、誇りであるとも言えよう。

 韓国中央博物館の弥勒像をみて、日本の国宝第1号広隆寺のそれとの近似性に驚く人は多いだろう。自分も学生時代、はじめてその事実を知った衝撃は大きかった。
 この2像の存在は、日韓のさまざまな同一性の問題を提起し、考えさせられる多くの課題をわれわれに問うている。また、雲崗石窟交脚菩薩像のうち横顔がよく似ているものも知られている(『魅惑の仏像 弥勒菩薩』毎日新聞社 2000年 pp.68-69の写真を参照)。

広隆寺(韓国比較)

 広隆寺の宝冠弥勒は聖徳太子が没した翌年、622(推古30)年に新羅の真平王(しんぺいおう)が太子追善に送ってきた仏像という説がある。
 前述のように660年までは百済があった。広隆寺の宝冠弥勒に似た韓国ソウル国立中央博物館の金銅弥勒像は、そのふくよかで柔らかい作風から百済系ともいわれる。また、韓国国宝第78号弥勒菩薩なども、宝冠や服装は異なるが、全体の姿は宝冠弥勒によく似ている。

 任那の日本の「出城」がなくなったときに、引き揚げ者のなかには多くの朝鮮の人がいたであろう。同様に、百済が滅亡し、そのほかにも滅びた国があったから、そうした人びとのうち海を渡って日本に来た帰化人は多かった。
 当時の帰化人といえば、職種にもよるが相当な知識人、テクノクラートもいた。新羅や高句麗は中国文明などの受容を陸続きで日々にうけて、日本よりもはるかに先進国であった。また、飛鳥時代以上に、白鳳時代は統一新羅の影響が強かったことであろう。

 崇仏派たる蘇我氏と排仏派たる物部氏との抗争という日本書紀で描かれる「構図」について、帰化人動向に注目し、東漢氏および所領をめぐる権力闘争論に主軸をおいて解釈する考え方がある。その場合、物部氏にも実は仏教受容の開明性はあったのでないかといった問題提起も可能であり面白い。

 しかし、その一方で、蘇我一族が仏教受容に熱心であった事実は動かしがたく、それは当時の中国および朝鮮半島情勢を分析していれば、いずれ仏教が、東アジア全体で重要な支配モメンタムになるという可能性をみていたからかも知れない。

2. 聖徳太子について

 この時代でもっとも重要なのは聖徳太子である。関連の本を手にとってみると当時の仏教受容問題の大きさにも驚く。それまでのシャーマニズム、自然神信仰とは異質な、新たな価値理念としての仏教の到来。当時の人たちの戸惑いと畏敬はわれわれの想像をはるかに超えるものであったろう。そして、その仏教とともにもたらされた舶来品としての仏像。その尊顔をみた当時の人びとの衝撃は大きかったはずである。

 聖徳太子とは何者であったのか。ここでは、秀でた政治家で仏教などの新文物にも明るく、「鎮護国家」論以前の仏教の教典としての意義、大乗仏教のもつ信仰面での重要性を認識していた知識人像が浮かび上がる。その一方で、なんでも自分で成し遂げる「スーパースター」性には疑問もある。

 蘇我馬子、厩戸(聖徳太子)、鞍作(止利)といった名称から共通に導かれる<馬>は、騎馬兵のイメージにいきつく。斑鳩から大和(明日香)まで約20キロの行程、馬を疾駆する若き、そして壮年の太子の姿は想像にかたくない。斑鳩近郊には馬場もあったようだ。そこでは平時にあっても騎兵の教練が行われていたかも知れない。

 また、外交の<海の道>は、豊かな瀬戸内海の食糧資源確保のための<海上補給路>でもある。太子がいまの松山を天寿国に見立てたのは、ユートピア論からばかりとは思えない。網干や加古川の太子ゆかりの海洋都市は当時にあって有力なロジスティックスの拠点でもあったろう。そう考えると任那への救援を名目とした瀬戸内への身内の出兵は一種の軍事訓練の色彩もあったかも知れない。

