大和古仏探訪

京阪神を中心に内外の古仏についていろいろと書いてみたいと思います。

『仏像 祈りの美』ほか 平凡社カラー新書

今回は以下の本(いずれも平凡社カラー新書)のシリーズを4冊取り上げる。

佐和 隆研『仏像―祈りの美』 (1974年):<佐和2>
安東 次男 ・上司 海雲 『東大寺』 (1977年) <安藤・上司>
清水 公照 ・佐多 稲子『お水取り』(1977年) <清水・佐多>
上原 和『斑鳩・西の京 』(1979年)<上原>

 まず、<佐和2>であるが、これは、<梅原>(望月信成、佐和隆研、梅原猛『仏像―心とかたち』NHKブックス20、『仏像 続―心とかたち』NHKブックス30 1965年)で紹介した如来、菩薩、明王、天の順にそって解説する方式をとった佐和の単著であり、また、<佐和>(佐和隆研『日本の仏像』至文堂 1963年)の路線を継承し、密教文化に詳しい筆者の特色の良くわかる1冊である。

 <安藤・上司>は東大寺の歴史を安藤を中心に述べた本であり、<清水・佐多>は二月堂のお水取りを中心に法事を語った本で、いずれも興味深いが仏像について参考になる要素は限定的である。

 <上原>は『斑鳩の白い道のうえに―聖徳太子論 』(1975年)で亀井勝一郎賞を受賞しており、美術史に限らず幅広いアプローチから法隆寺論などを展開する。このほかにも『聖徳太子―再建法隆寺の謎 』講談社学術文庫(1987年)、『大和古寺幻想 飛鳥・白鳳篇』講談社(1999年)、『世界史上の聖徳太子―東洋の愛と智慧』NHKブックス(2002年) などの近著もあり、和辻、亀井の後継路線を歩み、かつ亀井から聖徳太子論を引き継いでいる印象。語り口が柔らかく読みやすい。本書では北京、西安、敦煌の随筆部分が興味深い。

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天平彫刻の魅力(1):不空羂索観音菩薩立像

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不空羂索観音菩薩立像(国宝): 東大寺法華堂(三月堂)

 法華堂の本尊。法華堂は、不空羂索観音を本尊とするところから古くは羂索堂と呼ばれていたが、毎年3月に法華会が行われたことから、のちに法華堂と呼ばれるようになった。像は、天平文化のきらびやかさを想起させる堂々たる体躯で、悩める人々をどこまでも救いに赴こうとされている。http://www.naranet.co.jp/cgi-bin/yak-ken-l.asp

 ここでは表記の不空羂索観音について考えてみたい。三月堂に入ると正面におわすのが本尊たるこの大きな仏様である。堂々とした体躯、その峻厳な相貌は、見る者に独特の威圧感を与え、多くの美術史家も、はじめはたじろぎ、どう接近してよいのか悩むと書いている。しばし頭を巡らすとそもそも不空羂索観音とは何かを知りたくなるだろう。

不空羂索観音(ふくうけんじゃくかんのん、ふくうけんさくかんのん)は、仏教における信仰対象である菩薩の一つ。サンスクリットではAmoghapasaという。六観音の一つに数えられることもある。「不空羂索観音菩薩」、「不空羂索観世音菩薩」などさまざまな呼称がある。

「不空」(Amogha)とは「空(むな)しからず」の意であり、「羂索」は鳥獣を捕らえる網のこと。転じて不空羂索観音とは、あらゆる衆生をもれなく救済する観音の意である。多面多臂の変化(へんげ)観音のなかでは、十一面観音に次いで歴史が古い。漢訳経典のなかでは隋時代の6世紀後半に訳された「不空羂索呪経」に初めて現われ、唐の菩提流志(ぼだいるし)が8世紀はじめに訳した「不空羂索神変真言経」にも像容等がくわしく説かれている。

この観音像の作例はインドや中国には乏しく、日本でもいくつかの有名な像があるとは言え、作例はあまり多くはない。 よく知られているものの一つは、インドネシアのジャワの王朝シンガサリ朝のヴィシュヌワルダナ王の像がこの姿の仏像として刻まれている。

像容は一面三目八臂(額に縦に一目を有する)とするのが通例で、立像、坐像ともにある。胸前で二手が合掌し、二手は与願印を結ぶ。その他の四手には、羂索や蓮華・錫杖・払子を持す。代表作としては、東大寺法華堂(三月堂)本尊の立像(奈良時代、国宝)が著名である。この像の存在自体が、奈良時代に不空羂索観音信仰があったことを如実に物語っている。西国札所である、興福寺南円堂本尊の坐像(鎌倉時代・康慶作、国宝)も著名である。

不空羂索観音を本尊とする寺としては、奈良の新薬師寺の近くにある不空院が知られる。
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E7%A9%BA%E7%BE%82%E7%B4%A2%E8%A6%B3%E9%9F%B3" より作成

 少し迂遠になるが、まず如来から思い起こそう。「釈迦如来」からはじまったと言われる仏像信仰は、その後、「阿弥陀如来」(死後、天国へ衆生を案内してくれるツアー・コンダクター的存在)、「薬師如来」(現世で病苦などから救ってくれる医師、薬剤師的存在)などの役割分担がすすむが、相対化された如来のなかにあって、その「チャンピオン」たる「盧舎那仏」(大仏)が想定される。さらに、如来、菩薩、明王、天のヒエラルキーの頂点に立つ親玉のような如来が考えだされそれが「大日如来」である。

 このヒエラルヒー的な考え方は菩薩でも同様に考案される。如来になるために修行中の「弥勒菩薩」、「観世音菩薩」(観音)は菩薩ながら、阿弥陀如来と同様な役割が期待され強い信仰を集める。阿弥陀如来の脇侍としての観音、勢至菩薩からいわば分家・独立したようなものであろうか。さらに、この観音が、十一面「観音」や千手「観音」、如意輪「観音」など6、7種類に分化する。
 こうした分化から不空羂索「観音」も生まれるが、これは上記「不空羂索神変真言経」(全30巻)を根拠とし、如来とは独立して独自に衆生を救うことができるという非常に偉い菩薩と位置づけられる。ここではじめてこの仏様の有り難さが認識されることになる。


漆と麻布を主材料にした像本体は3.6メートルあり、体つきもがっちりしている。それでいて、しなやかな印象も受けるのは、太ももあたりで交差する衣の流れるような造形からだろうか。
 実は背中の肩口にも、さも柔らかそうな衣のひだが表現されているのだけれども、残念ながら正面からは見えない。見えないところまでつくり込む熱意に、あつい信仰が感じられる。
 額には縦に目があり、腕は8本で、縄のようなものも持つ。獲物を絡め取る羂索と呼ばれる古代の狩猟具という。三つの目で広く見通し、悩める人々には羂索を投げかけ救い出し、平和を守ると信じられた。

