大和古仏探訪

京阪神を中心に内外の古仏についていろいろと書いてみたいと思います。

保田與重郎  『日本の美術史』 新潮社 1968年

 古書市で見つけて偶然手にとる。立ち読みし、いくつかの強烈なフレーズが眼に入ってきて初版本を購入することにする。読みはじめて、そのとてつもない博識ぶり、破天荒な発想法、世の「常識」を痛罵する論説に驚く。異端の思想家といった先入主はあるが、まず考えさせられたのは、法隆寺金堂壁画焼失の顛末である。
 もともと保田は壁画の薬品加工、模写に反対だった。佐伯定胤法隆寺管長もこの事業には反対されたと言うが、当時、明確に反対を表明したのはこの2名であったと記される。
昭和24年、模写をしていた電気座布団の不始末から失火、それがもとで貴重な壁画は焼失。それを保田は厳しく批判する。そういえば、その惨憺たる消火後の現場に呆然と立ちつくす佐伯管長の横顔の写真を見たことがある。また、最近の高松塚古墳壁画の劣化事件ももしも保田が生きていたら断じて許さなかったろう。
過去から引き継いだ文化遺産はできるだけあるがままに残しておくべきというのが保田の考え方である。日本の文化遺産がこのように多く残っているのは、寺院の栄枯盛衰や戦禍、天災があっても、その時々で名もない民衆が懸命にそれを保全してきたからだ。だから、仏像や仏画を信仰する老若男女が、巡礼で寺院を訪れた場合に、それが貴重な文化財であったとしても、信仰上、それに触れたければそうすればいい、と保田は主張する。それも確かに一理ある。例えば、運慶初期の秀作大日如来を拝観すべく訪れた鄙びた奈良郊外の寺院で、ガラス・ケース越しに見る仏様に言いしれぬ違和感を感じたこともある。

 保田はまた美術研究についても以下のように辛辣に述べている。
 「美術やその歴史を語る上で、様式とか形式といふことを目安にする考へ方は、わが国では、文明開化以前にはなかった。かうした方法の始まりは、近々百年この方美学を芸術学としてつくる時に、凡庸で美のわからぬ分類家が考えへたものである。昭和の初期、私の批評の一つの信念としたことは、文芸に於て、美術に於て、かういう国際的傾向の否定であった。ドイツ風文芸学やまた芸術学では、様式分類しか知らなかったのである」。(p.89、漢字のみ新字体に変更)
 この意見はあまりに極端であるとは思うけれど、岡倉天心の独自の活動を非常に高く評価し、自身も大学ではドイツのヘルダーリンやドイツロマン派のシュレーゲルへ傾倒してきた保田の言説には、強烈な<毒>とともにそれなりの筋金入りの文化人としての主張があるのだろう。実に刺激的な書である。



(参考)
「紙ナケレバ空ニモ書カン ~反動の烙印押され文壇の生贄になった~ 昭和の文壇の巨人・保田興重郎」
http://www.elt-sakurai.net/sjournal/sjournal_top.html 

  「日本浪曼派」の旗手として活躍、戦後は公職追放、不当な文壇な仕打ち、今なお残る偏見にも屈せず文学の信実を求めつづけ、『保田與重郎全集』全45巻に及ぶ膨大な論著を遺した昭和文壇の巨人・保田與重郎は、桜井が生んだ最大の人物である。昭和56年10月4日、71歳でこの世を去った。今年は保田與重郎没後20年にあたる。

 保田與重郎は、明治43年4月15日、父・槌三郎、母・保栄の長男として桜井市桜井780に生れた。生家は現存している。育成幼稚園、桜井尋常小学校、畝傍中学、大阪高等学校から東大に進み、在学中から同人誌「コギト」を創刊、盛んな文筆活動を行った。東大卒業後、亀井勝一郎らと「日本浪曼派」を興しその中心となる。

 昭和11年、処女出版「日本の橋」で池谷信三郎賞を受賞、文壇の地位を確立。以後「戴冠詩人の御一人者」「蒙疆」「御鳥羽院」「和泉式部私抄」 「万葉集の精神」などを著わす。

 このころ日本は、日華事変が深刻化し大東亜戦争に突入していく時期で、古事記、万葉集、延喜式祝詞など古典文学の伝統のもと新しいロマンチシズムを打ち立てようとする保田の著作は当時の若者を魅了し、彼を時代の寵児に仕立て上げていった。

