大和古仏探訪

京阪神を中心に内外の古仏についていろいろと書いてみたいと思います。

飛鳥白鳳彫刻試論

永青文庫1
重要文化財, 金銅如来坐像 銅造鍍金
劉宋・元嘉14年(437)銘


 飛鳥・白鳳仏にわれわれが惹かれるのはなぜだろうか。

 飛鳥・白鳳時代とはいつまでをさすのかという「論争」はひとまずおくとして、一応奈良時代の前期までの時代とゆるやかに考える。この時代の血なまぐさい歴史はまずもって驚きである。天皇家と諸豪族間の複雑で近親性の強い結合と離反、豪族間でのすさまじいばかりの権力闘争、そして多くの死と葬列。
 われわれが、いまもこころの安寧をえるこの時代につくられたすばらしい「仏像」とその辛酸な権力闘争の「時代」とのミス・マッチにはいわく言い難いほどの乖離がある。

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http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-70.html
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-193.html


1. 仏教および仏像の受容

 仏像は、仏教のための偶像であった。よって、インドで生まれた仏教の受容について、若干の経緯をメモしておこう。

(1) 中国の受容

 日本に仏教が伝来する以前、インドから請来された仏教の中国での受容については多様な展開があった。さまざまな分派があったとも言えるし経典の解釈にも単線的でない「厚み」があり、偶像信仰についても釈迦、弥勒、観音などのヴァリエーションもすでに展開されていた(この点は「空海論」で少しく書いたので参照されたい)。
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-261.html

 また、「先進国」中国は当時にあって文化の坩堝であり、宗教という側面のみならず、「新しいイデオロギー」としての仏教も、それ以前の既存の価値観(儒教、道教など)との相克、同化、新たな定立の過程で変容していく。
 そうした中国での受容過程の一方、「先進国」中国から仏教は、時を移して「属国」に拡散する。その時期と形態のちがいによって、各国内での仏教の胚胎の仕様がかわっていく。壮大な潮流の満ち引きがダイナミックに展開されていく歴史がここにあると言えよう。

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 これは仏像についても同様である。インドで生まれたガンダーラ美術が、一般に仏像彫刻の淵源といわれる。西洋人的な風貌、髭をはやし屈強な骨格をもち威圧感のある彫像が多い。その特色から一目でガンダーラ美術とわかるくらいだが、立像は闘争神的でもあり、邪鬼の原型もみてとれる。衣紋は複雑に刻み律動感もある。

 次のマトゥラー彫刻は、ガンダーラよりもインド土着の影響が強いといわれるが、いろいろなパターン、多様性があり一概に特定はできない。薄く彫ったシルキーな衣紋といい、円形光背の配置といい、仏様のやや優しい表情などで、<剛>のガンダーラに対して<柔>の印象ももつが、こうした彫像はかなり日本の仏像に近いイメージをかもしているようにも思う。

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 そして、インドから中国へ。中国では石窟彫刻が有名である。その白眉とでもいうべきが、雲岡石窟第20窟の如来坐像である。「雲岡、敦煌詣で」は、かつてでは考えられなかったが、いまは一種のブームでもあり、多くの日本人観光客も目にすることができるようになった。しかし、以前からの疑問なのだが、われわれが惹かれる飛鳥・白鳳彫刻とシナジーを感じる中国の彫刻は、実は一部を除き多くはないのではないか。もちろん、様式の共通性はある。彫出仏などはその典型だし、三尊形式もしかり。しかし、そのご尊顔では一部を除き異質性を感じるほうがはるかに多いのではないかとも思う。このあたりが、仏教および仏像の各国受容の多様性のあらわれであり興味は尽きないところである。

(2)「属国」への伝搬

 高句麗(372年)に、次に百済(384年~)、遅れて新羅(514年~)に仏教は「公伝」されるが、もちろんこれ以外の民間レベルの私伝ははやくからあったと推定される。
 このうち、百済は枕流王(384年)、武寧王(501-523年)、聖明王(523-554年)の時代にそって隆盛をみていくと考えられる。これら三国は当時の中国の「冊封」(さくほう)下にあるいわば属国であり、仏教は宗主国からの一種の文化移入、「公伝」であることが重要である。

