大和古仏探訪

京阪神を中心に内外の古仏についていろいろと書いてみたいと思います。

飛鳥彫刻の独自性

 飛鳥時代の彫刻について、これが中国の影響が強いことをもって、日本独自の表現ではないという考え方がありますね?

 第二次大戦前からの大陸の彫刻との比較研究で、たとえば法隆寺金堂釈迦三尊像が、雲崗の石窟彫刻(第六洞南壁仏像)や龍門石窟(賓陽中洞本尊)に似ていることから、いわゆる北魏形式の模倣という観点が強調されたのは事実です。戦前の文献には「奴隷的模倣」([濱田1940])という言葉さえあります。
 でも、そこはふまえたうえで、この釈迦三尊像を高く評価する方ももちろん沢山います。上野直昭氏もその一人です。[上野1959]pp.52-55では、止利仏師が「生命の亡びんとする渡来形式を換骨脱胎して此作をなせるは、誠に讃歎するに足りると思ふ」と言っておられます。

 釈迦三尊像については、記述そのものを控えるという人もいますね。佐和隆研氏は意図的にその方法論をとっていますね。[佐和1963ー1][佐和1963ー2]がその代表でしょう。


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雲崗第六窟南壁の仏像  http://www.bell.jp/pancho/travel/china-1/asuka%20bijyutu.htm
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龍門賓陽中洞本尊  http://www.bell.jp/pancho/travel/china-1/asuka%20bijyutu.htm

 釈迦三尊像の独自性を評価するうえでは、北魏仏をどう見るかということもありますね。その圧倒的な大きさ、見上げる迫力にひれ伏してしまうと、極東の孤島の相対的に小さな金銅仏はいささか貧相に見えたかも知れません。心理的に、戦前、戦後も解放前の中国に、実に苦労して行った研究者がそう思っても不思議はないように思います。

 さあどうでしょうか?仏像はもちろん、その大きさで評価がきまるものではないですよね。<プロ>の研究者の目はそうした点では別ではないでしょうか。むしろ、仏教受容の仕方のちがいではないでしょうか。
 たとえば、速水侑氏は「要するに北魏仏教信仰の本質は、かつて塚本善隆が指摘したように『時の君主権に奉仕し、かつ祖先崇拝に密着する』ものであり、これが以降の中国仏教の特色となったのである」([速水1986]p.12])と言っています。中国の造像では祖霊追善もその主目的であったのでしょうね。


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法隆寺金堂の釈迦三尊像  http://www.bell.jp/pancho/travel/china-1/asuka%20bijyutu.htm

 ちょっと待ってください!飛鳥時代の金銅仏だってその点は同じではないですか。法隆寺48体仏の多くも祖霊追善の目的もあったでしょう。そもそも釈迦三尊像も救世観音も止利派の造像は、聖徳太子の尊影を残すということにあったでしょう。そうであれば、日本の飛鳥彫刻も、中国北魏以降の傾向とそう違わないのではないですか?

 まず、北魏様式自体がすでに中国で相当「形式」化されていったということもあると思いますし、なにより日本への受容には大変な衝撃があったこと。そこを前提として、日本受容の特殊性を考えた湯浅泰雄氏の見解(「湯浅1980」)などは注目すべきではないでしょうか。

 [湯浅1980」では、思想史の立場から古代人(といっても飛鳥時代、仏教伝来以降が中心)の精神構造を考えていますね。いわゆる神道(原始信仰)と仏教(とりわけ密教受容以降)の関係性がこの本ではクローズアップされていると思いました。
 前者を底層(下層)、後者を表層(上層)とする「二重構造」があることを指摘しつつ、しかし、それは本居宣長、その後、丸山真男らが措定したものとは異なり、独立的ではない。両者は相互に影響を及ぼし、空海を祖とする密教の体系化によって、はじめて「神仏習合」という部分融合も果たしていくといった所論ですね。


中宮寺観音N3
中宮寺観音

 よっ、また小難しいことを言っているんじゃないか!

 えっ、貴男、いつからいたんですか?

