大和古仏探訪

京阪神を中心に内外の古仏についていろいろと書いてみたいと思います。

仏師 快慶論  意識した芸術家の横顔 

<目次>
プロローグー快慶彫刻の気品
快慶彫刻の多様性1ー巨大作も何なくこなす棟梁の技量
快慶彫刻の多様性2ー石山寺大日如来像に見る運慶との比較
快慶彫刻の多様性3ー金剛峯寺 執金剛神立像にみる動態表現
快慶彫刻の多様性4ー晩年の作風
重源と快慶ーその絆と気脈
運慶と快慶、その役割分担
エピローグー快慶作品の鎌倉彫刻における地位
(拾遺)幾つかの作品


快慶地蔵菩薩立像
地蔵菩薩立像 1204~10年頃 東大寺


<快慶、その風貌> 
 「生没年は不詳であるが、記録上では寿永二年(1183)の運慶願経の結縁者の一人として名を連ねることから、貞応二年(1223)醍醐寺閻魔堂諸像の造立までの約40年間の事跡が知られている。快慶の活躍期間は、その署名の方法によって

①建久四年(1193)頃から「安阿弥陀仏」と号した無位の時代(例:醍醐寺三宝院弥勒菩薩像・遣迎院阿弥陀如来立像ほか)
②建仁三年(1203)11月に「法橋」位となり、承元二年~四年(1208~1210)までの間に「法眼」位になるまで(例:東大寺公慶堂寺像菩薩像・大円寺阿弥陀如来立像)
③「法眼」位の時代(岡山東寿院阿弥陀如来立像・高野山光台院阿弥陀如来立像ほか)の三期に分けることができる。

なお、古代においては、「仏師」は造像には基本的には署名が許されなかったが、平安時代後期に散見されるようになり、先代の康慶、そして運慶および快慶らから積極的に署名するようになる。 快慶の造像関係は、平家によって焼かれた東大寺および興福寺再興期の慶派仏師の一員としての活動、東大寺再興総勧進職にあった重源との関係、真言宗および天台宗関係の造像、藤原通憲(信西)一統との関係、そして浄土宗関係の造像など、幅広い人脈を持っていたことが理解される。」

(出典)浄土宗HP http://jodo.or.jp/information/news_amidazo.html# から引用
なお、快慶作品の画像については英文版だが Kaikei & Kamakura Statuary
http://www.onmarkproductions.com/html/busshi-buddha-sculptor-kaikei-japan.html を参照

 快慶、この日本仏像彫刻史に燦然と輝く名匠について、いままで書いてきた拙文を継いでみたい。まずは、東大寺地蔵菩薩立像から見てみよう。

【プロローグー快慶彫刻の気品】

 この89.8cmの「小柄」な地蔵様(木造、彩色:元久・承元(1204~10)年頃の作品)の見事に整ったご尊顔には、なんとも言われぬ「気品」がある。等身からみても、この小さなお顔の最上の「気品」は、薄く薄く彫っていながら、絶妙な立体感を表現し、体躯一面の衣紋の文様、切金細工の「超絶技巧」にいささかも負けていない。そこが快慶の真骨頂なのだと思う。見るほどに、その美形に惹かれながらも、その一方、心を沈静化する落ち着き、涼やかさも漂わせている。自らの芸術を強く意識していた快慶、その魅力に迫ってみたい。


浄土寺阿弥陀三尊
阿弥陀三尊像 1195年 浄土寺

 まず、快慶彫刻の多様性を知るために、浄土寺の大振りの三尊像を取り上げよう。

【快慶彫刻の多様性1ー巨大作も何なくこなす棟梁の技量】


 快慶で強調しておかねばならないのは、巨大彫刻においても運慶同様、大棟梁の技量をもち、圧倒的な作品を残していることである。東大寺南大門 金剛力士立像(建仁3(1203)年、阿形:836.3cm、吽形:842.3cm)は運慶らとの共同制作であまりに有名だが、それ以前に自らが差配した浄土寺(兵庫県小野市)阿弥陀三尊立像(建久6 - 8(1195 - 1197)年頃、木造、漆箔)こそがその代表作であろう。浄土寺には以下の作品があるが、像高5.3mの巨像がここでの考察対象である。 
・阿弥陀三尊像:国宝 1195年 中尊530cm 脇持各371cm 快慶作
・阿弥陀如来立像:重要文化財 1201年 266.5cm  木造、漆箔 快慶作
・重源上人坐像:重要文化財 天福2(1234)年 82.5cm