 また、朝鮮半島といっても、いくつかの系譜がある。<1>朝鮮半島南部、<2>北部から中国東北部についても違いがある。
 <1>について歴史的には、さらに、加耶(任那)、新羅、百済にわかれる。562年に任那が滅びて新羅になり、さらに660年に百済も新羅に統一されるが、百済系と新羅系によってももちろん特徴は異なる。

<2>の高句麗もかつて楽浪郡、扶余にわかれていた。313年に楽浪郡が滅び、494年に扶余も高句麗に統合され、この高句麗時代が668年までつづく。よって、飛鳥時代には、新羅、百済、高句麗の三国が鼎立していたことになる。

 加えて、中国も隋(581-618年)以前には国が多くに分立されていた。たとえば北魏(386-535年)なども固有の特色があるが、その後、東魏→北斉、西魏→北周にかわって隋に統一されていく。

(3)日本への伝来

 日本への仏教伝来については、壬申伝来説(552年)と戊午伝来説(538年)が従来からあるが、「欽明朝」のいずれかのタイミングとの説に立てば、推定レンジは、欽明元年(532年:法王帝説)から欽明帝の没年(571年:日本書紀)までの間となる。
 これは、あくまでも「公伝」であり、古墳の「四仏四獣鏡」などにはこれよりはやくから釈迦三尊像、二尊像が配されていることからも、仏教的なるものは、日本にも渡来人を中心にもたらされていた。

 前述のように、仏教とともに仏像も中国から朝鮮半島にいたる。朝鮮半島で熟成した技法、素晴らしいセンスが日本へも伝えられる。はじめは「直輸入」といっても良いだろう。しかし、御本地の半島では、戦禍があいつぎ他の地域と同じように、あるいはそれ以上に、固有の歴史的な資産、蓄積が壊滅的に失われる。
 日本にも多くの戦争、自然災害はあったが、奇跡的に、いまある優れた資産が残された。それは、日本民族が古仏を大切に伝承してきた証であり、誇りであるとも言えよう。

 韓国中央博物館の弥勒像をみて、日本の国宝第1号広隆寺のそれとの近似性に驚く人は多いだろう。自分も学生時代、はじめてその事実を知った衝撃は大きかった。
 この2像の存在は、日韓のさまざまな同一性の問題を提起し、考えさせられる多くの課題をわれわれに問うている。また、雲崗石窟交脚菩薩像のうち横顔がよく似ているものも知られている(『魅惑の仏像 弥勒菩薩』毎日新聞社 2000年 pp.68-69の写真を参照)。

広隆寺(韓国比較)

 広隆寺の宝冠弥勒は聖徳太子が没した翌年、622(推古30)年に新羅の真平王(しんぺいおう)が太子追善に送ってきた仏像という説がある。
 前述のように660年までは百済があった。広隆寺の宝冠弥勒に似た韓国ソウル国立中央博物館の金銅弥勒像は、そのふくよかで柔らかい作風から百済系ともいわれる。また、韓国国宝第78号弥勒菩薩なども、宝冠や服装は異なるが、全体の姿は宝冠弥勒によく似ている。

 任那の日本の「出城」がなくなったときに、引き揚げ者のなかには多くの朝鮮の人がいたであろう。同様に、百済が滅亡し、そのほかにも滅びた国があったから、そうした人びとのうち海を渡って日本に来た帰化人は多かった。
 当時の帰化人といえば、職種にもよるが相当な知識人、テクノクラートもいた。新羅や高句麗は中国文明などの受容を陸続きで日々にうけて、日本よりもはるかに先進国であった。また、飛鳥時代以上に、白鳳時代は統一新羅の影響が強かったことであろう。

