大和古仏探訪

京阪神を中心に内外の古仏についていろいろと書いてみたいと思います。

法隆寺宝物館と飛鳥白鳳彫刻

法隆寺宝物館

東京上野、国立博物館法隆寺宝物館には学生時代から何度となく足を運んでいる。広々とした前面の広場は充ち満ちる水を配した回廊となっており、宝物館自体は近代的な建物ながら、大胆で開放的な空間を演出し、ユニークかつ清々しい。

中にはいると、金銅仏 光背 押出仏が展示されている第2室のほか、灌頂幡(1階)、木・漆工、金工、絵画・書跡・染織など(2階)もあり日がな一日過ごしても飽きないほどの物量である。同館は名前のとおり、なんとも贅沢な歴史の「宝庫」であり、飛鳥白鳳彫刻への最良の道標である。

ここには、「1878(明治11)年に奈良・法隆寺から皇室に献納され、戦後国に移管された宝物300件あまりが収蔵・展示されている。これらの文化財は、正倉院宝物と双璧をなす古代美術のコレクションとして高い評価を受けているが、正倉院宝物が8世紀の作品が中心であるのに対して、それよりも一時代古い7世紀の宝物が数多く含まれていることが大きな特色」(同館案内)とされる。

法隆寺宝物館の仏像のもつ意味は、ここに飛鳥白鳳時代のいくつかのタイプの仏像群が一堂に会していることにある。


<目次>
1.止利仏師系 N145(分類番号)、N155、N165、N166

2.半跏思惟像 N156、N157、N160、N161、N162

3.朝鮮三国時代系 N143、N151、N158
【朝鮮の影響】N152、N189
【中国の影響】N146、N169、N173、N178、N185
【インド的仏像】N186、N187

4.摩耶夫人及び天人像 N191

5.木造仏 N193

6.山田殿像系、童子系、法隆寺系
【山田殿像系】N144、N148、N167、N177 
【童子形像系】N153、N168、N175、N176、N179、N188 
【法隆寺系】N163、N164、N172 
(関連掲載)N182、N183

7.その他
【他寺院仏との比較】N147、N154、N157、N180、N181
【拾遺集】N170、N174、N184、N190

(以下Nの解説部分は全て東博からの引用)
http://www.tnm.jp/modules/r_collection/index.php?controller=list_img&start=42&limit=&t=search&search%5Bname%5D=&search%5Bcreator%5D=&search%5Btype%5D=&search%5Bperiod%5D=&search%5Bcentury%5D=&search%5Bregion%5D=&search%5Bdesignation%5D=&id=0

1.止利仏師系

まず、もっとも有名な止利仏師系について。実は、ここでは止利派工房作品のいわばエッセンスをみることができるのである。

N145(分類番号)の如来坐像(銅製鍍金 像高30.8 飛鳥時代 7世紀 重文)をみてみよう。この坐像は、法隆寺・戊子年銘三尊像の中尊(628年)や法隆寺金堂釈迦三尊像(推古31年・623)の中尊とよく似ている。

N155の菩薩半跏像(飛鳥時代・7世紀 重文)は、法隆寺大宝蔵殿・菩薩立像が、そのまま観想にはいった姿といわれても、なるほどと首肯できるのではないだろうか。

また、N165、N166の両翼に広がった天衣(鳥≒とり≒止利の羽根、飛翔のイメージがある)は法隆寺救世観音に共通する。さらにN149の如来立像(飛鳥時代・7世紀 重文)のご尊顔は、止利派の不愛想な「仏頂面」(失礼!)と二重写しになる。

さて、止利仏師系は、当時にあって最有力の工房であったが、中国北魏から東魏時代(6世紀)の影響を色濃く受けているといわれる。上記は、飛鳥寺(元興寺)や法隆寺の諸仏と共通するが、N155は第二次世界大戦後の復興になるものだが、四天王寺の本尊のサンプルの一つともいえよう。

止利派工房の場合、小金銅仏はより大きな造仏にあたっての準備段階の試験作品(サンプル)といった位置づけがあったかもしれない。一般的な近親者への追善供養といった持念仏は個人ユースだが、国家的な事業を念頭に、そのミニチュアをつくるという目的からは、発注者などへの配慮から、全体の出来栄えのよさ(精緻さ)も必要となろう。そうした観点からみると、小金銅仏と関連寺院の現存作との近似も興味深いだろう。


n145.jpg
如来坐像 1躯 銅製鍍金 像高30.8 飛鳥時代 7世紀 重文 N145
【東博の解説】止利仏師の作として知られる法隆寺金堂釈迦三尊像(推古31年・623)の中尊とよく似た形の像である。しかし,その中尊にくらべて顔の表情はずっと穏やかで,頭髪や懸裳のデザインも異なっており,当時,同グループでも作風に一定の幅があったことを示している。

N-145:推古31年(623)に止利仏師によって造られた法隆寺金釈迦尊像の中尊とよく似た形を示す。また、大衣の末端を正面では左前膞に懸けるのに対し、背面では左肩に懸けるように表わす矛盾した着衣の処理までも共通するが、金堂像と比べると表情がより穏やかとなり、渦巻き状の頭髪や懸裳の衣文などには著しい意匠化がみられる。

法隆寺・戊子年銘三尊像~中尊
(参考)法隆寺・戊子年銘三尊像~中尊

法隆寺・戊子年銘三尊像
(参考)法隆寺・戊子年銘三尊像

法隆寺釈迦三尊N1
(参考)法隆寺金堂釈迦三尊像
◆法隆寺金堂釈迦三尊像
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-97.html

【止利仏師系】

n155.jpg
如来半跏像 1躯 銅製鋳造鍍金 像高38.0 飛鳥時代・7世紀 重文 N-155

N-155:止利派の菩薩半跏像で、目を杏仁形とせず仰月形にややつり上げて表わす他は、法隆寺の菩薩立像とかなり近い造形を示している。また、本像は通例の半跏思惟像とは異なり、右手を頬につけず掌を正面に向けて立てているが、この形は『別尊雑記』にみえる四天王寺本尊救世観音像の図像と一致するものである。

