大和古仏探訪

京阪神を中心に内外の古仏についていろいろと書いてみたいと思います。

仏像彫刻試論6 肖像彫刻

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 肖像彫刻というジャンルは意図的にできたものではないだろう。もともと、仏像自身がストゥーパ(stûpa)という塔や仏足石などの<釈迦>周辺の文物から発して、次第に釈迦そのものを形象化して残す方向へとなっていった。釈迦ご本尊を彫るといった発想は、当初は畏れ多かったのかも知れない。したがって、ある意味で肖像彫刻の源流の一つは釈迦像にあるとも言える。
 同様に、日本での肖像彫刻、そのハシリは聖徳太子だったかも知れない。法隆寺釈迦三尊像の本尊や救世観音は、太子の姿を遷したとも言われる。そして、仏像は幅広く、そして分化して展開していく。仏は仏として、人は人として・・・


 ここでいう肖像彫刻はいわゆる如来や菩薩といった<仏>ではなく、生身の<人間>を表現したものと捉えよう。では、日本における肖像彫刻とはいかなるものか。初期の作品が究極の名品ということもある。あるいは、結果として名品が生き永らえたという言い方も可能かも知れない。全くの独断だが、唐招提寺 鑑真和上像こそ天平の名品であるとともにわが国肖像彫刻の最高傑作だろう。

 時代は下って鎌倉時代に、日本彫刻史上、これほどまでに深い表情を刻んだものなしとでもいうべき運慶工房のエッセンスを結集した無着世親の2像が造像された。鎌倉リアリズム、ここに極まれりといった風情の作品で、これに継ぐ彫刻群もしばらく世にでる。 
 各宗派の高僧、名僧の生前の姿を彫像として残そうという発想は理解できる。写真という便利な媒体もなく、日本での仏画はあまりリアルでないし、彫刻こそ具象的、立体的に表現ができ、かつ物理的にも長期保存が可能であった。平安末期からは、パトロンたる貴族や有力武家も彫ったし、仏師の「自画像」も彫った。だが、それはながくは続かず、その後、取り繕いようのない形式主義に陥り急速に廃れていく。それは肖像に限らずむしろ、仏像彫刻全般についての傾向であった。

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仏像彫刻試論5 石仏

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 最近、石仏の本に惹かれている。もっとも身近な仏さまであるとともに、野ざらしの石仏は風土とともに磨耗し、ながい年月をへて石くれに戻っていく。そう、「風化」していく。そこに魅力を感じる人も多いようだ。
 石仏の研究家は、一般の仏像研究者とはちがい、「石をいかす」という視点を特に大切にする。すなわち様式などを重視するよりも、彫刻家とながき生命を宿した石との関係性こそが大事であるという見方である。
 たとえば、立派な堂宇に鎮座する金銅仏と野辺に佇む石仏を比較すれば、前者は為政者が発願する場合が多いだろうが、後者は民間信仰の自然の発意が背景にあるといった違いがあるだろう。
 前者は儀軌などにそって、厳密に作造されることが当然だろうが、後者は風景に同化しそこにある石と人間(集落)などとの関係性こそが後世からみた関心の中心となる。そうした見地からは、様式史などは付随的な要素のひとつとみなされる。
 本を見ていると、日本にも、人里はなれた山中などには大きな磨崖仏があることに驚く。これは原始からの山岳信仰、その後、平安以降の密教の影響なども強いのだろう。石の宿す本源的な力にくわえて、大胆な造形美はときに素朴であり、ときに荒々しい。おそらく、一般人に見られることを想定はしていないながら、そこに苦労して足を運べば、誰にでもそのお姿を開放しているパラドックス。堂宇のなかの秘仏とは対極の存在であり、屋外だから写真撮影禁止などのこうるさい制限もふつうはない。そこからも石仏や良しの感覚はよくわかる。 

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仏像彫刻試論4 造像の技法と素材

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 飛鳥時代からほぼ天平時代まで、この時代の仏像探訪の楽しさはその造像技法の多様性にあるとも言えよう。銅造、塑造、乾漆造、木造の手法が駆使されたのがこの時代の特色である。

