大和古仏探訪

京阪神を中心に内外の古仏についていろいろと書いてみたいと思います。

飛鳥・白鳳彫刻の魅力(5) 蟹満寺釈迦如来座像

蟹満寺


 昨日、畏友0氏がクルマで観音寺(普賢寺)、蟹満寺、禅定寺、MIHO MUSEUM、関宿を終日案内してくれた。爛漫の春、新緑の山々をめでるとともに多くの仏様に再会、また新たにお会いする意義深い一日だった。しかし、その白眉はなんと言っても蟹満寺釈迦如来座像の拝観であった。

 私は以前から、この「釈迦如来座像」は東大寺盧舎那仏像の原型(のひとつ)ではないかと勝手に考えている。これだけの優れた仏像である。東大寺大仏建立にあたって、作造する仏師がこの仏様を参考にしないこと自体が考えられないと思う。また、当時、この規模の鋳造仏はそう多く存在したとも考えにくい。本来、「釈迦如来座像」であったかどうかはいまはわからないし、螺髪と白毫が失われていることから当初の存在感とは異質の印象を現代のわれわれにあたえていることであろう。


 「当寺は奈良朝以前、秦氏の一族秦和賀によって建立され、後に行基菩薩の関与により民衆のあつい信仰を集めた。
 また今昔物語集巻十六第十六話等数多の古書に創建にまつわる有名な”蟹満寺縁起”が記され、仏教説話として広く世間に紹介されている。
 本堂中央に祭祀されている国宝釈迦如来像は今から一千三百年の昔白鳳時代の名作で金銅座像、八尺八寸(2m67)、重量二千貫(七屯)と称する初唐様式を直模する堂々たる尊像で、しかも殆んど完全に近い原型のまま今日にいたり薄衣を透して美の重量性を発揮した豊満な肉体を刻出して要望は荘重であり端麗である。
 螺髪と白毫をつけず人間味を帯びた相好で親しみを覚える。また手の指間には水掻の如き曼網相を具え生きとし生けるものをすべて悟りの世界へ救い上げるという形相が尊い。(以上蟹満寺発行のリーフレットより)

 蟹満寺は謎の多い寺です。例えば本尊釈迦如来像、都から離れたこの地に何故これだけ大きい立派な仏様が祀られているのでしょうか。奈良の都から運んだ説や山城国分寺の像を移転した説などがありましたが、先年の境内発掘調査で何と90尺×60尺の白鳳時代と思われる大きなお堂らしい建物の基壇が出てきました。その建物の位置は、今の本堂の位置を一番奥として、前と左右に広がっています。ということはその建物で仏様が祀られていたとすれば、現在本尊様のお祀りされている位置とピタリと一致することになります。また今の寺を取り囲むように2.5町×3町の広い回廊跡が出ています。このような結果からすると、この本尊様はこの地にあった大寺院の本尊様として、最初からこの位置にお祀りされていたと考えるのが自然でしょう。ところでこの本尊様と常に比較されるのが、これも制作年代に二説ある奈良の薬師寺本尊ですが、鋳造技法上、蟹満寺の本尊様のほうが少し古いということが判っていますから、蟹満寺の発掘調査の結果は、薬師寺本尊の制作年代の議論にまで影響を与えています。」 http://www.anraku.or.jp/jiin7.htm

 正面から少し距離をおいて見ると、巨大な頭部と相対的には小さい体躯部のバランスが意外と悪くないことに気がつく。拝観する位置によって全体のプロポーションは均整をもっていると感じる。
 側面から、近くに寄り毀損した部分から空洞のなかを覗くと、鋳造の厚さが数ミリと薄手であることに驚く。素晴らしい重量感をもちながら薄氷を踏むような技術的な能力で材料の総量をコントロールしているように思う。7トンといわれた重さは0氏によれば、約2.2トンとの新聞報道があった由である。
 背面は補修や鋳直しのあとが痛々しい。しかし、現在、東京国立博物館に出展されている薬師寺の日光、月光菩薩ほどではないにせよ、十分に視線を意識してつくられているとは思う。
 再度、正面から尊顔を拝する。厳しくも慈悲深いお顔は、火傷のあとであろうか、幾筋かの傷を負っておられることがわかる。ながい風雪に耐えた深みのある表情とでも言えば文飾に聞こえるであろうか。
 この仏様が、当初よりここにおわしたか、いずこからか運ばれてきたかは不詳ながら、現代のわれわれが白鳳期といわれるこうした大きな鋳造仏を目にできること自体、奇跡と言ってよい。感謝、合掌の気持ちとともに仮安置所をあとにする。

