大和古仏探訪

京阪神を中心に内外の古仏についていろいろと書いてみたいと思います。

飛鳥・白鳳彫刻の魅力(12)

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 関西の聖徳太子ゆかりの寺々(法隆寺、中宮寺、広隆寺、鶴林寺、四天王寺など)を歩いていると、弥勒菩薩や聖観音像のもつ意味をおのずと考えたくなる。

 先に記したとおり凄惨な殺戮や疫病の蔓延に人心乱れた時代にあって、聖徳太子は名宰相としてならし、その治世の時期は限られてはいたが人びとに安寧をあたえ、それなればこそ後に、救世主的な「超人伝説」を多くつくってきたとも言えよう。
 太子はまた秦氏を重用し、秦氏が百済系帰化人であったことから、その系譜から弥勒菩薩が舶来され、次第にわが国に広まっていったとの説も強い。広隆寺「宝冠弥勒」と大韓民国ソウル特別市国立中央博物館所蔵仏などの比較はその有力な根拠だろう。
 弥勒菩薩はなぜこの時代多くつくられ、またそれ以降は衰微していくのか。太子逝去後、その一族が根絶やしにされ、それとともに弥勒菩薩、とりわけ半跏思惟像は次第につくられなくなる。


 以下は自分の推論ないし裏付けの乏しい空想であるが、広隆寺「宝冠弥勒」は当時にあって一種の百済系の「ステロタイプ」であったかも知れない。その移入後、形式的には半跏思惟像の姿を踏襲しながら、各工房によって様々なヴァリエーションも展開されていく。その証として、東京国立博物館法隆寺館の48体仏を丹念に見ていくと広隆寺や中宮寺と座像「形式」こそ似ているが全く別のタイプのお顔の仏像に遭遇することに気づくだろう。
 さて、想像の翼を広げれば、48体仏のなかには実は意外にも人間臭さを感じさせる弥勒像も多い。理不尽な死は、血生臭い政争や予防できない流行病によっても突然もたらされる。最愛の肉親や知人を喪った残された者が、生前の姿を仏として刻み、それを身近に置いて追悼することは不思議ではないだろう。そうしたニーズが豪族などの権力者集団には恒常的にあったのではないか。
 さらに、弥勒菩薩と聖観音系(法隆寺<夢違>、<百済>、<救世>や鶴林寺など)の造像には信仰上の違いが当時どこまであったのだろうか。追善供養にはいくつかのパターンがあり、それによって座像の場合は弥勒が好まれ、立像の場合は聖観音系が選好されたとは考えられないだろうか。

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飛鳥・白鳳彫刻の魅力(11)

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 飛鳥・白鳳仏に惹かれるのはなぜだろうか。以下は小生の最近の文字通りの「自問自答」である。

 飛鳥・白鳳時代とはいつまでを指すのかという「論争」はひとまず措くとして、一応奈良時代の前期までの時代とゆるやかに考える。この時代の血なまぐさい歴史はまずもって驚きである。天皇家と諸豪族間の複雑で近親性の強い結合と離反、豪族間でのすさまじいばかりの権力闘争、そして多くの死と葬列。われわれがいまもこころの安寧をえる多くのこの時代につくられた「仏像」とその「時代」とのミス・マッチ感覚はいわく言い難いほどの乖離がある。

 最近の聖徳太子ブームで、多くの本を手にとってみると当時の仏教受容問題の大きさにも驚く。それまでのシャーマニズム、自然神信仰とは異質な、新たな価値理念としての仏教の到来。当時の人たちの戸惑いと畏敬はわれわれの想像をはるかに超えるものであったろう。そして、その仏教とともにもたらされた舶来品としての仏像。その尊顔をみた当時の人びとの衝撃は大きかったはずである。

 死と隣り合わせの凄惨な政治的闘争や疫病の蔓延、仏教受容という一種の文化革命の只中にあって、仏像のもつ意味は現代人からみた「鑑賞体」とはまったく異なる大きさをもっていたと考えるべきだろう。

 さて、それとは別の視点から、仏像そのものの一種の「発展史」的な捉え方からみても、この飛鳥・白鳳時代は興味が尽きない。奈良時代後期以降の形式主義に至らない自由奔放の伸びやかな作風こそ、この時代の仏様の魅力の源泉である。教典や儀軌の影響を一種の「マニュアル主義」とでも呼べば、未だマニュアル未整備のおおらかさがあった時代とも言えるだろう。止利様式、非止利様式といった分類が気に入らないのは、原初的な時代に、後世からみた様式論を無理に物差しとしてあてがおうとしているように私には思われるからである。

 

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