大和古仏探訪

京阪神を中心に内外の古仏についていろいろと書いてみたいと思います。

西大寺展と聖徳太子像

聖徳太子立像 元興寺
奈良県指定文化財 余木造玉眼 南無仏太子像 (鎌倉時代)

三井記念美術館で「奈良 西大寺展」創建1250年記念―叡尊と一門の名宝を観る。
展示のキーコンセプトとは少し離れるが、興味深かったのは空海と聖徳太子についてである。西大寺が真言律宗の名刹であることから、空海について、「重文 弘法大師坐像 1 軀 鎌倉時代 元興寺:7-1 63(展示リスト参照)」があることは当然として、元興寺聖徳太子関連の仏像なども展示されている。

「重文 聖徳太子立像(孝養像) 善春 1 軀 鎌倉時代・文永5 年(1268) 元興寺:4-23 55」
「重文 聖徳太子立像(孝養像) 像内納入品のうち眼清願文 1 紙 鎌倉時代 元興寺:4-23-1 55-1」
「重文 聖徳太子立像(孝養像) 像内納入品のうち木仏所画所等列名 1 紙 鎌倉時代 元興寺:4-23-2 55-2」
「聖徳太子立像(南無仏太子像)  1 軀 鎌倉時代 元興寺:7-2 54」

聖徳太子伝説から、こうした作像がなされたことは当時にあっても根強い太子信仰があったことを示している。元興寺「聖徳太子立像(孝養像)」については、「聖徳太子が16歳のとき父・用明天皇の病気平癒を祈る姿を表しています。叡尊は聖徳太子を救世観音あるいは如意輪観音の化身として篤く信仰していました。この像は文永5年(1268)5千名近い人々が結縁して、仏師善春らにより造立されました。結縁者の中には叡尊の弟子も多く、叡尊による太子信仰の広まりを物語っています」(展示解説)とある。
また、「聖徳太子立像(南無仏太子像)」については、太子2歳のときに、東を向いて「南無仏」と唱えたシーンを造像したものである。これも定例パターンながら、聖徳太子の成長とともに、こうした造像がなされてきたこと自体が意味深い。

直感だが、日本では珍しい、一種の教育的教材としての太子像という見方もありえるかも知れない。当初は限られた貴族や僧侶の母親や子供向けであったかも知れないが、その後、広く市井の一般人も含め、子供の健康を願い、そして孝養をつくし世のためになる大人への成長への期待をこめて、子供たちを像を前に誘い、太子の人となり、その業績を語るーそんな連想をはせてみた。

【以下は引用】
元興寺の聖徳太子信仰

 聖徳太子(厩戸王)は、用明天皇と穴穂部間人皇女の子である歴史的実在の人物である。が、死後間もないころから、その偉人的な性格が誇張され、太子に対する尊崇の念が高まり、追慕の念が信仰へと昇華されたものである。『上宮聖徳法王帝説』や『日本書紀』を初め、『聖徳太子伝暦』、『日本往生極楽記』や『大日本国法華験記』に見られるように、太子は日本における最初の仏教者、祖師であると意識され、佛のように礼拝される対象となっていったのである。
 すなわち、「太子伝」という物語の普及、「太子絵伝」という仏教美術の展開、「太子像」という一種の仏像であり、祖師像を生んだのである。
 また、各寺院や宗門は聖武天皇、伝教大師最澄、弘法大師空海、理源大師聖宝の太子後身説、太子が観音の化身であり、我が国最初の往生人とし、あるいは、達磨の化身、阿弥陀の化身、法華経弘通の祖師とみて、太子を立宗の根本に位置付け、競って自宗派との関係をうたい、由緒寺院は創建の基を太子として権威化を図っているのである。
 元興寺は太子建立四十六ケ寺のひとつとされ、官大寺に列せられる事になるが、その由緒として、推古天皇勅願・聖徳太子建立を唱えたり、蘇我馬子と聖徳太子の関係深さを主張する。つまり、飛鳥寺・法興寺と斑鳩寺・法隆寺とは用明天皇と推古天皇により、蘇我馬子と聖徳太子に指名された「仏法興隆」の拠点たる『法興』と『法隆』の二寺なのであった。
 平城遷都に伴って「仏法元興之場 聖教最初之地」を主張するのもこの事が認められてきたからであった。源平の合戦を経て、鎌倉時代に南都復興が大々的に行われるが、その中で元興寺も復興勧進がすすめられた。
 その中心的な活動が極楽坊の独立であり、聖徳太子信仰の宣揚だったのであろう。すなわち、「重文・聖徳太子立像(孝養像)」、「県指定・聖徳太子立像(南無佛太子)」の造立であり、太子堂(明治期に消滅)の建立である。
 孝養像は、その像内納入品から、文永5年(1268)卯月八日(4月8日つまり釈迦生誕の花まつり)から一升ずつ千杯供養の勧進をすすめ、約五千人の結縁で、仏師善春が造立している。恐らく、太子生誕700年(1275)に向けての活動だったのであろう。
 また、南無佛太子像は、像内が明らかでないが、他寺院の銘文がある作などから考え、生誕750年(1325)が想定できよう。
 太子堂は、応永年間と伝えられているが、応永33年(1425)が生誕850年で、800年遠忌に重なっており、それに向けての動きであろう。その後、南都の太子堂とは、元興寺極楽坊のことを言うようになるのだ。
 現在、「太子堂」や「太子伝」などを失ってはいるが、優秀な「孝養像」や「南無佛太子」の存在が聖徳太子信仰の高まりを物語っている。
 因みに、孝養像とは、16歳像とも呼ばれる美豆良に結って官服に袈裟、横被を付け、柄香炉を持つ姿で、用明天皇(父君)の病気平癒を祈る姿なのか、それとも葬送の姿であろうか。明確ではないが、僧俗一体の姿ではある。
 一方、南無佛太子像は2歳像ともいわれ、幼児姿で、腰袴だけ付け、合掌するもので、2月15日の出来事を表していると言う。つまり、この姿は釈迦誕生佛からの発想であり、始めと終わり、「南無佛」、すなわち釈尊入滅の涅槃会を意識しているのだろう。
http://www.gangoji.or.jp/tera/jap/midokoro/midokoro1.htm#shoutokutaishi

