大和古仏探訪

京阪神を中心に内外の古仏についていろいろと書いてみたいと思います。

仏師 運慶論 その根底にあるもの

運慶展 東博

(目次)
§ プロローグ 運慶の決意
第1章 無著と世親
第2章 運慶の時代と僧侶の活躍
第3章 運慶と真言宗
第4章 僧運慶は何を目指したか
§ エピローグ 運慶は空海を彫ったか


§ プロローグ 運慶の決意

まもなく、興福寺中金堂再建記念特別展「運慶」が、東京国立博物館 平成館 特別展示室にて、 2017年9月26日(火) ~ 2017年11月26日(日) に開催される。この秋、仏像ファンにとっては最大のイベントである。

平安末期、寿永2年(1183)に運慶は願を立てた。国宝「運慶願経」である。これは周到に準備して作成された。「願主僧運慶」にはじまる奥書(第8巻)は詳細に記述されており、運慶を総帥とする慶派工房のその後の仕事ぶりを知る手掛りにもなる。そのエッセンスを以下にまとめておこう。

<作成期間>
まず、願経は安元年中の頃に発心された。元号から1175~1177年までの期間を指す。円成寺大日如来坐像は安元二年(1176)作なので、その前後となろう。出来上がったのは寿永2年(1183)なので実に6~8年もかかっていることになる。

<作成場所>
御経書写所唐橋末法住寺辺と記載される。

<作成手順>
1.色紙工と相談し、紙を打つ(女大施主阿古丸)
2.硯の水を用意する。具体的には、比叡山は僧宗実が、三井寺は快尋が、清水寺は僧康円がこれを担当する。
3.書き手を指名する。珍賀、栄印がこれを担当する。
4.軸をつくる。軸作りは源兼弘、軸の銅細工は源支正がこれを担当する。ほかに表紙作、紐織なども別に行う。
5.東大寺焼失の柱残木の軸木を用意する。最智法師がこれを担当する。

<作成にあたっての留意事項>
関係者は沐浴精進。書写の間は毎日行数をはかり、行別に三度礼拝、宝号および念仏を唱えるなど、厳密なプロトコルをもって対応。

<末尾関係者一覧>
快慶、源慶、静慶など一門に加えて多数の結縁者の名前を掲載。
(以上、三山進『鎌倉と運慶』有隣新書 1976年 pp.16-21を参照)

こうしたドキュメントがいまに伝えられていること自体が稀有なことだが、では、運慶の胸に去来するもの如何。そして、その後の彼の活動の根底にあるものは何であったのか。小考では、いささかユニークな視点を提示してみたい。


【以下は東博HPから引用】
治承4年(1180)、平重衡の軍勢が放った火によって東大寺、興福寺の主要伽藍が焼失した。運慶は幼少のころから両寺院の仏像、伽藍に親しんでいたはずで、深く胸に刻まれる事件だっただろう。焼け残った東大寺大仏殿の木を軸にして法華経八巻の書写を発願した。紙は工人に沐浴精進させて作らせ、水は比叡山横川、園城寺、清水寺から霊水を取り寄せて墨をすっている。巻第八の奥書に快慶をはじめ結縁した同僚の仏師の名前がある。
http://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=1861

第1章 無著と世親

運慶北円堂5
(左:世親菩薩立像、右:無著菩薩立像)

無著と世親について、日本仏像彫刻においては、運慶工房の秀作によって、広く知られている。世親像については、1975年の東京での展覧会ではじめて見た。その後、興福寺北円堂でいくども両像にはおめにかかっている。鎌倉彫刻における写実主義の頂点にたつ作品というのみならず、この仏教界の偉人を、イマジネーション豊かな巨魁として表現したその技量に感服する。今回の東博の展示でも、上記ポスターに使われているとおり、もっとも眉目をひく逸品だろう。

無著(無着 むぢゃく、アサンガ)はインドの大乗仏教唯識派の大学者。生没年は不詳だが、310年‐390年ころ(あるいは下って5世紀はじめ)の人といわれ、世親(せしん、ヴァスバンドゥ)は無著の実弟である。かつて、華厳経の本を読んでいて、この2人のインドの学僧がいかに偉大であったを知る。しかし、日本では上記の運慶工房の優れた2作があればこそ、われわれは教典とは別に、親しくお近づきになれるし、その実在が生々しくイメージされる。
無著は悟った表情をたたえた老人の顔をしており、一方、世親は壮年のエネルギーに満ちている。見事な対比であり、ここには「静」と「動」の相違も含意されているようにも感じる。鎌倉時代の最高の肖像彫刻であるとともに、慶派の高い知見と作像の実力を後世に残すものであることはまちがいない。


➡ 無著(着)、世親について
http://blog.livedoor.jp/shokkou/archives/1830204.html

この二人の偉大な兄弟について、もう少しメモしておこう。『無著と世親』(木村園江 第三文明社 1975年)を読む。工夫されたプロットで、筆力ある作品。二人の主役は、弟・世親(ヴァスバンドゥ)がまず前半で集中的に描かれ、後半に兄・無著(アサンガ)が登場しこれもその厳しい修業の過程が詳述される。そして、いよいよこの2人が邂逅(再会)した後、物語は終盤に劇的な展開をみせる。

日本の美術91

このプロットは、実は「止揚」の過程を描くものでもあり、ヴァスバンドゥはバラモン教(外道)から解脱し、これを破砕することで小乗仏教の一大論客として成長する。王家の手厚い庇護をうけ、いわば国教化した大僧侶に栄達する。この小乗仏教に真っ向対峙し、それを超克したアサンガは、弟のヴァスバンドゥを折伏するのだが、それは論戦に勝つことよりも、実践哲学たる大乗仏教の優位性を説くことにあった。したがって、そのプロットはバラモン教→小乗仏教→大乗仏教への進化の道程を描くことに主眼がある。

民衆に分け入り、人々の救済にこそ仏教の実践的な意味を見い出すアサンガは、ヴァスバンドゥとの論戦を制するけれども、その後の学理究明、その普及においてはヴァスバンドゥがより優れ、アサンガの最良の後継者となる逆転の展開には鮮烈な効果がある。

