大和古仏探訪

京阪神を中心に内外の古仏についていろいろと書いてみたいと思います。

仏像彫刻試論1 天上の序列

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 <天上の序列について>
 仏像彫刻の鑑賞にあたって、多くの入門書では必ずといってよいほど、「天上の序列」について解説がなされる。即ち、仏像は①如来、②菩薩、③明王、④天などのグループに分かられ、その順にそって特色が語られる。しかし、そうした「分類学」にあまり鑑賞上の意味があるとは思われない。

 円城寺大日如来(鎌倉時代、運慶作、桧材、寄木造、漆箔、像高98.2㎝/こうした情報には大いに価値がある!)、広隆寺弥勒菩薩、興福寺阿修羅像など孤高の仏像にそもそも序列など似合わないし、むしろ不要だろう。

 たとえば、久野健『仏像鑑賞の基本』里文出版(1995年改訂増補版)では、上記4類型に加えて⑤に羅漢部を掲げているが、「明王」部(不動明王、五大明王、愛染明王および孔雀明王)および「羅漢」部と如来、菩薩、天部との作品紹介の質量のバランスは崩れ、「明王」、「羅漢」をあえて特掲する意味は乏しいと思われる。

 ちなみに、「天」部のヴァリエーションは実に豊かであり、そのコントラストが強い。
「天」部ー四天王、毘沙門天、十二神将、仁王、八部衆、梵天・帝釈天、執金剛神、吉祥天、弁財天

 久野健『仏像』学生社(1961年)は座右の名著だが、一切、そうした分類学はない。私は仏像本で、「天上の序列」がわからないとキチンとした鑑賞ができないとする本は眉唾もので、どうも紙幅稼ぎの著者の怠慢に起因すると思うのだが如何だろうか。

(参考http://www.isr.or.jp/TokeiKen/pdf/gakusai/1_14.pdf

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仏像の道-インドから日本へ 5 朝鮮

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 仏像伝播の道は中国から朝鮮半島にいたる。この前のシリーズ<帰化人の問題>で考えてきたように、朝鮮半島で熟成した技法、素晴らしいセンスが日本へ伝えられる。はじめは「直輸入」といっても良いだろう。しかし、御本地の半島では、戦禍があいつぎ他の地域と同じように、あるいはそれ以上に、固有の歴史的な資産、蓄積が壊滅的に失われる。
 日本にも多くの戦争、自然災害はあったが、奇跡的に、いまある優れた資産が残された。それは、日本民族が古仏を大切に伝承してきた証であり、誇りであるといえよう。
 韓国中央博物館の弥勒像をみて、日本の国宝第一号広隆寺のそれとの近似性に驚く人は多いだろう。自分も学生時代、はじめてその事実を知った衝撃は大きかった。
 この2像の存在は、日韓のさまざまな同一性の問題を提起し、考えさせられる多くの課題をわれわれに問うている。東博の仏像の道はその意味でも意義ある展示であったといえよう。
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仏像の道-インドから日本へ 4 中国への伝播

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  中国では石窟彫刻が有名である。その白眉とでもいうべきが、上の雲岡石窟第20窟の如来坐像である。「雲岡、敦煌詣で」は、かつてでは考えられなかったが、いまは一種のブームであり、多くの日本人観光客も目にすることができるようになった。しかし、以前からの疑問なのだが、われわれが惹かれる飛鳥、白鳳、天平、貞観彫刻とシナジーを感じる中国の彫刻は、実は一部を除き多くはないのではないか。もちろん、様式の共通性はある。彫出仏などはその典型だし、三尊形式もしかり。しかし、そのご尊顔では異質性を感じるほうがはるかに多いのではないか。 【“仏像の道-インドから日本へ 4 中国への伝播”の続きを読む】

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仏像の道-インドから日本へ 3 マトゥラー

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 マトゥラー彫刻は、ガンダーラよりもインド土着の影響が強いといわれるが、いろいろなパターン、多様性があり一概に特定はできない。上記の彫像などは、薄く彫ったシルキーな衣紋といい、円形光背の配置といい、仏様のやや優しい表情などで、<剛>のガンダーラに対して<柔>の印象ももつが、こうした彫像はかなり日本の仏像に近いイメージをかもしているように思う。