 「思想史」とか、「二重構造」とか聞くとどうも眉唾だと思っちゃうんだな。飛鳥彫刻といったっていろいろあったんじゃない。でも、日本にのこっている仏様はどれも立派だし、よく外国人観光客が、その前で感歎の声をあげているのをみる。これってなんともすごいことだよ。

 飛鳥彫刻の系譜はおおむね4つくらいあると思います。第1に止利系、第2に山口大口費系、第3に秦氏系、第4にそれ以外のグループです。
→「飛鳥彫刻の作り手」参照 http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-187.html

 なるほど今日は止利系が中心になったかも知れないが、飛鳥彫刻そのものの多様性をもっと考えるべきだな。<畏敬的な部分>と<古式の笑い>の同居ーそこを忘れてしまうと本質を見失うか・・・

 飛鳥時代の仏様ー結局、理屈ではなにがなんだかわからない、でも言葉にできないすごい良さがある、だからこそ恐れ入って拝顔するということじゃないかね。

 たしかにこの時代には文献の厳しい制約があります。「日本書紀」などの専門的な研究がすすみ、確定できる事象がかえって少なくなっているような感じもありますし。平安以降、密教文化の影響ののちとは研究素材の物量がちがいます。だからというわけではありませんが、最近は、飛鳥白鳳彫刻をよく知るうえでも、密教移入以降の作像の変化にとても関心があります。

 さきほどの[佐和1963ー1][佐和1963ー2]などが真骨頂の部分ですね。そのうち、そのあたりも議論したいですね。さんも是非どうぞ!

 おっ、度量がでてきたね!楽しみにしているよ。


(参考文献)
濱田耕作  『日本美術史研究』1940年 座右寶刊行会
上野直昭  『日本美術史 上代篇』1959年 河出書房
佐和隆研  『日本の仏像 日本歴史新書』1963年 至文堂[1963ー1]
佐和隆研編『仏像案内』1963年 吉川弘文館[1963-2]
速水侑   『日本仏教史 古代』1986年 吉川弘文館
湯浅泰雄  『古代人の精神世界 』 (歴史と日本人〈1〉) 1980年 ミネルヴァ書房 

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『 日本仏教史 〈古代〉』

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速水侑『日本仏教史〈古代〉』 1986/02 吉川弘文館(以下「速水1986」)

を読む(※1)。大変整理された労作で参考になる。以下、やや自由に、自分なりに聖徳太子時代までの事績をメモしておきたい。

1.中国の仏教受容
 日本に仏教が伝来する以前、中国では仏教について多様な展開があった。さまざまな分派があったとも言えるし経典の解釈にも単線的でない「厚み」があり、偶像信仰についても釈迦、弥勒、観音などのヴァリエーションも展開されていた。また、「先進国」中国は当時にあって文化の坩堝であり、新しいイデオロギーである仏教も、それ以前の既存の価値観との相克、同化、新たな定立の過程で変容していく。
 また、そのなかで、なにが、いつ「属国」にもたらされたかによって、各国内で胚胎の仕様がかわっていくダイナミックなものとして捉える必要がある。

2.属国への伝搬
 まず、高句麗(372年)に、次に百済(384年~)、遅れて新羅(514年~)に仏教は「公伝」されるが、もちろんこれ以外の民間レベルの私伝ははやくからあったと推定される。
 このうち、百済は枕流王(384年)、武寧王(501~523年)、聖明王(523~554年)の時代にそって隆盛をみていくと考えられる。これら三国は当時の中国の「冊封」(さくほう)下にあるいわば属国であり、仏教は宗主国からの一種の文化移入、「公伝」であることが重要である。

3.日本への伝来
 日本への伝来については、壬申伝来説(552年)と戊午伝来説(538年)が従来からあるが、筆者は慎重な検討を行い、どちらかに優位な判定をあたえず、「欽明朝」のいずれかのタイミングとしている。その場合の推定レンジは、欽明元年(532年:法王帝説)から欽明帝の没年(571年:日本書紀)までの間となる。
 これは、あくまでも「公伝」であり、古墳の「四仏四獣鏡」などにはこれよりはやくから釈迦三尊像、二尊像が配されていることからも、仏教的なるものは、日本にも渡来人を中心にもたらされていた。

4.蘇我VS物部抗争
 崇仏派たる蘇我氏と排仏派たる物部氏との抗争という日本書紀の「構図」について、筆者はここでも慎重な見方をしており、東漢氏および所領をめぐる権力闘争論に主軸をおいて解釈している。物部氏にだって、仏教受容の開明性はあったのでないかといった疑問であり実に面白い。
 しかし、その一方で、蘇我一族が仏教受容に熱心であった事実は動かしがたく、それは当時の中国および朝鮮半島情勢を分析していれば、いずれ仏教が、東アジア全体で重要な支配モメンタムになるという可能性をみていたからかも知れない。

