大和古仏探訪

京阪神を中心に内外の古仏についていろいろと書いてみたいと思います。

この秋の話題 サントリー美術館「高野山の名宝」展

日本の美術 第40号 鎌倉彫刻 編:西川新次 昭和44年 至文堂
国宝 制多伽童子像(八大童子像のうち)  運慶作 鎌倉時代 12世紀  金剛峯寺

今秋、もっとも興味をそそられる展示会である。ほとんどは、お目にかかったものばかりだが、東京で見ることができるのは嬉しい。いまから大いに楽しみにしている。

【以下は引用】
http://banq.jp/17424
http://www.suntory.co.jp/sma/exhibit/2014_5/?fromid=topmv

2015年に空海が高野山を開いてから1200年の節目を迎えることを記念して、サントリー美術館で「高野山開創1200年記念 高野山の名宝」展が開催される。

唐で密教を学んだ弘法大師空海は、密教修行の根本道場とすべく、弘仁7年(816)勅許(ちょっきょ)を得て高野山を開きました。以来今日まで、高野山は日本仏教の聖地の一つとして、さらには空海を慕う人々の憧れの地として、時代と宗派を超えた信仰を集めてきました。それを証明するように、山上には「山の正倉院」とも例えられるほどの文化財の宝庫となり、なかでも核となる仏教芸術はわが国最大規模を誇ります。

開創にかかわる空海ゆかりの宝物から、豊麗な密教美術の原点ともいえる請来(しょうらい)の品、真言密教の教理に基づく仏像、仏画など、普段は山上にあって重厚な信仰の歴史を物語るこれらを一堂に展示します。特に、鎌倉時代、仏教彫刻界に新風を吹き込んだ仏師・運慶による国宝《八大童子像(はちだいどうじぞう)》を全躯そろって存分に鑑賞できる貴重な機会となります。

「高野山の名宝」展では、日本を代表する聖地の一つとして時代を超えて信仰を集めてきた高野山に集まった密教美術の数々が展示。その壮麗な作品たちの中には、国宝「諸尊仏龕(しょそんぶつがん)」や同じく国宝の「制多伽童子像(運慶作)」なども含まれる。

空海は、密教が深奥な教えのことから、文字ばかりではなく図像や仏像などを重視しており、多くの密教美術を伝えた。また時代が下がってからは、天皇や公家、武士ら高野山を信仰する権力者たちが華麗な宝物をおさめている。こうした点から、この場所は歴史を通じて幅広い文化財の宝庫となったのだ。

空海の生涯から多様な信仰の歴史まで

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同展覧会は、「第1章 大師の生涯と高野山」「第2章 高野山の密教諸尊」「第3章 多様な信仰と宝物」の3章に分かれており、空海の生涯から高野山に集まった多様な信仰までを幅広く紹介する。

【空海論】
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-261.html

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重要文化財 大日如来坐像  平安時代 仁和3年(887) 金剛峯寺

他にも国宝「澤千鳥螺鈿蒔絵小唐櫃」や、国宝「五大力菩薩像」なども登場。1200年の長い歴史を通じて育まれた力強い信仰の精神と特異な空間、そして密教美術の真髄をぜひ一度目にしておきたい。
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【おもな出品作品】

 ◆弘法大師坐像(こうぼうだいしざぞう)(萬日大師(まんにちだいし)) 一躯  室町~桃山時代 16~17世紀 金剛峯寺
 ◆国宝 聾瞽指帰(ろうこしいき) 空海筆 二巻  平安時代 8~9世紀 金剛峯寺
 ◆国宝 諸尊仏龕(しょそんぶつがん) 一基  唐時代 8世紀 金剛峯寺
 ◆重要文化財 丹生明神像(にうみょうじんぞう)・狩場明神像(かりばみょうじんぞう) 二幅  鎌倉時代 13世紀 金剛峯寺
 ◆重要文化財 即身成仏品(そくしんじょうぶつぼん) 一巻  平安時代 9世紀 金剛峯寺
 ◆重要文化財 大日如来坐像(だいにちにょらいざぞう) 一躯  平安時代 仁和3年(887) 金剛峯寺
 ◆国宝 五大力菩薩像(ごだいりきぼさつぞう) 三幅  平安時代 10~11世紀 有志八幡講十八箇院
 ◆重要文化財 不動明王坐像(ふどうみょうおうざぞう) 一躯  平安時代 12世紀 金剛峯寺
 ◆国宝 八大童子像(はちだいどうじぞう) 運慶作 八躯  鎌倉時代 12世紀(一部、南北朝時代 14世紀) 金剛峯寺
 ◆重要文化財 孔雀明王坐像(くじゃくみょうおうざぞう) 快慶作  一躯  鎌倉時代 正治2年(1200) 金剛峯寺
 ◆釈迦誕生図(しゃかたんじょうず) 一幅  鎌倉時代 13世紀 金剛峯寺
 ◆重要文化財 四天王立像(してんのうりゅうぞう) 快慶作   四躯  鎌倉時代 12~13世紀 金剛峯寺
 ◆重要文化財 執金剛神立像(しつこんごうしんりゅうぞう) 快慶作   一躯  鎌倉時代 12~13世紀 金剛峯寺
 ◆国宝 澤千鳥螺鈿蒔絵小唐櫃(さわちどりらでんまきえこからびつ)   一合  平安時代 12世紀 金剛峯寺
 ◆重要文化財 花蝶蒔絵念珠箱(かちょうまきえねんじゅばこ) 一合  平安時代 12世紀 金剛峯寺

【展示作品について以下の画像も参照】
http://www.reihokan.or.jp/syuzohin/cyokoku.html

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【快慶作2仏像 重文へ 高野山の金剛峯寺所有】
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-315.html
【“この秋の話題 サントリー美術館「高野山の名宝」展”の続きを読む】

空海への注目

【以下は引用】
空海の言葉、現代に響く…解説本・展覧会が人気
 
「物の興廃は必ず人に由よる」「真俗離れず」「如実に自心を知る」――。

 日本密教の祖、弘法大師空海の言葉が注目を集めている。解説本は版を重ね、展覧会では、書に多くの来場者が見入る。崇高な悟りの中にも、どこか人間味あふれる言葉が、混迷の時代に生きる現代人の心を揺さぶるのか。

 東京国立博物館で開催中の「空海と密教美術展」(25日まで)には若き日の“出家宣言”である「聾瞽指帰ろうこしいき」(国宝)や、最澄への手紙「風信帖ふうしんじょう」(同)、弟子がまとめた「性霊集しょうりょうしゅう」(重要文化財)など書が並ぶ。全て漢文で一般人が読み解くのは難しい。だが、風格ある文字から何か教えを得ようとするのか、人だかりが絶えない。

 館が開く講演会は毎回満員で、8月末、京都・醍醐寺の仲田順和じゅんな座主(77)が登壇した回は約400人が聞き入った。東京都中野区、水島道雄さん(70)は「新しい信仰の分野を切り開いた先駆けの人。言葉もオリジナリティーにあふれ、非常に魅力的だ」と話す。

 21体の仏像を使い、曼荼羅まんだらを立体的に表現するなど、視覚的に訴えかけ、分かりやすく教えを広めたイメージが強い空海。ただ、著書『ほっとする空海の言葉』(二玄社)で、70の言葉を紹介した密教研究者の安元剛さん(45)は、「その文章にも包容力、人間味がにじみ出ている」と語る。

(2011年9月18日11時02分 読売新聞)

テーマ:文明・文化&思想 - ジャンル:学問・文化・芸術

空海論


(目次)
1.空海が生きた時代
2.空海における「悟り」
3.大日如来のもつ意味
4.曼荼羅のもつ意味
5.<真言>+<陀羅尼>のもつ意味
6.空海思想の展開
7.空海のもつ意味

