大和古仏探訪

京阪神を中心に内外の古仏についていろいろと書いてみたいと思います。

鳩摩羅什

鳩摩羅什

『鳩摩羅什』(小説仏教シリーズ16) 北尾幹雄 第三文明社 1975年
http://blogs.yahoo.co.jp/kojinnbook999/17697624.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A9%E6%91%A9%E7%BE%85%E4%BB%80

仏典を読むと、いつもこの名前にいきつく。単なる翻訳家ではない。注釈書を含めて、大乗仏教を極めた大学者であり仏教家である。僧侶と書かなかったのは、二度の避けられない「破戒」を経験し、僧侶たりえなかった苦渋の人生を歩んだからである。344年 - 413年(又は350年 - 409年) が生没年。生地は亀茲国、没地は長安、師に須利耶蘇摩が、弟子は3,000人とも。高弟として道生・僧肇・慧観・僧叡らがいる。

一度目の破戒は、親類筋の若き女性の破滅(生贄)の瀬戸際に、それを避けんがための究極の選択をしいられたためである。自らの死をもっても、この難局は避けがたい状況下でのことであった。

鳩摩羅什(くまらじゅう、くもらじゅう、サンスクリット:Kumārajīva, कुमारजीव、クマーラジーバ)について、本来は、小乗仏教からいかに大乗仏教に転じたかの思想の転回が語られなくてはならない。また、サンスクリットを中国語に正確に翻訳することが、どんなにかの難行であることかの物語こそハイライトである。それはインド哲学と中国思想、双方を完全に修めた者だけがなしうる偉業であった。

二度目の破戒は、鳩摩羅什の貴種を残すべく、美女を側近におき子孫を残すことを希求したスポンサーたる国王の切なる要請からであった。もちろん一切、手はつけなかったとのこと。諸葛孔明さながらの軍師としての逸話もあり、果たしてどこまでが史実で、どこからが英雄譚であるかはわからないが、厳然として、厖大な、かつ秀逸なる翻訳本、注釈本がある以上、下世話な詮索そのものが不要だろう。


(参考)聖徳太子について(4)
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-38.html

仏教思想

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  まえに聖徳太子、空海、平安彫刻隆盛、運慶の登場について200年説(※1)をだしたのを覚えているかな。鎌倉時代以降は仏教もかわってしまった。それで、仏像の役割も大いに変化したと思うのだけど、その辺どう思うね?

※1:「閃いたぞ!聖徳太子から空海までちょうど200年、さらに200年たって11世紀初頭、藤原道長がでてくるな。定朝の時代の幕開けだな。さらに200年、鎌倉幕府の時代、運慶、快慶ら慶派の最盛期だ。日本彫刻史において、ちょうど200年周期説が成り立つんじゃないか。これって大発見かも知れんな!」
◆「聖徳太子と空海」
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-194.html

  まず、前にも言いましたが200年説って良いとこどりで、年表を拾っただけではないですか。今回、行基さん(※2)のことを勉強しましたが、行基さんを考えると100年説だってありえますよね!

※2:「行基(668~749年)は、聖徳太子(574~622年)と空海(774~835年)のちょうど中間に位置している。聖徳太子没後約半世紀をへて行基が生誕し、行基寂滅後約四半世紀をへて空海が産声をあげる。」
◆「渡来人の系譜 4  行基について」
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-448.html 

  私もそう思うわ。平安時代だって、最澄がいたし、最澄(※3)の天台宗が、空海の真言宗にくらべて、当初は力不足だったけれども、その後、優秀な弟子の貢献で広く流布されたことなども考えておくべきことですよね。そうしたことから言えば、空海から藤原道長にあまり脈絡なく、いきなり200年飛ぶのはどうかと思いますけど。

※3:「比叡山延暦寺についての本を読んでいる。最澄という一人の巨人の存在が、このユニークで広大な自然のなかに厳しい道場を生んだ。その物語は感動的である。」
◆「仏像は深い9 最澄と比叡山」
http://blog.livedoor.jp/shokkou/archives/1848152.html