 崇仏派たる蘇我氏と排仏派たる物部氏との抗争という日本書紀で描かれる「構図」について、帰化人動向に注目し、東漢氏および所領をめぐる権力闘争論に主軸をおいて解釈する考え方がある。その場合、物部氏にも実は仏教受容の開明性はあったのでないかといった問題提起も可能であり面白い。

 しかし、その一方で、蘇我一族が仏教受容に熱心であった事実は動かしがたく、それは当時の中国および朝鮮半島情勢を分析していれば、いずれ仏教が、東アジア全体で重要な支配モメンタムになるという可能性をみていたからかも知れない。

2. 聖徳太子について

 この時代でもっとも重要なのは聖徳太子である。関連の本を手にとってみると当時の仏教受容問題の大きさにも驚く。それまでのシャーマニズム、自然神信仰とは異質な、新たな価値理念としての仏教の到来。当時の人たちの戸惑いと畏敬はわれわれの想像をはるかに超えるものであったろう。そして、その仏教とともにもたらされた舶来品としての仏像。その尊顔をみた当時の人びとの衝撃は大きかったはずである。

 聖徳太子とは何者であったのか。ここでは、秀でた政治家で仏教などの新文物にも明るく、「鎮護国家」論以前の仏教の教典としての意義、大乗仏教のもつ信仰面での重要性を認識していた知識人像が浮かび上がる。その一方で、なんでも自分で成し遂げる「スーパースター」性には疑問もある。

 蘇我馬子、厩戸(聖徳太子)、鞍作(止利)といった名称から共通に導かれる<馬>は、騎馬兵のイメージにいきつく。斑鳩から大和(明日香)まで約20キロの行程、馬を疾駆する若き、そして壮年の太子の姿は想像にかたくない。斑鳩近郊には馬場もあったようだ。そこでは平時にあっても騎兵の教練が行われていたかも知れない。

 また、外交の<海の道>は、豊かな瀬戸内海の食糧資源確保のための<海上補給路>でもある。太子がいまの松山を天寿国に見立てたのは、ユートピア論からばかりとは思えない。網干や加古川の太子ゆかりの海洋都市は当時にあって有力なロジスティックスの拠点でもあったろう。そう考えると任那への救援を名目とした瀬戸内への身内の出兵は一種の軍事訓練の色彩もあったかも知れない。

 その一方、蘇我氏の所領も大変な大きさをもっていた。黛弘道『古代史を彩る女人像』(講談社学術文庫 1985年)を読んでいると、実は、聖徳太子(上宮家)の拠点はおおむね「点と線」でむすばれていたにすぎず、蘇我一族は河内、大和ともに「面的」に広大な領地を掌握していたことがわかる。しかも、そうした領地はいずれも物部討伐によって、旧物部氏所有地を塗り替えたところも多く、蘇我家、上宮家とも、そこに住まう住民を含めて割譲、統治したとも言えそうである。そこにはしたたかな政治的な行動原理も貫徹されていた。

 「三宝」とは政治的資源でもあり、また最先端の人文・科学知識の集積でもあったろう。僧は還俗すれば優秀なテクノクラートであったし、寺は危急の際は軍事的砦にもなりえた。そうした観点からは、仏像は、ひとびとに威厳を示し安寧をあたえるシンボルでもありえたし、もっと機能主義的に考えれば、文字通り軍事的「守護神」とも考えられる。もちろん、現存する仏像がすべてそうしたことを念頭に造像されたわけではない。小金銅仏などは持念仏や鎮魂的な意味からつくられた仏様も多かったろう。しかし丈六の巨大な仏像などはもっと多義的な意味をもっていたと考えるほうがよいかも知れない。

 聖徳太子の時代、多くの国からの舶載品はあったが、太子が隋と直接に交流し、そこから多くの新文物がはいってきたことこそ重要だろう。朝鮮半島経由のほかに中国からのいわば「直入」のルートは、その後、白鳳~天平にかけての日本文化の胚胎に決定的な影響をあたえたという視点は興味深い。

