大和古仏探訪

京阪神を中心に内外の古仏についていろいろと書いてみたいと思います。

飛鳥彫刻の源流(参考地図)

仏教伝来ルート2
http://web.joumon.jp.net/blog/2009/09/000918.html
(下記の記事の参考のためにご覧ください)

飛鳥彫刻の源流

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 最近、鎌田茂雄『仏教のきた道ー東アジア仏教の旅』(1985年原書房)を読んで、日本への仏教および仏像伝来について改めて考えさせられました。仏像について言えば、シルクロード~中国~朝鮮半島~日本という単線的な<陸路>の道(これも複数ある)だけではなく、インド~中国沿岸部~東アジア(その一つとしての朝鮮、日本)への<海路>の道もありえ、さらに、多様なルートからの伝播をつうじて、その様式も単純には類型化できないといった問題提起であると思います。
(参考)
http://www.amazon.co.jp/%E4%BB%8F%E6%95%99%E3%81%AE%E6%9D%A5%E3%81%9F%E9%81%93-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E5%AD%A6%E8%A1%93%E6%96%87%E5%BA%AB-%E9%8E%8C%E7%94%B0-%E8%8C%82%E9%9B%84/dp/4061595903/ref=sr_1_55?s=books&ie=UTF8&qid=1368337680&sr=1-55&keywords=%E9%8E%8C%E7%94%B0%E8%8C%82%E9%9B%84

 東京国立博物館の東洋館に行ってきました。「東博 仏像大好きコース」の解説にはこんなことが書いてありますよ。これって参考になりますかあ?

 【仏像の誕生】 1世紀ごろ初めて仏像が造られたのはパキスタンのガンダーラとインドのマトゥラーです。ギリシャ彫刻を思わせるガンダーラ仏をはじめ、顔立ちも姿も日本の仏像とは大きく異なる・・・仏像の初期の作例、クシャーン朝・2世紀以降のガンダーラの作品をはじめ、古代インドの仏教美術を中心に展示する・・・

 【シルクロードの仏像】 インドから西域を通って中国へと伝わった仏像。ここでは、インド風でありながら彫りの浅い顔立ちの菩薩頭部や、三国伝来の仏像として有名な京都・清凉寺釈迦如来立像に似た小像など・・・シルクロードのオアシス都市トゥムシュク、ホータンやクチャ(キジル)につくられた石窟寺院の出土品・・・大谷探検隊の将来品を中心にホータン、クムトラ石窟等の出土品、石窟の壁画を紹介します。トゥルファンの寺院に用いられた蓮華紋の瓦塼類とベゼクリク石窟・キジル石窟の仏説法図と敦煌壁画の模本を展示します。

 【中国の仏像】 インドから西域を通って中国に仏教が伝わったのは漢時代(1世紀)のこと。仏教が定着し、国家的な造営が行なわれたのは南北朝時代、5世紀以降になります。その後、唐時代(7~10世紀)まで中国では魅力のある仏像作品が生み続けられました。ここでは中国彫刻の最盛期である南北朝時代から唐時代の仏像(石造彫刻、金銅仏など)を中心に展示しています。

 【朝鮮の仏像】 朝鮮半島に仏教が伝わったのは、高句麗、百済、新羅が鼎立した三国時代の4世紀から5世紀です。ここでは、三国時代から統一新羅(6~10世紀)、高麗時代(10~14世紀)までの金銅仏をご覧ください。主に三国時代から統一新羅、高麗時代の金銅仏、瓦磚、仏具を展示します。
(参考)
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-359.html

 もちろんです。佐々木教悟他著『仏教史概説 インド篇』(1966年 平楽寺書店)のインドから西域、中国の伝播の下りには、その点について簡潔ながら要点のはっきりした記述があります。

 要はこういうことだろ。あんまり日本の仏像様式史みたいなキッチリとした、かっこよい見方はなり立たない。いろんなところから入ってきて、日本は極東の東端、いわば最終着駅みたいな所だから、ここで滞留しその後亡び、あるいはうまく残って洗練される可能性があると言うこと、じゃないかな。

