大和古仏探訪

京阪神を中心に内外の古仏についていろいろと書いてみたいと思います。

仏像研究の系譜5 仏師の眼

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 仏師、仏像修理の専門家が仏像を論じるーそれはまちがいなく「プロ」の眼である。彼らは、当初造像した仏師や、その後時代時代で、それをしっかりと受けとめ修理し後世にバトン・タッチしてきたさまざまな仏師の仕事を自ら追体験するのみならず、復旧作業を通じて各々の時代の証人ともなり、また、後世に評価を委ねる歴史の継承者でもある。
 そうした仏師たちは、かつては無言の技術者であった。しかし現代では、その知見、経験、思想を自ら積極的に語るようになってきた。(故)西村公朝氏は、そうした仏師のなかでも著作も多く、その語り口は平明ながら重く、そしてなによりも「創作の秘密」をわれわれに教えてくれる。手元には以下の3冊の座右の本がある。

『仏像の再発見 鑑定への道』(1976年)吉川弘文館(以下、「西村1976」という)
『仏の世界観 仏像造形の条件』(1979年)吉川弘文館(同「西村1979」)
『仏像物語 仏はどこに、どんな姿で。」(1988年)学習研究社(同西村1988」)
 

 3冊のほかにも西村本は数が多いのでよく目にするが、そのなかにあって、緻密さ、内容の豊かさからみて、「西村1976」が圧巻であると思う。ここには素人ではわからない「仏像」そのものへの意想外の指摘がふんだに盛り込まれている。
 西村本に先行して、仏師であり古美術を論じた奈良仏師、太田古朴も重要である。手元には以下の3シリーズ本(これは本ブログでも登場する畏友O氏からのプレゼントである)ほかがある。

『飛鳥・奈良』 (1971年) (仏像観賞シリーズ〈1〉) 綜芸舎(以下、「太田1971」)
『平安藤原』 (1972年) (仏像観賞シリーズ〈2〉) 綜芸舎(同「太田1972」)
『鎌倉吉野』 (1975年) (仏像観賞シリーズ〈3〉) 綜芸舎(同「太田1975」)
『日本の仏像 意味と観賞の仕方』淡屋俊吉との共著(1978年)三学出版


 京都仏師では松久朋琳が著名。具体的な彫刻技法の指南など、これも厖大な著作があるが、手元本は次の2冊。

『京佛師六十年』(1973年)日貿出版社(以下、「松久1973」)
『仏像彫刻のすすめ』(1973年)日貿出版社(同「松久1973ー2」)


 最近、読んだものとして、藪内佐斗司のNHK教育TVのテキスト「ほとけさまが教えてくれた 仏像の技と心」(2007年)<知るを楽しむこの人この世界> 日本放送出版協会がある。この人も今後の著作が期待されるだろう。

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仏像研究の系譜4 田中重久

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 上記の田中重久『観音像』を買う。これを読み込むのは大変である。博覧強記、多くの知識に裏付けられた大部の研究成果であり、その内容の豊富さは驚くばかりである。さまざまな切り口から観音像に迫っており、海外比較も、文献考証も、また独特な直観力も全て備えたその書きぶりの<大才人>ぶりには恐れ入る。
 筆者は、おそらくは最高の観音論を書こうと日々にコツコツと努力を重ねてきたのだろうと思う。やや狷介な性格、論争を懼れない(むしろ仕掛けるような)ところもあり、いわゆるアウトサイダーではないかも知れないが、学界からみれば傍流、異端と見えたであろう。
 しかし、筆者はあらゆる権威に妥協せず、自説を様々な場で堂々と開陳している。その研究者魂というか、自由人的な発想というかはユニークであり、この本の差別化された価値をあらわしている。

<著作一覧>Amazonで検索したもの
『西の京』 (1941年)近畿観光会
『日本に遺る印度系文物の研究』 (1943年)東光堂
『日本壁画の研究』 (1944年) 東華社書房
『竹内俊夫を偲ぶ』(1960年)竹内与四郎
『弥勒菩薩の指』 (1961年) 山本湖舟写真工芸部
『観音像』 (1977年) 綜芸舎
『奈良朝以前寺院址の研究』 (1978年) 白川書院


http://www.amazon.co.jp/s?_encoding=UTF8&search-alias=books-jp&field-author=%E7%94%B0%E4%B8%AD%20%E9%87%8D%E4%B9%85

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仏像研究の系譜3 海外比較論

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 「海外からみた日本」という視点はいつの時代でも主要なことと思う。最近、これは面白いなと思ったのは、

那律羽之(撰)、鹿島昇(解)『倭人興亡史Ⅰ』(新国民社 1979年)
大庭脩『親魏倭王』(学生社 1971年、以下「大庭1971」という)
野上俊静他編『仏教史概説 中国編』(平楽寺書店 1968年初版、所有本は1993年刷)


などである。上記の2書は、仏教伝来以前の外交関係を中心としているが、このブログでも書いてきた「帰化人の問題」のルーツをたどる意味でも、海外からの視座は不可欠である。ただし、ながい邪馬台国論争をもちだすまでもなく、ここには、一度嵌ったら脱けられないような広さと深さがある。また、この時代を論じる向きは、学界、在野の間で、ながいあいだの拮抗関係があってか、どうも先鋭的、論争的な感じがある。

 そうしたなかにあって、たとえば雑誌『東アジアの古代文化』(大和書房)は、2009年1月に第137号をもって最終号となったが、そのバックナンバー(たとえば手元には2002年冬 110号がある)をみていても良き議論のフォーラムを形成していたように思う。
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仏像研究の系譜2 歴史的接近

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上田正昭『藤原不比等』(朝日新聞社 1986年、以下「上田1986」という)

を読む。大遣唐使展をみて、あらためて藤原一族の系譜を確認したくて手にとった。大変読みやすい本。もう少し後世のことを「人物主体」で見てみたいと思い、つづいて、

北山茂夫『大伴家持』(平凡社 1971年、以下、「北山1971」)