 その一方、蘇我氏の所領も大変な大きさをもっていた。黛弘道『古代史を彩る女人像』(講談社学術文庫 1985年)を読んでいると、実は、聖徳太子(上宮家)の拠点はおおむね「点と線」でむすばれていたにすぎず、蘇我一族は河内、大和ともに「面的」に広大な領地を掌握していたことがわかる。しかも、そうした領地はいずれも物部討伐によって、旧物部氏所有地を塗り替えたところも多く、蘇我家、上宮家とも、そこに住まう住民を含めて割譲、統治したとも言えそうである。そこにはしたたかな政治的な行動原理も貫徹されていた。

 「三宝」とは政治的資源でもあり、また最先端の人文・科学知識の集積でもあったろう。僧は還俗すれば優秀なテクノクラートであったし、寺は危急の際は軍事的砦にもなりえた。そうした観点からは、仏像は、ひとびとに威厳を示し安寧をあたえるシンボルでもありえたし、もっと機能主義的に考えれば、文字通り軍事的「守護神」とも考えられる。もちろん、現存する仏像がすべてそうしたことを念頭に造像されたわけではない。小金銅仏などは持念仏や鎮魂的な意味からつくられた仏様も多かったろう。しかし丈六の巨大な仏像などはもっと多義的な意味をもっていたと考えるほうがよいかも知れない。

 聖徳太子の時代、多くの国からの舶載品はあったが、太子が隋と直接に交流し、そこから多くの新文物がはいってきたことこそ重要だろう。朝鮮半島経由のほかに中国からのいわば「直入」のルートは、その後、白鳳~天平にかけての日本文化の胚胎に決定的な影響をあたえたという視点は興味深い。

 
3.飛鳥彫刻の作り手 

 死と隣り合わせの凄惨な政治的闘争や疫病の蔓延、仏教受容という一種の文化革命の只中にあって、仏像のもつ意味は現代人からみた「鑑賞体」とはまったく異なる大きさをもっていたと考えるべきだろう。

 仏像そのものの一種の「発展史」的な捉え方からみても、この飛鳥・白鳳時代は興味が尽きない。奈良時代後期以降の形式主義に至らない自由奔放の伸びやかな作風こそ、この時代の仏様の魅力の源泉である。教典や儀軌の影響を一種の「マニュアル主義」とでも呼べば、未だマニュアル未整備のおおらかさがあった時代とも言えるだろう。止利様式、非止利様式といった分類がしっくりとこないのは、原初的な時代に、後世からみた様式論を(後講釈的に)物差しとしてあてがおうとしているように思われるからである。
 それでは、止利様式、非止利様式以外の見方とはなにか。ここでは飛鳥彫刻は誰によって作られたかから少しく考えてみよう。

 飛鳥彫刻の作り手はおおむね4つくらいに分類できるのではないかと思っている。第1の系譜は、止利系である。第2は、山口大口費系である。第3は、秦氏系である。第4は、その他のグループである。

 まず、第1の止利系であるが、鞍作止利(くらつくりのとり、生没年不詳)を棟梁とする一族で、飛鳥時代に活躍した渡来系の仏師。名は鳥とも記される。司馬達等の孫で、鞍部多須奈の子。子に福利・人足・真枝がいたとされる。法隆寺釈迦三尊像をはじめ、法隆寺救世観音像ほかこのグループの作品はいくつも現存している。「鞍作」に表象されるとおり、武具制作にたずさわり、その後、仏教に帰依してから、その技法を駆使して仏像の造像にもあたったのであろう。蘇我氏一門に属し、聖徳太子とも近しい集団である。

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 第2は、山口大口費(やまぐちのおおぐちあたい)のグループである。またの名は、漢山口直大口(あやのやまぐちのあたいおおぐち)ともいわれ、650年(白雉元年)10月、日本書紀によれば千仏像を制作したと記載される。法隆寺金堂の四天王像(広目天像)をつくった。また、この四天王像と法隆寺百済観音には多くの共通点があり、自分は百済観音像は、このグループの作ではないかと秘かに考えている。そのほか、東京国立博物館法隆寺館のN193も、同様にこのグループの作ではないかと思う。
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法隆寺金堂多聞天像

 第3は、秦一族に近いグループである。言わずもがなだが、広隆寺弥勒菩薩がこの一族の持念仏である。作像が日本かどうかという問題はここでは措くとして、広隆寺には「宝冠弥勒」「宝髻(ほうけい)弥勒」と通称する2体の弥勒菩薩半跏像があり、ともに国宝に指定されている。宝冠弥勒像は日本の古代の仏像としては他に例のないアカマツ材で、作風には朝鮮半島の新羅風が強いものである。一方の宝髻弥勒像は飛鳥時代の木彫像で一般に使われるクスノキ材である。

