大和古仏探訪

京阪神を中心に内外の古仏についていろいろと書いてみたいと思います。

空海と密教美術展 魅力の彫刻6 人気NO1 帝釈天騎象像

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 東京国立博物館も、つくずくかわったなあと思う。ー「空海と密教美術」展「仏像曼荼羅」人気No1は?ーというのを東博が集計し、公表している。そのランキングは以下のとおり。

1.国宝 「帝釈天騎象像」 537
2.国宝 「降三世明王立像(五大明王のうち)」 182
3.国宝 「持国天立像(四天王のうち)」 173
4.国宝 「梵天坐像」 136
5.国宝 「大威徳明王騎牛像(五大明王のうち)」 107
6.国宝 「増長天立像(四天王のうち)」 54
7.国宝 「金剛法菩薩坐像(五菩薩のうち)」 42
8.国宝 「金剛業菩薩坐像(五菩薩のうち)」 37


http://www.tnm.jp/modules/r_poll/index.php?controller=dtl&po_id=8&poll_flg=0

  予想どおり、人気NO1はぶっちっぎりで、帝釈天騎象像である。それにくらべて、対をなす梵天坐像の人気があまりないのが意外。さて、この仏さまについて概説は以下のとおり。

 帝釈天像の作例はたいへん古く、梵天像とともに紀元1世紀頃のガンダーラ地方の三尊像が残っている。阿修羅とのバトルを演じたことでも有名で、むしろ仏教受容以前の異神に淵源があろう。
 そのお姿はさまざまだが、平安時代の密教に取り入れられる以前の帝釈天像は、古くは高髻で、中国、唐時代の貴顕の服飾を着け、また外衣の下に鎧を着けるものもあるが作例は多くない。
 密教移入後は、金剛杵、柄香炉、唐扇などをもつ二臂像が主流となる。騎象像では、天冠をいただき、一面三目二臂像、金剛杵(独鈷杵)を持ち三牙白象に乗り左手は拳印。


(参考)
帝釈天は「たいしゃくてん」と読み、古代インドの武神インドラ【Sakro Devanam Indrah】が起源とされる。釈提桓因(しゃくだいかんいん)とも呼ばれる。梵天とならんで仏法の二大守護神とされ、梵天と一対で祀られることも多く、両者をあわせて「梵釈」と呼ぶこともある。起源とされたインドラは、ヴァジュラ(金剛杵)を武器に凶暴な魔神たちと戦い続けた雷神であるが、仏教に帰依した帝釈天には、そうした性格は部分的にしか引き継がれていない。帝釈天は、四天王やその眷属が住むとされる四天王天がある須弥山の頂上にあたる忉利天(とうりてん)の善見城に住むとされ、そのため四天王を部下のように従えている。そして、四天王やその眷属を下界に送り、報告を受けることが帝釈天の主な務めとされている。このことは、民間信仰の「庚申講」とも結び付き、庚申の本尊は帝釈天とされる。

また、インド神話でのインドラ神が阿修羅(アスラ)と戦い倒したとの伝説に基づき、帝釈天も修羅道の主である阿修羅と自ら戦い、追い払ったと伝えられている。更に、釈迦如来の前世の伝説をまとめたとされる『本生譚』にもしばしば登場する。

帝釈天は主に二種類の姿であらわされ、1つは唐代の衣装を着た貴人風の二臂像で、手に金剛杵や蓮茎などを持つことが多く、頭には宝髻を結う。この場合、梵天像と帝釈天像はほとんど同じ姿に表現されて見分けのつかない場合もあるが、帝釈天像のみが衣の下に皮製の甲を着ける。もう1つは密教における帝釈天像で、一面三目二臂で冠を戴き、身体には甲冑を着け、手には独鈷杵を執る。また、白象にまたがった姿でも表現される。
http://www.7key.jp/data/thought/hotoke/taisyakuten.html
ーーーーーーーーーーーーー
 サンスクリット語では「シャクロー・デーバーナーム・インドラ」、すなわちインドラ神である。かつては神々の王の座に位置しており、また、軍神として様々な武勲を立てた。「インドラ」は天守、帝、「シャクロー」は勇力の意味で、この部分を「釈」と音写して帝釈天と云う。また釈迦堤婆因陀羅、釈堤桓因とも呼ばれる。

 「シャクロー デーヴァーナーム インドラハ (zakro devAnAmindraH) 」とは「シャクラは神々(デーヴァ)の帝王(インドラ)なり」という文章で、この中で彼の名を指すのはシャクラのみである。このシャクラが帝釈天の釈にあたり、インドラが帝を指すわけである。

