大和古仏探訪

京阪神を中心に内外の古仏についていろいろと書いてみたいと思います。

飛鳥彫刻の作り手

百済観音images

 飛鳥彫刻の作り手はおおむね4つくらいに分類できるのではないかと思っている。第1の系譜は、止利系である。第2は、山口大口費系である。第3は、秦氏系である。第4は、その他のグループである。

 まず、第1の止利系であるが、鞍作止利(くらつくりのとり、生没年不詳)を棟梁とする一族で、飛鳥時代に活躍した渡来系の仏師。名は鳥とも記される。司馬達等の孫で、鞍部多須奈の子。子に福利・人足・真枝がいたとされる。法隆寺釈迦三尊像をはじめ、法隆寺救世観音像ほかこのグループの作品はいくつも現存している。「鞍作」に表象されるとおり、武具制作にたずさわり、その後、仏教に帰依してから、その技法を駆使して仏像の造像にもあたったのであろう。蘇我氏一門に属し、聖徳太子とも近しい集団である。

http://www.bunkaken.net/index.files/kihon/bushi/tori1.html

 第2は、山口大口費(やまぐちのおおぐちあたい)のグループである。またの名は、漢山口直大口(あやのやまぐちのあたいおおぐち)ともいわれ、650年(白雉元年)10月、日本書紀によれば千仏像を制作したと記載される。法隆寺金堂の四天王像(広目天像)をつくった。また、この四天王像と法隆寺百済観音には多くの共通点があり、自分は百済観音像は、このグループの作ではないかと秘かに考えている(しかし、それは今日のテーマではない。下に添付した画像を参照)。そのほか、東京国立博物館法隆寺館のN193も、同様にこのグループの作かと思う。
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-24.html

 第3は、秦一族に近いグループである。言わずもがなだが、広隆寺弥勒菩薩がこの一族の持念仏である。作像が日本かどうかという問題はひとまずおくとして、広隆寺には「宝冠弥勒」「宝髻(ほうけい)弥勒」と通称する2体の弥勒菩薩半跏像があり、ともに国宝に指定されている。宝冠弥勒像は日本の古代の仏像としては他に例のないアカマツ材で、作風には朝鮮半島の新羅風が強いものである。一方の宝髻弥勒像は飛鳥時代の木彫像で一般に使われるクスノキ材である。
 日本書記によれば、推古天皇11年(603年)、秦河勝が聖徳太子から仏像を賜ったことが記されている。『広隆寺来由記』(明応8年・1499年成立)には推古天皇24年(616年)、坐高二尺の金銅救世観音像が新羅からもたらされ、当寺に納められたという記録がある。また、日本書記には、推古天皇31年(623年、岩崎本では推古天皇30年とする)、新羅と任那の使いが来日し、将来した仏像を葛野秦寺(かどののはたでら)に安置したという記事があり、これらの仏像が上記2体の木造弥勒菩薩半跏像のいずれかに該当するとする説があるようだ。いずれにしても、このグループに近い作例は金銅仏で弥勒菩薩半跏像として残っている。

 第4は、その他の系譜であり、実は特定できる仏師や仏所がいるわけではない。帰化人(渡来人)的な分類では、第1グループは、鞍部村主司馬達等(止)(大唐漢人、継体朝・敏達朝)、鞍部多須奈(用明朝)、鞍作止利仏師(推古朝)、第2グループは<東漢>系、第3グループは<秦>系で新羅と親しい関係。
 そう考えてくると、帰化人の一大勢力<文>系ほか独自のグループはほかにもあったのではないかとの類推に行きつく。それは、実際の観察でも、たとえば法隆寺館48体仏を丹念にみていけば、まだまだ上記3つには属さないけれど個性的な仏像があり、実に多様性があるなと得心することだろう。


法隆寺金堂四天王 【“飛鳥彫刻の作り手”の続きを読む】

テーマ:文明・文化&思想 - ジャンル:学問・文化・芸術

神護寺薬師如来立像 再考

001

 この仏さまについてはかつて以下のように書いてきた。
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-56.html