さらに、仏に成るべく克己に集中する小乗仏教は、貴族主義的でその信奉者もカースト制における支配階層に限定される。対して、最底辺の人々の救済をも射程にいれた大乗仏教は、その思想の大きさにおいて小乗仏教を包摂する関係にある。ヴァスバンドゥがそれまで築いてきた唯識論哲学は、けっして無為ではなく必要なる解脱のプロセスであり、むしろ、大乗仏教に乗りかえることによって、よりその普遍性を獲得する。こうしたプロットは実によく考えているなあと感心した。学理解釈にも必要な部分では筆をすすめた苦心の作である。


さて、本書を読んで唯識論について関心を深めると、ではそれがどのように日本に受容されたかが次に当然、気になる。
系譜としては、玄奘三蔵が、これを学び、『成唯識論』を記す。玄奘の弟子、慈恩大師基によって、この考え方は法相宗として立てられる。法相宗は奈良時代に、道昭、智通、智鳳、そしてかの玄昉などによって日本に伝えられ、南都六宗のひとつを形成し、それは主として、興福寺、法隆寺、薬師寺、そして京都清水寺に受けつがれていく。よって、興福寺北円堂に、運慶工房をあげての作像が 建暦2年(1212)頃に行われることになるのである。


運慶北円堂

【以下は東博HPから引用】
国宝 無著菩薩立像・世親菩薩立像  運慶作  鎌倉時代・建暦2年(1212)頃  奈良・興福寺蔵

北円堂は、奈良時代に藤原不比等の供養のために建立されたが、治承4年(1180)の兵火で焼失、復興は遅れ承元2年(1208)にようやく造仏が始まった。弥勒如来坐像と両脇侍像、二羅漢、四天王像の造像は運慶統率のもと6人の子、4人の弟子たちが分担した。無著、世親は5世紀、北インドに実在した学僧で、法相教学を体系化したことで知られる。無著が兄、世親は弟であり、2体の像は老年と壮年に作り分けられている。2メートルに迫る巨体に厚手の衣を着け、大ぶりな衣文を作って重厚な存在感を表す。一方容貌は無著の静、世親の動と対照しつつ精神的な深みを加えている。世界的な傑作と言って良い。
http://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=1861

この無著・世親像に触発されて、1冊の有名な運慶論が上梓された。岡本謙次郎『運慶論』(1972年 冬樹社)である。この本では、筆者の独特の芸術論を運慶に重ねてみている。 本書では両像について多くの記述があるが、形式・仕儀から脱して、運慶が写実主義に行きたった点が強調されている。一文のみ以下、引用する。

「無著像世親像の毅然たる姿はわれわれの想像力を封じてしまう。多分、写実とは、事物を離れてとりとめもなくなった想像力をあらためて現実の事物に引きとめておこうとする態度から生じた一形式である」(p.125)


さて、運慶は仏師であるとともに僧侶である。実は小稿では以下、ここに注目してみたい。無著・世親像について、かくも見事に彫りきった運慶は、自ら僧侶としての十分な学識ももっていたと考えたい。
運慶の父、康慶は興福寺系の一介の僧侶から仏師の道に入るが、運慶もまた「大仏師康慶、弟子運慶」の生業とともに興福寺勾当として僧侶の道を歩んでいる。
運慶に関しては、子沢山であり、慶派工房の総帥という世俗的、社会的な立場(いわば成功した同族経営の二代目、オーナー社長ともいえる)から、ともすれば僧侶としてのイメージは持ちにくい。
瀧川駿『運慶』(1962年 圭文館)では、著者の破天荒な人生観がここに投影されているようにも感じるが、六波羅蜜寺にある運慶の生前の姿を写した(かも知れない)坐像についてのくだりが面白い。以下に一部引用する。

「・・・とんがり頭の武骨い感じの、ごく平凡なおやじの顔である。口と眼がばかに大きく眉が濃い。七条仏所の造仏の秘伝からいうと、かなり枠からはみ出している作品である。・・・だが、この像にはなにか素朴さがあり、親しみのある運慶が感じられて、接していても温かい気持ちがする。そして運慶が主張していた実物写し(写実)の刀法をかんじる。この作は運慶の養子で、第三子になっている実に非凡であった康弁の作であろうといわれているが、彼の代表作の天鬼燈、竜燈鬼などと同様に、着想の奇抜さが感じられる」(pp.212-213)

運慶坐像
(運慶坐像 六波羅蜜寺)

こう書かれてしまうと取りつく島がないけれど、重要なのは僧形であることであり、運慶はそれを十分に自覚していたと思われる。さらに、興福寺の僧というステイタスについては慎重に考えるべきである。運慶は、特定の教派にとらわれていたとは考えにくい。なぜならば、施主の希望に応じて、商品カタログが豊富で、短期の納品期限にも間に合い、大規模・大量にあらゆる仏像を造像できる実力こそが慶派をスターダムに乗せえたからである。しかし、運慶の胸に秘めた僧としての矜持は奈辺にあったかは興味深い。


第2章 運慶の時代と僧侶の活躍

運慶の生きた時代は非常なる激動期であった。平家が心酔した阿弥陀如来による往生信仰は、平家の滅亡によって幻となった。取って代わった源氏一族は、いまだ不安定な政権基盤であり、疑心暗鬼と権力内での深刻な内紛を抱えていた。しかも朝廷(京)と新政権幕府(鎌倉)の確執は緊張をはらんでおり、南都(奈良)がそうであったように、京もいつ大きな戦禍に巻き込まれるか、誰にもわからない危機的な状況にあった。安心立命などどこにもないという虚無的な時代精神が支配的となっていた。末法思想の蔓延はそれを裏付けている。だからこそ、人々は心の安寧を保証してくれる新たな宗教を求めていた。

運慶とともに生きた時代の主要な僧を生年月日(推定をふくむ)順に以下、列挙してみよう。

寛遍(1100~ 1166年)は、真言宗の高僧であり、広隆寺別当、東寺長者、高野山管長、東大寺別当を歴任し応保元年(1161年)大僧正となった。重源(1121~1206年)は、東大寺大勧進職として、源平の争乱で焼失した東大寺の復興を果たした。法然(1133~1212年)は浄土宗の開祖である。文覚 (1139~1203年)は運慶ともかかわりの深い真言宗の僧である。栄西(1141~1215年)は臨済宗の開祖である。貞慶(1155~1213年)も運慶と関係のある鎌倉時代前期を代表する法相宗の僧である。明恵(1173~1232年)は、同様に華厳宗の僧である。親鸞(1173~1262年)は浄土真宗の開祖である。やや時代が下るが、道元(1200~1253年)は曹洞宗の開祖である。