 この作品は西方阿弥陀浄土を地上に再現せんとしたことにおいて、定朝作、宇治平等院阿弥陀如来坐像と双璧のもの。堂の背後の蔀戸(しとみど)から差し込む「西日」(「夕日」ではないので留意)によって三尊が神々しく輝く仕掛けがほどこされている。

 運慶、快慶らは往時、同時併行していくつもの巨大プロを抱えて東奔西走していた。その木割り、木組みなどの生産性(いま風に言うなら2×4<ツーバーフォー>工法のハシリかも知れない!)は驚くべきで、多産に仕事をこなした。奇跡的に残った浄土寺の諸像はその一端をしめすにすぎない。

 ある日の午後、贅沢にもこの阿弥陀三尊立像を(ご住職以外)、一人で思うさま拝観していて感じたのは、快慶がこの三尊を全方位マルチに見せることを強く意識していたのではないかということである。真正面から仰ぎ見るのがもちろん常道ながら、真横に立ってみる脇侍のプロフィールは鋭角的な目鼻立ちが森厳さをたたえ、やや斜めから三尊の表情を拝すれば柔和な面立ちにまた別の感興をもつことであろう(ご住職は、向かって右斜めからの仰角を推奨しておられた)。
 つまり、堂内をぐるぐると回行し功徳をうることを念頭においていたのでないかという勝手な想像をした。そして、この想像は、興福寺北円堂諸像の配置、拝観のあり方や鑑賞法へも直結する(また、東大寺二月堂の修二会、いわゆるお水取りの日、堂内で行なわれる回遊的修業へと連想は広がっていく)。

 浄土寺は重源ゆかりの寺である。播磨別院の淵源は聖徳太子に、そして帰化人にいきつくように思うし、ここは太子と関係が密接な鶴林寺とも近い。豊かな風土、富の蓄積とともに、浄土寺のある小野はかつて算盤の生産で知られた。古代から優秀な帰化人がここに住んでいたのではないか。その伝統あればこその別院が設けられたのではないかとも思う。

 浄土寺阿弥陀三尊立像では建築との一体性にも注目したい。西方阿弥陀浄土を現世に創造する試み、上記のように定朝の平等院に勝るとも劣らない知的実験。しかもこれは当地にあって重源の難しい勧進にも欠くことができない必須のミッションだった(地域有力者への一種のフェア・リターン)。快慶は丈六の「三尊」「立像」を置く。定朝の脇侍なしの「単体」の阿弥陀如来「坐像」とは好対照である。水(池への尊像の投影)を味方にする定朝、陽(堂内での光の拡散)を積極的に取り込まんとする快慶。このあたりも興味は尽きない意匠の競演だと思う。
 自然の採光を取り込み、建築と仏像の一体化を企図し、堂内を回遊修業の場として演出する。そこには一仏師を超える総合的な空間プロデューサーとしての快慶の見事な構想を感じる。


(参考1)
◆運慶考10 運慶について<インデックス>
http://blog.livedoor.jp/shokkou/archives/1906537.html

【快慶彫刻の多様性2ー石山寺大日如来像に見る運慶との比較】

 快慶といえば「巧緻な作風」というのが通り相場だが、それだけではない快慶の多様性を見ておく必要性があると思う。石山寺大日如来像を取り上げよう。


◆石山寺大日如来像
大日如来像 1194年 石山寺

 快慶の石山寺多宝塔本尊大日如来像(1194年 96.4cm 木造、古色)は快慶初期の作で、いわずと知れた運慶初期の円成寺の大日如来像(1176年 98.3cm 木造、漆箔)との比較は誰しもが関心のあるところであろう。両者を比較すると制作年代では約20年の隔たりがあるが、両者の同質性(とくに全体構成、手印、腰部衣文などの胴体表現)と異質性(とくにご尊顔の表現、もちろん宝冠、光背の有無などは前提としたうえで)は明らかであろう。

