大和古仏探訪

京阪神を中心に内外の古仏についていろいろと書いてみたいと思います。

源頼朝と運慶 2

運慶展 (8)
願成就院 毘沙門天像 

2.北条時政 1138年 (保延4年)~1215 (建保3年)

激動の時代を生きた武将であり、常に権力の中心にあることを目指し、鞍替え、謀略など目まぐるしく変転する政治状況のなかにあった。武断的な逸話が多いなかで、歴史的トレースのなかで運慶が登場するのも面白い。以下は諸情報の引用を組み合わせて書いた。

鎌倉幕府の初代執権 (在職 1203~05年) 。通称は四郎。法名は明盛。伊豆国の在庁官人北条時方と伊豆掾伴為房の娘との間に生まれ,「当国の豪傑」と称された。伊豆国北条 (現在の静岡県田方郡) の出身。娘政子は源頼朝の妻。
1180 (治承4) 年8月頼朝挙兵の最初から頼朝に従って功をあげた。挙兵後、頼朝は鎌倉を目指すが、ここは時政の祖先平直方が源頼義に譲った地である。石橋山の戦に敗れて長子の宗時を失うが、次子義時とともに海路安房国に逃れてやがて甲斐源氏を誘い、富士川の戦で頼朝軍と合体する。その後は政子に孫の頼家が生まれたことから,頼朝の外威として重きをなした。

85 (文治1) 年11月には頼朝追討の宣旨が源義経に出されたのに応じて,頼朝の代官として大軍を率いて上洛する。朝廷は義経追討宣旨を出すことでそれに対応したが、時政はさらに諸国、荘園に守護、地頭を置く権限や兵糧米を徴収することを認めさせ、また頼朝の目指す朝廷政治の改革の方針を伝えてこれを実行させた。こうして朝廷からは後白河法皇の近臣が除かれ,幕府の推す九条兼実が関白となって朝廷政治は刷新された。 だがその後の京都での時政の動きは頼朝の望むところではなく、一条能保が頼朝代官として上洛したのを受けて任を解かれ、京都の警備を甥の時定に託して鎌倉に戻る。

その後の動きははっきりしないが、伊豆、駿河の守護として活動し文治5年には奥州の藤原氏追討を願う願成就院を伊豆の北条に建立し、奥州合戦に従う。やがて頼朝の後継者をめぐる動きとともに時政の行動は目立ちはじめ、1192 (建久3)年に源実朝が生まれると、その誕生の儀式を行った。1199 (正治1)年1月に頼朝が亡くなると,政子とともに頼家を補佐して幕府政治を主導した。

1200 (正治2) 年4月従五位下。1203 (建仁3)年政所別当、執権。頼家の親裁権を削減するとともに御家人の意見を幕府政治に反映する体制を築き、自らは頼家の後見として遠江守に任じられた。しかし頼家の側近の勢力を排除するなかで、頼家の外戚となった比企能員と対立が生じ、これを自邸に誘って謀殺し、実朝を将軍に据えて政所別当となって幕府の実権を握った。しかし子の義時や政子と路線が合わず、後妻牧の方の娘婿となっていた源氏の平賀朝雅を将軍に擁立することを計って失敗、伊豆に引退させられその地で亡くなる。

https://kotobank.jp/word/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%99%82%E6%94%BF-132162

(以下は一部重複するがWikipediaからの引用)