 古代インドのヴェーダ神話の天界最強の軍神インドラが元とされる。インドラは二頭立ての黄金の戦車、または象に乗り金剛杵(ヴァジュラ)をとって毒龍ヴリトラと戦い、強力な阿修羅の軍を退けた。また雨水で地上に恵みを与え大地を潤す豊穣神としても崇拝された。仏教に帰依してからは釈迦修行時代の仏法の守護神となり、慈悲深く柔和な性質も持つようになる。

 宇宙の中心とされる須弥山山頂の喜見城を居城にし、その周辺の「とう利天」を支配する。ちなみに四天王天はそのすぐしたにある。初期の頃から梵天と一対で表されることが多く、また四天王とも共にあらわされる。のちに十二天のひとりとなり、東を守護するという。

 しかしながら、時代が降るとともに権勢を失い、ブラフマー。ヴィシュヌ、シヴァの三貴神に取って代わられる。仏教に入ったインドラは、慈悲深く柔和な性質をもった仏法の守護者・帝釈天として、姿を一変させる。帝釈天は「須弥山」(スメール)を居城とし、「とう利天」(とうりてん)を支配している。その下には四天王天があり、四天王は帝釈天に仕えている。仏像としての帝釈天は、しばしば、梵天とともに、釈迦の脇侍を務めている。

仏典では釈迦の説法の座に常におられる。密教では十二天の一人、千手観音の眷属である二十八部衆の一人。

単独で祀られることはなく釈迦の脇侍としてかなり古くからガンダーラの遺跡に三尊像が残る。払子を持つ一面二臂の立像が主流で、我が国で初期に造られた梵天像はすべて唐服を身にまとって宝髻を結い柄香炉(えこうろ)、華籠(けご)など持つ梵天像もある。

 その姿は、密教に取り入れられる以前は二臂の立像で、身に甲冑をつけた上から長袂衣をて、着柄香炉や唐扇をもつ。また密教化されると一面三目二臂で独鈷杵、三鈷杵を持つ立像または白象に乗り半迦踏み下げとするものが主流になる。七世紀以降、密教に梵天が取り入れられると、四面四臂で数羽の鵞鳥(がちょう)に乗る鵞鳥座(がちょうざ)の座像が造られた。右手に数珠、曲刀、左手に蓮華、水瓶を持つ像や当ページ作品のように払子を持つ像などある。

帝釈天とともに十二天の一つ。功徳は 仏教守護・国土安穏・立身出世

著名な梵天像 一面二臂
奈良 唐招提寺 梵天像(塑像・国宝)
奈良 東大寺 梵天像(乾漆・国宝)
四面四臂騎鵞像
京都 東寺講堂 梵天像坐像(木造・国宝)

http://www.sakai.zaq.ne.jp/piicats/taishaku.htm

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 人気の秘訣は、まず帝釈天という名称の親近感にあるだろう。『男はつらいよ』ー葛飾柴又ー帝釈天のイメージは日本人なら誰しももっている。この仏さまが、美青年?であることは言うまでもなく有力なポイントである。さらに、白象にまたがった姿の全体プロポーションもわるくない。
 くわえて、今回のようにおそば近くで観察できるとよくわかるが、象さんは笑っているように見える。当時の日本人にとってはもちろん目にしたことがなく、象という動物自体がなんとも怪異であったろうが、この象(彫像として)はなかなか巧みにできていて、現代のわれわれにとってはユーモラスな茶目っ気すら感じる。これは、後世の意想外の反応だろうが、隠れた魅力ではないだろうか。

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空海と密教美術展 魅力の彫刻5 立体曼荼羅展示に疑問あり!

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 今回の東博「立体曼荼羅」では、もっとも人気の高い国宝 「帝釈天騎象像」、国宝 「梵天坐像」の2像が両翼の奥におかれ、国宝 「増長天立像(四天王のうち)」、国宝 「持国天立像(四天王のうち)」が前面隅に配置され、中に、国宝 「降三世明王立像(五大明王のうち)」、国宝 「大威徳明王騎牛像(五大明王のうち)」、国宝 「金剛法菩薩坐像(五菩薩のうち)」、国宝 「金剛業菩薩坐像(五菩薩のうち)が鎮座する構図である。

 それでは、ご当地、東寺講堂の本来の配置はどうであろうか。以下がその全体図である。今回は国宝のみの出開帳であり、重要文化財たる大日如来ほか五智如来は展示されていない。国宝>重要文化財という「ブランド志向」ゆえか、本来、空海が考案したご本尊群ははずされている。
 人気の仏像をすぐって持ってきたのだから、それで良しとの考え方ももちろんあるだろう。また、造像時期からの一貫性の追求という判断基準もあったかも知れない(五智如来【重文】:金剛界大日如来を中心とし、周囲に宝生如来、阿弥陀如来、不空成就如来、阿閦如来を配す。大日如来像は明応6年(1497年)、仏師康珍の作。宝生如来、不空成就如来、阿閦如来の各像は江戸時代の作で、阿弥陀如来像は頭部のみ平安時代の古像のものを流用し、体部は江戸時代の作)。