 円成寺、石山寺には共通点があるのだろうか。円成寺の歴史を紐解くと、「天平勝宝8年(756)聖武・孝謙両天皇の勅願により、鑑真和上の弟子、唐僧虚瀧(ころう)和尚の開創と円成寺縁起に書かれている」という。一方、石山寺はその縁起で「聖武天皇の発願により、天平19年(747年)、良弁、東大寺開山・別当)が聖徳太子の念持仏であった如意輪観音をこの地に祀ったのがはじまり」とされている。このように両寺縁起においては、ほぼ同じ時期に建立されたことがわかる。このあたりの<符号>もなかなか面白いが、ともに真言宗の名刹であり、大日如来のもつ意味は限りなく重要である。

 ところで快慶の大日如来をじっと観察していて思ったのは運慶円成寺像との近接性より、慶派一門の実慶作のそれへの連想である。快慶の「銘」はあるものの、むしろ慶派一門がいかに東寺系などの寺院と密接な関係をたもち、また大日如来は、真言宗クライアント向け「カタログ」上位の主要な作品(製品)であったのではないかという、いささか下世話な想像を馳せた。


(参考2)
◆近江路の神と仏1  三井記念美術館 快慶 石山寺多宝塔本尊大日如来坐像
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-338.html
◆空海論
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-261.html

【快慶彫刻の多様性3ー金剛峯寺 執金剛神立像にみる動態表現】

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執金剛神立像 1197年 金剛峯寺

  この像はその作風から永らく快慶像とは特定されなかった。様式史からは快慶らしくない、という見立てがあったからだとも言われる。魁偉なるご尊顔をしばし見ていた。ふと、快慶はかの東大寺法華堂の天平の執金剛神立像を見ていたかなと思った。イメージは少しく異なる。むしろお顔だけの「安易な印象批評」で似ているというなら、有名作ではむしろ新薬師寺の伐折羅(ばさら)大将像を連想する。

 快慶は、運慶らとともに東大寺南大門の仁王像などを一気呵成につくっているのだから、動態表現だっていくらでも出来るのは自明。但し、あまり、そうした像は好まなかったかも知れない。施主から依頼があれば技術的には難なくこなすのは当然。その一方、今度は全体を遠目で眺めれば、ここでは快慶らしい「均衡へのあくなき希求」を看取することができる気がする。


(参考3)
◆快慶作2仏像 重文へ 高野山の金剛峯寺所有
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-315.html

【快慶彫刻の多様性4ー晩年の作風】

快慶 大報恩寺 十大弟子
快慶 十大弟子立像 大報恩寺 

快慶 定慶 大報恩寺 六観音像
定慶 六観音像 大報恩寺
http://www.daihoonji.com/midokoro/#midokoro4 

 快慶について認識を新たにしたのは、京都市内にひっそりと埋め込まれたような存在の大報恩寺で快慶一門、慶派の後継仏師の作品に接した時であった。本尊は行快「釈迦如来像」(秘仏)だが、快慶「十大弟子像(十躯)」、定慶「六観音菩薩像(六躯)」などの重要文化財の仏像がここには犇(ひしめ)いている。

 十大弟子像(木造、彩色、切金文様、玉眼、94.4~98.6cm)は、建保6(1218)年から承久2(1220)年にかけて、快慶一門によって作像されたもので快慶晩年の作として伝えられている。もちろん他の作品も同様だが、どこまで快慶の手になるものかに対しては慎重な見方があっていいだろう。
 像容の劣化の影響もあるだろうが、怪異ともいえる表情である。多くの美々しき快慶像に魅了されてきた者には、これが彼の快慶晩年の境地かとの驚きを禁じえないだろう。肥後定慶(快慶筋ではなく運慶一門といわれる)の宋風のある意味で整いすぎた六観音菩薩像とのコントラストが際立つ。

