大和古仏探訪

京阪神を中心に内外の古仏についていろいろと書いてみたいと思います。

法隆寺の謎

法隆寺金堂壁画

法隆寺の謎、そう聞くとワクワクするものがあるが、いくつかの源流がある。第1に、戦前からつづく法隆寺、再建・非再建論争というのがあって、ここには謎解きのような趣きがある。近年、科学の力で随分と見通しがよくなっている。

➡ 法隆寺再建の謎
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-98.html

第2に、梅原猛『隠された十字架・法隆寺論』という書物が、挑戦的にいくつかの謎を提起した。「隠された十字架」と言われれば誰でも、「隠れキリシタン」を連想しそうだが、古くから大陸には「景教」があり、そのアナロジーをここに滲ませているかも知れない。
しかし、本書を読むと、「景教」ではなくむしろ呪術的な要素が強く、これは平安初期の密教的な色彩が強い。ちなみに「秘密」という言葉も密教からきている。具体的な指摘に対しては、多くの反論(というより誤りの指摘)がなされている。
たとえば、梅原 猛『隠された十字架―法隆寺論』(新潮社 1972年)、梅原 猛『聖徳太子(1)~(4)』(集英社 1993年)に対して、武澤 秀一『法隆寺の謎を解く』(筑摩書房 2006年)などを参照。

➡ 隠された十字架
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%A0%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%9F%E5%8D%81%E5%AD%97%E6%9E%B6

第3に、古くから伝承などで語られてきた謎がある。なかには「日本昔ばなし」のような微笑ましいものもある。

法隆寺の謎
http://www.nikkei.com/article/DGXLASIH22H07_S4A021C1AA1P00/

さて、こうした3つの源流をすべて踏まえ、法隆寺の公式見解?を表明した本がある。高田良信『法隆寺のなぞ』 (主婦の友社 1977年) である。この本を読むと、「なあんだ、法隆寺の謎のネタ本はここにあったのか」と合点がいく。

➡ 参考文献リスト2
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-57.html

ところで、法隆寺は高田良信さんの発想力が豊かで、「謎」をいまにいたるまでブームとしているが、もともと「謎」という字を分解すれば、よまいごと(世+)に通じる。
また、法隆寺は「持てる寺」で古くから分厚い文物の蓄積があるが、持てば持つほど、わからないことが多くなるのは理の当然。その点では、興福寺も東大寺も薬師寺なども同様。しかし、なんと言っても、法隆寺は聖徳太子がらみの寺であり、その太子の実在についても諸説が提起されているので、これに拍車がかかっているとは言えるだろう。

➡ 聖徳太子のまなざし
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-485.html

➡ 聖徳太子について(11)
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-146.html

法隆寺金堂壁画2



平和の燈明 オバマ大統領、広島訪問について

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【平和の灯】
オバマ大統領が広島を訪問し、歴史的な演説を行った。そのバックには広島平和公園の平和の灯が映っていた。不滅の法灯ともいうべきものである。この元火のひとつは、安芸の宮島の弥山「消えずの霊火」から運ばれたものである。

【消えずの霊火】
その「消えずの霊火」とは、大同元年(806年)、空海が宮島で修行をした時に焚かれた護摩の火が現在まで昼夜燃え続け、元火の絶えない霊火といわれ、山頂の「不消霊火堂」にある(もっとも空海が宮島を訪れたという事実はないらしいが)。

その伝説のルーツは、高野山金剛峯寺である。ここには「燈籠堂」がある。"貧女の一燈、長者の万燈"と言われ、「自らの髪を売って父母の菩提のために燈明を献じた貧女の小さな燈火も長者の盛大な燈火も等し」いものとされる。
燈籠堂は空海の弟子だった真然により建立され、治安3年(1023年)に藤原道長によって現在にほぼ近いかたちで完成。堂の正面にある二つの火は「消えずの火」と呼ばれ、1000年近く燃え続けているとされる(http://kukai2011.jp/construction.htmlから一部引用)。これに基づいて、安芸の宮島の弥山「消えずの霊火」も後世考案されたものであろう。

【護摩について】
オバマ大統領の演説の力点は、核兵器の廃絶を謳ったところに置かれていた。空海が構想した密教には火をつかった「護摩」という勤行がある。

護摩には2つの種類がある。第1は「外護摩」であり、 護摩壇に火を点じ、火中に供物を投じ、ついで護摩木を投じて祈願するもの、第2は「内護摩」であり、 自分自身を壇にみたて、仏の智慧の火で自分の心の中にある煩悩や業に火をつけ焼き払うものと言われる。