 仏像は大別してカッティングかモデリングでつくる。木や石を削って仏を彫りだすカッティング、塑像や乾漆像、金銅仏など、土や漆や金属を盛り上げて形をつくるモデリング。もちろん、両方の手法をともに用いる場合もある。日本の仏像彫刻が見事なのは、両手法においても最高の作品が残されていることである。

 塑像や乾漆像、金銅仏は飛鳥・白鳳・天平期に集中している。後世の模倣作もあるけれど、木彫での生産の合理化、低廉化によって、こうしたモデリング手法は次第に駆逐されていった。
 しかし、黄金期に残された作品は、他に代えがたい魅力をたたえている。法隆寺五重塔内の多くの塑像群、興福寺阿修羅像などの乾漆像、薬師寺薬師三尊、聖観音、野中寺弥勒菩薩などの金銅仏・・・、他にも多くの秀作が思いつくだろう。

【金銅造】
 まず、銅像(金銅仏)だが、これは飛鳥から天平時代に隆盛をみた。その後、すたれ室町時代以降に復古調のものが現れる。鎚ちょう仏(押出仏)もこの時代の特色であり、比較的簡便で多数のコピーをつくる技法としては、なかなかユニークな対応であったと思う。その一方、当時、いまでいう公害、労災にあたるが、鋳造にあたって工人、作業に携わる人々などに鉛害などがあったとも言われ、また、金銅仏の場合、鍍金には莫大な資金も必要であったことから、この技法が次第に使われなくなったとも考えられる。

【塑造】
 塑像は白鳳時代からつくられ天平時代にピークを迎える。石造もこの時代からつくられるが、大陸に比べて、石仏は後世の民間信仰の拡がりとともに特に江戸時代に栄えることになり、支配階級での利用は少なかった。金銅仏は、巨大なものは別だが、小さいものなら運搬もたやすく破損もしにくいことから、残存可能性が高い。塑像は一般に大きなものは、重く、金銅仏に比して脆い。火災や震災などの折に、運びだすことは難しいだろう。だからこそ、天平期の塑像がいまに残されているのは貴重である。

【乾漆造】
 乾漆像には大別して2種あり、木心乾漆、脱乾漆の手法があるが、これも天平時代に作像されて以降、すたれてその後は作られなくなった。乾漆像は、比較的、大振りにつくっても塑像にくらべて軽量で、運搬しやすいことから残されたものもあるだろう。その一方、漆は高価で大量生産には向かないといった弱点があり、それが、木造にとってかわられた主因とも言われる。

【木造】
 さて、木造では材質も重要な要素である。飛鳥時代は、楠(クス)、松がよく利用されていたようであるが、榧(カヤ)、栴檀(センダン)などをへて、藤原時代以降は檜(ヒノキ)がいまにいたるまで主要な材質となる。檜は虫がつきにくく吸湿性にも特性がある。当初は丸彫り、「一木造り」であったが、矧ぎの技術を磨き「寄木造り」という部材組み合わせの画期的な手法を編みだした。量産と標準化が可能となり飛躍的に生産性が高まった。

 木造彫刻は、檜を素材の中心に、土地土地で変化に富んだ春夏秋冬に耐えて育った「神木」「霊木」をもって、つくられた。木という素材が再生産可能であったことがなにより大きいだろう。しかも矧ぎの技術などを磨き、寄木造りという画期的な方法をあみ出した。これによって、標準化、量産化とともに、巨大な造像の可能性もひろがった。東大寺南大門の仁王像がその代表例である。

 また、注目すべきは、畿内だけではなく日本各地で、土地の資源(原木)を活用して仏像生産を伝搬させていったことである。国内の技術伝搬の速度がはやく、いまも立派な地方仏が多く残されている。

 木造彫刻は火災では燃えやすく、高温多湿では朽廃するし、虫害にも弱い。それゆえに、人から人に大事にそれを守ってきた。「ものづくり」の伝統は、一方で「もったいない」の精神を生み、ものを大切にする風土をつくってきた。これは広義のメンテナンス技術といっても良いかも知れない。

 それに比べると、前述のように石像や鉄仏は日本ではそう多くない。しかし、臼杵の石仏などを典型に、石像ないし石仏にも惚れ惚れする優品が残されている。こうした素晴らしい仏さまが、なぜ地方に、かくも大切に残されているのだろうか。いまは、中国各地の巨大な、繁多な石仏をインターネットほかさまざまな媒体で見ることができるが、これらは、そうした「本家筋」と比べても、小振りながら、優るとも劣らない品格をそなえた作品群である。

