大和古仏探訪

京阪神を中心に内外の古仏についていろいろと書いてみたいと思います。

快慶展 奈良国立博物館

会計
特別展で展示される国宝「僧形八幡神坐像」

快慶作品がたくさん展示される。快慶の凄さの一端ー仏さまの豊かな頬、その薄い皮膚の質感を冴え冴えと彫れる天才である。次の快慶論も参照。

➡ 仏師 快慶論  意識した芸術家の横顔
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-426.html

【以下は引用】

傑作ずらり、「快慶」展…奈良国博で4月から

 奈良市の奈良国立博物館は22日、鎌倉時代の仏師・快慶の代表作を集めた特別展「快慶 日本人を魅了した仏のかたち」(読売新聞社など主催)を4月8日~6月4日に開くと発表した。

 鮮やかな彩色が残る「僧形八幡神坐像そうぎょうはちまんしんざぞう」(東大寺蔵)など国宝7件を含む88件を出展。うち37件は、銘文などから快慶が手がけたことが裏付けられており、快慶作と判明している作品のうち8割強が集う。

 快慶は、鎌倉彫刻の完成に大きな影響を与えたが、生没年など生涯については不明な点が多い。特別展では仏像のほか、作品成立にまつわる資料なども展示し、快慶の魅力や人物像に迫る。

 湯山賢一館長は「快慶作品がこれほど集まるのは初めて。快慶の魅力にふれてほしい」と話す。

 午前9時30分~午後5時(金、土曜は午後7時まで)。月曜休館(5月1日は開館)。観覧料金は一般1500円、高校大学生1000円、小・中学生500円。

 問い合わせは同館ハローダイヤル(050・5542・8600)。
http://www.narahaku.go.jp/exhibition/2017toku/kaikei/kaikei_index.html

2017年02月23日 Copyright © The Yomiuri Shimbun
http://www.yomiuri.co.jp/osaka/news/20170223-OYO1T50004.html
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高野山 大宝蔵展

孔雀明王 快慶作 金剛峯寺
【以下は引用】
和歌山・高野山で大宝蔵展 開創1200年に合わせ9月27日まで

 開創1200年を迎えた高野山の「霊宝館」(高野町)で高野山大宝蔵展「高野山の名宝」が開かれている。快慶作の仏像「孔雀(くじゃく)明王像」など各寺院に伝わってきた多くの文化財の中からえりすぐりの約60点が展示されている。

 かつて高野山には千を超える寺院があったが、火災などで多くの文化財も失われた。その一方、現在の117ある寺院は、災害などの歴史をくぐり抜けてきた重要文化財や国宝などを所蔵している。

 「孔雀明王像」は鎌倉時代の作で、毒蛇やサソリなどを食べる孔雀の背に明王が座り、災厄を払うとされる。開創法会期間中に特別展示されていたが、好評だったことを受けて再び公開。同館の鳥羽正剛学芸員は「保存状態が良く、彩色も素晴らしい。孔雀の細い2本足で全体を支えるバランスの技術も感じられる」と話した。

 また、平成25年から2年がかりで保存修復が行われた重文の「浅井久政像」(安土・桃山時代)、「浅井長政像」(同)、「浅井長政夫人(お市の方)像」(江戸時代)の3枚も特別展示。修復の工程についても写真などで紹介している。江戸時代の「高野山壇上寺中絵図」は700あまりの寺院が描かれ、現在の姿と見比べられ、色鮮やかな曼荼羅(まんだら)や来迎図なども展示されている。

 9月27日まで。前期展は今月17日までで、展示品を一部入れ替えて後期展は20日から。午前8時半~午後5時半(入館は5時まで)で、会期中無休。大人600円、高・大学生350円、小中学生250円。問い合わせは同館(電)0736・56・2029。
http://www.sankei.com/region/news/150808/rgn1508080019-n1.html

高野山霊宝館について
http://www.reihokan.or.jp/syuzohin/cyokoku.html

快慶 安倍文殊院 騎獅文殊菩薩像

◆安倍文殊院2
安倍文殊院の諸像

 東京国立博物館には、興福寺勧学院の旧本尊と伝来される渡海文殊像がある。湛慶の後継者、康円の晩年の作であり1273(文永10)年の納入文書があるようだ。快慶の渡海文殊像は1220(承久2)年開眼なので、約半世紀後もこうした新たな群像がつくられていたことは大変興味深い。当時の南都での信仰の一端を示すものだろう。以下は東京国立博物館からの引用。

