大和古仏探訪

京阪神を中心に内外の古仏についていろいろと書いてみたいと思います。

渡来人の系譜   3つのファクター ー百済・新羅・中国(隋唐)-

大阪歴史博物館

  今日は渡来人について、改めて考えてみたいと思います。まず、有名な金達寿『渡来人と渡来文化』(河出書房新社1990年)をみると、三品彰英氏の『古事記』(708年)、『日本書紀』(720年)は古代朝鮮語を知らないと理解できないという見解を紹介したあと、『古事記』は<新羅系>の渡来人によって書かれ、『日本書紀』は<百済系>の人たちによって書かれていると指摘しています。

 この<新羅系>、<百済系>の渡来人の政治的な闘争については、まず蘇我氏は<百済系>、これを大化の改新(645年)に<新羅系>が滅ぼす。しかし、その後<百済系>が息を吹き返し壬申の乱(672年)によって、ふたたび<新羅系>が優勢となる。しかし、天武が崩御し持統天皇の世になると再度、<百済系>が巻き返す。

 蘇我氏、司馬達等、鞍作止利らが<百済系>とすれば、秦河勝や聖徳太子の愛妃、橘大郎女(たちばなのおおいらつめ)らは代表的な<新羅系>渡来人。日本の古代史でのドラマティックな政権闘争は、いわば朝鮮半島の政治情勢の強烈な反映でもあったとの説が展開されているのです。

法隆寺釈迦三尊images

  『古事記』は<新羅系>の渡来人によって書かれ、『日本書紀』は<百済系>の人たちによって書かれているというのは本当なんですか?

  山尾幸久「『日本書紀』のなかの朝鮮」(吉田 晶他編『日本と朝鮮の古代史―共同研究 (1979年) (三省堂選書)によれば、百済三書(『百済記』、『百済本記』、『百済新撰』)という先行文献(但し、編纂時期には諸説があるらしい)があって、その引用を含めて、 、『日本書紀』に大きな影響をあたえていることが述べられています。

  まどろっこい話をしているが、『日本書紀』のなかでの上古の天皇の歴史は、朝鮮半島に淵源があるということと古墳時代から聖徳太子をはじめとする古代の政権は技術的なものもふくめ渡来人(帰化人)がつくったということだろ。そこを理解しないと日本国家の生成は見えてこないということを言いたいんじゃないの。

  韓流ドラマが日本で人気があるのもわかる気がします。古代の朝鮮半島の歴史はどてもダイナミックですし、美しい女性が登場する悲劇もたくさんあるし・・・

  どうもなんでも直情的、単純に解釈しては駄目だと思うね。網干善教『飛鳥の遺蹟』(駸々堂出版 1978年)を読んでみたまえ。第5章で「飛鳥文化の源流」では、「新羅文化と飛鳥文化」、「百済文化と飛鳥文化」に加えて、「隋唐文化と飛鳥文化」の3つを並列している。大化の改新を主導したのは、高向玄理、南淵請安、僧旻ら遣唐使であり、政治体制の原理に置かれたのは隋唐律令であり、中大兄皇子は「唐人と異名される」ともここで書かれているが、まさにわれわれが研究しているこの時代の文化には、3つのファクターがあるということを常に忘れてはいけない。その文化がぶつかりあい、競い合い、そして時間とともに融合したからこそ、類まれなる文化の発酵があったのではないか。

  なるほど、渡来人についてもこの国で混血もあり、また異文化も学んで日々に進化をしていくということですね。その一方で、ながく続く政治的な影響力の行使という点も関心事項です。井上満郎「秦氏と平安京の造営」(『日本古代史〈王城と都市〉の最前線―宮と都の謎を解く 』別冊歴史読本―最前線シリーズ (05)ムック 1999年) を読んでいると、<新羅系>渡来人、秦一族のしたたかな生き方が想像されます。だからこそ、秦氏ゆかりの広隆寺弥勒菩薩も今日、奇跡的に残っていると思うのです。


広隆寺弥勒菩薩timages

  専門ではありませんが、今回の話題には東漢氏や西文氏のことがでてきませんでしたが、これも重要ではないですか。また、政治体制では中央と地方の関係も徐々に変わってきますね。吉備真備時代について詳述した米田雄介『古代国家と地方豪族』教育社歴史新書 1979年)なども参考になると思います。

長谷川宏『日本精神史』

阿修羅像5

長谷川宏氏では、ヘーゲル『哲学史講義』(河出書房)などの新翻訳をかつて入手した。この方は気鋭のヘーゲル研究家と思っていたのだが、今回、以下の本を出版。その領域の広さに驚くとともに、是非、読んでみたいと思っている。もっとも、ヘーゲル『美学講義』『精神現象学』『法哲学講義』なども非常に高価であったし、今回の上下2冊本(上下巻ともに各2800円)も安くはない。ちょっと入手に逡巡しているのだが、内容は以下のとおり興味津々である。