 この像の制作年代や場所については議論があり、制作の背景も、大仏建立の成功祈願や政情不安の解消など諸説ある。いずれにせよ、写実的な造形などからみて8世紀半ばごろ、中国・唐の影響も受けてつくられたことには異論はなさそうだ。
(編集委員・森本俊司、協力は京都大大学院・根立研介教授)http://www.asahi.com/travel/hotoke/OSK200605160025.html

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飛鳥・白鳳彫刻の魅力(9):法隆寺宝物館 N193

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 東京国立博物館法隆寺宝物館の一角にN-193「如来立像」が佇む。献納宝物の金銅仏のなかにあって唯一の木造である。材質はクスノキで白鳳期の作といわれ木製の後背やそれを支える鉄製の支柱も当初からのものと言われている。
 同館のなかの資料室で調べても、あまりこの像のプロフィールの詳細な情報はない。しかし、以前からこのN-193の仏様は気になっている。なぜならば、横から見るとその像は百済観音によく似ていると思うからである。

 その百済観音(写真)については以下の解説がある。


■百済観音(くだらかんのん):「国宝百済観音像は、飛鳥時代を代表する仏像で、広隆寺所蔵の弥勒菩薩像などと ともに、昭和26年に初めて国宝に認定された作品の一つです。
 像の高さ2.09m、八頭身の長身で、樟の一本造りで両腕の肘からさきと水瓶 、天衣など別材を継いで造っています。宝冠は線彫りの銅版製で三個の青いガラス玉で飾られています。独特の体躯の造形を有し、杏仁形(アーモンド形)の目や古式な微笑みをたたえる表情は神秘的であり、多数の随筆等によって紹介されるなど、我が国の国宝を代表する仏像の一つです。
 本来、百済観音は、虚空像菩薩として伝わっていました。虚空とは、宇宙を意味し虚空菩薩は宇宙を蔵にするほど富をもたらす仏様ということなのです。
その宇宙の姿を人の形に表したのが百済観音だというわけです。
 もともと、この像は金堂の壇上で、釈迦三尊像の後ろに北向きに安置されていたもので、今は新築された百済観音堂に安置されていますが、この像の伝来は謎に包まれています。法隆寺の最も重要な古記録である747(天平19)年の「法隆寺資財帳」などにも記載がなく、いつ法隆寺に入ったのかわかっていません 。1698(元禄11)年の「諸堂仏躰数量記」の金堂の条に「虚空蔵立像、七尺五分」と、初めてこの像についてと思われる記事があらわれ、江戸時代、1746(延享3)年、良訓が記した「古今一陽集」に「虚空蔵菩薩、御七尺余、此 ノ尊像ノ起因、古記ニモレタリ。古老ノ伝ニ異朝将来ノ像ト謂ウ。其ノ所以ヲ知 ラザル也」と記されているといいます。
 明治になって、それまで象と別に保存されていた、頭部につける金銅透彫で瑠璃色のガラス玉を飾った美しい宝冠が発見され、この宝冠に観音の標識である化仏 があらわされていることから、虚空菩薩ではなく観音像であるとされるようになりました。いつしかこれに「百済国将来」という伝えがかぶせられて「百済観音」とよばれるようになったということです。しかし、作風からみて百済の仏像とはいえず、また朝鮮半島では仏像の用材に用いられていない楠の木でできていることから、日本で造られた像であると見られています」
http://www.tabian.com/tiikibetu/kinki/nara/horyuji/horyuji4.html

 N-193も楠製だが、この時代の多くは同様でありこれはあまり参考にはならない。体躯のバランスは大違いで長身痩躯の百済観音に対してN-193は小像ながら中肉中背でやや下半身に重心がかかった感じで作造されている。服装、衣紋も異なる。
 しかし目元および横顔のラインは実に良く似てる。また体躯の線のカーヴも横から見ると結構似ているように観察できる。後背は、百済観音とN-193では、支柱の材質こそ異なれ、これも同種の形式であり、横のラインの近似の印象の一因になっていよう。
 百済観音に特徴的な指先は、N-193は後捕でありこれは比較のしようがないが、作造時期はともに白鳳期であり共通している。同じ仏所、工房の作であろうか。興味津々である。

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飛鳥・白鳳彫刻の魅力(8):法隆寺宝物館

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 東京国立博物館法隆寺宝物館には学生時代から何度も足を運んでいる。同館は名前のとおり、なんとも贅沢な飛鳥彫刻などの「宝庫」である。

 ここには、「明治11年(1878)に奈良・法隆寺から皇室に献納され、戦後国に移管された宝物300件あまりを収蔵・展示しています。これらの文化財は、正倉院宝物と双璧をなす古代美術のコレクションとして高い評価を受けていますが、正倉院宝物が8世紀の作品が中心であるのに対して、それよりも一時代古い7世紀の宝物が数多く含まれていることが大きな特色です」(同館案内を引用)。

 特に有り難いのは、HPが充実していることで、各仏像別に解説があり、例えば写真の仏像は観音菩薩立像(かんのんぼさつりゅうぞう):N176という分類番号で呼ばれるが、「1躯、銅製鍍金、像高29.3、奈良時代、重文」という概要のほか、「三面頭飾の正面に化仏をあらわし,右手に小珠をもつ観音像。体にくらべて手足が大きく,二重瞼の表情もあどけない童子形を示す。また台座の子弁が平らな複弁の形や,特殊タガネによる魚々子文と複連点文の多用は,法隆寺再建期の造像に特徴的な傾向といえる」という解説がつくほか、その画像は拡大、正面のみならず別の角度からも観察できるという実に親切な扱いである。(http://www.tnm.go.jp/jp/servlet/Con?pageId=B07&processId=02&colid=N176

 現在、こうした解説が付されているのが7体ある。また、この宝物館の建物自体、前面に充ち満ちる水を配した大胆で開放的な空間を演出しユニークかつ清々しい。

 中にはいると、上記のような金銅仏 光背 押出仏が展示されている第2室のほか、灌頂幡(1階)、木・漆工、金工、絵画・書跡・染織など(2階)もあり日がな一日過ごしても飽きないほどの物量である。都内でわたしの最も好きな場所であり心のオアシスである。

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参考文献リスト1

 このブログで、これまで取り上げてきた主な参考文献は以下のとおりです。

 なお、和辻哲郎『古寺巡礼』なら<和辻>と略記(但し、望月信成、佐和隆研、梅原猛『仏像―心とかたち』正・続は単に<梅原>、入江泰吉・青山茂は<青山>、入江泰吉・關信子は<關>と略記)しています。