 今回は、久野健『神護寺』(1964年 中央公論美術出版)を読んでの再考である。

 「・・・奈良仏教のゆきすぎを是正し、造寺造仏をおさえることを願った光仁、桓武朝になると、官寺附属の造仏所がつぎつぎに廃止になった。延暦元年(782年)には、法華寺の造仏所が停止になり、延暦8年(789年)には東大寺の造仏所も廃止された」(p.14)
 つまり、官寺のおかかえ仏師は、これによって「就職先」をかえねばならなかった。また、官寺に属さない私仏所や山岳仏教の僧が自ら鑿をふるうようになった。久野氏は後者の視点を重視し、本像もそうした人々によってつくられたという見方をとっている。
 南都仏教は、平安京への遷都によって決定的な凋落期にはいる。この転換は、南都六宗(※1)が地盤沈下し、密教こそが時代の主役に躍り出てくることを意味する。


※1:南都六宗
律宗 - 開祖:鑑真、寺院:唐招提寺
華厳宗 - 開祖:良弁・審祥、寺院:東大寺
三論宗 - 開祖:恵灌、寺院:東大寺南院
成実宗 - 開祖:道蔵、寺院:元興寺・大安寺
法相宗 - 開祖:道昭、寺院:興福寺・薬師寺
倶舎宗 - 開祖:道昭、寺院:東大寺・興福寺
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E9%83%BD%E5%85%AD%E5%AE%97

 これ以降は平安二宗(天台宗・真言宗)が支配宗教化していく。飛鳥・白鳳彫刻は平城京遷都以前頃まで、天平彫刻は平城京時代におおむね同期する。貞観彫刻は平安京遷都以降とざっくりと捉えると、彫刻の作り手も、それに応じて変遷していく。奈良の仏師はすたれ京都の仏師が力をえて隆々と発展していく。後世の定朝は、京仏師の頂点に位置することになる。そして、南都仏師が一時的に復権するのは、慶派の活動期の鎌倉時代にはいってからである。
 さて、自分は時代を問わず仏像彫刻に関心があるが、このブログでも書いてきたとおり、特に飛鳥、白鳳、天平、貞観初期までを中心にいろいろと考えてきた。
 それはとりもなおさず、空海、最澄という巨大な頭脳がもたらした密教普及以前の彫刻であり、多くは奈良およびその周辺に残された仏像がその対象となる。関西に住んでいたときも、週末、閑さえあれば大和路快速のお世話になったのもそれゆえであり、京都に足を運ぶ回数は奈良にくらべて少なかった。だが、神護寺は当初の目算からも、どうしても再訪することにしていた。それは、南都仏師との関係について、この薬師如来の来歴がどうしても気になるからである。
 元興寺薬師如来像との比較、神護寺の前身「神願寺」の存在、ほかに京都では類例をみない本像の独自性から、久野氏の見解には大いに魅力を感じつつも、南都仏師、仏所の実力および多様性はけっしてあなどれず、この像もその系譜にある者が作像したのではないかといった秘かな見方は変えていない。
 もっと想像の翼をひろげれば、帰化人、渡来人およびその閨閥の存在はながく根をおろし、難波、河内、法隆寺、奈良、飛鳥へと続く「聖徳太子の道」に、有力寺院関係者が住まい活動していたこと、そして、その人脈からみても、この道にそって大いに行き来があったのではないかということこそ重視すべきと思っている。神護寺の前身の神願寺は河内方面にあり、いまも残る有力寺院でいえば、たとえば観心寺(※2)がある。神護寺のほこる国宝五大虚空蔵菩薩像は、この観心寺如意輪観音像と近似性がある。


※2:観心寺
 伝承では、大宝元年(701)、役小角(えんのおづぬ、役行者)が開創し、当初、雲心寺と称したとされる。その後、大同3年(808)、空海がこの地を訪れ、北斗七星を勧請(かんじょう)したという。これにちなむ7つの「星塚」が現在も境内に残る(なお、北斗七星を祭る寺は日本では観心寺が唯一である)。
 弘仁6年(815)、空海は再度この地を訪れ、自ら如意輪観音像を刻んで安置し、「観心寺」の寺号を与えたという。「空海が自ら刻んで」云々の話は伝承の域を出ないが、現在金堂本尊として安置される如意輪観音像は、様式的に9世紀の作品とされている。また、観心寺には奈良時代にさかのぼる金銅仏4体が伝来することから、奈良時代草創説もあながち否定はできない。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%B3%E5%BF%83%E5%AF%BA

