大和古仏探訪

京阪神を中心に内外の古仏についていろいろと書いてみたいと思います。

仏像彫刻試論4 造像の技法と素材

運慶N1

 飛鳥時代からほぼ天平時代まで、この時代の仏像探訪の楽しさはその造像技法の多様性にあるとも言えよう。銅造、塑造、乾漆造、木造の手法が駆使されたのがこの時代の特色である。

 仏像は大別してカッティングかモデリングでつくる。木や石を削って仏を彫りだすカッティング、塑像や乾漆像、金銅仏など、土や漆や金属を盛り上げて形をつくるモデリング。もちろん、両方の手法をともに用いる場合もある。日本の仏像彫刻が見事なのは、両手法においても最高の作品が残されていることである。

 塑像や乾漆像、金銅仏は飛鳥・白鳳・天平期に集中している。後世の模倣作もあるけれど、木彫での生産の合理化、低廉化によって、こうしたモデリング手法は次第に駆逐されていった。
 しかし、黄金期に残された作品は、他に代えがたい魅力をたたえている。法隆寺五重塔内の多くの塑像群、興福寺阿修羅像などの乾漆像、薬師寺薬師三尊、聖観音、野中寺弥勒菩薩などの金銅仏・・・、他にも多くの秀作が思いつくだろう。

【金銅造】
 まず、銅像(金銅仏)だが、これは飛鳥から天平時代に隆盛をみた。その後、すたれ室町時代以降に復古調のものが現れる。鎚ちょう仏(押出仏)もこの時代の特色であり、比較的簡便で多数のコピーをつくる技法としては、なかなかユニークな対応であったと思う。その一方、当時、いまでいう公害、労災にあたるが、鋳造にあたって工人、作業に携わる人々などに鉛害などがあったとも言われ、また、金銅仏の場合、鍍金には莫大な資金も必要であったことから、この技法が次第に使われなくなったとも考えられる。

【塑造】
 塑像は白鳳時代からつくられ天平時代にピークを迎える。石造もこの時代からつくられるが、大陸に比べて、石仏は後世の民間信仰の拡がりとともに特に江戸時代に栄えることになり、支配階級での利用は少なかった。金銅仏は、巨大なものは別だが、小さいものなら運搬もたやすく破損もしにくいことから、残存可能性が高い。塑像は一般に大きなものは、重く、金銅仏に比して脆い。火災や震災などの折に、運びだすことは難しいだろう。だからこそ、天平期の塑像がいまに残されているのは貴重である。

【乾漆造】
 乾漆像には大別して2種あり、木心乾漆、脱乾漆の手法があるが、これも天平時代に作像されて以降、すたれてその後は作られなくなった。乾漆像は、比較的、大振りにつくっても塑像にくらべて軽量で、運搬しやすいことから残されたものもあるだろう。その一方、漆は高価で大量生産には向かないといった弱点があり、それが、木造にとってかわられた主因とも言われる。

【木造】
 さて、木造では材質も重要な要素である。飛鳥時代は、楠(クス)、松がよく利用されていたようであるが、榧(カヤ)、栴檀(センダン)などをへて、藤原時代以降は檜(ヒノキ)がいまにいたるまで主要な材質となる。檜は虫がつきにくく吸湿性にも特性がある。当初は丸彫り、「一木造り」であったが、矧ぎの技術を磨き「寄木造り」という部材組み合わせの画期的な手法を編みだした。量産と標準化が可能となり飛躍的に生産性が高まった。

 木造彫刻は、檜を素材の中心に、土地土地で変化に富んだ春夏秋冬に耐えて育った「神木」「霊木」をもって、つくられた。木という素材が再生産可能であったことがなにより大きいだろう。しかも矧ぎの技術などを磨き、寄木造りという画期的な方法をあみ出した。これによって、標準化、量産化とともに、巨大な造像の可能性もひろがった。東大寺南大門の仁王像がその代表例である。

 また、注目すべきは、畿内だけではなく日本各地で、土地の資源(原木)を活用して仏像生産を伝搬させていったことである。国内の技術伝搬の速度がはやく、いまも立派な地方仏が多く残されている。

 木造彫刻は火災では燃えやすく、高温多湿では朽廃するし、虫害にも弱い。それゆえに、人から人に大事にそれを守ってきた。「ものづくり」の伝統は、一方で「もったいない」の精神を生み、ものを大切にする風土をつくってきた。これは広義のメンテナンス技術といっても良いかも知れない。