さらに2人をこれに加えておこう。栃木・光得寺を創建した足利義兼は、武将にして源頼朝の盟友であったが、頼朝の誅殺を恐れて仏門に入った。式部僧都寛伝(1142~1206年)は源頼朝の従兄弟であり、愛知・瀧山寺を開いた。はじめは天台僧、後に真言宗総本山仁和寺で修行し、真言僧として大成し僧都になった人物である。次の諸像はその証であり、いずれも運慶の作である。


運慶展 (5)
重文 大日如来坐像   鎌倉時代・12~13世紀 栃木・光得寺蔵

運慶展 東博3

【以下は東博HPから引用】
重要文化財 聖観音菩薩立像  運慶・湛慶作  鎌倉時代・正治3年(1201)頃  愛知・瀧山寺蔵

建久10年(1199)に没した源頼朝の供養のため、頼朝の従兄弟にあたる僧・寛伝(かんでん)が造った像。『瀧山寺縁起(たきさんじえんぎ)』には、聖観音像の像内に頼朝の髪と歯が納められたと記され、X線写真により、頭部内に納入品が確認されている。脇侍の梵天・帝釈天を合わせ三尊とも作者は運慶・湛慶とする。肉付きの良い体体と写実的な着衣の表現など運慶の特色が顕著で、『瀧山寺縁起』の記述は信用できる。表面の彩色は後補。聖観音菩薩立像が寺から外に出るのは初めてである。
http://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=1861

以上の僧はすべて、運慶(1150頃~1224年)と同時代人として同じ空気を吸っていた。そして運慶は、自ら僧としての自覚をもっていた。
運慶は、法然や栄西や親鸞や道元のように各宗派の開祖ではない。運慶は、寛遍や重源や文覚や貞慶や明恵のように既存宗派の高僧であったわけでもない。しかし、運慶は、門閥や位階ではなく、その実力において、人々が心から祈りをささげる仏を彫ることのできる当代最高の仏師であった。人々にあたえる直接的な影響力はある意味で絶大であり、彼はそれを強く意識していた。だからこそ、日本の仏師ではじめて自分の作品にその名を記していったのではないかと思う。


第3章 運慶と真言宗

 運慶展 東博4
公益財団法人愛知教育文化振興会 HPより転載

運慶は真言宗寺院との関係が深い。運慶が生涯手掛けた作品は多く、現存作(推定をふくむ)はその一部であることはあからじめ明記しておかねばならない。その限られた作品のなかであることは一応念頭に、上表をみると、いかに真言宗との関係が深いかは一目瞭然だろう。

前述の栃木・光得寺の前身、樺崎寺は真言律宗であった。愛知・瀧山寺を開いた式部僧都寛伝は天台僧、後に真言宗総本山仁和寺で修行し、真言僧として大成し僧都になった点もすでにふれた。
興福寺、東大寺をのぞき、それ以外の各寺は京都、鎌倉ともに真言宗寺院である。城では、平城や山城などの区別があるけれど、寺院でも都の真ん中にあるような教化寺院もあれば、山岳信仰の道場のような寺院もある。真言宗は空海の教えもあって、双方がともに重視された。前者は教王護国寺(東寺)であり、後者は言わずと知れた高野山、金剛峯寺である。

運慶と東寺との関係。運慶は建久8(1197)年5月から翌年9月にかけて、文覚上人の勧進により、数十人の小仏師を率いて東寺講堂の五仏・五菩薩・五大尊・梵天・帝釈天・四天王像の大修理を行った。いかに東寺との関係が深かったかを知ることができる。
一方、高野山・金剛峯寺には今回も出展されている運慶の有名作が保管されている。一方で、六波羅密寺の宗派は、天台宗から真言宗にかわるなどの変転もある。

運慶は興福寺(法相宗)勾当であったことから、真言宗との関係にはちょっと違和感があるかも知れないが、上記に関連して、写真を掲げた瀧山寺の梵天について多少ふれよう。この像が運慶作と特定されたときに、多くの識者からは戸惑いがあった。運慶といえば、荒々しい鎌倉武士を写実的に映した新しい息吹をもった仏師。この作品からはじめに受ける印象が柔和で、いわば古風な印象もある。運慶はなぜこうした仏さまを作像したのだろうか。
教王護国寺(東寺)には、十二天屏風(六曲一双、絹本着色、1191年)がある。この梵天は瀧山寺梵天とよく似ている。運慶が、密教関係の仏典や儀軌を徹底して研究していたこれはひとつの証左であろう。


運慶展 東博5 十二天屏風(梵天)
十二天屏風(東寺、絹本着色、1191年)のうち梵天

さて、不動明王は日本ではメジャーになった仏像だが、その請来は空海によるともされる。インドや中国ではあまり流行らなかったようだが、真言密教では重要な仏さまである。運慶もその復興に尽力した神護寺には、平安時代前期に空海作の不動明王像があったとされる。これは、平将門の乱(939年)が起こった際、将門討伐を祈とうするために下総(現在の千葉県)に運ばれ、身代わり不動尊で知られる成田山新勝寺にあった、との伝承もある。運慶作など著名な不動明王は、関西よりも関東で多く残されているが、こんな伝承もそれを裏付けるものかも知れない。
空海は、絶対のパワーをもつ大日如来と金剛波羅蜜菩薩と不動明王の関係を、一般の儀軌的な序列で、

 大日如来>金剛波羅蜜菩薩>不動明王 

と階序的に位置づけるのではなく、むしろ各像は<変化仏>のパターンを表しており場合によれば、

 不動明王⇔大日如来⇔金剛波羅蜜菩薩
 
にいつでも転じることができるとした。明王とは如何。衆生は大日如来の正法をもってしても済度しがたいこともある。まして悪意をもって祟りをなさんとする場合はなおさらである。そこで、これらに対して大日如来は明王(教令輪身)となり威をもって仏法に導く。この場合、明王は如来の使者または如来の変身といわれる。
この不動明王には眷属がいる。八大童子であり、今回の展示でも人気を博すること間違いない運慶の秀作がその代表作である。
不動明王は、儀軌などでは三面六臂や四面四臂など多面多臂で作られたようだが、その後、いまのような憤怒(忿怒)相が主流となり、それに伴って矜羯羅(こんがら)、制吒迦(せいたか)の二童子が脇侍のように扱われた。八大童子自身が、不動明王の分身であり、当初の多面多臂の表情を写しているとの解釈もある。してみると、

