大和古仏探訪

京阪神を中心に内外の古仏についていろいろと書いてみたいと思います。

帰化人の問題3ー四天王寺

四天王寺聖霊会

 大阪に転勤になって四天王寺にはなんども足をはこんだ。かつて、このブログにも印象を書いたが、一種異様な妖気を感じたこともある。聖霊会にも行った。雨がふっていて舞台上ではなかったが、遠目にみた舞楽は、「日本的」というより、大陸、朝鮮半島につうじる「汎アジア的」なものだなと感じた。

 京都、奈良の観光コースからは、大阪は古代の面影をうしなった都市であり、四天王寺は市内に埋没してしまった現代の一寺院とみえる。ところが、こここそ、紛れもなく、わが国古代仏教文化の発祥地なのである。 四天王寺のHPを見てみよう。

http://www.shitennoji.or.jp/rekishi/souken2.htm

【歴史】
 四天王寺は、推古天皇元年(593)に建立されました。 今から1400年以上も前のことです。 『日本書紀』の伝えるところでは、物部守屋と蘇我馬子の合戦の折り、崇仏派の蘇我氏についた聖徳太子が形勢の不利を打開するために、 自ら四天王像を彫り 「もし、この戦いに勝たせていただけるなら、四天王を安置する寺院を建立しましょう」 と誓願され、勝利の後その誓いを果すために、建立されました。(中略)
 その伽藍配置は「四天王寺式伽藍配置」 といわれ、南から北へ向かって中門、五重塔、金堂、講堂を一直線に並べ、それを回廊が囲む形式で、日本では最も古い建築様式の一つです。 その源流は中国や朝鮮半島に見られ、6~7世紀の大陸の様式を今日に伝える貴重な存在とされています。 

 大阪市美術館「聖徳太子展」では、その展示をみながら、四天王寺の四天王4体が「一直線」に配置されていた可能性について考えていた。では、その四天王はどの方向を向いていたのか?それは、大陸の外敵に、ないし郷愁の故国に向かっていたのではないか?次に、聖霊会についてのHPの記述も示唆に富んでいる。

【聖霊陵】
 6世紀の末、推古天皇の御代に皇太子として摂政の地位に就かれた聖徳太子は、篤く仏教に帰依され、その興隆弘通を図られました。太子は当時、仏教と共に我国に伝来した舞である伎楽(ぎがく)も仏教儀式に不可欠の荘厳として、楽人(がくにん)を召してこれを伝習せしめました。後にこの伎楽は、現在の舞楽に吸収されることになります。さてこの時、伎楽を伝習すべく召された楽人たちは、聖徳太子の重臣秦河勝(はたのかわかつ)の息子や孫であったとされ、この河勝末裔たちが四天王寺において活躍する天王寺楽人になったといわれています。

 聖徳太子は、飛鳥の都をつくった帰化人系、蘇我一族と関係の深いリーダー、その太子は、これも帰化人系の一方の雄、(そして結果的に京都の西部を開発した)秦一族とも密接なつきあいがあった。
 もともと四天王寺はいまの森の宮近辺にあったが、これが上町台地に位置する現伽藍に移った。そこは当時にあって帰化人の住む一種の大きな「居留地」であったのだろう。
 はじめは「倭人」が住んでいたところに「帰化人」が入植したのではとの先入主をもっていたが、もしかすると、難波宮というもっとも古い都は、帰化人がつくり、そこに住んだ新都市だったと考えたほうが正確かも知れない。そして、その中心に置かれたのが総合寺院、四天王寺だったのではないか。

帰化人の問題2

野中寺img007

 日本の仏像彫刻を考えるときに、帰化人の果たした役割はどう考えたらいいのか?さんはどう思いますか。

 日本彫刻史の研究でも、この点ははやくから意識されていると思います。たとえば、戦前の研究でも、望月信成『日本上代の彫刻』( 創元社 S18/6初版)では、飛鳥彫刻の源流には2系譜があり、釈迦三尊を<北魏系>とし、それに対して百済観音を<南梁系>として両者の特色を大陸の事例との比較で検討しています。
 釈迦三尊の<北魏系>は、磨崖仏の伝統から「浮彫」的な技法にあり、一方、百済観音の<南梁系>は「丸彫」りを特色とします。そこから前者には正面観照性があるとされ、後者は背面を含むあらゆる角度からの「観照」にたえると推論されます。
 一方で、この飛鳥時代の2系譜のうち、前者は大陸の完全模倣、後者は日本的な展開の萌芽といった分類で論陣をはっていますが、これは戦中の意識を色濃く反映しているようにも思います。これは、大陸模倣(釈迦三尊)よりも日本的な特質の源流(百済観音)を上位にみる見方で、本書第5章の結言にも読み取ることができます。
 しかし、重要なことは、<北魏系>にしても、<南梁系>にしても、これらを支えたのは帰化人であり、その果たした役割は決定的に大きかったと思います。

 広隆寺の弥勒さんはどういう系譜だったけ?

  新羅系というのが有力でしょうか。水沢澄夫『広隆寺』1965年中央公論美術出版を読むと、漢氏(鞍部止利や百済系仏師を輩出)に対して秦氏は新羅系とのことで、その歴史・伝統・嗜好の違いから、弥勒は秦氏にとってとても大切な仏であり、それは当時にあって太子ほかの知識人間では共通の認識であったのかも知れません。あるいは、その高貴すぎる尊顔も、秦氏一族に親しく、懐かしい見慣れたものだったとも考えられます。

 帰化人の系譜をみてみると、<秦>系、<漢>系、<文>系などいくつかの大きな集団があって、これが畿内である程度まとまって居住していたことがわかるようですね。広隆寺のあるいまの京都の西部は<秦>氏の集落、一方、<漢>氏はいまの大阪の南部から飛鳥にいたるエリアなどに拠点をもっていたようですね。だからこそ、ここに四天王寺も、野中寺も、法隆寺も、飛鳥寺もある。

 広隆寺については、2体の弥勒菩薩はいずれも太子との係わりが日本書記などに記載されています。一体は太子が秦氏に授けたもの、もう一体は新羅使・任那使が来朝し献納したものということですが、この記述を正しいとすれば、舶載品で日本での作像ではないですね。

 聖徳太子も帰化人だったという説もあるね。小林惠子『聖徳太子の正体―英雄は海を渡ってやってきた』 (文春文庫)は大胆不敵な本で面白いよ。
 ほら、聖徳太子は一辺に沢山の人の話を聞いてすべて理解したという逸話があるが、あれは、日本語だけでなく、当時の中国語も、韓国語も複数の言語を同時に聞き分けた国際人だったことを言っているんじゃないかと思うね。外国語文献の最たるもの、三教の経典の解説もそこから導かれるだろう。
 帰化人をよく統率できたのも、その言語力にある。崇仏派=国際派、排(廃)仏派=国内派の戦いと捉えると太子は国際派、帰化人系の総帥という考えができるんじゃないかな。

 ああ、また、いつもの大洞がはじまった・・・。


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帰化人の問題1

メトロポリタン17

 メトロポリタン美術館所蔵のこの弥勒菩薩は、大阪野中寺のそれと酷似しているように見える。このことは以前にも書いた。
 さて、野中寺の弥勒菩薩は、帰化人の作ではないかと推察される。戸籍関係の文献は多く残されており、そこから氏姓の研究がすすんでおり、特に畿内では地域毎に帰化人の分布はかなり特定されているように思う。漢、秦などの系譜は奥が深く面白い。この問題を少し考えてみたい。

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