【以下は引用】
『日本精神史』を書き終えて 文/長谷川宏(哲学者)

■奈良へ

初めて奈良の仏寺・仏像を見に行ったのは、1974年、34歳の春のことだ。それまでどうして奈良に足が向かなかったのか、振り返っても確たる理由が見つからず、そういうめぐり合わせだったと思うしかない。

前の年にわたしの塾に通う中学3年の男子2人が、卒業記念にと奈良を旅行し、それがなんともすてきな旅だったから今年は是非いっしょに、と強く誘ってくれたのがきっかけの古都訪問だった。

最初に訪れたのが西の京の薬師寺だった。金堂が工事中で、薬師三尊像は入口近くの仮りのお堂に安置されていた。がらんとした空間に無造作に置かれた黒光りする三体の仏像。思いがけぬ出会いに衝撃を受けた。

圧倒的な力強さと安定感と精神性を具えた像を目の前にして、その場を動けなくなった。右に左に移動しつつ1時間ばかり三体と向き合い、目を凝らし思いにふけり、ようやくそこを立ち去る心の落ち着きが得られた。

4、5日の奈良旅行だったが、薬師寺のあとも溢れるほどの仏寺と仏像の魅力を身に浴びて、奈良は、もう一つの古都・京都と並んで、わたしの美意識の核心をなす場所となった。その年以降、いまに至る41年間、春先に欠かさず奈良を訪れることになったのも、美意識の自然な導きによるものだった。

こんどの『日本精神史』では、奈良の寺では飛鳥寺、法隆寺、興福寺、東大寺などを、仏像では百済観音像、(中宮寺)半跏思惟像、阿修羅像、鑑真和上像、東大寺南大門金剛力士像、無著・世親像などを取り上げることになったが、それらを論じる際に自分の思考がある種の安定感とゆとりをもって前へと進むことに、わたしは長年の旅の経験が確かに生きていると感じることができた。

芸術作品とのつき合いは親炙こそが王道だとつねづね思っているわたしは、その実感を心底うれしく思った。

■三内丸山遺跡から『東海道四谷怪談』まで

とはいえ、こんどの本のめざすところが、美術、文学、思想の三領域を相手としつつ、縄文の三内丸山遺跡、火炎土器、土偶から江戸晩期の『東海道四谷怪談』に至る精神の流れを大きく展望することにあるとすれば、慣れ親しんだ文物や文献のあいだをめぐり歩いて、それで事が片付くわけにはとうてい行かない。

必要とあらば、なじみの薄い分野に乗り出し、不慣れな対象に向き合わねばならない。例を挙げれば、写経や『今昔物語集』や「蒙古襲来絵詞」などがそうで、おのれの知識不足と思考の不如意を思い知らされて、なんども原資料に当たり、構想の組み変えを図ったりもした。

その一方、もともと関心があり、折に触れて思いをめぐらしてきた作品について、いざ論の対象として本腰を入れて取り組んでみると、いままで気づかなかったおもしろさや深さが見えてくる、という幸運な例も少なくなかった。

絵でいえば「一遍聖絵」や与謝蕪村の南画がそうだし、文学でいえば『伊勢物語』や世阿弥の能楽論が、思想でいえば「御成敗式目」や伊藤仁斎の『童子問』がそうだった。

そうした魅力の発見は一通り原稿を書き上げたあとも続いて、校正の仕事といえば神経の尖るしんどい作業となるのが通例だが、「一遍聖絵」を扱った22章や、能楽論を扱った25章では、初校ゲラでも再校ゲラでも、もとになる絵や文章に改めて当たり直す作業にしばしば心楽しさや新鮮さを覚えたのだった。

■日本の精神の流れをたどる

さて、わたしの採用した精神史の方法について述べておかねばならない。

日本史上に名の残る美術品、文学作品、思想書を大きく見わたし、そのなかから、作品としてすぐれた出来栄えを示していること、時代を語るにふさわしい内容を具えていること、という二つの条件を満たすものを厳選し、その一つ一つをおおむね年代順に論じつつ精神の流れをたどる、という方策を取った。

取り上げた文物・文献は百数十点に及ぶが、大切なのは、それらを相手とするとき、時代の精神を体現する史料として対峙する、という姿勢と、作り手の思いのこもった完成度の高いすぐれた作品として鑑賞する、という姿勢とをともども堅持することだった。

一方の面を文物・文献の史料性と名づけ、他方の面を作品性と名づけるとすれば、自分の対象との向き合いかたが作品性に傾きやすいことが執筆途中から意識され、史料性に意を用いるようあえて自分に言いきかせる場面が一再ならずあった。

ともあれ、十数年の労苦がこうして一つの形を取ったことをいまは素直に喜びたい。場面場面で自分一個の作品評価や社会的・文化的価値判断の表明を辞さなかったから、読者の側に異見や異論も多いことと思う。