和辻哲郎 『古寺巡礼』岩波書店 1979年(初版は1919年)
井上政次 『大和古寺』日本評論社 1941年
亀井勝一郎『大和古寺風物詩』旺文社 1979年(初版は1943年)
竹山道雄 『古都遍歴ー奈良』新潮社 1954年
吉村貞司 『愛と苦悩の古仏』新潮社 1972年

加藤泰  『日本美術史話』栗山書房 1937年
望月信成 『日本上代の彫刻』創元社 1943年
野間清六 『飛鳥・白鳳・天平の美術』至文堂 1958年
佐和隆研 『日本の仏像』至文堂 1963年
望月信成、佐和隆研、梅原猛『仏像―心とかたち』 (NHKブックス20)、『仏像 続―心とかたち』 (NHKブックス 30) 1965年
町田甲一 『解説日本美術史』吉川弘文館 1965年
水沢澄夫 『広隆寺』中央公論美術出版 1965年
久野健  『法隆寺』(原色日本の美術第2巻〉小学館 1966年
町田甲一 『古寺辿歴―古美術襍想』保育社 1982年

本郷新  『彫刻の美』 冨山房 1942年
入江泰吉・青山茂『仏像ーそのプロフィルー』保育社 1966年
入江泰吉・關信子『仏像のみかた』保育社 1979年
井上靖監修/大岡信編『仏像』光文社 2007年

田村圓澄 『聖徳太子 斑鳩宮の争い』中公新書 1964年 
和歌森太郎『日本史の虚像と実像』角川文庫 1974年 
東野治之 『正倉院』岩波新書 1988年 

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飛鳥・白鳳彫刻の魅力(7):ニーチェ

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 和辻哲郎は1913年にそれ以前のショウペンハウエルの論文発表を踏まえ『ニーチェ研究』を出版している(<和辻>を参照)。
 竹山道雄は1953年にニーチェ『ツァラトストラかく語りき』を出版し、これはいまも新潮文庫で「現役」として読まれている(<竹山>を参照)。
 『大和古寺』(日本評論社)を1941年に出版した井上政次は、それ以前の1935年に訳書としてニーチェ『反時代的考察』〔全2冊〕を出版している(<井上>を参照)。

 これら「古寺探訪」の文化人グループがいずれもニーチェを原文で読み訳し、その思想に深く係わっていたことは興味深い。もちろん、戦前の文化的な状況において、ドイツとは軍事的な枢軸関係もさることながら、その哲学や教養主義の影響はいまからは考えられないくらい深かったろう。

 ほかにも、亀井勝一郎は転向後の心の拠り所にゲーテに傾倒したし、吉村貞司もその専攻はドイツ文学である(<亀井><吉村>を参照)。
 それにしても「神は死んだ」と叫んだニーチェの研究者がいずれも、日本の古仏に惹かれる要因とはなんなのだろう。「永劫回帰」や「超人思想」といった新たなニーチェ哲学の反証作用なのか、あるいはその伏在するニヒリズムが、戦中にこうした文化人の精神に投影していたからだろうか。

 ここでは、ニーチェ哲学の後継者ヤスパースが来日し、広隆寺の宝冠弥勒菩薩について語った言葉を以下、引用しておきたい(<水沢>p.21より転記)。
 「・・・・この広隆寺の弥勒像には、真に完成され切った人間実存の最高の理念が、あますところなく表現されています。それは、この地上に於けるすべての時間的なものの束縛を超えて達し得た、人間存在の最も清浄な、最も円満な、最も永久な、姿のシンポルである思います。・・・・」
(篠原正瑛「敗戦の彼岸にあるもの」から)

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飛鳥・白鳳彫刻の魅力(6):進歩と退潮

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日本ではどの時代の仏像が一番レベルが高いとされているのですか?

それはとても難しい質問ですね。様式史的にいえば、日本的な独創性がもっとも発揮されたという点では天平から貞観時代にかけてかしら・・。でも、造形技術的には定朝以降の寄木造りが量産面で革新をもたらしたとも言えるし、その後の鎌倉時代初期の慶派は、大きな造形美や写実性でルネッサンス的な意味もあるとも・・。あと、国家的な造像に対して、円空や木喰らの庶民信仰の身近な仏様を高く評価される方もいます。個人の見方によっても相当異なると思いますが・・。

わたしは飛鳥・白鳳初期の仏が最高ではないかと思っているのですが、そうした見方はないのですか?

個人の好みを別とすればですが、日本的な様式論では、やはりその後の時代に日本独自の展開があり、天平時代の前後を頂点とする見方が多いのではないかしら・・。月並みですが、例えば、東大寺三月堂(法華堂)の不空羂索観音や戒壇院の四天王、興福寺の阿修羅など諸像、それ以前の白鳳後期の薬師寺の薬師三尊や聖観音などがこれにあたると思いますけれど・・。

なるほど、それらの作品はたしかに素晴らしいですね。

質問も質問だが・・、その答えもどうかな。様式史をあまり鵜呑みにしてはいけないと思うね。日本の仏像様式史は戦前から熱心に研究されたが、意識してかどうかは別にして、日本的な様式の抽出にあまりに拘りすぎていないか。別の言い方をすれば、日本の仏像を頂点に見立てて、その独自の様式展開を論述するという価値観が根底にあったのではないか。<望月><野間><佐和>もその点ではある意味、同一の「潜在的な価値観」をもっていないか。

そういう考え方もあるのですか! でも戦前はそうであったとしても、戦後は明らかに違うでしょ?

戦前の主流派はさらに研究を深め、またそうした学派(シューレ)から新たな学徒が輩出されたことから、戦後も「潜在的な価値観」は底流として変わっていないのではないか。だからこそ、様式史でも日本的な展開を「進歩」とみ、またその独自性の喪失を「退潮」とみる見方が一般化されていないか。

でも、戦後はとくに朝鮮や中国との比較研究もすすみ、また一部は両国との共同研究などもあって、開かれた方法論になっているのではないですか。

方法論への過信こそ問題なんだ。近代的な方法論をとればその結論も当然進展するという単純なオプティミズムは危険だね。そもそも美的な感性は客観化できない。それこそ時代とともに変わっていく。日本の彫刻の評価もあらゆる時代を相対化してみないと、われわれの中のこびり付いた「潜在的な価値観」からは脱却はできない。

先生のお言葉ですが、さきに挙げた東大寺三月堂の不空羂索観音や戒壇院の四天王、興福寺の阿修羅など諸像、薬師寺の薬師三尊や聖観音などは専門の様式論の先生だけでなく、文学者や彫刻家といったほかの分野の方も高く評価されていると思いますし、さまざまな見方からも最大公約数といってもよいのではないですか。

最大公約数?とんでもない!たとえばフェノロサと救世観音の関係、ヤスパースが広隆寺の弥勒菩薩を最大限賛辞したことを忘れたかい。文化のグローバル性、多様性の視点こそ重要だろう。様式史的には両仏像についての紋切り型の評価はどうだい。