 終戦後、保田は公職追放に処され、文壇からは最も悪質な右翼分子のレッテルを貼られ、発表の場を閉ざされた。戦中は左から右へ、戦後は右から左へと巧みに転向していった多くの便乗文化人を彼は20年後「そのころ私は、他人の卑怯な世渡りを難じたことはない。また多くの者は、私一人を大東亜戦争の重大責任者であるといふ形で葬り、それによって自分らのはかない世渡りを合理づけようとした。」と回顧している。

 しかし、彼は不遇の時期を郷里・桜井で送り、「日本に祈る」に「紙ナケレバ土ニモ書カン」と宣言、「祖国」を創刊して匿名で時評を書いた。この時期のことを「辛抱する。この辛抱といふことが私の戦後20年の接続詞だった」と述べている。 昭和39年「現代畸人伝」で文壇復帰する。以後「大和長谷寺」「日本の美術史」「日本浪曼派の時代」「木丹木母集」「日本の文学史」「山の辺の道」「わが万葉集」などの名著を次々世に出した。
 

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西大寺にて

西大寺

  最近、どこか良いお寺に行きましたか・・?

  さんと一緒に西大寺に行きました。近くの風情ある秋篠寺にも久しぶりで参りましたよ。

  西大寺、面白かったねえ。秋篠寺の仏様も皆、立派だったねえ。

  西大寺と言えば、仏像では木心乾漆阿弥陀如来・釈迦如来・阿閦如来・宝生如来坐像のほか、四天王像 (四王堂)、吉祥天立像 (聚宝館)、十一面観音像 (四王堂) 本尊 、釈迦如来立像 (本堂) 本尊、愛染明王坐像 (愛染堂) 本尊、興正菩薩叡尊上人像 (愛染堂) 、文殊菩薩騎獅像 四侍者像 (本堂)、行基菩薩坐像 (聚宝館)などが有名ですが、なにか気にいった仏様に会えましたか。

  愛染明王坐像 (愛染堂) 本尊は秘仏で公開期間外だったので江戸時代の複製を見ました。興正菩薩叡尊上人像 (愛染堂、鎌倉時代)は離れていて良く見えませんでしたが、文殊菩薩騎獅像 四侍者像 (本堂)はお側近くで拝観して素晴らしかったです。

  古いものはあまり気に入らなかったが、江戸時代の仏様でも良いのが結構あるね。
 
  有名な塔本四仏坐像(重文:釈迦如来、阿弥陀如来、阿閦如来、宝生如来の4体で木心乾漆造。焼失した五重塔の初層に安置とも言われ、奈良時代末期の規準作。なお、4体のうち2体は東京と奈良の国立博物館に寄託)はどうでした。

  まあ悪くはないが、たぶんこの仏様は当時は結構沢山造られたんだろうな、と思ったね。いま残っているのはそれはそれで貴重なんだろうが、どうもマスプロの一つかなと思っちまうなあ。胸は打たんな。それにくらべて江戸時代の仏様は一品一品、懸命に彫っているように思ったね。

  さんの見方はとてもユニークですよね。解説もあまりご覧にならないし、仏様は古くても新しくてもあまり関係ない、という感じですね。ご自分が気にいればずっと佇むし・・。

  銘が入っていたり、作造した仏師がわかっていたりすると仏様の前に解説が書いてある。古いものは写真集や解説本などにも載っている。しかし、だからどうなん!とも思うね。秋篠寺の伎芸天の胴体は後補だけど、たいしたものだ。西大寺でも室町や江戸の知られていない名もない仏師が彫った仏像で、解説はない、図録にも載っていないがこいつは凄いなと思うのもある。まあ、単に好き嫌いだけかも知れないが、近頃よく、仏様は「心」で観るもの、解説は場合によれば煩わしいとも思うな。

  さんの言うこともわかるなあ。美術史家ではない人は、細事にとらわれず自由に鑑賞できる「特権」があるのかも知れませんね。

  おっと今日は珍しく氏と意見があっちまったかな。ハハハ・・(といつもの馬鹿笑い)。

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黒田鵬心 『日本美術史講話  全』 星文館 1929年

 東京国立博物館で薬師寺展が開催されており、NHKでの特集番組をみた。そのなかで、薬師寺の東塔を「凍れる音楽」と表現していたが、この有名な比喩を日本ではじめて書いたのが黒田鵬心(1885ー1967年)と言われる(注1,2)。

 多才・多芸な方だったようで、前後は別として、文化学院で日本美術史を講義する一方、三越の社員としてフランスの絵画などの輸入にも携わり、D'OElsnitz とともに、東京で「日仏芸術社」を設立(フランス美術作品を輸入、展覧会を開き販売)、また建築、景観や公園論の著作も多い(注3,4)。