法隆寺大宝蔵殿・菩薩立像
(参考)法隆寺大宝蔵殿・菩薩立像

法隆寺金堂三尊脇侍
(参考)法隆寺金堂三尊脇侍像

四天王寺・菩薩半跏像
(参考)四天王寺・菩薩半跏像
(これは四天王寺に伝わる仏さまだが、上記のとおり、『別尊雑記』にみえる四天王寺本尊救世観音像の図像は、N155である)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

n165.jpg
観音菩薩立像 1躯 銅製鋳造鍍金 像高22.4 飛鳥時代・7世紀 重文 N-165
【東博解説】台脚の天板部に銘文があり、「辛亥年七月十日に崩去した笠評君のため、その日、遺児と伯父の二人が造像を発願した」ことが知られる。「辛亥年」については、銘文中の「評」が大化(645〜650)から大宝(701〜704)にかけて使用された用字であることが解明されており、白雉2年(651)に比定できる。また、銘文の内容から、本像は笠評君の死亡当日に造像が発願されたもので、さらにその日のうちに銘記までなされるという興味深い状況もうかがえる。

N-165:天衣に鰭状の出を表わし、全体の形を左右対称にまとめることなどは止利派の流れを汲むものといえるが、眉や目を面と面の段差で表わすなごやかな顔立ち、先端を束ね、蕨手をつくらない垂髪、鰭状の出の各先端が後方に反りをみせる天衣など、止利派の造形から一歩ぬけ出した感覚もうかがえる。また、本像は、宝冠に化仏が表わされる観音像として、年紀の明らかなわが国最古の作例でもある。

n166.jpg
N-166:「辛亥年」の銘をもつN-165とほぼ同一の形式を示す像であるが、垂髪を蕨手状に表わし、鰭状の天衣が正面に向けて真直ぐに垂下し先端に反りをつけないなど、全体にN-165よりもむしろ古様な面もうかがえる。しかし、その一方で、丸く張った頬や愛らしい顔立ちには7世紀後半の童子形像と通じる面もあり、本像は、7世紀前半から後半にかけてのいわば過渡期に位置づけられるとも思われる。

0001
(参考)法隆寺救世観音立像
◆法隆寺・小考2:救世観音
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-91.html
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
N150
N-149:体部に比べて頭や手を大きく表わした止利派の如来立像である。大衣の末端を正面では左前膞に懸けるのに対し、背面では左肩に懸けるように処理するのも止利派の如来像に共通するものといえる。また、手指の関節を明瞭に刻線で表わし、爪を指端からのぞかせる表現も止利派の諸像にみられるものである。

N150

N-150:止利派の如来立像に近い形式を示すが、通肩にまとう大衣の末端を左肩から腕に懸ける着衣はなく、頭や手の大きさも特に強調されない。また、衣文の処理にも厳格な左右対称の図式性から多少離れた趣があるなど、止利派の諸像と比べて全体に表現がやわらいでおり、別系統の作例とも思われる。

****************

2.半跏思惟像

次に人気の高い半跏思惟像をみてみよう。N156の菩薩半跏像(銅製鍍金 像高38.8 重文)はその銘文から推古14年(606)または天智5年(666)の作とされる。飛鳥時代または奈良時代の作品であるが、朝鮮三国時代の仏像との関連が濃いといわれる。

菩薩半跏像では、N157、N160(下記7.【他寺院仏との比較】に掲載)およびN162は、飛鳥時代・7世紀の作、N161は、やや時代が下って、飛鳥時代・7~8世紀の作とされるが、このように多くの作品が残されているのは、当時、この形の半跏思惟像を好む風潮があり、それは弥勒菩薩信仰とも結びつき、また、聖徳太子との関係も論じられるところである。

こうした仏像をみていると、多くの観察者は京都・広隆寺の半跏思惟像を連想するだろう。表情こそ異なれ、ここには朝鮮半島との多くの仏さまとの類似性がある。止利仏師系が、さきにみたとおり、中国北魏から東魏時代(6世紀)の影響を色濃く受けているとすれば、この半跏思惟像のグループは別の流れ、朝鮮三国時代の仏像との近接性があるということである。

秦一族の名前が浮かぶ。言わずもがなだが、広隆寺弥勒菩薩はこの一族の持念仏である。作像が日本かどうかという問題はここでは措くとして、広隆寺には「宝冠弥勒」「宝髻(ほうけい)弥勒」と通称する2体の弥勒菩薩半跏像があり、ともに国宝に指定されている。宝冠弥勒像は日本の古代の仏像としては他に例のないアカマツ材で、作風には朝鮮半島の新羅風が強いものといわれる。一方の宝髻弥勒像は飛鳥時代の木彫像で一般に使われるクスノキ材である。

日本書記によれば、推古天皇11年(603年)、秦河勝が聖徳太子から仏像を賜ったことが記されている。『広隆寺来由記』(明応8年・1499年成立)には推古天皇24年(616年)、坐高二尺の金銅救世観音像が新羅からもたらされ、当寺に納められたという記録がある。また、日本書記には、推古天皇31年(623年、岩崎本では推古天皇30年とする)、新羅と任那の使いが来日し、将来した仏像を葛野秦寺(かどののはたでら)に安置したという記事があり、これらの仏像が上記2体の木造弥勒菩薩半跏像のいずれかに該当するとする説がある。いずれにしても、このグループに近い作例は金銅仏で弥勒菩薩半跏像として残っており、法隆寺宝物館にも収蔵されているのである。

半跏思惟像については、その後、徐々に作例が減っていく。その要因は、いくつか考えられる。もともと朝鮮半島で多くの普及をみていた半跏思惟像だが、日本において、遣隋使、遣唐使というダイレクトに中国と結びつくルートの設定が行われたことも大きな要素だろう。以降、請来された多くの仏典によって一気に仏教思想、仏教哲学、仏教文化の裾野はひろくなる。