大日如来⇔不動明王⇔八大童子

との関係性も成り立つわけで、八大童子を単なる童像などとは扱ってはならないわけである。蛮族が仏に恭順した、奴婢となったとのインドの発祥譚もひくので、その表情はいかにも曲者であるが、運慶はそこも踏まえて、卓抜な想像力と造形力でこれを生き生きと表現した。 


➡ 空海と密教美術展 空海について考える4 憤怒(忿怒)相の意味
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-254.html

【以下は引用】
八大童子:不動明王につき従う8人の童子。八大金剛童子ともいう。一般には,慧光(えこう)童子,慧喜(えき)童子,阿耨達(あくた∥あのくた)童子,持徳(指徳)(しとく)童子,烏俱婆伽(うぐばか)童子,清浄比丘(しようじようびく),矜羯羅(こんがら)童子,制吒迦(せいたか)童子をいう。中国で撰述された偽経〈聖無動尊一字出生八大童子秘要法品〉に記す諸尊である。このうち矜羯羅(Kiṃkara,随順・奴隷と漢訳),制吒迦(Ceṭaka,福聚勝者と漢訳)の2童子は,本軌にも説かれ不動明王の両脇侍とされることが多い。
(出典) 世界大百科事典 第2版の解説
https://kotobank.jp/word/%E5%85%AB%E5%A4%A7%E7%AB%A5%E5%AD%90-114802

運慶展 (3)
不動明王立像 運慶作 文治五年(1189) 神奈川・浄楽寺所蔵

運慶金剛峯寺3
八大童子立像のうち制吒迦(制多伽)童子

運慶金剛峯寺2
八大童子立像のうち矜羯羅童子

【以下は東博HPから引用】
国宝 八大童子立像のうち矜羯羅童子、制吒迦(制多伽)童子  運慶作  鎌倉時代・建久8年(1197)頃  和歌山・金剛峯寺蔵

平安時代後期、12世紀作の不動明王像に随う八大童子として造られたもので、6体が運慶作、2体は後補である。八条女院という高貴な女性の発願だからか、経典で性悪とされる制多伽童子が理知的な顔に造られるのをはじめ、いずれも上品な姿である。玉眼は視線の強さ、あるいは聡明さなどを巧みに表し、生きているように見える。造像時の華麗な彩色もよく残っている。運慶作品の中でも完成度の高さで屈指の作である。
http://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=1861

http://www.reihokan.or.jp/syuzohin/cyokoku.html


第4章 僧運慶は何を目指したか

運慶は父康慶の指導によって僧として、そして仏師の道を歩むが、康慶は苦労をして慶派を築いたファウンダーであった。また、父の期待と英才教育のもと運慶は育ったが、その才能は幼年期から明らかとなっていたとの説もある。

➡ 運慶考1 父は偉大だった
http://blog.livedoor.jp/shokkou/archives/1901969.html

➡ 運慶考2 天才児であった
http://blog.livedoor.jp/shokkou/archives/1901985.html


若き日の運慶の仏師としての志の高さは運慶願経に結実されている。そして、その熟練の技術が余すところなく生かされた傑作が、後年の無著・世親像である。ここには高邁な理想をもった仏教界の巨星が、あたかもいま眼前に降臨したような驚きがある。仏師運慶は、僧でありすぐれた宗教家であったと想像を馳せるにたる作品である。

運慶の生きた時代は、日本の歴史のなかでも著名な僧がもっとも積極的に布教活動を行った時代である。運慶は各宗派のファウンダーでもなければ、既存の大宗派で教理を説く高僧ではない。しかし、運慶が作り出す仏さまの訴求力は絶大であり、だからこそ今日にいたるまで、「仏師といえば運慶」というほど広範な影響力をもつに至った。運慶は、当時の並みいる僧の活動を観察して、自身の役割を十分に意識していたと考える。

それは危機感の表れでもあった。念仏を唱えることで極楽往生が可能とする新興勢力は、基本的に偶像を必要としない。禅宗においても同様である。それまでの皇族、貴族などのための造像に対して、大伽藍や高価な仏像とは一線を画する民衆のための仏教が台頭してきたのである。運慶は、鎌倉幕府の有力者を新たなスポンサーにすることには成功するが、だからといって民衆のために仏を彫ったとは言えない。それは、たとえば後世、円空や木喰の時代を俟たねばならないだろう。

➡ 運慶考4 政治との関係
http://blog.livedoor.jp/shokkou/archives/1903034.html

➡ 運慶考5 運慶と頼朝
http://blog.livedoor.jp/shokkou/archives/1903964.html


運慶と真言宗との関係は深い。そこで思うのは、空海が確立した密教は、マントラと曼荼羅という2つの方法論の融合であることである。前者は梵語に起源をもつ「言葉」の威力を最大限使うことであり、後者は絵画による密教世界の可視化である。さらに、東寺がそうであるように、空海は平面的な絵画を立体化して仏像による「立体曼荼羅」を考案する。マントラは鎌倉仏教の念仏に引き継がれる。一方、「立体曼荼羅」をより生き生きと表現することこそ、運慶の使命であったとは考えられないか。

➡ 空海と密教美術展 空海について考える6 <真言>+<陀羅尼>
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-256.html


運慶の並びたつ慶派工房のもう一人のスター、快慶も深く仏教に帰依し若き日、自らを「安阿弥陀仏」と号した。また、運慶の子、湛慶は41歳で最高の僧綱位である法印に叙せられるが、その後も父の遺志をつぎ慶派工房をよく維持した。

➡ 仏師 快慶論  意識した芸術家の横顔 
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-426.html 


運慶、快慶、湛慶の作品には、いずれも僧としての自覚と威風があるように思う一方、それ以降の慶派の後継者は、より作風が自由となり、また驚くべき彫技の冴えを見せる者もあるが、その分、やや規律に欠ける傾向もある。
運慶願経のみならず、その後の像内納入品(それが運慶はじめ慶派の作品の証左となるのだが)にも僧としてのきちんとした所作がある。そこも強調しておきたい。