を読む。これがまた面白い。大伴家持は、歌人としての側面しか知らなかったが、彼は官僚中の官僚であり、天平時代を中心に当時の官吏の位階、政治闘争、生活ぶりなどが丹念に書かれていて参考になる。そこで、さらに遡って

北山茂夫『日本古代政治史の研究』(岩波書店 1959年、以下「北山1959」)

を購入する。『大伴家持』を書く原型ともいうべき労作で、

1.序説 7、8世紀の内乱の歴史的特質
2.大化の改新 ー概括的スケッチとして
3.壬申の乱
4.持統天皇論 ー藤原宮時代の政治と思想の連関において
5.740年の藤原広嗣の反乱
6.天平末葉における橘奈良麻呂の変
7.藤原恵美押勝の乱
8.道鏡をめぐる諸問題
9.藤原種継の前後

から構成されている。「北山1971」や「北山1959」から思うのは、いまさらながら、仏像研究において歴史的な背景の重要性である。このことは、いままでこのブログでも書いてきたことであるが、仏像は当時にあって最高の「知の結集」であるとともに「冨の象徴」でもあり、この時代の鎮護国家論からみても、その重要性はいまとは比較にならない。
 われわれが、いま生きる時代においては、政治と文化はある意味、異質、対立的な感じもあるけれど、上記1~9の時代にあっては、祭祀と政治は完全一体であり、都市、建築、仏像、工芸などの文物は政治的な強力なシンポルであった。だからこそ、仏像を語るにあたっても、一定の歴史的な事象への理解は不可欠であろうし、仏像研究とは切っても切れない銘文は、狭義に時代確定のための必要性のほか、広義にとらえて、その時代背景に楔をうつもっと深い意味をもっているのだとも思う。

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仏像研究の系譜1 科学の力

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久野健『仏像』(学生社 1961年初版、所有本は1979年の重版、以下「久野1961」という)

は、仏像研究での新基軸をだした名著である。巻頭の「X線で仏像をさぐる」ほかの論文はどれも当時にあって画期的な方法論を提示しており、こうしたX線などの機械を駆使し分析したデータによって、仏像研究にまったく別の見方があることが明らかになった。
 仏像を信仰の対象として眺めるのではなく、科学の光をあてるこの路線はさらに進化をみる。

山崎一雄『古文化財の科学』(思文閣出版 1987年、以下「山崎1987」)

では、以下の方法論が示される。
1.顕微鏡、2.紫外線、3.赤外線、4.X線透過法、5.X線回帰法、6.蛍光X線分析法、7.ベータ線後方拡散法、8.微量化学分析法
 たとえば鶴林寺太子堂で、赤外線サイバーショットでくすんだ堂内の絵が甦ったなど、最近の成果には枚挙にいとまがない。「山崎1987」での顔料分析や火災でのその変化や鉛同位体比分析などの成果を読んでいると、今後もこうした接近法の威力には驚かざるをえないだろう。
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NHK 法隆寺

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【以下は引用】
法隆寺再建の謎

 飛鳥時代に聖徳太子が創建した法隆寺。現存する世界最古の木造建築であり、比類のない寺宝を持つ。昨年、その中心となる伽藍・金堂で大規模な修復工事が行われた。それに伴い金堂内の仏像群を堂外に移動することとなり、普段は間近に見ることのできない国宝の仏像を詳細に撮影できる希有な機会が訪れた。また建物の科学調査が進められ、この調査に密着取材することができた。法隆寺は一度火災に遭い、現在の伽藍はその後再建されたものだとされてきた。ところが今回、金堂に使われている木材の年輪を調査したところ、そうした常識を覆す結果が出た。そこから浮かび上がってきたのは、国難に直面した人々が聖徳太子の権威を借りて国をひとつにまとめていこうとする物語だった。番組では最新の研究を基に、金堂の建設当初の姿を今に蘇らせ、そこに秘められた聖徳太子を巡る知られざる物語を明らかにしていく。
http://www.nhk.or.jp/special/onair/090315.html

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NHK 平泉

中尊寺本尊

【以下引用】
黄金の浄土 庭園の浄土 ~平泉 中尊寺・毛越寺~

大矢邦宣さん(盛岡大学教授)
涌井雅之さん(造園家)

 平安末期、およそ100年間にわたって東北を治めた奥州藤原氏。その当主三代の遺体が眠る岩手県平泉の中尊寺金色堂は、屋根以外すべて金に覆われた、皆金色(かいこんじき)の阿弥陀堂である。
光り輝く堂内には、3つの須弥壇(しゅみだん)が並び、それぞれ、阿弥陀三尊を中心に11体1組の諸仏が安置されている。平安時代の仏師・定朝一門の作と伝えられる穏やかな顔立ちの仏たち。像の高さはいずれも70センチ前後だが、皆圧倒的な存在感を示す。
金に加えて、金色堂をさらに輝かせているのは、荘厳(しょうごん)と呼ばれる工芸、装飾の数々。
きらめく貝殻を漆で固めて模様を描く螺鈿(らでん)細工や、金工の技の数々…。金色堂には平安末期の工芸技術の粋が集められているという。
盛岡大学教授、大矢邦宣さんは、金色堂には、権力の誇示や、自らの霊びょうの飾り立てに留まらない、奥州藤原氏が平泉に築こうとした〝この世の浄土〟、東北の平和への強い思いがうかがえるという。
また、代表的な浄土庭園として知られる毛越寺庭園には、美しく計算された空間美が組み込まれていると造園家、涌井雅之さんは見ている。
紅葉に包まれた平泉に、2つの仏の美、仏の世界を訪ねる。
http://www.nhk.or.jp/nichibi/weekly/2008/1130/index.html 【“NHK 平泉”の続きを読む】

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NHK 円空

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【以下、引用】
仏像革命 ~円空の祈り~

正木 晃さん(宗教学者)
堀 敏一さん(仏師)