 「美と醜」、「聖と俗」、「麗と朴」といった二分法的な発想では、快慶は前者のイメージ(美と聖と麗)が強いが、それは逆の価値観の造形(醜と俗と朴)ができないということではない。先にも記したとおり、快慶(およびその一門)ほどの技量であれば、いかなる造形であったとしても挑戦してみる意欲はあっただろう。以上、見てくると快慶の造形のレンジの広さとその巧みさは、かつての快慶のイメージ(美と聖と麗)をはるかに超えるものであることがわかる。快慶は自身の作品に銘とでもいうべき痕跡を残しているので、今後も多くの快慶作品が世に現れる可能性がある。快慶の作風をあまり型にはめて機械的に考えるのは禁物かも知れない。


【重源と快慶ーその絆と気脈】

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俊乗房重源上人坐像 鎌倉時代 東大寺

 老いさらばえて、しかし厳しくも老いの一徹を感じさせる重源坐像。この驚くべきリアリズムは、寛容よりも見る人によっては威圧的なところもある。後白河法皇や源頼朝の支援を引き出し、また時には激しい知行地獲得調整も辞さなかった傑僧の風貌は温和ではない。誰の作かはいまのところ不詳だが、重源と最も近しい関係にあった快慶説、運慶説、慶派のほかの仏師の作との諸説がある。

 俊乗房重源は紀季重(きのすえしげ)の子として保安2(1121)年に京都に生まれた。俗名刑部左衛門尉重定、13歳で醍醐寺に入って出家、名を重源と改めた。醍醐寺ゆかりの高僧ゆえに、後年醍醐寺に寄進を行い、また快慶の優品がここにあるのもそれ故であろう。

 青年時代から大峰山、熊野、御嶽、葛城、白山などの山々で行者となる。山岳修行では古くは行基を、その後の空海、最澄を連想させる。その後の歩みでも、全国を回り灌漑用池堤の築造や道路・橋梁の修理、架設など社会事業を多く手がけていることでは行基や空海を、宋に渡り当時の先端知識を学んだことでは空海、最澄との共通点を見いだし得る。

 重源は建仁3(1203)年頃、「南無阿弥陀仏作善集」を記す。自らの作善(仏教において功徳があるとされる行業)を述べた自伝であり自筆ともいわれる。「作善集」では上記の歩みに加えて、東大寺や別所(宗教活動の拠点)の造営、中国の阿育王山に舎利殿建設のため材木を送ったこと、人々に阿弥陀仏号を授けたことなどが述べられている。修造した伽藍・仏像の目録や貴重な東大寺造営記録もある。用いられた紙背は「備前国麦進未并納所所下惣散用状」で、重源が東大寺復興の財源として得た知行国備前国の麦収納に関する文書などが使われている。備前国のみならず、伊賀国、柘植、山城国、播磨国、丹波国、備中国、鎮西国、摂津国等々で重源は勧進を行ったようだ。

 重源は当時民衆の間にひろまっていた浄土教に深く帰依し、自らを「南無阿弥陀仏」と称した。快慶が「安阿弥陀仏」と称したこととこれは符丁する。先の小野の浄土寺が典型だが、快慶作品の多くが重源の勧進地に残されていることも広く知られている。重源の中国留学(三度)にはその有無を含めて異説もあるようだが、仁安2(1167)年に宋に渡り、翌年帰郷していることは文書でも残されている。後年の快慶およびその系列が宋風美術技法に長けていたこととも関係も興味深い。