執筆中も、原稿の一部を読んでくれた友人・知人の異見・異論が考えを進める上で大きな刺激となった。異見や異論の喚起をもふくめて、この本が精神のゆたかさへと人びとを導くものとなってくれたらと思う。

読書人の雑誌「本」2015年9月号より

長谷川宏(はせがわ・ひろし)
1940年生まれ。東京大学大学院哲学科博士課程修了。大学闘争に参加後アカデミズムを離れ、学習塾を開くかたわら、在野の哲学者として活躍。とくにヘーゲルの明快な翻訳で高く評価される。主な著書に、『ヘーゲルの歴史意識』(紀伊國屋新書)、『同時代人サルトル』『ことばへの道』(以上、講談社学術文庫)、『新しいヘーゲル』『丸山眞男をどう読むか』(以上、講談社現代新書)、『初期マルクスを読む』(岩波書店)など。またヘーゲルの翻訳として、『哲学史講義』(河出書房)、『美学講義』『精神現象学』(レッシング翻訳賞、日本翻訳大賞)『法哲学講義』(以上、作品社)などがある。

http://gendai.ismedia.jp/articles/-/45228

http://www.mammo.tv/interview/archives/no264.html

【以下は抜粋引用】

Q:塾での教育のかたわら、先生自身の研究の成果としてもっとも有名なのは、ヘーゲルの翻訳かと思います。現在は、どういう研究をされているのですか?

A:いまは日本精神史を研究していて、いよいよ書き始めようかというところです。スタートはヨーロッパの近代でしたが、そこからさらに視野を広げていきたいわけです。

ヘーゲルに打ち込んで、かなりはっきりとその輪郭が見えてきたので、さらに研究することによってその奥へ行くことも可能です。特にヘーゲルと付き合いは長く、さらに読めば理解もますます深まるだろうけれど、まあもういいか、ほかのことをやろうと思った。

その上で、自分が生きているこの場でのものの考え方を開いていけないか。その開く手立てとして、日本精神史を考えようと思いました。縄文から始めて江戸の終わりまでやろうと構想しています。

Q:「この場でのものの考え方」が、なぜ日本精神史という全体を扱うことにつながったのですか?

A:きっかけは奈良でした。高校の頃から奈良時代の古典や美術が好きで、以来毎年奈良を訪れていまして、どきどきする楽しさがいつもあります。これは自分ひとりの問題ではなく、奈良文化のいちばん優れた頂点に触れている感触がもたらすものじゃないか。その感触を言葉にすればどうなるか。
作品におもしろさを感じるだけでなく、それを生み出した時代、人々の思いとか、そういうものにも触れておもしろいと思っているわけです。文物と交流することの持つ意味を考えたいのです。

たとえば阿修羅像を見れば、「いったいどういうつもりでこんな美しい青年像をつくったのだろう。そのとき青年とは、どういうものとして考えられていたんだろう」とか「異国でつくられた仏に対し、仏師はどういう気持ちでいたんだろう」と思うわけです。

美術的に優れた作品に対し、いろんな観点からものを言えますが、僕としては、それを生んだ時代になるべく肉薄して展開していきたい。

いまの日本とつながりながらも、それとは違う独自の時代のあり方に触れたときの手触りは、なかなかうまくいえないものですね。

言えないけれど手触りが明らかに違う。それを「うまく言えたらいいな」という思いは、関心を持っている人のうちのかなり多くに共有されていると思います。少しでも、言葉にできる糸口でもつかめたらうれしいです。

Q:先生の試みは、自分の知らないことへの挑戦という意味で、本来の学ぶ姿ではないかと思います。昨今、学習の場において、「情報」という語が重用されています。学ぶことと情報を活用することの違いについて、どう考えていますか?

A:情報はパッケージされ、確定されたものをただ受け取るだけでしょう。僕がいちばん充実感を味わうのは、奈良に毎年行きながら、同じことの繰り返しでなく、慣れ親しむことでわかってくる貴重さ、不思議さに出会うときです。親しむうちに自分の身体ごとどう対象と向き合うか、その向き合い方がわかってくる。

たとえば「法隆寺は午前中に行ったほうがいいし、できれば晴れの日がいい」とわかってくる。開門の9時とともに、まず五重塔と金堂を訪れ、そこから先へどう進むかは、いわば自分の中で奥の手のようにして持っている。それは何年も行かないとわからないことで、初めての人にはできない。慣れ親しむことで、相手の見え方が違ってきます。そうやって自分の付き合い方が広がっていくことが快感です。

人間関係も同じですね。塾を初めて40年の付き合いの中で、たとえば前は建築の仕事をやっていたけれど、いまはガスや水道の修理の仕事をしている人だとか、教師をやっていたけれど、いまは書店で本を売っている人とかがいます。人生の転機を迎えた人との付き合いがおもしろいなと感じますね。

運慶北円堂5

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