また、それとの関連において、より現世利益的な仏さまに関心がよせられたこともあるかもしれない。釈迦如来、薬師如来、阿弥陀如来は、生老病死の人生航路において、よく生き(釈迦如来)、老病にあたってケアし(薬師如来)、そして来迎への導きをしてくださる(阿弥陀如来)。こうした至れり尽くせりの仏さまが、後世、次第に民心をとらえていく。
半跏思惟像は考える仏、弥勒菩薩と比定される場合が多いが、その弥勒「菩薩」が弥勒「如来」になったとしても、功徳は並みいる如来にくらべて、やや地味であったかもしれない。

さらに、作像形態としては、半跏思惟像よりも造像しやすい寸胴型の立像が多くなり、弥勒菩薩は観音に次第におきかわっていく。

さて、現代人はどうか。あらゆる思想、哲学、文化が相対化されるなかにあって、人はいま一度、真摯に、さまざまなことに思いを巡らせなければならない。考える仏さま、半跏思惟像に惹かれるのは、そこに自身の投影(あるいは幻影)を見ているからではないか。


n156.jpg

菩薩座像・飛鳥時代

菩薩半跏像 1躯 銅製鍍金 像高38.8 飛鳥又は奈良時代 推古14年(606)または天智5年(666) 重文 N156
【東博の解説】台座框の刻銘から「丙寅年に高屋大夫が亡き韓夫人のために発願造立した」ことがわかる。「丙寅年」は推古14年(606)と天智5年(666)の両説がある。また「韓夫人」銘やその痩身の体躯,腰から垂れる帯飾りなど,総じて朝鮮三国時代の仏像との関連が濃い

N-156:台座下框に刻銘があり、「丙寅年に高屋大夫が死別した夫人のために発願造立した」ことが知られる。「丙寅年」の年代比定をめぐっては推古14年(606)と天智5年(666)の2説があり定説をみていない。前説では、痩身性の強調された体軀や図式的に処理された衣文などの表現に古様さを認め、装身具も全体に簡素であることから同じ「丙寅年」の銘をもち天智5年に比定される野中寺弥勒菩薩半跏像と同時代のものとは考えられないとする。これに対し、後説は、3面頭飾や胸飾りの形式に白鳳彫刻で通例となる新しい要素がみられるとする。本像における古さと新しさの究明が1つの論点となるように思われるが、その位置づけによっては飛鳥・白鳳彫刻の様式観を大きく変えてしまう可能性もあり、本像は彫刻史の上でも見逃せない作例の1つといえる。痩身の中にも体軀の肉取りには柔軟性が認められ、鋳肌を活かした頭髪や腰から台座後面を覆うように広がる裙の表現にはそれぞれのもつ質感が見事に表わされており、その造形感覚には古代金銅仏の中でもとりわけ優れたものがある。

広隆寺(韓国比較)
(参考)広隆寺と韓国の半跏像比較
◆広隆寺&中宮寺 アンソロジー
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-226.html

n153.jpg
菩薩半跏像  1躯 銅造鋳造鍍金 像高20.4 朝鮮三国時代・6~7世紀 重文 N-158

N-158:上半身は装身具を全くつけない完全な裸形で、胴を細く絞り、両手を極端に細長く表現するなど、異色の作風を示す。その顔立ちもわが国の像とは異なった雰囲気があり、痩身でやや扁平な体軀表現は韓国・国立中央博物館の菩薩半跏像に通ずるものがあるなど、朝鮮からの請来像である可能性が強い。
本体・台座を含むほぼ一鋳で造り、腰部下辺まで内部を中空とし、それより上の本体上半部はムクとする。腰以下の銅厚はほぼ均一で、全体に薄手であるが、本体・台座ともに鬆が多い。右手第1指から付け根にかけては別製で造り、鋲留している。宝冠の裏面から後頭部の上半を除くほぼ全面に鍍金が残り、彩色は、正面の地髪部や垂髪に墨彩、眉、黒目、口ひげ、顎ひげに墨描きが認められる。
(注:本来は、下記の朝鮮三国時代系に分類すべきだが、半跏像という形態からここに掲げる)

n159.jpg
N-159:目が二重瞼の童顔の像で、背筋を表わし、柔軟な肉付けをした体軀や裙の襞などには自然なものがみうけられる。また、裙の縁取りに半截の九曜文をあしらい、榻座には山岳文を表わすなど装飾性が豊かで、特殊タガネや魚々子タガネを駆使した彫技も非常にこまやかである。台座反花の蓮弁の形が子弁を扁平に表わすなど再建期法隆寺の瓦に類似しており、本像は、その顔立ちとともにいわゆる童子形像の系統に近い作風を示している。

N-160:榻座に山岳文を刻むなど、N-159と同一の形式を示している。特殊タガネや魚々子タガネによる施文も同様にみられるが、N-159のように周倒なものではなく、裙の襞や山岳文には写しくずれにも似た造形上の簡略化、形式化が目立っている。なお、榻座部と反花の間に蓮肉部(側面に蕊を表わす)を設ける形式は兵庫・個人蔵の菩薩半跏像と共通するが、N-159にはみられないものである。

N-161:踏み下げる左脚が右脚に対して非常に短小で、結跏する右脚が左脚の下から出たり、裙の上端をかなり大きく四方に折り返すなど、その作風は極めて異色である。しかし、本像には7世紀後半の作例に通有の自由で大らかな造形が認められることも確かであり、一応わが国の白鳳彫刻の範疇に含まれる作例とみてもよいかと思われる。

N-162:眉が大きくつり上がり、切れ長の目をした特異な顔立ちをみせる像である。右脚の脛を強く反らせ膝の立ち上がりを大きく表わしたり、台座の両側面から背面にかけて、その上面から垂下する裙の間から1つおきに抑蓮をのぞかせる点などには独特の感覚がうかがわれる。また、踏蓮花座の蓮弁に棘状の毛彫りが施されることも留意すべき点である。