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 だが、あえてこれに文句をつけたい。
 第1に、空海が構想した密教群像仏ヒエラルキーからすれば、大日如来なき展示は、明らかに「主なき群像」ではないだろうか。はたして、天上から空海大師さんはこれをどう思っておられることかな?
 うまい比喩ではないけれど、迫力ある合戦図のなかでの「大将なき軍議」模様といった趣きである。解説書でいやと言うほど大日如来を頂点とする群像彫刻の意義を論じながら、その「中心」を欠くというのはいかにも締まらない。

 第2に、実はこれを補完する素晴らしい大日如来が同じ会場におあしますということである。それが冒頭に掲げた重要文化財「大日如来像」金剛峯寺元伽藍西塔本尊 平安前期 像高 98.5cmである。独尊として離れていらっしゃるのがもったいない。
 西塔は仁和三年(887年)に創建されたものと伝えられ、本像はその当初像と考えられる。高野山における数少ない平安初期像として大変貴重であるといわれる(http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-160.html)。

 空海と大変深い縁のある金剛峰寺の平安期の大日如来が、東寺のそれ以外の群像と同じ会場で邂逅するなど、まさに夢の取り合わせではないだろうか。まさかそんなことはなかろうが、「国宝」至上主義からは「重文」ではランク不足であったかと勘ぐりたくもある。また、両有力寺院間での調整も必要であったかも知れないが、なにより「曼荼羅体系」の重要性を説くのであれば、工夫一つで、マンダラ・パワー・スポットに画竜点睛、ここでしかなし得ない心憎い演出ができたのではないかというのが小生の愚考である。 
  

【以下は引用】

西塔の本尊:重要文化財「大日如来像」元伽藍西塔本尊 平安前期 像高 98.5cm 金剛峯寺
 西塔には五仏が安置されているのですが、中心の大日如来は金剛界で、四方の四仏は胎蔵界の諸尊がまつられているとされています。一方、根本大塔は胎蔵界の大日如来を中心に金剛界の四仏が配置されていると伝えられています。
 通常、このような諸尊の配置は曼荼羅にも例がありませんので、大塔(胎蔵界)・西塔(金剛界)のいずれかが建立されていない時期の応急的な処置とも考えられています。
 大塔・西塔の諸仏の中、突出して造立年代が古いのが、西塔の中心尊大日如来像(写真)です。
 像の頭部を見てみますと、側面渦巻く高髻(こうけい)を結い天冠(宝冠)を載せる台をあらわしています。眼は大きく切れ長で、下顎のくくりは明解となり、喉に表す三道の彫りは深く、躰部の肉付けもよく、両膝も内に向けて強く引き締まり、右足を外に結跏趺坐(けっかふざ)する姿で、じつに古様であることがわかります。
 檜(ひのき)材とされる一木造。両手などを別材とするのみで、その大部分を一材から彫成しており、まさに一本の木材から彫りだしています。木芯は像のほぼ中心にあり、その木芯から一番離れている膝頭部までの年輪を数えると400以上にもなり、著しく目の詰まった材を選っていることがわかります。
 全身に黒漆下地を施し、金箔を前面部のみ置いていますが宝冠ともに後補(後世の補作)となっています。
 以上のように渦高い髻(けい)や異国的な眼差しなど、初期密教仏像の代表といえる京都神護寺・五大虚空蔵菩薩像や大阪観心寺如意輪観音像などの作風に近く、本像は木彫乾漆系に近いと考えられますが、純一木彫で表現していることが特徴といえます。
 以上のことから、本像は9世紀後半頃の造立になるものと推定することができ、仁和2年の西塔創建時期と符合していることから西塔の当初像と考える意見が多いようです。
 本像は平成4年2月に文化財保存の観点から霊宝館に収蔵されました。
http://www.reihokan.or.jp/yomoyama/various/garan/hall/saitho/002.htm

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空海と密教美術展 魅力の彫刻4 醍醐寺薬師如来坐像

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 強い意志力を誇示するような高い鼻梁とやや広い小鼻、沈黙を守るのか、否、いまなにかを語りだそうとしているのかーそこに謎を秘めたような上唇の厚さ、実に特徴的なご尊顔である。頭部と全体ボリュームはちょっと不均衡、微妙にシンメトリーでもない。だが、そこにこそリアリティがある。人間的という表現は適切ではないのだろうが、妙に実在感がある。

