大和古仏探訪

京阪神を中心に内外の古仏についていろいろと書いてみたいと思います。

ミャンマー地震 仏教遺跡が損壊

ミャンマー バガン 
【以下は引用】
ヨーソー僧院(バガンから車で1時間40分、文化財保護地区に指定されているサレー地区の寺院)
http://www.sara-tour.com/tour/tour_bagan.html
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ミャンマー地震 仏教遺跡が損壊

毎日新聞2016年8月25日 東京夕刊

【ニューデリー金子淳】ミャンマー中部で24日にあったマグニチュード(M)6・8の地震で、ミャンマー情報省は同日夜、震源に近い中部バガンで少なくとも94のパゴダ(仏塔)が損壊したと明らかにした。バガンは世界3大仏教遺跡の一つとされ観光地としても人気が高いだけに、観光産業への影響が出る可能性がある。

 ロイター通信によると、地震では観光客1人も負傷したという。震源地付近では建物の倒壊に巻き込まれるなどして少なくとも4人が死亡している。
http://mainichi.jp/articles/20160825/dde/007/030/036000c

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ミャンマー地震 ユネスコ専門家が被害受けた仏教遺跡を視察

8月27日 7時11分 NHK

ミャンマー中部を震源とする地震で、大きな被害を受けた世界的な仏教遺跡のバガンに、ユネスコ=国連教育科学文化機関の専門家が入り、軍事政権時代にコンクリートなどを使って遺跡の修復や復元を行ったことが被害を大きくした可能性があるという分析を示しました。

ミャンマー中部を震源に今月24日に発生したマグニチュード6.8の地震では、少なくとも3人が死亡し、世界的な仏教遺跡のバガンも大きな被害を受けました。
これを受けて文化遺産の保護に取り組むユネスコの専門家が、26日午後、現地入りし、被害が深刻だった寺院を視察しました。
専門家は1000年近く前に作られた寺院の基礎部分が、ほぼ無傷な一方で、軍事政権時代に復元された鉄筋コンクリート製の塔が崩れ落ちていることを確認し、当時の遺跡の修復や復元の方法に問題があり、被害を大きくした可能性があるという分析を示しました。
また、損傷した仏塔などの修復や復元についてはまず安全性の確保と慎重な調査が必要だとして、ミャンマー政府への勧告には数か月かかる見通しを示しました。
ミャンマー政府は、かねてよりバガンの世界遺産への登録を目指してきましたが、今後の対応については地震の被害調査やユネスコの勧告を受けて検討するものとみられます。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160827/k10010655831000.html

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ミャンマー地震で崩れ落ちたバガン遺跡

2016 年 8 月 26 日 08:11 JST

ミャンマー中部で24日起きたマグニチュード(M)6.8の地震で、仏教遺跡のバガンが大きな被害を受けた。11世紀から250年にわたって1万を超える仏塔や寺院が建てられ、現在残るのはわずか2200程度だが、多くが地震で損壊した。

http://jp.wsj.com/articles/SB10353882736862073912504582274080133166176

ミャンマー バガン 2

韓国国立中央博物館、鉄造阿弥陀を初公開

韓国国立中央博物館、鉄造阿弥陀

韓国の地方仏とのこと。鉄仏と伝えられるが、写真で見る限り保存状態は良さそうだ。
韓国国立中央博物館HPはありがたいことに日本語版もあるので以下も参照。
http://www.museum.go.kr/site/jpn/relic/represent/view?relicId=1200


【以下は引用】
韓国国立中央博物館、鉄造阿弥陀を初公開
高麗室・渤海室を新装、実生活の遺物など立体的な展示

展示場の中央に結跏趺座(けっかふざ)している鉄の仏像は、近所のおじさんのようにほのぼのとて見えた。サザエの殻のように結い上げられた頭、平たい顔…。江原道原州で出土した高麗の「鉄造阿弥陀(あみだ)仏」だ。胴や頭の一部が壊れ、コンクリートで埋められていたが、保存処理を経てきれいに生まれ変わった。

