大和古仏探訪

京阪神を中心に内外の古仏についていろいろと書いてみたいと思います。

国宝・重要文化財

不空羂索観音菩薩立像4images

 国宝・重要文化財(美術工芸品)の指定状況は、平成22年8月1日 現在、種別/区分:国宝数、重要文化財数でみて、①絵画 158、 1,969、彫刻 126、 2,647、③工芸品 252、 2,423、④書跡・典籍 223、 1,876、⑤古文書 60、 734、⑥考古資料 44、 578、⑦歴史資料 3、 161であり、合計国宝 866点、重要文化財 10,388点となっている。(注)重要文化財の件数は,国宝の件数を含む。
 彫刻に関する限り、聞くところによれば、いまだに鎌倉時代以降の指定は難しいようである。この数を多いとみるか少ないとみるかの判断は異なるだろう。 

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仏像彫刻試論3 政治との関係

運慶N1

 仏像をつくる、祭るということは古代、中世にあって、いまとは比較にならないくらい重い政治的、祭儀的な意味をもっていた。ゆえに、それは時の政権の意思、庇護なくしてはなしえなかった。寺に仏像が祭られる以上、その寺がどのような位置づけで開山され、また社会的に機能したかが重要である。
 日本における造寺のはじまりは、蘇我一族によって主導された。596年法興寺(→飛鳥寺、日本書紀)、607年法隆寺(法隆寺金堂薬師光背造像記)などが創建されたのは蘇我馬子、厩戸(うまやど)皇子(→聖徳太子)らの皇族・蘇我ファミリーの仏教振興への強いリーダーシップあればこそである。日本書紀などの記述をどこまで信じるかどうかの問題は擱くとしても、587年蘇我VS物部の抗争(蘇我馬子による物部守屋討伐)が、崇仏、排仏を争点としてなされたと伝えられること自体の政治的な意味合いは実に大きい。

 その蘇我一族の強大な権勢を排除せんとしたのが中大兄皇子(→天智天皇)と藤原鎌足である。ここにも日本書紀の潤色があるかも知れないが、この二人の時代は661年白村江の敗戦など外交、内政上の非常な難局に直面していた。律令整備は独立国家としての存立上も不可欠であった。672年壬申の乱により大海人皇子(→天武天皇)の勝利は、その後、天武ー持統ー軽皇子(→文武)ー元明ー元正ー首皇子(→聖武)、光明子ー孝謙(称徳の重祚)まで約100年にわたり(政治的には別だが)「皇族系譜」としては<安定期>を迎える。

 そして、この100年こそ、いまにいたるまで、われわれがその遺産に感歎する白鳳・天平文化の象徴とでもいうべき仏像、建築の集積をみる。たびかさなる遷都については、以下のブログでも記してきたが、710年平城京(奈良)遷都後、はやくも同年(山階寺→厩坂寺→)興福寺、716年(大官大寺→)大安寺、718年(法興寺→)元興寺、薬師寺、728年(金鐘寺→)東大寺などが移設、整備され752年東大寺大仏開眼供養(続日本紀)で頂点を迎える。その後も756年正倉院(東大寺献物帳)、759年唐招提寺(伽藍開基記)などが続くが、この間の律令制の実行と鎮護国家論の影響は造像の背景として忘れてはならない。

 蘇我ファミリーを駆逐した中大兄は大海人にかわったが、もう一人の主役、藤原鎌足はその次男、不比等に見事に家督を譲り得た。この間の歴史を読むと、鎌足が周到に天智、大海人皇子の双方と関係を構築していたほか、669年の鎌足の死は壬申の乱の3年前であり、当時不比等が11才の幼少であったことが、ある意味エアポケット状態で結果的には良かったと思う。不比等が歴史上登場するのは、この後20年後の31才からだが62才(一説には63才)の逝去までの約30年間の政治的台頭はすさまじい。これも下記のブログに記したが4人の息子は有力各家をなした。3人の娘は、宮子(文武夫人・聖武母)、光明子(聖武皇后・孝謙母)、多比能(橘諸兄室)という最強力な「布陣」である。そして不比等なくしては、この間の「皇族系譜」の安定性はなく、それゆえ類いなき文化振興もなかったといえよう。 

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聖徳太子と空海

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重文 不動明王坐像 金剛峯寺 平安後期
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-160.html#more
 
 前回は、聖徳太子との関係について中大兄皇子を取り上げましたが、空海についてはどうですか?

 聖徳太子と空海ってなにか関係あるのですか?

 聖徳太子が推古天皇の摂政になったのが593年といわれますが(日本書紀)、太子は6世紀末から7世紀はじめに活躍した人ですね。空海が唐から帰国して真言宗を伝えたとされるのが806年です(興福寺略年代記)。空海の活動期は8世紀末から9世紀初頭です。この二人はちょうど2世紀の時空を超えています。

 もしかして、空海はとても偉い人だから聖徳太子の生まれ変わりだったりして・・・という伝説だとワクワクしますね。聖徳「太子」と弘法「大師」、ここも似ていますね!

