大和古仏探訪

京阪神を中心に内外の古仏についていろいろと書いてみたいと思います。

聖徳太子について(7)

桜2


 いつもの年にくらべて今年は桜の開花がはやい。家の端っこに植えた細い桜の苗木が3年目にして少しは太くなり、今年はじめて小さな花をほころばせた。ご近所の桜はかわらず見事に満開だが、家の花は数えられる程度に咲いているにすぎず、いまだ蕾も成長途上にあるように見受けられる。遅咲き桜というのがはじめて実感できる気がする。それでも生命の息吹を窓近くで感じることができて嬉しい。

 飛鳥・白鳳彫刻の虜となり、休みはふと思うと奈良や東京の法隆寺宝物館などに佇んでいる。平日も就寝まえには少しく関連の書物に親しむ日々である。このブログにも折節書いてきたが、その彫刻には汲めども尽きぬ<深さ>があって、また、さまざまな領域の研究者の日進月歩の蓄積は実に厖大であることをあらためて知る。その一方、解明できない事供も多く、この分野は謎と空想に満ちた世界であることも魅力の源泉なのだとも思う。

 多くの識者が倦むことなく文章をものにし、そうした真摯な営為に眼がひらかれる思いがする一方で、知るほどに飛鳥、白鳳の「時代そのもの」への関心が否応なく喚起され、それは自ずと聖徳太子や蘇我一族への興味へと転化されていく。聖徳太子とは何者であったのか。

 蘇我馬子、厩戸(聖徳太子)、鞍作(止利)といった名称から共通に導かれる<馬>は、騎馬兵のイメージにいきつく。斑鳩から大和(明日香)まで約20キロの行程、馬を疾駆する若き、そして壮年の太子の姿は想像にかたくない。斑鳩近郊には馬場もあったようだ。そこでは平時にあっても騎兵の教練が行われていたかも知れない。
 また、外交の<海の道>は、豊かな瀬戸内海の食糧資源確保のための<海上補給路>でもある。太子がいまの松山を天寿国に見立てたのは、ユートピア論からばかりとは思えない。網干や加古川の太子ゆかりの海洋都市は当時にあって有力なロジスティックスの拠点でもあったろう。そう考えると任那への救援を名目とした瀬戸内への身内の出兵は一種の軍事訓練の色彩もあったかも・・・。

 その一方、蘇我氏の所領も大変な大きさをもっていた。黛弘道『古代史を彩る女人像』(講談社学術文庫 1985年)を読んでいると、実は、聖徳太子(上宮家)の拠点はおおむね「点と線」でむすばれていたにすぎず、蘇我一族は河内、大和ともに「面的」に広大な領地を掌握していたことがわかる。しかも、そうした領地はいずれも物部討伐によって、旧物部氏所有地を塗り替えたところも多く、蘇我家、上宮家とも、そこに住まう住民を含めて割譲、統治したとも言えそうである。そこにはしたたかな政治的な行動原理も貫徹されていた。

 「三宝」とは政治的資源でもあり、また最先端の人文・科学知識の集積でもあったろう。僧は還俗すれば優秀なテクノクラートであったし、寺は危急の際は軍事的砦にもなりえた。そうした観点からは、仏像は、ひとびとに威厳を示し安寧をあたえるシンボルでもありえたし、もっと機能主義的に考えれば、文字通り軍事的「守護神」とも考えられる。もちろん、現存する仏像がすべてそうしたことを念頭に造像されたわけではない。小金銅仏などは持念仏や鎮魂的な意味からつくられた仏様も多かったろう。しかし丈六の巨大な仏像などはもっと多義的な意味をもっていたと考えるほうがよいかも知れない。

 きょうは美しい桜をめでながら、そんなことを漠然と考えていた一日であった。

飛鳥・白鳳彫刻の魅力(13)