 
3.飛鳥彫刻の作り手 

 死と隣り合わせの凄惨な政治的闘争や疫病の蔓延、仏教受容という一種の文化革命の只中にあって、仏像のもつ意味は現代人からみた「鑑賞体」とはまったく異なる大きさをもっていたと考えるべきだろう。

 仏像そのものの一種の「発展史」的な捉え方からみても、この飛鳥・白鳳時代は興味が尽きない。奈良時代後期以降の形式主義に至らない自由奔放の伸びやかな作風こそ、この時代の仏様の魅力の源泉である。教典や儀軌の影響を一種の「マニュアル主義」とでも呼べば、未だマニュアル未整備のおおらかさがあった時代とも言えるだろう。止利様式、非止利様式といった分類がしっくりとこないのは、原初的な時代に、後世からみた様式論を(後講釈的に)物差しとしてあてがおうとしているように思われるからである。
 それでは、止利様式、非止利様式以外の見方とはなにか。ここでは飛鳥彫刻は誰によって作られたかから少しく考えてみよう。

 飛鳥彫刻の作り手はおおむね4つくらいに分類できるのではないかと思っている。第1の系譜は、止利系である。第2は、山口大口費系である。第3は、秦氏系である。第4は、その他のグループである。

 まず、第1の止利系であるが、鞍作止利(くらつくりのとり、生没年不詳)を棟梁とする一族で、飛鳥時代に活躍した渡来系の仏師。名は鳥とも記される。司馬達等の孫で、鞍部多須奈の子。子に福利・人足・真枝がいたとされる。法隆寺釈迦三尊像をはじめ、法隆寺救世観音像ほかこのグループの作品はいくつも現存している。「鞍作」に表象されるとおり、武具制作にたずさわり、その後、仏教に帰依してから、その技法を駆使して仏像の造像にもあたったのであろう。蘇我氏一門に属し、聖徳太子とも近しい集団である。

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 第2は、山口大口費(やまぐちのおおぐちあたい)のグループである。またの名は、漢山口直大口(あやのやまぐちのあたいおおぐち)ともいわれ、650年(白雉元年)10月、日本書紀によれば千仏像を制作したと記載される。法隆寺金堂の四天王像(広目天像)をつくった。また、この四天王像と法隆寺百済観音には多くの共通点があり、自分は百済観音像は、このグループの作ではないかと秘かに考えている。そのほか、東京国立博物館法隆寺館のN193も、同様にこのグループの作ではないかと思う。
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-24.html

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法隆寺金堂多聞天像

 第3は、秦一族に近いグループである。言わずもがなだが、広隆寺弥勒菩薩がこの一族の持念仏である。作像が日本かどうかという問題はここでは措くとして、広隆寺には「宝冠弥勒」「宝髻(ほうけい)弥勒」と通称する2体の弥勒菩薩半跏像があり、ともに国宝に指定されている。宝冠弥勒像は日本の古代の仏像としては他に例のないアカマツ材で、作風には朝鮮半島の新羅風が強いものである。一方の宝髻弥勒像は飛鳥時代の木彫像で一般に使われるクスノキ材である。

 日本書記によれば、推古天皇11年(603年)、秦河勝が聖徳太子から仏像を賜ったことが記されている。『広隆寺来由記』(明応8年・1499年成立)には推古天皇24年(616年)、坐高二尺の金銅救世観音像が新羅からもたらされ、当寺に納められたという記録がある。また、日本書記には、推古天皇31年(623年、岩崎本では推古天皇30年とする)、新羅と任那の使いが来日し、将来した仏像を葛野秦寺(かどののはたでら)に安置したという記事があり、これらの仏像が上記2体の木造弥勒菩薩半跏像のいずれかに該当するとする説があるようだ。いずれにしても、このグループに近い作例は金銅仏で弥勒菩薩半跏像として残っている。