聖徳太子と仏像

広隆寺弥勒(拡大)

聖徳太子と仏像との関係について、少しく所感を述べたい。四天王像、弥勒菩薩像、釈迦三尊像を中心に、以下若干メモしてみたいと思う。

第1章 四天王像

◆四天王寺と幻の四天王像

聖徳太子の初陣。そこから太子と仏像のストーリーははじまる。以下は四天王寺のHPからの引用

「四天王寺は、推古天皇元年(593)に建立されました。 今から1400年以上も前のことです。 『日本書紀』の伝えるところでは、物部守屋と蘇我馬子の合戦の折り、崇仏派の蘇我氏についた聖徳太子が形勢の不利を打開するために、 自ら四天王像を彫り 「もし、この戦いに勝たせていただけるなら、四天王を安置する寺院を建立しましょう」 と誓願され、勝利の後その誓いを果すために、建立されました。(中略)」

聖徳太子は用明天皇の子である。587年7月に物部守屋を蘇我馬子とともに滅ぼす闘いに太子は参戦する。時に用明2年、彼は「天皇の皇子」としてのおそらくは初陣であった。太子当時14才、実戦とは関係のうすい象徴的な存在であり、だからこそ仏を彫る余裕があったのかも知れない。しかし、彼の早熟ぶりからは相応の判断力をもった若き指揮官だったとも考えられる。物部VS蘇我戦争で太子は前線にあった。生死を分ける戦場、そこでの戦勝への強い祈願。そこで太子は、みずから鑿をとって四天王像を彫り、その仏像にたいして、勝利の暁には四天王寺の建立を誓願する。ドラマティックな逸話である。四天王寺とは、日本歴史上も由緒正しき寺院であり、もしも後世、火災や戦禍で焼けなかったら法隆寺と並び立つ世界遺産になっても不思議のない名刹である。

もともと四天王寺はいまの森の宮近辺にあったが、これが上町台地に位置する現伽藍に移ったとの説がある。摂津国玉造の東岸にあったのが、おなじく摂津国難波の荒陵(あらはた)に移されたと日本書紀に記載がある。
そこは当時にあって帰化人の住む一種の大きな「居留地」であったのだろう。はじめは「倭人」が住んでいたところに「帰化人」が入植したのではとの先入主をもっていたが、もしかすると、難波宮というもっとも古い都は、帰化人がつくり、そこに住んだ新都市だったと考えたほうが正確かも知れない。そして、その中心に置かれたのが総合寺院、四天王寺だったのではないか。

http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-129.html

いまの四天王寺。上町台地の中端に位置する四天王寺の大鳥居に彼岸に沈む夕陽は、淡路島と六甲山系の合間の瀬戸内海に「入滅」するという。海からのアプローチ。中国、朝鮮からの外交使節や新知識や文物は海路をへて当時は湾に隣接する難波四天王寺にあがる。ここから陸路をへて斑鳩へ。海の玄関口としての四天王寺、そして内陸都市斑鳩でも同様に壮大な仏教伽藍が迎える、聖徳太子直轄の「二大寺院」はまた外交上の迎賓館、知的拠点としての大学としても機能していただろう。

日本書紀編纂が720年。太子没(622年)後約1世紀の時が流れている。日本書紀の記載には政治的な思惑もあり、「太子実在」に疑問を投げかける向きもあるが、では日本書紀などに書かれなかったがゆえに、多くの失われた太子関連の足跡や重要な事象もあっただろうとの<逆推論>も当然なりたつ。

聖徳太子は生前はあきらかに「蘇我ファミリー」の一員だった。また、過去帳からは四天王寺には、滅ぼされた物部一族関係の多くの人々もいたとも・・。複雑さ、多義的なゆえにそこに面白さもある。さらに、四天王寺には、当初、如来、菩薩はなく眷属たる四天王のみが直線的におかれていたとの説もある。それは外交上のプレゼンスか、外敵に対する守護神としての本来の意味か・・?

http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-39.html

四天王寺という武神を奉る寺院を太子が建てたこと、そこが興味深い。しかも、その四天王は直線的におかれていたとの説にも多くの想像が働く。現在の四天王寺金堂。中央に巨大な本尊救世観音菩薩像、仏壇周囲に四天王像を配する。本尊は、彫刻家平櫛田中の指導で造像され、四隅に立つ四天王像は仏師松久朋琳・宗琳の作とのことである。