12万体の造仏を請願し、諸国の遊行で多くの仏像を彫った江戸時代初期の修験僧・円空(1632-1695)。現在発見されている仏像は、神像も含め全国で5300を超える。
なた彫りと呼ばれる荒い削り口。像がかもす素朴な微笑。それまでの仏像様式に全くとらわれない自由奔放なスタイルは、300年以上たった今も多くの人を魅了している。
円空の仏像には40代半ばから「護法神(ごほうじん)」という不思議な異形の仏が登場する。表面はなた彫りでザックリ。形は、髪の毛が逆立っているものから、木の切り株のようなもの、狐(きつね)か鳥のような顔まで、さまざま。いったいこれは…?
この自由で、あまりにも枠にとらわれない仏像を誕生させた円空の狙いとは何だったのか。“革命”ともいえる新たな仏像誕生には、円空が厳しい修行から得た独自の境地と日本古来の世界観がかかわっていた。浮かび上がってくるアニミズムの精神…。原初の神の姿を仏に刻んだ円空。異形の仏、12万体を彫り続けた、その祈りに迫る。
http://www.nhk.or.jp/nichibi/weekly/2010/0411/index.html

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NHK 吉備真備

奈良の魔法使い
~日本を救った遣唐使・吉備真備

放送 平成22年 5月19日(水) 22:00~22:43 総合 全国
http://www.nhk.or.jp/historia/backnumber/46.html
【以下は引用】
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 630年に始まり、計15回中国の唐へと派遣された「遣唐使」。その旅は、船の約四分の一が沈没や漂流等で帰らないという危険に満ちたものだった。
内乱が多発、飢饉や疫病などに苦しみ、国を強化することが必要だった奈良時代、遣唐使は、唐との関係を良好にするとともに、その進んだ文化や学問を吸収するための国家プロジェクトだった。遣唐使に選ばれたのは、国の命運を担った精鋭たち。平城京の大学で優秀さを認められた「吉備真備」をはじめ、留学生の専門分野は、仏教や金属・ガラスの加工、舞踏など多岐にわたる。真備たち一行はおよそ3か月の旅を経て唐の都・長安に到着。長安は当時世界最大級の大都市であり、最新の文化が集まる場所だった。

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 吉備真備は23歳で唐の長安に留学し、猛勉強の日々を送った。その多方面にわたる秀才ぶりが日本では伝説の形で伝えられてきた。平安時代に作られた『吉備大臣入唐絵巻(きびだいじんにっとうえまき)』では、真備が唐の人々の仕掛ける罠を知恵と不思議な力で切り抜ける活躍が描かれている。その様は、鬼を操り・空を飛ぶ“魔法使い”。持ち帰った文物や帰国後の業績等から、真備は中国語はもちろん儒教や律令制度、天文学、軍事学、音楽まで幅広くマスターしていたと考えられる。最先端の知識と、それらを駆使する合理的思考が、当時の日本の人々にとってあたかも“魔法使い”のように見えたのかもしれない。

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 吉備真備は40歳で帰国し、大学改革や最新の中国語の普及に尽力し朝廷の注目を集め、政治の中枢へと抜擢されていく。天皇の信頼を得た真備だが、朝廷では権力争いが深刻となっていた。実権を握ろうとする貴族・藤原仲麻呂と孝謙上皇の争いでは、真備は上皇側の軍の指揮官となり、巧みな戦術で仲麻呂軍を倒した。その後、朝廷では僧侶・道鏡が天皇の寵愛を受けて台頭する。この頃の真備の記録は少ないが、天皇の座を狙ったとも言われる道鏡を押しとどめたのはあるいは真備ではなかったかという説もある。右大臣にまで出世した吉備真備は775年、81歳で亡くなる。激動の奈良時代を、最新の学識で支え続けた。その手際は後世に“魔法使い”とたたえられることになる。

大阪歴史博物館
 上記のNHKの番組をみる。すでに、大遣唐使展のシリーズで書いてきたが、吉備真備関連は今回、奈良博展示のひとつのハイライトである。この番組はよくできていると思った。吉備真備の真髄を上記の3つのエピソードを中心に、わかりやすくコンパクトにまとめていて、目で追っていて過不足なく飽きさせない。ダイミックで多面的な人物像が、見事に描かれていた。
 かつて、吉備真備に関心をもったのは、異界の人脈、陰陽師系のルーツとしてであった。聖徳太子、役行者、吉備真備、安部晴明、平将門、空海、平賀源内(順不同)の系譜が面白い。本番組でも、陰陽師としての吉備真備にスポットが当たっていたが、そこも共感の一因である。

http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-156.html
http://www.amazon.co.jp/%EF%BC%97%E4%BA%BA%E3%81%AE%E7%95%B0%E7%95%8C%E4%BA%BA%E5%88%97%E4%BC%9D%EF%BC%88%E5%BD%B9%E5%B0%8F%E8%A7%92%E3%80%9C%E5%B8%9D%E9%83%BD%E7%89%A9%E8%AA%9E%E3%81%BE%E3%81%A7%EF%BC%89/lm/R30H44NH4UG434/ref=cm_lm_byauthor_title_full

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大官大寺

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http://inoues.net/club/asukaagain1.html

 考古学の進展はめざましい。最近の研究によって、かつての通説をおおきく塗り替える場合がある。たとえば、法隆寺や四天王寺の伽藍配置について。いまは、朝鮮半島、中国などとの海外比較の視点をふくめて、その昔、教科書で習ったことがかわり、より豊饒な背景があることが明らかになりつつある。大官大寺もそのひとつである。
 大安寺に先立つ大官大寺の歴史については、『日本書紀』、『続日本紀』、『大安寺伽藍縁起并流記資材帳』(747年)などに記載があり、文献上では、聖徳太子が奈良県大和郡山市に建てた熊凝精舎(くまごりしょうじゃ)を起源として、「百済大寺」→「高市大寺」→「大官大寺」へと改称され、それが平城京遷都とともに移築されて大安寺になったとされる。但し、これには異説も多いようだ。