「この一群の像は五台山文殊(ごだいさんもんじゅ)とも渡海文殊(とかいもんじゅ)とも呼ばれ、中国における文殊の聖地五台山信仰を背景に産まれた図像に基づくが、海を渡る表現は日本に独特のものである。この像では台座の框(かまち)の上面に海の波が描かれている。文殊菩薩は髻(もとどり)を5つ結う形で、少年のような容姿に造るのは、経典に「童子相」とあるのによる。文殊の知恵が子供のように清らかであることを示す。侍者のうち幼い子供の姿は善財童子(ぜんざいどうし)。童子は文殊菩薩の説法に導かれて53の善知識を訪問し、菩薩行を体得したと『華厳経(けごんきょう)』に記される。」

http://www.emuseum.jp/detail/100434/000/000?mode=detail&d_lang=ja&s_lang=ja&class=3&title=&c_e=®ion=&era=¢ury=&cptype=&owner=&pos=9&num=2

 中国には菩薩信仰の聖地があり、「仏教四大名山」と呼ばれる。文殊菩薩の聖地は五台山(山西省)、普賢菩薩は峨眉山(がびざん、四川省)、観音菩薩は普陀山(浙江省)、地蔵菩薩は九華山(きゅうかざん、安徽省)。
渡海文殊は、文殊様がはるばる五台山から眷属を引き連れ、日本海を渡って、あるいは雲にのって日本に来てくださるという有難いストーリーと言えようか。
 円仁が将来した密教秘法では文殊菩薩を本尊とし、当時仏画もあわせて輸入されたが、同道する眷族は決まっており文殊五尊(五台山文殊)と呼ばれる。優填王(うてんおう、インドの国王と言われる)、最勝老人(さいしょうろうじん、文殊の化身。文殊院では文殊の問答相手の維摩居士とされる)、仏陀波利三蔵(ぶつだはりさんぞう、インドの学僧)、善財童子(文殊の影響から求技の旅にでた案内役)などであり、いずれも役回りがあるがそれは省略。
 慶派は、集団としてこの文殊五尊を「カタログ化」していたようで、先の康円作のほか、京都市左京区黒谷の金戒光明寺には運慶作と伝えられるものもある。さて、快慶像である。


快慶木造騎獅文殊菩薩及脇侍像
騎獅文殊菩薩像

 騎獅文殊菩薩および眷属像。重源と文殊院との所縁はすでに書いた。自ら五台山に学んだ重源、東大寺の別院でその重要度の高い寺院での慶派工房得意の作である。快慶の力が入らないわけがない。
 本尊の騎獅文殊菩薩は、桃山時代後補の獅子像をふくめて高さ約7mの大作。文殊菩薩像単体でも198.0mの像高がある。檜材の寄木造りでほかの眷属が玉眼なのに、本像は彫眼ながら双眼鏡でみると実に眼力のある彫り方である。
 内身は粉溜(素地に膠を塗り、その表面に金を鑢で細かくした粉をまいたもの)で装飾され、かつ彩色がほどこされている。見るからに緻密で細心の作業を思わせる。1203年に「安阿弥陀仏」(快慶)墨書銘があり、開眼は1220年。
 すでに、「美と醜」、「聖と俗」、「麗と朴」といった二分法的な発想では、快慶は前者のイメージ(美と聖と麗)が強いと書いたが、本像は文殊らしい童顔のうちに独特の強さも秘めていると感じる。遠くを一直線に見つめる眼差しには布教の決意がこめられているかのようだ。


→ (参照)拙稿「快慶論」 http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-426.html 【“快慶 安倍文殊院 騎獅文殊菩薩像”の続きを読む】

仏師 快慶論  意識した芸術家の横顔 

<目次>
プロローグー快慶彫刻の気品
快慶彫刻の多様性1ー巨大作も何なくこなす棟梁の技量
快慶彫刻の多様性2ー石山寺大日如来像に見る運慶との比較
快慶彫刻の多様性3ー金剛峯寺 執金剛神立像にみる動態表現
快慶彫刻の多様性4ー晩年の作風
重源と快慶ーその絆と気脈
運慶と快慶、その役割分担
エピローグー快慶作品の鎌倉彫刻における地位
(拾遺)幾つかの作品