文治元年(1185年)11月、頼朝の命を受けた時政は千騎の兵を率いて入京し、朝廷に対して「守護・地頭の設置」を認めさせた(文治の勅許)。
時政の任務は京都の治安維持、平氏残党の捜索、義経問題の処理、朝廷との政治折衝など多岐に渡り、その職務は京都守護と呼ばれるようになる。在京中の時政は郡盗を検非違使庁に渡さず処刑するなど強権的な面も見られたが、その施策は「事において賢直、貴賎の美談するところなり」(『吾妻鏡』文治2年2月25日条)、「公平を思い私を忘るるが故なり」(『吾妻鏡』文治2年3月24日条)と概ね好評だった。しかし3月1日になると、時政は「七ヶ国地頭」を辞任して惣追捕使の地位のみを保持するつもりでいることを後白河院に院奏し、その月の終わりに甥の時定以下35名を洛中警衛に残して離京した。後任の京都守護には一条能保が就任した。時政の在任期間は4ヶ月間と短いものだったが、義経失脚後の混乱を収拾して幕府の畿内軍事体制を再構築し、後任に引き継ぐ役割を果たした。
鎌倉に帰還した時政は京都での活躍が嘘のように、表立った活動を見せなくなる。文治5年(1189年)6月6日、奥州征伐の戦勝祈願のため北条の地に願成就院を建立しているが、寺に残る運慶作の諸仏はその3年前の文治2年(1186年)から造り始められており、本拠地である伊豆の掌握に力を入れていたと思われる

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%99%82%E6%94%BF

****************

願成就院 毘沙門天像は実によきお姿である。それ以前の毘沙門天像(多聞天像)と共通する部分もあるが、力感と生き生きとした顔の表情は抜群である。さて、このお顔に安易に北条時政を重ねることはできないだろうが、施主たる北条時政がおそらくこの像を気にいったことは想像にかたくないだろう。運慶にとって、願成就院は鎌倉幕府の中枢と堅固な関係をもつうえで重要なステップとなった。

源頼朝と運慶 1

運慶展 (3)
神奈川・浄楽寺 不動明王(重要文化財)、文治5年[1189年]

1.文覚再考

この人は波乱万丈の人生を歩んだ。以下は諸情報を組み合わせて書いた。関連する物語(フィクション)も多いことから、どこまでが実像かがわからないところもあるが、源頼朝と運慶を結ぶキーパースンであることだけは確かである。

一般には生没年不詳だが、1139年(保延5年)~1203年(建仁3年)という説もある。これによれば65歳で没したことになる。
 
平安時代末期~鎌倉時代初頭の真言宗僧侶。摂津の渡辺党の遠藤茂遠(もちとお)の子で遠藤盛遠(もりとお)と称し、もと北面の武士。初め鳥羽天皇の皇女上西門院(じょうさいもんいん)に仕えたが、同僚の源渡(わたる)の妻袈裟(けさ)に恋慕し、誤って彼女を殺したのが動機で出家し、諸国の霊場を遍歴、修行したという。文覚は空海を崇敬し、1168年(仁安3年)その旧跡である神護寺に住み、修復に努めた。73年(承安3年)後白河法皇の御所法住寺殿を訪ね、神護寺興隆のために荘園の寄進を強請して伊豆に流され、そこで配流中の源頼朝に会い一時寝食を共にした。
78年(治承2年)許されて帰京したが、流されてのちも文覚は信仰の篤い法皇への敬愛の情を失わず、翌年、平清盛が法皇を幽閉したのを憤り、伊豆の頼朝に平氏打倒を勧め、80年には平氏追討を命ずる法皇の院宣を仲介して、頼朝に挙兵を促した。83年(寿永2年)法皇から紀伊国田荘(かせだのしょう)を寄進されたのをはじめとして、法皇や頼朝から寺領の寄進を受けた。

鎌倉幕府成立後は頼朝の信任厚く,京都と鎌倉を往復して京都,諸国の情勢を頼朝に伝えるなどの活躍をする一方,その協力を得て神護寺はじめ東寺の復興など、幕府、法皇の援助で空海ゆかりの諸寺を復興した。90年(建久1年)には神護寺の堂宇はほぼ完成し、法皇の御幸を仰いだ。文覚はさらに空海の古跡である東寺の復興をも図り、89年(文治5年)播磨国が造営料国にあてられ、文覚は復興事業を主催し、97年には諸堂の修造を終えた。

一時大いに権勢をふるったが、92年に法皇が没し、99年(正治1年)に頼朝が没すると、文覚は後援者を失い、内大臣源通親の策謀で佐渡に流された。1202年(建仁2年)許されて帰京したが、後鳥羽上皇の怒りを買い、翌年、さらに対馬に流され、やがて失意のうちに没したという。