(参考)
 「資材帳」によれば、大安寺の起源は聖徳太子が建てた熊凝精舎であった。病床にあった聖徳太子は、見舞いに来た田村皇子(のちの舒明天皇)に、熊凝精舎を本格的な寺院にすべきことを告げ、太子の意思を受けた田村皇子が、即位後の舒明天皇11年(639年)、百済川のほとりに建てたのが百済大寺であるという。熊凝精舎については、大和郡山市額田部(ぬかたべ)に現存する額安寺がその跡ともいわれるが、「大安寺資材帳」以外の奈良時代の史料にその名が見えないことから実在が疑問視されており、日本仏教興隆の祖とされる聖徳太子を創立者に仮託した伝承とみるのが通説である。一方の百済大寺については、奈良県北葛城郡広陵町に百済寺という寺が現存するものの、舒明天皇との関連は明確でなく、付近に天皇建立の寺院らしき寺跡も発見されていない。1997年、奈良国立文化財研究所(現・奈良文化財研究所)は、奈良県桜井市南西部(藤原宮跡の東方)にある吉備池廃寺跡が百済大寺跡と推定されるとの見解を発表した。発掘調査の結果、吉備池廃寺は東に金堂、西に塔が建つ法隆寺式伽藍配置の寺院であったことが明らかになり、発掘された古瓦の様式年代からもこの寺院が舒明天皇11年(639年)に建立された百済大寺に該当する可能性は高いと見られている。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%AE%89%E5%AF%BA

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http://www.news.janjan.jp/culture/0612/0612236993/1.php

 さて、大官大寺の位置を上の地図でみると、平城京における大安寺とおなじように、藤原京の東南におかれていることが確認できる。その伽藍は立派だったであろう。下記にブログでとりあげた興福寺仏頭が当初おかれた旧山田寺は、大官大寺からさらに東南にプロットされている。また、それ以前の都であった飛鳥の諸施設との意外な近接性もわかる。

(参考)
 飛鳥地方にあった7世紀建立の寺院のうち、法興寺(元興寺)、薬師寺、厩坂寺(うまやさかでら、後の興福寺)などは平城京への遷都とともに新都へ移転している。大官大寺も平城京左京六条四坊の地へ移転し、大安寺となった。平城京への移転の年次については正史『続日本紀』には記載がなく、いくつかの説があるが、霊亀2年(716年)の移転とみるのが通説とされている。この説の根拠は、『続日本紀』の霊亀2年5月条に「元興寺を左京六条四坊へ移し建てる」という意味の記載があるが、この「元興寺」を「大官大寺」の誤記とするものである。なお、『扶桑略記』によれば飛鳥の大官大寺は和銅4年(711年)すなわち遷都の翌年に火災に遭ったという。前述の大官大寺跡の発掘調査の結果からも、火災のあったことは確認されている。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%AE%89%E5%AF%BA

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http://homepage2.nifty.com/raku-design/4shou.htm

 大官大寺は藤原京にあって、「官寺」中の「官寺」として非常に高い地位にあったであろう。藤原京自体が、風水の思想をもって建都されたが、大官大寺は東南の要におかれ、さらにその淵源からもおおくの帰化人、外国からの僧などが集まっていたことであろう。だからこそ、そこは都の文化拠点でもあり、学問、工学などの一大センターであっただろう。そして、邯鄲夢、うたかたの短い期間ではあったがここに白鳳文化が形成されたといわれる。

(参考)
 この藤原京は「大和三山」と言われる、香具山・畝傍山・耳成山という奈良盆地の中に立つ小さな山が作る三角形の真ん中にあります。これは北の耳成山で防御をするとともに龍脈を取り入れ、東西の香具山・畝傍山を青龍砂・白虎砂とする、風水の基本形を使用していることが見てとれます。
http://www.ffortune.net/social/history/nihon-nara/huziwara.htm

 この都で華咲いたのが、おおらかな白鳳文化であった。白鳳文化は、天皇や貴族中心の文化でもあった。大官大寺(高市大寺)や薬師寺らが造営されていた。白鳳文化を代表するものとしては興福寺仏頭などがある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E4%BA%AC

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http://ao_zatsu.at.infoseek.co.jp/siryo/rekisi_main.htm
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http://www.mahorobapq.com/hpgen/HPB/entries/72.html

 2つの伽藍配置図は上が大官大寺方式、下は吉備池廃寺方式(→法隆寺方式の淵源?)だが、なお、さまざまな考え方があるようだ。その解釈によって、冒頭記した「百済大寺」→「高市大寺」→「大官大寺」へと改称され、それが平城京遷都とともに移築されて大安寺になったという<通説>にも疑問符がつくのだろうか。
 いずれにせよ、まだまだ謎は多く、考古学的にいえばこれからも系統的に掘ってみなければわからないということかも知れない。しかし、白鳳時代の彫刻がいまわれわれの眼前にあることは奇跡というべきであろう。ある仏様は飛鳥に残され、ある仏様は藤原京へ、さらに平城京へと引越を余儀なくされたかも知れない。そして、いま、われわれがお会いできる、この時代に造られた仏様の一部は、大官大寺の偉容をもの言わず眺めておられたかも知れない。


(参考)
 吉備池廃寺が発掘され、吉備池廃寺が百済大寺とほぼ断定される以前には、木之本廃寺から出土する瓦の年代観から、当廃寺が高市大寺であろうとする説が主流になりつつあった。吉備池廃寺が百済大寺とほぼ断定された今にして思えば、木之本廃寺が百済大寺であることはほぼ否定された。
 木之本廃寺からは吉備池廃寺と同范の軒丸瓦・軒平瓦が揃って出土する。しかも同范である以上に傷の多寡・大小・製作技法・素材の質・焼成なども全く同一と云う。木之本廃寺が百済大寺では在り得ないとすると、出土瓦が意味することは、吉備池廃寺(百済大寺)から瓦(礎石は木之本廃寺が未発掘のため不明)がこの地に運ばれ、高市廃寺として転用されたのでないか という結論に至る。
 つまりは出土瓦の同一・同質性からは、瓦は吉備池廃寺から木之本廃寺に運搬され再利用されたとしなければ、説明がつかない。(勿論同一窯元から同時供給された可能性も残る。)
 但し、現段階では当廃寺の寺院遺構そのものが未発見で、それらの発見によって寺院規模や創建年代等の解明がなされない限り、木之本廃寺=高市廃寺(天武朝大官大寺)説は仮説でしかないのも事実であろう。http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/ato_ootera.htm