残念ながら、創建された四天王寺の四天王像は現存していない。しかし、幻の四天王像を想像できる得がた素材がある。法隆寺金堂の四天王像がそれである。以下は引用。

「仏像の世界でひときわ異彩を放つ一群がいる。険しい形相でにらみをきかせる守護神・四天王像。現在、奈良国立博物館で開催されている「国宝・法隆寺金堂展」には1400年前の飛鳥時代に造られた最古の四天王像(国宝)が展示されている。法隆寺以外の場所で4体そろって展示されるのは史上初のことである。
そもそも四天王とは、持国・広目・増長・多聞の4天。古代インドで方位の守り神として信仰されてきた。仏教では、その世界観の中心にそびえる須弥山という山で東西南北の守りを担っている。
まっすぐ正面を見据える姿。飛鳥時代の仏が醸し出す静かなるまなざしは、見るものに独特な緊張感を感じさせる。身の丈はそれぞれ130センチ余り、顔つきはまゆ尻を上げて口元はかすかな笑みを浮かべている。
法隆寺の四天王像は、後の時代の四天王像とは全く姿や表情が異なり、多くの謎に包まれている。最初から法隆寺にあったのか、足元の邪鬼が大きいのはなぜか、あの静かなるまなざしは何を見つめているのか。番組ではこれまでベールに包まれてきた法隆寺の四天王像を克明に撮影し、その謎に迫る。そこから、日本に仏教が伝来したころ、人々が仏教をどうとらえていたかが明らかになってくる。」

http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-82.html

****************

◆聖徳太子という人物像

用明天皇の次の天皇は崇峻だが、592年11月に暗殺される。わずかに在位5年目だったが、蘇我馬子とともに太子も加担していたとも言われる。翌推古元年に聖徳太子は摂政になる。ちょうど二十歳の時であった。そして、この年(593年)に太子の誓願によって難波に上記四天王寺が建立される。また、596年には蘇我馬子が法興寺(現飛鳥寺)を建立、598年には中宮寺が創建されたと言われる(法隆寺伽藍縁起併流記資材帳)。

太子28才の601年には斑鳩宮を造り、603年12月には「冠位十二階」、604年4月には「十七条憲法」を定める。31才である。太子の10代は血なまぐさい政争の時代、20代は宰相として内政で猛烈に頑張った時代といったこととなる。

一方、仏像との関係においては、606年4月に止利仏師が飛鳥寺金堂に丈六の銅製釈迦如来を安置し、7月には橘寺が創建される(法隆寺東院資材帳)。さらに翌年、父用明天皇のために、法隆寺金堂の薬師如来が造られる(光背造像記)。

次に外交にスポットをあてると、600年任那救援、新羅討伐のために軍派遣、さらに602年に来目皇子(※)を新羅征討将軍に任命。自らの若き日の物部守屋掣肘のことを思ったかも知れない。607年には小野妹子を第二次遣隋使として派遣(翌年にも再派遣)、609年に小野妹子が帰還。610年3月には高句麗王、朝貢。10月には新羅、任那の使者入京、さらに611年8月に新羅、朝貢。614年6月犬上御田鍬を第4次遣隋使として派遣、翌年、犬上御田鍬帰朝。百済の使を伴って来朝。この年、太子は42才。
20代後半から30代を通じてこの時まで、聖徳太子の外交政策の記述が続く。史家は内政にくらべて外交についてはあまり重視していないように思えるが、太子の30代は相当、外交に腐心していた様子が窺える。対中、対朝鮮政策でも太子はそれ以前にはない大きな成果を上げている。

※『来目皇子―志摩・幣の浜から聖徳太子を仰げば』
 聖徳太子の同母の弟・来目皇子について、福岡県志摩町、奈良県橿原市久米町、大阪府羽曳野市などのゆかりの地を探訪し、その系譜、久米氏と来目皇子、聖徳太子と推古天皇と来目皇子の関係などについてまとめる。 梓書院 (2003/09)
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-71.html

 612年は熊凝寺(のちの額安寺)が創建される(太子伝)。翌年には難波から大和に至る大道(横大路、現在の竹内街道)や「太子道」が整備され、さらに法隆寺が建立されたとの記録がある(興福寺略年代記)。また、616年に聖徳太子が法貴寺を建立し、秦河勝に与えたとも言われる(法貴寺縁起)。

622年に磯長に太子は葬られるが、この年、法輪寺が建立されたと伝えられる(聖徳太子伝私記)。そして光背銘文にある釈迦三尊像が翌年、法隆寺金堂に造像される。このように仏教史のみならず、仏教寺院、仏像の歴史からみても太子の存在がいかに巨大であったかに驚かされる。

****************

第2章 弥勒菩薩

聖徳太子と仏像、その第2章は弥勒菩薩である。武神、四天王像からはじまった太子と仏像との縁は、弥勒菩薩によって現実の政治との接点をえる。あるいは、太子自身の日々の迷いを払拭する意味でも弥勒菩薩は、近しい存在であったと思う。

太子ゆかりの寺々(法隆寺、中宮寺、広隆寺、鶴林寺、四天王寺など)を歩いていると、弥勒菩薩や聖観音像のもつ意味をおのずと考えたくなる。 すでに記したとおり凄惨な殺戮や疫病の蔓延に人心乱れた時代にあって、聖徳太子は名宰相としてならし、その治世の時期は限られてはいたが人びとに安寧をあたえ、それなればこそ後に、救世主的な「超人伝説」を多くつくってきたとも言えよう。

太子はまた秦氏を重用し、秦氏が百済系帰化人であったことから、その系譜から弥勒菩薩が舶来され、次第にわが国に広まっていったとの説も強い。広隆寺「宝冠弥勒」と大韓民国ソウル特別市国立中央博物館所蔵仏などの比較はその有力な根拠だろう。
弥勒菩薩はなぜこの時代多くつくられ、またそれ以降は衰微していくのか。太子逝去後、その一族が根絶やしにされ、それとともに弥勒菩薩、とりわけ半跏思惟像は次第につくられなくなる。