菩薩座像・飛鳥時代

 第4は、その他の系譜であり、実は特定できる仏師や仏所がいるわけではない。帰化人(渡来人)的な分類では、第1グループは、鞍部村主司馬達等(止)(大唐漢人、継体朝・敏達朝)、鞍部多須奈(用明朝)、鞍作止利仏師(推古朝)、第2グループは<東漢>系、第3グループは<秦>系で新羅と親しい関係。
 そう考えてくると、帰化人の一大勢力<文>系ほか独自のグループはほかにもあったのではないかとの類推に行きつく。それは、実際の観察でも、たとえば法隆寺館48体仏を丹念にみていけば、まだまだ上記3つには属さないが個性的な仏像があり、実に多様性があると得心することだろう。

摩耶夫人

4.帰化人の問題

 帰化人(渡来人)の問題については、平野邦男「畿内の帰化人」(坪井清足・岸俊男編『古代の日本 5近畿』1970年 角川書店)が参考になる。以下は本書からの示唆である。

(1)活動期

 書き出しは「古代の畿内は、帰化人の集住した地域である」からはじまる。帰化の定義は「『王化にマイオモムク』という大和朝廷成立後の歴史的な概念」であるとされ、「秦(はた)・漢(あや)・文(ふみ)の三氏を応神朝に渡来するという伝承」を是としている。
結語は、「畿内における帰化人の歴史は、ほぼ9世紀に、その幕を閉じるといえよう」とされるから、5~9世紀が主としてその活動期といえよう。

(2)どこに住んだか
 
 以下に要約される。「8,9世紀の帰化人の分布の実態をみると、摂津では東生(ひがしなり)・西生(にしなり)、住吉(すみよし)・百済(くだら)などの南部諸群を中心とし、それから北、淀川をへだてた島上(しまのかみ)・島下(しまのした)・豊島(てしま)などの諸群にも及んでいる。しかし、それにもまして、淀川と大和川の<川内>である河内地方、つまり摂津の海辺からやや内陸よりの平野が、帰化人集団のもっとも顕著な居住地であった」。このように海沿い、川沿いの移動のほか、新たに建都された地域への移住を含めて帰化人の分布は広汎におよんでいく。

(3)帰化人の役割

 以下の記述がある。「彼らは、豪族に私有されるのではなく、朝廷の支配するなかば国家の民としての立場におかれ、ある者は朝廷の官人として登用され、他の者は朝廷に租税をはらい、天皇の土地を耕し、灌漑施設をつくり、官廷工房で生産に従った。5,6世紀の大和朝廷の飛躍的な発展は、彼らに負うといっても過言ではないのである」。

 帰化人の多くが、自国か日本に来てからかの違いはあるが、われわれがいま見ている至宝の仏像を当時、造像したとすれば、専門の研究者はいざ知らず、どこでつくったかは実は二次的な問題かも知れない。
 仏像に限らず、あらゆる文物が海をわたってもたらされたことを、よく考えると、聖徳太子が瀬戸内海の「海上の道」を、要所要所でピシリと押さえていたことは政治的、経済的、文化的にも興味深い。

 この論文では詳細に以上の諸点が明らかにされるが、飛鳥以降の彫刻史の観点からもこの点は考えさせられる。文明の伝承には一般にながい時間がかかるが、帰化人はその時代背景と機能において、「即製的」にそれを成し遂げたのではないか。つまり、建都から、仏教国家的シンボルとしての彫刻の造像まで、彼らが主体的にそれを実行したのではないか。
 9世紀に帰化人の歴史が終わるとすると、それ以降に文明の伝承とその内在化の過程をへて、いわゆる日本的な折衷が顕著になるのではないか。
 われわれが、飛鳥、白鳳、天平、貞観の彫刻に異質、異国のものを直観するのは、そうした帰化人の盛衰を垣間見ているのではないかといったことを感じる次第である(つづく)。

(参考)