拾 遺
空海略年譜
参考文献等

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1.空海が生きた時代

 空海が生きた時代、日本では、為政者から民衆まで、現代人よりも、はるかに仏教というものを真剣に考えていた。

 平安京への遷都のあとも、蝦夷(えみし)の反乱は続きその鎮圧は政権にとって大きな課題であったし、足元でも政治的な権力闘争、不穏な内乱の兆しも強くあった。天変地異もあり、民衆は不安な生活を送っていた。

 済世利人(密厳国土すなわち理想の仏国土の建設)こそが空海の目指したものであった。そして、空海の入滅後、時代は下るが、こうした空海への共感は、民衆のあいだに広く伝播していった。空海の逸話、伝説は枚挙にいとまがない。これほど庶民に親しまれ、あまた日本中(弟子も唐に留学しておりその空間的な広がりは一部、中国にも及ぶ)に影響をあたえた「伝道師」は日本にはいない。しかも、そのフィールドは本草学から博物誌まで(いわば自然科学も社会科学も、もちろん本業たる宗教も)など驚くほど広く、「お大師様」信仰はいまも根強い。
 
 だが、そうした一面だけではない空海もいる。空海が生きた時代、統治機構としたたかに折り合いをつけていく、南都六宗を巧みに篭絡(その言葉に問題があれば「教化」)していく、天台宗とのライバル関係にも細かく気を配る・・・。いわば政治力学、宗教界でのイニシアティブを常に意識し、機敏かつ見事に行動する空海像もあり、それもまた興味深い。

 遷都後、南都の旧勢力との関係や朝廷・貴族間の権力闘争に悩む時の政権にとって、空海の知力、法力は欠くことができなかった。呪詛は日常茶飯事であったから、「攻守」ともそれを乗り切るために、「生ける大日如来」とでもいうべき空海はもっとも頼りになる存在だったろう。

 空海が必要と言えば、当代一流の仏師を集め、厳(いか)つい明王像を多くつくることも、かかる観点からは朝廷、政権は否応なく許諾した。朝廷、政権にとって、空海を味方側におくことはなにより重要なことであったし、加えて、空海の「異能」ぶりは、当代きっての技術者として湊の改築にあたり、また人工池を開鑿するなどでも遺憾なく発揮された。

2.空海における「悟り」

 空海という大天才については、司馬遼太郎『空海の風景』を学生のときに読んで以来、頭からはなれない。しかし、最近、その自伝ともいえる『三教指帰』(さんごうしいき、『日本の名著』1977年所収)を再読して、その強烈な自意識、すさまじいまでの研究心・探究心に改めて驚かされるとともに、これは自伝的小説であり、巧みにできた仏教教本(問答・評論集)であり、かつ見事な哲学思想論集であるとも思った。その文章力(福永光司訳)にも感心する。

 入唐から帰国後の経緯、その成果について2010年奈良「大遣唐使展」でも多くの関連展示があった。飛ぶ鳥を落とす勢いとはこのことで、空海の巨大な影響力は、日本の仏教界を席巻するのみならず、平安京新政権の中枢にも即座に及ぶ。いきなり当時の「国教」になったと言っても過言ではないだろう。しかし、空海を空海ならしめているのはその修行時代にある。

 自然科学者が、たとえば物質の構造を解析しようとするとき、むしろ自然の摂理の偉大さ、底知れぬ不可知さに触れて、神を想起し、哲学的な思いに捉われるといったことがあると言う。

 空海の山岳修業時代を考える。その時代、すでに修験道はあった。修験の私度僧は、大自然のなかで、その過酷さと恩恵に日々ふれながら、生死を賭しての修業上、生き残るうえでの<術>を習得することは必須であった。理論的というより経験的であっただろうが、その営為が真剣であればあるほど、修験僧は結果的に、こうした自然科学者と同様な神秘の思いに身をゆだねたかも知れない。若き空海もその一人であったと思う。

 修験道で体得したことを自分でどう捉えるか。宗教的に、呪術的に深くはまっていく場合もあるだろう。しかし、空海はそうではなかった。空海は高級官吏になるべく、そのためにすでに儒教を学び、さらに道教にも関心を示し、仏教の経典も多く目にしていた。彼はこれを理論的・体系的に捉えようとする。

 空海は語学の天分にも恵まれていた(否、ここでも「天才的」だった)。中国語はマスターしつつあり、特に文章力には自信があった。加えてサンスクリット語も学習していた。これを唐で磨き、かつ自身の思惟を理論化・体系化することを課した。入唐求法(遣唐使への応募)はそのためには必須であった。

 空海の思想は『三教指帰』(その草稿たる『聾瞽指帰』は24才に脱稿している)でその骨格をつくり終え、『秘密曼荼羅十住心論』で完成をみたと言ってよいだろう。十住心論は、後述のようにその階序性に特色があるが、当時の思想をすべてランクしたということは、恐るべき知力と構想力あえばこそである。

 若き日、空海は生死を賭けて、厳しい大自然のなかで一人、神の存在を追求し、そしてその修業のなかで宇宙と一体化するというカタルシスを経験した。「宇宙と一体化する」ということ、それこそが「悟り」であると直観した。
 しかも、その一瞬、「即身成仏」として人は仏になれると考えた。その「資格」は小乗、大乗の仏教徒に限られない。誰でもが「悟り」にいたる潜在的な可能性をもっている。大胆な思想の飛翔であった。

 空海は夢想家、空想家ではなかった。冷静なリアリストであった。釈迦について、インドに生まれた実在の「人物」で、仏教という考え方を開いたということを十分に知っていた。インド人が、宗主の教えがあるとすれば、日本という国(空海のナショナリズムは、彼が遣唐使の一員であったことで、否応なく身についたことであろう)においても、新たな教えを打ち立てることはなんら不自然なことではないと考えていたのではないか。

 空海は、天と地、空(そら)と海(うみ)からなるこの世界を、そこから構成される宇宙というものを見切っていた、あるいは自ら見切ったという強い認識をもっていた。
  釈迦が神(仏)をみたとすれば、空海も神(仏)をみた。その神をなんと言おうか。空海は経典を渉猟し、恵果に深く学び、考え抜いたすえに、その神を「大日如来」と捉えた。

3.大日如来のもつ意味

 仏教のなかの一流派として密教を捉えるか、そうではなく密教を仏教をも取り入れた新宗教として捉えるかによって、考え方は当然かわってくる。空海の「独創」は後者に立脚点があったのではないかと思う。しかし、空海が自ら打ち立てた真言宗は、時代とともに次第に前者の枠組みのなかに居場所を求めていったような気もする。

 それは、釈迦(如来)を最高神として捉えるかどうかにもよる。仏教のファウンダーともいえるお釈迦様がなにを語ったかに最高の価値をおくか、あるいはもっと大きな宗教空間・世界が存在し、釈迦をそのなかで相対的な存在として位置づけるかによって位相はかわる。実在の釈迦如来よりも架空の大日如来を評価することには仏教関係者のなかにも抵抗感があるかも知れない。

 空海が構想した彼の密教での最高神は大日如来であり、比喩的にいうならそれは太陽神信仰に結びつく。いわゆる大乗の考え方の範疇のなかでは、そしてとりわけ空海の独創的な世界観からは釈迦は控えめな存在であるかも知れない。

 空海のエピソードで釈迦如来が登場するのは、その幼年期である。しかし、その一方、両界曼荼羅の主、大日如来はなぜかくも重要な地位を与えられるのか。永貞元年(延暦24年、805年)8月10日、唐において空海は恵果から阿闍梨位の灌頂を受け、「この世の一切を遍く照らす最上の者」(=大日如来)を意味する遍照金剛(へんじょうこんごう)の灌頂名を与えられた。

 空海は大日如来の生まれ変わり、ないし「変身」。そこまでファンタジー的でないとしても、少なくとも空海の生涯の守護神は幼少期の釈迦如来ではなく、大日如来と思っていたとしてもなんら不思議ではないだろう。