 光背に6仏を配する。本尊とあわせて七仏薬師像という形態だが、奈良時代の終わりに「七仏薬師経」が盛んに受容され、本像のほかにも多くの七仏薬師が平安時代に造られたという。しかし、一時期、どうもその効用は呪術的なところにあったらしく安産祈願から、その逆の呪殺祈祷といったおどろおどろしいこともこうした仏像の御前でなされたという。このご尊顔からはいまは想像はできないが、醍醐寺(上醍醐)という寺自体、関西における修験道の総本山のごとき位置づけであったことも、そうした呪術と無関係ではないだろう。


【以下は引用】
国宝:醍醐寺薬師三尊
 醍醐寺は、京都の中心部から南東にある醍醐山(笠取山/かさとりやま)一帯に境内を持つ広い広いお寺です。いまから1150年近く前に建立され、修験者の霊場として発展した上醍醐、醍醐天皇の帰依を受けて栄えた下醍醐に分けられます。豊臣秀吉が「醍醐の花見」を行なったことでも有名です。「古都京都の文化財」として世界遺産にも登録されています。  
 薬師如来は、上醍醐の薬師堂のご本尊です。像高176cm。1100年前に建立された薬師堂とともに造像されたと考えられています。どっしりした体格のとても威厳のある仏さまです。いまは、お山を下りられ、霊宝館に安置されています。 
 正式名称:木造薬師如来及両脇侍像、造像年代:平安時代前期 国宝指定:昭和28年(指定番号76) 所蔵寺:醍醐寺 所在地:京都府京都市伏見区醍醐東大路町22 拝観料:下醍醐:三宝院庭園・殿舎600円、伽藍(金堂内部含む)600円、霊宝館(季節により開館)600円 上醍醐(季節により入山可)600円 アクセス:京都市営地下鉄東西線醍醐駅から徒歩10分
http://www.tisiki.org/yakushisanzon.html

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空海と密教美術展 魅力の彫刻3 神護寺五大虚空蔵菩薩像

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 神護寺(最澄・空海ゆかりの平安仏教の中心地)からは、五大虚空蔵菩薩像のうち蓮華虚空蔵菩薩坐像、業用虚空蔵菩薩坐像の2体が出展されている。これも隠れた見所であり、ご尊顔はなんとも静謐で思惟的である。

 仏師は、動態的、威嚇的、威圧的な天部像をつくる一方で、こうした静態的、法悦的、思索的な菩薩を彫ることで精神のバランスをとっていたかも知れない。
 神護寺については、このブログで書いてきた。この仏さまについては以下のように想像してみる。

 ー帰化人、渡来人およびその閨閥の存在はながく根をおろし、難波、河内、法隆寺、奈良、飛鳥へと続く「聖徳太子の道」に、有力寺院関係者が住まい活動していたこと、そして、その人脈からみても、この道にそって大いに行き来があったのではないかということこそ重視すべきと思っている。神護寺の前身の神願寺は河内方面にあり、いまも残る有力寺院でいえば、たとえば観心寺がある。神護寺のほこる国宝五大虚空蔵菩薩像は、この観心寺如意輪観音像と近似性がある。ー
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-186.html


【以下は引用】
木造五大虚空蔵菩薩坐像
多宝塔に安置。五大虚空蔵菩薩は密教の五智如来の変化身とされる。曼荼羅などの画像では法界虚空蔵(白)を中心に、東・南・西・北にそれぞれ金剛虚空蔵(黄)、宝光虚空蔵(青)、蓮華虚空蔵(赤)、業用(ごうよう)虚空蔵(黒)を配するが、神護寺多宝塔内では現状、向かって左から宝光虚空蔵、蓮華虚空蔵、法界虚空蔵、業用虚空蔵、金剛虚空蔵の順に横一列に坐す。史料から承和年間(834 - 848年)の造像と推定されている。本尊薬師如来立像と同様平安時代初期の作品だが、作風は穏やかで、技法も異なっている。基本的には一木造だが、表面には厚く乾漆を盛り上げ、彩色を行っている。一般には公開されていない。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E8%AD%B7%E5%AF%BA

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空海と密教美術展 魅力の彫刻2 獅子窟寺薬師如来坐像

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 大阪・獅子窟寺の国宝「薬師如来坐像」の特徴的な切れ長の目元とコンパクトながら抜群のバランス感ある上体、衣文の美しい処理、印相の優しい表現などは素晴らしい出来。
 螺髪の作り方が丁寧で照明のゆえかその白さが映える。年古(としふる)重みを感じる。鋭角的な目尻は特徴的で、それとの対比で、浄水が流れるような衣文の柔らかさが際立つ。実に周到に考え抜かれた意匠。秀作である。