 ソウル市竜山の国立中央博物館(金英那〈キム・ヨンナ〉館長)は最近、新装成った高麗室でこの仏像を初めて公開した。台座を低くして観客の目の高さに合わせ、後ろ姿まで立体的に見ることができるように展示した。ソ・ユンヒ学芸研究士は「高麗の地方勢力を動員して作った鉄仏。首都開京(現在の開城)の華麗かつ貴族的な文化とは異なる土俗的な仏像の顔が、まさしく高麗の地方文化の特徴」と語った。

 同博物館は今回、常設展示館の高麗室と渤海室を新装した。展示遺物およそ770点のうち、230点余りが初公開。ガラスの陳列スペース場を新たに作って照明も改善し、一段と引き締まった姿になった。2009年の新設後、初めて改編された高麗室は、時期により第1室と第2室に分けられた。第1室は、開京の貴族文化と、明確な地域色を有していた地方文化とを対比した展示になっている。14年に国立中央博物館会が日本から購入して同博物館に寄贈した螺鈿(らでん)の経箱、青磁、貴金属などは、高麗王と門閥貴族の洗練された文化を物語る。一方、鉄造阿弥陀仏に代表される地方の遺物には、土俗的でありながらも個性の強い、高麗の味が感じられる。

許允僖(ホ・ユンヒ)記者
朝鮮日報/朝鮮日報日本語版
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2016/01/29/2016012901234.html

中国の仏像 成都で新発見

◆成都2014仏像発見

◆◆成都2014仏像発見2

 中国にはまだまだ、さまざまな仏像の発見があるだろう。地中に眠っている石仏は今後も出土する可能性がある。その一方で、仕組まれた贋作もあるだろう。そこも中国の逞しさかも知れない。

【以下は引用】
成都で1000年前の"金メッキ仏像"が出土

成都市文物考古研究所は15日、「11月に入ってから、もともと成都市水表場(水量メーター工場)だった青羊区下同仁路126号の発掘現場で、石でできた仏像彫刻と関連文化財80点あまりが出土した」と発表しました。

 今回の出土品の中には金メッキが施された珍しい仏像彫刻が含まれています。出土品の多くは、今から1500年前の南北朝時代から唐の時代の間に作られたものと見られています。(殷、高橋敬)

http://japanese.cri.cn/881/2014/12/16/142s230292.htm

中国の仏像遺産

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最近は中国の石窟仏像に関してもインターネットで豊富かつ最新の情報をうることができる。以下はよく見る2つのサンプルを掲載。

(以下は引用)
中国宗教 ー仏教の三大石窟

◆大同雲岡石窟
雲岡石窟は中国北部の山西省大同市街の西方16キロメートルの武周山南麓に位置します。石窟が初めて掘られたのは北魏興安二年(西暦453年)の頃で、北魏の首都が洛陽に遷都される(西暦494年)前にほぼ現在の形になっています。石窟肖像作りの期間は正光年間(西暦520~525年)にも及びました。石窟は山肌の石壁に作られたもので、東西1キロにわたります。雲岡石窟は石像の雄大さと内容の豊富さで現在でも高い芸術的魅力を持ちます。現存のメインの洞窟は45窟、石像は51000体にのぼり、最大の石像は17メートルもあり、一番小さいの数センチしかありません。

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◆洛陽龍門石窟
龍門石窟は中国の石窟芸術の宝庫のひとつであり、中国河南省洛陽市の南方13キロ、伊河の両岸にある龍門山と香山の丘にあります。龍門石窟は、北魏の孝文帝が洛陽に遷都したころから造営が始まり、東魏、西魏、北斎、隋、唐5つの時代を経過して造られた石窟で、南北1Kmにも及びます。現存の洞窟は2345窟、石像は10000体を超え、彫刻板など2800枚にのぼります。造営期間が非常に長くて、経過した時代も長いため、大量に実在する石窟や石像と文字資料を残すことができました。それらは各側面から中国古代の政治、経済、宗教、文化など様々な分野の進展を反映しています。中国石窟芸術の創出と発展に偉大な貢献をしました。2000年、竜門石窟は、世界文化遺産に登録されました。