****************

3.朝鮮三国時代系

長身にして頭部は小さく頭身比率が高い、すっくと立ち姿のよい仏さま。そうした仏さまのサンプルも法隆寺宝物館に残されている。

N151の如来立像(銅製鍍金 像高33.4 朝鮮三国時代 6-7世紀 重文)はその一つである。その立ち姿からは、法隆寺の百済観音がにわかに連想される。


一方、N143の如来および両脇侍像やN158の菩薩半跏像も、同じく三国(朝鮮)時代・6~7世紀の作とされている。このグループは一様には語れず、形態でみても作風でもみても、いろいろなヴァリエーションがあるようにみえる。
 
三国(朝鮮)時代と一口に言ってもその系譜は実に複雑である。<1>朝鮮半島南部、<2>北部から中国東北部についても違いがある。

<1>は、歴史的には加耶(任那)、新羅、百済にわかれる。562年に任那が滅びて新羅になり、さらに660年に百済も新羅に統一されるが、このように、時代時代によって百済系と新羅系によってももちろん作風は異なる。

<2>の高句麗もかつては楽浪郡、扶余にわかれており、313年に楽浪郡が滅び、494年に扶余も高句麗に統合され、この高句麗時代が668年までつづく。
よって、飛鳥時代には、新羅、百済、高句麗の三国が鼎立していたことになる。

加えて、中国も隋(581-618年)以前には国が多くに分立されていた。たとえば北魏(386-535年)は、その後、東魏→北斉、西魏→北周にかわって隋に統一されていくが、ここでも作風は多彩、多様である。

三国(朝鮮)時代の3体の作風が異なるのは、以上からみても驚くにはあたらないだろう。3体(N151、N143およびN158)の仏さまが、誰のために、どこでどのようにつくられかによって、その作風はとうぜんに異なる。3体が舶載仏であり、その年代が6-7世紀と見なされるということがここでの共通項ということであろう。


n143.jpg
如来及両脇侍立像 3躯 銅造鋳造鍍金 像高(中尊)28.1 (左脇侍)20.9 (右脇侍)20.6
朝鮮三国時代・6~7世紀 重文 N-143

n151.jpg

如来立像・飛鳥時代

如来立像 1躯 銅製鍍金 像高33.4 朝鮮三国時代 6-7世紀 重文 N151
【東博の解説】裳裾を左右にピンと張り,口もとにほんのり笑みをうかべる八頭身の像で,側面観もスマートな「く」の字形をしめす。このような長身像の系譜は中国南北朝6世紀の造像に発するが,本像の様式はその南朝の影響下に展開した朝鮮三国時代の百済のそれを想わせる。

0003
(参考)法隆寺百済観音像

法隆寺金堂多聞天像
(参考)法隆寺金堂多聞天像

飛鳥白鳳彫刻を考えるにあたって、上記では一応、東博の分類(『法隆寺宝物館』東京国立博物館 1999年 pp.24-25)にしたがって、「朝鮮三国時代系」という言い方をとったが、前後の時代の朝鮮系もあれば、中国系もインド系もある。しかし、そもそも朝鮮の仏像は中国の影響をうけ、中国の仏像はさらにさかのぼってインドの影響もうけている。このように考えると、厳密に国別の影響という見方自体に無理があるように思う。そして、それ自体が仏像のもつ多彩で多様な魅力の源泉であろうが、下記はこれも東博のコメントにそってあくまでも便宜的に整理してみた。

【朝鮮の影響】

n152.jpg
N-152:左胸から右肩にかけて襷状に廻る裂をのぞかせ、右肩に肘まで覆う衣端を表わし、大衣の背面に2条の吊り紐をつけるなど、他にはあまり例のない服制を示している。右腕を垂下し掌に宝珠を載せる形もわが国では珍しいが、古新羅末の如来像(一般に薬師といわれている)にいくつかの類例が認められる

N-189:裙の裾をたくし上げ、足首をのぞかせる特色ある着衣法を示す像である。同種の着衣形式が、開元7年(719)の銘をもつ統一新羅初期の石造弥勒菩薩立像(甘山寺址出土)にもみられ、ともに唐代におけるインド風尊重の傾向を反映して造立されたものと思われる

【中国の影響】

N-146:右肩を露わにする偏祖右肩衣の像で、胸部や腹部には豊かな肉づけがみられる。一見素朴な作風を示すが、全体に大らかな気分をもち、その着衣形式や平行線を基調とする衣文表現、膝の張りに対して胴が長めに表わされる体形など、中国の隋から初唐にかけての影響が認められる

n178.jpg
N-178:胴を絞り腰をわずかにひねってのびやかに立つ像で、裙の柔らかな質感や天衣の流麗な動きなどにも瑞々しい造形感覚を示している。このような表現は、両耳に耳飾りをつけている点も含めて、隋から初唐にかけての様式的な影響が濃いといえる。また、台座反花の蓮弁の形が、N-181と同様に、薬師寺金堂薬師三尊の脇侍像のものと一脈通じる点も留意される。

N-173:右手を上げて水瓶を捧げ持ち、左手で天衣をつまみ腰をひねって立つ軽快な動きをみせる像で、笑みを浮かべる表情にも初々しい気分がある。片手を上げて持物を捧げる形式の菩薩像は、中国では隋以降の像に認められるものである。

n169.jpg
N-169:重々しく垂れる瓔珞やその表情には、中国の隋から初唐にかけての仏像の影響も一応認められる。

n185-2.jpg
N-185:向って右の像の宝冠には化仏を、左の像には水瓶を表わしており、それぞれ観音、勢至であることが知られ、本来阿弥陀三尊の両脇侍として造立されたと推定できる。腰をひねって立つ姿勢や像全体にみなぎる溌刺とした気分には初唐様式の強い影響がうかがえ、蓮花座の蓮茎前面に獅子や花形をあしらう意匠にも斬新なものがみられる。