広隆寺弥勒菩薩timages


 今日は飛鳥彫刻への東アジアからの影響について、教えてほしいと思いますが・・。

 そりゃ、あれだろ、朝鮮半島からの影響が強かったという話しだね。

 朝鮮半島といっても、いくつかの系譜があるのです。
<1>朝鮮半島南部、<2>北部から中国東北部についても違いがあります。
 まず<1>ですが、さらに、歴史的には加耶(任那)、新羅、百済にわかれます。562年に任那が滅びて新羅になり、さらに660年に百済も新羅に統一されますが、百済系と新羅系によってももちろん異なりますし、
<2>の高句麗もかっては楽浪郡、扶余にわかれていました。313年に楽浪郡が滅び、494年に扶余も高句麗に統合され、この高句麗時代が668年までつづきます。ですから、飛鳥時代には、新羅、百済、高句麗の三国が鼎立していたことになります。
 加えて、中国も隋(581-618年)以前には国が多くに分立されています。たとえば北魏(386-535年)なども特色がありますが、その後、東魏→北斉、西魏→北周にかわって隋に統一されていきます。

 ややこしいねえ。そうさなあ、弥勒菩薩さんはどこから来たんだっけ?

 たとえば、広隆寺の宝冠弥勒は聖徳太子が没した翌年、622(推古30)年に新羅の真平王(しんぺいおう)が太子追善に送ってきた仏像という説があるようですね。

 さきほど申し上げたように660年までは百済がありました。広隆寺の宝冠弥勒にとてもよく似ている韓国ソウル国立中央博物館の金銅弥勒像は、そのふくよかで柔らかい作風から百済系ともいわれます。また、韓国国宝第78号弥勒菩薩なども、宝冠や服装は異なりますが、全体のお姿は宝冠弥勒によく似ておられます。

 任那の日本の「出城」がなくなったときに、引き揚げ者のなかには多くの朝鮮の人がいたろうね。同様に、百済がほろび、そのほかにも滅びた国があったわけだから、そうした人びとのうち海を渡って日本に来た帰化人は結構いたんじゃないかな。

 当時の帰化人といえば、職種にもよるでしょうが相当な知識人、テクノクラートもいたでしょうね。新羅や高句麗は中国文明などの受容を陸続きで日々にうけて、日本よりもはるかに先進国であったわけですから。また、飛鳥時代以上に、白鳳時代は統一新羅の影響が強かったでしょうね。

 また、聖徳太子の時代、多くの国からの舶載品はあったでしょうが、太子が隋と直接に交流し、そこから多くの新文物がはいってきたことも、とても大きなことですね。朝鮮半島経由のほかに中国からのいわば「直入」のルートは、その後、白鳳~天平にかけての日本文化の胚胎に決定的な影響をあたえたという研究は多いです。

 帰化人の多くが、お国か日本に来てからかは知らんが、いま見ている大事な仏様を当時、つくってくれたとすりゃあだ、別に、どこでつくったかはどうでもいいような気もしてきたな。

 専門の研究者はなかなか、さんのように単純にはいかないでしょうが、仏像に限らず、あらゆる文物が海をわたってもたらされたことを、よく考えると、聖徳太子が瀬戸内海の「海上の道」を、要所要所でピシリと押さえていたことは政治的、経済的、文化的にも興味深いですね・・。

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東京国立博物館 法隆寺宝物館

法隆寺宝物館


 東京で時間があるとよく一人で行くのが上記の宝物館である。近代的な建物ながら広々とした前面広場は水の回廊となっており、静謐な落ち着きもある。自分の好きな場所だ。

 解説によれば、「明治11年(1878)に奈良・法隆寺から皇室に献納され、戦後国に移管された宝物300件あまりを収蔵・展示しています。これらの文化財は、正倉院宝物と双璧をなす古代美術のコレクションとして高い評価を受けていますが、正倉院宝物が8世紀の作品が中心であるのに対して、それよりも一時代古い7世紀の宝物が数多く含まれていることが大きな特色」となる。
http://www.tnm.jp/jp/servlet/Con?pageId=B01&processId=00&mansion_id=M4