◆東京国立博物館で見ることができる舶載品、飛鳥・奈良時代の作品など
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-43.html
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-44.html
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-45.html
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-46.html
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-47.html
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-48.html
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-49.html
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-50.html
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-51.html
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-52.html

http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-147.html
勢至菩薩立像1躯 銅造鍍金 総高36.0 像高17.1 隋 重文 TC652
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-148.html
観音菩薩立像1躯 大理石 像高253.6 隋 重文 TC376
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-149.html
菩薩半跏像1躯 砂岩 山西省天龍山石窟第14窟 総高139.4 像高97.0 唐 TC374
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-150.html
浮彫十一面観音龕1面 石灰岩 陝西省西安宝慶寺 総高113.8 唐 重文 TC719 細川護立氏寄贈
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-151.html
仏頭1個 ストゥッコ アフガニスタン・ハッダ 高25.7 TC411

◆東京で見ることができる東博以外の展示仏

http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-201.html
【根津美術館】
弥勒菩薩立像
クシャーン時代 3世紀 石造(片岩) 1軀 高153.0cm [20097]
如来立像
北斉時代 6世紀 石造(白大理石) 1軀 総高291.3cm [20070]
菩薩坐像頭部
天龍山石窟将来 唐時代 7〜8世紀 石造(砂岩) 1個 高35.0cm [20082]
十一面観音立像龕
花塔寺 (宝慶寺将来 唐時代 7世紀 石造(石灰岩) 1面 総高107.0cm [20341]
釈迦多宝二仏並坐像
北魏時代 太和13年(489) 銅造鍍金 1基 高23.5cm [20059]ほか

http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-122.html
【松岡美術館】「菩薩半跏思惟像」 ガンダーラ 3世紀頃
http://www.matsuoka-museum.jp/

http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-124.html
【東京藝術大学大学美術館】「仏頭」北斉-隋時代
http://db.am.geidai.ac.jp/object.cgi?id=341

http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-199.html
【永青文庫】 
三尊仏坐像  北周・建徳元年(572)
阿弥陀如来坐像  唐・咸亨3年銘(672)
菩薩立像  隨・開皇二十年銘(600)ほか


◆大阪市美術館で見ることができる舶載品、飛鳥、奈良時代の作品など

http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-60.html
黄花石 如来三尊像(こうかせき)、西魏時代・大統8年(542)
山口コレクションH23.5
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-61.html
白大理石 如来三尊龕(がん)、北斉時代・天保8年(557)
山口コレクションH55.0
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-62.html
石灰岩 仏三尊像、北魏時代・景明元年(500)
山口コレクションH164.8
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-63.html
石灰岩 道教四面像、西魏時代・甲戌年(554)
山口コレクションH70.6
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-64.html
砂岩 如来坐像、北魏時代・天安元年(466)
山口コレクションH28.7

→通常展で①龍門石窟 古陽洞、②供養人行列図、③龍門石窟 賓陽中洞 菩薩立像頭部、④龍門石窟 敬善寺洞 如来坐像頭部、⑤龍門石窟 奉先寺洞 如来立像頭部、⑥天龍山石窟 第3窟 維摩居士坐像、⑦天龍山石窟 第1窟 如来坐像頭部、⑧砂岩 如来坐像、⑨砂岩 菩薩交脚龕、⑩砂岩 太子半跏思惟龕、⑪石灰岩 仏三尊像、⑫砂岩 道教三尊像、⑬砂岩 四面像、⑭黄花石 如来三尊像、⑮石灰岩 道教四面像、⑯白大理石 如来三尊龕、⑰石灰岩 如来倚坐像、⑱石灰岩 如来坐像龕などを見ることができる。
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-65.html

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古代寺院の様式 完全復元

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如来像の両脇に安置された2体の菩薩像(上淀白鳳の丘展示館で)

 これも面白いニュース。写真でみる限り、なかなか堂々とした仏さまである。

【以下は引用】

淀江の展示館きょうから 金堂に3仏像そろえ公開

国内最古級の壁画が出土した上淀廃寺跡を紹介する「上淀白鳳の丘展示館」(米子市淀江町福岡)で、2体の菩薩(ぼさつ)像が復元され、飛鳥から奈良時代にかけての様式を再現した金堂内に安置された。すでに復元されている如来像と合わせて3体の仏像が並んで展示されており、17日から一般公開される。同館によると、古代寺院の内部がほぼ完全に復元されたのは全国で初めてという。