 カッティングだろうがモデリングだろうが、どちらの技法も、あらゆる素材もこなし優品を残せる。それは確かな腕、繊細で行きとどいた神経、民族(渡来人を含む)固有の品位ある価値観などに裏打ちされたものだろう。誇りをもって世界にひらかれた芸術品が、われわれの手元にあり、いつでも鑑賞することができる贅沢。これをもって、有り難いとしか言いようがない。

 日本の仏像彫刻が誇れるのは、その卓抜な技術力に加えて、豊かな芸術性を世界が認めていることにある。「芸術性」とはいかにも抽象的だが、その説明しにくいところにこそ、言いしれぬ独自性の根拠(国民的感性、ノウハウ)もあるのではないだろうか(たとえば、アンドレ・マルロー来日時のさまざまな日本芸術行脚論を読んでいて、その視点の斬新さが面白かった。国内議論では見えないものが外からのスパッとした切り口で覚醒されることもある。ヤスパース<広隆寺弥勒菩薩論>しかり、フェノロサ<法隆寺救世観音論>しかりである)。

 グローバリズムからの客観的な自己評価は重要である。飛鳥時代も、織豊政権下でも、明治維新も、人心同様、仏像についても甚大な影響があった。渡来人が飛鳥彫刻の旗手であった、戦国時代は比叡山焼き討ちはじめ仏像も大変な受難時代だった、同様に、明治維新直後の廃仏毀釈も激しい環境変化だった。しかし、仏像は多く失われながらも、しかし、しっかりとしぶとく残ってきたと言える。「ものづくり」「もったいない」の遺伝子はいまも脈々と継承されていると言えよう。  

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仏像彫刻試論3 政治との関係

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 仏像をつくる、祭るということは古代、中世にあって、いまとは比較にならないくらい重い政治的、祭儀的な意味をもっていた。ゆえに、それは時の政権の意思、庇護なくしてはなしえなかった。寺に仏像が祭られる以上、その寺がどのような位置づけで開山され、また社会的に機能したかが重要である。
 日本における造寺のはじまりは、蘇我一族によって主導された。596年法興寺(→飛鳥寺、日本書紀)、607年法隆寺(法隆寺金堂薬師光背造像記)などが創建されたのは蘇我馬子、厩戸(うまやど)皇子(→聖徳太子)らの皇族・蘇我ファミリーの仏教振興への強いリーダーシップあればこそである。日本書紀などの記述をどこまで信じるかどうかの問題は擱くとしても、587年蘇我VS物部の抗争(蘇我馬子による物部守屋討伐)が、崇仏、排仏を争点としてなされたと伝えられること自体の政治的な意味合いは実に大きい。

 その蘇我一族の強大な権勢を排除せんとしたのが中大兄皇子(→天智天皇)と藤原鎌足である。ここにも日本書紀の潤色があるかも知れないが、この二人の時代は661年白村江の敗戦など外交、内政上の非常な難局に直面していた。律令整備は独立国家としての存立上も不可欠であった。672年壬申の乱により大海人皇子(→天武天皇)の勝利は、その後、天武ー持統ー軽皇子(→文武)ー元明ー元正ー首皇子(→聖武)、光明子ー孝謙(称徳の重祚)まで約100年にわたり(政治的には別だが)「皇族系譜」としては<安定期>を迎える。

 そして、この100年こそ、いまにいたるまで、われわれがその遺産に感歎する白鳳・天平文化の象徴とでもいうべき仏像、建築の集積をみる。たびかさなる遷都については、以下のブログでも記してきたが、710年平城京(奈良)遷都後、はやくも同年(山階寺→厩坂寺→)興福寺、716年(大官大寺→)大安寺、718年(法興寺→)元興寺、薬師寺、728年(金鐘寺→)東大寺などが移設、整備され752年東大寺大仏開眼供養(続日本紀)で頂点を迎える。その後も756年正倉院(東大寺献物帳)、759年唐招提寺(伽藍開基記)などが続くが、この間の律令制の実行と鎮護国家論の影響は造像の背景として忘れてはならない。