 さて、本館その他の展示を含めて、以下東京国立博物館の所蔵の小金銅仏、小木造仏を10体、ギャラリー(1)~(10)として掲載してみた。こうして並べてみると、さまざまな特色を比較できて楽しい。

 今日は光背のつけ方ばかりを見ていた。百済観音のように別に支柱を立てて本体とは離れて翳すもの、頭部に突起を鋳だして、これに光背を引っかけるフッキング・タイプ、頭部裏に穴を掘削してこれにはめ込んで取り付けるタイプなどさまざまなやり方がある。

 梅原猛『隠された十字架』では、第3のタイプを急所に釘を打つという点で呪術的にとらえていたように記憶しているが、もっと単純な<技巧の違い>かも知れないなとも思った。

 亀井勝一郎は、祈りの存在としての仏様に対して、博物館での仏像鑑賞に大いなる疑問を呈していたが、これはこれで良いのではないかとも思う。多くの人が身近に仏像に親しみ、また、そこから人それぞれに感興をえることはけっして悪いことではない。

 ここは、行けばいつも去りがたく、帰り道を辿りつつまた近々来ようと思う。関西にいるときは、奈良国立博物館がぼくにとって同様な心地よい居場所である。

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東京国立博物館 ギャラリー(10)

十一面・多武峰・唐

1躯、木造,素地、多武峯伝来、像高42.4、唐、C304
■解説
中国における檀像の本来の姿を示す像です。7世紀半ば過ぎに『十一面神呪心経』の旧訳と新訳を折衷した図像にもとづいて造られました。インド風のエキゾチックな面貌は,この時期の唐におけるインド風の流行を反映しています。多武峯の開基入唐僧定恵の請来像かもしれません。
http://www.tnm.jp/jp/servlet/Con?processId=00&ref=2&Q1=&Q2=&Q3=&Q4=________3_2__&Q5=&F1=&F2=&pageId=E15&colid=C304

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東京国立博物館 ギャラリー(9)

観音菩薩立像・奈良時代.3

1躯、銅製鍍金、像高31.4、奈良時代、重文、N183
法隆寺献納宝物
■解説
三面頭飾をつけ,体部正面にX状の瓔珞を懸ける。この瓔珞および胸飾りには可愛らしい鈴もみえる。両肩を覆う天衣の端をピンと左右に張ったり,上半身に僧祇支をまとう形式は古様だが,やや幅の広い顔立ちには,いわゆる白鳳期のおおどかな情趣がうかがえる。
http://www.tnm.jp/jp/servlet/Con?processId=00&ref=2&Q1=&Q2=&Q3=&Q4=________3_1__&Q5=&F1=&F2=&pageId=E15&colid=N183

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東京国立博物館 ギャラリー(8)

観音菩薩立像・奈良時代.j

1躯、銅製鍍金、像高30.9、奈良時代、重文、N182
法隆寺献納宝物
■解説
右手を心にそえてすっきりと立つ像で,頭飾には観無量寿経に説く観音の標幟である阿弥陀仏の化仏立像をあらわす。脚前をわたる天衣上に瓔珞を沿わせて片膝に一花をあしらう形や,素弁と複弁を組み合わせた台座などは,7世紀末ごろの像によくみられる特色である。
http://www.tnm.jp/jp/servlet/Con?processId=00&ref=2&Q1=&Q2=&Q3=&Q4=________3_1__&Q5=&F1=&F2=&pageId=E15&colid=N182

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東京国立博物館 ギャラリー(7)

