大和古仏探訪

京阪神を中心に内外の古仏についていろいろと書いてみたいと思います。

古寺の甍

多田智満子 『古寺の甍』 河出書房新社 1977年

 タイトルに一種の工夫があると思う。「甍」といえば『天平の甍』、言わずと知れた井上靖の名作がある。また、このブログでもいくども取り上げてきたように、和辻哲郎『古寺巡礼』ほか「古寺」を銘打った紀行本は数多い。その組み合わせで違和感なく『古寺の甍』はあるイメージを形成する。

 しかし、イメージと作品は別物かも知れない。神護寺、室生寺、高山寺、鞍馬寺、紀三井寺、仁和寺、峰定寺、蟹満寺、常照皇寺、鶴林寺、長谷寺、当麻寺、志明院、青岸渡寺、一乗寺、浄瑠璃寺、禅林寺の17の寺巡りは、事前の準備、その記述の文化的な広がりからみてもたいした努力の賜であろう。

 しかも、いまとなってはなんら不思議はないが、当時の「女流の目」が男の視点とは異なった艶やかな感性をたたえている。永井路子や白州正子といった達意の文人とも違った、比較文化論的な切り口や庶民的な思考、語り口は通読していて心地よい。多田女史は鬼籍に入られたが、本書はいまも現役の良さを十分にもっていると思う。

天平彫刻の魅力(3):新薬師寺

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新薬師寺には白鳳時代の素晴らしい仏様があったそうですね。

伝「香薬師如来立像」です。白鳳時代の優品と言われています。数奇な運命としか言いようがありませんが、この仏様は明治時代に2回も盗難にあって、しかしその都度戻り、3度目に昭和18年3月26日に盗まれてからは行方がわかりません(上の写真です)。

とんでもない奴がいるもんだ!きっと天罰覿面だと思うが、なんとか戻ってほしいね。

それで、いまは薬師如来が有名なんですね。

そうです。弘仁時代の木造薬師如来のほかに、この薬師さんを取り囲むかたちで、むしろ天平時代(一部は江戸時代に後補)の十二神将のほうに人気があるかも知れません。

薬師さんがいいね!ちっちゃな牛が向かって右隣に座っていて楽しいね。十二神将がそんなに有名とは知らなかったなあ・・・。

十二神将はあまり気にいらなかったのですか?

そうでもないが、薬師さんと一緒に神将が目に入ってくると、格好な引き立て役という感じだったな。

新薬師寺は、往時は寺域が四町四方、建物は西東の二塔を擁した七堂伽藍で、僧侶が千人もいた大きなお寺だったのですが、落雷や戦乱でほとんどの堂宇を失ってしまいます。ですから天平時代の彫刻がいま残っていること自体、奇跡的なことだと思いますけれど。

十二神将はなんでできているのですか?

塑像です。なお、堂内のビデオでは、CGをつかって十二神将のうち一番有名なバザラ大将を、最新の技術で3次元映像化をして再現し、これに当初の彩色をのせていますが、群青、緑、青、朱、金箔などが極彩色で表現されそれはそれは美しいものです。

そうかな?薬師さんは偉丈夫で美男だけど、十二神将はみんなおっかない顔をしているーーだから引き立て役といったわけでもないんだ。薬師さんは実に丁寧に造られていて見栄えがいいんだが、十二神将は塑像のせいか、なんかぎこちないねえ。粗製濫造ということはないんだろうが、けっこう「塑像多造」だったんじゃないかな、ハハハ!

またいつもの馬鹿笑いですか!だいたいくだらない駄洒落を言うなど仏様に失礼ですよ(苦虫を噛みつぶす)。

でも残されたものの価値をほんとうに見極めることは難しいですね。さんが、もしもそう感じられるとしたら、わたしのように天平の名品だという先入主がないからかしら・・

先入主はいかんよ。かえっていろいろ知らないほうが、素直に見られるということもある。いやいや、あんたは誰かと違って反省してエライ、エライ!

(ふーう、と息を吐いて)今日はこの辺でやめておきますか。さんと一緒だとどうもこちらの調子が狂ってしまいますね!

日本彫刻史論ー様式の史的展開ー

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中野忠明『日本彫刻史論ー様式の史的展開』木耳社1978年

課題図書は読んできましたか?

(無言・・・)

是非、皆さんのご意見を聞きたいなあ・・・。

面白い本ですね。筆者の名前ははじめて聞きましたが、かなりユニークな意見ではないのですか。明治37年生まれで、出版したのが昭和53年ですから相当、ご高齢の上梓ですね。あと、この方はいわゆる在野の研究者ですか?