  偉大な考え方は、いつの世もなかなか理解されないものだな(から強いブーイングの声!) 
おいおい、はじめから  が聞いていたぞ、(助け船をもとめて)このあたりはどう思うね。


  一定程度、記紀などの文献に信頼をおくという前提ですが、日本における仏教の【学理研究】とその成果という視点では、聖徳太子の時代を嚆矢として空海の思想で頂点を迎え、以降は独自性ということでは衰退する。【政治的】に、仏教が政権に食い込むということでは、鎮護国家論を背景として、道鏡の時代にその中枢に位置し、以降はその反省もあって次第に外延化していく。【仏像彫刻】などについては、 の領域ですからコメントは差し控えるとしても、以上でもわかるとおり、【学理】と【政治】と【宗教的創造物】とではその盛衰の時期が明らかに異なっていることが重要だと思います。そのあたりをキチンと整理しないと、「周期」といったような考え方は取りえないと思うのですが。 
 さらに言えば、国家が仏教を統制するという考え方やその制度は時代とともに崩壊していく。仏教界の俗物化(堕落)もあって、国家論からみた仏教はその影響力を著しく減じていく。しかし、鎌倉時代以降の念仏を糧とする民衆への浸透という視点では、むしろ逆で広範に人々の生活に入っていく。行基の足跡を追っていて面白いのは、まさに行基こそ、そのフロンティアの一人ではなかったということです。仏教思想の変遷は、そうした意味でも多角的に、しっかりと抑えておくことが大切ですね。

渡来人の系譜 5  複合的視点

大阪 渡来人マップ
http://www.geocities.jp/ku_da_ra/ETC/osaka-timei.htm

いまから40年以上も前、学生の時に飛鳥彫刻の魅力に惹かれて仏像を研究したいと思うようになった。広隆寺弥勒と韓国博物館の類似仏の比較を通じて、その文化圏の広さと深さと不可思議さを知った。朝鮮半島からの舶載品こそが飛鳥彫刻のルーツであることを学んだ。

◆「仏像の道-インドから日本へ 5 朝鮮」  http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-139.html

20才台の後半3年間を九州博多で過ごした。まず、地名が読めない。あるいは読めたとしてもその発音は難しい。朝鮮半島との文化的近接性は、東京では座学からはじまるように思うが、九州では風土そのものから体験できる。多くの仏像もみたが、当時、邪馬台国論が熱く議論される背景がつぶさに理解できた。

◆「天福寺の木彫り仏像群 国内最多の規模」  http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-264.html

齢50才台、関西転勤になって、以上の2つの経験からある程度の下地はできていた。週末は奈良に遊び、また芦屋の図書館に通った。<週末晴耕雨読生活>であった。その結果、必然的に渡来人・帰化人の問題を考えるようになった。

◆「帰化人の問題1」  http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-126.html

同時に飛鳥時代の仏像を研究するためには、改めて考古学の浩瀚なる学問的成果がいることを痛感した。上記の第一マップもそうした観点から読み解くことが必要である。また、遷都論に強い関心を持った(下記、第二のマップである)。

◆「平城京を考える」  http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-171.html

加えて、古代の豪族の勢力図を重ねあわせてみなくてはならない。第三のマップである。

◆「渡来人の系譜 3  蘇我一族との関係」  http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-447.html

第四、第五のマップ・・・も勿論あるだろうが、より本質的には歴史的、文化的な堆積の古層は部厚いという認識である。たとえば、関西どこでも、そぞろ歩きの途中、その地名の由来をみれば渡来人・帰化人の影響の大きさを実感する。古墳、神社仏閣や古(いにしえ)からの仏像などは、そのすぐれてシンボリックな遺産であることは自明である。