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◆敦煌莫高窟
紀元前3世紀、阿育王によって仏教が広められ、仏教に関する芸術はインドから広まってきました。紀元前1世紀、ギリシア式仏教芸術はガンダーラを皮切りに、世界各国で広く知られました。二世紀、アフガニスタンから中国新疆に伝わり、南路の民豊漢墓で漢代ギリシア仏象と中国龍の模様が発見され、また、諾羌の寺院の遺跡で須大本生の物語を描いた絵が発見されました。月日が経つと共に、龟兹特有の菱形物語絵が生じました。龟兹芸術は、漢絵をベースに、インド芸術が含まれながら、アフガニスタンからの影響を受けて融合した西洋スタイルの芸術です。

敦煌の石窟芸術が始まったばかりの頃、表現された内容殆どは仏陀の説法や釈迦の生涯――仏教宣伝や善行について―本生物語、仏陀が衆生に悟りを開くことに関する事績―因縁物語などでした。莫高窟は、建築、塑像と壁画という三つの芸術スタイルの見事な結合と融合でした。現存する最大規模の仏教芸術宝庫でもあり、1991年「世界文化遺産」に認定されました。莫高窟は十数の時代においての東西文化の交流と融合を体系的に記録しており、東西文化の芸術交流の原点はここにあります。

ほかに、四大仏教名山、仏教名山(二)、仏教の寺院
テーマ別にも、道教、概況、斉雲山、龍虎山、武当山、青城山、ほかの道教名山、道観
       イスラム教、概況、杭州鳳凰寺、揚州仙鶴寺、泉州麒麟寺、広州懐聖寺
       エイティガールモスク、西安化覚巷モスク、西寧東関モスク などの記載あり

http://www.arachina.com/culture/religion/grottoes.htm

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(以下は引用)
貴重書で綴るシルクロード
◆トゥルファンの仏教信仰:ベゼクリク千仏洞
◆大草原に生きた馬たち:モンゴル馬と汗血馬
◆玄奘に思いを馳せたスタイン:ダンダン・ウィリク
◆西から東へ伝わった仏教文化:キジル石窟と鳩摩羅什
◆世界の人々を魅了する大石窟寺院:敦煌莫高窟
◆「さまよえる湖」の謎を解いたヘディン:ロプ・ノールと楼蘭
◆寺格空白のシルクロード:青海の道
◆文字が語りかける民族意識:カラホトと西夏文字
◆探検に人生をかけた人々:情報と名誉をめぐる競争
◆シルクロードの全体像:時間・空間・主題の観点から

http://dsr.nii.ac.jp/rarebook/01/

<オマケ>
サイトによってはドイツの博物館に飛ぶことももちろん可能!
http://www.smb.museum/smb/home/index.php

テーマ:文明・文化&思想 - ジャンル:学問・文化・芸術

MIHO美術館 ガンダーラ仏

1ガンダーラmiho
http://miho.jp/japanese/index.htm

 時がたつのは早いもので、MIHO美術館をO氏ご夫妻に案内してもらって5年がすぎた。そのときは蟹満寺について書いた。

http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-59.html

 MIHO美術館のことを思い出す。ここの舶載彫刻の展示は圧倒的だ。
 「はじめ」が究極とでもいうべきか、ガンダーラ仏の秀でた造形力は、2~3世紀の仏像の「始原」がいわば完成にちかいイメージをもっていることを示す。われわれがガンダーラ仏に接したときの言い知れぬ感嘆の背後には、そういった思考が瞬時に想起され、かつそれに困惑するからではないだろうか。
 もちろん、そのお顔は、よく指摘されるとおり、古代からのギリシア彫刻を連想させ西欧人を彷彿とさせる。モンゴロイドのわれわれの同朋とは異質なエキゾチズムがそこにある。螺髪など部分的にも異なる点はあるが、にもかかわらず総じて仏像の仏像たる存在感は、まさにガンダーラ仏に発して今日にいたっている。全体への着想力、瞑想の姿の神々しさ、印相の表現力、古拙の微笑のもつ意味など謎とともに、強い説得力があるからこそ、われわれはガンダーラ仏に惹きつけられると思う。


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仏立像 パキスタン ガンダーラ 2世紀後半期 片石 H-250