さらに、護摩は「目的別」に5つの種類がある。

1.息災法:災害のないことを祈るもので、旱魃、強風、洪水、地震、火事をはじめ、個人的な苦難、煩悩も対象
2.増益法(そうやくほう):単に災害を除くだけではなく、積極的に幸福を倍増させる。福徳繁栄を目的とする修法。長寿延命、縁結びもその対象
3.調伏法(ちょうぶくほう):怨敵、魔障を除去する修法。悪行をおさえることが目的
4.敬愛法:調伏とは逆に、他を敬い愛する平和円満を祈る法
5.鉤召法(こうちょうほう):諸尊・善神・自分の愛する者を召し集めるための修法
(以上、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AD%B7%E6%91%A9 から一部引用)

もしもいまも高野山にて生き続けているとされる空海に、オバマ大統領の広島訪問について尋ねたら、それは、「内護摩」における「敬愛法」に通じるものであり、核戦争による「調伏法」を断じて否定するもの、とのご託宣があるかも知れない。

仏像と国民性 秋篠寺の伎芸天

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 さまざまな国で好まれる仏像には違いがありますね。同じ仏教国でも、仏像表現は実に多様です。また、それは歴史、時代とともに変化します。一種の流行もある。しかもその流行は、国内の好みだけを反映するわけではなく、外国の影響を色濃く受ける。ある時代の仏像の特色は、地域性も反映するけれど、一種の時代精神も表している。
  さらに、担い手に注目すれば、仏像は為政者にとっても、一般の民衆にも等しく開かれた存在であるべきものと考えられますが、時代によっては、為政者の「目的と手段」という観点から仏像をとらえることもできる。一方、民衆の側からみれば、政治とは関係なく、不条理な世界にあって救済のよすがに仏像を求める。

 いまののお話しは仏像だけに限りませんね。文明、文化、文物にかかわる多くのものが共通してもっている特質でもあると思うのです。しかし、後半の部分は仏像にしかできないことかも知れません。信仰の対象という点はとても大切です。

 秋篠寺の伎芸天を見てみましょう。この有名な仏さまには3つの特色があります。

1.相貌(頭部)は「天平時代」、身体は「鎌倉時代」という幾世紀をも超えた時代間の<合作>であること
2.頭部は脱活乾漆造、躯体は木造といった全く彫刻技法が異なっていること。こうした手法の異なる<合体>は珍しい事例
3.「伎芸天」という名称が、なかなか類例がなく、数少ないその代表的な名品であること

以上について、海外との関係も踏まえて、この仏さまの様式などの解説をお願いできますか?

 わかりました。以下は私見ですけれど。秋篠寺は775(宝亀6)年の建立(「秋篠寺真言院之縁起」)です。宝亀は天平、神護につづく時代で延暦のまえの年号です。彫刻史では天平末期ないし貞観初期にあたりますが、ここでは天平仏としましょう。
 まず、海外の仏像との比較で連想されるのが中国の敦煌莫高窟第45窟像であり、これは微笑と、ふくよかな体のラインが特徴的な脇侍菩薩の塑像です。この柔らかな表情としなやかな擬態の絶妙な<バランス>こそ、日中の両像に共通し、いまもわれわれをとらえる湛えた魅力でしょう。もともと、伎芸天はインドに淵源があり、シヴァ神が楽器の演奏をしているときに、その髪の生え際から生まれ落ちた天女といわれます。そこから「容姿端麗で器楽の技芸が群を抜いていたため、技芸修達、福徳円満の守護善神とされる」ということになります。
 伎芸天像は(雅楽面は別として)日本ではとても珍しいのですが、これは諸「観音」信仰が広範に浸透し主流となることに加えて、女性を強く感じさせる彫刻群では「弁財天」が首座を占めたといった事情もあったということでしょうか。
 しかし伎芸天というゆかしい名の響きとともに、その希少価値性が、本像の注目集度を近時、いっそう高めているかも知れません。そして、本像には大振り、自立のイメージが強いゆえか、現代を生きる働く女性の根強いファンが多いことも特筆に価するでしょう。
 なお、伎芸天はギリシア神話のアテナ像との関係も指摘されています。女性神であり、技芸に優れた立像という共有項があると、これに限らず、どの国でも一定程度は似たイメージは形成されるのかも知れません。 
 さらに、ご尊顔をアップでみると柔らかな表情の口元をわずかにほころばせ、メロディを口ずさんでいるようにも見えます。そこから音声菩薩の一種ではないかといった類推解釈もでてくるのでしょう。