快慶地蔵菩薩立像
地蔵菩薩立像 1204~10年頃 東大寺


<快慶、その風貌> 
 「生没年は不詳であるが、記録上では寿永二年(1183)の運慶願経の結縁者の一人として名を連ねることから、貞応二年(1223)醍醐寺閻魔堂諸像の造立までの約40年間の事跡が知られている。快慶の活躍期間は、その署名の方法によって

①建久四年(1193)頃から「安阿弥陀仏」と号した無位の時代(例:醍醐寺三宝院弥勒菩薩像・遣迎院阿弥陀如来立像ほか)
②建仁三年(1203)11月に「法橋」位となり、承元二年~四年(1208~1210)までの間に「法眼」位になるまで(例:東大寺公慶堂寺像菩薩像・大円寺阿弥陀如来立像)
③「法眼」位の時代(岡山東寿院阿弥陀如来立像・高野山光台院阿弥陀如来立像ほか)の三期に分けることができる。

なお、古代においては、「仏師」は造像には基本的には署名が許されなかったが、平安時代後期に散見されるようになり、先代の康慶、そして運慶および快慶らから積極的に署名するようになる。 快慶の造像関係は、平家によって焼かれた東大寺および興福寺再興期の慶派仏師の一員としての活動、東大寺再興総勧進職にあった重源との関係、真言宗および天台宗関係の造像、藤原通憲(信西)一統との関係、そして浄土宗関係の造像など、幅広い人脈を持っていたことが理解される。」

(出典)浄土宗HP http://jodo.or.jp/information/news_amidazo.html# から引用
なお、快慶作品の画像については英文版だが Kaikei & Kamakura Statuary
http://www.onmarkproductions.com/html/busshi-buddha-sculptor-kaikei-japan.html を参照

 快慶、この日本仏像彫刻史に燦然と輝く名匠について、いままで書いてきた拙文を継いでみたい。まずは、東大寺地蔵菩薩立像から見てみよう。

【プロローグー快慶彫刻の気品】

 この89.8cmの「小柄」な地蔵様(木造、彩色:元久・承元(1204~10)年頃の作品)の見事に整ったご尊顔には、なんとも言われぬ「気品」がある。等身からみても、この小さなお顔の最上の「気品」は、薄く薄く彫っていながら、絶妙な立体感を表現し、体躯一面の衣紋の文様、切金細工の「超絶技巧」にいささかも負けていない。そこが快慶の真骨頂なのだと思う。見るほどに、その美形に惹かれながらも、その一方、心を沈静化する落ち着き、涼やかさも漂わせている。自らの芸術を強く意識していた快慶、その魅力に迫ってみたい。


浄土寺阿弥陀三尊
阿弥陀三尊像 1195年 浄土寺

 まず、快慶彫刻の多様性を知るために、浄土寺の大振りの三尊像を取り上げよう。

【快慶彫刻の多様性1ー巨大作も何なくこなす棟梁の技量】


 快慶で強調しておかねばならないのは、巨大彫刻においても運慶同様、大棟梁の技量をもち、圧倒的な作品を残していることである。東大寺南大門 金剛力士立像(建仁3(1203)年、阿形:836.3cm、吽形:842.3cm)は運慶らとの共同制作であまりに有名だが、それ以前に自らが差配した浄土寺(兵庫県小野市)阿弥陀三尊立像(建久6 - 8(1195 - 1197)年頃、木造、漆箔)こそがその代表作であろう。浄土寺には以下の作品があるが、像高5.3mの巨像がここでの考察対象である。 
・阿弥陀三尊像:国宝 1195年 中尊530cm 脇持各371cm 快慶作
・阿弥陀如来立像:重要文化財 1201年 266.5cm  木造、漆箔 快慶作
・重源上人坐像:重要文化財 天福2(1234)年 82.5cm

 この作品は西方阿弥陀浄土を地上に再現せんとしたことにおいて、定朝作、宇治平等院阿弥陀如来坐像と双璧のもの。堂の背後の蔀戸(しとみど)から差し込む「西日」(「夕日」ではないので留意)によって三尊が神々しく輝く仕掛けがほどこされている。