****************
(メモ)文覚と運慶

◆文覚が、1173年(承安3年)から78年(治承2年)までの伊豆配流中、1177年 康慶は静岡県瑞林寺地蔵菩薩像を作っている。 文覚は関東で康慶に会っていた可能性がある。

◆文覚は83年(寿永2年)に法皇から紀伊国田荘(かせだのしょう)を寄進され経済的に安定する。この年、運慶願経作成。運慶も本格的に活動を開始する。

◆文覚は90年(建久1年)には神護寺の堂宇をほぼ完成し、法皇の御幸を仰いだ。さらに空海の古跡である東寺の復興をも図り、89年(文治5年)播磨国が造営料国にあてられ、文覚は復興事業を主催し、97年には諸堂の修造を終えた。
この間、運慶は1196 年に神護寺中門二天、夜叉像を作り(神護寺略記より)、翌年は金剛峰寺八大童子を作り(高野春秋)、さらに東寺講堂諸像を修理した(東宝記)。文覚の意向を受けての運慶の活動であった。

文覚は98年、明恵に運慶作釈迦如来像を与えた(明恵上人伝記)。

◆文覚は1202年(建仁2年)は配流先の佐渡から許されて帰京したが、運慶は翌年、神護寺講堂諸像を作っている(神護寺略記)。

空海と運慶  運慶は空海を彫ったか?

運慶展
大日如来坐像 運慶作 国宝 ※
空海は日本仏教界のスーパースターである。空海以降の仏教者は、すべて何らかの影響を空海から受けていると言っても過言ではないだろう。仏師運慶も例外ではない。ここまではいかにも平凡なる指摘であろう。

しかし、運慶のデビュー作と目されている円成寺大日如来坐像のその素晴らしいご尊顔は、運慶のイメージする空海を彫ったものである、と言えばその点については、異論、反論以前に「いい加減なことを言うな」との大方のお叱りをうけそうではある。

以下、推理小説仕立てで5つの「状況証拠」をあげよう。真夏の夜の夢と思っていただきたい。

1.発注者は誰であったか

円成寺大日如来坐像は、安元2年(1176年)に完成した。施主(発注者)は誰か。寛遍上人かその後継者(定遍か)である。彼は、真言宗の名僧であり、広隆寺別当、東寺長者、高野山管長、東大寺別当を歴任し応保元年(1161年)大僧正に至った。仁平3年(1153年)忍辱山に登り、真言宗の一派忍辱山流を自ら興した。円成寺の要請をうけて、康慶および運慶は真言宗の最高神、大日如来を彫るが、真言宗の一派の新たな立ち上げにあたって、そのご尊顔には「開祖」空海をイメージしたと考える。

2.運慶と真言宗との深い関係

円成寺大日如来坐像は、東寺金剛菩薩坐像(839年)と似ている。同様に、運慶最後の現存作、称名寺光明院大威徳明王像(1216年)は東寺大威徳明王騎牛像(839年)と実によく似ている。ここからは、運慶はじめ慶派が、東寺、高野山など先行する真言密教系尊像を研究しわがものとしていることがわかる。
後に、運慶は建久8(1197)年5月から翌年9月にかけて、数十人の小仏師を率いて東寺講堂の五仏・五菩薩・五大尊・梵天・帝釈天・四天王像の大修理を行うが、その東寺については言わずとしれた空海の創建である。

◆【特別展】運慶 中世密教と鎌倉幕府 神奈川県立金沢文庫80年
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-212.html


3.大日如来は慶派カタログの主力

施主(クライアント)の意向の尊重は仏師にとって最重要事項の一つ。施主には事前に仏画や儀軌を見てもらい周到な打ち合わせが肝要。大日如来は慶派カタログの主力であった。たとえば快慶の石山寺多宝塔本尊大日如来像(1194年)は快慶初期の作で、円成寺大日如来像との比較は誰しもが関心のあるところであろう。制作年代では約20年の隔たりがあるが、両者の同質性(とくに全体構成、手印、腰部衣文などの胴体表現)と異質性(とくにご尊顔の表現、もちろん宝冠、光背の有無などは前提としたうえで)は明らかであろう。ちなみに石山寺も真言宗の名刹である。