 一方、鎌倉時代に躯体をつくった仏師の力量に新たなる驚きを感じます。巧みの技法をもった一流の仕事師です。本像でも、なで肩で量感のある身体は、しなやかさ、豊かさを見事に表象しています。
 細かく特色をあげれば別の見方も当然あるでしょうが、今日からみた大勢の観察では、お顔は、天平期にあって威厳ある大「唐風」というよりも(あたかも当時の日本人のイメージを写したような一種の)和様を感じます。
 また、ご身体は、鎌倉時代にあって「宋風」の形式主義、煩瑣な技巧に走らず、毅然として自然な写実を考慮しているように見受けられます。両時代においても当時の流行に妥協せぬ異色の作風であり、特に、鎌倉の仏師は、そこをよくわきまえて実に見事な仕事をしたと思います。
 つまり、この独特の仏像では、天平時代の造像した仏師は、ご尊顔を儀軌に捉われない自由度(躯体は形式的につくっても、頭部のリアリティは別。たとえば興福寺阿修羅像を思い起こしてください!)をもって造像、これをよく検分し鎌倉時代に修復した仏師が心を込めて彫ったご身体は、当時の形式主義には陥らず、慶派に代表される写実の妙味を表現していると感じます。
 ここには、南都復興の棟梁、慶派の天平、その後の奈良時代期の仏像を徹底して研究した成果が生かされていると思います。
 写実的な装いにおいて、頭部と身体は時代こそ異なれ、同様なコンセプトを<共有>、<融合>していまいか、ここに本像の意図せざる隠された意匠を感じます。
 
  漠然と観察していると、ただ良いお顔だなあ、で終わってしまうのですが、やはり、この仏さまも「時代精神」といったものをはっきりと投影しているのですね。補足的に造像された時代をみておきましょう。ここでも1.秋篠寺の淵源、2.造像された時代、3.後補された時代について以下3点に要約すれば、

【秋篠寺の淵源】
1.秋篠寺の淵源はふるく、780年(宝亀11年)光仁天皇勅願の最後の官寺である。774年に本堂建立とされるが、この年には吉備真備が没し、空海が生まれた。この由緒正しき大寺院の開祖、善珠(ぜんじゅ)僧正は、その時代の代表的な名僧でかの法相六祖の一人である。資材もあり寺格も高い恵まれた条件で、当初この伎芸天は造像されたことだけは間違いないだろう。

【造像された時代】
2.この寺には霊験あらたかな薬師如来像が祭られたが、玄昉との血縁もあったといわれる善珠は、平城天皇が皇太子のときに、早良親王の怨霊を封じる加持祈祷をここで行なったといわれる。光仁天皇自身、いくどもクーデターの動きに悩まされていたようで、平城京から平安京への移行期のこの時代は政治的にも、宗教的にも実に不安定であった。最後の官寺、秋篠寺は、そして伎芸天はこうした時代に世にお目見えしたのである。 

【後補された時代】
3.1135年(保延元年)に秋篠寺は大火で講堂以外を失う。零落の道をたどるが、伎芸天の首から下の胴体の破損は、おそらくこの火災の影響などをうけたのだろう。伎芸天同様の後捕がおこなわれている伝梵天像には、1289年(正応2年)の墨書が首まわりにあるとのことで、伎芸天もほぼこの頃の修復か。前年には興福寺金剛二力士像が造像された時代であり鎌倉彫刻初期の写実的な技量を大いに反映しているとみてもよいだろう。

ところで、信仰の対象という重要な視点からみて、コメントはありますか?