そう言われれば、鎌倉初期で日本の様式論はほぼ終わっていますね。あとは「退潮」の歴史だと・・。

そう、だから円空、木喰の評価が不当に低く「不連続」になる。しかし虚心坦懐に見てごらん。飛鳥仏と円空仏、木喰仏には面白いことに多くの共通点もある。日本の仏像様式論でそこをよく説明できているのかどうか。

(泣きそうに)先生、それでは比較研究の有効性はどうですか。そこは少なくとも相当の成果をあげているのでは・・。

日本の文部科学省か文化庁かは知らないが、もっと朝鮮や中国、インドなどの専門家に研究費を補助して逆に日本の仏像を研究してもらったらどうかね。たとえば、日本の学者が現地で調査するだけでなく、日本にそうした国々からの専門家を継続反復的に招聘して一緒に研究してもらったら、おそらく、もの凄く斬新な視点がでてくると思う。なにしろ仏像は「舶載品」だったのだから本家の見方も押さえておく必要はあるだろう。

面白いなあ。ところで、そうした意見は日本で多いのですか。

わからん!だが、ボストン美術館に多くに日本の一級の美術品が収集された経緯や、その裏返しで日本でのいわゆる東洋文化への接近の弱さはあるのではないか。東京国立博物館に行って東洋館を歩くと海外の仏像への敬意が足りず、なお「日本中心」主義を強く感じるね。わたしの批判する「潜在的な価値観」はそうした体験からのものかも知れんがね。

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原色日本の美術〈第2巻〉法隆寺 (1966年)

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2007年7月28日久野健(くの・たけし)氏が87才でご逝去された。心からご冥福をお祈りします。

 『日本の彫刻』世界文化社、『法隆寺と飛鳥の古寺』(日本古寺美術全集1)集英社、久野 健・辻本 米三郎 (著)『法隆寺 夢殿観音と百済観音 (奈良の寺) 』岩波書店(1973年)はじめ飛鳥・白鳳彫刻の分野でも多くの論稿のある久野健(学生時代、われわれはあえて「クノケン」さんとお呼びしていた)の緻密な分析力、歴史的視野の広さ、「剛の者」の独特の筆致には当時から敬服していた。

 表記の本では相当な紙幅で法隆寺論争の意義、法隆寺の彫刻について論述している(なお、建築分野は鈴木嘉吉氏が執筆)。いま読み返しても、学生時代、久野健さんの見方が強くしなやかな下敷きになっていたことを思いおこす。
 特に、蘇我氏と鞍部氏との関係、鞍部一族の分析とそのなかでの止利の位置づけ、鞍部一族が文字通り「鞍」をつくっており、金箔、彫金、鋳造などの面で、その実用、工芸的な技法が仏像に応用されていくのではないかという推論など本書から受けた示唆は大きい。個別の仏像の分析も考証力が強く説得的である。

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仏像ーそのプロフィルー

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入江泰吉・青山茂共著『仏像ーそのプロフィルー』/カラーブックス 保育社/1966年

まえに取り上げた望月信成、佐和隆研、梅原猛『仏像―心とかたち』 (NHKブックス20)、『仏像 続―心とかたち』 (NHKブックス 30)1965年(以下<梅原>と略記)の翌年に、入江泰吉・青山茂共著『仏像ーそのプロフィルー』/カラーブックス 保育社/1966年(以下、<青山>と略記)がでていますね。
 これは如来、菩薩、明王、天の順番にそって仏像がとりあげられていることで、<梅原>と同じ路線にそっています。

その後随分あとですが、同じような本として『仏像のみかた』入江泰吉・關信子共著/カラーブックス 保育社/1979年(以下<關>と略記)もでています。

なるほど、出版社(保育社)もシリーズ(カラーブックス) も同じか・・。入江泰吉さんの写真(共著)も共通していると思いますが、<青山>と<關>の両著はどこが違うのかな?

<關>では、まず、大切な「仏像の歴史」が述べられています。そして、そのあと「仏像イコノグラフィー」として、さきほど<青山>でおっしゃったのと同じように、如来、菩薩、明王、天部の説明があります。そして「材質と技法から見た仏像」が続きます。コンパクトな本ですが、とても良い構成の本ではないでしょうか。

貴女は、いつも様式論が重要だと言いますから、「仏像の歴史」、「仏像イコノグラフィー」、「材質と技法から見た仏像」の3部構成は好ましいのでしょうね(笑)。

はい。様式論というか、歴史との関係で仏様をみていくことは、とても大切だとわたくし思いますけれど、それだけではなくて、最後に「仏像の見方ー結びにかえて」の關さんの仏様への細やかな心配りの言葉こそ見習えたらいいなあって感じます。

青山さんは毎日新聞学芸部の記者だった人ですが、ほかにも『奈良』、『大和古寺巡礼』、『平城京時代』なども先行して出版しているようですね。たいしたものです。
 でも、申し訳ないけれど本書<青山>は、もちろん個々の仏像の見方で異なる点は多々あるけれど、全体の構成は<梅原>の焼き直しという気がしますね。
 ぼくは様式論は苦手で、むしろ経典や儀軌などにそったこちらの構成のほうが好みなんですが、<梅原>のインパクトがあまりに強かったということかな。でも<青山>も良く読まれた本のようですよ。なんせ<梅原>は正・続の2冊本で、持って歩くには<青山>のハンディさはいいですね。

そういえば、井上政次『大和古寺』1941年と、亀井勝一郎『大和古寺風物誌』1943年との関係もありましたね。こちらは<亀井>本のほうが井上先生の本よりも2年あとに出版されたのですが、亀井さんの本がベストセラーになりました。

でも、こうして見てくると面白いなあ。仏像本も時代時代でブームがあって良い本が固まって出版されるんですね。いまもそうですね。最近の仏像本の大量出版は、かってと比較しても空前絶後じゃないですか。前にも言いましたが、それだけ、仏像の<癒し>の魅力が現代人には強いということかな・・。

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仏像 古美術読本(6)

井上靖監修、大岡信編『仏像』(古美術読本6)2007年(知恵の森文庫)光文社


この本もいろいろな人がさまざまな見方から仏像を語っていて参考になりますね。

山本健吉さんの「南都仏像三体」が良かったです。秋艸道人『南京新唱』、和辻哲朗『古寺巡礼』、浜田青陵『百済観音』などを当時の日本人が好んで読んで、南都に赴いていたことがよくわかりました。

わたしは、高村光太郎「本邦肖像彫刻技法の推移」、平櫛田中「天平彫刻私観」、村上華岳「仏像雑感」などが、自らの彫刻家、画家の経験やその芸術的な感性から勉強になりました。