 運慶、快慶らは往時、同時併行していくつもの巨大プロを抱えて東奔西走していた。その木割り、木組みなどの生産性(いま風に言うなら2×4<ツーバーフォー>工法のハシリかも知れない!)は驚くべきで、多産に仕事をこなした。奇跡的に残った浄土寺の諸像はその一端をしめすにすぎない。

 ある日の午後、贅沢にもこの阿弥陀三尊立像を(ご住職以外)、一人で思うさま拝観していて感じたのは、快慶がこの三尊を全方位マルチに見せることを強く意識していたのではないかということである。真正面から仰ぎ見るのがもちろん常道ながら、真横に立ってみる脇侍のプロフィールは鋭角的な目鼻立ちが森厳さをたたえ、やや斜めから三尊の表情を拝すれば柔和な面立ちにまた別の感興をもつことであろう(ご住職は、向かって右斜めからの仰角を推奨しておられた)。
 つまり、堂内をぐるぐると回行し功徳をうることを念頭においていたのでないかという勝手な想像をした。そして、この想像は、興福寺北円堂諸像の配置、拝観のあり方や鑑賞法へも直結する(また、東大寺二月堂の修二会、いわゆるお水取りの日、堂内で行なわれる回遊的修業へと連想は広がっていく)。

 浄土寺は重源ゆかりの寺である。播磨別院の淵源は聖徳太子に、そして帰化人にいきつくように思うし、ここは太子と関係が密接な鶴林寺とも近い。豊かな風土、富の蓄積とともに、浄土寺のある小野はかつて算盤の生産で知られた。古代から優秀な帰化人がここに住んでいたのではないか。その伝統あればこその別院が設けられたのではないかとも思う。

 浄土寺阿弥陀三尊立像では建築との一体性にも注目したい。西方阿弥陀浄土を現世に創造する試み、上記のように定朝の平等院に勝るとも劣らない知的実験。しかもこれは当地にあって重源の難しい勧進にも欠くことができない必須のミッションだった(地域有力者への一種のフェア・リターン)。快慶は丈六の「三尊」「立像」を置く。定朝の脇侍なしの「単体」の阿弥陀如来「坐像」とは好対照である。水(池への尊像の投影)を味方にする定朝、陽(堂内での光の拡散)を積極的に取り込まんとする快慶。このあたりも興味は尽きない意匠の競演だと思う。
 自然の採光を取り込み、建築と仏像の一体化を企図し、堂内を回遊修業の場として演出する。そこには一仏師を超える総合的な空間プロデューサーとしての快慶の見事な構想を感じる。


(参考1)
◆運慶考10 運慶について<インデックス>
http://blog.livedoor.jp/shokkou/archives/1906537.html

【快慶彫刻の多様性2ー石山寺大日如来像に見る運慶との比較】

 快慶といえば「巧緻な作風」というのが通り相場だが、それだけではない快慶の多様性を見ておく必要性があると思う。石山寺大日如来像を取り上げよう。


◆石山寺大日如来像
大日如来像 1194年 石山寺

 快慶の石山寺多宝塔本尊大日如来像(1194年 96.4cm 木造、古色)は快慶初期の作で、いわずと知れた運慶初期の円成寺の大日如来像(1176年 98.3cm 木造、漆箔)との比較は誰しもが関心のあるところであろう。両者を比較すると制作年代では約20年の隔たりがあるが、両者の同質性(とくに全体構成、手印、腰部衣文などの胴体表現)と異質性(とくにご尊顔の表現、もちろん宝冠、光背の有無などは前提としたうえで)は明らかであろう。

 円成寺、石山寺には共通点があるのだろうか。円成寺の歴史を紐解くと、「天平勝宝8年(756)聖武・孝謙両天皇の勅願により、鑑真和上の弟子、唐僧虚瀧(ころう)和尚の開創と円成寺縁起に書かれている」という。一方、石山寺はその縁起で「聖武天皇の発願により、天平19年(747年)、良弁、東大寺開山・別当)が聖徳太子の念持仏であった如意輪観音をこの地に祀ったのがはじまり」とされている。このように両寺縁起においては、ほぼ同じ時期に建立されたことがわかる。このあたりの<符号>もなかなか面白いが、ともに真言宗の名刹であり、大日如来のもつ意味は限りなく重要である。