➡ 運慶考7 運慶工房の生産性 <チーム運慶>の実力
http://blog.livedoor.jp/shokkou/archives/1905146.html

➡ 運慶考8 運慶彫刻の魅力
http://blog.livedoor.jp/shokkou/archives/1906204.html

➡ 運慶考9 運慶の継承者たち
http://blog.livedoor.jp/shokkou/archives/1906384.html


§ エピローグ 運慶は空海を彫ったか

最後に突拍子のない推論をひとつ。運慶の処女作と目されている円成寺大日如来坐像のご尊顔は、空海を念頭においているのではないかと考えた。ご関心があれば、以下の拙稿をご笑覧いただきたい。

◆空海と運慶  運慶は空海を彫ったか?
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-518.html

2017年9月22日
【“仏師 運慶論 その根底にあるもの”の続きを読む】

源頼朝と運慶 2

運慶展 (8)
願成就院 毘沙門天像 

2.北条時政 1138年 (保延4年)~1215 (建保3年)

激動の時代を生きた武将であり、常に権力の中心にあることを目指し、鞍替え、謀略など目まぐるしく変転する政治状況のなかにあった。武断的な逸話が多いなかで、歴史的トレースのなかで運慶が登場するのも面白い。以下は諸情報の引用を組み合わせて書いた。

鎌倉幕府の初代執権 (在職 1203~05年) 。通称は四郎。法名は明盛。伊豆国の在庁官人北条時方と伊豆掾伴為房の娘との間に生まれ,「当国の豪傑」と称された。伊豆国北条 (現在の静岡県田方郡) の出身。娘政子は源頼朝の妻。
1180 (治承4) 年8月頼朝挙兵の最初から頼朝に従って功をあげた。挙兵後、頼朝は鎌倉を目指すが、ここは時政の祖先平直方が源頼義に譲った地である。石橋山の戦に敗れて長子の宗時を失うが、次子義時とともに海路安房国に逃れてやがて甲斐源氏を誘い、富士川の戦で頼朝軍と合体する。その後は政子に孫の頼家が生まれたことから,頼朝の外威として重きをなした。

85 (文治1) 年11月には頼朝追討の宣旨が源義経に出されたのに応じて,頼朝の代官として大軍を率いて上洛する。朝廷は義経追討宣旨を出すことでそれに対応したが、時政はさらに諸国、荘園に守護、地頭を置く権限や兵糧米を徴収することを認めさせ、また頼朝の目指す朝廷政治の改革の方針を伝えてこれを実行させた。こうして朝廷からは後白河法皇の近臣が除かれ,幕府の推す九条兼実が関白となって朝廷政治は刷新された。 だがその後の京都での時政の動きは頼朝の望むところではなく、一条能保が頼朝代官として上洛したのを受けて任を解かれ、京都の警備を甥の時定に託して鎌倉に戻る。

その後の動きははっきりしないが、伊豆、駿河の守護として活動し文治5年には奥州の藤原氏追討を願う願成就院を伊豆の北条に建立し、奥州合戦に従う。やがて頼朝の後継者をめぐる動きとともに時政の行動は目立ちはじめ、1192 (建久3)年に源実朝が生まれると、その誕生の儀式を行った。1199 (正治1)年1月に頼朝が亡くなると,政子とともに頼家を補佐して幕府政治を主導した。

1200 (正治2) 年4月従五位下。1203 (建仁3)年政所別当、執権。頼家の親裁権を削減するとともに御家人の意見を幕府政治に反映する体制を築き、自らは頼家の後見として遠江守に任じられた。しかし頼家の側近の勢力を排除するなかで、頼家の外戚となった比企能員と対立が生じ、これを自邸に誘って謀殺し、実朝を将軍に据えて政所別当となって幕府の実権を握った。しかし子の義時や政子と路線が合わず、後妻牧の方の娘婿となっていた源氏の平賀朝雅を将軍に擁立することを計って失敗、伊豆に引退させられその地で亡くなる。

https://kotobank.jp/word/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%99%82%E6%94%BF-132162

(以下は一部重複するがWikipediaからの引用)

文治元年(1185年)11月、頼朝の命を受けた時政は千騎の兵を率いて入京し、朝廷に対して「守護・地頭の設置」を認めさせた(文治の勅許)。
時政の任務は京都の治安維持、平氏残党の捜索、義経問題の処理、朝廷との政治折衝など多岐に渡り、その職務は京都守護と呼ばれるようになる。在京中の時政は郡盗を検非違使庁に渡さず処刑するなど強権的な面も見られたが、その施策は「事において賢直、貴賎の美談するところなり」(『吾妻鏡』文治2年2月25日条)、「公平を思い私を忘るるが故なり」(『吾妻鏡』文治2年3月24日条)と概ね好評だった。しかし3月1日になると、時政は「七ヶ国地頭」を辞任して惣追捕使の地位のみを保持するつもりでいることを後白河院に院奏し、その月の終わりに甥の時定以下35名を洛中警衛に残して離京した。後任の京都守護には一条能保が就任した。時政の在任期間は4ヶ月間と短いものだったが、義経失脚後の混乱を収拾して幕府の畿内軍事体制を再構築し、後任に引き継ぐ役割を果たした。
鎌倉に帰還した時政は京都での活躍が嘘のように、表立った活動を見せなくなる。文治5年(1189年)6月6日、奥州征伐の戦勝祈願のため北条の地に願成就院を建立しているが、寺に残る運慶作の諸仏はその3年前の文治2年(1186年)から造り始められており、本拠地である伊豆の掌握に力を入れていたと思われる

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%99%82%E6%94%BF

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願成就院 毘沙門天像は実によきお姿である。それ以前の毘沙門天像(多聞天像)と共通する部分もあるが、力感と生き生きとした顔の表情は抜群である。さて、このお顔に安易に北条時政を重ねることはできないだろうが、施主たる北条時政がおそらくこの像を気にいったことは想像にかたくないだろう。運慶にとって、願成就院は鎌倉幕府の中枢と堅固な関係をもつうえで重要なステップとなった。

源頼朝と運慶 1

運慶展 (3)
神奈川・浄楽寺 不動明王(重要文化財)、文治5年[1189年]