 日本書記によれば、推古天皇11年(603年)、秦河勝が聖徳太子から仏像を賜ったことが記されている。『広隆寺来由記』(明応8年・1499年成立)には推古天皇24年(616年)、坐高二尺の金銅救世観音像が新羅からもたらされ、当寺に納められたという記録がある。また、日本書記には、推古天皇31年(623年、岩崎本では推古天皇30年とする)、新羅と任那の使いが来日し、将来した仏像を葛野秦寺(かどののはたでら)に安置したという記事があり、これらの仏像が上記2体の木造弥勒菩薩半跏像のいずれかに該当するとする説があるようだ。いずれにしても、このグループに近い作例は金銅仏で弥勒菩薩半跏像として残っている。

菩薩座像・飛鳥時代

 第4は、その他の系譜であり、実は特定できる仏師や仏所がいるわけではない。帰化人(渡来人)的な分類では、第1グループは、鞍部村主司馬達等(止)(大唐漢人、継体朝・敏達朝)、鞍部多須奈(用明朝)、鞍作止利仏師(推古朝)、第2グループは<東漢>系、第3グループは<秦>系で新羅と親しい関係。
 そう考えてくると、帰化人の一大勢力<文>系ほか独自のグループはほかにもあったのではないかとの類推に行きつく。それは、実際の観察でも、たとえば法隆寺館48体仏を丹念にみていけば、まだまだ上記3つには属さないが個性的な仏像があり、実に多様性があると得心することだろう。

摩耶夫人

4.帰化人の問題

 帰化人(渡来人)の問題については、平野邦男「畿内の帰化人」(坪井清足・岸俊男編『古代の日本 5近畿』1970年 角川書店)が参考になる。以下は本書からの示唆である。

(1)活動期

 書き出しは「古代の畿内は、帰化人の集住した地域である」からはじまる。帰化の定義は「『王化にマイオモムク』という大和朝廷成立後の歴史的な概念」であるとされ、「秦(はた)・漢(あや)・文(ふみ)の三氏を応神朝に渡来するという伝承」を是としている。
結語は、「畿内における帰化人の歴史は、ほぼ9世紀に、その幕を閉じるといえよう」とされるから、5~9世紀が主としてその活動期といえよう。

(2)どこに住んだか
 
 以下に要約される。「8,9世紀の帰化人の分布の実態をみると、摂津では東生(ひがしなり)・西生(にしなり)、住吉(すみよし)・百済(くだら)などの南部諸群を中心とし、それから北、淀川をへだてた島上(しまのかみ)・島下(しまのした)・豊島(てしま)などの諸群にも及んでいる。しかし、それにもまして、淀川と大和川の<川内>である河内地方、つまり摂津の海辺からやや内陸よりの平野が、帰化人集団のもっとも顕著な居住地であった」。このように海沿い、川沿いの移動のほか、新たに建都された地域への移住を含めて帰化人の分布は広汎におよんでいく。

(3)帰化人の役割

 以下の記述がある。「彼らは、豪族に私有されるのではなく、朝廷の支配するなかば国家の民としての立場におかれ、ある者は朝廷の官人として登用され、他の者は朝廷に租税をはらい、天皇の土地を耕し、灌漑施設をつくり、官廷工房で生産に従った。5,6世紀の大和朝廷の飛躍的な発展は、彼らに負うといっても過言ではないのである」。

 帰化人の多くが、自国か日本に来てからかの違いはあるが、われわれがいま見ている至宝の仏像を当時、造像したとすれば、専門の研究者はいざ知らず、どこでつくったかは実は二次的な問題かも知れない。
 仏像に限らず、あらゆる文物が海をわたってもたらされたことを、よく考えると、聖徳太子が瀬戸内海の「海上の道」を、要所要所でピシリと押さえていたことは政治的、経済的、文化的にも興味深い。