渡来人の系譜 4  行基について

大阪市美術館3

千田稔『天平の僧行基 異能僧をめぐる土地と人々』(中公新書 1994年)を読む。労作であり非常に勉強になる。まず、副題の「異能僧」という言葉に惹かれた。
自らが勝手に命名した「異界の7人」という人脈がある。1人目は役行者こと役小角、2人目は当時のスーパー国際人吉備真備、3人目は沙弥・空海、4人目は陰陽師こと安部晴明、5人目は悲劇の武将・平将門、6人目は江戸の科学者・平賀源内、7人目は特定の人ではなく風水師という「異界案内人」である。


(参考)7人の異界人列伝(役小角~帝都物語まで) - Amazon.co.jp

「異界の7人」には入れていないけれど、行基については、かねてから関心がある。仏像や社寺が好きなら、どこに行っても行基菩薩の伝承は、聖徳太子、弘法大師空海と同じくらい数多くある。
しかも特定の寺院を離れた一介の私度僧は、その後破戒僧として国家から弾圧されながらも社会活動を継続し、遂には天皇が自ら要請することによって、国家最大の事業、大仏建立のために働き大僧正にまで登りつめるという非常にドラマティックな履歴をもっている。

本ブログでも聖徳太子と空海については多く記してきた。行基(668~749年)は、聖徳太子(574~622年)と空海(774~835年)のちょうど中間に位置している。聖徳太子没後約半世紀をへて行基が生誕し、行基寂滅後約四半世紀をへて空海が産声をあげる。
ところで単なる民衆であれば、聖徳太子について知る由もなかったかも知れないが、当時の最高の知識層であった行基は、もちろん強くその偉業を意識していたであろう。空海にいたっては、土木事業や雨乞いなどの社会活動に関して、行基はいわば背中の見える巨大なる先人であり、その足跡は驚くほど一致している。
聖徳太子も空海も、その思想は(その伝承をふくめて)文書で知ることができる。その一方、行基は高僧でありその業績は燦然たるものではあるが、書き物でその考え方を知ることはできない。それゆえに自由な空想が働く余地がある。

さて、千田稔氏の上記労作において大いに啓発されたのは、行基と渡来人・帰化人との関係についてである。行基は、和泉国大鳥郡蜂田郷(現・大阪府堺市)に【百済】系渡来人の血をうけて生まれた。近くにはこれも渡来系の土師氏の集落があり、墳墓、葬祭、道教などに通じていたようだ。
行基のルーツは、伝説の渡来人、王仁(わに)の後裔【西文】(かわちのふみ)氏から別れた高志(こし)氏にあたり、父は高志才智(さいち)、母は蜂田首虎身(はちだのおびととらみ)の娘古爾比売(こじひめ)と伝えられている。十五才で出家して薬師寺に入り、道昭に瑜伽唯識(ゆか・ゆいしき)を学び、さらに竜門寺の義渕に法相を学んだ。


http://www.k4.dion.ne.jp/~nobk/kwch/gyouki.htm

その師、道昭は法相宗の僧、河内国丹比郡【船】連(ふねのむらじ)(現・大阪府堺市)出身で父は船恵尺。白雉4年(653年)、遣唐使の一員として定恵らとともに入唐し、玄奘三蔵に師事して法相教学を学ぶ。玄奘はこの異国の学僧を大切にし、同室で暮らしながら指導をしたという。空海以前に先進国中国で薫陶をうけた秀抜なる留学僧であった。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E6%98%AD

行基の生涯にわたる業績で、気になるのは誰が実働部隊であったかである。すでに【ブランケット】で示したように、西文氏、船氏といった渡来人・帰化人たちが行基の社会事業(道場や寺院の建立、溜池15窪、溝と堀9筋、架橋6所、困窮者のための布施屋9所等の設立など)を陰に陽に支えてきたのではないかというのがその仮説である。

渡来人・帰化人たちは行基に必要な技能・技術を身につけていた。行基には西文の系譜からみても呪術的なカリスマ性があったであろうが、彼らにとっては希望の星であり、自らのリーダーに必死に従ったという風に考えている。