 表記の本はその代表作であるが大正3年に脱稿されている。和辻の『古寺巡礼』が出版されたのは大正8(1919)年であるからはるかに早い。そしていま読みかえしてみても、その斬新な視点は十分に参考になる。目次(各章と第1節)を掲げておこう。全体の叙述がこれによってほぼわかる構成になっている。

序  説
第1章 出雲大社と伊勢神宮(揺籃期)ー1.独創時代
第2章 四天王寺と法隆寺(飛鳥時代)ー1.朝鮮模倣の時代
第3章 薬師寺と興福寺(白鳳時代)ー1.唐模倣の第1期
第4章 東大寺と唐招提寺(天平時代)ー1.唐模倣の第2期
第5章 平安城と延暦寺(弘仁時代)ー1.唐模倣の第3期
第6章 醍醐寺と平等院(藤初時代)ー1.同化発現の第1期
第7章 中尊寺と厳島神社(藤末時代)ー1.同化発現第2期
第8章 円覚寺と観心寺(鎌倉時代)ー1.宋元模倣の第1期
第9章 東福寺と金閣(室町時代)ー1.宋元模倣の第2期
第10章 桃山城と三宝院(桃山時代)
                     ー1.第2次同化の第1期
第11章 江戸城と日光廟(江戸時代)
                     ー1.第2次同化の第2期
第12章 明治時代ー1.泰西模倣時代
結  論



(1)黒田 鵬心(くろだ ほうしん)/(専門)美術評論家/(生年月日)1885. 1.15(明治18)/(没年月日)1967.3.18(昭和42)/(来歴)美術評論家。本名は明信(一説に朋信)。
http://www.bunkaken.net/index.files/arakaruto/jinmei/ka.html

黒田は、明治43年東大文科を出て読売新聞に入り、議院建築問題など、建築評論に名を馳せた人。
http://homepage1.nifty.com/tanboh/okada04.htm

(2)「薬師寺は、明治時代にアメリカ人フェノロサが「凍れる音楽」と表現したことでしられる東塔が有名です。しかし、フェノロサがこのような言葉を述べたことは確認できず、最近は、黒田鵬心(ほうしん、美術評論家)が『日本美術史概説』(1914年)で表現したのが最初だといわれています」。
(『Story・日本の歴史』より)
http://homepage2.nifty.com/mazzn/665.htm

(3)「明治初期には銀座煉瓦街や日比谷官庁集中計画における威信礼儀の洋風美観と、市区改正委員会での議論における保全型風致美観といった、都市風景に対する二つの審美観が存在した。建築学会は1906年から1913年にかけて、全市街での洋風美観創出を目的とした東京市建築条例案の検討を行っている。この時期建築家を中心に、都市計画に対する理解、市区改正の延長型、市街地改造等は美観創出を目的とするというのが大勢であった。同時期に、「都市の美観」(『美術新報』)や黒田鵬心「帝都の美観と建築」(『東京朝日新聞』、共に1910年)等、都市美観の啓蒙も始まっている」。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%AF%E8%A6%B3

(4)公園系統の樹立 / 黒田鵬心 (時事新報 1923.12.1 (大正12))
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/directory/sinbun/ymlist/192312.html

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大阪市美術館探訪

野中寺弥勒菩薩2


 大阪・野中寺蔵の金銅弥勒菩薩半跏像(白鳳時代・666年)をゆっくりと見たくて大阪市美術館に4月の終わりに足を運んだ。この仏様がなぜ国宝ではなくて重要文化財なのか、30数年前から疑問に思っているのだが、照明に工夫をこらした展示はとても見やすく、この逸品を鑑賞できるだけで <特別展 叡福寺の太子絵伝 修復完成記念 聖徳太子ゆかりの名宝 河内三太子:叡福寺・野中寺・大聖勝軍寺/平成20年4月26日(土)~6月8日(日) >に行く価値は十分すぎるほどにあると思う。

 加えて、通常展の「中国の彫刻」を観る。①龍門石窟 古陽洞、②供養人行列図、③龍門石窟 賓陽中洞 菩薩立像頭部、④龍門石窟 敬善寺洞 如来坐像頭部、⑤龍門石窟 奉先寺洞 如来立像頭部、⑥天龍山石窟 第3窟 維摩居士坐像、⑦天龍山石窟 第1窟 如来坐像頭部、⑧砂岩 如来坐像、⑨砂岩 菩薩交脚龕、⑩砂岩 太子半跏思惟龕、⑪石灰岩 仏三尊像、⑫砂岩 道教三尊像、⑬砂岩 四面像、⑭黄花石 如来三尊像、⑮石灰岩 道教四面像、⑯白大理石 如来三尊龕、⑰石灰岩 如来倚坐像、⑱石灰岩 如来坐像龕などどれも「凄い」ものだ(このうち銘などで年代が特定されている5仏を以下のギャラリーで掲載した)。