 あいかわらず考証ぬきでドンと飛躍していますね。でも、鎌田茂雄氏が言わんとしているある部分はそういうことかも知れませんね。

 久野健先生の1970年代後半から80年代初頭に書かれた本を最近、系統的に読んでいて、仏像の様式史はとても難しいと改めて思いました。『アフガニスタンの旅』 (1977年)、『白鳳の美術』 (1978年)、『敦煌石窟の旅』 (1981年)、久野健、杉山二郎、石井久雄、渡辺俊文『龍門・鞏県石窟』 (1982年、以上いずれも六興出版)の5年間の集中的な海外比較論では、多くの思いがけない共通点が彼我の仏像で部分的にはありながらも、これまでの単一な様式史では現地現物の仏さまとの関係がなかなか明解に説明できない悩みもみてとれるような気がします。
(参考)
http://www.amazon.co.jp/%E3%82%A2%E3%83%95%E3%82%AC%E3%83%8B%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%81%AE%E6%97%85-1977%E5%B9%B4-%E4%B9%85%E9%87%8E-%E5%81%A5/dp/B000J8YCT8/ref=sr_1_2?s=books&ie=UTF8&qid=1368364372&sr=1-2&keywords=%E4%B9%85%E9%87%8E%E5%81%A5%E3%80%80%E5%85%AD%E8%88%88%E5%87%BA%E7%89%

 より本質的にモノゴトを考える必要がありそうだね。たとえば上記の仏教伝来だが、公伝では百済経由となるが本当にそれが正しいのか。

 知ってますよ。百済の聖明王から仏像と経論がもたらされたのは538年説と552年説があるのですね。

 百済経由ではないとすると、中国からの伝来についてどう考えるかということですか?

 陸路で朝鮮半島、そこから海上をへて日本へ、ということであれば、4世紀から5世紀の朝鮮伝来説以前はありえないことになるね。しかし、中国など別のルートがあったとすれば話は別だ。
 松本清張編『銅鐸と女王国時代』(1983年 日本放送出版協会)は面白い。卑弥呼の時代以降、九州は一定の工業生産力をもち相当な文物の蓄積があった可能性が示されている。「魏志倭人伝」では239年の朝貢が記載されているが、中国への仏教伝播がBCとACの変わり目くらいだとすれば、この時期中国にはすでに仏教は十分に移植されていたことになる。
 
(参考)
http://www.amazon.co.jp/%E9%8A%85%E9%90%B8%E3%81%A8%E5%A5%B3%E7%8E%8B%E5%9B%BD%E3%81%AE%E6%99%82%E4%BB%A3-%E6%9D%BE%E6%9C%AC-%E6%B8%85%E5%BC%B5/dp/4140083298

 でも卑弥呼の時代は、日本(倭国)は遅れた野蛮な地だったのではないですか?

 いやいやそれはどうでしょうか。「魏志倭人伝」を読んでみると、これは中華思想まるだしの感があり、先進国中国(センター)に対して属国はどこも辺境(ペリフェニー)に描かれていますね。でも、日本(倭国)はそのなかにあって、比較的強国であったとも言えます。朝鮮「広開土王碑」では、391年に倭が百済、新羅を破り、高句麗の第19代の王である広開土王(好太王)と戦ったとありますからね。

 372年に百済が倭王に対して七支刀(しちしとう)を贈ったことも、聖明王から仏像と経論がもたらされたことも、厳しい朝鮮半島の政治、軍事情勢のなかでの百済は倭国からの援軍、援助を期待しての外交上の措置という見方があります。

 聖明王というのは、聖徳太子に似た良い名前だねえ。名君が日本に仏教を教えてくれたといったイメージなんだが、その実、結構切羽詰っていたということかな。

 仏教伝来は、あくまでも公伝、つまり公的なもの、為政者サイドの記録文書上の扱いだが、実際にはもっとはやく伝わっていたことだろう。止利仏師の祖父にあたる司馬達等が高市郡で仏像を安置したのは「扶桑略記」によれば522年。司馬達等は中国南梁 (武帝時代:502年 - 557年)の人との説もある。
 飛鳥彫刻の源流は、朝鮮ルートだけではない。中国からの海の道経由もある。だからこそ、そこには多様性があり、さまざまな流派が共存、あるいは切磋琢磨したのではないか。

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中国の仏像遺産

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最近は中国の石窟仏像に関してもインターネットで豊富かつ最新の情報をうることができる。以下はよく見る2つのサンプルを掲載。

(以下は引用)
中国宗教 ー仏教の三大石窟

◆大同雲岡石窟
雲岡石窟は中国北部の山西省大同市街の西方16キロメートルの武周山南麓に位置します。石窟が初めて掘られたのは北魏興安二年(西暦453年)の頃で、北魏の首都が洛陽に遷都される(西暦494年)前にほぼ現在の形になっています。石窟肖像作りの期間は正光年間(西暦520~525年)にも及びました。石窟は山肌の石壁に作られたもので、東西1キロにわたります。雲岡石窟は石像の雄大さと内容の豊富さで現在でも高い芸術的魅力を持ちます。現存のメインの洞窟は45窟、石像は51000体にのぼり、最大の石像は17メートルもあり、一番小さいの数センチしかありません。

