大和古仏探訪

京阪神を中心に内外の古仏についていろいろと書いてみたいと思います。

快慶について考える

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 今日は少し快慶について考えてみたい。かつて、東博で快慶の有名な地蔵菩薩を拝して次のように書いた。

「正直なところ、若き学生時代は運慶の男性的で、ときに荒々しいまでの作風に惹かれ、快慶の美しすぎる仏様は、あまりに技巧的すぎると好みではなかった。
しかし、齢を重ねてきて、久しぶりの快慶仏との再会では、この89cmの小柄な地蔵様の見事に整ったご尊顔には、なんとも言われぬ気品があると感じる。等身からみても、この小さなお顔の最上の気品は、薄く薄く彫っていながら、絶妙な立体感を表現した体躯一面の衣紋の文様、切金細工の超絶技巧にいささかも負けていない。そこが快慶の真骨頂なのだと思った。見るほどに、その美形に惹かれながらも、その一方、心を沈静化する落ち着き、涼やかさも漂わせている」(2008/08/17)。
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-85.html

 最近、運慶作と特定される仏像が増えているが、それでも快慶作の造像のほうがはるかに多く知られている。快慶は自作の痕跡をよく残しているので、確定現存作を重視するいまの学界からは、快慶は時代考証の「宝庫」を提供する功労者である。先日も金剛峯寺(和歌山県・高野山)所蔵の「執金剛神立像」(149cm)の内部から、快慶墨書銘が発見された。

◆「快慶作の執金剛神立像、見つかる!」(2011/10/24)
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-266.html

 しかし、快慶で強調しておかねばならないのは、巨大彫刻においても運慶同様の大棟梁の技量をもち、圧倒的な作品を残していることである。東大寺南大門 金剛力士立像(1203年、建仁3年)は運慶らとの共同制作であまりに有名だが、それ以前に国宝浄土寺(兵庫県小野市)阿弥陀三尊立像(1195 - 1197年、建久6 - 8年頃)こそがその代表作であろう。

 この作品は西方阿弥陀浄土を地上に再現せんとしたことにおいて、定朝作、宇治平等院阿弥陀如来坐像と双璧のもの。堂の背後の蔀戸(しとみど)から差し込む「西日」(ご住職も言っておられたが、「夕日」ではないので留意)によって三尊が神々しく輝く仕掛けがほどこされている。

 慶派の巨大彫刻技法についてはすでに書いたので繰り返さないが、浄土寺の造像は<チーム快慶>が行ったことはまず間違いがない。

◆「運慶考7 運慶工房の生産性 <チーム運慶>の実力」(2011/2/8)
http://blog.livedoor.jp/shokkou/archives/1905146.html

 しかも、運慶、快慶らは同時にいくつもの巨大プロを抱えて東奔西走していた。その木割り、木組みなどの生産性(いま風に言うなら2×4<ツーバーフォー>工法のハシリかも知れない!)は驚くべきで、奇跡的に残った浄土寺の諸像はその一端をしめすにすぎない。

 ある日の午後、贅沢にもこの阿弥陀三尊立像を(ご住職以外)、一人で思うさま拝観していて感じたのは、快慶がこの三尊を全方位マルチに見せることを強く意識していたのではないかということである。真正面から仰ぎ見るのがもちろん常道ながら、真横に立ってみる脇侍のプロフィールは鋭角的な目鼻立ちが森厳さをたたえ、やや斜めから三尊の表情を拝すれば柔和な面立ちにまた別の感興をもつことであろう(ご住職は、向かって右斜めからの仰角を推奨しておられた)。
 つまり、堂内をぐるぐると回行し功徳をうることを念頭においていたのでないかという勝手な想像をした。そして、この想像は、<チーム運慶>の興福寺北円堂諸像の作造のあり方や鑑賞法へも直結する(また、東大寺二月堂の修二会、いわゆるお水取りの日、堂内で行なわれる修業へと連想は広がっていく)。

 浄土寺は重源ゆかりの寺である。播磨別院の淵源は聖徳太子に、そして帰化人にいきつくように思うし、ここは太子と関係が密接な鶴林寺とも近い。豊かな風土、富の蓄積とともに、浄土寺のある小野はかつて算盤の生産で知られた。古代から優秀な帰化人がここに住んでいたのではないか。その伝統あればこその別院が設けられたのではないかとも思う。

◆「鶴林寺(兵庫加古川市)」(2010/12/11)
http://blog.livedoor.jp/shokkou/archives/1879505.html

 その重源と快慶の親密さはよく指摘されることであり、両者は固い絆で結ばれていたともいわれる。そして、浄土寺についても以下のような見方がある。


【以下は引用】
 重源は東大寺再建に際し、西行に奥羽への砂金勧進を依頼している。更に東大寺再建のためには時には強引な手法も用いた。建久3年9月播磨国大部荘にて荘園経営の拠点となる別所(浄土寺)を造営した時及び周防国阿弥陀寺にて湯施行の施設を整備した時に関係者より勧進およびその関連事業への協力への誓約を取り付けたが、その際に協力の約束を違えれば現世では「白癩黒癩(重度の皮膚病)」の身を受け、来世では「無間地獄」に堕ちて脱出の期はないという恫喝的な文言を示している。また、文治2年7月から閏7月にかけての大仏の発光現象など大仏再建前後に発生した霊験譚を重源あるいはその側近たちによる創作・演出とする見方もある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8D%E6%BA%90