1.文覚再考

この人は波乱万丈の人生を歩んだ。以下は諸情報を組み合わせて書いた。関連する物語(フィクション)も多いことから、どこまでが実像かがわからないところもあるが、源頼朝と運慶を結ぶキーパースンであることだけは確かである。

一般には生没年不詳だが、1139年(保延5年)~1203年(建仁3年)という説もある。これによれば65歳で没したことになる。
 
平安時代末期~鎌倉時代初頭の真言宗僧侶。摂津の渡辺党の遠藤茂遠(もちとお)の子で遠藤盛遠(もりとお)と称し、もと北面の武士。初め鳥羽天皇の皇女上西門院(じょうさいもんいん)に仕えたが、同僚の源渡(わたる)の妻袈裟(けさ)に恋慕し、誤って彼女を殺したのが動機で出家し、諸国の霊場を遍歴、修行したという。文覚は空海を崇敬し、1168年(仁安3年)その旧跡である神護寺に住み、修復に努めた。73年(承安3年)後白河法皇の御所法住寺殿を訪ね、神護寺興隆のために荘園の寄進を強請して伊豆に流され、そこで配流中の源頼朝に会い一時寝食を共にした。
78年(治承2年)許されて帰京したが、流されてのちも文覚は信仰の篤い法皇への敬愛の情を失わず、翌年、平清盛が法皇を幽閉したのを憤り、伊豆の頼朝に平氏打倒を勧め、80年には平氏追討を命ずる法皇の院宣を仲介して、頼朝に挙兵を促した。83年(寿永2年)法皇から紀伊国田荘(かせだのしょう)を寄進されたのをはじめとして、法皇や頼朝から寺領の寄進を受けた。

鎌倉幕府成立後は頼朝の信任厚く,京都と鎌倉を往復して京都,諸国の情勢を頼朝に伝えるなどの活躍をする一方,その協力を得て神護寺はじめ東寺の復興など、幕府、法皇の援助で空海ゆかりの諸寺を復興した。90年(建久1年)には神護寺の堂宇はほぼ完成し、法皇の御幸を仰いだ。文覚はさらに空海の古跡である東寺の復興をも図り、89年(文治5年)播磨国が造営料国にあてられ、文覚は復興事業を主催し、97年には諸堂の修造を終えた。

一時大いに権勢をふるったが、92年に法皇が没し、99年(正治1年)に頼朝が没すると、文覚は後援者を失い、内大臣源通親の策謀で佐渡に流された。1202年(建仁2年)許されて帰京したが、後鳥羽上皇の怒りを買い、翌年、さらに対馬に流され、やがて失意のうちに没したという。

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(メモ)文覚と運慶

◆文覚が、1173年(承安3年)から78年(治承2年)までの伊豆配流中、1177年 康慶は静岡県瑞林寺地蔵菩薩像を作っている。 文覚は関東で康慶に会っていた可能性がある。

◆文覚は83年(寿永2年)に法皇から紀伊国田荘(かせだのしょう)を寄進され経済的に安定する。この年、運慶願経作成。運慶も本格的に活動を開始する。

◆文覚は90年(建久1年)には神護寺の堂宇をほぼ完成し、法皇の御幸を仰いだ。さらに空海の古跡である東寺の復興をも図り、89年(文治5年)播磨国が造営料国にあてられ、文覚は復興事業を主催し、97年には諸堂の修造を終えた。
この間、運慶は1196 年に神護寺中門二天、夜叉像を作り(神護寺略記より)、翌年は金剛峰寺八大童子を作り(高野春秋)、さらに東寺講堂諸像を修理した(東宝記)。文覚の意向を受けての運慶の活動であった。

文覚は98年、明恵に運慶作釈迦如来像を与えた(明恵上人伝記)。

◆文覚は1202年(建仁2年)は配流先の佐渡から許されて帰京したが、運慶は翌年、神護寺講堂諸像を作っている(神護寺略記)。

空海と運慶  運慶は空海を彫ったか?

運慶展
大日如来坐像 運慶作 国宝 

空海は日本仏教界のスーパースターである。空海以降の仏教者は、すべて何らかの影響を空海から受けていると言っても過言ではないだろう。仏師運慶も例外ではない。ここまではいかにも平凡なる指摘であろう。

しかし、運慶のデビュー作と目されている円成寺大日如来坐像のその素晴らしいご尊顔は、運慶のイメージする空海を彫ったものである、と言えばその点については、異論、反論以前に「いい加減なことを言うな」との大方のお叱りをうけそうではある。

以下、推理小説仕立てで5つの「状況証拠」をあげよう。真夏の夜の夢と思っていただきたい。

1.発注者は誰であったか

円成寺大日如来坐像は、安元2年(1176年)に完成した。施主(発注者)は誰か。寛遍上人かその後継者(定遍か)である。彼は、真言宗の名僧であり、広隆寺別当、東寺長者、高野山管長、東大寺別当を歴任し応保元年(1161年)大僧正に至った。仁平3年(1153年)忍辱山に登り、真言宗の一派忍辱山流を自ら興した。円成寺の要請をうけて、康慶および運慶は真言宗の最高神、大日如来を彫るが、真言宗の一派の新たな立ち上げにあたって、そのご尊顔には「開祖」空海をイメージしたと考える。

2.運慶と真言宗との深い関係

円成寺大日如来坐像は、東寺金剛菩薩坐像(839年)と似ている。同様に、運慶最後の現存作、称名寺光明院大威徳明王像(1216年)は東寺大威徳明王騎牛像(839年)と実によく似ている。ここからは、運慶はじめ慶派が、東寺、高野山など先行する真言密教系尊像を研究しわがものとしていることがわかる。
後に、運慶は建久8(1197)年5月から翌年9月にかけて、数十人の小仏師を率いて東寺講堂の五仏・五菩薩・五大尊・梵天・帝釈天・四天王像の大修理を行うが、その東寺については言わずとしれた空海の創建である。

◆【特別展】運慶 中世密教と鎌倉幕府 神奈川県立金沢文庫80年
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-212.html