 宇宙は大日如来であり、それと一体化することこそ、人を仏にする方法論であると空海は考えた。そこにいたる論理を構造的にいくえにも組み上げ、巨大な観念論の体系を打ち立てた。大日如来を頂点とし(両界)曼荼羅という緻密な体系をもった総合的な教義―それを空海は真言宗と命名する。

 密教において、次のような「五智」という根本概念がある。このうちもっとも重要、上位なのは法界体性智であり、最高神、大日如来に具現化される。

1.法界体性智(宇宙の真理を現す知慧/真理解明の智慧)
2.大円鏡智(森羅万象を鏡す知慧/鏡の如く映す智慧)
3.平等智(あらゆる機会平等の知慧)
4.妙観察智(正しい観察智慧)
5.成所作智(成就を目指す智慧)

 この五智をうけて、以下のように、五大如来(金剛界、胎蔵界の2分野がある)―五大菩薩―五大明王の4系列のヒエラルヒーが示される。なお、仏さまはすべて、中央(中尊)と東南西北の4方は配される。よって、この関係だけで最大4×5=20の仏さまが居並ぶことになるのである。

<空海、真言密教が構想した仏像ヒエラルヒー>

【如来部(金剛界)】自性輪身
    名称 :印相 :彩色
中 尊|大日如来:智拳印:白色  
東 尊|阿閦如来:触地印:青色
南 尊|宝生如来:与願印:黄色
西 尊|無量寿如来:常印:赤色
北 尊|不空成就如来:施無畏印:黒色

【如来部(胎蔵界)】自性輪身
中 尊|大日如来  
東 尊|宝幢如来
南 尊|開敷華王如来
西 尊|無量寿如来
北 尊|天鼓雷音如来

【菩 薩 部】正法輪身
中 尊|金剛波羅蜜菩薩  
東 尊|金剛薩凱菩薩
南 尊|金剛宝菩薩
西 尊|金剛法菩薩
北 尊|金剛業(利)菩薩

⇒東寺の場合の五大菩薩坐像:木造漆箔:金剛波羅蜜多96,4cm 金剛宝93,4cm 金剛法95,8cm、金剛業94,6cm、中尊・金剛波羅蜜多を除く:平安時代

【明 王 部】教令輪身 
中 尊|不動明王   
東 尊|降三世明王
南 尊|軍荼利明王
西 尊|大威徳明王
北 尊|金剛夜叉明王(天台宗では鳥枢渋摩明王)  

⇒東寺の場合の五大明王像(五尊):木造彩色(乾漆補):不動173,3cm 降三世173,6cm 軍荼利201,5cm 大威徳143,6cm 金剛夜叉171,8cm:平安時代

4.曼荼羅のもつ意味


 空海が招来した密教(東蜜)の思想体系の中心は両界曼荼羅である。空海は唐から厖大な文物を持ち帰った。20年は研鑽するはずの留学僧はわずか2年で先の遍照金剛の灌頂名をもって、いわば並ぶものなき高僧になって帰国した。
 しかし、それだけでは、朝廷との関係では20年を2年に自分勝手に切り上げて帰国した「契約違反」で下手をすれば罪人扱い、良くて譴責処分もの。

 そこを起死回生の逆転。許されたのみならず、登用・重用されたのは、空海『請来目録』に記載があるとおり、両部大曼荼羅、経典類(新訳の経論など216部461巻)、祖師図、密教法具、阿闍梨付属物など圧倒的な物量の舶載品があればこそであった。業績評価としては、一人で何人分か、否、何艘分かの遣唐使実績をあげたことになる。

 なかでも両部大曼荼羅の招来なくして、空海のその後の地位はなかったと思う。胎蔵界と金剛界とは、いわば磁石のSN両極のように<対>で存在し、そこにできる<磁場>の作用によって摩訶不思議の現象が発生するとでも譬えられようか。しかも、SN両極を理解しようとすれば、そこは高度な形而上学の世界が展開されており凡人の歯がたつところではない。儒教、道教、それ以前の大乗、小乗仏教にくわえて、当時の唐のコスモポリタリズムが凝縮されているわけだから、一種の宇宙論の解析にも似て、その知のぶ厚い集積はごく少数のエリートしか操作しえないものであったろう(否、もしかすると、いまにいたるまでそれは変わっていないかも知れない)。

  空海は密教を日本にもたらした。その際、かれの密教の根本におかれたのは曼荼羅であり、特に重要なのは、独自の両界曼荼羅というものである。両界曼荼羅は2つの世界からなっている。金剛界と胎蔵界である。

A金剛界―「金剛界曼荼羅」―「金剛頂経」(「初会金剛頂経」)
B胎蔵界―「大悲胎蔵生曼荼羅」―「大日経」(「大毘盧遮那成仏神変加持経」)

  この2つは別のルーツからもたらされたようだ。山本智教氏によれば、Aは南インドのカーンチーを淵源とし、Bは中インドのナーランダで生まれたという。もともと別の風土で、さまざまな人種の考え方の移入、混交をうけて形成された2つの思想があり、これをひとつの教義に再編せんとしたわけである。
 2つを再編、統合せんとしたのは空海その人がはじめてではない。空海の中国における師、恵果(えか/けいか、746~806年)こそ、空海にそれを授けた。ここにもまた系譜がある。

             
空海← 恵果 ← (大日系) 玄超 〔(金剛頂系)不空、(蘇悉地系)〕←善無畏
             

 恵果は、中国唐代の密教の高僧で真言八祖の第七祖(大日如来―金剛薩埵―龍猛―龍智―金剛智―不空―恵果―空海)といわれる。空海は恵果から、両界曼荼羅の継承をうけその後これを保った唯一の人物となったのである。

 A「金剛頂経」自身が、先の出自にもあるとおり多くの教義をコンポーネントとしているが、その内容は、大日如来が18の異なる場所で別々の機会に説いた10万頌(じゅ)に及ぶ大部の経典の総称であり、単一の経典ではないという。
 実践法に力点がおかれ、そこでは、五相成身観(密教の重要な修行法の一つ。五段階の修行を経て、仏の真実の姿を修行者の身体に実現させる法。五法成身)が説かれる。これは、未熟な求道者を、瑜伽(ゆが)の観法を通じて導き、清浄(「しょうじょう」と読む)の境地にいたったとき、その心象こそが如来の智慧に他ならないことを諭し、如来との一体化をもって本来そなわる如来の智慧を発見するための実践法といわれる。

 B「大日経」は、毘盧遮那如来と金剛手の対話によって真言門を説き明かしていくという、初期大乗経典のスタイルを踏襲。漢訳では7巻36品(章)で構成(うち最後の5品は付属編)され、そのうち31品の「住心品」と残りの「具縁品」以下からなる。「住心品」はいわば理論編、それに対して、「具縁品」以下は実践編という位置づけといわれる。
 「住心品」では、悟りとは、すべての者を救おうとする慈悲の心(大悲)を基盤とし、努力する決意(菩提心)をもって修行し、その究極の目的は、自己を顧みず他者に尽くすこと(方便)にあるとされる(「如実知自心」)。一方、「具縁品」以下は、一種のマニュアル的に、曼荼羅の作り方、護摩法要のやり方、師匠と弟子の資格などについて詳細に記述される。

 空海はA、Bの考え方をふまえ、これを階序的に整理し、「十住心論」という大胆な世界観論を形成する。あらゆる思想、哲学、宗教を段階的に位置づけ密教、大日如来の教えを頂点におく巨大な「知」の総合ともいえる。


<十住心論の体系>

 十住心論をおおきく4つに分けると、Ⅰ.仏教以前の世界観→Ⅱ.小乗仏教の世界観→Ⅲ.大乗仏教、各派の比較→Ⅳ.密教の絶対性へ「上級化」していく組み立てであることがわかる。実に大胆なランク論である。