 それに比べると、前述のように石像や鉄仏は日本ではそう多くない。しかし、臼杵の石仏などを典型に、石像ないし石仏にも惚れ惚れする優品が残されている。こうした素晴らしい仏さまが、なぜ地方に、かくも大切に残されているのだろうか。いまは、中国各地の巨大な、繁多な石仏をインターネットほかさまざまな媒体で見ることができるが、これらは、そうした「本家筋」と比べても、小振りながら、優るとも劣らない品格をそなえた作品群である。

 カッティングだろうがモデリングだろうが、どちらの技法も、あらゆる素材もこなし優品を残せる。それは確かな腕、繊細で行きとどいた神経、民族(渡来人を含む)固有の品位ある価値観などに裏打ちされたものだろう。誇りをもって世界にひらかれた芸術品が、われわれの手元にあり、いつでも鑑賞することができる贅沢。これをもって、有り難いとしか言いようがない。

 日本の仏像彫刻が誇れるのは、その卓抜な技術力に加えて、豊かな芸術性を世界が認めていることにある。「芸術性」とはいかにも抽象的だが、その説明しにくいところにこそ、言いしれぬ独自性の根拠(国民的感性、ノウハウ)もあるのではないだろうか(たとえば、アンドレ・マルロー来日時のさまざまな日本芸術行脚論を読んでいて、その視点の斬新さが面白かった。国内議論では見えないものが外からのスパッとした切り口で覚醒されることもある。ヤスパース<広隆寺弥勒菩薩論>しかり、フェノロサ<法隆寺救世観音論>しかりである)。

 グローバリズムからの客観的な自己評価は重要である。飛鳥時代も、織豊政権下でも、明治維新も、人心同様、仏像についても甚大な影響があった。渡来人が飛鳥彫刻の旗手であった、戦国時代は比叡山焼き討ちはじめ仏像も大変な受難時代だった、同様に、明治維新直後の廃仏毀釈も激しい環境変化だった。しかし、仏像は多く失われながらも、しかし、しっかりとしぶとく残ってきたと言える。「ものづくり」「もったいない」の遺伝子はいまも脈々と継承されていると言えよう。  

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平安彫刻 大量発見!

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 日本の地方には、まだまだ知られざる、眠れる資源があるということだろう。下記の記事を読んで、手から手に、人から人に、寺から寺への連綿とつづくバトンタッチによって、歴史的に得難い稀少資源が保全されてきたことに感動を覚える。もちろん、相当な毀損はあるのだろうが、むしろ痛ましいお姿になっても、なお、これをしっかりと守ってきた人々の心根になんとも暖かいものを感じる。各地で仏像の盗難事件があいつぎ荒んだものに直面するなか、素晴らしいニュースである。

【以下は朝日新聞からの引用】
平安の仏像60体確認 兵庫の薬師堂、一挙に 

 兵庫県加東市中古瀬の薬師堂に伝わる60体もの仏像が、10~12世紀の作であることが早稲田大奈良美術研究所の大橋一章教授(仏教美術)らの調査で明らかになった。平安時代の仏像がこれほど多数確認されるのは近年例がないだろうといい、同研究所が保存処理に乗り出した。
 お堂の周囲には水田が広がる。区長の吉元明博さんによると、集落の63戸で管理し、正月とお盆にだけ戸を開けるという。「この地域ならどの集落にでもある辻堂で、江戸時代の建築でしょう」と加東市教育委員会文化財係の森下大輔さんは説明する。

 ここに調査が入ったのは今年の夏。早大の桜庭裕介講師(文化財修復)は「様式と制作技法から見て、すべてが平安時代の作。これほど多数の平安仏が知られずにいたとは、驚きました」と語る。鎌倉時代になると寄せ木造りになるが、平安時代までは一木造りなので壊れにくいという。

 仏像は140センチ以上、100センチ前後、40~50センチという三つの大きさに分類し、ほぼ同数あった。台座が壊れ自立できないものが多く、集めて壁に立てかけられていた。

 兵庫県では、達身寺(丹波市)に傷みの激しい平安仏が80体ほど伝わっていることが知られている。「よく似たケースです」と大橋教授は指摘する。「仏像のサイズが多様なのは、いろいろな規模のお寺にまつられていたことを示している。人間の体より大きな仏像は、相当に立派なお寺の本尊だったはず」と推測する。「多くの寺やお堂が戦国時代に破壊され、仏像は放置され雨ざらしになった。その姿に心を痛め、お堂に集め、地域の人たちが代々大切に守ってきた。文化財がどのようにして守り伝えられるのかを端的に示した好例でしょう」と大橋教授。