0002-3 【“大官大寺”の続きを読む】

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平城京を考える

【平城京は整然とした都をめざした】
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http://ducho602.exblog.jp/3371301/

 町田章『平城京』考古学ライブラリー44 ニュー・サイエンス社 1986年)を読んで少しメモをしておく。本書は長年の「平城宮跡発掘調査報告」など先行研究をふまえた労作であり、考古学が対象とする時代において、いかにさまざまな政治、経済、文化現象を明らかにできるかを迫力をもって問うているような書である(上図は別。最近できた平城京の復元イメージだが、大いに想像力をかきたてられるであろう)。

【平城京はけっして安定した都ではなかった】
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http://goryo4.hp.infoseek.co.jp/yw125.html

 ところで、平城京遷都1300年と聞けば、平安京遷都(794年)までは、ここが安定した都といったイメージを持ちがちだが、さにあらず。むしろ、遷都あるいは副都(※1)の存在によって、上図のような、浪費的で神経質な文字通り<迷走の時代>を迎えることとなり、平城京は不安定な都であった、あるいは平安京との比較では将来の発展の芽を摘まれた都でもあったといえよう。

※1:遷都というか副都の設置というかは見解の分かれるところだろう。以下は引用
 「飛鳥 - 奈良時代には、首都機能を経済 ・交通の面で補完する第二首都とも言うべき副都(陪都)が設けられていた時期があった(複都制)。例としては、最初にこの制度を採用した天武天皇の難波宮を始め、淳仁天皇の「北京」保良宮(滋賀県大津市、761年 - 764年)、称徳天皇の「西京」由義宮(大阪府八尾市、769年 - 770年)が知られている。保良宮と由義宮は短命に終わったが、難波宮は長岡京遷都まで副都の地位を保ち続けた」。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E9%A6%96%E9%83%BD

【骨格設計の思想は周到だった】
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http://wiki.wowkorea.jp/?word=%E5%B9%B3%E5%9F%8E%E4%BA%AC

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 これについては、下記の風水論(→大遣唐使展7<風水思想と平城京>)に書いたのでここでは繰り返さないが、法興寺(→元興寺)、大官大寺(→大安寺)や薬師寺といった巨大寺院の移設をふくめ、東大寺大仏殿に限らず、多くの新設寺院の勧請は当時の国力に照らしても凄まじいものだったろう。藤原不比等という稀代の政治家なくしてはなしえなかったことであろう。また、都市経営の視点からも注目される点は多い。

【いまの地図を重ねあわせて見ると・・・】0000007http://www.d1.dion.ne.jp/~s611hr/sub-T/sub-T11/heijyoukyou.html

 平城京の歴史はけっして長くはない。また、平安京遷都後は、町田氏も述べているように宗教都市として、かろうじて命脈を保つことになる。しかし、逆説的ながら「田舎化」したゆえに幸い、保全、保存されたものも多くあったであろう。それが戦後、20世紀後半にいたって急速に変容してしまったことは反省とともに記憶にとどめねばなるまい。「まほろば」的な落ち着きは、無秩序な開発、利便性向上・機能重視といった美名のもと思慮不足のマストラ整備、迫りくる住宅のスプロール化などによって、無惨にその姿をかえてしまった。平城京遷都1300年記念とは、世界遺産の意味ととともに現代日本人がその点を深く考えるための得難い契機ではないかと思う。 【“平城京を考える”の続きを読む】

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興福寺仏頭(旧山田寺)

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 いまから約40年前、この仏頭をはじめてみた時の衝撃が思い出される。いまでは想像のできないくらい粗末な宝物館で埃まみれ、無造作に置かれていたように記憶している。そして、沸々と疑問がわいてきた。なぜいま、こういう(無惨な)お姿で残っているのだろうか? 仏頭の大きさ(総高98.3㎝)から考えると、像全体の巨大さはいかばかりだろうか? 白鳳彫刻の同時代で似た仏像はあるのだろうか?・・・

 実は、そうした思いはいまもあまり変わっていない。この仏像の発見の経緯などを調べれば、いかに数奇な運命をたどってきたかがわかるが、その尊顔の素晴らしさから、これを破壊せず(鋳直さず)後世に残していこうという強い意思が働いたか、あるいはある種の呪術的な思いから須弥座の下に再度、安置されたのかも知れない。
 全体の像容の大きさは推して知るべしだが、現存の仏像では、作風はいささか異なり、一回り小さいかも知れないが蟹満寺釈迦如来像(像高約240センチの金銅像)がそのスケール感を「追体験」するうえではひとつの参考になるだろう。また、そのお顔についての類似作は、小さいけれど、法隆寺夢違観音、鶴林寺菩薩立像(聖観音)、盗難にあってレプリカしか残っていないが、新薬師寺香薬師如来立像の白鳳名品「3立像」の金銅仏が直観的に思いつく。
 この仏頭の魅力は、頬のふくよかしさ、切れ長で凛々しき目元、アーカイック(古式)の笑いを消した、しかしどこか優しさを湛えたその表情にある。若々しく童子的な印象もあり、否、大人をも超越した神々しさもありといった両義性、それが微妙な均衡を保っている。さらに、観察者が、喪われた巨体を想像し、自ら見上げる姿を思い浮かべるとき、本来であれば、仏頭をこんなに間近で拝顔することはできないし、なにより合わせるべき目線の位置は決定的に異なることに気づくだろう。その1点だけでも他とは違った存在感がある。


(参考)
次に、よくまとまっているブログの記述がある<以下は転載>
(1)戊寅(ぼいん・つちのえとら)678年12月4日に丈六の仏像(薬師三尊)が銅に鋳造され、乙酉(いつゆう・きのととり)685年3月25日に山田寺創建者の蘇我倉山田石川麻呂の祥月(しょうつき・故人が死んだ月)命日に仏眼を点じた。つまり、石川麻呂の自害後36年の開眼供養であった。