  伎芸天については、「大自在天つまりシヴァ神が天界で諸伎楽を行なうとき、その髪ぎわから生まれたといい、左手に花を盛った皿を捧げ、その容姿は端正で、あらゆる芸に長じ、諸芸成就、福徳円満をつかさどる芸術、芸能の神である。日本でどれほど信仰されたかは明らかでないが、奈良の秋篠寺に伝わる奈良時代の伎芸天像は、日本の女神像の最高の美女といわれている」(佐和隆研『仏像 祈りの美』(1974年 平凡社カラー新書 P.142)という指摘があります。

 さらに、伎芸天の淵源を知りたければ、ヒンドュー教(「摩醯首羅天法要」など)までさかのぼることが必要です。たとえば古代、若い女性が学ぶべき64項目のリストがありましたが、それは歌、器楽、舞踏、絵画、部屋の飾り方、寝床のしつらえ方、花輪の作り方、化粧術、裁縫、謎々遊び、書物の朗読、文芸に関する教養などが列挙されています。いま風にいえば、ダンス、フラワーデザイン、ルーム&ベッドメイキングなどもふくまれている。伎芸天は、経典ではこれらすべてを具備している神様ですね(中村元編著『仏像散策』1982年 東京書籍を参照)。

 おそらく、以上見てきたようないきさつもあり、秋篠寺の僧や民衆が、この不明な梵天様を伎芸天と名づけたのではないか、と思います。そして、それを今日まで継承させてきたことには、日本の国民性をもしかしたら強く反映しているかも知れませんね。いまや日本だけでなく、海外からの来訪者の心をとらえているのですから、伎芸天の名前を冠したことはとても賞賛されるべきことであろうと思います。

別ブログ記事「秋篠寺 伎芸天 なぞの美人」http://blog.livedoor.jp/shokkou/archives/2025275.html を参照

「学際」的仏像研究私論

「学際」的仏像研究私論

はじめに―かんなみ仏の里美術館

地域開発の仕事をしていると思いがけない機会をいただくことがある。山口建・静岡県立静岡がんセンター総長のご紹介で森延彦・函南市長と知り合い、筆者は現在、かんなみ仏の里美術館運営審議会委員を拝命しているが、そのメンバーそのものが実に「学際」的である。

清水眞澄・三井記念美術館館長は日本美術史の泰斗であり、近著『仏像の顔―形と表情を読む』(岩波新書、2013年)を手にとられた方も多かろう。栗生明・千葉大学名誉教授は著名な建築家である。京都府宇治市の平等院宝物館鳳翔堂は国宝鳳凰堂と見事に調和した日本初のテンプルミュージアム(指定博物館、日本芸術院賞受賞)だが、当館に加えて、その設計を手がけられた先駆者である。
齋藤弘会長、富永和彦副会長はともに地元の教育関係者のトップを務められ、当館を教育施設、地域交流拠点として常に真剣に考えておられる。他にもビジネスや観光の専門家が審議会に集まり、毎回幅広い議論が展開されている。

桑原薬師堂2
木造薬師如来坐像(静岡県指定有形文化財/平安時代/桑原薬師堂にて筆者撮影。現在はかんなみ仏の里美術館にて展示中)

さて、かんなみ仏の里美術館では、平安時代の逸品、薬師如来坐像のほか、鎌倉時代の運慶一門(慶派)の仏師實慶作の阿弥陀三尊像( 重要文化財) や十二神将などを常設展示している(http://www.kannami-museum.jp/)。
もともとこうした諸仏は永らく、鄙びた桑原薬師堂で地域の信仰の対象としてひっそりと息づいてきた。日本で古い木造の仏像が全国各地でかくも分厚い蓄積をもって保存されてきたこと自体が驚異的である。戦乱や風水害、堂宇の劣化による雨漏りや虫害などのさまざまな脅威にさらされながら、パトロンをもった大寺院ですら多くの艱難辛苦があったなか、市井で民衆によって大切に守り継がれてきた地方仏の存在そのものが、一種の社会的共通資本といってよい価値があると思う。

筆者は中学生の時に、慶派の流れをくむ鎌倉市二階堂覚園寺の薬師三尊坐像(重要文化財)によって仏像の魅力に目覚め、大学ではサークル活動として、古美術研究会に所属し、飛鳥彫刻を研究するチーフを経験させてもらった(「飛鳥彫刻への文化史的接近」、『毘首羯磨』早稲田大学古美術研究会編、1974年、所収)。以来、仏像は変わらぬ関心事項ながらも単なる一好事家にすぎない。そうした立場ながら、以下、ささやかな仏像研究私論を述べてみたい。