以下は自分の推論ないし裏付けの乏しい空想であるが、広隆寺「宝冠弥勒」は当時にあって一種の百済系仏像の「ステロタイプ」であったかも知れない。その移入後、形式的には半跏思惟像の姿を踏襲しながら、各工房によって様々なヴァリエーションも展開されていく。その証として、東京国立博物館法隆寺館の48体仏を丹念に見ていくと広隆寺や中宮寺と座像「形式」こそ似ているが全く別のタイプのお顔の仏像に遭遇することに気づくだろう。

さて、想像の翼を広げれば、48体仏のなかには実は意外にも人間臭さを感じさせる弥勒像も多い。理不尽な死は、血生臭い政争や予防できない流行病によっても突然もたらされる。最愛の肉親や知人を喪った残された者が、生前の姿を仏として刻み、それを身近に置いて追悼することは不思議ではないだろう。そうしたニーズが豪族などの権力者集団には恒常的にあったのではないか。

さらに、弥勒菩薩と聖観音系(法隆寺<夢違>、<百済>、<救世>や鶴林寺など)の造像には信仰上の違いが当時どこまであったのだろうか。追善供養にはいくつかのパターンがあり、それによって座像の場合は弥勒が好まれ、立像の場合は聖観音系が選好されたとは考えられないだろうか。

****************

◆広隆寺 弥勒菩薩

数多くの仏像愛好者が、その道にはいるきっかけとなったのは、この仏さまや中宮寺観音の魅力に強く惹きつけられて・・・という体験からではないだろうか。見れば言葉はいらない。こうしたすばらしい仏さまが今日、存在していること、そのことの不可思議さに深い感動を覚える。それは日本人にかぎらず国籍をとわず、世界中の人々がおなじ思いをもつことだろう。この奇跡の仏さまと聖徳太子との縁は深い。その特色を以下3点に要約してみたい。

1.歴史的な不可思議さ

 推古天皇、聖徳太子といった歴史上のスーパースターと渡来人・帰化人の有力一族、秦河勝といった人々が、この仏さまを巡る関係者である、と「日本書紀」は伝えている。「日本書紀」の確からしさについての議論もあるが、来歴がこれだけ残っている仏さまは珍しい。

歴史の深いベールに包まれた仏さまも神秘的だが、日本最古の仏さまながら、その由緒を追うことができることの不可思議さ。聖徳太子もこの仏さまを凝視していた、そしていま、われわれが拝顔しているという歴史の連続性への思い、そのことがこの仏さまの深い背景にある。

→聖徳太子ゆかりの仏さまであることについて
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-32.html

【以下は引用】
『書紀』によれば、推古天皇11年(603年)聖徳太子が「私のところに尊い仏像があるが、誰かこれを拝みたてまつる者はいるか」と諸臣に問うたところ、秦河勝(はたのかわかつ)が、この仏像を譲り受け、「蜂岡寺」を建てたという。一方、承和5年(838年)成立の『広隆寺縁起』(承和縁起)や寛平2年(890年)頃成立の『広隆寺資財交替実録帳』冒頭の縁起には、広隆寺は推古天皇30年(622年)、同年に死去した聖徳太子の供養のために建立されたとある。『書紀』と『広隆寺縁起』とでは創建年に関して20年近い開きがある。これについては、寺は603年に草創され、622年に至って完成したとする解釈と、603年に建てられた「蜂岡寺」と622年に建てられた別の寺院が後に合併したとする解釈とがある。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E9%9A%86%E5%AF%BA

2.空間的な不可思議さ

この仏さまはどこで造られたのか。冒頭に掲げた写真をみれば一目瞭然である。また、韓国中央博物館の弥勒像をみて、日本の国宝第一号広隆寺のそれとの近似性に驚く人は多いだろう。自分も学生時代、はじめてその事実を知った衝撃は大きかった。この韓国の金銅弥勒菩薩半跏像がある以上、様式論で小うるさいことを言う日本の専門家が、日本での部材調達のわずかな可能性から日本製であると主張するなど、いささかならず我田引水の典型ではないだろうか。 

この仏さまの空間的な不可思議さは、文字通り、この2像の酷似にあり、そのことが朝鮮半島と当時の日本の緊密性をなによりも物語っていると言えよう。否、むしろ、もっと大きな仏像伝播の道からのアプローチが必要だろう。中国から朝鮮半島をへて、渡来人・帰化人によって仏像はわが国にもたらされた。朝鮮半島で熟成した技法、素晴らしいセンスが日本へ伝えられた。はじめは「直輸入」といってもよいだろう。しかし、御本地の半島では、戦禍があいつぎ他の地域と同じように、あるいはそれ以上に、固有の歴史的な資産、蓄積が壊滅的に失われる。

日本にも多くの戦争、自然災害はあったが、奇跡的に、いまある優れた資産が残された。それは、日本民族が舶載の古仏を大切に伝承してきた証であり、誇りであるといえよう。この2像の存在は、日韓のさまざまな同一性の問題を提起し、考えさせられる多くの課題をわれわれに問うている。空間的な不可思議さの所以である。

(参考文献)
第303号(1976年6月、B5判)
【特集】韓国の美術
韓国の鉄仏(田辺三郎助)
万暦十四年銘李朝螺鈿鞍の問題点(郷家 忠臣)
高麗の鉄絵青磁(長谷部 楽爾)

【以下は引用】

制作時期は7世紀とされるが、制作地については作風等から朝鮮半島からの渡来像であるとする説、日本で制作されたとする説、朝鮮半島から渡来した霊木を日本で彫刻したとする説があり、決着を見ていない。この像については、韓国ソウルの韓国国立中央博物館にある金銅弥勒菩薩半跏像との様式の類似が指摘される。