 真言宗には、弘法大師は聖徳太子の化身という伝説があるようですよ(※1)。
それはさておき、聖徳太子の時代から仏教が本格的に受容され、そののち、奈良時代は鎮護国家論から南都六宗が一世を風靡します。しかし、おそらくは旧態とした寺院勢力について、時の政権は徐々にうとましく思い、また、寺院の建立、維持や増加する僧侶などの生活には莫大なお金もかかったのでしょう。平安遷都は、こうした南都勢力からの<脱却>であったと思います。
 そこで、最澄、空海が彗星のごとく現れます。のちには変わりますが、当初の両巨頭の主張は、都(王都)に鎮座する華美な南都仏教とは一線を画した「山嶽仏教」でした。平安京の為政者は、この新風をとても喜んだと思います(※2)。

 それで、どうして聖徳太子と空海がよく比較されるのでしょうか?

 だからさ、さんが解説してくれているだろ。日本の仏教の歴史のなかで、聖徳太子が種を蒔いた仏教の揺籃期の2世紀後にだ、大きな変化としての空海、最澄らの「密教の時代」が来たからじゃないか。

 (涙声で)そんなに怖い顔して言わなくともよいと思いますけど・・・

 御免なさい。私の言葉たらずだったと思います。いつもお話ししている彫刻の歴史もここで大きく変わります。密教展開以降の平安彫刻は、たとえば教王護国寺(東寺)の諸仏ですが、両界曼荼羅や如来、菩薩以外のいわゆる眷属などの彫刻が飛躍的にふえていきますね。不動明王などはその典型ですね。空海が大和国久米寺において「大日経」をひもとくまでは、日本では誰も不動尊の名を知らなかったと言われています(※3)。
 「大日経」「金剛頂経」はじめ、曼荼羅や密教の儀礼、大日如来の台頭や不動明王への関心など空海が招来した真言密教は当時にあって、その衝撃は大きかったと思います。しかも、最澄には反発した南都六宗に対しても、空海は協調関係もつくっています。

 そう言ってくれれば私にもよくわかります。さんのように、なんでも頭ごなしの言い方はひどいです。もっと空海さんのような広いこころをもってはいかがですか。きょうは、いつも優しいさんもいないし・・・

 いまさんは夏休みでアメリカに一時帰国しています。そういえば最近、華厳経を読んでいると言っていましたよ。彼は、少し前ですが、聖徳太子が書いた(編纂した)といわれる法華経・勝鬘経・維摩経の三経義疏も読んでいらっしゃいましたね。
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-38.html

 閃いたぞ!聖徳太子から空海までちょうど200年、さらに200年たって11世紀初頭、藤原道長がでてくるな。定朝の時代の幕開けだな。さらに200年、鎌倉幕府の時代、運慶、快慶ら慶派の最盛期だ。日本彫刻史において、ちょうど200年周期説が成り立つんじゃないか。これって大発見かも知れんな!

 (クールに)それって年表をみれば誰でもわかることではないですか・・・!? 


(備考)
※1:田村圓澄『聖徳太子 斑鳩宮の争い』1969年(第5版) 中央公論社 p.174
※2:和歌森太郎編書『弘法大師空海 密教と日本人』1973年 雄渾社 参照
※3:渡辺照宏『不動明王』1975年 朝日選書 p.44

 聖徳太子と空海ーこの2人の比較論は数多い。たとえば松岡正剛氏は、次のような指摘をしている。以下は引用。
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0750.html
空海 『三教指帰・性霊集』 (日本古典文学大系第71巻) 1965 岩波書店
ー『三教指帰』は日本最初の「無常の思想」の表明をなしとげた。「無常の賦」という漢詩も挿入されている。これは聖徳太子の「世間虚仮・唯仏是真」につづく表明である。日本仏教がつねにこうした「無常」を媒介にして転換していったこと、すでに太子と大師において実験済みだったのである。ー

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聖徳太子と中大兄皇子

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 聖徳太子(厩戸皇子)の祖父は欽明天皇で、父は用明天皇。母の穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)は欽明天皇の皇女ですね。
 この欽明天皇を基点に中大兄皇子を考えると、欽明天皇の子が敏達天皇、その孫が舒明天皇。さらにその子が中大兄皇子となる。母は皇極天皇(重祚して斉明天皇)です。