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飛鳥・白鳳彫刻の魅力(14) 法隆寺釈迦三尊

法隆寺釈迦三尊images


 法隆寺金堂の須弥壇が修理中ということで、いまは釈迦三尊像と薬師如来座像が上御堂に「緊急避難」しておられる。普段は金堂の暗闇のなか、遠方から懐中電灯を照らして、なんとか拝観できるこれらの仏様が、この期間中は上御堂の前面におわし、白日のもとおそば近くで接することができる。

 時間のたつのも忘れてじっと凝視していたが、突然、ある疑問が湧いてきた。法隆寺再建・非再建論争は措くとしても、この釈迦三尊像は、かっての、あるいはいまの金堂ができたとき、本来の「あるべき」ご本尊として造られたのかどうかについての問いである。私は金堂の内陣の大きさや脇侍の像高のある四天王に対して、不釣り合いにあまりに「小さすぎる」のではないかと思ったーーこの感覚は、お側近くに接してはじめて今回もつものであった。イマジネーションが増し、それ以前のどこかの極めて所縁のある寺院から運ばれた<客仏>ではないか・・・。

 少なくとも当初、若草伽藍におわしたご本尊は、いまの飛鳥寺(旧法興寺)の釈迦如来像と同様な「丈六」の仏様でなければ据わりが悪いのではないか。また、若草伽藍が焼失した際に、本来の、あるいはいまの釈迦三尊像を機敏に運び出せたとは常識的にはとても思えない。よって、若草伽藍とともに当初造像され仏様は灰燼に帰した可能性が高く、その後、建立された現在の伽藍にあって、金堂にふさわしい本尊をもっとも近しいお寺から運んできたのではないかと思った次第である。これは、上原和氏がかって指摘されていた視点とも符合する。

 一方、高田良信編・著の『聖徳太子の生涯と信仰』法隆寺刊 1995年を読んでいると、再建された頃の法隆寺の懐具合はけっして楽ではなかったようだ。しかし、高田師は上記のような見解はとられておらず、若草伽藍があった時代に同時併行的に現堂宇の建立ははじまっており、釈迦三尊像も古い時代に造像され、新金堂には運ばれたとのご意見だが、仮に十分な資金がなかったとすれば<客仏>説にも一定の合理性はあるようにも思う。

 よく尊顔の表情の厳しさなどの様式史から、釈迦三尊像は早い時期に造像され、薬師如来像はそれとの対比で時代が下るとの説もなされるが、釈迦三尊像の二等辺三角形を徹底して意識した構図や、本尊と両脇侍の目線の位置の絶妙なバランス感覚などでの秀でた意匠性は、<プリミティブさ>からは無縁であり、様式史をもって単純に年代が遡るとは言えないと思う。銘文は重視しつつも、このあたりはもっと考えを巡らす必要がありそうだ。

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参考文献リスト2

 このブログで、これまで書いてきた聖徳太子関連の主な参考文献は以下のとおりです。

上原 和 『斑鳩の白い道の上に―聖徳太子論』朝日新聞社  1978年
上原 和 『聖徳太子―再建法隆寺の謎』講談社学術文庫 1987年
上原 和 『斑鳩西の京 (平凡社カラー新書セレクション―古寺巡歴)』平凡社 1997年 
亀井勝一郎 『大和古寺風物詩』旺文社 1979年(初版は1943年)
田村圓澄 『聖徳太子 斑鳩宮の争い』中公新書 1964年
高田良信編・著 『聖徳太子の生涯と信仰』法隆寺 1995年(第2版) 

梅原 猛 『隠された十字架―法隆寺論』新潮社 1986年
梅原 猛 『聖徳太子(1)~(4)』集英社 1993年
武澤 秀一 『法隆寺の謎を解く』筑摩書房 2006年

黛 弘道 『古代史を彩る女人像』講談社学術文庫 1985年
吉村 武彦 『聖徳太子』岩波書店 2002年
佐藤 正英 『聖徳太子の仏法』講談社 2004年
豊田 有恒 『どうする東アジア聖徳太子に学ぶ外交 』祥伝社 2007年

中村 元  『聖徳太子―日本の思想』春秋社 1998年
中村 元  『(翻訳)勝鬘経義疏、維摩経義疏(抄)、法華義疏〈抄〉、 十七条憲法ほか』 中央公論社
狩谷 望之, 平子 尚, 花山 信勝, 家永 三郎 『上宮聖徳法王帝説』岩波書店 1941年