第二次世界大戦後まもない1948年、小原二郎は、本像内部の内刳り(軽量化と干割れ防止のため、木彫像の内部を空洞にすること)部分から試料を採取し、顕微鏡写真を撮影して分析した結果、本像の用材はアカマツであると結論した。日本の飛鳥時代の木彫仏、伎楽面などの木造彫刻はほとんど例外なく日本特産のクスノキ材であるのに対し、広隆寺像は日本では他に例のないアカマツ材製である点も、本像を朝鮮半島からの渡来像であるとする説の根拠となってきた。ところが、1968年に毎日新聞刊の『魅惑の仏像』4「弥勒菩薩」の撮影のさい、内刳りの背板はアカマツ材でなく、クスノキに似た広葉樹が使用されていることが判明した。この背板は後補ではなく、造像当初のものとみられる。この点に加え、アカマツが日本でも自生することから本像は日本で制作されたとする説がある。

朝鮮半島からの渡来仏だとする説からは、『日本書紀』に記される、推古天皇11年(603年)、聖徳太子から譲り受けた仏像、または推古天皇31年(623年)新羅から将来された仏像のどちらかがこの像に当たるのではないかと言われている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E9%9A%86%E5%AF%BA#.E6.9C.A8.E9.80.A0.E5.BC.A5.E5.8B.92.E8.8F.A9.E8.96.A9.E5.8D.8A.E8.B7.8F.E5.83.8F

3.哲学的な不可思議さ

この仏さまほど哲学者にインスピレーションを与えつづけている仏像もあるまい。外形上も哲学的に見えるのは、この仏さまが弥勒菩薩半跏像(かつては半跏「思惟」像といっていた)というお姿であることと無関係ではないだろう。「考える仏」、「思惟する仏」なのである。ここでは、ニーチェ哲学の後継者ヤスパースが来日し、この仏さまについて語ったあまりに有名な言葉を以下、引用しておきたい(水沢澄夫 『広隆寺』中央公論美術出版 1965年 p.21より転記)。

 「・・・・この広隆寺の弥勒像には、真に完成され切った人間実存の最高の理念が、あますところなく表現されています。それは、この地上に於けるすべての時間的なものの束縛を超えて達し得た、人間存在の最も清浄な、最も円満な、最も永久な、姿のシンポルである思います。・・・・」
(篠原正瑛「敗戦の彼岸にあるもの」から)

http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-21.html

(若干の補論)

韓国三国新羅時代の菩薩半跏思惟像(7C;メトロポリタン美術館蔵)は、野中寺の弥勒菩薩像と見まごうばかりの逸品に見える(metropolitan museumのサイトからCollection Database →Asian Artのコーナーへ。http://www.metmuseum.org/Works_of_Art/collection_database/)。こうした比較研究は、目視ばかりでなく、CT技術による成分分析、CG技術による再現技術などの飛躍的な進歩もあって、これからもどんどんと新たな展開をみることだろう。

http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-126.html

この広隆寺弥勒菩薩半跏像についても、そうした意味で新たな発見があるかも知れない。あまり指摘されることはないが、この仏さまは明治期に修理をうけるが、修理前の当時の写真が残っていると聞く。たしか久野健氏の本で読んだが、修理前はもう少し茫洋な表情で、韓国金銅弥勒菩薩半跏像により似ていた可能性があるようだ。

あまりに近代的な、完全無欠ないまのご尊顔、表情に驚くわれわれだが、(言葉に語弊はあろうが)、今風にいえば一種の「プチ整形」が施されていたかも知れないというのが久野説であったと記憶する。そんなところも尽きぬ魅力の一端かも知れない。

****************

◆中宮寺 観音

広隆寺宝冠菩薩は、その不可思議さのなかに、歴史的、空間的、哲学的にみて、説明可能な具体的な事柄をある程度「埋め込む」ことができる。異論はあるのだろうが、歴史的な縁起もあり、空間的には日韓両国にまたがり、哲学的にもヤスパースなどの援用もある。

それとの対比で、この中宮寺菩薩半跏像は、そうした歴史的、空間(地勢)的なバックグラウンドがよくわからない。まずは寺の説明を見てみよう。

【以下は引用】
東洋美術における「考える像」で有名な、思惟半跏のこの像は、飛鳥時代の彫刻の最高傑作であると同時に、わが国美術史上、あるいは東洋上代芸術を語る場合にも欠かすことの出来ない地位を占める作品であります。また国際美術史学者間では、この像の顔の優しさを評して、数少い「古典的微笑(アルカイックスマイル)」の典型として高く評価され、エジプトのスフィンクス、レオナルド・ダ・ヴィンチ作のモナリザと並んで「世界の三つの微笑像」とも呼ばれております。
半跏の姿勢で左の足を垂れ、右の足を膝の上に置き、右手を曲げて、その指先きをほのかに頬に触れんばかりの優美な造形は、いかにも人間の救いをいかにせんと思惟されるにふさわしい清純な気品をたたえています。斑鳩の里に伝統千三百余年の法燈を継ぐ中宮寺の、この像は、その御本尊として永遠に私たちを見守ってくださるでしょう。
http://www.chuguji.jp/index.html

しかし、神秘的なベールに包まれていればいるほど好奇心は湧いてくるもの。中宮寺菩薩半跏像については、その工法についてふれられることが多い。クスノキでできているが、特殊な矧ぎ方をしており、木寄せの技法が駆使されている。