第1章の「仏像の美」を読みましたがよくわかりませんでした。難しい言葉が多くて・・・。

(無言・・・)

ウーン!!さんはいつもきまって「面白いですね・・・」ですが、どこに関心をもったのですか?さんは第1章しか読んでいないのですか?ほかの章はもっと読みやすいでしょ。さんは今日は大人しいね、どうしたの。様式論からみた感想を是非言って下さい。

とてもユニークな見解が多いと思いました。特に、各時代に様式の成立、完成、衰頽・転移があると言い、これを前期、中期、後期にわけて考えていますがキチッとしないと気が済まない方なんですね。
 あと、それとは別に、運慶の無著菩薩像をデューラーの4人の使徒と比較していることも面白いなあと思います。既成の概念にとらわれない発想ですね。

ほかの章ですかあ・・・。時間がなかったので。そうですね、白鳳彫刻はなかったとか書いてありました。

それは違うでしょう。白鳳時代だけを単独で取り上げるのはどうかという見解だったのでは。奈良彫刻の「前期」ととらえて、それを白鳳期と呼ぶことは排除せず、といった記述ですね。

飛鳥時代は「抽象的造型」の時代ととらえ、奈良時代の彫刻はこれに対して「彫刻的具象性」の展開と見ます。その際に、白鳳と貞観のそれぞれの時代設定に疑問符をつけていますが、それはほかの方でもそうした意見はあったと思います。平安時代の彫刻は密教の影響からこれが「絵画的な展開」に変わったと考え、そのうえで藤原時代を「和様彫刻の完成」期としています。これ以降は「世俗的芸術」への推移ととらえ運慶などの慶派を日本におけるルネッサンス的な復興という考え方をとる立場には批判的です。また、鎌倉中期以降は宋風彫刻についての考察も行っています。さらに、山岳信仰との関係を問題提起してナタボリ彫刻についても記述しますが、これは久野健さんの地方仏の研究成果も踏まえておられます。

装飾性との関係はどうですか。

規準作だけではなく後背なども含めて装飾的な意匠でも各時代で比較する視点を提起されています。また、その延長線でもあるのでしょうが、密教芸術では、暗い密室において火を焚いた呪術的な儀式を行うこととの関係をクローズ・アップして「光と影」の空間構成論を展開されています。

よく勉強しているじゃないか。さん、貴男は様式論よりも個別の仏像に関心があるのでしたね。その点ではどうですか。

はじめにインド・グプタ朝の釈迦如来像から説き起こし、ギリシア彫刻(アーカイック・スマイル)、中国随代の彫刻、敦煌石窟寺の群像彫刻、中国天竜山の晩唐仏像、中国麦積山の宋代仁王像や木彫仏などを取り上げていますが、海外との比較の視点がユニークですね。それに日本の仏像では地方仏も多く見ていますね。そうした点でも類書とは違った面白さがあると思いました。先生はどうですか。

皆さんの要約にあったようにこの本は独自の見解が多いが、わたしは地味ながら考えぬかれた論稿と思う。気になるのは、時代区分と様式論について、ア・プリオリに発展仮説をもっていることで、これが特色でもあるのだが、あまりに機械的に適用しようとすることから自縄自縛になっている気もする。
 その一方、東洋全体のなかで日本の仏像を考えようとする視点は、大変重要だと思う。

様式論についてはどうですか。

そこは規準作を特定して時代別に相対比較するという点で、伝統的な方法論に準拠しているね。ただ、鎌倉彫刻、とりわけ慶派の評価については個人的には異論もある。
 いずれにしても、こうした優れた研究者がいたことはしっかりと記憶にとどめる必要があるし、実はこのほかにも埋もれた逸材は多いということにもっと眼をひらくべきだろう。

テーマ:文明・文化&思想 - ジャンル:学問・文化・芸術

薬師寺・唐招提寺、東大寺、興福寺、法隆寺

 今回は以下の本(いずれも保育社カラーブックス)のシリーズを4冊取り上げる。

寺尾勇・入江泰吉 『法隆寺』1969年<寺尾>
永井路子・入江泰吉『薬師寺・唐招提寺』1970年<永井>
小西正文・入江泰吉『興福寺』1970年<小西>
青山茂・入江泰吉 『興福寺』1970年<青山2>

 このシリーズでは、すでに<青山>(入江泰吉・青山茂『仏像ーそのプロフィルー』1966年)および<關>(入江泰吉・關信子『仏像のみかた』1979年)を取り上げたが、その中間時点に発刊された各寺院別の紹介本であり、このほかにもいくつか出版されている。

 <寺尾>は当時、奈良教育大学教授で『飛鳥彫刻細見』(丸善)、『ほろびゆく大和』、『いかるがの心』、『奈良散歩』(いずれも創元社)などの作品がある。会津、和辻から文献史学、建築まで幅広い知識で法隆寺の良さを表現しようとしている。「斑鳩文学抄」などはエッセンスがまとめてあり有り難い。

 <永井>は当時45才、直木賞作家として活躍中で『北条政子』『絵巻』などの作品のほか、鎌倉在住ということもありこのシリーズでもすでに『鎌倉の寺』を出版している。文学者らしい筆致で、語り口がよく一気に読ませるが、実はディテールの記述もキチンと抑えており最良の案内書となっている。

 <小西>は当時少壮の32才、興福寺国宝館勤務の専門家である。興福寺の歴史を丹念に執筆しており、同寺の歳時記も取り上げており、過不足ない良好なガイダンスの書である。

<青山2>は、すでに<青山>で紹介したとおりだが、本書ではほぼ大仏に絞って記述している。しかし、<小西>と比べるとあまりにスコープを限定しているがゆえに大仏以外のことを知りたい読者には、いささか不親切である。

天平彫刻の魅力(2):脱活乾漆造

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今日は天平時代の彫刻について教えてもらえますか?