Ⅰ 仏教以前の世界観
1 自然状態たる異生羝羊(いしょうていよう)は性悪説的なドクサはあるが本能的な人心の段階

【儒教の段階】
2 愚童持斎(ぐどうじさい)で儒教の倫理観は評価するが、処世訓的な狭さも感じる

【インド哲学、老荘思想の段階】
3 嬰童無畏(ようどうむい)インド哲学や老荘思想。ここではじめて宗教心が芽生える

Ⅱ 小乗仏教の世界観
【無我の目覚めの段階】
4 唯蘊無我(ゆいうんむが)<顕教><小乗> 声聞乗の境地で事物の本質は存在しないと気づく。「無我心」

【自利的悟りの段階】
5 抜業因種(ばつごういんしゅ)<顕教><小乗> ここで小乗の限界に。すなわち、縁覚乗の境地で自分自身の迷いはなくなるけれど、他者の救済にまではいかない。「自利的」

Ⅲ 大乗仏教、各派の比較
【大乗>小乗の階序性の立論】
6 他縁大乗(たえんだいじょう)<顕教><大乗> 「法相宗」の修行者 全衆生救済の大乗仏教の第一歩「利他的」

【三論宗>法相宗の階序性の立論】
7 覚心不生(かくしんふしょう)<顕教><大乗> 「三論宗の修行者」重要なのは「空の境地」(空海の「空」)
【天台宗>三論宗の階序性の立論】
8 一道無為(いちどうむい)<顕教><大乗> 天台法華の教え「生命観」

【華厳宗>天台宗の階序性の立論】
9 極無自性(ごくむじしょう) <顕教><大乗> 華厳宗の教え「価値観」重要なのは「海の境地」(空海の「海 」)

Ⅳ 密教の絶対性
【密教>顕教の階序性の立論】
10 秘密荘厳(ひみつしょうごん)<密教><大乗> 大日如来の教え 真言密教の境地「絶対観」

 洋の東西の違いはもちろんあるけれど、空海の知識の凝縮さではアリストテレスを連想し、また巨大な観念論的な体系性では「後の」ヘーゲルを想起させるものがあると思う。

5.<真言>+<陀羅尼>のもつ意味 

空海は、先に述べたとおり、若き日、突如「悟り」に達した。その後、その「悟り」を深化すべく当時の最先進国唐に留学し、密教に出会い、それを理論化・体系化し、衆生にどう伝道するかに腐心することになる。
 普通は逆だろう。釈迦ですらながい修業の期間をつうじてはじめて「悟り」の境地に達した。一定の熟成期間、リードタイムがあるはずだが、空海の場合は「悟り」いたる過程が逆、ないし非常にショートカットされている。

 しかし、理論化・体系化し、そしてなによりそれを効果的に広範に伝えることには相応な時間を要する。
 理論化・体系化については、すでに見てきたとおりマンダラ(曼荼羅)がその帰結であったとすれば、その教え(教理)を伝道する有効な手法はマントラ(真言)というかたちで示される。マントラとはなにか?

 マントラは<真言>。この<真言>という言葉も強烈な響きをもっている。「真の言葉」、それを暗誦していくども唱えることで解脱への階梯をあがることができる。ここで、もうひとつ難しい言葉が付加される。<陀羅尼>(だらに)である。これは、サンスクリット語の原文を尊重して原音をまねて音読することをさす。
 すなわち、<真言>+<陀羅尼>とは、有難い教えをたたえた「真の言葉」を、サンスクリット語の原文を尊重していくども音読することとなろう。般若心経において、われわれもなじみのある「羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶」はその典型といわれるが、実はその意味は不明とされる。これを皆で唱えているときに、その独特なイントネーションや抑揚から、時にある種の説明不能な高揚があるような気もする。

曼荼羅は複雑で巨大な体系、その一方、<真言>は力強い短いフレーズに特色がある。このコントラストも面白い。


6.空海思想の展開


 空海の巨大な観念論の体系を、時の統治機構に、仏教関係者に納得させるうえで、密教(秘密宗教)は不可欠だった。顕教ではなく密教、それ以前の「雑」蜜ではなく新たな「純蜜」、そうした概念設定は実に巧みである。圧倒的に秀でていて、かつ真似のできない高みを示すことで、その観念論の体系は、新たな統治理念にもなり、仏教を超える指導原理にもなるはずであった。
 
 空海の統治能力の高さは、ここから発揮される。いわば急な国教化によっても、朝廷との距離は保った。平安京のゲートウエイ、南の要たる東寺をあたえられても、そこには安住せず、京都高尾神護寺、和歌山高野山金剛峯寺といった都から離れた山岳地に修業道場を構え、教義の研鑽、純化を怠らなかった。

 別の観点からは、空海の若き日の厳しい山野での修業経験があればこそかも知れないが、里の民(朝廷権力のおよぶエリア)と山の民(強力なアウトサイダー集団の存在するエリア)の双方の掌握が必要との冷徹な認識をもっていたことを意味しているのではないだろうか。役小角(えんのおづの)の後継者としての空海、そしてこれは最澄の生き方にも共通する。

 その一方で、うるさい既存のエスタブリッシュメントたる奈良の六宗との関係にも配意し、最澄のような一乗、三乗論争といった不毛な論戦に巻き込まれることもなかった。
さらに、両界曼荼羅的な世界を巨大な「舞台」とすれば、「大道具」たる仏像群(立体曼荼羅)から「小道具」たる法具にいたるまで周到な舞台づくりの投資、普及も周到にすすめることを忘れなかった。この点では物心両面からのアプローチに長けていたといえるのではないだろうか。

 「即身成仏」をもとめているのは為政者や貴族、「同業者」たる僧ばかりではない。否、むしろ民衆にこそ、その教えを広めなければならない。これこそが空海の目指すべき本道である。民間の教育機関、綜芸種智院の開設はその意味でも画期的であり、不可欠であった。

 空海の業績は、あまりに広範にわたっており、伝説化されているものも多い。遺徳が大きかったゆえに、生前の行動が美化、神格化されたものも当然あるだろう。

 本業は別としても、いまでいえば、すべて「一流の」という冠つきで、気象予報士(降雨加持祈祷)、土木設計者(満濃池造成)、薬剤師(医方明ー医学・薬学に明るい)、鉱物探査者(水銀鉱脈等の発見)、民間教育の父(綜芸種智院創設)であり、結果的にお遍路(四国八十八箇所)という周遊観光を企画した旅行プランナーでもあった。
 そして、その伝説を可能としたのは、(謎、疑問もあるが)伝えられるところの空海の死(入定)の見事さにある。最後まで、己の人生を見事にプロデュースしえたがゆえに、密教=秘密宗教の有難さ、リアリティを高めることができたのではないか。

 憤怒(忿怒)相の意味についても少し書いておきたい。『京都の仏像』(塚本善隆、中野玄三 1968年 淡交社)での中野玄三氏の各像の分析、記述には大局観があり座右の一冊である。
 その中野玄三氏による「日本における密教諸尊の受容」(『弘法大師と密教美術 入定1150年 図録』京都・東京国立博物館 真言集各派総本山会 1973年 朝日新聞社)という論考が参考になる。

(1)天平時代の雑蜜像、(2)大師請来密教像の特色、(3)鳥獣座の受容、(4)明王像の出現、(5)密教諸尊の功徳という項立てだが、おおむねこれを見ればその内容が理解できるだろう。

 端的に言えば(5)で憤怒(忿怒)相の意味は「天皇に対してなす祟りを、新しい密教像のもつ神秘不可思議な霊力をもって鎮圧しようとしたところにある」(p.24)とされるが明快な見解である。