【以下は全て引用】

 総高250センチメートル。ガンダーラ美術の作り上げた最も大きな仏像と言われる、パキスタン-ペシャワール博物館の仏陀立像(頭光の上まで263センチメートル)に比肩するものと言えるでしょう。ガンダーラは歴史的に民族、王朝の激しく交替してきた地域です。千七百年以上遡る古代、彼の地がクシャーン朝インドとササン朝ペルシャとの抗争の狭間で小国に引き裂かれて行った頃、この大きな仏像はそれだけ多くの人々の救いを祈願して造られたものではないかと思わずにはいられません。
うつ向いたそのまなざしの懐に入る時、何とも言えぬ優しく静謐な雰囲気に包まれるのを覚えます。
このうつ向いていると言うことはこの像が本来高い位置に祀られていた事の証拠であると思われます。礼拝者はこの像の下からその慈愛に満ちたお顔を拝したことでしょう。そのお顔、そのまなざしは他ならぬ礼拝者に注がれています。
同時代の寺院内部を装飾した小さな仏伝(釈迦の生涯の物語)浮彫には、民衆の中で遊行する釈迦が描かれています。そのお顔、まなざしは拝跪するものの顔、まなざしに合わせうつ向けられています。その体勢そのものが拝跪するものに注がれているのです。
大きさこそ違え、これはこの大像とそれを実際に拝する者との関係に他なりませんその許に拝跪する者は全て喜び迎えられるそんな大変慈愛に満ちた聖堂の主であられたのでしょうか。
釈迦がさとりをひらかれ仏陀となられた時、これは他人に話しても誰もわかってくれる人はいないだろう、このまま黙っていようと思われました。
世界の主-梵天はこのままでは世界が滅びると嘆き、釈迦如来の前に現われ跪き拝してこの真理を人々に説くよう三度懇願しました。
そこで釈迦は生きとし生ける者への深い哀れみの心から説法に立ち上がられたのです。この像の左足は僅かに前方に出ています。
直立不動ではなく正に人々を救うために歩むその姿を彷彿とさせるものがあります。この救われるべき拝跪する者に対し全身を注ぎ込む釈迦如来、そのお顔は大変慈しみに満ちています。

ガンダーラM7

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仏頭 ハッダ/タキシラ 4-5世紀 ストゥッコに彩色 H-26.5 W-17.6

 この仏頭はおそらく等身大以上の像だったと思われる。彩色されたあとと、全体に朱線が残っていが、唇の朱彩は非常に鮮やかなので、当時のものではないであろう。形式的な頭髪から考えると、この像は型を用いて作られたものであろう。右耳は別に作って接着し、左耳は失われた痕が残っている。ハッダやタキシラのストウッコ彫刻は、固定した木材に縄を巻いたものを芯にして、植物繊維を混ぜた粘土を盛り上げて全体の形を作り、きめの細かい土で表面を整えていく。さらに面部は上質の白土で仕上げて彩色を施した。粘土を盛り上げるため、目、鼻、口などの細部を簡単に成形出来、柔らかい素材の肌合いが肉体や布の質感を表すのに適していた。顔や腕や胴といった部分毎に型を用いる事も多く、変化に富むポーズの像を大量生産する事が出来た。この製法は中国や日本の塑造彫刻と基本的に一致している。

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転法輪印仏坐像 産地 ハッダ/タキシラ 時代 4-5世紀 素材 ストゥッコに着色 寸法 H-78

 ガンダーラ美術の後期に栄えたストウッコ(塑造彫刻)の典型的な例であるこの作品は結跏趺坐し、両手の親指と人差し指の先端を合わせて輪を作り、他の指を軽く曲げて甲を見せ、右手を上に左手を下にして腹前に構えている。この印相は転法輪印と呼ばれ説法を意味し、座像のみに限られる。波打つような長髪を頭上で束ねて肉けいとし、まとった大衣の深く浅く様々に刻まれた点は、とても自然な表現になっている。頭髪や衣の部分に比べて面相部の土は粒子が柔らかく、上質の白土で仕上げられている。白ごうは刻まず、朱線の小さな円で示され、瞳にも淡い墨の彩色がしてある。その他にも随所に朱が残っているが、この彩色が当初のものかは確認できない。部分的に頭髪には灰色、衣は淡緑色を帯びている事も分かる。