3.大日如来は慶派カタログの主力

施主(クライアント)の意向の尊重は仏師にとって最重要事項の一つ。施主には事前に仏画や儀軌を見てもらい周到な打ち合わせが肝要。大日如来は慶派カタログの主力であった。たとえば快慶の石山寺多宝塔本尊大日如来像(1194年)は快慶初期の作で、円成寺大日如来像との比較は誰しもが関心のあるところであろう。制作年代では約20年の隔たりがあるが、両者の同質性(とくに全体構成、手印、腰部衣文などの胴体表現)と異質性(とくにご尊顔の表現、もちろん宝冠、光背の有無などは前提としたうえで)は明らかであろう。ちなみに石山寺も真言宗の名刹である。

◆近江路の神と仏1  三井記念美術館 快慶 石山寺多宝塔本尊大日如来坐像
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-338.html


4.弘法大師座像は慶派工房の大ヒット作

運慶の時代には弘法大師座像はそのカタログになかった。ゆえに、運慶は大日如来のご尊顔に空海をイメージしたが、快慶は別。一方、次世代の弟子は、弘法大師そのものを彫って大成功した。運慶の四男、康勝は、日本の肖像彫刻として屈指の作である空也上人像(六波羅蜜寺蔵)で有名だが、後世の弘法大師像の規範となった東寺御影堂の弘法大師像を天福元年(1233年)に世に送る。これが大師堂信仰とともに庶民にうけて、傾いた東寺を立て直す最強アイテムとなったと言われる。そのご尊顔は厳ついもので、円成寺大日如来像とは似ても似つかない。ゆえに、円成寺像にイメージとしての空海が投影されているなどという発想はおそらくは誰も持たなかったと思う。しかし、慶派の持ち味は豊富なヴァリエーションにある。同時代、快慶の弟子長快作の六波羅密寺弘法大師坐像は優しいお顔立ちで、円成寺像に通じるものがある。

5.納入品にみる空海の影響

運慶は自身の名を作品の中に残した仏師である。浄楽寺諸像(1189年)や興福寺北円堂弥勒如来像(1212年)には、有名な月輪の納入があり、これをもって運慶の真作と特定されるところだが、その月輪の思想的背景は、空海の「無量壽次第」に根拠が求められるとの説がある(伊藤史郎「高野山不動堂の八大童子像と運慶」参照)。これは、空海の思想や仕儀を運慶が熟知していた一つの証左ではないかと思う。

いまだ父康慶の弟子と墨書した若き運慶の円成寺大日如来像には、気品をたたえた表情とともに秘められた意志力が内から漲り、観る者に強い印象をあたえる。その解析不能な神々しさに、筆者は青年期の空海のイメージを重ねてみた。着想したはじめは、空海と運慶は朧な二重写しであったが、以上の5つの「状況証拠」を考えてきて、徐々に二人の若者の画像がくっきりとしていくような気がした。

その前提は、冒頭に記した寛遍(1100年(康和2年)~ 1166年(永万2年))およびその後継がいかに康慶および運慶に影響を与えたかにあろう。また、同時にあるいはやや時代は下って、文覚(1139年(保延5年)~1203年(建仁))の影響も気になるところである。若き運慶は、父から一任され、そのご尊顔の造型に乾坤一擲の気持ちで臨んだのではないか。そして意識的に若き空海の悟りの姿をここに彫ったのではないかと愚考した次第である。


【以下は引用】
 大日如来坐像 運慶作 国宝 像高98.8 平安時代末期
台座内墨書から鎌倉新様式を切り開いた、運慶の最初期の作と知れる記念碑的仏像。若々しい面相と体躯には、新時代の気風と青年運慶の想念が伝わってくるようです。 大日如来は密教における根本仏。サンスクリット語のヴァイローチャナという名は「遍く光を照らす者」の意味をもち、如来でありながら、宝冠、瓔珞、臂釧、腕釧を身に着け、一種の王者の姿をとっています。 運慶の生年は不明ですが、造像は20歳代と推定されています。

< 銘文>
運慶承安永元年(1175)十一月廿四日始之
給料物上品八丈絹肆拾参(四十三)疋也
已上御身料也
奉渡安元弐年丙申十月十九日
大仏師康慶
実弟子運慶(花押)
http://www.enjyouji.jp/treasure/p1.html

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◆「空海と運慶 1~3」を参照

➡ 空海と運慶 1
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-515.html

➡ 空海と運慶 2
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-516.html

➡ 空海と運慶 3
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-517.html

空海と運慶 3

六波羅密寺 「弘法大師坐像」
木造弘法大師坐像 鎌倉時代 長快

7.六波羅密寺

六波羅密寺というのは、名前のとおり、狷介なる寺である。はじめて、そこを訪問したのは、はるかに昔のことだが、空也上人像を拝顔して、そのお姿のスーパーリアリズムと内から発せられた念仏表現のスーパーシンポリズムの表現ぶりに感激した。そのあとの混乱にみちた驚愕は、ここに、弘法大師がおあし、平清盛も、運慶も、湛慶も「同居」している不可思議さについてである。

川崎龍性「六波羅密寺の歴史と信仰」(『杉本苑子・川崎龍性 『六波羅密寺』 古寺巡礼京都25 1978年 淡交社)を読むと、この寺の数奇な来し方は複雑で、歴史に翻弄されつつも、したたかであり、宗派も天台宗から真言宗にかわるなどの変転がある。

さはあれど、いまここにおあす多くの、優れた仏像は、有名な地蔵菩薩像をふくめ慶派の影響が大きい。

【以下は引用(一部編集)】

六波羅密寺

京都市東山区にある真言宗智山派の寺。空也の創設といわれる。天台宗に属していたが,のち真言宗となった。空也上人立像をはじめ重要な美術品が収められている。 山号は、普陀落山。西国三十三所第17番札所。

寺域は京都の葬送地鳥辺野の入口で〈六道(ろくどう)の辻〉と呼ばれた地点にあり,古来葬送と死者追善の寺として庶民の信仰を集めてきた。963年(応和3)悪疫が流行した際、空也が建立した。当初は西光寺と称し,十一面観音像と脇士の二王・四王像を造立安置したという。977年(貞元2)中信が堂舎を修造し,寺号を六波羅蜜寺と改めて天台別院とし,法華八講や念仏を修して貴賤の信仰を集め,迎講(むかえこう)や地蔵講を行い,以後京都の諸人が講を行う寺として親しまれた。 平安後期の1110年(天永1)平正盛は六波羅蜜寺内に阿弥陀堂を建立したが,このころから六波羅の地名が多く行われるようになった。貞治年間(1362~1368)に再興され、真言宗に改宗。