 東寺講堂立体曼荼羅について、空海は絶対のパワーをもつ大日如来と金剛波羅蜜菩薩と不動明王の関係を、一般の儀軌的な序列で、

 大日如来>金剛波羅蜜菩薩>不動明王 

と階序的に位置づけるのではなく、むしろ各像は<変化仏>のパターンを表しており場合によれば、

 不動明王⇔大日如来⇔金剛波羅蜜菩薩
 
にいつでも転じることができるという趣旨かも知れないと考える。そう、ウルトラマンの「変身」に似たりである。

 明王とは如何。衆生は大日如来の正法をもってしても済度しがたいこともある。まして悪意をもって祟りをなさんとする場合はなおさらである。そこで、これらに対して大日如来は明王(教令輪身)となり威をもって仏法に導く。この場合、明王は如来の使者または如来の変身といわれる。

 明王は如来がときに「変身」したもの、すなわち変化仏であるということを、この立体曼荼羅はその卓抜な配置をもってわかりやすく示しているのではないかと思う次第である。

 憤怒(忿怒)相の恐い仏像たちは、この時代、朝廷など貴族を守る、ないし敵の呪術の攻撃に打ち勝つためのものであり、けっして一般の民を威嚇するものではなかったとの見解は傾聴に値する。

 教義としての「密教」は巨星、空海亡きあと分派し18もの有力な真言宗グループを形成する。
しかし、総体でみれば、真言密教そのものも一宗派であるにすぎない。不謹慎な言い方ながら、曼荼羅も真言密教の多くの仏さまも「スターダム」に乗ったものは少ない。

たとえば如来については、大日如来以外では、次の5大スターが一般に親しまれ有名である。     
    
釈迦如来(唯一実在した如来、仏陀)  
薬師如来(浄瑠璃浄土、「お薬師さま」で庶民信仰でも人気、時に薬壷を持つ) 
阿弥陀如来(極楽浄土、「阿弥陀さま」、極楽浄土への最良のナビゲーター) 
弥勒如来(現在兜率天、56億7千万年後に如来となる) 
毘盧遮那仏(華厳経による三千世界を統括する。東大寺大仏が著名)
ー・-・-・-・-・-・-・-
大日如来(両界曼荼羅の主尊、菩薩形、毘盧舎那仏と同体、密教統括仏)

http://www10.ocn.ne.jp/~mk123456/hasei.htm を参照

 それに比べれば、上記の大日如来を除き、金剛界で比較的作例のある阿閦如来、宝生如来のほかは、無量寿如来、不空成就如来に加えて、胎蔵界での宝幢如来、開敷華王如来、無量寿如来、天鼓雷音如来(なかなかユニークな名前である!蓮華王院の風神、雷神を連想させるが)はほとんど普及するに至らなかった。
 菩薩部も同様。そもそもいまでは、教義の違いも判然としないものもある。明王部では不動明王がスターダムに駆けあがって、大いに気を吐くことになるが、それ以外はその威圧的、厳しいお姿ゆえか地味な存在である。

 空海が構想した立体曼荼羅の世界、結果的に東寺ほど残っている寺はない。また、残念ながら個性豊かな如来、菩薩、明王群も不動明王以外は普及はしなかった。また、それは日本のみならず、中国においても同様だった。 
   
7.空海のもつ意味

 民衆にとっては、<真言>+<陀羅尼>の言葉こそ重要であった。はじめに言葉ありき。文字は読めなくとも正確な言葉を発することで仏に近づくことができる。それが陀羅尼である。「真の言葉を正確に、心をこめて幾度も唱えること」、これこそ真言陀羅尼であり、この伝道方式は、その後、わが国で主流になっていく。法然、親鸞、日蓮など・・・後身は続々とつらなることになる。

 方法論としての陀羅尼はいまも生き生きと息づく。空海は最後まで沙門と自らを位置づけ厳しい「内省」を忘れなかった。最澄も同様であったろう。この二人の生き様を知る弟子たちにとって師は入滅するまで「完璧」な存在であったろう。

 天長8年(831年)に病を得た以降の空海は、文字通りみずからの命をかけて真言密教の基盤を磐石化するとともに、その存続のために尽力した。とくに承和元年(834年)12月から入滅までの3ヶ月間は、後七日御修法が申請から10日間で許可されその10日後には修法、また年分度者を獲得し金剛峯寺を定額寺とするなど、密度の濃い活動を行った。すべてをやり終えた後に入定、即ち永遠の禅定に入ったとされている。

 空海が構想した巨大な観念論的な体系は宗派、一部の人びとにとっては金科玉条でも、釈迦に比類するものにはならなかった。だが、意想外に、より自由で気宇壮大な神話が民衆のなかからつぎつぎに生まれ、空海は、日本において秘蹟を導く並ぶものなき「弘法さま」、「お大師さま」になっていく。

(拾 遺)

 密教・仏画については、40年ちかく前になるが、佐和隆研先生などの本を読んで少しく知ることになったが、実はいまだにしっくりとこない部分がある。その理由を考えてみると、第1に、両界曼荼羅に象徴され、密教では大変重要な「天上の序列」についての疑問をもっているからかも知れない。

 <天上の序列について>
 仏像彫刻の鑑賞にあたって、多くの入門書では必ずといってよいほど、「天上の序列」について解説がなされる。即ち、仏像は①如来、②菩薩、③明王、④天などのグループに分かられ、その順にそって特色が語られる。しかし、そうした「分類学」にあまり鑑賞上の意味があるとは思われない。
 円城寺大日如来(鎌倉時代、運慶作、桧材、寄木造、漆箔、像高98.2㎝/こうした情報には大いに価値がある!)、広隆寺弥勒菩薩、興福寺阿修羅像など孤高の仏像にそもそも序列など似合わないし、むしろ不要だろう。

 たとえば、久野健『仏像鑑賞の基本』里文出版(1995年改訂増補版)では、上記4類型に加えて⑤に羅漢部を掲げているが、「明王」部(不動明王、五大明王、愛染明王および孔雀明王)および「羅漢」部と如来、菩薩、天部との作品紹介の質量のバランスは崩れ、「明王」、「羅漢」をあえて特掲する意味は乏しいと思われる。

 ちなみに、「天」部のヴァリエーションは実に豊かであり、そのコントラストが強い。「天」部ー四天王、毘沙門天、十二神将、仁王、八部衆、梵天・帝釈天、執金剛神、吉祥天、弁財天

 久野健『仏像』学生社(1961年)は座右の名著だが、一切、そうした分類学はない。私は仏像本で、「天上の序列」がわからないとキチンとした鑑賞ができないとする本は眉唾もので、どうも紙幅稼ぎの著者の怠慢に起因すると思うのだが如何だろうか。

◆天上の序列 http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-140.html

 第2に、仏画の重要性はある程度、頭では理解しているつもりながら、その関心はもっぱら図像学的な「データ集」としてであり、ときたま気にいった作品はあっても、鑑賞して仏さまとして深く打たれるような感動がいまだにない。  
 たぶん知識も不足し見方が浅薄なのだと自省しつつもいまのところ同様である。
仏像は、仏像彫刻もあれば「仏像」絵画もある。仏画とは一般に「仏教」絵画のことを指すようだが、いずれにしても、仏像は立体的な造型もあれば、絵画という平面的な、しかし優れて色彩的な領域もあるということだ。
 四海をかこまれた日本において、嵩張る仏像にくらべて、巻物の絵画の海上運搬は容易であり、経典とともに多くがもたらされた。
 特に、密教の伝来とともに、経典、仏画の研究が一層すすみ、儀軌にそくした仏像がつくられるようになった。その場合の仏画は、一種の教則本、マニュアルでありとても貴重なものであったろう。