観音菩薩立像・奈良時代

1躯、銅製鍍金、像高29.3、奈良時代、重文、N176
法隆寺献納宝物
■解説
三面頭飾の正面に化仏をあらわし,右手に小珠をもつ観音像。体にくらべて手足が大きく,二重瞼の表情もあどけない童子形を示す。また台座の子弁が平らな複弁の形や,特殊タガネによる魚々子文と複連点文の多用は,法隆寺再建期の造像に特徴的な傾向といえる。
http://www.tnm.jp/jp/servlet/Con?processId=00&ref=2&Q1=&Q2=&Q3=&Q4=________3_1__&Q5=&F1=&F2=&pageId=E15&colid=N176

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東京国立博物館 ギャラリー(6)

菩薩座像・飛鳥時代

1躯、銅製鍍金、像高38.8、飛鳥又は奈良時代、重文、N156
法隆寺献納宝物
■解説
台座框の刻銘から「丙寅年に高屋大夫が亡き韓夫人のために発願造立した」ことがわかる。「丙寅年」は推古14年(606)と天智5年(666)の両説がある。また「韓夫人」銘やその痩身の体躯,腰から垂れる帯飾りなど,総じて朝鮮三国時代の仏像との関連が濃い。
http://www.tnm.jp/jp/servlet/Con?processId=00&ref=2&Q1=&Q2=&Q3=&Q4=________3_1__&Q5=&F1=&F2=&pageId=E15&colid=N156

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東京国立博物館 ギャラリー(5)

法隆寺1images

1躯、銅製鍍金、像高30.8、飛鳥時代、重文、N145
法隆寺献納宝物
■解説
止利仏師の作として知られる法隆寺金堂釈迦三尊像(推古31年・623)の中尊とよく似た形の像である。しかし,その中尊にくらべて顔の表情はずっと穏やかで,頭髪や懸裳のデザインも異なっており,当時,同グループでも作風に一定の幅があったことを示している。
http://www.tnm.jp/jp/servlet/Con?processId=00&ref=2&Q1=&Q2=&Q3=&Q4=________3_1__&Q5=&F1=&F2=&pageId=E15&colid=N145

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東京国立博物館 ギャラリー(4)

摩耶夫人

4躯、銅製鍍金、摩耶夫人 像高16.6 天人像 像高12.5-13.0、飛鳥時代、重文、N191
法隆寺献納宝物
■解説
ルンビニー苑にて摩耶夫人が無憂樹の花枝をた折ろうとするや釈迦が腋下から誕生したとの仏伝中の一場面を造形化したもので,この種の立体的な群像としては希有の作例。面貌や骨太い体躯には飛鳥の古様がうかがえ,衣文の表現も独特のうねりと鋭さが認められる。なお本一具は,承暦2年(1078)に橘寺から法隆寺に移された小金銅仏群のひとつである可能性が高い。
http://www.tnm.jp/jp/servlet/Con?processId=00&ref=2&Q1=&Q2=&Q3=&Q4=________3_1__&Q5=&F1=&F2=&pageId=E15&colid=N191

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東京国立博物館 ギャラリー(3)

十一面観音・飛鳥時代

1躯、銅造,鍍金、和歌山・那智山経塚出土、像高30.9、飛鳥時代、E14848
■解説
那智山経塚から出土した金銅仏群中の1体です。法隆寺金堂壁画にあらわされたそれと並ぶ,日本における十一面観音像の最古例として注目されます。装身具の装飾に用いられた特殊タガネによる複連点文は,法隆寺再建期に造られたとみられる一群の金銅仏に共通しています。
http://www.tnm.jp/jp/servlet/Con?processId=00&ref=2&Q1=&Q2=&Q3=&Q4=________3_1__&Q5=&F1=&F2=&pageId=E15&colid=E14848

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東京国立博物館 ギャラリー(2)