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◆洛陽龍門石窟
龍門石窟は中国の石窟芸術の宝庫のひとつであり、中国河南省洛陽市の南方13キロ、伊河の両岸にある龍門山と香山の丘にあります。龍門石窟は、北魏の孝文帝が洛陽に遷都したころから造営が始まり、東魏、西魏、北斎、隋、唐5つの時代を経過して造られた石窟で、南北1Kmにも及びます。現存の洞窟は2345窟、石像は10000体を超え、彫刻板など2800枚にのぼります。造営期間が非常に長くて、経過した時代も長いため、大量に実在する石窟や石像と文字資料を残すことができました。それらは各側面から中国古代の政治、経済、宗教、文化など様々な分野の進展を反映しています。中国石窟芸術の創出と発展に偉大な貢献をしました。2000年、竜門石窟は、世界文化遺産に登録されました。

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◆敦煌莫高窟
紀元前3世紀、阿育王によって仏教が広められ、仏教に関する芸術はインドから広まってきました。紀元前1世紀、ギリシア式仏教芸術はガンダーラを皮切りに、世界各国で広く知られました。二世紀、アフガニスタンから中国新疆に伝わり、南路の民豊漢墓で漢代ギリシア仏象と中国龍の模様が発見され、また、諾羌の寺院の遺跡で須大本生の物語を描いた絵が発見されました。月日が経つと共に、龟兹特有の菱形物語絵が生じました。龟兹芸術は、漢絵をベースに、インド芸術が含まれながら、アフガニスタンからの影響を受けて融合した西洋スタイルの芸術です。

敦煌の石窟芸術が始まったばかりの頃、表現された内容殆どは仏陀の説法や釈迦の生涯――仏教宣伝や善行について―本生物語、仏陀が衆生に悟りを開くことに関する事績―因縁物語などでした。莫高窟は、建築、塑像と壁画という三つの芸術スタイルの見事な結合と融合でした。現存する最大規模の仏教芸術宝庫でもあり、1991年「世界文化遺産」に認定されました。莫高窟は十数の時代においての東西文化の交流と融合を体系的に記録しており、東西文化の芸術交流の原点はここにあります。

ほかに、四大仏教名山、仏教名山(二)、仏教の寺院
テーマ別にも、道教、概況、斉雲山、龍虎山、武当山、青城山、ほかの道教名山、道観
       イスラム教、概況、杭州鳳凰寺、揚州仙鶴寺、泉州麒麟寺、広州懐聖寺
       エイティガールモスク、西安化覚巷モスク、西寧東関モスク などの記載あり

http://www.arachina.com/culture/religion/grottoes.htm

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(以下は引用)
貴重書で綴るシルクロード
◆トゥルファンの仏教信仰:ベゼクリク千仏洞
◆大草原に生きた馬たち:モンゴル馬と汗血馬
◆玄奘に思いを馳せたスタイン:ダンダン・ウィリク
◆西から東へ伝わった仏教文化:キジル石窟と鳩摩羅什
◆世界の人々を魅了する大石窟寺院:敦煌莫高窟
◆「さまよえる湖」の謎を解いたヘディン:ロプ・ノールと楼蘭
◆寺格空白のシルクロード:青海の道
◆文字が語りかける民族意識:カラホトと西夏文字
◆探検に人生をかけた人々:情報と名誉をめぐる競争
◆シルクロードの全体像:時間・空間・主題の観点から

http://dsr.nii.ac.jp/rarebook/01/

<オマケ>
サイトによってはドイツの博物館に飛ぶことももちろん可能!
http://www.smb.museum/smb/home/index.php

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MIHO美術館 ガンダーラ仏

1ガンダーラmiho
http://miho.jp/japanese/index.htm

 時がたつのは早いもので、MIHO美術館をO氏ご夫妻に案内してもらって5年がすぎた。そのときは蟹満寺について書いた。

http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-59.html

 MIHO美術館のことを思い出す。ここの舶載彫刻の展示は圧倒的だ。
 「はじめ」が究極とでもいうべきか、ガンダーラ仏の秀でた造形力は、2~3世紀の仏像の「始原」がいわば完成にちかいイメージをもっていることを示す。われわれがガンダーラ仏に接したときの言い知れぬ感嘆の背後には、そういった思考が瞬時に想起され、かつそれに困惑するからではないだろうか。
 もちろん、そのお顔は、よく指摘されるとおり、古代からのギリシア彫刻を連想させ西欧人を彷彿とさせる。モンゴロイドのわれわれの同朋とは異質なエキゾチズムがそこにある。螺髪など部分的にも異なる点はあるが、にもかかわらず総じて仏像の仏像たる存在感は、まさにガンダーラ仏に発して今日にいたっている。全体への着想力、瞑想の姿の神々しさ、印相の表現力、古拙の微笑のもつ意味など謎とともに、強い説得力があるからこそ、われわれはガンダーラ仏に惹きつけられると思う。