一木造りが主流だった時代に、部材をいくつも分けて、これを巧みに組み合わせてつくっている。そこから一木造りをするだけの十分なボリュームのとれなかった霊木があり、これを最大限生かして造像するために、こうした高度な木寄せを行なったのではないかと考える向きがおおい。それにしても、一体感は実に素晴らしく、そうした矧ぎをいれているようには全く見えない。仏師の技量はたいしたものであったことだろう。 
http://www.bunkaken.net/index.files/raisan/shodana/shodana117.htm

【以下は引用】
飛鳥時代の作。像高132.0cm(左脚を除く坐高は87.0cm)。広隆寺の弥勒菩薩半跏像とよく比較される。寺伝では如意輪観音だが、これは平安時代以降の名称で、当初は弥勒菩薩像として造立されたものと思われる。国宝指定の際の官報告示は単に「木造菩薩半跏像」である。材質はクスノキ材。一木造ではなく、頭部は前後2材、胴体の主要部は1材とし、これに両脚部を含む1材、台座の大部分を形成する1材などを矧ぎ合わせ、他にも小材を各所に挟む。両脚部材と台座部材は矧ぎ目を階段状に造るなど、特異な木寄せを行っている。本像の文献上の初出は建治元年(1275年)、定円の『太子曼荼羅講式』で、同書に「本尊救世観音」とあるのが本像にあたると考えられている。それ以前の伝来は不明である。現状は全身が黒ずんでいるが、足の裏などにわずかに残る痕跡から、当初は彩色され、別製の装身具を付けていたと思われる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AE%AE%E5%AF%BA

http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-159.html

さて、中宮寺菩薩半跏像の頭部の髻に注目してみる。後世の音声菩薩同様、双髻を結っている。当時のはやりのファッション、髪型であったのだろう。いまは黒漆の地肌で、ちょっと見ると銅像(ブロンズ)のように見えるが、漆のうえには金色の彩色があり、宝冠、胸飾りなどの荘厳もあったようだ。とすると、いまわれわれが拝顔する姿とはだいぶ印象が異なっていたろう。

当時、朝鮮および日本では菩薩半跏像はブームだった。いまでも類似の作品は小金銅仏として数多く残されている。仏師は、広隆寺宝冠菩薩を見ていたかどうかはわからないが、類似の基準作は手元においていたのではないかと思う。

広隆寺宝冠菩薩はユニ・セックス的、音声菩薩はかわいい童子のようだが、中宮寺菩薩半跏像は見るからに女性的である。尼寺のご本尊にはふさわしい。たとえば、聖徳太子の御母穴穂部間人皇后、あるいは聖徳太子の妃である橘大郎女を写したという伝説ができたとしても自然にも思える。

【以下は引用】
中宮寺は聖徳太子の御母穴穂部間人皇后の御願によって、太子の宮居斑鳩宮を中央にして、西の法隆寺と対照的な位置に創建された寺であります。その旧地は、現中宮寺の東方三丁の所に土壇として残っておりましたのを、発掘調査しましたところ、南に塔、北に金堂を配した四天王寺式配置伽藍であったことが確認され、それは丁度法隆寺旧地若草伽藍が四天王式であるのに応ずるものといえましょう。而もその出土古瓦から、法隆寺は僧寺、中宮寺は尼寺として初めから計画されたものと思われます。国宝菩薩半跏像(寺伝如意輪観音)はその金堂の本尊であり、天寿国曼荼羅は、その講堂本尊薬師如来像の背面に奉安されたものと伝えております。
http://www.chuguji.jp/about/index.html

****************

第3章 釈迦三尊像

武人たる太子の守護神だった四天王、現実政治での懊悩を克服せんとする弥勒菩薩、そして太子は死して神となる。そうした連想から以下を参照。

◆法隆寺金堂釈迦三尊像

【釈迦三尊】
 仏像配置の1形式である三尊仏の一種。釈迦如来を中心に,左に薬王菩薩,右に薬上菩薩,または左に文殊菩薩,右に普賢菩薩を配する。
  法隆寺金堂の本尊である釈迦三尊像は,鞍作鳥(止利仏師)が623年につくったものといわれ,左右対称の厳格な構成など,飛鳥彫刻の特徴を示す代表作であり国宝。
【鞍作鳥】
 7世紀初ごろ飛鳥時代の代表的な仏像彫刻師。渡来人で仏教をつたえたといわれる司馬達等の孫で,止利仏師ともいわれ,聖徳太子に用いられた。その作風には中国の北魏の影響が見られる。代表作に法隆寺金堂の釈迦三尊像がある。「鳥」は「止利」とも書く。
http://kids.gakken.co.jp/jiten/3/30024490.html