(2)1187年(文治3年)、興福寺の僧が山田寺の薬師三尊像を強奪し、興福寺の東金堂の本尊とする。
興福寺は治承4年(1180年)の平重衝の焼き打ちに遭って伽藍の殆どを焼失した。その後の再建の過程で同寺の東金堂の焼けた本尊の代わりとして当時荒廃していた山田寺の薬師三尊像に目をつけ、強奪したのであろう。当時の興福寺の勢力の強さが想像される。

(3)1411年(応永18年)に東金堂は雷の火災で、この仏像の胴体が失われ、頭部だけ残った。

(4)1937年(昭和12年)に興福寺の東金堂の修理中に須弥座の下より仏頭が発見され、大きく新聞などで報道され、その後上述の如く国宝・仏頭(薬師如来)として、興福寺国宝館に展示されている。

(5)この仏頭は童顔の若々しい張りのある肉付き、眉と眼の直線的な切れ味、高い鼻梁(びりょう)、長く垂れ下がる耳は白鳳期の特徴をよく示している。
1023年(治安3年)10月に53才の藤原道長は高野山参詣の途中、飛鳥・山田寺に寄り、堂塔及び堂中は奇偉荘厳で言語に尽くしがたく黙し、心眼及ばずと感嘆した。当時の山田寺の荘厳なことと仏頭(薬師三尊)の凛然(りんぜん)とした姿に感服したのであろう。
http://www.narayaku.or.jp/narayaku/narayaku/03_1.html

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シルクロード ギャラリー

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【展示解説】
 現在のパキスタン北西部に位置するガンダーラは、釈迦をはじめて人の姿で表した「仏像」を創りだした仏教史上もっとも重要な土地の一つです。
 日本画家平山郁夫・美知子夫妻から、当館に寄贈されたシルクロード・コレクションの中でも、ガンダーラのコレクションは、質・量ともに世界屈指の蒐集として知られています。このたびの展覧会では、仏陀像・菩薩像をはじめ、釈迦の生涯を表した仏伝図の浮彫、ガンダーラとその周辺地域を治めた王侯たちが発行したコイン、当時ガンダーラに生きた人びとの生活や文化の一端をうかがわせる宝飾品など、約130点を展示します。これとともに、平山郁夫自身が描いた、ガンダーラの仏たちの素描を併せて展示し、平山郁夫の創作に大きなインスピレーションを与えつづけたガンダーラの世界を展観します。
http://abc0120.jp/hdwikija/doc-view-4813.html

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http://bruggeostend.jugem.jp/?eid=39#sequel

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【以下は引用】
 録画ですが、NHKの新シルクロード「敦煌」(6/19放映)を観ました。
 敦煌莫高窟中心の構成でした。莫高窟とは、西暦420年頃から13世紀元の時代まで延々と築き上げられてきた石窟群で、無数の仏像、壁画の宝庫です。西域から伝来したプロト仏教の様子や、その後唐代をピークに洗練されていく過程などが分かって、とても興味深い内容でした。
 写真は第275窟の菩薩交脚像のキャプチャーで、五胡十六国・北涼(5世紀)時代の仏像です。足をX字に交差させているところがミソ。薄着の菩薩はなまめかしく、顔つきも西域風でエキゾチックです。

 25年前に放映した「シルクロード」も別の時間帯でアーカイブとして放送しており、両者を比べるとまた面白い。かつての番組はどちらかというと仏像、壁画、周囲の砂漠そのものを題材にしていたのに対し、「新シルクロード」では仏像、壁画の制作に携わった人々に肉薄します。この25年間で北区といわれる、居住区の様子が解明されたことによると思いますが、住み込みで壁画を描いた絵師たちの姿がイメージできました。けして富裕層ではなく、子供を借金のかたに取られた絵師が仏への信仰のみで来る日も来る日も果てしなく、菩薩を描いていく。
 シルクロードの入り口であり、出口でもある敦煌で、砂漠の中の石窟にひっそりと息づく1500年以上も前の人々の信仰に思いをはせ、「南無阿弥陀仏」とつぶやいてみました。
http://blog.goo.ne.jp/kamakura_champroo/e/7136b86b53dc2064c2cf7d35a8a99d7d

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中国の敦煌莫高窟に収めてあるアルカイックスマイルと、ふくよかな体のラインが特徴的な脇侍菩薩の塑像

【以下は引用】
大塚清吾さん、シルクロード写真展 敦煌の仏像など(2010年01月13日更新)

 佐賀市のフォトジャーナリスト大塚清吾さんがNHK特集「シルクロード」などの取材で撮影した写真展が、13日から佐賀市白山のエスプラッツで開かれる。交易路の分岐点として栄えた中国の敦煌(とんこう)莫高窟(ばっこうくつ)にある仏像など約200点を展示。日本に多大な影響を及ぼした中国の仏教芸術を紹介する。
 大塚さんは1979年から始まった「シルクロード」の取材で、作家の故井上靖さんとともに河西回廊や西域南道を巡った。莫高窟には1カ月間も滞在し、大塚さんが最も印象深い場所として挙げる地域でもある。
 会場では、紅を差した口元に浮かぶアルカイックスマイルやふくよかな体が特徴的な莫高窟の脇侍菩薩(ぼさつ)塑像、まるでハチの巣のようにうがたれた窟の群れが残る北区域側の莫高窟を撮影した写真が目を引く。
 インドやペルシャの影響が強く見られる鮮やかな青を施したキジル千仏洞の天井壁画天像図や、麦積山の如来坐像など日本の飛鳥仏の源流を思わせるものもある。
http://www.saga-s.co.jp/life/topic/entertainment.0.1524637.article.html

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【以下は引用】
 ・・・順次、公開されていく約9000点にものぼるシルクロードコレクションは圧巻。その中でも素晴らしいのは仏教美術で、特に仏像は、日本の仏像のふっくらとした印象とは異なり、ギリシャ彫刻のような精悍(せいかん)なお顔なのが印象的。まさにシルクロードが東西文化の行き交う場所であったことが実感できるはずだ。
http://www.ryukoku.ac.jp/about/pr/publications/60/16_museum/museum.htm 【“シルクロード ギャラリー”の続きを読む】