如来立像・飛鳥時代

1躯、銅製鍍金、像高33.4、飛鳥又は朝鮮三国又は飛鳥時代、重文、N151、法隆寺献納宝物
■解説
裳裾を左右にピンと張り,口もとにほんのり笑みをうかべる八頭身の像で,側面観もスマートな「く」の字形をしめす。このような長身像の系譜は中国南北朝6世紀の造像に発するが,本像の様式はその南朝の影響下に展開した朝鮮三国時代の百済のそれを想わせる。
http://www.tnm.jp/jp/servlet/Con?processId=00&ref=2&Q1=&Q2=&Q3=&Q4=________3_1__&Q5=&F1=&F2=&pageId=E15&colid=N151

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東京国立博物館 ギャラリー(1)

菩薩立像・飛鳥時代

1躯、木造,金箔押し・彩色、像高93.7、飛鳥時代、C217
( 2008/03/23まで平成館企画展示室にて展示中)
■解説
飛鳥時代前期の木彫の稀少な作例の一つです。頭体幹部をクスノキの一材から彫り出しています。『日本書紀』には用明2年(587)に坂田寺の木の丈六仏を造った記事があり,仏像製作の初期から木彫が行なわれたことが知られます。
http://www.tnm.jp/jp/servlet/Con?pageId=B07&processId=02&colid=C217

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聖徳太子について(6)

救世観音butuzou4


 最近の聖徳太子像にはほんとうにいろいろな見方がありますね。先生は、どう思いますか?

 質問の趣旨がよくわからないな。なにについて聞いているのか。

 失礼しました(独り言<いつもながら先生は、難しい人だな・・。なかなかすぐにはこちらの疑問に素直には答えてくれないな>、一服おいて・・)。
 飛鳥・白鳳彫刻を勉強していて、聖徳太子のことがもっと知りたくなり、経典とともに先人の書いた労作を読んでいます。ぼくは、亀井勝一郎が『大和古寺風物誌』でしるされた聖徳太子像に秘かに共感をもっているのですが。

 なるほど。それでは、亀井勝一郎賞を受賞した上原和『斑鳩の白い道のうえに―聖徳太子論』(1975年 朝日新聞社)は読んだかな。

 とても蘊蓄のある作品なので、まだちゃんと理解しているとは言えないと思います。ただ、玉虫厨子「捨身飼虎」図を見ながら、太子、そして山背大兄王に引き継がれた捨身の思想を強調しています。

 それだけではないだろう。この本の<凄さ>は、亀井的な太子像の明らかな転換にあると思うね。

 亀井さんの太子像は悲劇の、苦悩の皇太子といった感じですね。それに対して、上原さんの太子像も基本のトーンはかわりませんが、むしろより主体的というか、物部制圧にせよ、崇峻暗殺にせよ積極的な関与を前提として記述しています。

 そのとおり。さらに言えば推古天皇、蘇我馬子についての人物の見方は・・

 ウーン。推古天皇は美貌かつ男勝りの女帝。蘇我馬子は意外にも仏教の信仰に厚い融通のきかない官僚のドンといった書きぶりでしょうか。

 そして聖徳太子は推古、蘇我、自身の三者鼎立の、そう、「扇の要」であったといった感じじゃないかな。

 そこまでは書いていなかったと思いますけれど、瀬戸内海沿岸(松山~網干、加古川など)に相当な田畑を保有する経済的に確固たる基盤をもち、かつ、外交交渉の巧みさについても書いてあったですね。

 では、かってお札にも使われた有名な肖像画についての感想はどうだった・・

 ああした「ひ弱なインテリタイプ」ではなく、もっと戦闘的で男らしい大王のイメージですね。

 そうだね。上原は久米邦武氏の太子関連の文献の「確度分析」を一応評価しつつ、そこからこぼれ落ちた素材、評価の低い文献を丹念に渉猟して、実証的に新たな太子像を浮かび上がらせようとしているね。
 その太子像は、屹立する救世観音のように雄々しく、政治権力の中枢にいた。上原氏の良心的な記述では抑制されているが、そこからイメージされるのは相当な政治リアリストだ。