(参考)
 マトゥラーは古代インド(マウリヤ朝~グプタ朝期)における美術・仏像の町といわれている。同時期に発祥し、ギリシャやペルシャ、インド等の影響を受けたガンダーラ美術とは異なり、「マトゥラー美術」と称されるそれは土着的なインド特有の美術様式を備えている。特にインド中部における仏像製作に関しては中心ともいえる都市であった。マトゥラー美術はグプタ朝時代に最盛期を迎えたが、5世紀頃に侵攻して来た遊牧民エフタルによる仏像破壊によりその幕を下ろすこととなる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%88%E3%82%A5%E3%83%A9%E3%83%BC 【“仏像の道-インドから日本へ 3 マトゥラー”の続きを読む】

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仏像の道-インドから日本へ 2 ガンダーラ

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  ガンダーラ美術は、一般に仏像彫刻の淵源といわれる。西洋人的な風貌、髭をはやし屈強な骨格をもち威圧感のある彫像が多い。その特色から一目でガンダーラ美術とわかるくらいだが、立像は闘争神的でもあり、邪鬼の原型もみてとれる。衣紋は複雑に刻み律動感もある。 【“仏像の道-インドから日本へ 2 ガンダーラ”の続きを読む】

仏像の道-インドから日本へ 1

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 東京国立博物館の特別第5室は、天井の高いアトリウム型の解放空間で心地よく時間が過ごせる。ここで、最近まで展示されていたのが表記の「仏像の道-インドから日本へ」である。東博に行くとだいたいここに立ち寄るから、もうどこに何が展示されているかもあらたか覚えてしまったが、HPの表示が残っているうちに、このブログに転載しておこう。 【“仏像の道-インドから日本へ 1”の続きを読む】

帰化人の問題6

広隆寺弥勒菩薩

 帰化人の問題を考えようと思って、平野邦男「畿内の帰化人」(坪井清足・岸俊男編『古代の日本 5近畿』1970年 角川書店)を読んだ。

1.活動期
 書き出しは「古代の畿内は、帰化人の集住した地域である」からはじまる。帰化の定義は「『王化にマイオモムク』という大和朝廷成立後の歴史的な概念」であるとされ、既にこのシリーズでもふれてきたとおり、「秦(はた)・漢(あや)・文(ふみ)の三氏を応神朝に渡来するという伝承」を是としている。
結語は、「畿内における帰化人の歴史は、ほぼ9世紀に、その幕を閉じるといえよう」とされるから、5~9世紀が主としてその活動期といえよう。

2.どこに住んだか 
 以下に要約される。「8,9世紀の帰化人の分布の実態をみると、摂津では東生(ひがしなり)・西生(にしなり)、住吉(すみよし)・百済(くだら)などの南部諸群を中心とし、それから北、淀川をへだてた島上(しまのかみ)・島下(しまのした)・豊島(てしま)などの諸群にも及んでいる。しかし、それにもまして、淀川と大和川の<川内>である河内地方、つまり摂津の海辺からやや内陸よりの平野が、帰化人集団のもっとも顕著な居住地であった」。このように海沿い、川沿いの移動のほか、新たに建都された地域への移住を含めて帰化人の分布は広汎におよんでいく。

3.帰化人の役割
 以下の記述がある。「彼らは、豪族に私有されるのではなく、朝廷の支配するなかば国家の民としての立場におかれ、ある者は朝廷の官人として登用され、他の者は朝廷に租税をはらい、天皇の土地を耕し、灌漑施設をつくり、官廷工房で生産に従った。5,6世紀の大和朝廷の飛躍的な発展は、彼らに負うといっても過言ではないのである」。

 この論文では詳細に以上の諸点が明らかにされるが、飛鳥以降の彫刻史の観点からもこの点は考えさせられる。文明の伝承には一般にながい時間がかかるが、帰化人はその時代背景と機能において、「即製的」にそれを成し遂げたのではないか。つまり、建都から、仏教国家的シンボルとしての彫刻の造像まで、彼らが主体的にそれを実行したのではないか。
 9世紀に帰化人の歴史が終わるとすると、それ以降に文明の伝承とその内在化の過程をへて、いわゆる日本的な折衷が顕著になるのではないか。
 われわれが、飛鳥、白鳳、天平、貞観の彫刻に異質、異国のものを直観するのは、そうした帰化人の盛衰を垣間見ているのではないかといったことを感じる次第である。

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