 東大寺再興を自身61歳からスタートし、逝去までになしえた重源の功績は大きい。大仏修復が当時の日本の工人だけでは難しかったときには、宋の技術者、陳和卿を招聘しこの指導に当たらせた。大仏修復よりもさらに難事業であった大仏殿の再建では、自ら周防国の杣(材木を切り出す山)に入り、佐波川上流の山奥(現在の滑山国有林付近)から道を開墾し、川に堰を設けるなどして長さ13尺(39m)、直径5尺3寸(1.6m)もの多くの巨木を奈良まで運搬するなどのスケールの大きな仕事を成し遂げた。運慶、快慶はじめ慶派仏師が、一大国家事業であった東大寺再建に活躍できたのも、重源の「後ろ盾」があったからであり、重源と快慶との絆と気脈―その信頼関係あればこそであったろう。


(参考4)
◆重源と快慶
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-423.html
◇月刊「京都史跡散策会」第9号(2006/9/17発行)
鎌倉時代の大仏再興と俊乗坊重源/三重・新大仏寺/大仏師法橋 快慶
http://www.pauch.com/kss/g009.html#kaikei

◇大勧進・重源の足跡
http://www.i-unic.com/contents/boucho/chogen/chogen_02.html

【運慶と快慶、その役割分担】

運慶坐像
運慶坐像 鎌倉時代 六波羅蜜寺

会計
僧形八幡神坐像 1201年 東大寺

 運慶の「経綸」の才は、快慶との役割分担によって可能となった。すでに、運慶については本ブログのほか別ブログでも多く書いてきた。

(参考5)
◆運慶、快慶、慶派
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-282.html
 
 運慶は東国の武士、すなわち当時の新興権力者(かつスポンサー)を担当した。いわば東上作戦を総帥した。一方で快慶は、クライアント中でももっとも重要な東大寺の重鎮、重源を後ろ盾として南都から周防にいたる勧進(金集め)のための強力な戦力であった。つまり西進作戦を重源とともに実行した。
 割り切って単純化すれば運慶と快慶の役割分担とは、かたや東に、こなた西に展開。かたや武士とともに、こなた僧侶とともに飛躍することにある。

 <チーム運慶>、<チーム快慶>はこの2人の棟梁のもと、運慶の子息をはじめすぐれた弟子の「脇仏師」をもって編成されたが、プロジェクト毎に、編成替えもあったろう。共通する慶派の特色はそうした脇仏師の存在によって生み出され、また棟梁の関与の強度によって、運慶風、快慶風により変化したかも知れない。

 さて、運慶坐像は六波羅密寺にあって、なるほどこのような面構えかと関心をよぶ。しかし、快慶は生年、没年不詳でその姿を今日知る手立てはない。ここでは、快慶が架空の高僧を彫ったという僧形八幡神坐像を並べてみた。具象でない分、もしかしたら意識して、あるいは無意識に快慶の「自画像」がここに投影されていないかと根拠なく想像を逞しくしている。
 快慶の作品には静謐さがある。なんど観ても飽きず、観るほどにその美しさに新たな発見があるように感じる。しかも、その仏様は見るものの心を落ち着かせ、共有する時間と空間に特有の品位を発散する。
 快慶の40以上の現存作には、以上見てきたとおり多くのヴァリエーションがあるが、もっとも作例の多いのは阿弥陀如来である。東大寺再建の大規模な勧進を行う必要のあった重源との関係が大きかっただろうが、彼自身、阿弥陀如来については当代随一の自負もあり、得手としていたと思う。

日本の美術241 阿弥陀如来像 

 快慶という仏師には「均衡へのあくなき希求」を感じる。自身のなかに堅固なる美の基準があり、彫をなす、木を刻むまえに全体像が瞼に焼きついているような気がする。そして、それを具体的に形(フォルム)にしていける完全な技量をもっている。一瞬にして作品はすでに頭のなかで完成されている。あとは、それを具象化する作業が残っているだけだ。感性の鋭敏さとその効率よき実現、そこに快慶の快慶らしさを感じる。

 比較において運慶には、はじめに意志力を感じる。内から湧き上がる芸術的なパッションのもと、作像に挑みかかる。作品は、意志力の表出が十全になされているかどうかに基準があり、そこに達するまで可変的に修正されることを否定しない。つまり鑿の運びは時間とともに自在に変わっていくイメージである。「静」の快慶、「動」の運慶の違いをそんな風に考えている。
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サントリー美術館「高野山の名宝」展  快慶作品を見る