 確かに言われてみればそうですね。実は、先生の見方もそうなんですね・・。

 私はもっとラディカルかも知れないね。聖徳太子は若き日から軍事、政治とも権力中枢の闘争の只中にあった。しかも、それは蘇我ファミリーの有力な一員、もしかすると優れたリーダーの一角としての立場からだ。卓越した政治能力と人を惹きつける素晴らしい人徳もあったのだろう。
 しかも日々の政治リアリズムのなかで埋没するのではなく、<あるべき国家像>を自分の代で打ち立てようと懸命に研鑽、努力した。いわば「哲人政治家」を目指そうとしたふしもある。
 その一方、その一生は、亀井の言うような<美しい犠牲者>でも、また後世潤色された<神のような高潔さ>でもない。比較的早世はしたが、血に彩られた凄惨な権力闘争を勝ち抜いていくにたる強い肉体をもち、それは後年の厳つい太子像の作造に描写されているとも言えるかも知れない。だからこそ存命中は最後まで君臨し、その遺訓をつぐ山背大兄王を、抹殺というかたちで権力から完全に葬り去るのに、蘇我一族はその後20年以上の年月を要した。太子の権力が脆弱なら、もっと早くケリをつけていただろうし、これはいわば<蘇我ファミリー>内での血族間の権力を巡る内紛だ。

 『斑鳩の白い道のうえに―聖徳太子論』ではそこまでは書いていないですが、上原路線のイメージをもっと脹らませていくとそうした見方もありえると言うことでしょうか。もっと勉強してみます。

魅惑の仏像、ギャラリー

法隆寺釈迦三尊2
広隆寺弥勒菩薩
戒壇堂四天王
興福寺阿修羅
薬師寺薬師三尊

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にっぽん 心の仏像 100選

梅(2006.3.12)


 先日、ほんとうに久しぶりに橘寺を訪ね、雪のひとしきり降るなかひとり、六臂如意輪観音を拝観した。あらためてその美しさに魅せられたが、その旨をお寺の方に告げると、にこりと笑って「にっぽん心の仏像100選にもえらばれたのですよ」と言っておられた。
 そこで、どのような仏像が100選にラインナップされているかを以下に確認してみた。当然のこととはいえ、いかに京阪神に多くの仏様がおあすがか一目瞭然である。

◆【にっぽん心の仏像百選】ネットの旅
http://www.youtube.com/watch?v=ssBqc6QlR3U&feature=related


<にっぽん 心の仏像 100選>
1 中宮寺(奈良) 菩薩半跏像(伝 如意輪観音)
2 広隆寺(京都) 弥勒菩薩半跏像
3 興福寺(奈良) 阿修羅像
4 南蔵院(東京) 縛られ地蔵
5 安産寺(奈良) 子安地蔵
6 定福寺(高知) 六地蔵
7 東大寺(奈良) 盧舎那仏坐像
8 東大寺(奈良) ※弥勒仏坐像(奈良国立博物館寄託 2008/3月末まで公開 *その後要問合せ)
9 東大寺 阿弥陀堂(奈良) ※五劫思惟阿弥陀坐像(10月5日のみ開帳)
10 東大寺 戒壇堂(奈良) 四天王立像

11 東大寺 法華堂 (三月堂)(奈良) 不空羂索観音立像
12 東大寺 法華堂 (三月堂)(奈良)日光・月光菩薩立像
13 蓮華王院 三十三間堂(京都) 千手千眼観世音菩薩
14 覚園寺(鎌倉) 薬師如来坐像 (拝観時間要問い合わせ)
15 野中寺(大阪) ※秘仏 金銅 弥勒菩薩半跏像(毎月18日のみ開帳)
16 葛井寺(大阪) ※千手千眼観世音菩薩坐像(毎月18日のみ開帳)
17 観心寺(大阪) ※秘仏 如意輪観音坐像(4月17日・18日のみ開帳)
18 宝菩提院 願徳寺(京都) 菩薩半跏像(伝如意輪観音)
19 東寺(京都) 梵天、帝釈天、四天王(持国天)、金剛法菩薩坐像、不動明王坐像、大日如来坐像
20 法界寺(京都) 阿弥陀如来坐像