グローバリズムと仏像研究

かつて京都や奈良に遊ぶ観光客の座右の書といえば、和辻哲郎『古寺巡礼』(初版1919年)や亀井勝一郎『大和古寺風物誌』(同1943年)であった。これらは仏像研究の専門家によって書かれたものではなく、哲学者や文芸評論家による仏像論であり、それゆえに多くの読者を獲得したかもしれない。
しかし、日本の仏像の価値をグローバリズムから位置づけた最初の試みは、岡倉天心の英文出版 The Ideals of the East with Special Reference of the Art of Japan (London: John Murray, 1903、富原芳彰訳『東洋の理想―特に日本美術について』ぺりかん社、1980年を参照)であろう。岡倉天心はフェノロサとともに1884年法隆寺夢殿救世観音像を世に出したことで有名だが、約20年後に書かれた本書は、インド・韃靼文明、中国文明を論じ、それらを背景とした仏教芸術(仏像もその一典型)を抽出しつつ、それらが「極東」の日本にあって「アジアの思想と文化を託す真の貯蔵庫たらしめた」(p.29)と論じた。世界文明のなかで、仏像などの日本仏教美術の価値をはじめて明確に位置づけた書物といわれる所以である。

戦前の仏像研究

邦訳による天心全集が出版されたのは1922年、これ以降戦前の仏像研究には見るべきものも多い。例示として、書架にあるものを拾っただけでも、木村小舟『推古より天平へ』(1928年)、黒田鵬心『日本美術史講話』(1929年)、加藤泰『日本美術史話』(1937年)、濱田耕筰『日本美術史研究』(1940年)、井上政次『大和古寺』(1941年)、『法隆寺図説』(1942年)、望月信成『日本上代の彫刻』(1943年)、野間清六『日本彫刻の美』(1943年)、井島勉『日本美術図譜』(1944年)、足立康『日本彫刻史の研究』(1944年)などがある。また、戦後の出版となるが、田中豊蔵や上野直昭の研究はいかにも浩瀚であり、和辻や亀井だけでなく、職業的専門的な研究家がこの時期、多く輩出されていたことがわかる。

多くの研究の特色としては、仏像彫刻において和様(日本的な特色の抽出)という視点が重視されていることである。朝鮮、大陸からの仏典、仏像、仏画、仏具などの伝搬、舶載はあったが、それが日本において胚胎して、日本独自の仏教彫刻文化が花開いたといった見方である。その結果、今日から見ると歴史的バイアスを感じるが、渡来人や帰化人の影響の濃い飛鳥白鳳彫刻よりも天平以降の彫刻を高く評価し、残存作のすくない定朝(じょうちょう)こそが日本的な特質の表象となり、さらに慶派彫刻をもって日本のルネサンスに至るという「様式史」が形成されていく。

学際的研究の時代へ

昨年は戦後70年だったが、仏像研究においてこの間には大きな変貌があった。「様式史」重視の姿勢はいまもなお強いが、それにとどまらない三つの「学際」的な潮流が変化を促しているように思う。

(1)仏師(製作者)からのメッセージ

戦前にも本郷新『彫刻の美』(冨山房、1942年)といった彫刻家からの問題提起はあったが、京仏師の松久朋琳による『京佛師六十年』、『仏像彫刻のすすめ』(日貿出版社、1973年)や奈良仏師の太田古朴の仏像観賞シリーズ〈1~3〉(『飛鳥・奈良』、『平安藤原』、『鎌倉吉野』綜芸舎、1971~75年)、『日本の仏像 意味と観賞の仕方』(淡屋俊吉との共著、三学出版、1978年)は創作技法を知るうえでも興味深い。これに続き、西村公朝師は『仏像の再発見 鑑定への道』(吉川弘文館、1976年)、『仏の世界観 仏像造形の条件』(吉川弘文館、1979年)ほか多くの著作を残され、最近では彫刻家の藪内佐斗司・東京芸術大学大学院教授などが多彩な情報発信をしている。

仏師、仏像修理の専門家が仏像を論じる―それはまちがいなく「プロ」の眼である。彼らは、当初造像した仏師や、後世に修理しバトン・タッチしてきた先達の仕事を自ら追体験するのみならず、復旧作業を通じて各々の時代の証人ともなり、歴史の継承者でもある。こうした仏師たちは、かつては無言の技術者であった。しかし現代では、その知見、経験、思想を自ら積極的に語るようになってきている。