<以下は引用>
木造薬師如来坐像 - 1968年国宝指定
像高は92.3センチメートル。9世紀(平安時代初期)の作。脚部は左足先で衣を包み込む形式で、唐代彫刻や唐招提寺の盧舎那仏坐像に代表される天平彫刻の影響が指摘される。表情は観心寺の如意輪観音像など承和後半期の木心乾漆像の影響が指摘される。形相は右手を胸前に上げた施無畏、左手は胸前で宝珠を捧げた印相で、両手の手先や宝珠が後補であることから、製作当初は説法印を結んだ阿弥陀如来像であった可能性が考えられている(井上一稔「薬師如来坐像」朝日百科『日本の国宝』3近畿1。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8D%85%E5%AD%90%E7%AA%9F%E5%AF%BA

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空海と密教美術展 魅力の彫刻1 兜跋毘沙門天

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 国宝「兜跋毘沙門天立像」は彫刻展示で早いほうに置かれているが、彫刻としての完成度、抜群のプロポーションと構成力を誇る基準作で唐時代・8世紀の招来仏とみなされているもの。
 
 本像は、奈良国立博物館像や清涼寺像の「模範」となったオリジナルである。模倣は巧みになされており、3像は酷似しているが、やはり本物にはそれにふさわしい風格があり、圧倒的な存在感を示す。白っぽい素地が石造を連想させる。硬質な美しさに注目。


【以下は引用】

<一般知識>
 兜跋毘沙門天(とばつ びしゃもんてん)は仏教の護法善神である天部の一つ。四天王の中の北方の護法神である多聞天は、独尊では毘沙門天と呼ばれて信仰されるが、このうち地天女の両手に支えられて立ち、二鬼を従える姿で表された特殊な像の名称である。

 兜跋毘沙門天像は一般に、金鎖甲(きんさこう)という鎖を編んで作った鎧を着し、腕には海老籠手(えびごて)と呼ぶ防具を着け筒状の宝冠を被る。持物は左手に宝塔、右手に宝棒または戟で、見るからに異国風の像である。また、邪鬼ではなく地天女及び二鬼(尼藍婆、毘藍婆)の上に立つ姿である。

「兜跋」とは西域兜跋国、即ち現在のトゥルファンとする説が一般的で、ここに毘沙門天がこの姿で現れたという伝説に基づく。また「刀抜」「屠半」などの字を宛てることもある。 像容は、東寺像を忠実に模刻したもの(奈良国立博物館像、京都・清凉寺像など)と、地天女の両手の上に立つ以外は通例の毘沙門天像と変わらないもの(岩手・成島毘沙門堂像など)とがある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%9C%E8%B7%8B%E6%AF%98%E6%B2%99%E9%96%80%E5%A4%A9

<奈良博像について>
 京都・東寺には中国・唐から将来され、平安京の守護神として羅城門(らじょうもん)上に安置されたと伝える毘沙門天(びしゃもんてん)が現存する。「兜跋毘沙門(とばつびしゃもん)」と称されるこの東寺像は、宝冠をかぶって外套状を呈する金鎖甲(きんさこう)(鎖を編んだ鎧)をまとい、二鬼(尼藍婆(にらんば)・毘藍婆(びらんば))を従えた地天女(ちてんにょ)が差し出す両手の上に立つなどの特徴がある。本像はその忠実な模像で、原像の精悍な顔立ちや引き締まった体つきもよく再現されている。なお「兜跋」の語源・語義については諸説あるが、近年は毘沙門天がもつ宝塔(ストゥーパ)に由来するとの見方が強い。

なら仏像館 名品図録. 奈良国立博物館, 2010, p.109, no.143.

 通形の毘沙門天と異なる兜跋毘沙門天は、西域の兜跋国に出現したといわれ、王城鎮護のために城門に安置される。正面に鳳凰(ほうおう)、その左右の側面に宝棒を持って立つ人物を薄肉彫する宝冠、外套(がいとう)風の特殊な金鎖甲(きんさこう)、両手に海老籠手(えびごて)、脛(すね)にも海老状の脛当を付け、地天女(じてんにょ)の上に立つことなどが特徴である。  

 我が国には、平安初期に、中国・唐から伝わり平安京の羅城門(らじょうもん)上に安置されていたといわれる像が、現在は東寺に伝来する。平安後期にはこの東寺像の模刻が始まるが、京都・清凉寺や鞍馬寺に伝わる模刻像が原像の独自な解釈を交えて製作されているのに対して、本像は原像に忠実であろうとしていることが特筆される。ただ東寺像が腰や足に微妙な動きを与えるのに対して、本像は静かに立ち、面相でも瞳に東寺像のような黒石を使わないことから穏やかさが感じられる。ヒノキの寄木造で、彩色仕上げされる。

奈良国立博物館の名宝─一世紀の軌跡. 奈良国立博物館, 1997, p.294, no.78.
http://www.narahaku.go.jp/collection/d-754-0-1.html 【“空海と密教美術展 魅力の彫刻1 兜跋毘沙門天”の続きを読む】