21 蟹満寺(京都) 釈迦如来坐像
22 清凉寺(京都) ※秘仏 釈迦如来立像(毎月8日/4月5月10月11月開帳)
23 永観堂 禅林寺(京都) みかえり阿弥陀如来立像
24 長谷寺(奈良) 十一面観音菩薩立像
25 室生寺(奈良) 十一面観音菩薩立像
26 中尊寺(岩手) 阿弥陀三尊像
27 浄土寺(兵庫) 阿弥陀如来立像
28 平等院鳳凰堂(京都) 阿弥陀如来坐像
29 浄瑠璃寺(京都) 九体阿弥陀如来像
30 三千院往生極楽院(京都) 阿弥陀三尊像 I

31 向源寺(滋賀) 十一面観音菩薩立像
32 聖林寺(奈良) 十一面観音立像
33 百済寺(滋賀) ※秘仏 十一面観音立像(植木観音像) (公開予定なし)
34 法華寺(奈良) ※秘仏 十一面観音立像(3/20~4/7日・6/5~6/9・10/25~11/10日開帳)
35 大谷寺(福井) ※秘仏 十一面観音三尊像(11/3・4日のみ開帳)
36 石道寺(滋賀) 十一面観音立像
37 神照寺(滋賀) 十一面観音坐像
38 法隆寺(奈良) 釈迦三尊像
39 法隆寺(奈良) 百済観音像
40 法隆寺(奈良)※秘仏 救世観音像(4/11日~5/18日 10/22日~11/22日のみ開帳)

41 飛鳥寺(奈良) 釈迦如来坐像(飛鳥大仏)
42 橘寺(奈良) 如意輪観世音菩薩坐像
43 秋篠寺(奈良) 伝 伎芸天立像
44 薬師寺(奈良) 聖観音菩薩立像
45 唐招提寺(奈良) ※千手観音立像(金堂修理中のため2009年秋から公開予定)
46 新薬師寺(奈良) 十二神将立像
47 興福寺(奈良) 天燈鬼・龍燈鬼立像
48 円成寺(奈良) 大日如来坐像
49 願成就院(静岡) 毘沙門天像
50 願成就院(静岡) 矜羯羅・制多迦童子像

51 東大寺(奈良) 金剛力士像
52 興福寺(奈良) ※不空羂索観音菩薩坐像 (’08年は10/17・10/18~11/24まで公開)
53 梅谷観音堂(福岡) ※千手観音菩薩立像(場所は未公表)
54 己高閣(滋賀) 十一面観音立像
55 薬師寺(奈良) 薬師如来像
56 醍醐寺(京都) 薬師如来坐像
57 神護寺(京都) 薬師如来立像
58 朝田寺(三重) 地蔵菩薩像
59 船形山神社(宮城) ※菩薩像 (5月1日開帳)
60 成島毘沙門堂(岩手) 兜跋毘沙門天立像

61 三佛寺(鳥取) 蔵王権現立像
62 観世音寺(福岡) 馬頭観世音菩薩立像
63 高田寺(愛知) ※薬師如来坐像 (50年に一度ご開帳)
64 願行寺(山口) 立木薬師如来像
65 妙高寺(新潟) ※愛染明王像(毎月26日ご開帳 その他の日は要問合せ)
66 荒子観音寺(愛知) 仁王像(阿形・吽形)
67 僧形像(円空自刻像)
68 円空ふるさと館(岐阜) 不動明王像
69 正宗寺(岐阜) 薬師如来像
70 石峰寺(京都) 若冲の五百羅漢