快慶と重源との関係は改めてよく考えてみたいと思う。もうひとつだけメモをしておこう。木造地蔵菩薩立像(大阪・藤田美術館蔵)などとともに快慶晩年の作をされる大報恩寺(京都市)十大弟子立像について。

【以下は引用】
 大報恩寺は藤原秀衡の孫と伝える義空上人の開創。真言宗智山派の名刹。本堂(国宝)は1227年(安貞1)創建時のままで、京洛最古の古建築。本尊釈迦如来坐像(重文)のほか霊宝殿に快慶作の十大弟子像をはじめ、六観音像など多くの文化財を常時展示。
木造十大弟子立像:鎌倉時代作の重要文化財彫刻。像高約90.8cm、玉眼入りの彩色像で、霊宝館に安置する。このうち阿難尊者の体内文書に建保6、7年(1218、19)の銘があり、目連尊者の右足に「巧匠法眼快慶」の墨書銘がある。
http://kanko.city.kyoto.lg.jp/detail.php?InforKindCode=4&ManageCode=1000078

 もしも快慶作と言われなければそのまま通り過ぎてしまうような作品。しかし、重源との関係、快慶自身の仏教信仰との関係などを重ね合わせると興味はわく。ここでは肥後別当定慶の木造六観音像 6躯(聖観音、十一面観音、千手観音、如意輪観音、馬頭観音、准胝観音)が見所。宋風の影響が強く絵画的とも表現されるが実に見事なものである。むしろ、その精神の継承という点において、快慶のよき伝統をここに感じるのは素人ゆえであろうか。 【“快慶について考える”の続きを読む】

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東大寺法華堂須弥壇 新発見!

東大寺二月堂本尊

【以下は引用】

東大寺の四天王像、元は法華堂に安置?

 奈良・東大寺の戒壇(かいだん)堂にある天平彫刻の傑作、四天王像(8世紀、塑像〈そぞう〉)など7体の国宝仏が、同寺最古の仏堂、法華堂(三月堂、国宝)の八角須弥壇(しゅみだん)に置かれていた可能性が高いことが、台座の痕跡からわかった。同寺の森本公誠(こうせい)長老が30日、東大寺ミュージアムの開館記念講演会で明らかにした。不明だった四天王像の「出自」が判明するとともに、法華堂の創建当初、計8体の仏像がひしめいていたことになる。

 木造の須弥壇は、八角形の下段(幅6メートル)に同形の上段(同4.5メートル)が載る。2010年に修理が始まるまで、上段にいずれも8世紀の国宝で、本尊の不空羂索(ふくうけんさく)観音像(脱活乾漆造〈だっかつかんしつづくり〉)と日光・月光(がっこう)両菩薩(ぼさつ)像(塑像)、下段に厨子(ずし)入りの執金剛神(しゅこんごうじん)像(同)の計4体が安置されていた。

 森本長老によると、1996年以降の調査で、下段に7体分の台座跡を確認。いずれも幅83センチ前後の八角形で、戒壇堂の四天王像(持国〈じこく〉天、増長〈ぞうちょう〉天、広目〈こうもく〉天、多聞〈たもん〉天)や日光・月光両菩薩像、執金剛神像の台座と一致した。各像がどの台座跡に対応するかは、仏像の配置の決まりも考慮しながら調べる。執金剛神像は当初、厨子なしで安置されていたとみられる。

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台座跡を確認東大寺の境内図
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法華堂八角須弥壇の配置

法華堂 本尊ぐるっと7仏像 須弥壇に台座跡…東大寺

 奈良市の東大寺法華堂(三月堂、国宝)の仏像を安置する「須弥壇しゅみだん」(解体修理中)に、奈良時代の創建当初とみられる仏像8体分の台座跡が残っていることがわかった。これまでは本尊・不空羂索けんさく観音立像、日光・月光がっこう菩薩ぼさつ立像、秘仏・執金剛神しゅこんごうじん像の国宝4体を安置していたが、新たに見つかった台座跡が同寺戒壇院の四天王像(持国じこく天、増長ぞうちょう天、広目こうもく天、多聞たもん天=国宝)とほぼ一致するため、同寺は創建当初にこの計8体が須弥壇上に配置されていた可能性が高いとしている。

 須弥壇は八角形の2段重ね(幅は上段約4メートル、下段約6メートル)で、修理前まで上段に不空羂索観音、日光・月光菩薩の3体を並べ、後ろに執金剛神を置いていた。今回の調査で、新たな台座跡が見つかったことで、創建当初は上段に不空羂索観音の1体を置き、下段は日光・月光菩薩、執金剛神と四天王像の計7体が取り囲んでいたとみられる。不空羂索観音の前には供物台のような痕跡もあった。

 四天王像は奈良時代に作られた塑像そぞうで、江戸時代から戒壇院にある。不空羂索観音、日光・月光菩薩の3体は、今月開館した境内の東大寺ミュージアムで公開中。執金剛神は法華堂内に安置されている。

 同寺長老の森本公誠・総合文化センター総長は「本尊の正面に供物台を置き、周囲に7体を並べた可能性が高い」と話している。

 文化庁美術学芸課の奥健夫・主任文化財調査官は「日光・月光両菩薩立像は守護神の梵天ぼんてん・帝釈天たいしゃくてん像として作られた可能性がある。本尊を守るため、7体を周囲に並べたのではないか」としている。

(2011年10月31日 読売新聞)

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法華堂の須弥壇(東大寺提供)

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