(2)科学的アプローチ

紫外線、赤外線、X線、β線、γ線などの光学的分析、顕微鏡、微量化学分析法などの科学的アプローチが仏像研究の方法論を一変してしまった(山﨑一雄『古文化財の科学』思文閣出版、1988年)。
信仰の対象である仏像に光学的分析を加えることには根強い抵抗があったようだが、戦前からの研究成果もあって、1950年代から本格化する(久野健『仏像』学生社、1961年)。いまやこうした手法は定番であり、目視によって様式の差を確認し推量するだけの「様式史」は過去のものとなってしまった。

筆者もかつて、兵庫県加古川市鶴林寺に白鳳仏の名品、金銅聖観音像を拝顔に行った際に、国宝太子堂(法華堂)の壁画がサイバーショットデジタルカメラによる赤外写真で現代に甦ったことを見てその威力に驚いた(『産経新聞』2007年10月29日、拙稿「感・彩・人コラム」 http://blog.livedoor.jp/shokkou/archives/1879505.html)。
また、仏像の修理技法の高度化にとっても微量化学分析法は不可欠であり、たとえば鋳金、鍛金、彫金などの金工全般で活用されている(『金工の伝統技法』理工学社、1986年)。

(3)経済学、経営学的な視点

杉山二郎『大仏以降』(学生社、1986年)では、東大寺大仏建立に伴う銅鋳造、水銀塗金法が深刻な重金属公害を発生させたのではないかとの推論を展開している。斬新な視点であり、大いに興味をそそられる。

東大寺参詣の際、大仏に至る導線上にある南大門の仁王像。誰しもが、足下から見上げ、その「巨大さ」に驚く。阿形像836cm、吽形像838cm、重量は各6.6t。阿形は、運慶+快慶、小仏師13名ほか、吽形は、定覚+湛慶、小仏師12名でつくられたことが、1998年から5年間の両像解体、修復工事で明らかとなったが、この2像はわずか約70日でつくられた。運慶工房の「生産性の高さ」については、これにとどまらない。現存しないが、東大寺大仏殿の脇侍は、観音菩薩(定覚+快慶)、虚空蔵菩薩(康慶+運慶)2体(座高で約900cm)、四天王4体(像高約1,300cm)は約80日間で完成、さらに、東大寺中門像高約700㎝の2天王については制作日数76日、東方天が快慶ほか小仏師14名、西方天が定覚ほか小仏師13名のチームであったという(副島弘道『運慶 その人と芸術』吉川弘文館、2000年、pp.136-137参照)。
こうした造像システムは早くも定朝によって確立されたとされ、1026年中宮威子御産祈祷のための27体の等身仏は、工期3カ月、仏師動員125名の記録がある。運慶工房は、その伝統を引き継いでいる(根立研介『運慶 天下復タ彫刻ナシ』ミネルヴァ書房、2009年、pp.8-9参照)。

筆者は、<チーム運慶>の活動に日本の製造業の源流を想像し、加工・組立技術の分業によるその生産性の高さに驚くが、近年のこうした研究成果はいかにも学際的である。

おわりに隣接学問との関係

飛鳥白鳳時代を考える時、考古学ではそれ以前の古墳時代から多くの実証的なデータが得られる(町田章『平城京』考古学ライブラリー44、ニュー・サイエンス社、1986年)。また、この時代の朝鮮、大陸との国際関係は緊密であり、歴史学における海外との比較研究からも新たな発見がある(速水侑『日本仏教史〈古代〉』吉川弘文館、1986年)。
戦前の仏像研究から続く「様式史」では、この時代のグローバルなダイナミズムが十分に捉えられていないと感じることがある一方、考古学や歴史学からの飛鳥白鳳時代の解析は魅力的である。

文化庁のデータ( http://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/searchlist.asp)によれば、日本には現在、128件の国宝の仏像がある。しかし鎌倉時代を最後に、以降の国宝の指定はない。
「様式史」の呪縛といっては専門家からのご叱正があるかもしれないが、江戸時代の円空、木喰はじめ胸を打つ仏像は後世にも多く存在しており、この点はかねてからの強い疑問である。