わたくし、全く自信がありません。前回、思いつくまま申し上げて先生からきつく怒られましたから。今日は黙っています。

そんなこと言わないで・・・。それに、先生は不在ですよ!
そのかわりに見慣れない人が一人いますが・・・。ぼくの疑問はなんで天平時代に乾漆像があんなに造られたのかな、ということです。

わしゃ、まったくの門外漢だが、金銅仏の鋳造技術がそれまでにあって、その応用として乾漆造がもちいられたんじゃないかな。なにしろ金属はめっぽう値段が高いし熱加工も難しい。その点、乾漆造は手間はえらくかかるが銅よりは安かったんではないかな。

まず、金銅仏は土で原型をつくり、そのうえに蝋をかけます。その蝋のうえに彫刻を行い、さらに土をかけて焼き入れをします。蝋が溶けてできた空洞部分を鋳型として、これに溶融した青銅を流し入れます。冷却後、外側と内側の土を除き現れた像の表面を鑿などで整えたうえ鍍金をします。小金銅仏といえどもとても高価ですね。
 乾漆造には2種類あって、①脱活乾漆造は、木組みをし、それに粘土をのせ、さらに麻布を厚く重ねます。それを原型としてこのうえに漆をかけ彫刻します。乾燥後、なかを空洞として補強の意味で新たな木組みを行います。②木心乾漆造は、木造で外形をつくり、これに麻布を重ねて同様に漆をのせます。①は内部を抜いた中空ですから重量は軽く、②は木心が残りますから重い一方、漆の量は①は多く使用しますが②は少なくて済みます。①は天平時代に多くつくられますが、その後は②にうつり、さらに漆を使わない木造へと部材がかわっていきます。あまり正確ではないかも知れませんが概ね、こんな感じではないでしょうか。
 問題は漆です。漆の値段も高騰し当時はとても大変だったようですよ。①→②への造像法の変化の一因も高価な漆の入手が難しかったからとも言われています。

なるほど。ところで、乾漆造の作品としては①では、
<東大寺法華堂(三月堂)>不空羂索観音立像、梵天・帝釈天立像、四天王立像、金剛力士・密迹力士立像、<唐招提寺金堂>本尊盧舎那仏坐像、<唐招提寺>鑑真和上坐像、<当麻寺>四天王立像、<興福寺>八部衆立像(阿修羅像含む)、<興福寺>十大弟子立像、<葛井寺(大阪)>千手観音坐像などがあり、②では、
<唐招提寺金堂>千手観音立像、薬師如来立像、<聖林寺(奈良)>十一面観音立像、<観音寺(京都)>十一面観音立像、<興福寺北円堂>四天王立像などがあると書いてあるけれど(『ウィキペディア(Wikipedia)』参照)、どうしてこんなに秀作が多く残ったのでしょうか。

これは聞いた話だが、脱活乾漆造だと図体は大きくとも軽いから人力で運べる。興福寺などは何度も戦禍や火災にあっているが、大切な仏様を守ろうと坊さんがその都度運び出したようだよ。八部衆立像など池に投げ入れて火災の難をのがれたと昔聞いたことがある。

それ本当ですか? でも、いま見ても脱活乾漆造の仏像は素晴らしいですね。どうしてその後廃れてしまったのかな?

木造の技法がどんどん盛んになって、手間のかかる脱活乾漆造でつくる必要がなくなったんではないかな。また、阿弥陀信仰や薬師信仰などが盛んになるにつれ、脇侍、眷属をふくめて大量生産が求められ、仏所、工房はクライアントたる施主との関係でも、てんてこ舞いで、ぎりぎりまで合理化して対応せざるを得なかったんじゃないか。日本の製造業の原点は実はここにあるかも知れないな!そういえば、寄木造りなんかは、いまから考えれば仏像の「ツーバイフォー」みたいなもんだな、ハハハ!

貴男の言うことはどうも(眉唾というか)荒っぽいですね・・・。

でも、各寺院の記録をみても、もちろん失われてしまった本当に多くの仏様がいます。ですから、たまたま天平時代につくられ、いま、わたしたちの前におあす仏様は本当に貴重な存在です。

そうなんですね!リストを見ても場所、寺院はとても限られていますね。いまあるものから考えてしまうから、「多くある」という推論になっていく。失われたものとの相対関係で考えないと、そこが間違いかも知れないな。

そうそう。反省は大事だね。仏像好きの一人としてのアドバイスだが、人の意見を良く聞いて、もっと広くモノを見て考えないと駄目だよ。

すいません。貴男にだけは言われたくないのですが・・。

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