 高松塚古墳壁画、法隆寺金堂壁画、天寿国繍帳、玉虫厨子、さらに時代が下って両界曼荼羅などをみると仏画が当時の人びとに与えた影響の大きさを感じずにはおかない。しかも、往時は極彩色であり、まことに絢爛豪華なものであったろう。仏像とは別に至宝の趣きがあったはずである。
 仏像は時と共に劣化するが、後世に芽生えた日本的な侘び、寂び的な感覚からすれば、風雪をへた味わいに別の価値をみいだすこともできる。金色に輝くより黒光りする仏像、金箔や漆の剥落した仏像にも日本人は特有の良さを見いだす。
 その一方、絵画は長期保存が難しく、色彩や線画の劣化は避けがたい。国宝では、仏像よりも仏画のほうが点数が多いのだが、常設展示でみることのできる機会は残念ながら限られている。
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-196.html

 ゆえに、専門家では仏画の研究家も多いながら、一般に「仏画ファン」は仏像彫刻愛好者にくらべてはるかに少ないだろう。しかし、経典、儀軌についての関心があれば、仏画はまた別の楽しみ方もできる。最近は仏画の本もよく手にとるようになった。

◆仏画の魅力 http://blog.livedoor.jp/shokkou/archives/1849943.html

◆参考文献リスト http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-22.html


 そして第3に、より本質的にはこれは密教そのものについての考え方に帰着するのかも知れない。密教については、純粋な宗教とはどうしても捉えにくい(そもそも、純粋な宗教とは何かという命題もあるだろうが・・・)。以前から密教は解析不能な呪術的要素と不可分であると感じている。
 「教義」としての密教ではなく、呪術的要素、すなわち異界との関係をどう考えるかという密教の空想力・構想力(これは実は嫌いではない、むしろ興味津々の領域である)に注目するとき、日本には空海以前、そしてそれ以降にユニークな人脈があるのではないかと従来より思っている。

 勝手な想念だが、かねてから自ら命名した「異界の7人」に惹かれている。
1人目は役行者こと役小角、2人目は当時のスーパー国際人吉備真備、3人目は沙弥・空海、4人目は陰陽師こと安部晴明、5人目は悲劇の武将・平将門、6人目は江戸の科学者・平賀源内、7人目は特定の人ではなく風水師という「異界案内人」である。さらに、この系譜とは別に、やはり聖徳太子と空海の関係も大いに気になるところである。

◆呪術(じゅじゅつ、magic):
呪とは、人類の初期社会や初期文明において、押並べて発生したとされる、祈祷や占いなど神託としての運命の決定やそれらを指針とした政(まつりごと)、民間治療ともいわれる呪術医療(呪術医)と生活の糧を得るための「狩り・漁り」による薬草や毒草の知識や使用、または呪い(まじない)や呪い(のろい)や祓い(はらい)といわれる祈祷師による神霊の力の利用をさし、原始宗教でもある文化人類学におけるシャーマニズムとアニミズム、それぞれの観念や行為にともなう呪文に代表される形式や様式や儀式をさす。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%AA%E8%A1%93


◆異界の7人:
http://www.amazon.co.jp/%EF%BC%97%E4%BA%BA%E3%81%AE%E7%95%B0%E7%95%8C%E4%BA%BA%E5%88%97%E4%BC%9D%EF%BC%88%E5%BD%B9%E5%B0%8F%E8%A7%92%E3%80%9C%E5%B8%9D%E9%83%BD%E7%89%A9%E8%AA%9E%E3%81%BE%E3%81%A7%EF%BC%89/lm/R30H44NH4UG434/ref=cm_lm_byauthor_title_full

◆聖徳太子と空海:
http://blog.livedoor.jp/shokkou/archives/1884381.html

空海略年譜


774(宝亀5) 6月15日 讃岐国多度郡屏風が浦で出生。
          幼名は真魚(まお)。

780       出釈迦寺で、481mの頂から身を投じたという
         捨身ヶ嶽禅定。

789       母方の伯父、阿刀大足(あとおおたり)に師事。
         獅子窟で励む。

791(延暦10) 大足に伴われて上京(長岡京)、大学に入学。

793       20歳で出家。ある沙門から「虚空蔵求聞持法」を
        授かる。
        阿国大滝岳、土州室戸岬、和泉国槙尾山施福寺で
        沙弥戒を受ける。

797(延暦16) 4月9日 東大寺の戒壇院で具足戒を受ける。
         12月1日「聾瞽指帰(ろうこしいき)」完成。

798       大和国久米寺で「大日経」を感得。

804 (延暦23) (続日本後記)31才で得度。
         7月6日 肥前国田ノ浦(現・平戸)を出帆。
          8月10日 中国大陸福州赤岸鎮の南に漂着。
         12月23日 唐の都長安東門(春明門)より入る。

805 (延暦24) 2月10日 遣唐大使らは長安・宣陽坊を発って
         帰国の途につく。
          空海は逸勢と西明寺に残る。青竜寺の
         恵果を訪ねる。
          6月13日 恵果より学法灌頂壇で胎蔵
         の灌頂を受く。
          7月 恵果より金剛界の五部灌頂を受く。
         大日如来に落花。
          恵果は空海に遍照金剛の名を授く。
          8月10日 恵果より阿闍梨位の伝法灌頂
         (密教の大法)を受く。
         12月15日 青竜寺の東塔院で恵果が入滅。

806 (大同元) 1月 門下を代表し恵果の碑文を撰す。
           3月 20年滞在の約束にもかかわらず、
         長安を離れ、帰国の途。
          4月20日 浙江省に到着、ここで4ケ月滞在。
          8月 逸勢と共に寧波から帰路につく。
          12月13日 空海は大宰府に留めおかれる。

809 (大同4)  嵯峨天皇が24歳で即位
         8月24日 最澄(弟子経珍)、空海が請来した
         密教経典12部を借覧。
         10月4日 「世説」8巻のうちの秀文を屏風
         にして嵯峨天皇に献上。

810(弘仁元) 「東大寺要録」によれば、この年から813年
         まで東大寺の別当職。
         9月に薬子の乱。
        皇太子である高丘親王は廃され、出家して
        空海の弟子となる。

811       11月9日 乙訓寺の別当に任じられる。

812(弘仁3)  9月11日 空海から最澄へ書状「風信帖」。
         11月15日 空海、高尾山寺の金剛界灌頂。
         最澄は受者。
         12月14日 空海、同寺の胎蔵灌頂。
         最澄以下145名が受者。

813       最澄は空海に阿闍梨灌頂を伝授するよう
         願うが拒否。

814       最澄:「法華一乗」と「真言一乗」は大乗で、
         同じという立場
          空海: 顕教と密教とは次元が異なるとし、
         双方は離別。

816       6月19日 修禅の道場建立のため高野山
         の下賜を願い出る。
         当時の帝、嵯峨天皇より高野山を賜わる。         
         諸弟子や工人等多数を伴って登山し
        高野山金剛峯寺開創に着手。

818      満濃池決壊。築池使の路浜継は3年で
        修復を図るも失敗。

821(弘仁12)   4月 満濃池修築別当に任じられ、
          6月からの3ケ月で完成。

822(弘仁13)   2月 東大寺に潅頂道場(真言院)を建立。
          高雄山寺において、鎮護国家の為に
         仁王経法を修す。
          平城上皇に密教独特の戒である
         三昧耶戒を授け、潅頂。

823(弘仁14)   1月19日 嵯峨天皇にも潅頂を授く。
           嵯峨天皇より東寺(教王護国寺)を受預。

824(天長元)   2月 勅命によって神泉苑において雨をいのる。
          翌月、少僧都に、5月には内裏で
          祈雨法を修し、大僧都に。