 神護寺のご住職が言っておられた唐招提寺系との関係も有力な糸口である。唐招提寺の諸仏(※3)は、東大寺系ともいわれるが、むしろ南都六宗という宗派を超えて、当時の唐の影響を色濃くうけているだろう。

※3:唐招提寺の諸仏
乾漆廬舎那仏坐像 - 像高304.5センチメートル。奈良時代末期、8世紀後半の作とされる。廬舎那仏は、大乗の戒律を説く経典である『梵網経』(5世紀頃中国で成立)の主尊である。像は千仏光背を負い、蓮華座上に坐す。麻布を漆で貼り固めて造形した脱活乾漆像である。唐招提寺は私寺であるが、本像は制作に手間のかかる脱活乾漆像であることから、造東大寺司の工人による作と推定されている。(一説には、東大寺法華堂の旧本尊。)光背の千仏は864体が残る。

木心乾漆薬師如来立像 - 像高336.5センチメートル。廬舎那仏像とは造像技法が異なり、木心に木屎漆(こくそうるし)を盛り上げて造形した木心乾漆像である。かつては奈良時代の作と考えられていたが、1972年の修理時に左の掌の内側に3枚の古銭が納入されているのが発見され、そのうち最も年代の下る隆平永宝が延暦15年(796年)以降の鋳造であることから、本像の制作もそれ以降、つまり平安京遷都後となる。光背はこの像のものとしては幅が広すぎ、他の像の光背を転用したものと推定されている。

木心乾漆千手観音立像 - 535.7センチメートル。奈良時代末期の作で、廬舎那仏像よりはやや時代が下がるとされている。千手観音像は40手(合掌手を含めて42手)で千手を代表させるものが多いが、本像は実際に1,000本の手を表した例で、大手42本の間に小手をびっしりと植え付ける。現状は大手42本、小手911本、計953本であるが、制作当初は計1,000本の手を有したものと思われる。

木造梵天・帝釈天立像 - 像高はそれぞれ186.2及び188.2センチメートル。奈良時代末期 - 平安時代初期。

木造四天王立像 - 像高は185.0 - 188.5センチメートル。奈良時代末期 - 平安時代初期。

 自分は本像は官寺たる東大寺系仏師が唐招提寺にうつり(ないし行き来し)、ここで唐で開花した文化の息吹を帰化人、渡来僧らから受けて、天平のもつ一面の厳しさ(東大寺法華堂不空羂索観音立像が目を見開いたと思ってみる)を頭部に具現化し、その体躯は、当時流行の独特のボリューム感を実験してみたのではないかと推測する。今日はここで筆を擱く。 【“神護寺薬師如来立像 再考”の続きを読む】

テーマ:文明・文化&思想 - ジャンル:学問・文化・芸術

法隆寺を歩く

法隆寺images

 「南大門」(国宝:k)を遠目でとらえて次第に近づく。この大門を潜ると左に「上土門」「唐門」(重要文化財:j)が続く。建築が好みの人はこの辺で足をとどめて専門本を取り出す。右手には「護摩堂」「弥勒院」があり、運よく法事をやっていれば、ここまでは一般人もぶらりと入れる。普段公開されていない若草伽藍にもっとも近くに寄ったことになる。思わず、ジャンプして東の伽藍跡を覗きたくなる瞬間である。

 正面に「中門」(k)が見えるが、閉ざされた廻廊内への入り口は左手一カ所にある。焦ることはない。弁天池のさまざまな伝説、逸話でも思いだしながら、左手の休憩所に入る。趣きのある鄙さのなかで、セルフ・サービスながら、ここでお茶が飲める。上に目をやり「西円堂」(k)を仰ぐ。この階段を上がるまえに右手の大きな建物をよく見よう。「西室(三経院)」(k)である。実は、この近くに「表門」「西大門」「本堂」(j)などもあるが、むしろ、ここは登ったあと西円堂からの眺めを楽しもう。この「西」のウイングは法隆寺の静かな穴場だと思う。