 この地域の歴史に詳しい岡山大の今津勝紀准教授(古代史)によると、加東市のある加古川の中流域は古代に仏教が盛んな地域だったという。

 早大では地域の人たちの同意を得て、保存・修復に乗り出すことにした。手始めに、小型仏像19体を東京に運び、9月にあった文化財修復の集中講義の教材に活用。地元負担がないまま、きれいに生まれ変わった。「これであと200~300年はもつはずです」との桜庭さんの説明に、区長の吉元さんは「古い木材ぐらいにしか見えなかったのが、仏様らしくなり驚きました。地域の宝物ですね」とにっこり。すべての処理が終わるのには3年ぐらいかかる見通しだという。(渡辺延志)
http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201011060174.html

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唐招提寺

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 以下の記事が配信されている。東京であくせくとしている身としては、羨ましい限りである。薬師寺、興福寺、東大寺と続く東博での展示会に、そのうち唐招提寺の金堂の仏さまが来てくれることを期待しよう。

【以下は産経新聞関西からの引用】
 「天平の甍(いらか)」で知られる奈良市の唐招提寺金堂(国宝)への一般の入堂が3日、奈良時代の創建以来初めて認められた。昨年11月の「平成の大修理」落慶法要から1周年を記念した堂内の特別拝観。訪れた人たちは国宝の三尊に見入っていた=写真(沢野貴信撮影)。

 金堂は唐招提寺を開いた唐僧、鑑真が亡くなった後の奈良時代後半の創建。内部には盧舎那仏(るしゃなぶつ)坐像(ざぞう)と千手観音立像、薬師如来立像の国宝三尊などが安置されている。金堂は仏像を納める「厨子(ずし)」として扱われているため、法要も堂外で営まれ、通常の拝観も堂外からしかできない。

 入堂できるのはこの日だけで、午前中から参拝者らが詰めかけた。天井付近に残る彩色文様にも見入りながら、鑑真の精神を伝える堂内の雰囲気に触れていた。
http://www.sankei-kansai.com/2010/11/04/20101104-045590.php

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特別展「東大寺大仏―天平の至宝―」

東大寺大仏images

 薬師寺は、天平彫刻の名華、ブロンズ3観音を東博に出展した(平城遷都1300年記念「国宝 薬師寺展」平成館 2008年3月25日(火)~6月8日(日))。
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-69.html

 興福寺は、これも人気NO1の阿修羅像ほか八部衆、十大弟子を、東博で一堂に会してみせた(興福寺創建1300年記念「国宝 阿修羅展」 平成館 2009年3月31日(火)~6月7日(日))。
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-99.html

 そして、いよいよ東大寺。しかし、いまからちょうど30年前、1980年4月8日(火)~5月25日(日)国宝大仏殿昭和大修理落慶記念「東大寺展」の図版をみると今回展示とほぼ同じことがわかる。但し前回、不空羂索観音菩薩立像宝冠は、今回は光背にかわっていたりする。さて、古手の愛好家は考える。今回展示、これは30年ぶりの大英断なのか、はたまた前例踏襲か?

【以下は引用】
光明皇后1250年御遠忌記念
特別展「東大寺大仏―天平の至宝―」平成館 2010年10月8日(金)~12月12日(日)

東大寺は、聖武天皇と光明皇后が、夭逝した皇子の菩提を弔うため造営した山房に始まり、やがて、聖武天皇の発願により盧舎那仏(るしゃなぶつ)が造立され、国家的な仏教信仰の中心になりました。天平勝宝4年(752)には大仏開眼供養会(だいぶつかいげんくようえ)が盛大に執(と)り行われ、インド、中国の僧が参加するなど国際色豊かな文化が生まれました。後世の兵火により2度罹災しますが、そのたびに高僧らが復興、再建に取り組み、創建時の天平文化を代表する至宝が伝わっています。
 本展では大仏造立に関わる作品を通して天平文化の精華をご覧いただきます。大仏殿前の高さ4.5メートルを超える八角燈籠(国宝)が寺外で初公開となるほか、古代の誕生仏では日本最大として知られる誕生釈迦仏立像(国宝)や、大仏開眼供養会などに使用された伎楽面(重要文化財)など、天平の宝物を一堂に展示します。また鎌倉時代、江戸時代に大仏を再興した、重源(ちょうげん)上人、公慶(こうけい)上人の肖像彫刻の傑作などを通じて、今日まで脈々と伝えられる東大寺の歴史を紹介します。さらにバーチャルリアリティー(VR)映像で平安時代末期に焼失した創建時の大仏殿を再現、寺では見ることのできない盧舎那仏の背面を含め、360度ぐるりと大仏をご覧いただきます。
http://www.tnm.jp/jp/servlet/Con?pageId=X00&processId=01 【“特別展「東大寺大仏―天平の至宝―」”の続きを読む】

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