寿岳文章さんの「寄せたる眉根」も深い読みの文章だと思います。寿岳さんはダンテ『神曲』を全訳された方ですが、アーカイック・スマイルの源流を西域に求めるのではなく日本古来の埴輪にあると指摘されています。

みな、仏像、むしろ日本の彫刻について深い見識をもち、またそれを誇りに思っていることがわかります。高村光太郎の最後の文章、「室町時代前後には彫刻の俊才が皆能面打ちになってしまったような気さえする」は彫刻家の彼にしか言えないことですね。

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大和古寺

井上政次『大和古寺』1941年 日本評論社

和辻哲郎『古寺巡礼』の刊行は1919年
亀井勝一郎『大和古寺風物誌』の刊行は1943年

 この2つの名著の刊行の間、<亀井>の上梓直前に1冊の本が出た。それが表記の『大和古寺』である。執筆のスタイルは<和辻>にも似て、文明を考える随想録、様々な文物の見聞録、ふと旅情を誘う旅行記といった側面をもち、旅宿の話しなどの日常の雑感も出てくる。事前に十分に資料も読解しており(巻末の参考文献リスト参照)、なかなかの力作で読んでいてためになるが、残念ながら<亀井>の抜群の影響力に比べて、その陰に隠れてしまったような気がする。
 井上は、このほかに訳書として『反時代的考察』〔全二冊〕(ニイチェ著)1935年、『美学通史』(ボサンケ著)1944年などもあり、戦中も第一級の活躍をした知識人。

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仏像(山溪カラー名鑑)

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 山と溪谷社 (2006/03) から出版された大型の仏像本。ここで注目したいのは關信子女史。「1948年奈良県生まれ。東京教育大学大学院教育学研究科美術学専攻修士課程修了。美術史家」とあるが、実は早くから名著をものしている。

『仏像のみかた』入江泰吉 關信子/カラーブックス 保育社/1979年 初版発行は、昔からお世話になっている愛読書である。個々の仏様の解説が丁寧で慈しみが感じられ、好感のもてる文章である。關女史は当時31才の若手研究者だったが大御所たる入江泰吉氏との共著。

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仏像―心とかたち  正・続

望月信成、佐和隆研、梅原猛『仏像―心とかたち』 (NHKブックス20)、『仏像 続―心とかたち』 (NHKブックス 30)1965年

この本は面白い。望月、佐和両先生が若き梅原猛をバックアップして「次代のエース」を世に出してあげたような本ではないですか。

忘れてはいけないと思うのですが、同じ年に、日本美術史を太古から書き記した町田甲一先生の『解説日本美術史』吉川弘文館もでています。

梅原猛は本書で仏像研究の「第3の道」を提起しているが、<亀井>、<吉村>らの叙情的な「印象論」も<望月>、<佐和>らの「様式論」も本質的には否定しているね。そのうえで大上段から「精神史からみた仏像論」を提起する。<和辻>が20代でやってきたことを梅原は30代でやってきて、約40年ぶりに新たな挑戦状を叩きつけたとも言える。鮮烈なデビューだったね。

梅原のヘーゲルやディルタイを援用しての緒論はたしかにその時代の息吹を感じさせますね。望月(1899年生まれ)と佐和(1911年生まれ)は一回り年が違いますが、佐和と梅原(1925年生まれ)はそれ以上に年が離れていますからね。梅原は望月にとっては子どもの世代ですね。

町田甲一や久野建『日本の彫刻』(吉川弘文館)なども、とても素晴らしい成果だと思いますけど・・

町田の本は編年体ではないが、時代区分に沿ってオーソドックスに仏像様式論を展開していくが、梅原らの本は如来、菩薩、明王、天といった分類にそって仏像を俎上にあげていく。しかも様式論のあとに梅原流の文明史観(心を探る)といったものが大胆、自由に書かれる点が異なる。

最近の仏像についての本は如来から順番に説き起こす形式が多いのではないですか。その意味ではこの本はハシリだったと言えますか。

わたしは久野さん、町田さんの本のほうが、当時の時代との状況がわかって読みやすいとも思いますが・・

戦前でも加藤泰『日本美術史話』1937年栗山書房といった成果もあり、時代史は蓄積のある方法論。それに対して、別の行き方としての和辻の流儀は梅原に投影されている。
 しかし、和辻の『古寺巡礼』には広隆寺弥勒菩薩の記述など首を傾げるような荒っぽい断定も多くみられる。なにしろ学術書ではないし自由な発想がその魅力の源泉だからね。それに対して梅原は賢いね。そうした考証部分は両大家がこなしてくれているからね。あとは安心して思い切って自説を注入できる。

それにしても梅原の博覧強記ぶりはたいしたものですね。猛烈に勉強しているし、知識と空想がどんどん湧出してくる感じですね。

しつこくてごめんなさい。でも、やはり様式論もとても重要だと思うし、学問って対象を限定し、一定の方法論にそって深めていくから進歩もあるような気もするし・・。同じ時期に出版された町田さんの本にはその良心を感じますけれど・・

町田甲一『古寺辿歴―古美術襍想』 (1982年) 保育社を読んでごらん。君の言う、そうした熱い思いが綴られているよ。しかし「第3の道」もいまは、思想の揺らぎ、相対化から当時にくらべて読み手サイドからは得心するものが少なく難しくなっているね。
 むしろ、最近はどんどんと専門化した様式史がテクノロジーの進歩とともに跳梁跋扈しているように思うし、その一方でお手軽印象論の軽い本も良く読まれているようだね。

「癒し」がキーワードの時代ですからね。そうした意味ではこの『仏像ー心とかたち』もかくあるべしといった精神主義が、いまから見ると強いように思えますね。

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飛鳥・白鳳彫刻の魅力(5):聖徳太子

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 これも最近読んだ本で小林惠子『聖徳太子の正体―英雄は海を渡ってやってきた』 (文春文庫)というのがある。内容(「BOOK」データベース)を引用すれば次のとおり。
 ーー「日出ずる処の天子」と隋に使者を送り中国と対等に渡りあった聖徳太子、三宝を敬い、日本人の心に安らぎを伝える聖人聖徳太子―。しかしその実像は、興亡やまぬアジアの草原を疾駆した騎馬民族・突厥の英雄・達頭可汗その人だった。闘う倭王・聖徳太子の姿を、ペルシャ、中国、韓三国、日本の史料を駆使して明らかにする。
http://booklog.jp/asin/4167555018
 
 大胆不敵な着想で、聖徳太子伝説をペルシアから東アジア全体に展開し「裏返し」てみせる点で破天荒なドラマ展開だが、こうした小説が登場するくらい「正史」たる記紀の正統性が揺らいでいる証なのかも知れない。それ以外にも聖徳太子を取り上げた文献は多く、いまや一種のブームをつくっているようだ。