 同館は、7世紀末に淀江地区に建立され、11世紀初めに焼失したとされる上淀廃寺跡の出土品を展示しており、寺の復元にも取り組んでいる。

 金堂には8世紀中頃、如来像と両脇に2体の菩薩像を並べた「三尊」が安置されていたとみられる。同館のメーンの展示物にしようと、米子市が昨年4月に如来像を復元、菩薩像の復元も進めていた。

 菩薩像は高さ約3・4メートルの樹脂製。出土した断片や同じ頃の法隆寺伝法堂(奈良)の如来三尊像などを参考に再現した。当時は彩色が施されていたが、まだ研究が進んでおらず、彩色の細かい点が不明なため、粘土の色を模して乳白色にした。菩薩像に特有の華美な装身具も忠実に再現したという。

 同市教育委員会文化課の岩田文章主幹(43)は「3体そろった姿を見て、当時の雰囲気を楽しんでほしい」と来館を呼びかけている。
 問い合わせは同館(0859・56・2271)へ。
(2012年3月17日 読売新聞)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
菩薩像出現! 上淀廃寺金堂内部の復元が完成

淀江町福岡にある上淀白鳳の丘展示館は、白鳳期(飛鳥時代後期)に上淀廃寺跡にあったと思われる古代寺院の金堂内部を原寸大に復元した国内唯一の展示施設で、その金堂内部では釈迦如来像も復元されています。

そしてこのたび、その本尊の釈迦如来像の両脇に、高さ約3メートルの菩薩像が2体設置され、上淀廃寺金堂内部の復元は完成します。その一般公開が、平成24年3月17日(土曜日)から行なわれます。

さらに上淀白鳳の丘展示館では、その完成を記念して『上淀廃寺マンガパネル展』も3月17日から31日までの約2週間にわたって開催されます。これは、今秋鳥取県で開催される国際マンガサミットのプレイベントとして行なわれるもので、上淀廃寺ガールズのハクホとコエダが、4コマ漫画で上淀廃寺の魅力と謎に迫るものです。

新しく出現する2体の菩薩像、そして完成された金堂内部の復元を目の当たりにすると、はるか古代の白鳳期の世界に誘われます。同時にユーモラスな4コマ漫画で、国指定の史跡である上淀廃寺跡にまつわる様々な謎に、楽しく触れてみてはいかがでしょうか。
http://www.city.yonago.lg.jp/10453.htm

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中国で仏像大量発見!

大阪市美術館1
(写真は別、大阪市美術館所蔵)

 さすが中国のスケールはすごい。一挙に2,895体もの白色大理石製の仏像がでてくるのだから。

【以下は引用】
仏像2895体の埋葬坑発見=新中国成立後で最多出土-河北省

 【北京時事】新華社電によると、中国社会科学院考古研究所は19日、河北省臨◆(サンズイに章)県で仏像2895体が埋められた穴を発見したと発表した。新中国成立後、出土品が最も多い仏像埋葬坑という。
 仏像のほとんどは白色の大理石製で、南北朝時代に北方で興亡した鮮卑族の王朝、東魏(534~550年)、北斉(550~577年)時期のものが多く、唐(618~907年)代の特徴を持つ仏像もある。(2012/03/19-21:58)

http://www.jiji.com/jc/c?g=int_30&k=2012031900885

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仏像・雑感

 お久しぶりですね。みなさん、お元気ですか?最近、なにを学習していますか?