◆近江路の神と仏1  三井記念美術館 快慶 石山寺多宝塔本尊大日如来坐像
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-338.html


4.弘法大師座像は慶派工房の大ヒット作

運慶の時代には弘法大師座像はそのカタログになかった。ゆえに、運慶は大日如来のご尊顔に空海をイメージしたが、快慶は別。一方、次世代の弟子は、弘法大師そのものを彫って大成功した。運慶の四男、康勝は、日本の肖像彫刻として屈指の作である空也上人像(六波羅蜜寺蔵)で有名だが、後世の弘法大師像の規範となった東寺御影堂の弘法大師像を天福元年(1233年)に世に送る。これが大師堂信仰とともに庶民にうけて、傾いた東寺を立て直す最強アイテムとなったと言われる。そのご尊顔は厳ついもので、円成寺大日如来像とは似ても似つかない。ゆえに、円成寺像にイメージとしての空海が投影されているなどという発想はおそらくは誰も持たなかったと思う。しかし、慶派の持ち味は豊富なヴァリエーションにある。同時代、快慶の弟子長快作の六波羅密寺弘法大師坐像は優しいお顔立ちで、円成寺像に通じるものがある。

5.納入品にみる空海の影響

運慶は自身の名を作品の中に残した仏師である。浄楽寺諸像(1189年)や興福寺北円堂弥勒如来像(1212年)には、有名な月輪の納入があり、これをもって運慶の真作と特定されるところだが、その月輪の思想的背景は、空海の「無量壽次第」に根拠が求められるとの説がある(伊藤史郎「高野山不動堂の八大童子像と運慶」参照)。これは、空海の思想や仕儀を運慶が熟知していた一つの証左ではないかと思う。

いまだ父康慶の弟子と墨書した若き運慶の円成寺大日如来像には、気品をたたえた表情とともに秘められた意志力が内から漲り、観る者に強い印象をあたえる。その解析不能な神々しさに、筆者は青年期の空海のイメージを重ねてみた。着想したはじめは、空海と運慶は朧な二重写しであったが、以上の5つの「状況証拠」を考えてきて、徐々に二人の若者の画像がくっきりとしていくような気がした。

その前提は、冒頭に記した寛遍(1100年(康和2年)~ 1166年(永万2年))およびその後継がいかに康慶および運慶に影響を与えたかにあろう。また、同時にあるいはやや時代は下って、文覚(1139年(保延5年)~1203年(建仁))の影響も気になるところである。若き運慶は、父から一任され、そのご尊顔の造型に乾坤一擲の気持ちで臨んだのではないか。そして意識的に若き空海の悟りの姿をここに彫ったのではないかと愚考した次第である。


【以下は引用】
※ 大日如来坐像 運慶作 国宝 像高98.8 平安時代末期
台座内墨書から鎌倉新様式を切り開いた、運慶の最初期の作と知れる記念碑的仏像。若々しい面相と体躯には、新時代の気風と青年運慶の想念が伝わってくるようです。 大日如来は密教における根本仏。サンスクリット語のヴァイローチャナという名は「遍く光を照らす者」の意味をもち、如来でありながら、宝冠、瓔珞、臂釧、腕釧を身に着け、一種の王者の姿をとっています。 運慶の生年は不明ですが、造像は20歳代と推定されています。
< 銘文>
運慶承安永元年(1175)十一月廿四日始之
給料物上品八丈絹肆拾参(四十三)疋也
已上御身料也
奉渡安元弐年丙申十月十九日
大仏師康慶
実弟子運慶(花押)
http://www.enjyouji.jp/treasure/p1.html