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仏立像 パキスタン ガンダーラ 2世紀後半期 片石 H-250

【以下は全て引用】

 総高250センチメートル。ガンダーラ美術の作り上げた最も大きな仏像と言われる、パキスタン-ペシャワール博物館の仏陀立像(頭光の上まで263センチメートル)に比肩するものと言えるでしょう。ガンダーラは歴史的に民族、王朝の激しく交替してきた地域です。千七百年以上遡る古代、彼の地がクシャーン朝インドとササン朝ペルシャとの抗争の狭間で小国に引き裂かれて行った頃、この大きな仏像はそれだけ多くの人々の救いを祈願して造られたものではないかと思わずにはいられません。
うつ向いたそのまなざしの懐に入る時、何とも言えぬ優しく静謐な雰囲気に包まれるのを覚えます。
このうつ向いていると言うことはこの像が本来高い位置に祀られていた事の証拠であると思われます。礼拝者はこの像の下からその慈愛に満ちたお顔を拝したことでしょう。そのお顔、そのまなざしは他ならぬ礼拝者に注がれています。
同時代の寺院内部を装飾した小さな仏伝(釈迦の生涯の物語)浮彫には、民衆の中で遊行する釈迦が描かれています。そのお顔、まなざしは拝跪するものの顔、まなざしに合わせうつ向けられています。その体勢そのものが拝跪するものに注がれているのです。
大きさこそ違え、これはこの大像とそれを実際に拝する者との関係に他なりませんその許に拝跪する者は全て喜び迎えられるそんな大変慈愛に満ちた聖堂の主であられたのでしょうか。
釈迦がさとりをひらかれ仏陀となられた時、これは他人に話しても誰もわかってくれる人はいないだろう、このまま黙っていようと思われました。
世界の主-梵天はこのままでは世界が滅びると嘆き、釈迦如来の前に現われ跪き拝してこの真理を人々に説くよう三度懇願しました。
そこで釈迦は生きとし生ける者への深い哀れみの心から説法に立ち上がられたのです。この像の左足は僅かに前方に出ています。
直立不動ではなく正に人々を救うために歩むその姿を彷彿とさせるものがあります。この救われるべき拝跪する者に対し全身を注ぎ込む釈迦如来、そのお顔は大変慈しみに満ちています。

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仏頭 ハッダ/タキシラ 4-5世紀 ストゥッコに彩色 H-26.5 W-17.6

 この仏頭はおそらく等身大以上の像だったと思われる。彩色されたあとと、全体に朱線が残っていが、唇の朱彩は非常に鮮やかなので、当時のものではないであろう。形式的な頭髪から考えると、この像は型を用いて作られたものであろう。右耳は別に作って接着し、左耳は失われた痕が残っている。ハッダやタキシラのストウッコ彫刻は、固定した木材に縄を巻いたものを芯にして、植物繊維を混ぜた粘土を盛り上げて全体の形を作り、きめの細かい土で表面を整えていく。さらに面部は上質の白土で仕上げて彩色を施した。粘土を盛り上げるため、目、鼻、口などの細部を簡単に成形出来、柔らかい素材の肌合いが肉体や布の質感を表すのに適していた。顔や腕や胴といった部分毎に型を用いる事も多く、変化に富むポーズの像を大量生産する事が出来た。この製法は中国や日本の塑造彫刻と基本的に一致している。

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転法輪印仏坐像 産地 ハッダ/タキシラ 時代 4-5世紀 素材 ストゥッコに着色 寸法 H-78

 ガンダーラ美術の後期に栄えたストウッコ(塑造彫刻)の典型的な例であるこの作品は結跏趺坐し、両手の親指と人差し指の先端を合わせて輪を作り、他の指を軽く曲げて甲を見せ、右手を上に左手を下にして腹前に構えている。この印相は転法輪印と呼ばれ説法を意味し、座像のみに限られる。波打つような長髪を頭上で束ねて肉けいとし、まとった大衣の深く浅く様々に刻まれた点は、とても自然な表現になっている。頭髪や衣の部分に比べて面相部の土は粒子が柔らかく、上質の白土で仕上げられている。白ごうは刻まず、朱線の小さな円で示され、瞳にも淡い墨の彩色がしてある。その他にも随所に朱が残っているが、この彩色が当初のものかは確認できない。部分的に頭髪には灰色、衣は淡緑色を帯びている事も分かる。

