大和古仏探訪

京阪神を中心に内外の古仏についていろいろと書いてみたいと思います。

興福寺・小考1

興福寺photo01

 興福寺はとても苦労をした寺なんだろうなと思う。「平成22年(2010)、興福寺は、創建1300年の大きな節目を迎えます。和銅3年(710)春三月、平城京・左京三条七坊の地に造営された当山は、いま、創建当初の《天平の文化空間》を再構築するため、境内の整備事業に鋭意取り組んでいます」(興福寺HP)からすれば、この1300年の歴史のうち、安定期と激動期では、はるかに後者の歴史が長かったことであろう。

三大微笑

<鏡>さんから以下のご意見がありました。ありがとうございます。実に、よく観察されていますね!

【三大微笑】
法隆寺釈迦三尊と同じように、この救世観音も金箔の剥離の具合が表情に本来無いものを付け加えて見る者に誤解を与えています。原始的な顔とか野生の表情とか、異様さが言われているのを聞いたことがあります。どんな品格のある顔も、口の周りを黒く塗ってみれば、昔の漫画で典型的なヒゲの濃いドロボーのおじさんの顔になります。さらにこの写真でいえば顔の向かって左半分が明るすぎるのです。それが口の周りの暗さを強調するのです。
試しに、左半分を隠して、比較的暗いお顔の右半分と口元を一緒に見てみると違和感がないばかりか、本来の慈悲の表情が現れます。これは原始的な印象からくる、呪ったり、呪われたりとは無縁の表情です。中宮時の弥勒菩薩のように金箔が完全に無くなってしまえば印象は随分と違うでしょう。本来の造形は近づいて凝視しなければ解らないこともあります。世界の三大微笑は斑鳩だけでそろいますね。

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法隆寺・小考2:救世観音

救世観音

 このスーパー・アップの仏様が、法隆寺の救世観音である。法隆寺に謎はないのか、あるいは全体が謎なのか、その表象こそがこの大柄な立像の微笑に秘められている。

 文献史学的には、わかっているようで、実は何一つ底を踏めない証左がこの観音様で、いつ、どのような目的で、誰が造像したのかも不明である。彫刻様式史的には、飛鳥時代後期に位置する説があり、レンジはあるが比較的、作造の時代が察せられる金堂釈迦三尊との近接性が語られ、聖徳太子の姿を写したとも言われるが、確たる考証はない。

 明治初期にかのフェノロサ、岡倉天心がこの仏像を「発見」した劇的なエピソードはあまりに有名だが、最近は異説も語られるようになった。だいたい、今日までかかる見事な保存によるお姿で残されていること自体、法隆寺の連綿たる血の滲むようなさまざまな苦労があったからこそで、それを思うと、「妄信」に毒されて開扉を断ったという当時の法隆寺の僧の「後進性」が語られるのはあまりに一方的な気がする(朝日新聞 2008年12月2日夕刊 法隆寺高田良信長老の談)。

 日経新聞2008年12月13日(土)の文化欄「フェノロサ没後100年『日本美術の恩人』再発見 多彩な業績 共生を模索」は読ませる記事だが、ここではそうしたエピソードはあえて記されていない。最近の岡倉天心再評価のNHKの番組を見ても、(後年では「不仲説」もあるものの)両氏ともに、東西文化の融合という巨大な理念、構想をもち、そのうえに立って現前にある文化財に接していたことに感銘を受ける。
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