 四天王寺によく足を運ぶ。この寺域には一種の妖気を感じることがある。梅原猛『隠された十字架』などからの相当な先入主があり、それがゆえに感性が揺らぐのかも知れないが、観光客がまばらな日に内陣あたりを一人逍遙していると言いしれぬ薄気味悪さを感じたりする。 
 法隆寺や広隆寺ではあまり感じないが、四天王寺は幾重の戦乱、火災で堂宇が消失し、また時をへて再建されるといった人柱の重み、その「累積性」のなせるものかも知れない。

 さて、ここでは広隆寺についてである。2体の弥勒菩薩はいずれも太子との係わりが日本書記などに記載されている。一体は太子が秦氏に授けたもの、もう一体は新羅使・任那使が来朝し献納したものだが、いずれもこの記述が正しければ、日本での作像ではない。材質論、類似作の大陸での存在もよく知られるとおりこれを補強するものだろう。

 それにしても聖徳太子が秦氏に弥勒を授けた点が興味深い。なんのためであったろう。弥勒信仰と秦氏との関係も気になる。また、当時の人々はこの2つの弥勒を拝してどのような思いをもったのであろう。

 水沢澄夫『広隆寺』1965年中央公論美術出版を読むと、漢氏(鞍部止利や百済系仏師を輩出)に対して秦氏は新羅系とのことで、その歴史・伝統・嗜好の違いから、弥勒は秦氏にとって重要な仏であり、それは当時にあって太子ほかの知識人間では共通の認識であったのかも知れない。あるいは、その高貴すぎる尊顔も、秦氏一族にとっては親しく(あるいは懐かしく)見慣れたものだったとも考えられる。

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飛鳥・白鳳彫刻の魅力(4):百済観音

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 最近、倉西裕子『国宝・百済観音は誰なのか?―実在したモデルとその素顔』(小学館)を読んだ。『聖徳太子と法隆寺の謎―交差する飛鳥時代と奈良時代』(平凡社)、『日本書紀の真実―紀年論を解く』、『「記紀」はいかにして成立したか -「天」の史書と「地」の史書』(講談社選書メチエ)なども出ており注目すべき作家である。
 本書を読むといかにこの仏様についての歴史的データが乏しく、それゆえに想像の翼が羽ばたける余地が大きいかがわかる。

 百済観音について、<和辻>は「抽象的な『天』が、具象的な『佛』に変化する。その驚異をわれわれは百済観音から感受するのである」と書いた。
 <亀井>は「白焔がゆらめき立ち昇つて、それがそのまま永遠に凝縮したやうな姿」と書いた。
 <竹山>は「抽象的な超自然な線」と「理想化された霊的な肉体」が「分裂し対立しながら、相補って調和を奏でている」と書いた。<吉村>は「沈黙の立像」と書いた。いずれも文学的な表現を駆使して、なんとかこの仏様の最良のものを引き出そうと苦心惨憺しているようにも見える。

 そうしたなかで<本郷>は彫刻家の視点から、人間にはありえない長身痩躯さを、彫刻における変型(デフォルメ)の妙と捉えて記述するが説得力がある。
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飛鳥・白鳳彫刻の魅力(3):仏教伝来

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 この課題について、比較的丹念に書いているのが<佐和>である。第1章「日本における最初の仏像」で日本書記などを引きながら平易にこの間の経緯を説明している。
 仏教伝来は、それ以前の言語、書画などのつぎに移入されるが、概ね4~5世紀に漢字が、その後それをベースとした中国思想が5~6世紀にかけて紹介され、さらに6世紀に仏像を礼拝する宗教としての仏教が伝繙されてくる(後掲の<和歌森>を参照)。
 ここで重要なのは、司馬達等ー鞍部多須奈ー鞍作止利の系譜を、主流ながらも仏教(仏像)伝来ルートの一つとしてみていく相対観だろう。
 大学生時代、朝鮮文化の日本移入の諸論文を読んだが、この時代にあって、圧倒的に帰化人(この言葉自体、問題もあるようだが)の影響が大きかったことを知って眼が開かれる思いをしたことがある。

 当時の権力闘争、政治的な状況は大変厳しく587年崇仏派と廃仏派が武力をかけて争うが、勝者の蘇我・厩戸(後の聖徳太子)が権力を簒奪したのに対して、敗者の物部氏は滅亡する。
 蘇我、厩戸は、法興寺、四天王寺、斑鳩寺などを建立し、その後も多くの仏教寺院が建設され、そこに安置される仏像も多産されていく。現存する止利仏師の作品はそのひとつである。
 さらに、蘇我氏と血縁の厩戸一門は聖徳太子の死後、後継者を巡って争い、643年厩戸一門(山背大兄王一家)は根こそぎ抹殺される。
 こうした歴史のダイナミックな展開とともにアーカイック・スマイルの仏たちが産み出されるところに乾いたもの、名状しがたい不可思議さを感じる。

 和歌森は記紀のもつ政治的な意味をクールに見て、より当時の国際情勢、国内政治の投影を大きく見る思潮の重要性を説くがそのとおりだろう。

(参考文献)
田村圓澄 『聖徳太子 斑鳩宮の争い』1964年 中公新書
和歌森太郎『日本史の虚像と実像』1974年 角川文庫
東野治之 『正倉院』      1988年 岩波新書

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飛鳥・白鳳彫刻の魅力(2):法隆寺釈迦三尊

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 まず、法隆寺釈迦三尊に注目してみよう。
 これについて詳述しているのは<望月:前掲書>である。飛鳥彫刻の源流には2系譜があり、釈迦三尊を北魏系とし、それに対して百済観音を南梁系として両者の特色を大陸の事例との比較で検討していく。釈迦三尊の北魏系は、磨崖仏の伝統から「浮彫」的な技法にあり、一方、百済観音の南梁系は「丸彫」りを特色とする。そこから前者には正面観照性があるとされ、後者は背面を含むあらゆる角度からの観賞にたえるとされる。
 <望月>は、飛鳥時代の2系譜のうち前者は大陸の完全模倣、後者は日本的な展開の萌芽といった分類で論陣をはっているが、これは戦中の意識を色濃く反映しているようにも思う。即ち、大陸模倣(釈迦三尊)よりも日本的な特質の源流(百済観音)を上にみる見方である。それは第5章の結言にも読み取ることができる。

 <佐和>では驚くべきことに釈迦三尊についての記載がほとんど存在しない。止利の確定現存作を飛鳥寺釈迦如来像に限定し、徹底的な資料考証からのみ検討を行っている。日本書記を読み込んで、そこからの事実認定で作品の時代を特定していく方法論をとっているが、それはそれで面白い。しかし、釈迦三尊についてほとんど無視する姿勢は専門家としてはやや狭量にすぎる感は否めないだろう。