 料金所をへてメインの内陣に入ると、左に「五重塔」、右に「金堂」、さらに「廻廊」の両翼に、同じく「経蔵」「鐘楼」が見える。前面には「大講堂」(以上k)があり、その裏手丘に「上御堂」(j)がある。ここで、たっぷりと時間をかけたら、鏡池を左手にみて「東室(聖霊院)」に。堂内に上がって御朱印帖に墨書、押印を頂戴できる。
「網封蔵」「食堂」(k)を右手に、いよいよ法隆寺美術館たる「大宝蔵院」へ。ここは左回りで西宝蔵~百済観音堂~東宝蔵の順に歩く。出口から南に歩をすすめると名前が紛らわしいが「大宝蔵殿」がある。特別展があれば、ここも参観できる。ここにもゆっくりできる休憩所がある。また、子規の「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」の句碑も。

 「東大門」(k)をくぐり、よく見えないが右手に「律学院」(j)があるが、まっすぐ行けば「夢殿」「伝法堂」「鐘楼」(k)がある東院伽藍がある。ここからは中宮寺へ。
(以上は、法隆寺作成境内平面図を指さしながらの追体験。奈良に行けないので、自分なりの<机上散歩>である)


(参考)
■金堂(こんどう)---国宝 <飛鳥時代>
 法隆寺のご本尊を安置している殿堂。四方に階段を付けた二重の基檀に立つ二層づくりであるこの金堂は、柱上に横材が何段も井桁に組まれているもので、飛鳥時代の特徴的な建造物。金銅釈迦三尊像をはじめ、諸像が安置されているほか、天井には、天人と鳳凰が飛び交う天蓋が吊るされ、周囲の壁面には、世界的に有名な飛天図が描かれている。昭和の大修理の最中の昭和24年(1949)1月26日朝に火災につつまれ、あらかた焼失するも、現在は昭和42年に14名の日本画家の手によって再現された壁画が白壁を埋めている。

■五重塔---国宝<飛鳥時代>
 高さ約31.5m(基檀上より)で、我が国最古の五重塔として知られ2重基檀の上に建ち、各重の平面と屋根の大きさは逓減率が大きく、また、5重目の柱間は初重の半分になっている。五重塔は釈尊の遺骨(仏舎利)を泰安するための塔。最下層内陣には、奈良時代初期に造られた塑像群があり、地下1.5mに埋められた大理石の上部には舎利奉納孔がある。近年、この五重塔の心柱の伐採が594年であることが、年輪年代測定法により判明し、日本書紀の記述にある天智9年(670年)の火災以降に再建されたという、再建論に一石を投じる形となった。

■大講堂---国宝<平安時代>
 仏教の学問を研鑽したり、法要を行う施設として建立。大講堂の両脇には、経蔵と鐘楼がある。これは古代寺院の様式。また垂木勾配を緩くしたままにする為日本独特の屋根の上に屋根を設けるという形式の屋根では現存最古もの。
鐘楼とともに正暦元年(990)には再建され、本尊の薬師三尊像及び四天王像もその時に作られている。

■回廊---国宝<奈良時代>
 回廊は東側の鐘楼、中央の大講堂、西側の経蔵につながり、西院伽藍を形造っている。平安時代以前の回廊は、経蔵、鐘楼の手前で閉じられ、大講堂、経蔵、鐘楼は回廊の外側に建っていた。また西側より東側のほうが一間だけ長くなっているのは、金堂と五重塔のバランスを考慮したものだと考えられている。

■経蔵(きょうぞう)---国宝<奈良時代>
 経典を納める施設として奈良時代建立。楼造で、壁面に見える二重虹梁(こうりょう)と、その受けの蟇股(かえるまた)の架構が良く整っている。現在は、天文や地理学を日本に伝えたという百済の学僧、観勒僧正像(平安時代)が安置されている。