【インド的仏像】

n186.jpg
N-186:ターバンのように束ねた髪、正面にだけつける髪留め風の頭飾、裾をたくし上げる裙などに、インド的な風俗を思わせる像である。その顔立ちや姿勢、天衣や裙のつけ方、先端に稜をたてる台座蓮弁の形などは、法隆寺に伝来した押出仏中、阿弥陀三尊及び比丘形像(例えばN-198)の脇侍菩薩像と共通するものが認められる。

N-187:N-186と同様の作風をみせる像であるが、本像のほうがやや大ぶりで、左掌に未敷蓮花(あるいは宝珠か)をのせ、右足では裙裾をさらに膝まで上げる点など、瓔珞や台脚部の形式等も含めて若干の違いは認められる。ともあれ、この2像の顔立ちや裙の形式等には独特の異国的な気分があり、それは、中国の初唐期に流行してインド・グプダ様式の反映とみることもできるだろう

****************

4.摩耶夫人及び天人像

ユニークな群像彫刻として、当館で皆がその前でたちどまるのが、N191の摩耶夫人及び天人像(全4躯 銅製鍍金 摩耶夫人 像高16.5 天人像 像高11.5-13.0 飛鳥時代 7世紀 重文)である。その物語はおもしろく、風をはらんだ天人の衣は動態表現としてもすぐれている。 

摩耶夫人

摩耶夫人及び天人像 4躯 銅製鍍金 摩耶夫人 像高16.5 天人像 像高11.5-13.0 飛鳥時代 7世紀 重文 N191
【東博の解説】ルンビニー苑にて摩耶夫人が無憂樹の花枝をた折ろうとするや釈迦が腋下から誕生したとの仏伝中の一場面を造形化したもので,この種の立体的な群像としては希有の作例。面貌や骨太い体躯には飛鳥の古様がうかがえ,衣文の表現も独特のうねりと鋭さが認められる。なお本一具は,承暦2年(1078)に橘寺から法隆寺に移された小金銅仏群のひとつである可能性が高い。

N-191:釈迦の母摩耶夫人は故郷へ帰る途中に侍者とともに立ち寄ったルンビニー園で、花咲く無憂樹の枝を手折ろうとした。まさにその時、夫人の右腋下から釈迦が誕生する。この劇的な場面を立体彫刻であらわした、めずらしい群像である。法隆寺の『金堂仏像等目録』に「釈迦誕生像一具之中」としてあげられる「摩耶夫人一躰」「所従綵女等三躰」にあたるものとみられる。摩耶夫人は蠟型(ろうがた)の1鋳で、像底から腰辺までを空洞にする。天人1・2は蠟型一鋳の無垢(むく)で、銅板製の天衣(てんね)を鋲で留めている。以上の3軀は飛鳥時代の製作とみられ、面長の顔つきや抽象的な衣文などに、止利派の金銅仏と一脈通ずるものがある。天人3は頭部と両臂先を体部と別鋳にして、蟻柄(ありほぞ)状に接合するもので、表面に鍍金が認められない。天人1にならった鎌倉時代ごろの補作である。

****************

5.木造仏

N193の如来立像(木造乾漆 像高52.6 飛鳥時代 7世紀 重文)には従来から注目している。献納宝物の金銅仏のなかにあって唯一の木造であり、材質はクスノキで、白鳳期の作といわれる木製の後背やそれを支える鉄製の支柱も当初からのものと目されている。同館のなかの資料室で調べても、あまりこの像のプロフィールの詳細な情報はない。横から見るとその像は百済観音によく似ていると思うところがある。

百済観音もN193同様、クスノキ製だが、この時代の多くは同様でありこれはあまり参考にはならない。体躯のバランスは大違いで長身痩躯の百済観音に対してN193は小像ながら中肉中背でやや下半身に重心がかかった感じである。服装、衣紋も異なる。しかし目元および横顔のラインは実に良く似ている。また体躯の線のカーヴも横から見ると結構似ているように観察できる。後背は、百済観音とN193では、支柱の材質こそ異なれ、これも同種の形式であり、横のラインの近似の印象の一因になっていよう。
百済観音に特徴的な指先は、N193は後捕でありこれは比較のしようがないが、作造時期はほぼ同じ時代であり、同じ仏所、工房の作であろうか。

なお、木彫の古い仏さまとして、コレクション外だが、C217の菩薩立像(木造・金箔押し・彩色 像高93.7 飛鳥時代)も大変興味深い作品である。


N193
如来立像 飛鳥時代・7世紀 木造漆箔 N193
【東博の解説】法隆寺献納宝物のなかでただ1つの木彫像。頭から台座まで通じて1本のクスノキから造られている。この像は7世紀後半の作で、木製の光背やそれを取り付けるための鉄製の支柱も当初のものです。

東博 菩薩立像(飛鳥時代)
(参考)菩薩立像 1躯 木造・金箔押し・彩色 像高93.7 飛鳥時代 C217
【東博の解説】飛鳥時代前期の木彫の稀少な作例の一つです。頭体幹部をクスノキの一材から彫り出しています。『日本書紀』には用明2年(587)に坂田寺の木の丈六仏を造った記事があり,仏像製作の初期から木彫が行なわれたことが知られます。

****************

6.山田殿像系、童子系、法隆寺系

時代が下ると、さらに様式のヴァリエーションは増えてくる。以下では便宜的に3つをかかげたが、ここで注目したいのは、「様式」というものの捉えかたについてである。東博の金銅仏ほか48体仏は、はやくから多くの専門家による膨大な研究が行われてきた。

その理由はよくわかる。研究対象としては、素材や大きさの似た、時代的にも6~8世紀(中心は7世紀)に集中した格好な「標本」が50以上も、いながらにしてあるのだから、研究者であれば、誰しも食指が動こう。<注1>

専門家による本仏像研究は、長きにわたって、海外比較、鋳造技術、個別の仏像の微細な特色にいたるまで積み上げられてきており、拙稿でもその成果を十分に使わせていただいている。さて、そこから導かれるメッセージとはなにか。