 ほかに小金銅仏でも飛鳥、白鳳期の優品もあり、大阪市内でこれだけの物量の仏様にお会いできることに驚いた。なぜ、もっとこうした舶載の仏様が一般に紹介されないのか・・も訝しい。あるいは、渡来仏の可能性もある野中寺の弥勒像がいまだ国宝にならない理由と共通するものがあるのかどうか。

 中国文明の底深さに圧倒され、国内でかかる秀でた仏様と遭遇できることのさまざまな意味を考え、そして、なによりその素晴らしさに刮目した一日であった。

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大阪市美術館 ギャラリー(5)

大阪市美術館5


砂岩 如来坐像(さがん にょらいざぞう )、北魏時代・天安元年(466)
山口コレクションH28.7

頭部・体躯ともにまるまるとして張りがある姿の如来坐像です。身に着ける衣を、細かな折れ目やしわまで克明に表すのが大きな特徴です。おだやかに微笑むような表情、どの角度から見ても破綻のない身体表現など、完成度の高い彫刻作品といえます。台座正面には、中央に博山炉(香炉)、その両脇には礼拝する人物と獅子を左右対称に浮彫しています。また背面には本像の発願者名「馮愛々」とその日付「天安元年四月八日」などが刻まれています。
http://osaka-art.info-museum.net/selection/sel_cscu.html

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大阪市美術館 ギャラリー(4)

大阪市美術館4


石灰岩 道教四面像(せっかいがん どうきょうしめんぞう )、西魏時代・甲戌年(554)
山口コレクションH70.6

各面に龕をひらき、道教の尊像をあらわした四面像です。その作風は、陜西省西安の近郊から発見される道教・仏教の四面像と一致するものといえるでしょう。銘文中に「甲戌」と制作年の干支が記されていますが、おそらく西魏時代(554年)とみるのが妥当と考えられます。
http://osaka-art.info-museum.net/selection/sel_cscu.html

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大阪市美術館 ギャラリー(3)

大阪市美術館3


石灰岩 仏三尊像(せっかいがん ぶつさんぞんぞう )、北魏時代・景明元年(500)
山口コレクションH164.8

大きな如来は丸彫りに近く、小さな脇侍菩薩はボリュームも控えめに、ともに大きな光背のなかに表されています。台座には、香炉と比丘が表されます。また、台座や光背には、130人余りの人物像が浮き彫りされ、その一人ひとりに名前が刻まれています。彼らこそ、この像を作るために寄進し、この像の供養に立ち合った人たちです。この像は、黒味がかった石灰岩の石質と作風から、河南省北部の輝県や新郷の周辺で作られたことがわかります。この地域は、洛陽から北方へつうじる交通路に位置します。この地域からは、景明元年(500)頃から北魏末期~東魏初期にいたる黒灰色の石灰岩を用いた一群の仏像が発見されており、ひとつの大きな光背のなかに三尊像を表す一光三尊の形式、光背に華麗な浮き彫りや線刻画をきざむ点、さらに邑義(ゆうぎ)による造像である点などに共通性がみいだせます。
http://osaka-art.info-museum.net/selection/sel_cscu.html

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大阪市美術館 ギャラリー(2)

大阪市美術館2


白大理石 如来三尊龕(しろだいりせき にょらいさんぞんがん )、北斉時代・天保8年(557)
山口コレクションH55.0

龕とは石や木材を彫ってつくられた、尊像を納めるいわば厨子のようなもののことです。龕内の主尊は、まるで球状の頭部と、両膝にみられる渦巻き状の装飾的な衣のひだの表現が大きな特徴です。ちょっとお腹のでた脇侍立像を含め、三尊とも肉体のボリュームを誇張した造形といえるでしょう。龕外に刻まれた銘文によれば、本像は天保八年一月に黄海伯とその妻・汲が発願した弥勒像であることがわかります。
http://osaka-art.info-museum.net/selection/sel_cscu.html

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大阪市美術館 ギャラリー(1)

大阪市美術館1


黄花石 如来三尊像(こうかせき にょらいさんぞんぞう )、西魏時代・大統8年(542)
山口コレクションH23.5

黄花石は陝西省西安付近で産出するといわれる、やや黄色がかった明るい色調の石材で、北魏時代末から隋時代にかけて好んで造像に用いられました。本像は緻密な彫刻が大きな特徴であり、北魏時代末から西魏時代にかけてつくられた、黄花石製小型仏像の典型的な作例といえるでしょう。
http://osaka-art.info-museum.net/selection/sel_cscu.html

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