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空海と密教美術展に行く 仏像の魅力

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 台風6号一過。つかの間ながら猛暑も一服感のある今日、東京国立博物館に足を運ぶ。事前に相当、あたりをつけていたので、注目される仏さまを集中的に観る。三筆空海の書を観る方も多いのではと覚悟はしていたが、会場は意外に空いていて待ち時間はなかったし、ゆっくりと拝観することができた。

 この展覧会の基本的なコンセプトは、「密教と曼荼羅世界」への接近ではないだろうか。延暦13年(794)、旧態然たる僧侶や貴族の跋扈する旧都・奈良を去って、新都・平安京に遷都がなされる。そして新ウエーブたる「密教」と呼ばれる新知識が、最澄、空海によって大陸からもたらされる。以降、仏教美術は密教美術へと急速に傾斜し、その潮流は仏教に留まらず、日本文化そのものへ強い影響を及ぼしていく。

 まずは、ハイライトたる教王護国寺(東寺)(空海の創始した真言密教の根本道場)から両界曼荼羅図(展示期間によって異なる。胎蔵界<~7/31>、 金剛界<8/2~8/15>)と講堂立体曼荼羅が最大の目玉だろう。

 東寺講堂立体曼荼羅では、もっとも人気の高い国宝 「帝釈天騎象像」、国宝 「梵天坐像」の2像が両翼の奥におかれ、国宝 「増長天立像(四天王のうち)」、国宝 「持国天立像(四天王のうち)」が前面隅に配置され、中に、国宝 「降三世明王立像(五大明王のうち)」、国宝 「大威徳明王騎牛像(五大明王のうち)」、国宝 「金剛法菩薩坐像(五菩薩のうち)」、国宝 「金剛業菩薩坐像(五菩薩のうち)が鎮座する構図である。
 東寺はこのほかにも秀作を持ってきている。国宝「兜跋毘沙門天立像」は彫刻展示で早いほうに置かれているが、彫刻としての完成度、抜群のプロポーションと構成力を誇る基準作で唐時代・8世紀の招来仏とみなされているもの。ほかにも興味深い作品も多い(※1)。

 神護寺(最澄・空海ゆかりの平安仏教の中心地)からは、五大虚空蔵菩薩像のうち蓮華虚空蔵菩薩坐像、業用虚空蔵菩薩坐像の2体が出展されている。これも隠れた見所であり、ご尊顔はなんとも静謐で思惟的である(※2)。

 平安時代の秀作はこれに限らない。大阪・獅子窟寺の国宝「薬師如来坐像」の特徴的な切れ長の目元とコンパクトながら抜群のバランス感ある上体、衣文の美しい処理、印相の優しい表現などは素晴らしい出来。空海所縁の香川・聖通寺の重文「千手観音菩薩立像」も堂々たる体躯で迫る。京都・醍醐寺からも重量級の出展があるが、有名な如意輪観音菩薩坐像は小ぶりながら艶麗であって高貴さも漂う(※3)。

 最後に、板彫、仏龕、像龕の微細加工技術に驚く名品も必見だろう。ほかにも、和歌山・金剛峯寺「大日如来坐像」、御室仁和寺「阿弥陀如来三尊像」などもあって、平安時代の和様化の模索も観察できる(※4)。

 なお、彫刻以外の主要な名品ついては以下を参照。コメントはしないが、書はもちろんのこと、絵画、仏具、工芸品などでも一級品が目白押しである。

http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-235.html
http://kukai2011.jp/construction.html

http://blog.livedoor.jp/shokkou/archives/1947690.html
 
【詳細情報】

※1:京都・東寺
国宝「金剛法菩薩坐像」(五菩薩のうち)1躯 平安時代・承和6年(839) 
国宝「金剛業菩薩坐像」(五菩薩のうち)1躯 平安時代・承和6年(839) 
国宝「降三世明王立像」(五大明王のうち)1躯 平安時代・承和6年(839) 
国宝「大威徳明王騎牛像」(五大明王のうち)1躯 平安時代・承和6年(839) 
国宝「梵天坐像」1躯 平安時代・承和6年(839) 
国宝「帝釈天騎象像」1躯 平安時代・承和6年(839) 
国宝「持国天立像(四天王のうち)」1躯 平安時代・承和6年(839) 
国宝「増長天立像(四天王のうち)」1躯 平安時代・承和6年(839) 

国宝「兜跋毘沙門天立像」1躯 唐時代・8世紀 
重文「法界虚空蔵菩薩坐像」(五大虚空蔵菩薩のうち)1躯 唐時代・9世紀 観智院
重文「蓮華虚空蔵菩薩坐像」(五大虚空蔵菩薩のうち)1躯 唐時代・9世紀 観智院
国宝「天蓋」西院所用 1枚 平安時代・9世紀 
重文「大壇」西院安置 1基 平安時代・9世紀 
国宝「女神坐像」(八幡三神のうち) 1躯 平安時代・9世紀
重文「聖僧坐像」1躯 平安時代・9世紀