 ところで快慶の大日如来をじっと観察していて思ったのは運慶円成寺像との近接性より、慶派一門の実慶作のそれへの連想である。快慶の「銘」はあるものの、むしろ慶派一門がいかに東寺系などの寺院と密接な関係をたもち、また大日如来は、真言宗クライアント向け「カタログ」上位の主要な作品(製品)であったのではないかという、いささか下世話な想像を馳せた。


(参考2)
◆近江路の神と仏1  三井記念美術館 快慶 石山寺多宝塔本尊大日如来坐像
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-338.html
◆空海論
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-261.html

【快慶彫刻の多様性3ー金剛峯寺 執金剛神立像にみる動態表現】

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執金剛神立像 1197年 金剛峯寺

  この像はその作風から永らく快慶像とは特定されなかった。様式史からは快慶らしくない、という見立てがあったからだとも言われる。魁偉なるご尊顔をしばし見ていた。ふと、快慶はかの東大寺法華堂の天平の執金剛神立像を見ていたかなと思った。イメージは少しく異なる。むしろお顔だけの「安易な印象批評」で似ているというなら、有名作ではむしろ新薬師寺の伐折羅(ばさら)大将像を連想する。

 快慶は、運慶らとともに東大寺南大門の仁王像などを一気呵成につくっているのだから、動態表現だっていくらでも出来るのは自明。但し、あまり、そうした像は好まなかったかも知れない。施主から依頼があれば技術的には難なくこなすのは当然。その一方、今度は全体を遠目で眺めれば、ここでは快慶らしい「均衡へのあくなき希求」を看取することができる気がする。


(参考3)
◆快慶作2仏像 重文へ 高野山の金剛峯寺所有
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-315.html

【快慶彫刻の多様性4ー晩年の作風】

快慶 大報恩寺 十大弟子
快慶 十大弟子立像 大報恩寺 

快慶 定慶 大報恩寺 六観音像
定慶 六観音像 大報恩寺
http://www.daihoonji.com/midokoro/#midokoro4 

 快慶について認識を新たにしたのは、京都市内にひっそりと埋め込まれたような存在の大報恩寺で快慶一門、慶派の後継仏師の作品に接した時であった。本尊は行快「釈迦如来像」(秘仏)だが、快慶「十大弟子像(十躯)」、定慶「六観音菩薩像(六躯)」などの重要文化財の仏像がここには犇(ひしめ)いている。

 十大弟子像(木造、彩色、切金文様、玉眼、94.4~98.6cm)は、建保6(1218)年から承久2(1220)年にかけて、快慶一門によって作像されたもので快慶晩年の作として伝えられている。もちろん他の作品も同様だが、どこまで快慶の手になるものかに対しては慎重な見方があっていいだろう。
 像容の劣化の影響もあるだろうが、怪異ともいえる表情である。多くの美々しき快慶像に魅了されてきた者には、これが彼の快慶晩年の境地かとの驚きを禁じえないだろう。肥後定慶(快慶筋ではなく運慶一門といわれる)の宋風のある意味で整いすぎた六観音菩薩像とのコントラストが際立つ。

 「美と醜」、「聖と俗」、「麗と朴」といった二分法的な発想では、快慶は前者のイメージ(美と聖と麗)が強いが、それは逆の価値観の造形(醜と俗と朴)ができないということではない。先にも記したとおり、快慶(およびその一門)ほどの技量であれば、いかなる造形であったとしても挑戦してみる意欲はあっただろう。以上、見てくると快慶の造形のレンジの広さとその巧みさは、かつての快慶のイメージ(美と聖と麗)をはるかに超えるものであることがわかる。快慶は自身の作品に銘とでもいうべき痕跡を残しているので、今後も多くの快慶作品が世に現れる可能性がある。快慶の作風をあまり型にはめて機械的に考えるのは禁物かも知れない。


【重源と快慶ーその絆と気脈】

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俊乗房重源上人坐像 鎌倉時代 東大寺

 老いさらばえて、しかし厳しくも老いの一徹を感じさせる重源坐像。この驚くべきリアリズムは、寛容よりも見る人によっては威圧的なところもある。後白河法皇や源頼朝の支援を引き出し、また時には激しい知行地獲得調整も辞さなかった傑僧の風貌は温和ではない。誰の作かはいまのところ不詳だが、重源と最も近しい関係にあった快慶説、運慶説、慶派のほかの仏師の作との諸説がある。