学界のアウトサイダー、保田與重郎はかつて「美術やその歴史を語る上で、様式とか形式といふことを目安にする考へ方は、わが国では、文明開化以前にはなかった。かうした方法の始まりは、近々百年この方美学を芸術学としてつくる時に、凡庸で美のわからぬ分類家が考えへたものである」(『日本の美術史』新潮社、1968年、p.89、漢字のみ新字体に変更)と辛辣に批判した。
ところで、最近は、飛鳥、白鳳、天平、貞観といった従来の区分ではなく、よりスマートに、時代別に前期、後期で分類する傾向も強いが、筆者は旧表記のニュアンスを大切にしたいし、学界の分類学重視の傾向に保田のこの言葉を想起する。
むしろ、上記で指摘したような学際的な分野の成果を踏まえ、「様式史」を相対化し、より総合化した仏像研究が求められていると思う次第である。

http://www.isr.or.jp/TokeiKen/pdf/gakusai/1_14.pdf
(『学際』第1号(2016年1月)所収 http://www.isr.or.jp/TokeiKen/publication/gakusai/gakusai_new.html

インド哲学

ヴェーダ

『インド思想史』 早島鏡正, 高崎直道, 前田専学他 1982年 東京大学出版会 を読んでいる。
http://www.utp.or.jp/bd/4-13-012015-8.html

本書は、「哲学と宗教とがあい伴ったインド思想を概説する.『リグ・ヴェーダ』に始まり,仏教とジャイナ教がおこり,ヒンドゥー教を生んで後,中世にイスラーム教の浸透を受けて近―現代へ.主要な選文を引きながら,この重層した流れを紹介.参考文献,年表,地図.」(上記引用)といった内容。非常によくまとまっており座右の参考書として好適。

しかし、インド哲学の燎原は遠く広い。まず、ウィキペディアから「ヴェーダ」についての引用。


「ヴェーダ(梵: वेद 、Veda)とは、紀元前1000年頃から紀元前500年頃にかけてインドで編纂された一連の宗教文書の総称。「ヴェーダ」とは、元々「知識」の意である。
バラモン教の聖典で、バラモン教を起源として後世成立したいわゆるヴェーダの宗教群にも多大な影響を与えている。長い時間をかけて口述や議論を受けて来たものが後世になって書き留められ、記録されたものである。…

広義でのヴェーダは、分野として以下の4部に分類される。

●サンヒター(本集):中心的な部分で、マントラ(讃歌、歌詞、祭詞、呪詞)により構成される。
●ブラーフマナ(祭儀書、梵書):紀元前800年頃を中心に成立。散文形式で書かれている。祭式の手順や神学的意味を説明。
●アーラニヤカ(森林書):人里離れた森林で語られる秘技。祭式の説明と哲学的な説明。内容としてブラーフマナとウパニシャッドの中間的な位置。最新層は最古のウパニシャッドの散文につながる。
●ウパニシャッド(奥義書):哲学的な部分。インド哲学の源流でもある。紀元前500年頃を中心に成立。1つのヴェーダに複数のウパニシャッドが含まれ、それぞれに名前が付いている。他にヴェーダに含まれていないウパニシャッドも存在する。ヴェーダーンタとも呼ばれるが、これは「ヴェーダの最後」の意味。・・・」


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%80

釈迦が紀元前600年頃から紀元前500年頃の人とすれば、それ以前の長い歴史をヴェーダ哲学はもっている。むしろ、考え方次第では、ヴェーダ哲学の沃野から仏教という良質な生産物が生まれたと言えるかもしれない。
後世の密教をみると、この源流のもつ意味を少しは理解できる。まず、サンヒター(本集)のマントラについては以下に記した。


◆空海と密教美術展 空海について考える6 <真言>+<陀羅尼>
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-256.html

次にブラーフマナ(祭儀書、梵書)については、密教の体系性と秘儀に関して、同じく以下に記した。

◆空海と密教美術展 空海について考える2 十住心論の体系
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-252.html

3番目のアーラニヤカ(森林書)は、ヒンドゥー教では大きな意味がある。青年期まで学び、壮年期まで働き、老年期には森に入って瞑想するという人生の階梯論が底流にあり、森の隠者には深い学識と経験となにより悟りにいたる達観がある、といった見方である。

ウパニシャッド(奥義書)は核心的な部分である。ふたたび、ウィキペディアからの引用。

「ウパニシャッドの中心は、ブラフマン(宇宙我)とアートマン(個人我)の本質的一致(梵我一如)の思想である。ただし、宇宙我は個人我の総和ではなく、自ら常恒不変に厳存しつつ、しかも無数の個人我として現れるものと考えられたとされる」

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%91%E3%83%8B%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%83%E3%83%89

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