828(天長5)    12月15日 綜藝種智院を開設。

830(天長7)    「十住心論」を著す。

832         高野山で万燈会。
          願文「虚空尽き、衆生尽き、
         涅槃尽きなば、わが願いも尽きん」。

835(承和2)    3月21日62歳で入定。

921(延喜21)   醍醐天皇、「弘法大師」号を贈る。
   
(出典) http://www.sakai.zaq.ne.jp/piicats/kukainenpyou.htm から作成


参考文献等

『弘法大師と密教美術 入定1150年 図録』京都・東京国立博物館 真言集各派総本山会 1973年 朝日新聞社(1973/03)
(内容)
A 佐和隆研(京都大学名誉教授)「弘法大師と密教美術」
B 中田勇次郎(京都芸術大学名誉教授)「大師の書」
C 山本智教(高野山霊宝館長)「密教美術の源流」
D 濱田隆(奈良国立博物館長)「両界曼荼羅の相承」
E 中野玄三(京都国立博物館美術室長)「日本における密教諸尊の受容」

福永光司(責任編集)『日本の名著〈3〉最澄 空海』中央公論社 (1977/05)
宮坂 宥勝 , 金岡 秀友 , 梅原 猛 (編)『講座密教 〈1〉密教の理論と実践』春秋社 (1978/09)

中国仏教協会, 日中友好仏教協会 (編) 『中国仏教の旅〈第1集〉北京・太原・西安・洛陽』美乃美 (1980/04)
奈良国立博物館『日本の仏教を築いた人びと―その肖像と書』奈良国立博物館 (1981/04)
宮坂 宥勝・宮崎忍勝『空海密教のすべて』朱鷺書房 (1983/11)
宮坂 宥勝『空海―生涯と思想』筑摩書房 (1984/06) →ちくま学芸文庫で入手可能
宮坂 宥勝 , 金岡 秀友 , 梅原 猛 (編)『講座密教〈5〉密教小辞典』春秋社 (1987/04)
福田 亮成編『真言宗小事典』法蔵館 (1987/08)

『密教の本―驚くべき秘儀・修法の世界』学習研究社 (1992/01)
宮坂 宥勝編『空海 思想読本』法蔵館 (1992/6)
宮坂 宥勝『空海曼荼羅』法蔵館 (1992/11)

宮坂 宥勝 (監修), 頼富 本宏 (翻訳)『空海コレクション 1』筑摩書房 (2004/10/7)
宮坂 宥勝 (監修), 頼富 本宏 (翻訳)『空海コレクション2』筑摩書房 (2004/11/11)
松原 泰道『法華経と宗祖・高僧たち―日本仏教の真髄を読む』佼成出版社 (2005/10)

『空海 (KAWADE 道の手帖)』河出書房新社 (2006/1/21)
(内容)
 井筒俊彦「意味分節理論と空海-真言密教の言語哲学的可能性を探る」
(『意味の深みへ』岩波文庫、2004年 所収、抜粋)
 安藤礼二「空海入門」
 上記、道の手帖『空海』-世界的思想としての密教(河出書房新社)より抜粋)
 湯川秀樹「不思議な人物」
(『弘法大師空海-密教と日本人』和歌森太郎編著、1973年)
 内藤湖南「弘法大師の文芸」
(講演「弘法大師の文芸」抜粋、内藤湖南、1912年)
 岡倉天心)「花」
(抜粋、『茶の本(英文収録)』岡倉天心、講談社学術文庫、1994年)
 幸田露伴「文学史にあらわれたる弘法大師、文学上における弘法大師」
(講演「文学史にあらわれたる弘法大師」抜粋、幸田露伴、1909年)
 菊地 寛「弘法大師」(『空海曼荼羅』夢枕獏編著、2004年)
 岡本かの子「即身成仏義より」(『総合仏教聖典講話』岡本かの子著、1934年)
 南方熊楠「明治36年、数多くの往復書簡を重ねた高野山金剛峯寺の土宜法竜への書簡(禅を口にした土宜法竜 への痛烈な批判が見える真言曼陀羅論、抜粋)

東京国立博物館『空海と密教美術展 図版』(2011/7/20)
 

(以上は、下記の文章をまとめたものです。「空海について考える」1~9を断片的に書いてきて、それを同10で集約しました。さらに、各回分と同10を総合すべく編集したものです。よって、ほとんどの文章は1~10と重複しています)。 【“空海論”の続きを読む】

テーマ:文明・文化&思想 - ジャンル:学問・文化・芸術

空海と密教美術展 空海について考える10 空海の思想  私論

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四国八十八ヶ所霊場巡拝用の納経軸 http://www.eitikai.co.jp/eitikai42singon.htm

 空海が生きた時代、日本では、為政者から民衆まで、現代人よりも、はるかに仏教というものを真剣に考えていたのではないかと思う(※1)。

 空海は、天と地、空(そら)と海(うみ)からなるこの世界を、そこから構成される宇宙というものを見切っていた、あるいは自ら見切ったという強い認識をもっていた(※2)。

 空海は、生死を賭けて、厳しい大自然のなかで一人、神の存在を追求し、そしてその修業のなかで宇宙と一体化するというカタルシスを経験した。「宇宙と一体化する」ということ、それこそが「悟り」であると直観した。
 しかも、その一瞬、「即身成仏」として人は仏になれると考えた。その「資格」は小乗、大乗の仏教徒に限られない。誰でもが「悟り」にいたる潜在的な可能性をもっている。大胆な思想の飛翔であった。

 空海は夢想家、空想家ではなかった。冷静なリアリストであった。釈迦について、インドに生まれた実在の「人物」で、仏教という考え方を開いたということを十分に知っていた。インド人が、宗主の教えがあるとすれば、日本という国(空海のナショナリズムは、彼が遣唐使の一員であったことで、否応なく身についたことであろう)においても、新たな教えを打ち立てることはなんら不自然なことではないと考えていたのではないか。
 釈迦が神(仏)をみたとすれば、空海も神(仏)をみた。その神をなんと言おうか。空海は経典を渉猟し、恵果に深く学び、考え抜いたすえに、その神を「大日如来」と捉えた(※3)。

 宇宙は大日如来であり、それと一体化することこそ、人を仏にする方法論であると空海は考えた。そこにいたる論理を構造的にいくえにも組み上げ、巨大な観念論の体系を打ち立てた。大日如来を頂点とし(両界)曼荼羅という緻密な体系をもった総合的な教義―それを空海は真言宗と命名した(※4)。

 空海の巨大な観念論の体系を、時の統治機構に、仏教関係者に納得させるうえで、密教(秘密宗教)は不可欠だった。顕教ではなく密教、それ以前の「雑」蜜ではなく新たな「純蜜」、そうした概念設定は実に巧みである。圧倒的に秀でていて、かつ真似のできない高みを示すことで、その観念論の体系は、新たな統治理念にもなり、仏教を超える指導原理にもなるはずであった(※5)。

 「即身成仏」をもとめているのは為政者や貴族、「同業者」たる僧ばかりではない。否、むしろ民衆にこそ、その教えを広めなければならない。これこそが空海の目指すべき本道である。民間の教育機関、綜芸種智院の開設はその意味でも画期的であり、不可欠であった。
 余談ながら、憤怒(忿怒)相の恐い仏像たちは、この時代、朝廷など貴族を守る、ないし敵の呪術の攻撃に打ち勝つためのものであり、けっして一般の民を威嚇するものではなかったとの見解は傾聴に値する(※6)。

 言葉こそ重要であった。はじめに言葉ありき。文字は読めなくとも正確な言葉を発することで仏に近づくことができる。それを陀羅尼(ダラニ)という。「真の言葉を正確に心をこめて幾度も唱えること」、これこそ真言陀羅尼であり、この伝道方式は、その後、わが国で主流になっていく。法然、親鸞、日蓮など・・・後身は続々とつらなることになる(※7)。

 教義としての「密教」は巨星、空海亡きあと分派し18もの有力な真言宗グループを形成する(末尾参照)。しかし、総体でみれば、真言密教そのものも一宗派であるにすぎない。不謹慎な言い方ながら、曼荼羅も真言密教の多くの仏さまも「スターダム」に乗ったものは少ない(※8)