 俊乗房重源は紀季重(きのすえしげ)の子として保安2(1121)年に京都に生まれた。俗名刑部左衛門尉重定、13歳で醍醐寺に入って出家、名を重源と改めた。醍醐寺ゆかりの高僧ゆえに、後年醍醐寺に寄進を行い、また快慶の優品がここにあるのもそれ故であろう。

 青年時代から大峰山、熊野、御嶽、葛城、白山などの山々で行者となる。山岳修行では古くは行基を、その後の空海、最澄を連想させる。その後の歩みでも、全国を回り灌漑用池堤の築造や道路・橋梁の修理、架設など社会事業を多く手がけていることでは行基や空海を、宋に渡り当時の先端知識を学んだことでは空海、最澄との共通点を見いだし得る。

 重源は建仁3(1203)年頃、「南無阿弥陀仏作善集」を記す。自らの作善(仏教において功徳があるとされる行業)を述べた自伝であり自筆ともいわれる。「作善集」では上記の歩みに加えて、東大寺や別所(宗教活動の拠点)の造営、中国の阿育王山に舎利殿建設のため材木を送ったこと、人々に阿弥陀仏号を授けたことなどが述べられている。修造した伽藍・仏像の目録や貴重な東大寺造営記録もある。用いられた紙背は「備前国麦進未并納所所下惣散用状」で、重源が東大寺復興の財源として得た知行国備前国の麦収納に関する文書などが使われている。備前国のみならず、伊賀国、柘植、山城国、播磨国、丹波国、備中国、鎮西国、摂津国等々で重源は勧進を行ったようだ。

 重源は当時民衆の間にひろまっていた浄土教に深く帰依し、自らを「南無阿弥陀仏」と称した。快慶が「安阿弥陀仏」と称したこととこれは符丁する。先の小野の浄土寺が典型だが、快慶作品の多くが重源の勧進地に残されていることも広く知られている。重源の中国留学(三度)にはその有無を含めて異説もあるようだが、仁安2(1167)年に宋に渡り、翌年帰郷していることは文書でも残されている。後年の快慶およびその系列が宋風美術技法に長けていたこととも関係も興味深い。

 東大寺再興を自身61歳からスタートし、逝去までになしえた重源の功績は大きい。大仏修復が当時の日本の工人だけでは難しかったときには、宋の技術者、陳和卿を招聘しこの指導に当たらせた。大仏修復よりもさらに難事業であった大仏殿の再建では、自ら周防国の杣(材木を切り出す山)に入り、佐波川上流の山奥(現在の滑山国有林付近)から道を開墾し、川に堰を設けるなどして長さ13尺(39m)、直径5尺3寸(1.6m)もの多くの巨木を奈良まで運搬するなどのスケールの大きな仕事を成し遂げた。運慶、快慶はじめ慶派仏師が、一大国家事業であった東大寺再建に活躍できたのも、重源の「後ろ盾」があったからであり、重源と快慶との絆と気脈―その信頼関係あればこそであったろう。


(参考4)
◆重源と快慶
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-423.html
◇月刊「京都史跡散策会」第9号(2006/9/17発行)
鎌倉時代の大仏再興と俊乗坊重源/三重・新大仏寺/大仏師法橋 快慶
http://www.pauch.com/kss/g009.html#kaikei

◇大勧進・重源の足跡
http://www.i-unic.com/contents/boucho/chogen/chogen_02.html

【運慶と快慶、その役割分担】

運慶坐像
運慶坐像 鎌倉時代 六波羅蜜寺

会計
僧形八幡神坐像 1201年 東大寺

 運慶の「経綸」の才は、快慶との役割分担によって可能となった。すでに、運慶については本ブログのほか別ブログでも多く書いてきた。

(参考5)
◆運慶、快慶、慶派
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-282.html
 
 運慶は東国の武士、すなわち当時の新興権力者(かつスポンサー)を担当した。いわば東上作戦を総帥した。一方で快慶は、クライアント中でももっとも重要な東大寺の重鎮、重源を後ろ盾として南都から周防にいたる勧進(金集め)のための強力な戦力であった。つまり西進作戦を重源とともに実行した。
 割り切って単純化すれば運慶と快慶の役割分担とは、かたや東に、こなた西に展開。かたや武士とともに、こなた僧侶とともに飛躍することにある。