※2:京都・神護寺
国宝「蓮華虚空蔵菩薩坐像」(五大虚空蔵菩薩のうち)1躯 平安時代・9世紀 
国宝「業用虚空蔵菩薩坐像」(五大虚空蔵菩薩のうち)1躯 平安時代・9世紀 

※3:平安彫刻の名品
国宝「薬師如来坐像」1躯 平安時代・9世紀 大阪・獅子窟寺
重文「千手観音菩薩立像」1躯 平安時代・10世紀  香川・聖通寺
重文「五大明王像」5躯 平安時代・10世紀 京都・醍醐寺
国宝「薬師如来および両脇侍像3躯」平安時代・延喜13年(913) 京都・醍醐寺
重文「如意輪観音菩薩坐像」1躯 平安時代・9世紀 京都・醍醐寺

※4:その他の注目仏等
重文「板彫両界曼荼羅」2面 唐時代・8世紀 和歌山・金剛峯寺
国宝「諸尊仏龕」空海請来 1基 唐時代・8世紀 和歌山・金剛峯寺
重文「釈迦如来および諸尊像龕」1基 唐時代・8世紀 和歌山・普門院
重文「大日如来坐像」1躯 平安時代・9世紀 和歌山・金剛峯寺
国宝「阿弥陀如来および両脇侍像」3躯 平安時代・仁和4年(888) 京都・仁和寺
重文「増長天立像」(二天王のうち)1躯 平安時代・仁和4年(888) 京都・仁和寺

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真夏の放談

夢違観音

 お久しぶりです。最近、イコノグラフィー(※1)について考えています。仏像鑑賞にこうした図像学的な視点はどの程度必要だと思いますか?

 人それぞれでしょ。もちろん知っていてよし、されどまた、知らなくともよしじゃないかな。

 なぜ、そう思うのですか? たとえば、阿弥陀如来だと、簡素な衣がけで印相は、定印、説法印、施無畏印・与願印などがおおく、脇侍があるときは、観音・勢至菩薩だということを一応知っていると、はじめて見たときに、これは阿弥陀さんだ・・・と理解がすすむと思いますが。

 でも、それで終わりでしょ。知っていて、その人の理解がすすむのであればそれはよし、でも、知らなくともその仏さんの良さは直観的に感じることができる。逆に、そうした知識ばかりがおもてにでて、仏さんが語りかけている大事なものに気がつかないのでは、それこそ元も子もない、もったいない、とも思うしね。

 わたし、さんの言うことも少しくわかる気がします。日本にはおおくのすぐれた仏像がありますが、由緒、縁起などから当初創建された寺院にずっとおあします仏さまばかりではありません。むしろ、お寺の栄枯盛衰から、本来のお寺から離れて、よそへ移転していった仏像もおおく、ご「本尊」が、別のお寺の「客仏」となり、その後、そのお寺の本尊が火災などの災害で失われて、「客仏」だったはずの仏さまがいつの間にか、別の宗派のご「本尊」に返り咲いたりします。そうすると、図像学的な見方では、お寺の歴史などとあまり整合しない場合もでてきます。そうした意味で、あまりに有名な事例は興福寺仏頭(旧山田寺)(※2)などではないでしょうか。
 その一方で、さんの言うように、ある程度の知識があったほうが、仏さまのことがよくわかるということももちろんあると思います。

 最近、お寺で仏さんのことを解説している人がよくいる。それが趣味ならそれも結構。とくにボランティアでそれをやっている人のなかには、博覧強記でこちらが聞いてとても得することもあるしね。だが、仏さんと自分との関係はほんらいは一対一。図像学的な知識が、かえって、その緊張感の醸成の邪魔になることだってあるかも知れない。

 そういえば本屋さんに行くと仏像の本をほんとうにたくさん見るようになりました。でも、おおくの本が、この仏さまは、こういう造像上の特色がありますという説明が中心です。図像学という言葉はつかっていなくとも、その解説は同じように思います。

 そうなんです。一種の仏像本ブームのなかで、その紙幅のおおくはイコノグラフィー的な記述ですね。ぼくは、すこしずつ経典も読んでいるんですが、難しい経典といまここにある仏像はなかなか結びつかないけれど、イコノグラフィー的なアプローチでは機械的、形式的、かつ累積的な研究の積みかさねもあって、一見わかりやすい気がする。
 でも、翻って考えるとそれをおおくの人がもとめているからこそ、書棚にそうした本が並ぶわけで、これこそ<知的>仏像ブームの火付け役かも。

 たぶん違うな。そんなことを求めているわけではないと思うよ。もっと本質にせまる本があれば、それを読むんじゃないか。仏さんに興味をもって本を買おうと思っても、似たり寄ったり、そうしたものしか身近にないと思わされているから手が伸びているんじゃないか。