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燃燈仏授記図浮彫 産地 ガンダーラ地方 時代 3-5世紀 世紀 3-5c 素材 片岩 寸法 H-69.3

 釈迦菩薩(前世の釈迦)がバラモンの青年修行者メーガであった時,燃燈仏から来世において悟りを開き釈迦仏となるであろうとの授記(予言)を与えられた説話を表現している。燃燈の原語はディーパンカラ(Dipankara)で,定光,錠光などとも漢訳される。この説話は一般に燃燈仏本生と呼ばれるが,本来の本生話(釈迦の前世の物語)には含まれず,むしろ釈迦の生涯の物語である仏伝の冒頭に位置する性格をもっている。

 ある日,都に燃燈仏が現れることを知ったメーガは是非燃燈仏に会って花を捧げたいと思い立つ。しかし,町の花はすでに国王によって集められていた。その時,彼は脇に水瓶を抱え7本の蓮華を持つゴーピーという少女に出会う。彼女はなかなか花を譲ってくれないが,メーガは懇願の末に有金すべてを投じてようやく5本の蓮華を得た。国王その他の人々が燃燈仏に散華するが,メーガが捧げた5本の蓮華のみが空中にとどまり燃燈仏の頭光を飾った。更にメーガは,燃燈仏の足が泥水で汚れないように,着ていた衣を地面に広げ,その上に自らの髪を解いて平伏した。燃燈仏はメーガに対し,来世に仏陀となるであろうとの予言を授けた。メーガは喜びのあまり躍昇した。

 燃燈仏による釈迦菩薩への授記を記す経典は多数あり,それぞれ物語の内容に多少の違いがあるが,その骨子はほぼ共通している。*1 すなわち,購華,散華,布髪,空中躍昇の4点である。空中躍昇の記述はないものもある。本作品では,向かって右下に購華,左に散華,その下に布髪,更に上方に空中躍昇の諸場面を配している。右上に浮かぶ人物は,手に金剛杵を持っているので,帝釈天と考えられる。

 燃燈仏授記本生図の作例には幾つかの形式が見られるが,叙述的性格の強いものと,燃燈仏が他より明らかに大きく表され,その尊像的性格が強められたものとに大別できる。*2 本作品は後者に属する。特にカーブル博物館蔵のショトラク出土の作品(no.64-7-13)に酷似している。本作品の左右相称の構図,正面向きの動きの少ない姿勢,丸い顔,ずんぐりとして均衡を欠く体躯,紐を貼り付けたような形式化した襞の表現などは,アフガニスタンのカーピシー地方のショトラクやパイターヴァーの遺跡から出土する作品の特色である。また仏陀の両肩の火炎も,この地方で好まれた図像である。

1 安田治樹/ガンダーラの燃燈仏授記本生図/仏教藝術157号
2 注1前掲書

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禅定印仏坐像 産地 パキスタン ガンダーラ 時代 2-3世紀 素材 片岩 寸法 H-68 D-23 W-53.4

 無装飾の円形の頭光と、波打つような長髪を紐で結って肉けいとし、眉間に小さな突起を刻んで白ごうとしている。口髭をたくわえた面貌は落ちつきがあり、目を半ば閉じて深く内面を見つめている。均衡のとれた体躯に大衣をまとい、両足を隠している。台座正面は両端がアカンサス柱頭で、その間には11体の像を刻んでいる。中央に樹下に菩薩が禅定印を結んで結跏趺坐し、その両脇対称に右手で施無畏印を結び左手を垂下する仏立像、右手を垂下し左手は肩口に挙げて衣端を握る仏立像、右手を肩口に挙げ甲を見せ垂下した左手に水瓶を執る菩薩立像、右手を胸前に構え左手は肩口に挙げて衣端を握る仏立像、合掌する供養者立像であることが分かる。これら9体の像は弥勒菩薩の左右に仏陀が立つ3組の三尊像と見ることが出来、どの様な思想背景があるか興味深いが、このような例は他にないため、意味は未だ不明である。

http://www.miho.or.jp/japanese/index.htm

(参考)
http://daishinji.net/essay/gandhara.shtml 【“MIHO美術館 ガンダーラ仏”の続きを読む】

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