 さて、この釈迦三尊像については、恐るべきシンメトリーさが隠されている。その点を学生時代に少しく書いたことがある。また、光背などにみる文様分析もその時に囓った。意匠を見抜くには図版のほうが良い場合もあるが、法隆寺金堂から上御堂へ移座された釈迦三尊像をこの目でいくども観察して、その尊顔の素晴らしさに魅入りながら、この仏様には「稚拙さ」などとはほど遠い完成度が秘められていると感じた。止利(工房)の渾身の作であったことは間違いないが、この釈迦三尊と同じ(ないし類似)タイプの、より巨大なものも別に鋳られ、炎上前の(旧)法隆寺に鎮座したかも知れない。何故なら、同じ止利(工房)の飛鳥寺の釈迦仏の大きさとこの釈迦三尊の大きさは、「丈六」と言われてもあまりにも合わない。後者は抜群に優れているがあまりに小さく見える。
 鋳造された年月を信じるとしても、これはいまの法隆寺金堂のために造られたのではなく、有力な関連寺院に置かれた客仏で、金堂建立(再建)時に移設された可能性が高いというのが小生の勝手な意見であり、これについては以前も書いた。
 一種の<サンプル作>であるとすれば、あらゆる意味でさまざまな意匠を実験、積載しており、だからこそシンメトリーさや文様だけでなく、当時の粋を結集している、また、鋳直しの謎も解明できるのではないかと思う次第である。
 様式論にはあまり興味がないが、その尊顔の厳しさとともに角度によってかいま見せる慈しみの優しさ、また、後世の剥落の影響からか、全般に漂うほの寂しさなどの<複雑な印象>は、生前の聖徳太子を写したという伝説にリアリティを与える。その一方、険しくも高貴なお顔からは、既に人心をこえた超越的なものを感じさせずにはおかない。<神>を鋳てさらに仕上げて彫ったと言ってよいと思う。

聖徳太子のまなざし

法隆寺釈迦三尊2

日経新聞で日曜日「美の美」のコーナーで3回にわたって「聖徳太子のまなざし」という特集があった。第1回では釈迦三尊像と聖徳太子二王子像(唐本御影)が、第2回では聖徳太子坐像(聖霊院御影)と塔本塑像(北面)が、そして第3回では救世観音菩薩立像と聖徳太子供養像(孝養御影)が取り上げられている。全体としてはオーソドックスな解釈と丁寧な解説で良い記事だと思った。

聖徳太子についても、法隆寺に関しても拙ブログでいままで随分書いてきたのでここでは繰り返さない。前者については、一部はいささかユニークな(へそ曲がりの)本を読んで書いたものだが、以下のカテゴリーの「聖徳太子論」をご覧いただきたい。

◆飛鳥・白鳳彫刻の魅力(5):聖徳太子
小林惠子『聖徳太子の正体―英雄は海を渡ってやってきた』 (文春文庫)
◆聖徳太子について(1)
「奈良検定」の聖徳太子創建七ヶ寺:橘寺、法隆寺、中宮寺、法起寺、四天王寺(大阪)、広隆寺(京都)、葛木寺
◆聖徳太子について(2)
勝鬘師子吼一乗大方便方広経(勝鬘経)
◆聖徳太子について(3)
法隆寺伽藍縁起併流記資材帳、法貴寺縁起、法貴寺縁起ほか
◆聖徳太子について(4)
法華義疏、法蓮華経(鳩摩羅什訳、5世紀)
◆聖徳太子について(5)
日本書紀
◆聖徳太子について(6)
上原和『斑鳩の白い道のうえに―聖徳太子論』(朝日新聞社 1975年)
◆聖徳太子について(7)
黛弘道『古代史を彩る女人像』(講談社学術文庫 1985年)
◆聖徳太子について(8)
門脇禎二『蘇我蝦夷・入鹿』(人物叢書 日本歴史学会研編集 吉川弘文館刊 1977年)
松本清張「聖徳太子の謎」(『日本史謎と鍵』平凡社刊 1976年所収)
◆聖徳太子について(9)
石渡信一郎『聖徳太子はいなかった』(三一書房 1992年)
◆聖徳太子について(10)
谷沢永一『聖徳太子はいなかった』(新潮新書 2004年)
◆聖徳太子について(11)
3冊の「聖徳太子はいなかった」本
◆大遣唐使展 6 <聖徳太子>
法華義疏写本と天寿国繍帳残闕
◆聖徳太子と中大兄皇子
家系図
◆聖徳太子と空海
田村圓澄『聖徳太子 斑鳩宮の争い』 (中央公論社 1969年(第5版))

聖徳太子と空海

0002
重文 不動明王坐像 金剛峯寺 平安後期
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-160.html#more
 
 前回は、聖徳太子との関係について中大兄皇子を取り上げましたが、空海についてはどうですか?

 聖徳太子と空海ってなにか関係あるのですか?

 聖徳太子が推古天皇の摂政になったのが593年といわれますが(日本書紀)、太子は6世紀末から7世紀はじめに活躍した人ですね。空海が唐から帰国して真言宗を伝えたとされるのが806年です(興福寺略年代記)。空海の活動期は8世紀末から9世紀初頭です。この二人はちょうど2世紀の時空を超えています。

 もしかして、空海はとても偉い人だから聖徳太子の生まれ変わりだったりして・・・という伝説だとワクワクしますね。聖徳「太子」と弘法「大師」、ここも似ていますね!

 真言宗には、弘法大師は聖徳太子の化身という伝説があるようですよ(※1)。
それはさておき、聖徳太子の時代から仏教が本格的に受容され、そののち、奈良時代は鎮護国家論から南都六宗が一世を風靡します。しかし、おそらくは旧態とした寺院勢力について、時の政権は徐々にうとましく思い、また、寺院の建立、維持や増加する僧侶などの生活には莫大なお金もかかったのでしょう。平安遷都は、こうした南都勢力からの<脱却>であったと思います。
 そこで、最澄、空海が彗星のごとく現れます。のちには変わりますが、当初の両巨頭の主張は、都(王都)に鎮座する華美な南都仏教とは一線を画した「山嶽仏教」でした。平安京の為政者は、この新風をとても喜んだと思います(※2)。

 それで、どうして聖徳太子と空海がよく比較されるのでしょうか?