 <チーム運慶>、<チーム快慶>はこの2人の棟梁のもと、運慶の子息をはじめすぐれた弟子の「脇仏師」をもって編成されたが、プロジェクト毎に、編成替えもあったろう。共通する慶派の特色はそうした脇仏師の存在によって生み出され、また棟梁の関与の強度によって、運慶風、快慶風により変化したかも知れない。

 さて、運慶坐像は六波羅密寺にあって、なるほどこのような面構えかと関心をよぶ。しかし、快慶は生年、没年不詳でその姿を今日知る手立てはない。ここでは、快慶が架空の高僧を彫ったという僧形八幡神坐像を並べてみた。具象でない分、もしかしたら意識して、あるいは無意識に快慶の「自画像」がここに投影されていないかと根拠なく想像を逞しくしている。
 快慶の作品には静謐さがある。なんど観ても飽きず、観るほどにその美しさに新たな発見があるように感じる。しかも、その仏様は見るものの心を落ち着かせ、共有する時間と空間に特有の品位を発散する。
 快慶の40以上の現存作には、以上見てきたとおり多くのヴァリエーションがあるが、もっとも作例の多いのは阿弥陀如来である。東大寺再建の大規模な勧進を行う必要のあった重源との関係が大きかっただろうが、彼自身、阿弥陀如来については当代随一の自負もあり、得手としていたと思う。

日本の美術241 阿弥陀如来像 

 快慶という仏師には「均衡へのあくなき希求」を感じる。自身のなかに堅固なる美の基準があり、彫をなす、木を刻むまえに全体像が瞼に焼きついているような気がする。そして、それを具体的に形(フォルム)にしていける完全な技量をもっている。一瞬にして作品はすでに頭のなかで完成されている。あとは、それを具象化する作業が残っているだけだ。感性の鋭敏さとその効率よき実現、そこに快慶の快慶らしさを感じる。

 比較において運慶には、はじめに意志力を感じる。内から湧き上がる芸術的なパッションのもと、作像に挑みかかる。作品は、意志力の表出が十全になされているかどうかに基準があり、そこに達するまで可変的に修正されることを否定しない。つまり鑿の運びは時間とともに自在に変わっていくイメージである。「静」の快慶、「動」の運慶の違いをそんな風に考えている。
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円覚寺に行く

円覚寺聖観音菩薩坐像3

 逗子で浄楽寺の3月3日(年2日のうち)の特別拝観をみて、北鎌倉で下車して東慶寺仏像展2014をじっくり回り、まだ時間があるので浄智寺をへて円覚寺に足を運ぶ。円覚寺もひさしぶりに全山をゆるりと散策した。
 さて、山門近くの比較的小さなお堂「選仏場」にて、良き仏さまとお会いした。気にいって帰りにいま一度確認のため立ち寄り、一眼鏡でクローズアップして見る。美しい表情とは直観したが、残念ながら像が黒く、かつまわりが暗く、かならずしも明らかでない。一般には、正面におわす堂々たる薬師如来立像に視線がいき、「右にもよく見えないけれど坐像があるな」といったところではないかと思うが、とても勿体無い。お顔立ちの良さは東慶寺水月観音と伍していると思った。


円覚寺聖観音菩薩坐像

楊貴妃観音

  インターネット上で良い画像がなかなか見つからない。有難いことに上に掲げた1枚を発見(出典は下記を参照)。実際におそば近くでのお顔の特有な雰囲気を伝えることはできないけれど、イメージづくりのために、京都の美形中の美形、泉涌寺・楊貴妃観音を掲げてみた。ご尊顔部のみ、眼を凝らして比較していただきたい。姿態は円覚寺像は、東慶寺水月観音同様、下記にしるした遊戯観音のさまなので異なるが、うつむき加減な相貌は如何だろうか。

(参考)
http://nora-pp.at.webry.info/201108/article_8.html
円覚寺HPも参照
http://www.engakuji.or.jp/about/ 【“円覚寺に行く”の続きを読む】

テーマ:文明・文化&思想 - ジャンル:学問・文化・芸術

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