もうひとつの仮説であるが、聖武天皇は大仏建立にあたって、どうしても行基の助力を必要とした。それは、行基の盛名が必要であったのみならず、弾圧にも耐えて行基を支えてきた多様な渡来人・帰化人たちの取り込みこそが真の狙いではなかったかという想像もありうると思う。行基が興した49寺の多くが、渡来人・帰化人たちと関係が深いこともそれを物語っているのではないかと考える。


(参考)
http://www.geocities.jp/iko_kan2/gyouki-49in.html

<以下を加筆修正>
http://blog.livedoor.jp/shokkou/archives/2095582.html

渡来人の系譜 3  蘇我一族との関係

大阪市美術館2

  今回は蘇我氏と渡来人の関係について少し考えてみたいと思います。蘇我稲目ー馬子ー蝦夷ー入鹿の系譜と後裔たる蘇我石川朝臣の系譜などがありますが、古代国家の最強の大臣であり、天皇家への外戚政治の嚆矢。数代にわたって経綸の才に優れるのみならず、文化興隆においても抜群の貢献をした存在ですが、そのバックには渡来人・帰化人勢力がいた、あるいはそのパトロンであったことは良く知られています。

  稲目以前に、蘇我満智ー韓子ー高麗というルーツがあると言われます。しかし、一方で、高麗ー稲目の間には一種の切断面があるとの説もあるようですね。ここで興味深いのは、そのルーツの名前ですが、満智ー韓子ー高麗をそれぞれ百済、新羅、高句麗に比定して、渡来人・帰化人の祖という点を強調する架空の系譜と考える見方もあることです(黛弘道編『蘇我氏と古代国家』古代を考えるシリーズ 吉川弘文館 1991年 pp.5-11)。 

蘇我稲目ー馬子ー蝦夷ー入鹿について、 さん、簡単に紹介してもらえますか。

  はい。まず、稲目さんですが536年に蘇我一門ではじめて大臣となったようです。欽明天皇の時代(540年~)になると、天皇からの信任をえて、二人の娘さん、堅塩媛さんと小姉君さんが天皇のお妃になります。堅塩媛さんは7男6女を産んで、そのうち大兄皇子(用明天皇)と炊屋姫(推古天皇)がその後即位します。小姉君さんも4男1女に恵まれ、そのうち泊瀬部皇子(崇峻天皇)が即位しています。堅塩媛さん、小姉君さんの子宝、すごいですね!

  あのう、歴史的人物なので「さん」づけでなくていいですよ。どうぞ続けてください。

  次は、馬子さんです。お父さんは稲目さんですから、エーと堅塩媛さんがお姉さんで、小姉君さんが妹さん。天皇の后に両脇を支えられているような方ですね。奥様は、物部守屋の妹さんで、お子さんが、善徳さん、倉麻呂さん、蝦夷さんで、入鹿さんや山田石川麻呂さんは孫になるのかな。 娘さんの河上娘さんは崇峻天皇に嫁ぎ、法提郎女さんは田村皇子に嫁ぎ、刀自古郎女さん、この人有名ですね!だって聖徳太子の奥さんですよね。こんなにすごい家系ですから、敏達天皇、用明天皇、崇峻天皇、推古天皇の4代に仕え蘇我氏の全盛時代を築いたとあります。

  蘇我氏と渡来人の関係についてということだと、588年に娘の善信尼らを百済へ留学させたことがまず注目されます。馬子は崇峻天皇を592年に暗殺しますが、その手を下したのが東漢駒です。今風だと子飼いの仕掛人のようなものでしょうか。その東漢駒も崇峻天皇后で馬子の娘、河上娘の喪を汚したとして馬子に殺されます。死人に口なしです。
 その後、欽明天皇の皇女で、堅塩媛の娘である炊屋姫を即位させ、初の女帝である推古天皇とします。馬子にとっては母方の姪御ですね。


  (負けじとばかりに)次の蝦夷さんですが・・・

  ご苦労さまでした。さん、もうここでいいです。かつてこのあたりは議論をしましたね。※1

  でも、ここから仏像や止利派の話になるのでしょう・・・

  それも一応、前にまとめましたね。むしろ、いままで出てこなかったのですが、馬子の兄弟、境部摩理勢(さかいべ の まりせ)や、さんが冒頭指摘された後裔たる蘇我石川朝臣の動向をふくめて渡来人との関係が次の課題ではないですか?※2