 観音さまのことを少し調べています。種類がとてもおおくて大変です。三十三観音といった分類もあり、主なものでも、聖観音、十一面観音、千手観音、馬頭観音、如意輪観音、准胝観音そして不空羂索観音などがあって・・・。でも、日本にはすばらしい仏さまもたくさんおられ、好きな観音様は人それぞれですし、インターネットでもそのお姿をよく見ることができます。

◆法隆寺 百済観音
http://www.youtube.com/watch?v=W5dIHl-j4vc&feature=related
◆法隆寺 救世観音
http://www.youtube.com/watch?v=leR4uH_j048&feature=related

◆法隆寺 夢違観音
http://www.youtube.com/watch?v=pQxIAEy10Yo&feature=related
◆法隆寺 九面観音
http://www.youtube.com/watch?v=zbUNeFiJhnU&feature=related
◆薬師寺 聖観音
http://www.youtube.com/watch?v=G3PAi2xl3UY
◆法華寺 十一面観音
http://www.youtube.com/watch?v=kXWeOXklhYA&feature=related
◆聖林寺 十一面観音
http://www.youtube.com/watch?v=G7mAzI2P2Ag&feature=related
◆室生寺 十一面観音
http://www.youtube.com/watch?v=hNAJySZDVVU&feature=related
◆長谷寺 十一面観音
http://www.youtube.com/watch?v=UVZhUBvHZIY&feature=fvwrel
◆石道寺 十一面観音
http://www.youtube.com/watch?v=fA9Lu1M3hXE&feature=related
◆千手観音(概説)
http://www.youtube.com/watch?v=wfx6WEmWfXE
◆蓮華王院 三十三間堂(千手観音)
http://www.youtube.com/watch?v=XE6995XoGTo&feature=fvwrel
◆観世音寺 馬頭観音
http://www.youtube.com/watch?v=Sj8gOqgv51s&feature=related
◆橘寺 如意輪観音
http://www.youtube.com/watch?v=MC6pikAcOvs
◆青岸渡寺 如意輪観音
http://www.youtube.com/watch?v=7gLsGfZfxKw
◆東大寺 不空羂索観音立像
http://www.youtube.com/watch?v=kJxVL3iOsvA&feature=related

 まえに聖徳太子との関係で、法華経を読んでいたときに、その一部として観音経(観世音菩薩普門品第二十五)がでてきました。その種類がおおいのは「化身」するからですね。なににでも成れてしまうような柔軟性のある仏さまですね。
(参考)
http://homepage3.nifty.com/chances/kannon/kannongyou.htm

 ウルトラマンの「変身」の大本はすでにここに宿っていたということかな。世の危機、世情混乱のときに、華麗に「変身」して衆生を救うんだな。

 わたくしは、様式史について中国や韓国などの源流を調べています。その関係では、さらに、インド、パキスタンといった上流にさかのぼる必要があります。でも、最近、中国や韓国でもさまざまな研究がすすんでおり、それをフォローすることだけでも難しいくらい日進月歩であることを感じています。

◆中国彫刻ギャラリー
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-276.html
◆インド彫刻ギャラリー
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-275.html

 経典はインドでうまれて中国で翻訳されたものもおおいのですから、大変ですね。インド哲学、儒教、道教などの影響もあれば、ゾロアスター教や古代神話、民話の世界にも関係しているのでしょう。仏像ということに絞っても、こうした古文書にルーツがあるわけですから、きっと広くて深い世界ですね。

 勉強するはよし。でも、なにかをわかろうとすると、鰻を手でつかむがごとく、ひょい、ひょいと逃げていくような気もするな。

 そうなんです。知識としての因果関係は解明できても、信仰にもとづくある意味での「確信」やその時代変化は文献だけではけっして追いきれない世界という気もします。ところでさん、ご自身はどうですか?

 あいかわらず、本はあまり読まんな。時間があれば、最近は石仏を見にいきたいと思うね。ここにも良いお顔の仏さまがたくさんいるね。しかも、なんの遠慮もなくそこにどんと立ち、座り、そして近くの住民が、献花をたやさない。なんともありがたい身近な存在だね。
http://blog.livedoor.jp/shokkou/archives/1886903.html

テーマ:文明・文化&思想 - ジャンル:学問・文化・芸術

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