林 豊他 『聖徳太子の寺を歩く―太子ゆかりの三十三カ寺めぐり (楽学ブックス 古寺巡礼 9)』ジェイティビィパブリッシング 2007年

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神護寺薬師如来立像

神護寺薬師如来


 学生のときに訪れてから30数余年ぶりの訪問である。険しい石段の参道はかってはまったく気にならなかったが今日はいささかを超えてシンドイ。しかし、この薬師如来を拝観するには「身体的」にと同等に必要な「心」の準備運動かもしれない。次は神護寺HPからの引用。

□ 薬師如来立像
 金堂に安置される本尊は薬師三尊である。
 鎌倉時代の末に編纂された『神護寺略記』に引用されている『弘仁資財帳』に「薬師仏像一躯 脇士菩薩像二躯」とあるのがこの三尊に当たると思われる。
 資財帳とは、定額寺で作ることを義務付けられていたもので、弘仁年間の資財帳とは当時定額寺であった神願寺のものであり、この像が神願寺から高雄山寺に移されたと考えられてきた。
 近年、この本尊を高雄山寺に由来するとする説が出され、その結論はまだ定まっていない。
 新説では、弘仁年間は資財帳の提出の義務付けが停止された時期であること、資財帳の作成は定額寺のみに限られたものでないこと、神願寺が寺域としてふさわしくない場所にあったとされる像を、あえて清らかな場所、高雄山寺の本尊に移すといった考え方は、当時の穢れに対する対処法として疑問があることが提起された。
 見据えるような鋭いまなざし、太い鼻筋と肉付きよい小鼻、思い切って突き出しへの字に引き締めた唇。拝するものに畏怖の念を起こさせるこのような異相は禁欲的な山岳修行者の存在が生み出したものかもしれない。
 唐招提寺薬師如来像とくらべて胸と腹が小さく、腰以下が強調されて圧倒的な重量感を印象付ける。木という硬くまた粘りのある材質を鋭利な刃物で彫ることによる木彫ならではの鋭い表現が生まれてきている。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~kosho/treasure01.html

 多くの識者の見解は、世情定まらぬ平安初期の時代が投影された作風(その森厳さ、威圧感)とか、最先端の技術マニュアルでもあった密教芸術の影響(豊穣な、濃厚な表現ぶり)を指摘する。仁和寺霊宝館で「別尊雑記」(平安時代、重文)のオリジナルを見る。後者の見解には首肯しうる説得力があるようにも思う。

 金堂前でご住職とお話しする機会をえた。私の疑問は創建当初、神護寺にはこの薬師如来立像のような作風の多くの仏様が存在したのかどうかということだった。ご住職は慎重に言葉を選ばれて、ご本尊がほぼ創建当初の時代のものであることは確認できるにせよ、もともとどの寺院に属し、どのような経緯で今日本所にあるかは不明な点も多い。しかし、河内からの移設も可能性のひとつとのことだった。ふたたび神護寺HPからの引用。


□沿革史
平安遷都の提唱者であり、また新都市造営の推進者として知られる和気清麻呂は、天応元年(781)、国家安泰を祈願し河内に神願寺を、またほぼ同じ時期に、山城に私寺として高雄山寺を建立している。
 神願寺が実際どこにあったのか、確かな資料が残っていないため、いまだ確認されていないが、その発願は和気清麻呂がかねて宇佐八幡大紳の神託を請うた時「一切経を写し、仏像を作り、最勝王経を読誦して一伽藍を建て,万代安寧を祈願せよ」というお告げを受け,その心願を成就するためと伝えられ、寺名もそこに由来している。 また、私寺として建てられた高雄山寺は、海抜900メートル以上の愛宕五寺のひとつといわれているところからすれば、単なる和気氏の菩提寺というよりは、それまでの奈良の都市仏教に飽きたらない山岳修行を志す僧たちの道場として建てられたと考えられる。
 愛宕五寺または愛宕五坊と呼ばれる寺は白雲寺、月輪寺、日輪寺、伝法寺、高雄山寺であるが、残念ながら現在にその名をとどめているのは高雄山寺改め神護寺と月輪寺のみである。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~kosho/enkaku.html

 私は目が開かれる思いだった。「では、ご本尊は南都仏師がつくった可能性もあるのですね」とご住職に問うたが、五大虚空蔵菩薩像が唐招提寺の現存仏との共通点があることを指摘され、その可能性は否定はされなかった。私は奈良博でいつも元興寺薬師如来像の前に佇みつつ、この両薬師像が同一ないし関係の深い仏所の作品ではないかと思っていた。素人にのみ許される空想の翼だろうが、その特異な肢体の凝縮感、表情に違いはあるが非常に厳しい尊顔の切れ味、なによりその抜群の技量からみて南都仏師の<意地>がここに表現されているように思われてならない。

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