 だからさ、さんが解説してくれているだろ。日本の仏教の歴史のなかで、聖徳太子が種を蒔いた仏教の揺籃期の2世紀後にだ、大きな変化としての空海、最澄らの「密教の時代」が来たからじゃないか。

 (涙声で)そんなに怖い顔して言わなくともよいと思いますけど・・・

 御免なさい。私の言葉たらずだったと思います。いつもお話ししている彫刻の歴史もここで大きく変わります。密教展開以降の平安彫刻は、たとえば教王護国寺(東寺)の諸仏ですが、両界曼荼羅や如来、菩薩以外のいわゆる眷属などの彫刻が飛躍的にふえていきますね。不動明王などはその典型ですね。空海が大和国久米寺において「大日経」をひもとくまでは、日本では誰も不動尊の名を知らなかったと言われています(※3)。
 「大日経」「金剛頂経」はじめ、曼荼羅や密教の儀礼、大日如来の台頭や不動明王への関心など空海が招来した真言密教は当時にあって、その衝撃は大きかったと思います。しかも、最澄には反発した南都六宗に対しても、空海は協調関係もつくっています。

 そう言ってくれれば私にもよくわかります。さんのように、なんでも頭ごなしの言い方はひどいです。もっと空海さんのような広いこころをもってはいかがですか。きょうは、いつも優しいさんもいないし・・・

 いまさんは夏休みでアメリカに一時帰国しています。そういえば最近、華厳経を読んでいると言っていましたよ。彼は、少し前ですが、聖徳太子が書いた(編纂した)といわれる法華経・勝鬘経・維摩経の三経義疏も読んでいらっしゃいましたね。
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-38.html

 閃いたぞ!聖徳太子から空海までちょうど200年、さらに200年たって11世紀初頭、藤原道長がでてくるな。定朝の時代の幕開けだな。さらに200年、鎌倉幕府の時代、運慶、快慶ら慶派の最盛期だ。日本彫刻史において、ちょうど200年周期説が成り立つんじゃないか。これって大発見かも知れんな!

 (クールに)それって年表をみれば誰でもわかることではないですか・・・!? 


(備考)
※1:田村圓澄『聖徳太子 斑鳩宮の争い』1969年(第5版) 中央公論社 p.174
※2:和歌森太郎編書『弘法大師空海 密教と日本人』1973年 雄渾社 参照
※3:渡辺照宏『不動明王』1975年 朝日選書 p.44

 聖徳太子と空海ーこの2人の比較論は数多い。たとえば松岡正剛氏は、次のような指摘をしている。以下は引用。
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0750.html
空海 『三教指帰・性霊集』 (日本古典文学大系第71巻) 1965 岩波書店
ー『三教指帰』は日本最初の「無常の思想」の表明をなしとげた。「無常の賦」という漢詩も挿入されている。これは聖徳太子の「世間虚仮・唯仏是真」につづく表明である。日本仏教がつねにこうした「無常」を媒介にして転換していったこと、すでに太子と大師において実験済みだったのである。ー

テーマ:文明・文化&思想 - ジャンル:学問・文化・芸術

聖徳太子と中大兄皇子

00001

 聖徳太子(厩戸皇子)の祖父は欽明天皇で、父は用明天皇。母の穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)は欽明天皇の皇女ですね。
 この欽明天皇を基点に中大兄皇子を考えると、欽明天皇の子が敏達天皇、その孫が舒明天皇。さらにその子が中大兄皇子となる。母は皇極天皇(重祚して斉明天皇)です。

 すると、系譜は別としても、一言でいえば欽明天皇の孫が聖徳太子で、玄孫が中大兄皇子ということだな。

 敏達天皇と穴穂部間人皇女は異母兄弟ですから、そこでも聖徳太子と中大兄皇子は繋がっていますね。蘇我氏との関係で見ていくと、聖徳太子は蘇我稲目のひ孫。蘇我稲目ー馬子ー蝦夷ー入鹿だから、入鹿も同じく稲目からみればひ孫。一方、中大兄皇子は皇室系で蘇我氏との縁は薄い。

 推古天皇が死去した後、蘇我蝦夷は、聖徳太子の子、山背大兄皇子ではなく、田村皇子を立てて天皇にした。これが舒明天皇。中大兄からみれば、父を天皇に推戴してくれたのは蝦夷となるね。もっとも田村皇子は馬子からみれば娘婿だ。でも、その子、入鹿は山背大兄皇子を滅ぼし、その入鹿を中大兄が645年大化改新で暗殺するわけだ。

 中大兄はその後、自らは天皇になかなか即位せず、皇子として動くという政治的な活動様式は、聖徳太子に似ていますね。もっとも中大兄(のちの天智天皇)のほうが、政治的には、はるかにやり手であったかも知れませんが。その一方で、中臣鎌足は中大兄皇子とともに権力の階段を上りはじめることになります。鎌足の父は中臣御食子(なかとみ の みけこ)ですが、神官ないしそうした仕事が中心だったという説もあるようですね。鎌足の時代に大ブレークし以降、藤原不比等など藤原一族が蘇我にかわって天下に君臨することになります。ところで、さん、この時代の仏教美術の動向は?

 大化改新以降天智天皇時代にかけては、外交、内政の課題山積で、この間、歴史的に残っている文書で確認できる仏教美術についての動きがあまりありません。あえてあげれば670年(天智天皇9年)の法隆寺全焼でしょうか。

 後世からみればだが、聖徳太子をおそらく相当意識して政治的な舵取りをしてきた天智天皇にとって、これは皮肉な出来事だったかも知れんなあ。

テーマ:文明・文化&思想 - ジャンル:学問・文化・芸術

FC2Ad