  その通り!渡来人との関係では、ここからは蘇我氏の勢力分布図をよく見て、地理学や考古学からの成果が重要ですね。

  私ばっかり仲間はずれにして・・・(涙声)。これってコミハラですよう。

  そんなことはないです。ご機嫌、直してください。また、一緒に議論しましょう。 

※1 http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-70.html
※2 http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-308.html 【“渡来人の系譜 3  蘇我一族との関係”の続きを読む】

渡来人の系譜 2  百済・高句麗と「亡命準備」論

大阪市美術館1

百済は660年に新羅・唐連合軍によって滅ぼされる。さらに8年後には高句麗が滅亡する。新羅は676年に唐の勢力を駆逐して朝鮮半島を統一する。そうした情勢は日本(倭)にも刻々と報告されていたであろう(白村江の戦いは663年8月、ここで日本の百済救済軍は、新羅・唐連合水軍に敗れる)。

日本ではじめて造られた寺、法興寺の建立のスタートは588年である。日本における造寺のはじまりは、蘇我一族によって主導され、596年法興寺(→飛鳥寺、日本書紀)、607年法隆寺(法隆寺金堂薬師光背造像記)などが創建されたのは蘇我馬子、厩戸(うまやど)皇子(→聖徳太子)らの皇族・蘇我ファミリーの仏教振興への強いリーダーシップによる。
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-195.html

しかし、これは百済滅亡のわずかに約半世紀前である。さかのぼって、577年には造寺、造仏師が百済から渡来する。すなわち、建築と造形の専門家が来た。そして588年には瓦博士他がこれも百済から渡来する。推古天皇の即位が592年、聖徳太子が摂政となったのが593年。6世紀末迄は百済、新羅、高句麗など、朝鮮半島から大きな文化の移入があった。ここでは3つの点が気になる。

第1に、法興寺は天皇によって建立されたものではなく、蘇我氏のいわば氏寺である。
第2に、蘇我氏は百済系の豪族だが、法興寺の造寺にあたっては、百済からの技術者が決定的に大きな働きをしたであろう。
第3に、最近の発掘調査によれば、その伽藍配置は高句麗に淵源があり、法興寺はいわば、百済・高句麗様とでもいうべきものであったかも知れない。


重要なのは、百済・高句麗からの技能者集団ほかはなぜ、危ない海路を渡り辺境の地、日本(倭)の地を踏んだのかである。これは、今風で言えば「亡命準備」だったかも知れないと思う。百済・高句麗の権力者・ブレーン集団は、万一、朝鮮半島での新羅との戦いで敗れた場合の準備を考えていたのではないか。そして、百済・高句麗の人々にとっては、そのダウンサイドのシナリオ(悪夢)は現実となる。

それだけであれば、単純に朝鮮からの渡来人、帰化人(亡命者)が日本の文化をつくったことになる。だが、日本(倭)にも百済・高句麗一辺倒ではないバランス・オブ・パワーの戦略があった。聖徳太子(あるいは蘇我ファミリー)は、新羅とも付き合い、同時に中国大陸からの直輸入ルートの開拓に着手する。607年小野妹子を第二次遣隋使として派遣(翌年にも再派遣)、609年に小野妹子が帰還。610年3月には高句麗王、朝貢。10月には新羅、任那の使者入京、さらに611年8月に新羅、朝貢。614年6月犬上御田鍬を第4次遣隋使として派遣、翌年、犬上御田鍬帰朝。ここから遣隋使から遣唐使に続く永い歴史がはじまる。

http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-164.html
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/category13-1.html

百済・高句麗の人脈からみれば、日本(倭)は辺境の地ながら、同盟国でありラスト・リゾートであったかも知れない。そうした視点からも仏像をみていくことも必要だろう。

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