 <和辻>も、<佐和>と同じく釈迦三尊をほとんど記載せず百済観音に多くの紙幅をさいている。さらに<吉村>は釈迦三尊を全く取り上げていない。それに対して<亀井>は<望月>的なアプローチを参考にしながらも、こうした様式論、文献史学に対して一定の否定的な見解を示し、資料から止利の人間的な謹厳実直さを垣間見ようとしている。<竹山>はここでもユニークな見解で、堂宇で遠くから目視する釈迦三尊と写真で近接してみる違いから印象論を展開していく。

 <野間>は時代が下った論文であり、それ以前の論点を整理していく。まず、<望月>のように飛鳥時代に2系譜を並立させるのではなく、南梁系の諸作を後の白鳳時代の作としてここに時間差を置いている。また、<佐和>のような文献接近の方法論も意識しているが、実はこの背後には有名な法隆寺再建、非再建論争がある。両陣営に分かれた大論争の渦中にあっては、時代考証に当時慎重な見方があったとしても仕方がなかったかも知れない。これについては次の事実が最近、確認されている。


 「2004年(平成16年)、奈良文化財研究所は高精度デジタルカメラ(千百万画素)で撮影した画像による年輪年代測定の結果を発表した。それによると、法隆寺金堂、五重塔、中門に使用されたヒノキやスギの部材は668年(天智7) - 685年(天武14)ころに伐採されたものであるとされ、法隆寺西院伽藍は7世紀末の再建であることがあらためて裏付けられた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E9%9A%86%E5%AF%BA 

 自分は、素人ゆえに仏像への根本的な見方では<亀井>に共感するが、好きな仏様と邂逅すれば、より知りたくなるのも当然。その意味では<野間>の見解が素直でもっとも参考になる。

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飛鳥・白鳳彫刻の魅力(1)

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 飛鳥、白鳳から天平、貞観あたりの仏像に惹かれている。学生時代に読んだ古書を取り出してきて、以下にいくつかを掲げたのも、その仏様の魅力を再確認したかったからである。

 もっとも参考になったのは本郷新の前掲書である。戦時中に執筆され複雑な思いをこめての文章だろうが、べたべたした感傷が一切なく、からりと晴れた文体で読んでいて心地よい。
 特に西欧彫刻との比較の視点は、いま読んでも新鮮で、どうして一般書でこうした指摘がもっとないのだろうかと不思議にすら思う。
 木造彫刻の質量において日本はもっとも充実した国であるとの指摘も頷ける。なによりも幾多の大きな戦乱や数え切れない天災をへて、古き仏様を守り抜いてきた歴史こそが誇れるものかも知れない。

 書きたいことは沢山あるが、高校生から仏像見たさにお寺通いをしていた時から40年近くがたった。この年月をへて、当時から抱いていた疑問、また、いかな凡人でも折りふし過ごしてきたがゆえの見方の変化などを少しづつ書いてみたいと思う。

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彫刻の美

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本郷新 『彫刻の美』 冨山房(1942年)

<略歴>
本郷新(ほんごう しん 、1905年 - 1980年)は、北海道札幌生まれの日本の彫刻家。新制作協会彫刻部創立会員。
旧制・北海中学(現北海高等学校)-東京高等工芸学校彫刻部(現千葉大学工学部)卒業。
1928年より高村光太郎に師事する。

○主な彫刻作品の設置場所
「氷雪の門」 北海道稚内市
「冬の像」 北海道釧路市・幣舞橋
「泉の像」 北海道札幌市・札幌大通公園
「雪華の舞」 北海道札幌市真駒内 (第11回冬季オリンピック記念碑)
「無辜の民」 北海道石狩市
「老人」 1981年 兵庫県神戸市中央区加納町6・花と彫刻の道
「嵐の中の母子像」 広島県広島市・広島市記念公園
「わだつみのこえ」 (立命館大学、北海高等学校他) (戦没学生記念像)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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古都遍歴ー奈良ー

竹山道雄『古都遍歴ー奈良』新潮社(1954年)

<竹山の略歴>
日本の評論家、ドイツ文学者、小説家。
銀行員の息子として大阪に生まれる。父の転勤に伴い、1907年から1913年まで京城(現在のソウル)で過ごす。

東京府立第四中学校(現在の東京都立戸山高等学校)から第一高等学校を経て、1926年に東京帝国大学文学部独文科卒業。ドイツ語講師として第一高等学校に勤務。1928年から文部省に派遣されてベルリンとパリに留学。1931年に帰国し、第一高等学校の教授となる。戦後、第一高等学校が東京大学教養学部に改組されてからも教授を続け、1951年に退官してからは上智大学などの講師を歴任した。

訳書にニーチェ『ツァラトゥストラ』やヨハンナ・シュピリ『アルプスの少女ハイジ』など。日本におけるシュヴァイツァーの紹介者としても知られる。
小説家としては、一高教官として多くの教え子を戦場に送り出した体験に基づき、1947年に『ビルマの竪琴』を発表。

評論家としては、1940年、日独伊三国同盟締結に際して『ドイツ、新しき中世?』を発表し、全体主義の台頭に警鐘を鳴らした。戦後は、1950年代から、当時の日本の盲目的な社会主義賛美の風潮に抗してスターリニズムへの疑念を表明。中道保守の立場から、左右双方の全体主義に警鐘を鳴らし続けた。1983年、日本芸術院会員。著作集全8巻がある。

 以前はあまり感心しなかったが読み返してみると実に面白い。当時の日本の文化人が古今の知識に通じ専門家バカになっていない博識ぶりに舌を巻く思いである。
 特に冒頭の法隆寺中門を巡る新説は、その後、梅原猛らによって激しく批判されてかえって有名になったが、当時にあってこうしたユニークな見解を表明できたことをもっと評価してもいいかも知れない。

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日本の仏像

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佐和隆研『日本の仏像』至文堂 (1963年)

 仏像についての入門書、解説書を多く出版している筆者だが、専門は密教美術論。本書でも平安時代以降の仏像や本地垂迹論などに力点がおかれている。
 NHKブックスの仏像シリーズでは先の望月信成氏との共著もある。

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愛と苦悩の古仏

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吉村貞司『愛と苦悩の古仏』新潮選書 新潮社 B六 271頁 1972年