■鐘楼(しょうろう)---国宝<平安時代>
 鐘は白鳳時代、建物は延長3年(925)に落雷によって焼失し、現在の鐘楼は経蔵の様式にならって再建されたもの。

■中門---国宝 <飛鳥時代>
 西院伽藍への入口である中門は深く覆いかぶさる軒、その下の組物や勾欄、それを支えるエンタシスの柱、いずれも飛鳥建築の特色を持つ建築物。エンタシスとは中央にふくらみをもつ柱で、古代ギリシャローマ建築の影響を受けたものと一般的には言われている。中門がある西院伽藍は天智9年(670)に若草伽藍が全焼した後に場所を変えて建てられたと考えられており、金堂、五重塔、中門の順に建立されたと考えられている。また、この中門は門の両脇に我が国最古の金剛力士像が配置されている事から仁王門とも呼ばれる。

■聖霊院---国宝<鎌倉時代>
 1121年(保安2年)、東室の南側の一部を改造したもので、現在の建物は1284年(鎌倉時代)に改築された寝殿造りの建物。法隆寺のご本尊でもある聖徳太子45歳の像のほか太子の長子・山背大兄王や兄弟皇子の殖栗王の像、太子の兄弟皇子・卒末呂王や高句麗僧・恵慈法師の像(いずれも国宝)が祀られ 、毎年行われる、法華経などを中心として太子の遺徳をたたえる法会である「お会式」で公開される。この法要は太子の命日に毎年行われるもので、法隆寺最大の行事。

■網封蔵(こうふうぞう)---国宝<奈良時代>
 平安時代の初期に建立された寺宝を保管するための南北9間の両端各3間にそれぞれ蔵を設け、中央の3間が吹き抜けになっている蔵で、双蔵(ならびくら)と呼ばれる様式の建物。またエンタシスの床柱など奈良時代の特色をみることも出来る。現在ここの宝物は、大宝蔵殿などへ移されている。

■食堂(じきどう)---国宝<奈良時代>
 天平時代に建立された現存日本最古の食堂で、もともと政所という法隆寺の寺務所だが、平安時代に入り僧が食事をする場所として使われた。細殿と軒を接してこのように二つの建物を並べて建てるのを、双堂(ならびどう)といい、奈良時代の様式。

■東室・西室(ひがしむろ・にしむろ)---国宝<奈良時代>
 西院伽藍の東西それぞれに、東室・西室という南北に長い建物がある。東室は東に位置する僧房で、法隆寺に住む僧が生活していた建物。天平時代東室は大房と呼ばれ、僧が寝泊まりし、東室の東側にある妻室は小子房と呼ばれその従者が寝泊まりしていたもの。

■三経院(さんぎょういん)---国宝<鎌倉時代>
 聖徳太子が勝鬘経・維摩経・法華経の三つの経典を注釈されたこと(三経義疏)にちなんで、西室の南端部を改造して建てられた。創建時代の建物は焼失したため現在の建物は1231年(鎌倉時代)に再建されたもの。
三経とは、法華経・維摩経・勝鬘経で現在も毎年、夏安居の3ヶ月間(5月16日~8月15日)に講義を行っている。

■西円堂---国宝<鎌倉時代>
 八角形をした西円堂は奈良時代、聖徳太子の3夫人の1人橘夫人の発願により行基菩薩によって、創建されたと伝えられているが、現在の建物は、1250年(建長二年)に再建されたもの。俗に「峰の薬師」と呼ばれる本尊薬師如来座像が安置されている。薬師信仰は、日本の民俗信仰の発展と共に、特に西円堂の「峯の薬師」に集中せられて今日に至っている。西円堂の東側にある鐘楼は、時を知らす鐘で、現在8時・10時・12時・2時・4時にその数だけ撞かれている。

■南大門---<国宝> 室町時代
 法隆寺の玄関にあたる「南大門」は、創建時のものは、永享7年(1435)に焼失し、永享10年(1438)に現在の門が再建。三間一戸の八脚門で、単層入母屋造。東大寺南大門(奈良県奈良市)・東照宮陽明門・日暮門(栃木県日光市)とともに、日本3大門のうちの1つ。

■東大門---国宝<奈良時代>
 三棟造りの大門で、奈良時代に建立され、奈良時代を代表する建物の1つである東大門は、西院と東院の間に建ち、「中ノ門」ともよばれている。この門は、切妻造、本瓦葺で奈良時代八脚門の典型的な形式の山門。三間一戸の八脚門で、天平時代のものとしては、他に東大寺の転害門があるのみ。