 第二次世界大戦前の仏像ブームでは、和辻哲郎『古寺巡礼』岩波書店(初版は1919年)、井上政次『大和古寺』日本評論社(1941年)、亀井勝一郎『大和古寺風物詩』旺文社(初版は1943年)、望月信成『日本上代の彫刻』創元社(1943年)などが時代をつくってきたと思います。
 戦後では、1965年という年が出版のピークのときで、望月信成、佐和隆研、梅原猛『仏像―心とかたち』NHKブックス20、『仏像 続―心とかたち』NHKブックス 30、町田甲一『解説日本美術史』吉川弘文館などがこの年に上梓されました。
 イコノグラフィー関連では、入江泰吉・關信子『仏像のみかた』保育社(1979年)がハンディながらとてもよくできた入門書だと思います。關信子さんは近年では、小川光三, 關信子, 山崎隆之編著『仏像』 山溪カラー名鑑(2006年)というとても良い本を出版されていますが、わたしは關信子のとても配慮のゆきとどいたイコノグラフィーの捉え方が、いまの路線の先導役を果たしたのではないかと思っています。


※1:図像学(ずぞうがく、iconography)は、絵画・彫刻等の美術表現の表す意味やその由来などについての研究。イコノグラフィー。icon はギリシャ語のエイコーン(εικών、形の意味)に由来する語(イコン参照)。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%B3%E5%83%8F%E5%AD%A6

※2:http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-170.html

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九州でまた話題、9世紀の仏像発見!

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平安時代前期の制作とみられる仏像
(九州歴史資料館提供)

 CTスキャナーというのは、普段はわれわれは医学的にお世話になっているが、仏像探求でもたいした優れものである。
 この仏さま、実に愛嬌のあるご尊顔だが、どうみても近代の、かつ、いささか頭部と体躯がアンバランスなユニークな作品に思える。ところが、どっこい、9世紀の丸彫り、内刳りなしの真正作品というお見立てなのだから驚く。こうした分析法の高度化によって、まだまだ隠れた逸品が日本各所から登場するかも知れない。


【以下は引用】
久山の旧家伝わる仏像、9世紀制作とCT調査で判明

 九州歴史資料館(小郡市)は29日、久山町の旧家に伝わる木造の仏像が、九州では最古級の平安時代前期(9世紀)の制作とみられることがわかったと発表した。資料館によると、同時期の仏像は県内で4体しか確認されておらず、「仏教文化の黎明れいめい期を知るための貴重な史料」としている。

 仏像は一木造りの如来形の座像(高さ25・7センチ)。旧家に家宝として伝えられてきたが、約30年前に修復した際、表面を金色で厚く塗るなどしたため、近代以降に作られたような外観になっている。町教委の依頼を受けた資料館が文化財専用のエックス線CT(コンピューター断層撮影法)スキャナーを使い、仏像を傷つけずに内部構造を調査。衣のひだの彫り方、眉がつながっている「連眉」など、平安前期の特徴を持つことが判明した。

 肉付きが良く丸々とした体形や、衣を体に巻き付けるようにまとった造形、ひび割れを防ぐため中心をくり抜く「内刳うちぐり」が施されていない構造も、同時期の仏像と特徴が一致。制作年代を平安前期と特定した。仏像は当分の間、資料館に常設展示される。

(2011年6月30日 読売新聞)

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九州で17世紀舶載仏に新発見

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釈迦如来坐像のエックス線画像。腹付近に五臓が見える。(九州国立博物館提供)

 中国からの大きな舶載仏(1698年)のなかに金属製の内臓があったとの発見。金属製はめずらしいが、中国では内臓を入れる手法はほかにもある。しかし、国内で3例、イタリアで1例というのは知らなかった。

【以下は引用】

仏像体内に「内臓」九州国博がCTで確認

九州国立博物館(福岡県太宰府市)が、長崎市玉園町の聖福寺の仏像「釈迦如来坐像ざぞう」をコンピューター断層撮影法(CT)で調べたところ、体内に内臓を模した金属製の「五臓」が入っていたことがわかった。金属製の五臓はこれまで国内で3例、イタリアで1例確認されているが、同博物館によると、修理などで解体せずに見つけたのは初めてという。

 仏像は17世紀に中国・清で造られた寄せ木造りの像で、1698年、鎖国中に唯一開かれていた長崎に運ばれてきた。体高1メートル48で、中国から国内に持ち込まれた仏像としては最大。仏像に五臓六腑ごぞうろっぷを入れるのは、仏像に魂を込めるという思想に基づく。

 調査は同博物館の特別展「黄檗おうばく」終了後の5月下旬に実施。館内のCT装置で撮影し、解析した。

(2011年6月27日 読売新聞)

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