********
下記の「空海と運慶 1~3」を参照

空海と運慶 3

六波羅密寺 「弘法大師坐像」
木造弘法大師坐像 鎌倉時代 長快

7.六波羅密寺

六波羅密寺というのは、名前のとおり、狷介なる寺である。はじめて、そこを訪問したのは、はるかに昔のことだが、空也上人像を拝顔して、そのお姿のスーパーリアリズムと内から発せられた念仏表現のスーパーシンポリズムの表現ぶりに感激した。そのあとの混乱にみちた驚愕は、ここに、弘法大師がおあし、平清盛も、運慶も、湛慶も「同居」している不可思議さについてである。

川崎龍性「六波羅密寺の歴史と信仰」(『杉本苑子・川崎龍性 『六波羅密寺』 古寺巡礼京都25 1978年 淡交社)を読むと、この寺の数奇な来し方は複雑で、歴史に翻弄されつつも、したたかであり、宗派も天台宗から真言宗にかわるなどの変転がある。

さはあれど、いまここにおあす多くの、優れた仏像は、有名な地蔵菩薩像をふくめ慶派の影響が大きい。

【以下は引用(一部編集)】

六波羅密寺

京都市東山区にある真言宗智山派の寺。空也の創設といわれる。天台宗に属していたが,のち真言宗となった。空也上人立像をはじめ重要な美術品が収められている。 山号は、普陀落山。西国三十三所第17番札所。

寺域は京都の葬送地鳥辺野の入口で〈六道(ろくどう)の辻〉と呼ばれた地点にあり,古来葬送と死者追善の寺として庶民の信仰を集めてきた。963年(応和3)悪疫が流行した際、空也が建立した。当初は西光寺と称し,十一面観音像と脇士の二王・四王像を造立安置したという。977年(貞元2)中信が堂舎を修造し,寺号を六波羅蜜寺と改めて天台別院とし,法華八講や念仏を修して貴賤の信仰を集め,迎講(むかえこう)や地蔵講を行い,以後京都の諸人が講を行う寺として親しまれた。 平安後期の1110年(天永1)平正盛は六波羅蜜寺内に阿弥陀堂を建立したが,このころから六波羅の地名が多く行われるようになった。貞治年間(1362~1368)に再興され、真言宗に改宗。

この地は、源平時代には平家の一族の邸宅が建ち並び、鎌倉時代には六波羅探題が置かれていた。このため幾度か兵火にあい、応仁の乱(1467~77)にも焼失したが、豊臣氏、徳川氏の帰依(きえ)によって復興した。現に本堂は室町初期の建造物で、本尊十一面観音立像(秘仏。12年ごとの辰年に開扉)、脇侍の地蔵菩薩像、四天王像(以上、平安後期)、空也上人像(鎌倉時代)など(以上、国重要文化財)を安置している。このうち地蔵菩薩は「山送りの地蔵」「鬘掛(かずらかけ)の地蔵」として知られ、空也上人の立像は念仏を象徴した小さな阿弥陀仏像六体が口から出る形式のものとして有名である。そのほか、運慶・湛慶の自作と称する肖像彫刻や、平清盛の像と伝えられる僧形坐像、弘法大師坐像、吉祥天立像、閻魔王坐像(以上、国重要文化財)などがある。12月13~31日には空也踊躍(ゆうやく)念仏が行われる。

https://kotobank.jp/word/%E5%85%AD%E6%B3%A2%E7%BE%85%E8%9C%9C%E5%AF%BA-152681

◆仏像解説

<国宝>
・木造十一面観音立像平安時代。10世紀頃の作風を示し、伝承のとおり、951年に空也が創建した西光寺の本尊像であると思われる。本堂中央の厨子に安置され、12年に一度辰年にのみ開帳される秘仏である。像高258cmの巨像でありながら、頭・体の根幹部を一材から彫り出す一木造とする。表情は温和であり、平安前期彫刻から平安後期の和様彫刻に至る過渡期を代表する作例である。歴史的にも重要な作例として1999年、国宝に指定された。