■夢殿---国宝<奈良時代>
 聖徳太子の遺徳を偲んで天平11年(739)に、斑鳩の宮跡に、行信僧都という高僧が建てた伽藍を上宮王院(東院伽藍)といい、その中心となる八角円堂の建物が夢殿。四方に扉が設けてあり、瓦ぶきの屋根は創建当時のもの。夢殿の名前の由来は太子が夢の中で金人(仏)に出会ったという伝説から名づけられたとも言われ、「三宝絵詞」「日本往来極楽記」「今昔物語」に出てくる記録によると、聖徳太子が禅定をして夢を見るための聖所を記念したものとされているが、夢殿は643年蘇我入鹿によって焼かれ、現在ある夢殿は天平時代の建立なので、聖徳太子の在世の推古時代にこの形であったかは不明。岡倉天心は明治17年(1884)に薬師寺東塔を凍れる音楽と評したフェノロサと共に数百年間開けられたことの無かった法隆寺夢殿の中で聖徳太子等身と伝えられる秘仏救世観音像をみつけたことで有名。

■伝法堂(でんぽうどう)---国宝<奈良時代>
 739年(天平11)聖武天皇夫人の橘古那加智の住居を施入したもので、東院の講堂にあたる。床を張った現存最古の建物で、桁行き三間、梁行き四間の壁と扉で閉ざされた部分桁行き二間の開放的な部分そして広い簀子敷と三つの空間からなり、床を上げ、土間から切り離す事によって、土間と違った領域を空間化している古代平地住居の形式をとっている。また、空間を仕切るものとして壁と扉しかなく、内部に間仕切りの無かったことも重要な特質。

■東院鐘楼---国宝<鎌倉時代>
 三間二間の楼造で、一階に腰板を張って軸部を見えなくした袴腰という形式 。内部に「中宮寺」と陰刻された奈良時代の梵鐘が吊されている事から中宮寺より移されたものと言われている。

(出典)http://www.tabian.com/tiikibetu/kinki/nara/horyuji/

テーマ:神社仏閣 - ジャンル:学問・文化・芸術

『古代人の精神世界』、『古代史の人びと』

0003.jpg

湯浅 泰雄『古代人の精神世界 』 (歴史と日本人〈1〉) (1980年)ミネルヴァ書房 (以下「湯浅1980」という)
直木 孝次郎『古代史の人びと』(1976) 吉川弘文館(以下「直木1976」)


を読む。どちらも面白い。
 「湯浅1980」では、思想史の立場から古代人(といっても飛鳥時代、仏教伝来以降が中心)の精神構造を考える。いわゆる神道(原始信仰)と仏教(とりわけ密教受容以降)の関係性がクローズアップされる。
前者を底層(下層)、後者を表層(上層)とする「二重構造」があることを指摘しつつ、しかし、それは本居宣長、その後、丸山真男らが措定したものとは異なり、独立的ではない。両者は相互に影響を及ぼし、空海を祖とする密教の体系化によって、「神仏習合」という部分融合も果たしていくといった所論である。
 この考え方で彫刻をみていくと、空海以前の両者の関係性が乏しい時期の作品に自分が価値をおいていることがわかる。すなわち貞観彫刻以前という<括り>であり、仏教的表層と神道的底層が未分化な時代の彫刻である。

 「直木1976」は、オム二バス風、いろいろな論文、論点が混在しており、ひとことでは要約はできないが、平城京の分析、および叙述の部分が見事であり、可視的な文章力をもっている。つまり、瞼に映るように書いているという感じである。相当な知識と「自信」がなければここまで書けないだろう。その一方、この人も論争的な人で、挑発的な発言も多いが、感性と思考力を刺激する、いま読んでも古さを感じない本である。
 また、書評では、井上光貞『日本古代史の諸問題』、林屋辰三郎『古代国家の解体』、北山茂夫『日本古代政治史の研究』、上田正昭『日本古代国家成立史の研究』、岸俊男『日本古代政治史研究』、吉田晶『日本古代国家成立史論ー国造制を中心としてー』を取り上げているが、この時代の研究者の層の厚さと熱意には隔世の感もある。

テーマ:文明・文化&思想 - ジャンル:学問・文化・芸術

FC2Ad