 「私は古仏を善良で清浄な人によって作られたと思い込んでいたが、むしろ汚れ果て、涙にまみれ、罪の重さによろめく人たちがすがりつく思いで彫らせたものだったのだ。-著者ー
 奈良、大和、京都などの古寺を訪れ、薄明の中に立ち並ぶ み佛たちを拝して、人々はそれぞれの感懐を持つ。しかし、ひとたび、この書に導かれて、それらの寺々、佛像の数々をたずねるならば、その印象は、はるかに強烈なものとなるであろう。あの美しい佛たちを造るべく、優れた工人、佛師に精進の鑿や槌をふるわせたのは、実は悪業深き人々の贖罪と欣求の心によることが多かったのを、この書は、広範な文献の渉猟、史実への鋭敏な洞察、豊かな感性によって余すところなく伝えてくれる。ー東山魁夷推薦文ー」

 題名が苦手だ。内容をあらわすものにせよ「愛と苦悩・・」と臆面もなく書かれると、そこまでイメージを固着してほしくないと思ってしまう。印象批評が中心の1冊。筆者は明治41年福岡生まれ、早稲田大学文学部独文科卒。杉野女子大学教授(手元の初版)。
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飛鳥・白鳳・天平の美術

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 野間清六『飛鳥・白鳳・天平の美術』至文堂 (1958年)

近江八幡の市内にボーダレス・アートミュージアムNO-MAという障害者のアート作品を中心に展示しているユニークな美術館を見つけた。旧家を改築した落ち着いた造りであるが、これはかっての野間清六所縁の住まいであったかも知れない。
http://www.no-ma.jp/exhibition/dt_13.html

 この一冊も良心的で、史実をよく捉えていて参考になる。本書の特色は飛鳥に続く「白鳳期」の時代を措定して、その特質を描こうとしている点にある。その意味では当時にあってなかなかの意欲作であったと言えよう。

 野間清六氏は、明治35年滋賀県生まれ、昭和5年東京大学美学美術史学科卒業。帝室博物館鑑査官を経て、手元にある本書の2刷がでた昭和43年段階で東京国立博物館学芸部長。

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日本上代の彫刻

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『日本上代の彫刻』望月信成 創元社 S18/6初版
 小生保有の3刷(昭和21年)によれば、筆者は「大正15年東大文学部美術及美術史科卒。京都博物館鑑査員を経て現在大阪市立美術館主事」とある。

 これも戦前の出版だが力作である。和辻、亀井とは違い正面から仏像彫刻論を取り上げた初期のもの。扉の1枚は東大寺法華堂の月光菩薩である。のちに望月はNHKブックスから出てベストセラーとなる『仏像ー心とかたち』ほかを執筆する。
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大和古寺風物誌

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 和辻の「剛」に対して、亀井の「静」といったイメージで学生時代はあまり評価しなかったが、むしろ、いま読むと感性が鋭く仏像をめぐる考え方では、いまだ清新さも失われていない。

<亀井の経歴>
 北海道函館市元町生まれ。旧制函館中学校(現・北海道函館中部高等学校)から1926年に東京帝国大学文学部美学科に入学、1927年には「新人会」会員となりマルクス・レーニンに傾倒し、翌1928年には退学。4月には治安維持法違反の疑いにより投獄され、1930年保釈される。1932年にはプロレタリア作家同盟に属すが、翌年には解散。以後、同人雑誌『現実』(1934年)、『日本浪曼派』(1935年)を創刊し、評論を発表する。1934年、最初の評論集『転形期の文学』を刊行。

 1937年には『人間教育(ゲエテへの一つの試み)』を刊行し、1938年、菊池寛より池谷賞を受ける。1937年に武者小路実篤と顔を合わせる。翌1938年、『日本浪漫派』廃刊後、『文学界』の同人となり、以後同誌に連載し、この頃、太宰治と親密になる。その後、仏教との出会いにより開眼し、親鸞の教義を信仰し、宗教論、美術論、人生論、文明論、文学論など人間原理に根ざした著作を連載した。

 1942年、文学報国会評論部会幹事となった。1945年8月、第二国民兵として3日間軍事教練を受け、その3日目に敗戦の報を聞いた。

1959年より『文學界』に「日本人の精神史研究」を連載、ライフワークとなる。64年、日本芸術院賞受賞、65年、『日本人の精神史研究』等で菊池寛賞受賞、同年、芸術院会員に選ばれる。

戦中、武者小路実篤の人生論を解説つきで出したが、戦後昭和30年代に再びこれを再刊してベストセラーにし、自身も、人生論、恋愛論の類をベストセラーにした。

1969年より、文藝評論の賞として亀井勝一郎賞が設けられたが、14回で休止。一時は小林秀雄と併称された文芸評論家だったが、人生論風のものが多いせいもあり、今ではほとんど読まれない。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 『大和古寺風物誌』(1943年 天理時報社)は36才の作品。戦前の作品で、亀井の屈折、苦節の時代が投影されている。それゆえに精神の救済をこめての求道の旅でもあった。
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古寺巡礼

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古典中の古典。本当に久しぶりに読み返して印象が変わってしまった。

<和辻の経歴>
1889年 兵庫県神崎郡砥堀村仁豊野(現・姫路市仁豊野)にて誕生。
1906年 旧制姫路中学(現・姫路西高校)卒業。
1909年 第一高等学校卒業。
同年、後藤末雄、大貫晶川、木村荘太、谷崎潤一郎らとともに同人誌、第二次『新思潮』に参加、第一号に載せたのは戯曲「常盤」。以後も、バーナード・ショーの翻訳などをするが、次第に文学から遠ざかる。谷崎の才能に叶わないと感じたからだといわれる。
1912年 東京帝国大学文科大学哲学科卒業、同大学院進学。ケーベルを尊敬し、卒論を読んでもらいたいが為に英語で執筆。当初はニーチェ論を書きたかったが、指導教授が難色を示したためショウペンハウアーに関するものにした。
同年、高瀬照と結婚。阿部次郎との親密な交流が始まる。
1913年 紹介を得て夏目漱石の漱石山房を訪れるようになる。『ニーチェ研究』を出版
1916年 漱石および岳父高瀬三郎の死。この時期、日本の文化に深い関心を寄せ始める。
1920年 東洋大学講師
1922年 法政大学教授
1925年 京都帝国大学助教授。
1927年 ドイツ留学。(~1928年)
1931年 京都帝国大学教授。
1932年 大谷大学教授兼務、文学博士号取得。
1933年 東京帝国大学文学部倫理学講座教授。
1949年 退官。日本学士院会員。
1950年 日本倫理学会会長(死去まで)。
1955年 文化勲章受章。
1960年 死去。墓所は鎌倉の東慶寺にある。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 この本は1919年に書かれているので20代の作品。その感性の瑞々しさ、推論の大胆さに加えて女性への憧憬、性への関心の高さも結構、あっけらかんと表現している。
 かっては個別の仏像の記述ばかりに眼がいっていたが、この「自然児」ぶりあればこそ、大ベストセラーになったのだろう。古寺を思うさま歩き、文化を論じる「和辻」流はその後、一世を風靡することになる。
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