この地は、源平時代には平家の一族の邸宅が建ち並び、鎌倉時代には六波羅探題が置かれていた。このため幾度か兵火にあい、応仁の乱(1467~77)にも焼失したが、豊臣氏、徳川氏の帰依(きえ)によって復興した。現に本堂は室町初期の建造物で、本尊十一面観音立像(秘仏。12年ごとの辰年に開扉)、脇侍の地蔵菩薩像、四天王像(以上、平安後期)、空也上人像(鎌倉時代)など(以上、国重要文化財)を安置している。このうち地蔵菩薩は「山送りの地蔵」「鬘掛(かずらかけ)の地蔵」として知られ、空也上人の立像は念仏を象徴した小さな阿弥陀仏像六体が口から出る形式のものとして有名である。そのほか、運慶・湛慶の自作と称する肖像彫刻や、平清盛の像と伝えられる僧形坐像、弘法大師坐像、吉祥天立像、閻魔王坐像(以上、国重要文化財)などがある。12月13~31日には空也踊躍(ゆうやく)念仏が行われる。

https://kotobank.jp/word/%E5%85%AD%E6%B3%A2%E7%BE%85%E8%9C%9C%E5%AF%BA-152681

◆仏像解説

<国宝>
・木造十一面観音立像平安時代。10世紀頃の作風を示し、伝承のとおり、951年に空也が創建した西光寺の本尊像であると思われる。本堂中央の厨子に安置され、12年に一度辰年にのみ開帳される秘仏である。像高258cmの巨像でありながら、頭・体の根幹部を一材から彫り出す一木造とする。表情は温和であり、平安前期彫刻から平安後期の和様彫刻に至る過渡期を代表する作例である。歴史的にも重要な作例として1999年、国宝に指定された。

<重要文化財>
・本堂木造空也上人立像鎌倉時代、運慶の四男・康勝の作。僧侶の肖像彫刻は坐像に表すものが多いが、本像はわらじ履きで歩く空也の姿を表している。疫病が蔓延していた京の街中を、空也が鉦(かね)を鳴らし、念仏を唱えながら悪疫退散を祈りつつ歩くさまを迫真の描写力で表現している。空也は首から鉦を下げ、右手には鉦を叩くための撞木(しゅもく)、左手には鹿の角のついた杖をもっている。空也の口からは6体の阿弥陀仏の小像が吐き出されている。6体の阿弥陀仏は「南無阿弥陀仏」の6字を象徴し、念仏を唱えるさまを視覚的に表現している。六体の小像は針金でつながっている。

・木造僧形坐像(伝・平清盛像)鎌倉時代。平清盛とされる経を持った僧形の像である。木造地蔵菩薩坐像鎌倉時代。銘文はないが、寺伝、作風等から運慶作とされる像。運慶一族の菩提寺である地蔵十輪院から移されたとする伝承がある。理知的でさわやかな表情、切れ味するどい衣文などから運慶作とする説がある。

・木造伝・運慶坐像、伝・湛慶坐像鎌倉時代。日本仏像彫刻史上もっとも有名な仏師親子の肖像彫刻とされている。精悍な伝・湛慶像と、老いてまだまだ盛んな巨匠といった風貌の伝・運慶像とそれぞれの個性が表現されている。前記の地蔵菩薩坐像とともに地蔵十輪院に伝わった。

・木造四天王立像平安時代。本尊の十一面観音像とともに、空也による創建期の遺作である。宝物収蔵庫には4体のうちの持国天像と増長天像が安置され、残りの広目天像と多聞天像は京都国立博物館に寄託されている。4体のうち、増長天像のみは鎌倉時代の補作である。木造薬師如来坐像平安時代。天台様式がみられ、中信による中興時の像と考えられる。

・木造地蔵菩薩立像平安時代。六波羅地蔵堂に安置されていた。左手に頭髪を持ち、鬘掛(かつらかけ)地蔵と呼ばれ信仰されている。『今昔物語集』にもこの像に関する説話が取り上げられるなど、古来著名な像である。

・木造弘法大師坐像鎌倉時代。快慶の弟子長快 (仏師)の作

・木造閻魔王坐像鎌倉時代木造吉祥天立像鎌倉時代
その他、重要有形民俗文化財として、泥塔、皇服茶碗、版木、萬燈会関係用具二千百余点などがある。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E6%B3%A2%E7%BE%85%E8%9C%9C%E5%AF%BA

龍樹について
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-453.html

研究論文 - 神戸大学人文学研究科 三宅久雄氏の論文
http://www.lit.kobe-u.ac.jp/art-history/ronshu/10-1.pdf

8.長快

弘法大師坐像の製作者は快慶の後継者たる長快である。先にみたとおり、弘法大師坐像のベンチマークは、運慶の第4子、康勝の手になる東寺像だが、快慶一門でもこうした優れた作例を残しているのである。両像の作風は異なり、剛毅な康勝、柔和な長快といった要約をすると、いかにも運慶と快慶のステロタイプ化した相違を安易に連想しがちだが、小生は、むしろ施主の要望の反映の要素が強いという考え方をとる。

【以下は引用】

長快(ちょうかい、生没年未詳)は、 鎌倉時代の慶派仏師。

<略歴>

阿弥号は定阿弥陀仏。快慶の弟子だが、湛慶も補佐し法橋位を得たという。1256年(建長8年)、湛慶に従い奈良東大寺講堂で文殊菩薩像を制作したが現存しない。(この時、兄弟子の栄快が地蔵菩薩像を制作した。)蓮華王院本堂の千体千手観音のうち28体に1256年(建長8年)に長快が実験した旨を示す銘があり、もう1体には長快自身が結縁した銘がある。また、蓮華王院から移されたとみられる朝光寺の像にも「実検了/長快」の銘がある。

<現存作品>

・「弘法大師像」 六波羅蜜寺蔵 制作時期不明
・「木造十一面観音立像」 パラミタミュージアム蔵 1256年(建長8年)以前の作。右足柄の外側に「巧匠定阿弥陀佛長快」銘。師・快慶作の長谷寺の本尊・十一面観音像(現存せず)を8分の1のサイズで忠実に模刻したもので、長谷観音の余材で作られた。もとは、興福寺禅定院観音堂本像であった可能性が高い。

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