71 化野念仏寺(京都) 化野念仏寺の無縁仏
72 臼杵(大分) 臼杵磨崖仏
73 湯川寺(函館) 三十三観音像
74 当尾(京都) 阿弥陀三尊磨崖仏(わらい仏)
75 満月寺浮御堂(滋賀) 千体阿弥陀如来
76 金峯山寺(奈良) ※秘仏 蔵王権現像 (不定期開帳)
77 山上ケ岳歴史博物館(奈良) 役行者像
78 国東半島(大分) 熊野磨崖仏
79 富貴寺(大分) 阿弥陀如来坐像
80 前神寺(愛媛) ※蔵王権現像(毎月20日夜開帳 時間は要問合せ)

81 本山 慈恩寺(山形) 十二神将立像
82 朝日観音堂(福通寺) ※正観世音菩薩(朝日観音)(1月1日/4月18日/8月10日開帳)
83 弘明寺(神奈川) 十一面観音菩薩立像
84 鳥取民藝美術館・童子地蔵堂(鳥取) 地蔵菩薩像
85 大悲王院(福岡) 千手観音立像
86 熊野古道 観音道石仏群
87 那智山 青岸渡寺(和歌山) 如意輪観音坐像
88 補陀洛山寺(和歌山) ※秘仏 十一面千手観音立像(1月27日/517日/7月10日のみ開帳)
89 本山 慈恩寺 薬師堂(山形) 薬師如来三尊像
90 天台寺(岩手県) 薬師如来坐像

91 勝常寺(福島) 薬師如来坐像
92 勝常寺(福島) 徳一菩薩像
93 興福寺(奈良) ※無著菩薩立像・世親菩薩立像(2008年度は4/26~5/6 ・10/25~11/9)
94 唐招提寺(奈良) ※鑑真和上坐像(2008年度5月31日~6月8日公開)
95 西往寺(京都) 宝誌和尚立像
96 六波羅密寺(京都) 空也上人立像
97 光明禅寺(鹿児島) 阿弥陀如来立像
98 廣泉寺(鹿児島) 阿弥陀如来9立像
99 12代沈壽官作 ※地蔵菩薩 (所在地は未公表)
100 光圓寺(奈良) ※釈迦如来坐像(現在は滋賀県 光圓寺別院に安置)

出典:http://www.nhk.or.jp/butsuzou/naiyo/list100.html

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聖徳太子について(5)

明日香asuka10


 先日、雪の明日香をひとり歩く。蘇我一族の興亡の夢のあとを考える。奈良の平城京跡も訪れる。そこには「物理的に」復活できることとは別の感慨があった。そして今日は四天王寺のフォーラムを聴きにいく。

 上町台地の中端に位置する四天王寺の大鳥居に彼岸に沈む夕陽は、淡路島と六甲山系の合間の瀬戸内海に「入滅」するという。海からのアプローチ。中国、朝鮮からの外交使節や新知識や文物は海路をへて当時は湾に隣接する難波四天王寺にあがる。ここから陸路をへて斑鳩へ。海の玄関口としての四天王寺、そして内陸都市斑鳩でも同様に壮大な仏教伽藍が迎える、聖徳太子直轄の「二大寺院」はまた外交上の迎賓館、知的拠点としての大学としても機能していただろう。

 日本書紀編纂が720年。太子没(622年)後約1世紀の時が流れている。日本書紀の記載には政治的な思惑もあり、「太子実在」に疑問を投げかける向きもあるが、では日本書紀などに書かれなかったがゆえに、多くの失われた太子関連の足跡や重要な事象もあっただろうとの<逆推論>も当然なりたつ。

 聖徳太子は生前はあきらかに「蘇我ファミリー」の一員だった。また、過去帳からは四天王寺には、滅ぼされた物部一族関係の多くの人々もいたとも・・。複雑さ、多義的なゆえにそこに面白さもある。さらに、四天王寺には、当初、如来、菩薩はなく眷属たる四天王のみが直線的におかれていたとの説もある。それは外交上のプレゼンスか、外敵に対する守護神としての本来の意味か・・?

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