それは、様式の分類学と「純化」論への根源的な疑問である。あえていえば、様式は「純化」ではなく「混在」化されてきたといえるのではないか。もちろん、個々の特色の抽出は可能だが、そこには「進歩」も「退潮」もなく、大勢を観察すれば、「あるがままに混然としてある」ということではないかということである。
すべてが優劣の関係ではなく、並列的にあるといった見方ともいえる。これは技巧における優劣の判定を意味しない。また、美的な意味で美醜の基準を提供するものでもない。感性の領域かも知れないが、後世のほうが優れているともいえず、また一定のグループが他に優位だともいえないとも考える。<注2>

これ以降の時代の仏像についてもいえるが、仏師は施主(発願者)の意向にそって造仏する。自身の工房の特色の反映や意図せざる造像の「クセ」などはあるかもしれないが、もともと「様式の純化」などという発想はない一方、良きものは真似をして取り込み、そうでないものは削ぎ落していくという選択は当然あるだろう。飛鳥白鳳の金銅仏の面白さは、その多様性にあり、かつたかだか1世紀のあいだに純然たる様式の変化などあろうはずもないと考えるのが常識的ではないだろうか。現存する仏像の特色をグループ別に抽出することはできるが、様式の「純化」論は、後世の機械的な分類学の一人歩きであってはならないだろう。<注3>

実は、東京国立博物館の所蔵の小金銅仏を分析する「プロ」の客観的、かつ誠実な文章にそれは色濃く反映されているようにも思う。しかし、プロはある意味、不自由な義務も負っており、研究結果として、「あるがままに混然としてある」などといったら、仕事をしていないと怒られるのではとの強迫観念もあるかも知れない。
このことが、個人的にはとても興味深いし、そこを出発点として次の仮説(というよりも妄想)をいま書いてみたいと思っているのだが、それは稿をあらためてとしたい。


<注>
(1) たとえば、『東京国立博物館法隆寺宝物特別調査概報Ⅰ~Ⅹ』(白本)などを参照。30名以上の専門家による各作品の分析(品質、形状、技法、保存状況、法量)にくわえて、東京国立文化財研究所 平井良光「金銅仏の蛍光X線分析法による材質調査」などが掲載されている。1979年から7年間にわたっての継続調査であり、厖大かつ詳細な情報(報告書Xは1990年)の公刊である。特に、形状分析は微細にわたっており、そのエッセンス部分が東博HPでの記載になっていることがわかる。

(2) たとえば、東京国立博物館特別展「金銅仏―中国・朝鮮・日本―」図録(1987年)を参照。この国際比較展の作品の集積は素晴らしいが、丹念に作品図録をみていくと、そこからうける印象は「めくるめく」ような多様性であり、全体からなにかを抽出することの難しさ(裏をかえせば、豊富なボキャブラリーの面白さ)を感じる。拙稿を書くにあたっては、ハンディな東京国立博物館『法隆寺宝物館』1999年を参考としているが、両者をくらべると、金銅仏研究において、48体仏は全体の沃野の一部であることを改めて実感する。

(3) 浜田青陵『百済観音』(東洋文庫149 平凡社 1969年)を参照。戦前の仏像研究は、視野が大きく、国際比較(同時代の西欧における日本の仏像研究も多く紹介)の視点も広く瞠目させられる。たとえば、「中宮寺如意輪観音像の様式」では、その後、飛鳥白鳳仏研究でいまもよく使われる正面観賞性や側面観賞性という言葉の意味が実によくわかる。その一方、この言葉が戦後の仏像研究の「様式論」のなかで、あまりに安易に使われてきたのではないかとの疑問も持つ。

(参考)正面性 Frontality 「人体表現において、対象が観る者に対し正面を向いているという特徴を表わす概念。デンマークの学者、ユリウス・ランゲが1899年の著書『造形芸術における人間の形態』において、それ以前からも使用されてきたこの語に明瞭な定義を与えた。ランゲは紀元前500年以前のエジプト美術やギリシャ美術の彫像について、それらが頭の頂上から鼻、背柱、胸骨、臍、陰部を貫く正中線を持つこと、この正中線を軸に身体が左右相称的に展開すること、またこのときの身体の両側面がいかなる捻転も屈折も受けずに不変のまま留まることを考察し、これを「正面性の法則(Gesetzes der Frontalität)」と名付けた。正面性による姿態は運動の自然な表出を許さず、厳格な幾何学的規則に制限される。ランゲはこうした単純な規則への服従は、原始人類の生活における倫理や慣習と相応するものと説明した。ただし、ランゲの説は人間の横臥像や動物像といった逸脱例を除外しており、この法則についてはさまざまな反論や解釈が提示されている。例えば古典考古学者のE・レーヴィは、古代美術の彫像が記憶像の概念的再現に基づくとし、こうした原初的な創造活動が短縮法や背面・側面観の獲得につれ次第に発展していく過程を進化論的見地から論じた。また、古代ローマのレリーフやビザンティン美術、イコン画などに見られるように、正面性が権威や威厳の表現と結びつく場合もある。なお、ランゲの論文の抄訳は吉川逸治による翻訳で『ロマネスク美術を索めて』(1979)に収録されている。(著者: 中島水緒)
http://artscape.jp/artword/index.php/%E6%AD%A3%E9%9D%A2%E6%80%A7