 この論文では詳細に以上の諸点が明らかにされるが、飛鳥以降の彫刻史の観点からもこの点は考えさせられる。文明の伝承には一般にながい時間がかかるが、帰化人はその時代背景と機能において、「即製的」にそれを成し遂げたのではないか。つまり、建都から、仏教国家的シンボルとしての彫刻の造像まで、彼らが主体的にそれを実行したのではないか。
 9世紀に帰化人の歴史が終わるとすると、それ以降に文明の伝承とその内在化の過程をへて、いわゆる日本的な折衷が顕著になるのではないか。
 われわれが、飛鳥、白鳳、天平、貞観の彫刻に異質、異国のものを直観するのは、そうした帰化人の盛衰を垣間見ているのではないかといったことを感じる次第である(つづく)。

(参考)


◆東京国立博物館で見ることができる舶載品、飛鳥・奈良時代の作品など
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-43.html
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-44.html
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-45.html
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-46.html
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-47.html
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-48.html
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-49.html
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-50.html
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-51.html
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-52.html

http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-147.html
勢至菩薩立像1躯 銅造鍍金 総高36.0 像高17.1 隋 重文 TC652
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-148.html
観音菩薩立像1躯 大理石 像高253.6 隋 重文 TC376
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-149.html
菩薩半跏像1躯 砂岩 山西省天龍山石窟第14窟 総高139.4 像高97.0 唐 TC374
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-150.html
浮彫十一面観音龕1面 石灰岩 陝西省西安宝慶寺 総高113.8 唐 重文 TC719 細川護立氏寄贈
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-151.html
仏頭1個 ストゥッコ アフガニスタン・ハッダ 高25.7 TC411

◆東京で見ることができる東博以外の展示仏

http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-201.html
【根津美術館】
弥勒菩薩立像
クシャーン時代 3世紀 石造(片岩) 1軀 高153.0cm [20097]
如来立像
北斉時代 6世紀 石造(白大理石) 1軀 総高291.3cm [20070]
菩薩坐像頭部
天龍山石窟将来 唐時代 7〜8世紀 石造(砂岩) 1個 高35.0cm [20082]
十一面観音立像龕
花塔寺 (宝慶寺将来 唐時代 7世紀 石造(石灰岩) 1面 総高107.0cm [20341]
釈迦多宝二仏並坐像
北魏時代 太和13年(489) 銅造鍍金 1基 高23.5cm [20059]ほか

http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-122.html
【松岡美術館】「菩薩半跏思惟像」 ガンダーラ 3世紀頃
http://www.matsuoka-museum.jp/

http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-124.html
【東京藝術大学大学美術館】「仏頭」北斉-隋時代
http://db.am.geidai.ac.jp/object.cgi?id=341

http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-199.html
【永青文庫】 
三尊仏坐像  北周・建徳元年(572)
阿弥陀如来坐像  唐・咸亨3年銘(672)
菩薩立像  隨・開皇二十年銘(600)ほか


◆大阪市美術館で見ることができる舶載品、飛鳥、奈良時代の作品など

http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-60.html
黄花石 如来三尊像(こうかせき)、西魏時代・大統8年(542)
山口コレクションH23.5
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-61.html
白大理石 如来三尊龕(がん)、北斉時代・天保8年(557)
山口コレクションH55.0
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-62.html
石灰岩 仏三尊像、北魏時代・景明元年(500)
山口コレクションH164.8
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-63.html
石灰岩 道教四面像、西魏時代・甲戌年(554)
山口コレクションH70.6
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-64.html
砂岩 如来坐像、北魏時代・天安元年(466)
山口コレクションH28.7

→通常展で①龍門石窟 古陽洞、②供養人行列図、③龍門石窟 賓陽中洞 菩薩立像頭部、④龍門石窟 敬善寺洞 如来坐像頭部、⑤龍門石窟 奉先寺洞 如来立像頭部、⑥天龍山石窟 第3窟 維摩居士坐像、⑦天龍山石窟 第1窟 如来坐像頭部、⑧砂岩 如来坐像、⑨砂岩 菩薩交脚龕、⑩砂岩 太子半跏思惟龕、⑪石灰岩 仏三尊像、⑫砂岩 道教三尊像、⑬砂岩 四面像、⑭黄花石 如来三尊像、⑮石灰岩 道教四面像、⑯白大理石 如来三尊龕、⑰石灰岩 如来倚坐像、⑱石灰岩 如来坐像龕などを見ることができる。
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-65.html

テーマ:文明・文化&思想 - ジャンル:学問・文化・芸術

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