孔雀明王 快慶作 金剛峯寺

 明日で終了するサントリー美術館「高野山の名宝」展について、以下は快慶作品についての若干の感想である。実に良き作品を出展してくれたと思う(いずれも重要文化財)。

◆ 孔雀明王坐像 一躯 鎌倉時代 正治2(1200)年
◆ 執金剛神立像 一躯 鎌倉時代 建久8(1197)年
◆ 四天王立像 四躯  鎌倉時代 12~13世紀

【孔雀明王坐像 一躯 鎌倉時代 正治2(1200)年】
 
「伽藍孔雀堂の元本尊で、後鳥羽法皇の御願により仏師快慶が正治二年(1200年)に造立したもの。孔雀の背に乗るという絵画的な姿を、仏像彫刻として見事に完成させている。」(高野山霊宝館HPから引用)

 全体をいくどか回遊し、「孔雀明王坐像」の前に戻る。疲れて前におかれたソファーに腰を落とし、ここから遠望しながら漠然と思った。
  この作品を見ていると、快慶という仏師の「均衡へのあくなき希求」を感じる。自身のなかに堅固なる美の基準があり、彫を刻むまえに全体像が瞼に焼きついているような気がする。そして、それを具体的に形(フォルム)にしていける完全な技量をもっている。一瞬にして作品はすでに頭のなかで完成されている。あとは、それを具象化する作業が残っているだけだ。感性の鋭敏さとその効率よき実現、そこに快慶の快慶らしさがあると思う。

 比較において運慶には、はじめに意志力を感じる。内から湧き上がる芸術的なパッションのもと、作像に挑みかかる。作品は、意志力の表出が十全になされているかどうかに基準があり、そこに達するまで可変的に修正されることを否定しない。つまり鑿の運びは時間とともに自在に変わっていくイメージである。「静」の快慶、「動」の運慶の違いをそんな風に考えてみた。

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【執金剛神立像 一躯 鎌倉時代 建久8(1197)年】

 次に最近、快慶作と特定され重要文化財に指定された注目の「執金剛神立像」の前に戻る。
 この像を見ていて思い出したことがある。先般見た番組(『美の巨人たち』 快慶 国宝「善財童子立像」/2014年11月29日(土)夜10時00分~10時30分)であるが、良く練られた番組で楽しめたが気になる点もあった。
(快慶 国宝「善財童子立像」 http://blog.livedoor.jp/shokkou/archives/2078758.html

 それは、東大寺南大門の阿吽両像の比較で、足指の表現の違いに注目して、足指が地についている「静態的」な快慶とそれが反り返っている「動態的」な運慶といった指摘であった。ところが、どうだろう、この執金剛神立像の右足は、見事に反り返っている。安易な印象批評は禁物との一例かなとも思う。
 銘がでてきたので、快慶作と断定されるようになったが、以前は作風から快慶の真作には疑問符が付いていたようだ。
(快慶作の執金剛神立像、見つかる! http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-266.html

 「木造執金剛神立像は高さ約1・3メートル。昨年秋、仏像の首部分の内側に、鎌倉時代の仏師、快慶が使用した称号で「あん」と読む梵字(ぼんじ)と「阿弥陀(あみだ)仏」と書かれた墨書が見つかり、快慶の作品であることが判明した。
 木造深沙大将立像は高さ約1・3メートル。執金剛神立像と一対で造られ、同じく快慶の作品とみられる。いずれも国の重文に指定されている快慶作の「四天王立像」とともに高野山に安置されていた。
 これまで2像は写実的な表現など仏像の特徴から快慶一門の作品と見られていたが作者が分かっておらず、国の文化財指定は受けていなかった。古文書から2像を造らせたのが鎌倉初期の僧侶、重源であることも分かっており、作者や作品の背景が明確になったことで、文化財としての価値が高まった。」

http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-315.html

 ご尊顔をじっと見る。快慶はかの東大寺法華堂の天平の執金剛神立像を見ていたかなと思った。イメージはやや異なる。むしろ体躯ではなくお顔だけの比較であれば、新薬師寺の伐折羅(ばさら)大将像(下記)を連想する。快慶は、冒頭の東大寺南大門の仁王をつくっているのだから、動態表現だっていくらでも出来るのは自明。彼はあまり、そうした像は好まなかっただけではないか。施主から依頼があれば難なくこなすのは当然であったろう。今度は全体を遠目で眺める。絶妙なバランス感覚がある。ここでも「均衡へのあくなき希求」を看取することができる気がする。