 すると、系譜は別としても、一言でいえば欽明天皇の孫が聖徳太子で、玄孫が中大兄皇子ということだな。

 敏達天皇と穴穂部間人皇女は異母兄弟ですから、そこでも聖徳太子と中大兄皇子は繋がっていますね。蘇我氏との関係で見ていくと、聖徳太子は蘇我稲目のひ孫。蘇我稲目ー馬子ー蝦夷ー入鹿だから、入鹿も同じく稲目からみればひ孫。一方、中大兄皇子は皇室系で蘇我氏との縁は薄い。

 推古天皇が死去した後、蘇我蝦夷は、聖徳太子の子、山背大兄皇子ではなく、田村皇子を立てて天皇にした。これが舒明天皇。中大兄からみれば、父を天皇に推戴してくれたのは蝦夷となるね。もっとも田村皇子は馬子からみれば娘婿だ。でも、その子、入鹿は山背大兄皇子を滅ぼし、その入鹿を中大兄が645年大化改新で暗殺するわけだ。

 中大兄はその後、自らは天皇になかなか即位せず、皇子として動くという政治的な活動様式は、聖徳太子に似ていますね。もっとも中大兄(のちの天智天皇)のほうが、政治的には、はるかにやり手であったかも知れませんが。その一方で、中臣鎌足は中大兄皇子とともに権力の階段を上りはじめることになります。鎌足の父は中臣御食子(なかとみ の みけこ)ですが、神官ないしそうした仕事が中心だったという説もあるようですね。鎌足の時代に大ブレークし以降、藤原不比等など藤原一族が蘇我にかわって天下に君臨することになります。ところで、さん、この時代の仏教美術の動向は?

 大化改新以降天智天皇時代にかけては、外交、内政の課題山積で、この間、歴史的に残っている文書で確認できる仏教美術についての動きがあまりありません。あえてあげれば670年(天智天皇9年)の法隆寺全焼でしょうか。

 後世からみればだが、聖徳太子をおそらく相当意識して政治的な舵取りをしてきた天智天皇にとって、これは皮肉な出来事だったかも知れんなあ。

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光と仰角

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A ドラクロア「バリケードを越える自由」(部分)

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B レオナルド「聖マリアと聖母子」(部分)

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C レンブラント「ろうそくを持つ老母」

 井手則雄『西洋の美術 原始時代からフランス革命まで』1961年 筑摩書房(pp.198-201)には興味深い指摘がある。名画に隠された優れた技法ー絵画における光の効果(陰影法)についての記述である。Aは「横」からの光の例で、旗をかざして闘う美しい女性の横顔に注目、Bは「上」からの光の例で、聖母子の背後にたたずむ聖アンナの慈しみある顔(額から目元)に注目、Cは「下」からの光の例で、これは見てのとおり手にもったか細いろうそくの揺らぐ光を受けて、老婆の表情のリアリティを追究したレンブラントの秀作である。西洋絵画について、こうした分析はよく行われるが、ふと日本の仏像についてもアナロジカルに考えてみたくなる。

【野中寺弥勒菩薩像】

野中寺img007

 とても小振りの仏さまなのだが、見る角度(仰角)と光のあて方によって印象がおおきく異なる。上は横下方からのアプローチであるが、一種、大仏のような厳しい偉容があることがわかる。小金銅仏の場合、どうしても観察者の目線は(下の写真のように)平行ないし上部からとなるが、持念仏の場合、むしろ下から拝むことを念頭につくられたものも多かろう。よって、下から見上げた時に、像容の威厳とその表情が一変するのもこうした仏さまに接しての楽しみのひとつである。

野中寺弥勒菩薩2

【中宮寺観音】

中宮寺観音N3

 ルドルフ・アルンハイム『美術と視覚 美と創造の心理学』波多野完治・関計夫訳 1964年 美術出版社では、上下巻で次の章立てで詳細な分析が行われている。
序文、第Ⅰ章 バランス、第Ⅱ章 形、第Ⅲ章 形式、第Ⅳ章 成長(以上上巻)
第Ⅴ章 空間、第Ⅵ章 光、第Ⅶ章 色彩、第Ⅷ章 運動、第Ⅸ章 緊張、第Ⅹ章 表現(以上下巻)
 こうした要素で芸術作品を分析していく方法論そのものにも関心はあるが、上記分析領域のどこからみても「一級」の評価間違いないのが、中宮寺観音(弥勒菩薩)である。
 野中寺弥勒像はいまも鍍金のあとが残り、当初の金色(こんじき)のイメージを連想することができるが、中宮寺観音は木造で漆をかけており、そのうえに金をのせている。金は剥落して地の部分が磨かれ、見てのとおり「黒光りの美」をわれわれに示してくれている。どの角度からみても印象がぶれない絶妙なバランスに支配されているが、やはり堂宇に座して上目で拝むとき(下の写真の構図)に有り難さが倍加するように思う。光や仰角のもつ意味をよく考えて鎮座しておられると思う。