5.聖徳太子論
 筆者の聖徳太子の評価には共感できる。このブログでいままで記してきた聖徳太子像にも共通し、秀でた政治家で仏教などの新文物にも明るく、「鎮護国家」論以前の仏教の教典としての意義、大乗仏教のもつ信仰面での重要性を認識していた知識人像が浮かび上がる。その一方で、なんでも自分で成し遂げるスーパースター性には疑問を呈し、一種のブレーン制による共同作業論を滲ませている。


※1:本書の特色(以下は引用)
 近年発展めざましい日本仏教史と関連諸領域の研究成果を総合し、多数の写真を配し、平易に叙述した最新の概説。古代仏教史上の諸現象を一貫した流れとして有機的にとらえるとともに、難読・難解な語句にはルビや訳を付す。

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田中豊蔵と上野直昭

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 むかしの学者は実に偉かったなあと思う。きょうは手元に2冊の古本がある。
田中豊蔵『日本美術の研究』二玄社 1960年(以下「田中1960」)
上野直昭『日本美術史 上代篇』 河出書房 1949年(以下「上野1949」)

 まず、田中豊蔵について下記を参照。氏は1948年に逝去しているが、この本は13回忌を記念して1960年に出版された。その「序」は上野直昭が書いている。


(参考)
田中豊蔵 1881-1948年 大正-昭和時代の美術史家。
明治14年10月2日生まれ。田中喜作の兄。雑誌「国華」編集員,慶大,東京美術学校(現東京芸大)の講師をへて昭和3年京城帝大教授。戦後は文部省美術研究所長となり,東京都美術館長もかねた。昭和23年4月26日死去。68歳。京都出身。東京帝大卒。号は倉浪子。著作に「東洋美術談叢」など。
http://kotobank.jp/word/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E8%B1%8A%E8%94%B5

 次に上野直昭について同様に下記を参照。この二人は同年代。ともに関西出身で東京帝大で学び、さらに京城帝大に同時期に赴任。戦前の有力な美術史専攻の教授であった。田中は戦後68才で逝去したが、上野は長寿を全うした。ゆえに、田中の遺稿集の出版に関与した。

(参考)
上野直昭 1882年11月11日 - 1973年4月11日は、美学者。兵庫県生まれ。
東京帝国大学哲学科卒、1924年から2年間、欧米留学。その後、京城帝国大学、九州帝国大学で教授をする。1941年大阪市立美術館館長、その後東京美術学校校長、東京国立博物館館長、愛知県立芸術大学学長を歴任。日本の絵巻物や東洋と西洋の美術比較等に造詣が深い。1946年帝国学士院会員。1959年文化功労者。主著に「絵巻物研究」、「日本美術の話」等。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E9%87%8E%E7%9B%B4%E6%98%AD

 「田中1960」では「玉虫厨子に関する考察」(1930年)ほか興味深い論文が多数収録されているが、関係文献を徹底的に読み込み、かつ卓抜な構想力をもって史実に迫ろうとする態度になんとも<凄み>を感じる。その典型が「仏師定朝」(1931年)であり、これは機会をみて別に紹介したいが、康尚ー定朝ー覚助の「血縁」の系譜とともに、定朝の「弟子」長勢の系譜をくっきりと描き、読んでいて得心する明解さがある。
もっともここに収録されている日本美術に関する論考のレンジはきわめて広く、彫刻よりも絵画に力点がおかれており、また庭園についての造詣も深い。その意味で、美術史においてもその「学問」が専門分化する以前の教養主義、高邁な知見を感じる。
 その一方、「上野1949」もユニークである。氏は西洋美術史を専攻し、本著と前後してイマヌエル・カント『美と崇高との感情性に関する観察 』岩波文庫 1948年の翻訳も上梓している。西洋美術から入り、戦中の特殊の時代を京城ですごし、その後、日本美術の研究に勤しむことになった。本書はいま読んでも、表記、文章表現は別だが、その内容にはそう古さを感じない部分も多い。日本美術史専攻の正統の学者とは、あえて位相を異にする発想の部分がそのユニークさに通じているようにも思う。飛鳥、白鳳、天平といった「上代」を中心に論じているのも、その文化、文明の<コスモポリタン性>があるがゆえとも言えよう。

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