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木村小舟 『推古より天平へ』 1928年(東京 : 芸艸堂刊)

 表記の本を読む。この人は大変な博学であった。続編として『天平より藤原へ』等があり、また、晩年には『新修日本仏像図説』 (1952)を上梓。終生、仏像や歴史に強い関心を寄せていたことがわかる。しかも、専門は児童文学者であり、のみならず博物学にも食指を動かしている。
 通読して参考になるのは、各仏像について、当時の各般の見方(学界にとどまらない)を丹念に拾って、そこから「通観」する視点を目指そうとしていることである。また、時に大胆な自身の推論も披露している。例えば、薬師寺聖観音像についての見解はユニークで、法隆寺金堂壁画との関係を積極的に論じ、ほぼ同時期の作とみる。これに限らず、総じて、仏像と絵画の関係に注目しており、その点も考えさせられる。児童文学者だったから文章は平明かと言えば、これはそうでない。いわゆる文語調で、いま読むのはすこし厄介だが、論点の提示はクリアだ。
 さて、写真の夢殿救世観音についてである。ここではまず、和辻哲朗『古寺巡礼』を引用しながら、内務省国宝帖の分析などに加えて、笹川臨風の言葉『端厳無比、敬虔措く能わざる絶品』を紹介、讃辞をおくっている。
 また、飛鳥仏の特色について、司馬一族、止利仏師のみならず、先だって、豊浦堂に3体を彫像した歴史上、消えた仏師、池邊直氷田(いけべあたいひだ)または溝部直氷田(みぞべあたいひだ)の存在にも注目している。自由な発想とともに、こうした「派生系」をも見落とさないところが本書の奥の深さであろう。


(参考)
木村小舟 きむら-しょうしゅう 1881‐1954年
明治-昭和時代の編集者,児童文学者。
明治14年9月12日生まれ。名和昆虫研究所にはいる。巌谷小波(いわや-さざなみ)にみいだされ,博文館で「少年世界」などを編集。科学,歴史,美術など各種の児童読み物を執筆し,「小波お伽(とぎ)全集」の編集につくした。昭和29年4月20日死去。72歳。岐阜県出身。本名は定次郎。著作に「少年文学史・明治編」など。
http://kotobank.jp/word/%E6%9C%A8%E6%9D%91%E5%B0%8F%E8%88%9F

(主要著書:Amazonで検索)
日曜之生物学―野外研究 木村 小舟 (1927)
日本国史物語〈第3〉 木村 小舟 (1930)
ベニスの天使―世界美談 (話の泉〈第1編〉) 木村 小舟 (1946/6)
新昆虫記 木村 小舟 (1949)
明治少年文化史話 木村 小舟 (1949)
少年文学史〈明治篇 上巻〉 木村 小舟 (1949)
少年文学史〈明治篇 下巻〉 木村 小舟 (1949)
仏像仏画物語 木村 小舟 (1941)
新修日本仏像図説 木村 小舟 (1952)

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永青文庫と藤田美術館

 昨日、東博で永青文庫(東京、熊本)と藤田美術館(大阪)の素晴らしい仏像を見た。このユニークな2つの美術館について、以下、メモしておく(HPなどの資料が中心)。なかでも、重要文化財, 金銅如来坐像 銅造鍍金 劉宋・元嘉14年(437)銘は、日本にある仏像について、非常に早い時期の稀少品である。

(参考)永青文庫について
http://www.eiseibunko.com/exhibition.html

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重要文化財, 金銅如来坐像 銅造鍍金 劉宋・元嘉14年(437)銘

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中国・北魏時代 黄花石 高62.6

6世紀前半の北魏時代に造られたもので、失われた右手は頬に添える「思惟」のポーズをとっていたと考えられる。 
半跏思惟像としては、広隆寺のものが著名であるが、中国では雲岡石窟や龍門石窟などに数多く見出される。本像は、北魏の半跏像のなかでも格調高い造形性で屈指の一作であり、黄花石(西安付近特産の大理石様の石)の彫像としても貴重である。
http://www.eiseibunko.com/collection/chugoku3.html

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中国・唐時代 大理石 漆箔・彩色 高57.6

 白大理石の一材から本体、台座を彫出し、その上に漆箔が施される。仏教彫刻において、誇張の無い写実性が追求された唐時代にあって、その完成期を迎えた盛唐の作。空海の師、惠果が住したという長安の青龍寺にあったといわれている。
http://www.eiseibunko.com/collection/chugoku2.html

(参考)藤田美術館について
 藤田美術館は明治の実業家、藤田傳三郎とその長男平太郎、次男徳次郎の父子 2代によって蒐集した美術品を保存、展示しています。
 東洋美術を中心としたコレクションは、絵画、書籍、陶磁器、彫刻、漆工、金工、 染織、考古資料など多岐に渡り、国宝9点、重要文化財50点を含む約5千点を所蔵しています。
http://www.city.okayama.jp/museum/fujita/spring_h22.htm 【“永青文庫と藤田美術館”の続きを読む】

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東京国立博物館にて

平成22年新指定国宝・重要文化財
本館特別1・2室 2010年4月27日(火)~5月9日(日)
主催:文化庁、東京国立博物館


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重要文化財 木造地蔵菩薩立像 快慶作
鎌倉時代・13世紀 大阪・藤田美術館蔵

大きさ 像の高さ58.2 台座の高さ16.9 光背の高さ84.8センチ 年代 鎌倉時代 (13世紀)
飛び来る雲に乗った、来迎相の地蔵菩薩。地蔵は錫杖と宝珠を持ち、透かし彫りの舟形光背を負う。彩色された着衣の切金文様も美しく、全てが製作当初のものである。
鎌倉時代の仏師快慶とその後継者行快(ぎょうかい)の署名があり、快慶晩年の作と考えられている。また、体内には巻子が納められている。
http://www.city.okayama.jp/museum/fujita/jizobosatu.htm