<参考>
新薬師寺十二神像
新薬師寺 伐折羅大将像

【四天王立像 四躯  鎌倉時代 12~13世紀】

 最後に「四天王立像」について。快慶の現存唯一の四天王立像と言われるが、すべて快慶その人の鑿によるものか、快慶一門、慶派工房の共同作品かは考えておく必要があるかも知れない。また、これは東大寺大仏殿四天王像を造像するための試験作という見方もある。

快慶 金剛峯寺 四天王像

 「広目天に快慶の銘があることから、快慶とその工房の作と考えられる。特に快慶の直接の手になる広目天は、険しい忿怒の表情を見事にあらわし、腰を左にひねって立つ体勢のバランスの良さや、衣文表現の巧みさは四軀中でも際立っている。平氏による南都焼討ののち再興された東大寺大仏殿四天王像は、慶派によるもので、そこで広目天を快慶が担当していることからも、本像は大仏殿様を最も色濃く伝えていると考えられる。今は無き大仏殿像をしのぶことができる点でも重要な作例である。」(展示解説からの引用)

 四天王といえば、古くは法隆寺金堂、その強烈なインパクトにおいて、いまだ随一の東大寺戒壇堂のそれがあまりに有名である。東大寺再興にあたって、慶派の主要仏師は後者を拝顔し、あるいは修理にあたったかも知れない。
世紀の大事業、東大寺大仏殿再建の任にあった慶派は、上記引用にあるとおり、大仏を守る四天王を造像した。四丈三尺の像高を誇る巨大なものであったと伝えられている。なお、海住山寺の四天王像も著名だが両者は実に近似する。

 「大仏殿様四天王像は南都とその周辺地域を中心にある程度まとまった数の遺品が点在するが、そのうち現存最古の作例は和歌山・金剛峯寺像である。像内から発見された文書に建久ないし建仁の年号が見いだせ、十二世紀最末から十三世紀最初の制作と目され、かつ広目天像の足に仏師快慶の刻銘が認められ、快慶工房の作と考えられる。この金剛峯寺像と海住山寺像とを比較すると、たとえば広目天像の胸甲の折り返しの付いた特徴的な形態や両袖の翻るかたちが共通するし、持国・増長天の二躯では袴が膝下で脛甲の中に入るのに対し、広目・多聞天では脛の半ばまで袴が脛甲の上に垂れる点なども二組の四天王像で一致する。つまり、海住山寺像は金剛峯寺像と並び、一連の大仏殿様四天王像のなかでもとくに原像、すなわち大仏殿像に近い形相を有すると考えられるのである。」(http://www.kaijyusenji.jp/gd/kiko/sentence/k9.html

 さて、金剛峯寺四天王像を観察して思うのは、4像の性格表現の巧みさとそのバランスの良さである。ここでも快慶の個々の造像と四体群像における「均衡へのあくなき希求」が背後にあるのではないかと感じた次第である。

<参考>
☆この秋の話題 サントリー美術館「高野山の名宝」展
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-419.html
☆快慶 孔雀明王坐像 金剛峯寺 を見る 
http://blog.livedoor.jp/shokkou/archives/2079120.html
☆快慶 執金剛神立像 金剛峯寺 を見る
http://blog.livedoor.jp/shokkou/archives/2079121.html
☆快慶 四天王像 金剛峯寺 を見る
http://blog.livedoor.jp/shokkou/archives/2079153.html
【“サントリー美術館「高野山の名宝」展  快慶作品を見る”の続きを読む】

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