<重要文化財>
・本堂木造空也上人立像鎌倉時代、運慶の四男・康勝の作。僧侶の肖像彫刻は坐像に表すものが多いが、本像はわらじ履きで歩く空也の姿を表している。疫病が蔓延していた京の街中を、空也が鉦(かね)を鳴らし、念仏を唱えながら悪疫退散を祈りつつ歩くさまを迫真の描写力で表現している。空也は首から鉦を下げ、右手には鉦を叩くための撞木(しゅもく)、左手には鹿の角のついた杖をもっている。空也の口からは6体の阿弥陀仏の小像が吐き出されている。6体の阿弥陀仏は「南無阿弥陀仏」の6字を象徴し、念仏を唱えるさまを視覚的に表現している。六体の小像は針金でつながっている。

・木造僧形坐像(伝・平清盛像)鎌倉時代。平清盛とされる経を持った僧形の像である。木造地蔵菩薩坐像鎌倉時代。銘文はないが、寺伝、作風等から運慶作とされる像。運慶一族の菩提寺である地蔵十輪院から移されたとする伝承がある。理知的でさわやかな表情、切れ味するどい衣文などから運慶作とする説がある。

・木造伝・運慶坐像、伝・湛慶坐像鎌倉時代。日本仏像彫刻史上もっとも有名な仏師親子の肖像彫刻とされている。精悍な伝・湛慶像と、老いてまだまだ盛んな巨匠といった風貌の伝・運慶像とそれぞれの個性が表現されている。前記の地蔵菩薩坐像とともに地蔵十輪院に伝わった。

・木造四天王立像平安時代。本尊の十一面観音像とともに、空也による創建期の遺作である。宝物収蔵庫には4体のうちの持国天像と増長天像が安置され、残りの広目天像と多聞天像は京都国立博物館に寄託されている。4体のうち、増長天像のみは鎌倉時代の補作である。木造薬師如来坐像平安時代。天台様式がみられ、中信による中興時の像と考えられる。

・木造地蔵菩薩立像平安時代。六波羅地蔵堂に安置されていた。左手に頭髪を持ち、鬘掛(かつらかけ)地蔵と呼ばれ信仰されている。『今昔物語集』にもこの像に関する説話が取り上げられるなど、古来著名な像である。

・木造弘法大師坐像鎌倉時代。快慶の弟子長快 (仏師)の作

・木造閻魔王坐像鎌倉時代木造吉祥天立像鎌倉時代
その他、重要有形民俗文化財として、泥塔、皇服茶碗、版木、萬燈会関係用具二千百余点などがある。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E6%B3%A2%E7%BE%85%E8%9C%9C%E5%AF%BA

龍樹について
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-453.html

研究論文 - 神戸大学人文学研究科 三宅久雄氏の論文
http://www.lit.kobe-u.ac.jp/art-history/ronshu/10-1.pdf

8.長快

弘法大師坐像の製作者は快慶の後継者たる長快である。先にみたとおり、弘法大師坐像のベンチマークは、運慶の第4子、康勝の手になる東寺像だが、快慶一門でもこうした優れた作例を残しているのである。両像の作風は異なり、剛毅な康勝、柔和な長快といった要約をすると、いかにも運慶と快慶のステロタイプ化した相違を安易に連想しがちだが、小生は、むしろ施主の要望の反映の要素が強いという考え方をとる。

【以下は引用】

長快(ちょうかい、生没年未詳)は、 鎌倉時代の慶派仏師。

<略歴>

阿弥号は定阿弥陀仏。快慶の弟子だが、湛慶も補佐し法橋位を得たという。1256年(建長8年)、湛慶に従い奈良東大寺講堂で文殊菩薩像を制作したが現存しない。(この時、兄弟子の栄快が地蔵菩薩像を制作した。)蓮華王院本堂の千体千手観音のうち28体に1256年(建長8年)に長快が実験した旨を示す銘があり、もう1体には長快自身が結縁した銘がある。また、蓮華王院から移されたとみられる朝光寺の像にも「実検了/長快」の銘がある。