中宮寺菩薩

【興福寺仏頭】

興福寺仏頭

 本像については比較的最近、このブログに書いたので今日は多くは語らない(http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-170.htmlを参照)。もともと仰角のことを考える切っ掛けは、この仏頭を凝視しているときに思った。上の写真の厳しいご尊顔は大仏のもつ緊張感も具現していると感じる。その一方、下の写真では、失われた躯体について、むしろ憐憫の感情もわきおこる。なお、大きな右耳のアングル(左耳は欠落)からみたお姿にはまた別の驚きもあり、左右からの印象が異なることも付記しておこう。

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「奈良の古寺と仏像 ~會津八一のうたにのせて~」展

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[左上]釈迦如来:像高 70.8cm、[右上]阿弥陀如来:像高 75.3cm、[左下]阿閦如来:像高 73.2cm、[右下]宝生如来:像高 75.0cm。いずれも木心乾漆造/漆箔、所蔵者:西大寺

2010年7月7日(水)~9月20日(月・祝)
特別展 平城遷都1300年記念 
奈良の古寺と仏像 ~會津八一のうたにのせて~
三井記念美術館(東京日本橋)
 


 もっとはやく行きたかったのだが、雑事におわれ今日やっと足をはこぶ。炎天下のせいだろうか、思いのほか訪れる人が少なく、幸いじっくりと鑑賞することができた。
 「夢違観音」をふくめ、東京展では飛鳥、白鳳の金銅仏群が展示のハイライトだろうが、奈良時代(後期ないし平安初期)の作、西大寺塔本四仏像をずらりと「一列」でみることができたのが収穫だった。2体は普段、東博、奈良博におあすとのことで、4体が一堂に会するのはなんと下記のとおり約20年ぶりという僥倖である。
 20年前の展示会とは「奈良西大寺展」(平成3年7月)であろうか。これは興生菩薩叡尊700年遠忌記念として行われたものであり、図版をみると今回同様4体揃い踏みとなっている。
 さて、4体は近くで観察すると剥落まだらのご尊顔が痛ましく感じるが、少し離れて、4体を一同見通せるソファーにゆっくりと座って眺めると、その距離がほどよくお顔の「難」を隠し、4仏には気品があり、また阿閦、宝生、阿弥陀、釈迦の各如来(但し、外形からは4如来の見分けはつかないだろうが)のお顔も印相も異なっていて、その微妙な個性の違いは見ていて飽きない。たとえば印相の相違について。阿閦は施無畏与願印、宝生は説法印、阿弥陀は来迎印(但し手は後補であり当初は不詳)、釈迦は施無畏与願印となっている。
 勝手な想像だが、これら4体は本来あった大日如来を含む五智如来(五大如来)であったかも知れないと思う。その場合は、大日如来(中心)、阿閦如来(東方)、宝生如来(南方)、阿弥陀如来(西方)、不空成就如来(北方)となるが、後世、大日如来が失われ、その後、不空成就如来のかわりに釈迦如来の名をあてたのでは・・・などと考えながら見ていた。
 
 
(参考)西大寺|塔本四仏像【以下は引用】
 4像は寸法、構造、技法など共通点が多く、元来1セットの像として造られたとみられる。平城京にそびえ立つ東・西両八角塔に納められたと考えられ、弘安6年(1283)の書物に「御塔四仏」記述があることから、当時、残っていた東塔に安置されたとみられる。「宝生(ほうしょう)如来」は北、「阿閦(あしゅく)如来」は東、「釈迦如来」は南、「阿弥陀如来」は西を守る。いずれもヒノキ一材から彫り出した後、木屑(こくそ)漆(うるし)、漆箔などを施して完成させた。4像が一堂に会するのは約20年ぶり。
http://butsuzo.exhn.jp/tokyo_spot/index.html

 會津八一という人は巨大な個性をもっていた人で、「観佛三昧」という額を日吉館に寄贈し、秀でた歌よみであり、書をよくし、大学で教鞭をとり、なによりも「哲学」から和辻が仏を論じるのとは、まったく別の「感性」から奈良を、仏を愛でた。
 ぼくは、学生時代、日吉館や畝傍館に長期投宿し奈良を歩いた。日吉館の女将はじめ皆さんがわがままを許してくれたのは、會津八一、安藤更生などの先生の系譜あればこそであったかも知れない。当時、先輩からこうした伝統を習い、一応意識はしていたが、歌にも書にも関心が向かわず、ひたすら仏像「彫刻」の魅力の虜になっていた。日吉館の額を見るにつけ今回の展示はある意味懐かしく、また歌<うた>の魅力は新鮮でもあった。このブログで登場する畏友O氏も当時、日吉館に止宿して奈良を回ったメンバーの一人である。素晴らしい仏像との邂逅、その表現手段としての歌という視点は、今回の展示の底流にある主張と思う。
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