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燃燈仏授記図浮彫 産地 ガンダーラ地方 時代 3-5世紀 世紀 3-5c 素材 片岩 寸法 H-69.3

 釈迦菩薩(前世の釈迦)がバラモンの青年修行者メーガであった時,燃燈仏から来世において悟りを開き釈迦仏となるであろうとの授記(予言)を与えられた説話を表現している。燃燈の原語はディーパンカラ(Dipankara)で,定光,錠光などとも漢訳される。この説話は一般に燃燈仏本生と呼ばれるが,本来の本生話(釈迦の前世の物語)には含まれず,むしろ釈迦の生涯の物語である仏伝の冒頭に位置する性格をもっている。

 ある日,都に燃燈仏が現れることを知ったメーガは是非燃燈仏に会って花を捧げたいと思い立つ。しかし,町の花はすでに国王によって集められていた。その時,彼は脇に水瓶を抱え7本の蓮華を持つゴーピーという少女に出会う。彼女はなかなか花を譲ってくれないが,メーガは懇願の末に有金すべてを投じてようやく5本の蓮華を得た。国王その他の人々が燃燈仏に散華するが,メーガが捧げた5本の蓮華のみが空中にとどまり燃燈仏の頭光を飾った。更にメーガは,燃燈仏の足が泥水で汚れないように,着ていた衣を地面に広げ,その上に自らの髪を解いて平伏した。燃燈仏はメーガに対し,来世に仏陀となるであろうとの予言を授けた。メーガは喜びのあまり躍昇した。

 燃燈仏による釈迦菩薩への授記を記す経典は多数あり,それぞれ物語の内容に多少の違いがあるが,その骨子はほぼ共通している。*1 すなわち,購華,散華,布髪,空中躍昇の4点である。空中躍昇の記述はないものもある。本作品では,向かって右下に購華,左に散華,その下に布髪,更に上方に空中躍昇の諸場面を配している。右上に浮かぶ人物は,手に金剛杵を持っているので,帝釈天と考えられる。

 燃燈仏授記本生図の作例には幾つかの形式が見られるが,叙述的性格の強いものと,燃燈仏が他より明らかに大きく表され,その尊像的性格が強められたものとに大別できる。*2 本作品は後者に属する。特にカーブル博物館蔵のショトラク出土の作品(no.64-7-13)に酷似している。本作品の左右相称の構図,正面向きの動きの少ない姿勢,丸い顔,ずんぐりとして均衡を欠く体躯,紐を貼り付けたような形式化した襞の表現などは,アフガニスタンのカーピシー地方のショトラクやパイターヴァーの遺跡から出土する作品の特色である。また仏陀の両肩の火炎も,この地方で好まれた図像である。

1 安田治樹/ガンダーラの燃燈仏授記本生図/仏教藝術157号
2 注1前掲書

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禅定印仏坐像 産地 パキスタン ガンダーラ 時代 2-3世紀 素材 片岩 寸法 H-68 D-23 W-53.4

 無装飾の円形の頭光と、波打つような長髪を紐で結って肉けいとし、眉間に小さな突起を刻んで白ごうとしている。口髭をたくわえた面貌は落ちつきがあり、目を半ば閉じて深く内面を見つめている。均衡のとれた体躯に大衣をまとい、両足を隠している。台座正面は両端がアカンサス柱頭で、その間には11体の像を刻んでいる。中央に樹下に菩薩が禅定印を結んで結跏趺坐し、その両脇対称に右手で施無畏印を結び左手を垂下する仏立像、右手を垂下し左手は肩口に挙げて衣端を握る仏立像、右手を肩口に挙げ甲を見せ垂下した左手に水瓶を執る菩薩立像、右手を胸前に構え左手は肩口に挙げて衣端を握る仏立像、合掌する供養者立像であることが分かる。これら9体の像は弥勒菩薩の左右に仏陀が立つ3組の三尊像と見ることが出来、どの様な思想背景があるか興味深いが、このような例は他にないため、意味は未だ不明である。

http://www.miho.or.jp/japanese/index.htm

(参考)
http://daishinji.net/essay/gandhara.shtml 【“MIHO美術館 ガンダーラ仏”の続きを読む】

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