 東博でほぼ半日を過ごす。今日の目当ては上記の快慶作の「新重文」である。秀作である。なんども見て、また会場に戻り前に立つ。小振りながら実に緻密、繊細、気品にあふれた快慶の晩年の逸品。これだけを拝顔するだけで上野に足を運んだ十分な価値がある。
 もう一つ。「細川家の至宝」展では、彫刻にはまったく期待しないで入ったのだが、下記ほかの諸仏の由来は大いに参考になった。美術品の「公的」所有と「私的」所有の境界とは何かを、歩きながら考えていた。


特別展「細川家の至宝-珠玉の永青文庫コレクション-」 平成館 2010年4月20日(火)~6月6日(日)

 永青文庫は旧熊本藩主・細川家に伝来した文化財を後世に伝えるために、16代細川護立(もりたつ)によって昭和25年(1950)に設立されました。その名は中世の和泉上守護家の祖・細川頼有(よりあり)以後、8代にわたっての菩提寺であった京都建仁寺塔頭永源庵の「永」と、近世細川家の祖・細川藤孝(幽斎)(ふじたか(ゆうさい))の居城青龍寺城の「青」の二字をとったものです。幽斎の和歌資料や2代忠興(三斎)(ただおき(さんさい))所有の利休ゆかりの茶道具、細川ガラシャ遺愛の品々や宮本武蔵の絵画など、その所蔵品は古文書類も含めると8万点を超える日本有数の文化財コレクションです。

 本展では、激動の歴史を生き抜き、古今伝授、能、茶の湯などの文化を守り伝えた細川家に伝来する貴重な美術品や歴史資料を展示し、細川家の歴史と日本の伝統文化を紹介いたします。また、細川護立が収集した美術品の中から選りすぐりの名品を出品し、近代日本を代表する美術コレクターである細川護立の眼と人物像に迫ります。

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重要文化財 如来坐像 伝中国陝西省西安青龍寺 中国 唐時代・7世紀末~8世紀初 東京・永青文庫

 護立の収集したさまざまな仏像のうち、質量ともにその中核をなすのは中国・唐時代の石造仏で、本像もその内の1点です。写実性に富み、均整の取れた見事な造形の如来像で、西安の青龍寺から請来したと伝えられます。青龍寺は唐代の長安城内の新昌坊(しんしょうぼう)の中にあった寺で、わが国の空海や円仁などが密教を学んだ寺として有名です。記録から、昭和3年(1928)に建築史家の関野貞(せきのただす)の紹介によって、岡倉天心に師事して中国美術を収集していた早崎梗吉(はやさきこうきち)から購入したことがわかります。 【“東京国立博物館にて”の続きを読む】

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仏像彫刻試論2 歴史的文脈

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 戦前からの仏像研究にはいくつかの留意が必要な気がしている。仏像における「様式論」の展開は、おそらく戦前、日本が相当に先行していたのではないか。フェノロサ、岡倉天心が神としての仏像の封印を解き、法隆寺夢殿の「重い扉」を開けて以降、なんといっても研究素材が国内に多く残されていたのは日本である。修理・修復とともに、その研究も急速に進捗をみることになる。

 さらに、こうした研究は、好むと好まざるとにかかわらず、明治以降の日本の朝鮮半島および中国大陸への軍事的侵攻、政治的支配の影響を受けたであろう。石窟仏を中心とする彼の地の圧倒的な集積・物量は、その細い伝搬ルートによって、「極東」の日本にもかつて伝えられた。さらに、それを伝え、育み、日本仏像彫刻史の基礎を築いたのは、間違いなく渡来人、帰化人の高度な技術者集団であった。日本の研究者は戦前から、統治地であった朝鮮で、中国で、そうした事実を多く知ったであろう。

 だが、戦前の日本彫刻研究の文献を読むと、この点の記述はかなり「微妙」である。もっとはっきりと言えば、朝鮮、大陸からの伝搬、舶載はあったが、それが日本において胚胎して、日本独自の仏教彫刻文化が花開いたといった「史観」をかなり強く感じる。そういう時代であったのだろうが、一度、形成された「学派」は、大学における学問の継承性から、そう簡単には軌道修正できない。その影響は戦後も色濃く残る。

 日本的な特色の抽出という、やや牽強付会の心理と論理が支配したのは、ひとり彫刻研究だけではないだろうが、その視点からは天平以降の彫刻を高く評価し、また、残存作のすくない定朝こそが日本的な特質の表象となり、さらに、康慶、運慶、快慶、湛慶ら慶派彫刻をもって日本のルネサンスに至るというシナリオが形成される。戦後も、こうした一種の「発展史観」はマルクス主義の影響もあってか続くことになる。
 その一方、戦前、戦後直後の学界における飛鳥・白鳳彫刻への相対的な軽視は、こうした視点から自分が感じたバイアスのひとつである。

 こうした一種の<ドクサ>に真っ向から反発したのは梅原猛であったと思う。彼は仏像について、「様式論」からも「文献史学」からも一定の距離をおいて「文明論」からアプローチしようとした。また、久野健は、X線透過という新手法を仏像研究に導入したのみならず、地方仏の発掘や海外事例比較を通じて、新たな研究法を提起した。
 また、学界の閉鎖性、本質的なモノを言わぬ体質に痛烈な批判を加えたのは保田興重郎である。
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-68.html

 最近、評価できるのは、例えばNHKの特集で、古代から中世の歴史に関して、日韓の学者が討論を行うことで比較研究の重要性を示すことである。こうした姿勢は仏像研究でもよりあっていいと思う。日本の資金で、インド、パキスタン、アフガニスタン、中国、韓国などから専門家を招聘して、日本の仏像、工芸品などを見てもらい、共同研究を是非やってみてほしい。凝り固まった<形式知>を考え直す斬新な発想がここから出てくるのではないかと秘かに期待している。

(参考http://www.isr.or.jp/TokeiKen/pdf/gakusai/1_14.pdf

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