【山田殿像系】

n144.jpg
N-144:左右脇侍の宝冠にそれぞれ観音を示す化仏と勢至を示す水瓶が表わされ、阿弥陀三尊像であることが確かなわが国最古の遺例である。中尊の倚坐形式や両脇時の三面頭飾、瓔珞の懸け方などに中国の北斉から隋にかけての仏像の様式を示すが、像全体のもつ大らかで瑞々しい気分は白鳳彫刻の本領ともいえよう。台座背面に刻まれた「山田殿像」の銘については、その「山田」という文字から、大化の改新で活躍した蘇我倉山田石川麻呂や彼が創建した山田寺との関連も想起されるが、その詳細については不明である。

n167.jpg
N-167:瓔珞の形や天衣のつけ方が「山田殿像」銘のN-144の両脇侍像と通ずるものがあり、魚々子タガネや特殊で随所に施文する点も同様である。

N-177:全体に大ぶりの像で、張りのある頬やその顔立ちにN-144「山田殿像」銘阿弥陀三尊像の中尊に近い感覚がみられ、体部正面に垂下する瓔珞の構成も同三尊像の脇侍のものに通じる。

n148.jpg
N-148:丸く張った頬やその表情に、法隆寺夢違観音像などと通じるものがあり、また、豊かな肉づけをもつ体部や衣の自然な表現に初唐様式の影響がうかがえる。宣字座の台脚部に残る枘や枘穴の位置から、本来、N-144の「山田殿像」銘阿弥陀三尊像と似た三尊形式の像であったことがわかる。

深大寺・釈迦如来倚像
(参考)深大寺・釈迦如来倚像


【童子形像系】

N153
N-153:体軀にたいして頭部や手足を大きく表わす愛らしい顔立ちの如来像である。台座の懸布には柔らかな質感が表わされ、また、頭髪部には魚々子文、衣の縁や衣文の稜には複連点文をそれぞれ各種のタガネで施すなど、その刻技もこまやかである。このような童子形像は7世紀後半に様々なヴァリエーションを示しながら展開し、この時期の彫刻に重要な位置を占めている。

海神神社の国指定重要文化財「銅造如来立像」
(参考)銅造如来立像 海神神社 重文

N-168:童子形像の一例で、全体に大ぶりの装飾が施されている。48体仏中には童子形像の代表例が他に4例あり、これらは法隆寺金堂天蓋の飛天、同寺の「六観音」と呼ばれる諸像、奈良・金竜寺の木造聖観音像等と同一系統といえる。特に、これら諸像のうち菩薩像の台座に表わされる蓮弁の形(複弁で子弁が扁平である)が再建期法隆寺の瓦の蓮花文と類似しており、童子形像と同期の法隆寺との深い関係が想定される。

N-175:童顔、童身の菩薩像である。その顔立ちは、N-179に代表される諸像とは作風を異にするが、7世紀後半に展開した童子形像の1つヴァリエーションとしてとらえられる像である。

観音菩薩立像・奈良時代

観音菩薩立像 1躯 銅製鍍金 像高29.3 飛鳥時代 7世紀 重文 N176 
【東博の解説】三面頭飾の正面に化仏をあらわし,右手に小珠をもつ観音像。体にくらべて手足が大きく,二重瞼の表情もあどけない童子形を示す。また台座の子弁が平らな複弁の形や,特殊タガネによる魚々子文と複連点文の多用は,法隆寺再建期の造像に特徴的な傾向といえる。

N-176:魚々子タガネや特殊タガネを駆使した入念で多彩な施文など、童子形像の中ではかなり繊細な表現をみせる像であり、胴をやや細く絞り下肢を長めに表わす体軀にも微妙な抑揚がみられる。また、蓮肉上面には蓮子が表わされており、N-179などに比べても、よりこまやかな感覚を示している。

(参考)近江路の神と仏3  三井記念美術館 報恩寺観世音菩薩立像
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-340.html

N-179:あどけない目鼻立ち、頭部や手足に対して短小な体軀など、本像は童子形像の代表例といえるものである。童子形像の源流は、朝鮮の新羅、さらには中国の斉周から隋の彫刻に求められるといわれるが、本像のように眉と目が大きく離れた特色ある顔立ちは中国や朝鮮の作例にも見出し難く、日本独自の作風的な展開があったこともうかがえる。

n188.jpg
N-188:N-179とほぼ同大で同一の形式を示す像である。ただし、正面の頭飾を花形とし、背面に明確な背筋を表わさないなど、若干の相違点は認められる。本像とN-153、N-179が本来三尊一具であったとみる説もあるが、それぞれ作風に微妙な違いがあり、また、中尊となるべきN-153の台座がN-179とくらべてやや簡素ともみなされることなど、なお検討すべき問題は多いと思われる。

金龍寺・菩薩立像
(参考)金龍寺・菩薩立像

香薬師如来像
(参考)香薬師如来像

【法隆寺系】
n163.jpg
N-163:本像と類似する作風の像としては、N-164、N-172、法隆寺観音菩薩立像(伝金堂阿弥陀如来脇侍)などがあり、いずれも像内に太い鉄心を残す技法も共通する。また、法隆寺伝来の押出仏中にも顔立ちのよく似た菩薩像が見出され(例えばN-198、N-206など)、これらは、法隆寺またはその周辺で活躍した一連の仏師たちによって制作されたものと考えられる。

N-164:腹帯の有無や衣文構成に多少異なる点はあるが、N-163とほぼ同大同形の像で、鋳造技法も全く共通し、型持の数やその位置までほぼ一致している。ただし、本像の場合、中空部内の中型土は頸部辺まで除去され、鉄心も残存するが、N-163のものよりも短く、頭部から腹部辺までである。また、榻座部の左側面下方を鋳懸けている。以上のように若干の相違点はあるものの、これだけ酷似した2像がそれぞれ独尊として造立されたか、はじめから1具として造立されたかについては極めて興味深い問題を提起していると思われる。

n172.jpg
N-172:幅の広い顔立ち、周囲に蕨手をあしらった頭飾やX状に懸かる瓔珞の形式、左手の第1指と3指で宝珠をつまみ、右手で水瓶を握って立つ姿勢など、法隆寺観音菩薩立像(伝金堂阿弥陀如来右脇侍)と強い共通性を示している。また、N-163、N-164とは顔立ちが類似するが、いずれも体内に太い鉄心を残している点、技法的にも共通する。