 蘇我ファミリーを駆逐した中大兄は大海人にかわったが、もう一人の主役、藤原鎌足はその次男、不比等に見事に家督を譲り得た。この間の歴史を読むと、鎌足が周到に天智、大海人皇子の双方と関係を構築していたほか、669年の鎌足の死は壬申の乱の3年前であり、当時不比等が11才の幼少であったことが、ある意味エアポケット状態で結果的には良かったと思う。不比等が歴史上登場するのは、この後20年後の31才からだが62才(一説には63才)の逝去までの約30年間の政治的台頭はすさまじい。これも下記のブログに記したが4人の息子は有力各家をなした。3人の娘は、宮子(文武夫人・聖武母)、光明子(聖武皇后・孝謙母)、多比能(橘諸兄室)という最強力な「布陣」である。そして不比等なくしては、この間の「皇族系譜」の安定性はなく、それゆえ類いなき文化振興もなかったといえよう。 

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仏像彫刻試論2 歴史的文脈

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 戦前からの仏像研究にはいくつかの留意が必要な気がしている。仏像における「様式論」の展開は、おそらく戦前、日本が相当に先行していたのではないか。フェノロサ、岡倉天心が神としての仏像の封印を解き、法隆寺夢殿の「重い扉」を開けて以降、なんといっても研究素材が国内に多く残されていたのは日本である。修理・修復とともに、その研究も急速に進捗をみることになる。

 さらに、こうした研究は、好むと好まざるとにかかわらず、明治以降の日本の朝鮮半島および中国大陸への軍事的侵攻、政治的支配の影響を受けたであろう。石窟仏を中心とする彼の地の圧倒的な集積・物量は、その細い伝搬ルートによって、「極東」の日本にもかつて伝えられた。さらに、それを伝え、育み、日本仏像彫刻史の基礎を築いたのは、間違いなく渡来人、帰化人の高度な技術者集団であった。日本の研究者は戦前から、統治地であった朝鮮で、中国で、そうした事実を多く知ったであろう。

 だが、戦前の日本彫刻研究の文献を読むと、この点の記述はかなり「微妙」である。もっとはっきりと言えば、朝鮮、大陸からの伝搬、舶載はあったが、それが日本において胚胎して、日本独自の仏教彫刻文化が花開いたといった「史観」をかなり強く感じる。そういう時代であったのだろうが、一度、形成された「学派」は、大学における学問の継承性から、そう簡単には軌道修正できない。その影響は戦後も色濃く残る。

 日本的な特色の抽出という、やや牽強付会の心理と論理が支配したのは、ひとり彫刻研究だけではないだろうが、その視点からは天平以降の彫刻を高く評価し、また、残存作のすくない定朝こそが日本的な特質の表象となり、さらに、康慶、運慶、快慶、湛慶ら慶派彫刻をもって日本のルネサンスに至るというシナリオが形成される。戦後も、こうした一種の「発展史観」はマルクス主義の影響もあってか続くことになる。
 その一方、戦前、戦後直後の学界における飛鳥・白鳳彫刻への相対的な軽視は、こうした視点から自分が感じたバイアスのひとつである。

 こうした一種の<ドクサ>に真っ向から反発したのは梅原猛であったと思う。彼は仏像について、「様式論」からも「文献史学」からも一定の距離をおいて「文明論」からアプローチしようとした。また、久野健は、X線透過という新手法を仏像研究に導入したのみならず、地方仏の発掘や海外事例比較を通じて、新たな研究法を提起した。
 また、学界の閉鎖性、本質的なモノを言わぬ体質に痛烈な批判を加えたのは保田興重郎である。
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-68.html

 最近、評価できるのは、例えばNHKの特集で、古代から中世の歴史に関して、日韓の学者が討論を行うことで比較研究の重要性を示すことである。こうした姿勢は仏像研究でもよりあっていいと思う。日本の資金で、インド、パキスタン、アフガニスタン、中国、韓国などから専門家を招聘して、日本の仏像、工芸品などを見てもらい、共同研究を是非やってみてほしい。凝り固まった<形式知>を考え直す斬新な発想がここから出てくるのではないかと秘かに期待している。

(参考http://www.isr.or.jp/TokeiKen/pdf/gakusai/1_14.pdf

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