大和古仏探訪

京阪神を中心に内外の古仏についていろいろと書いてみたいと思います。

聖徳太子について(8)

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 聖徳太子が天才、ないし稀代の秀才であったとすれば、その次の時代を担うにたる英才がいました。それは聖徳太子の子、山背大兄王ではなく、むしろ山背大兄王を滅ぼした蘇我入鹿でした。蘇我蝦夷、入鹿の親子は言うまでもなく聖徳太子、推古天皇とともにトロイカ体制で政権を支えた蘇我馬子の直系です。
 聖徳太子は蘇我馬子軍の将官として587年7月に物部守屋を滅ぼす戦争に参戦、また、次の崇峻天皇の592年11月の暗殺にも荷担、そして翌推古元年に摂政に就任しています。蘇我一族とともに敵対する陣営や天皇を排しています。
 その太子の逝去後、蘇我蝦夷(豊浦大臣蘇我毛人)および入鹿(蘇我大郎鞍作)が権力を簒奪しますが、山背大兄王一家を殲滅した「大悪人」としての蘇我親子ではなく、当時の権力闘争のひとつとして、両人を歴史上位置づけなおそうとする著作があります。それが、門脇禎二『蘇我蝦夷・入鹿』(人物叢書 日本歴史学会研編集 吉川弘文館刊 1977年)です。

  蘇我入鹿英才説は、僧・旻(みん、本名は日文:653年6月没)の学校で彼が「トップ」だったとの日本書紀の記述によっていますね。その僧・旻ですが、608年(推古天皇16年)遣隋使小野妹子に従い高向玄理・南淵請安らとともに隋へ渡り、24年間隋で仏教のほか易学を学び、632年(舒明天皇4年)8月日本に帰国した当時の最高の頭脳です。その後、蘇我入鹿・藤原鎌足らに「周易」を講じたと記述されます。大化の改新のあとは、645年(大化元年)に高向玄理とともに国博士に任じられ、649年(大化5年)高向玄理と八省百官の制を立案するなど晩年まで活躍したようですね。
 門脇禎二さんの本で興味深かったのは、入鹿が暗殺されたのち、父・蝦夷を追討する軍が法興寺(現飛鳥寺)を拠点としますが、これは、596年は蝦夷の父・馬子が建立したもので、それもあって、蝦夷は反乱を断念するといった解釈ですね。

 そう言えば、小野妹子を派遣したのは聖徳太子ですね。607年に小野妹子を第二次遣隋使として派遣(翌年にも再派遣)、609年に小野妹子が帰還。610年3月には高句麗王、朝貢。10月には新羅、任那の使者入京、さらに611年8月に新羅、朝貢。614年6月犬上御田鍬を第4次遣隋使として派遣、翌年、犬上御田鍬帰朝という時代です。
 蝦夷の足跡は日本書紀からもある程度たどることができますが、入鹿については<誅殺>された身なので、実像はよくわかりませんが、門脇さんの本では山背大兄王=悲劇の大王といった従来の解釈に疑問をなげかけ、むしろ入鹿のほうが外交面では開明的といったトーンが大胆かつ新鮮ですね。

 歴史の皮肉というか、入鹿の本名は蘇我大郎鞍作と記載されますが、その<鞍作>と同じ名前の止利が、606年4月に法興寺(現飛鳥寺)金堂に丈六の銅製釈迦如来を安置し、さらに翌年、法隆寺金堂の薬師如来を(光背造像記)、そして太子死後、同じく釈迦三尊像を造ります。<鞍作>という名称、とても考えさせられると思います。

薬師寺展 薬師寺の魅力

薬師寺聖観音

 薬師寺にはなんども足を運んでいる。たとえば、真夏の或る日に、東院堂の聖観音菩薩立像をまえに一人座して汗をおさえつつ長視したとき、晩秋の日没ちかく、人影がまばらになった金堂で薬師三尊とともに暮れゆくしばしの時間を過ごしたとき、一人向き合って空間を共有し、こうした崇高な仏様と相対させていただいていること自体が、なんとも勿体なく、有り難いことだと感じる。
 その仏様がいま、平城遷都1300年記念「国宝 薬師寺展」 (平成館 2008年3月25日(火)~6月8日(日))で東京に「出張」しておられる。そして今日は東京でお目にかかる。
 

 「薬師寺には、日本を代表する古代彫刻として有名な国宝の金堂薬師三尊像と東院堂聖観音菩薩立像があります。ともに完成度のきわめて高い様式的頂点を示す像ですが、自然で生き生きとした身体や、質感をよく表わす薄くやわらかい衣などの表現が見事です。今回の展覧会には金堂本尊薬師如来像の両脇侍である日光・月光菩薩立像が2体そろってはじめてお出ましになることが第一のみどころです。普段、薬師寺では両菩薩像は光背があり、聖観音菩薩立像も厨子内に安置されているため、そのすばらしい側面や背面はよく見えませんが、今回はそのすべてをご覧いただけます」。
http://www.tnm.go.jp/jp/servlet/Con?pageId=A01&processId=02&event_id=5129

 興福寺北圓堂の特別拝観で、背面から無着、世親像の逞しい背中をじっと見ていると、運慶一門はこの兄弟の性格の違いまでも活写しようとしたのではないか、とさえ思えてくる。背面鑑賞には新しい発見がある。
 さて、本会期中、既に50万人を超える拝観者が凝視したであろう三尊についてである。一般に聖観音像はその様式からみて時代がはやく、薬師三尊は唐の影響を色濃く受けた少しく後代の作という解説を多く読んできた身だが、今日しみじみと聖、日光、月光の観音三像を背面を含むさまざまな角度から拝観しての思いは異なる。
 この仏像群を鋳造した仏師(仏所、工房)の技倆はとてつもなく高度で、たとえば施主が、仏師自らが望めば、どの時代風でも、一部は糢糊作的にであろうと、いかようにも差配はできたのではないか。聖観音は復古調も少し加えた作風で、日光、月光はむしろ当代の作風(唐風)で・・などはいとも容易かったろう。三像はそのご尊顔(特に鼻梁)や衣紋の細かい処理でも相違点よりもはるかに共通点が多い。時代測定の規準の技術的進歩論でもどちらが上かは比較のしようがないのではないか。
 後世の人間が自分たちで勝手につくってきた様式論をあてはめ、作造時代の当て推量をすることは、この<世界最高水準のブロンズ像>に関する限り、無意味ではないか。聖観音の背面の見事に配された完璧な意匠性をみていて、なお、「正面観賞(鑑賞、観照)性」云々という昔ながらの(大家の?)解説をそこに記す神経が信じられない。<ドクサ>と言ってはお叱りをうけそうだが、われわれの見方自身に潜む臆断を拒絶するかのような見事で圧倒的な「兄弟的」三尊の立ち姿であった。
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