 その一方で、方法論としての陀羅尼は生き生きといまも息づく。空海は最後まで沙門と自らを位置づけ厳しい「内省」を忘れなかった。最澄も同様であったろう。この二人の生き様を知る弟子たちにとって師は入滅するまで「完璧」な存在であったろう。
 空海が構想した巨大な観念論的な体系は宗派、一部の人びとにとっては金科玉条でも、釈迦に比類するものにはならなかった。だが、意想外に、より自由で気宇壮大な神話がつぎつぎに生まれ、空海は、日本において秘蹟を導く並ぶものなき「弘法さま」、「お大師さま」になっていく(※9)。

(注)
約2ヶ月間、空海について考えています。以下はそのインデックスでもあります。

※1:空海と密教美術展 空海について考える7 
   時代背景 (08/13)(参考データ)空海略年譜
※2:空海と密教美術展 空海について考える2 十住心論の体系 (08/07)
※3:空海と密教美術展 空海について考える5 大日如来 (08/10)
※4:空海と密教美術展 空海について考える 両界曼荼羅 羯磨曼荼羅 (08/06)
※5:空海と密教美術展 空海について考える8 
   空海の思想  巨大な観念論 (08/14)
※6:空海と密教美術展 空海について考える4 憤怒(忿怒)相の意味 (08/08)
※7:空海と密教美術展 空海について考える6 <真言>+<陀羅尼> (08/11)
※8:空海と密教美術展 空海について考える9 
   空海の思想  仏さまの履歴 (08/14)
※9:空海と密教美術展  観る 考える -空海の業績 (08/05) )


(その他の記事)
※空海と密教美術展 空海について考える3 NHK「空海 至宝と人生ー“仏像革命”」を観る (08/07)

空海と密教美術展 魅力の彫刻6 人気NO1 帝釈天騎象像 (07/31)
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空海と密教美術展 魅力の彫刻2 獅子窟寺薬師如来坐像 (07/27)
空海と密教美術展 魅力の彫刻1 兜跋毘沙門天 (07/25)
空海と密教美術展に行く 仏像の魅力 (07/24)

空海と密教美術展 東京国立博物館の案内 (06/14)

(末尾)
真言宗十八本山(順不同)
古義真言宗系 金剛峯寺 - 高野山真言宗総本山
教王護国寺 - 東寺真言宗総本山
善通寺 - 真言宗善通寺派総本山
随心院 - 真言宗善通寺派大本山
醍醐寺 - 真言宗醍醐派総本山
仁和寺 - 真言宗御室派総本山
大覚寺 - 真言宗大覚寺派大本山
泉涌寺 - 真言宗泉涌寺派総本山
勧修寺 - 真言宗山階派大本山
朝護孫子寺 - 信貴山真言宗総本山
中山寺 - 真言宗中山寺派大本山
清澄寺 - 真言三宝宗大本山
須磨寺 - 真言宗須磨寺派大本山
新義真言宗系 智積院 - 真言宗智山派総本山
長谷寺 - 真言宗豊山派総本山
根来寺 - 新義真言宗総本山
真言律宗 西大寺 - 真言律宗総本山
宝山寺 - 真言律宗大本山
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E8%A8%80%E5%AE%97#.E7.9C.9F.E8.A8.80.E5.AE.97.E5.90.84.E6.B4.BE.E7.B7.8F.E5.A4.A7.E6.9C.AC.E5.B1.B1.E4.BC.9A.EF.BC.88.E5.90.84.E5.B1.B1.E4.BC.9A.EF.BC.89 【“空海と密教美術展 空海について考える10 空海の思想  私論”の続きを読む】

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空海と密教美術展 空海について考える9 空海の思想  仏さまの履歴

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国宝「不動明王」東寺(今回の出展外)

 密教において5という数字はさまざまにでてくる。まず、次のような「五智」という根本概念がある。このうちもっとも重要、上位なのは法界体性智であり、最高神、大日如来に具現化されるという。

1.法界体性智(宇宙の真理を現す知慧/真理解明の智慧)
2.大円鏡智(森羅万象を鏡す知慧/鏡の如く映す智慧)
3.平等智(あらゆる機会平等の知慧)
4.妙観察智(正しい観察智慧)
5.成所作智(成就を目指す智慧)

 この五智をうけて、以下のように、五大如来(金剛界、胎蔵界の2分野がある)―五大菩薩―五大明王の4系列のヒエラルヒーが示される。なお、仏さまはすべて、中央(中尊)と東南西北の4方は配される。よって、この関係だけで最大4×5=20の仏さまが居並ぶことになるのである。

<空海、真言密教が構想した仏像ヒエラルヒー>
     
【如来部(金剛界)】自性輪身

    名称 :印相 :彩色
中 尊|大日如来:智拳印:白色  
東 尊|阿閦如来:触地印:青色
南 尊|宝生如来:与願印:黄色
西 尊|無量寿如来:常印:赤色
北 尊|不空成就如来:施無畏印:黒色

【如来部(胎蔵界)】自性輪身

中 尊|大日如来  
東 尊|宝幢如来
南 尊|開敷華王如来
西 尊|無量寿如来
北 尊|天鼓雷音如来

【菩 薩 部】正法輪身
  
中 尊|金剛波羅蜜菩薩  
東 尊|金剛薩凱菩薩
南 尊|金剛宝菩薩
西 尊|金剛法菩薩
北 尊|金剛業(利)菩薩

⇒東寺の場合の五大菩薩坐像:木造漆箔:金剛波羅蜜多96,4cm 金剛宝93,4cm 金剛法95,8cm、金剛業94,6cm、中尊・金剛波羅蜜多を除く:平安時代

【明 王 部】教令輪身 
 
中 尊|不動明王   
東 尊|降三世明王
南 尊|軍荼利明王
西 尊|大威徳明王
北 尊|金剛夜叉明王(天台宗では鳥枢渋摩明王)  

⇒東寺の場合の五大明王像(五尊):木造彩色(乾漆補):不動173,3cm 降三世173,6cm 軍荼利201,5cm 大威徳143,6cm 金剛夜叉171,8cm:平安時代
  
  

 さて、たとえば如来については、大日如来以外では、次の5大スターが一般に親しまれ有名である。     
    
◆釈迦如来(唯一実在した如来、仏陀)  
◆薬師如来(浄瑠璃浄土、「お薬師さま」で庶民信仰でも人気、時に薬壷を持つ) 
◆阿弥陀如来(極楽浄土、「阿弥陀さま」、極楽浄土への最良のナビゲーター) 
◆弥勒如来(現在兜率天、56億7千万年後に如来となる) 
◆毘盧遮那仏(華厳経による三千世界を統括する。東大寺大仏が著名)
ー・-・-・-・-・-・-・-
◆大日如来(両界曼荼羅の主尊、菩薩形、毘盧舎那仏と同体、密教統括仏)

http://www10.ocn.ne.jp/~mk123456/hasei.htmを参照

 それに比べれば、上記の大日如来を除き、金剛界で比較的作例のある阿閦如来、宝生如来のほかは、無量寿如来、不空成就如来に加えて、胎蔵界での宝幢如来、開敷華王如来、無量寿如来、天鼓雷音如来(なかなかユニークな名前である!蓮華王院の風神、雷神を連想させるが)はほとんど普及するに至らなかった。
 菩薩部も同様。そもそもいまでは、教義の違いも判然としないものもある。明王部では不動明王がスターダムに駆けあがって、大いに気を吐くことになるが、それ以外はその威圧的、厳しいお姿ゆえか地味な存在である。

 空海が構想した立体曼荼羅の世界、結果的に東寺ほど残っている寺はない。また、残念ながら個性豊かな如来、菩薩、明王群も不動明王以外は普及はしなかった。また、それは日本のみならず、中国においても同様だった。 
   
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