<現存作品>

・「弘法大師像」 六波羅蜜寺蔵 制作時期不明
・「木造十一面観音立像」 パラミタミュージアム蔵 1256年(建長8年)以前の作。右足柄の外側に「巧匠定阿弥陀佛長快」銘。師・快慶作の長谷寺の本尊・十一面観音像(現存せず)を8分の1のサイズで忠実に模刻したもので、長谷観音の余材で作られた。もとは、興福寺禅定院観音堂本像であった可能性が高い。

空海と運慶 2

弘法大師像天福元年・1233康勝作)

6.康勝

康勝は運慶の息子で、運慶工房の優れた担い手であった。その康勝の代表作といわれるのが、東寺の弘法大師座像である。この坐像はその後の大師像のベンチマークとなる。しかも、この像の存在によって、東寺は空海所縁の寺として、弘法大師信仰の京都における拠点として復活するのである。このことは東寺の歴史を紐解くとたしかに刻まれている。

そう考えると、運慶一門の修復によって、東寺講堂の諸像が蘇り、それに続いて康勝によって東寺そのものの存在が高まったということになる。空海と運慶 ー 空海が請来し、また世に送った平安初期の仏像によって運慶は多くを学び、その後、自身の作風を作りあげた。一方、親子二代、運慶一門の「彫技」によって、空海の重要な拠点が再興されたことの意義は大きい。

【以下は引用】
康勝(こうしょう、生没年不詳)は、日本の鎌倉時代の仏師。運慶の四男。湛慶は兄。慶派。

<略伝>

建久8 - 9年(1197 - 1198年)、東寺南大門の金剛力士(仁王)像(明治時代初頭に焼失し現存せず)の造立に運慶らとともに携わったのが、史料上の初見である。運慶が一門の仏師を率いて建暦2年(1212年)に完成させた興福寺北円堂復興造仏にあたっては、四天王のうちの多聞天像を担当しているが、この四天王像は現在、所在不明である(現在、興福寺北円堂に安置する四天王像は全く時代の違う平安時代初期のもの)。

現存する康勝の作品としては、日本の肖像彫刻として屈指の著名作である空也上人像(六波羅蜜寺蔵)、後世の弘法大師像の規範となった東寺御影堂の弘法大師(空海)像(『東宝記』に「仏師康勝法眼作」の記述あり)などがある

東大寺念仏堂の地蔵菩薩坐像(康清作)の銘記から、この像は運慶と康勝の尊霊のために造られ、嘉禎3年(1237年)より以前に康勝が没していることが知られる。子に、康誉、康清。

<作品>

六波羅蜜寺 空也上人像六波羅蜜寺 空也上人立像(重要文化財) - 制作年不明だが、銘から法橋に叙される前の初期作。口から6体の阿弥陀仏の小像を吐き出している特異な姿の像。6体の阿弥陀仏は「南無阿弥陀仏」の6字が仏と化したことを意味する。
・法隆寺金堂西の間 阿弥陀三尊像(銅造、重要文化財) - 貞永元年(1232年)。「法橋康勝」銘あり。当初安置されていた阿弥陀三尊像が盗難にあった後、飛鳥様式を模して造られた像。両脇侍のうち勢至菩薩像は明治時代初期に寺から流出して、パリのギメ東洋美術館の所蔵となっている。
東寺御影堂 弘法大師坐像(国宝) - 天福元年(1233年)
・推定作円成寺四天王像(重要文化財) - 建保5年(1217年)

<参考資料>
伊藤史朗 『日本の美術535 京都の鎌倉時代彫刻』 ぎょうせい、2011年 ISBN 978-4-324-08744-2
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%B7%E5%8B%9D

東寺の歴史
http://kousin242.sakura.ne.jp/wordpress016/%E7%BE%8E%E8%A1%93/%E7%BE%8E%E8%A1%93%E5%8F%B2/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%BE%8E%E8%A1%93/%E5%A5%88%E8%89%AF%E6%99%82%E4%BB%A3/%E6%9D%B1%E5%AF%BA%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2/

伊藤史朗氏の論文として、以下も参照
http://www.kyohaku.go.jp/jp/pdf/gaiyou/gakusou/6/006_ronbun_c.pdf

空也上人像(康勝)

FC2Ad