観音菩薩立像・奈良時代.j

観音菩薩立像 1躯 銅製鍍金 像高30.9 飛鳥時代 7世紀 重文 N182
【東博の解説】右手を心にそえてすっきりと立つ像で,頭飾には観無量寿経に説く観音の標幟である阿弥陀仏の化仏立像をあらわす。脚前をわたる天衣上に瓔珞を沿わせて片膝に一花をあしらう形や,素弁と複弁を組み合わせた台座などは,7世紀末ごろの像によくみられる特色である。

N-182:右手で胸飾りの垂飾を押え、左手で天衣をとって直立する端正な像である。装身具の連珠の一部や裙、天衣、台座蓮弁の各縁に特殊タガネで表わした複連点文にはこまやかなものがあり、また衣の縁取り線や連珠の刻出も丁寧で、全体に気品ある作風を示している。

観音菩薩立像・奈良時代.3

観音菩薩立像 1躯 銅製鍍金 像高31.4 飛鳥時代 7世紀 重文 N183
【東博の解説】三面頭飾をつけ,体部正面にX状の瓔珞を懸ける。この瓔珞および胸飾りには可愛らしい鈴もみえる。両肩を覆う天衣の端をピンと左右に張ったり,上半身に僧祇支をまとう形式は古様だが,やや幅の広い顔立ちには,いわゆる白鳳期のおおどかな情趣がうかがえる。

N-183:両肩に懸かる天衣が側面に強く張り出すなど古様な要素も認められるが、宝冠の意匠をはじめ、大小様々な玉に鈴を混える胸飾りや瓔珞には装飾性の著しいものがある。全体に重厚な体形を示すが、僧祇支や裙、天衣の縁取りに施された刻線、胸飾りと瓔珞の連珠の刻出などには極めて繊細な感覚がみられる。

****************
7.その他

以下では、他の寺院との比較のコメントがあるものなどをかかげる。なお、金銅仏そのものが、わが国で作られなくなる事情については、拙ブログ 仏像彫刻試論4 「造像の技法と素材」などもあわせてご覧いただければと思う。
また、法隆寺は聖徳太子ゆかりの寺である。その観点から「聖徳太子と仏像」では、法隆寺、広隆寺および中宮寺、四天王寺についてふれている。

◆仏像彫刻試論4 「造像の技法と素材」
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-206.html
◆「聖徳太子と仏像」
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-503.html

【他寺院仏との比較】

N-147:やや面長で口もとに笑みを浮かべる顔立ちには古様さを残すが、手指にはしなやかな動きがあり、衣文線も流麗な曲線を描くなど、その表現には自然なものがみられる。大衣は右肩に少し懸かって右肘下から左前膞に至り、内衣は右前膊で大袖状を呈するものであるが、その着衣形式は奈良・法輪寺の木造薬師如来坐像と同じであり、さらに古様な顔立ちながら瞼を二重にうねらす表現など、作風的にも共通する。僧祇支に施された半截九曜文(蜀江綿を表わすか)は一般に童子形の像をはじめとする7世紀後半の作例にみられるもので、本像の制作年代にもほぼその頃と考えられる。

N154
N-154:太く短い鼻、厚い唇など独得の顔立ちをした像で、その作風も全体に素朴な趣がある。平安時代の9世紀以降の製作とする見解もあるが、偏祖右肩につけた大衣の衣文構成や大らかな笑みを浮かべるふくよかな表情には、親王院如来立像など白鳳彫刻一般にみられる表現と通ずるものがあり、年代もそれほど下げる必要はないと思われる。

n157.jpg
N-157:台座全体の構成(抑蓮、上框、腰部、下框、反花、地付き枠からなる)が基本的に野中寺弥勒菩薩半跏像の台座と一致するが、像全体の造形は、野中寺像に比べると、頭体のバランスが整い、顔立ちもより穏やかなものとなっている。

野中寺弥勒菩薩2
(参考)野中寺弥勒菩薩半跏像 銅造鍍金 像高18.5 白鳳時代 天智天皇5年(666)
【奈良博解説】
台座に「弥勒(みろく)」の尊名と「丙寅(へいいん)」の暦年を刻む。6世紀から7世紀に東アジアで数多く造像された半跏思惟像(はんかしいぞう)の中で、唯一弥勒と銘記された、極めて重要な作品。裙(くん)に連珠円文(れんじゅえんもん)を表し、冠繒(かんぞう)(宝冠から下がった紐状の飾り)・腰佩(ようはい)(腰脇につけた装身具)を別製とするなど先駆的な要素が強い。

N-180:全体の姿勢や顔立ち、台座の形式などに大阪・金剛寺の観音菩薩像と共通するものが認められ、同系統の作家による作例と思われる。ただし本像の場合、胸飾りや瓔珞、腕釧、両足など十分に仕上げられないままに鍍金が施されている。何らかの事情で完成を急いだためかとも考えられるが、他方、タガネで細部を仕上げる以前の状態を確認できる点でも貴重である。
http://www.narahaku.go.jp/exhibition/2015toku/hakuhou/hakuhou_index.html

N-181:体軀に対して頭部が大きく、装身具も比較的簡素であり、一見すると古様さの残る像であるが、胸飾り中央の垂飾にみられる房形の飾りは薬師寺東院堂の聖観音像のものに通じる趣があり、さらに台座反花の立ち上がりの強い形が薬師寺金堂の薬師三尊の脇侍像のものと類似する点は注目される。また台座の仰蓮を魚鱗葺とすることも新しい意匠といえよう。

****************

【拾遺集】

N-170:面長のやや古風な顔立ちをした像で、宝冠も完全な三面頭飾にはなっておらず、7世紀前半の作例に多くみられる三山冠の趣が残っている。しかし、目を二重瞼とする点や流れるように垂下する天衣の柔らかな表情には7世紀後半の作例に通ずる感覚もあり、過渡的な時期の作例とも考えられる。

n171.jpg
N-171:左足をやや前に腰をひねって立ち、体軀に微妙な抑揚をつけている。像全体に捻塑的な感覚がみられ、また、目などは塑土に箆描きしたような形を示し、左右の位置がずれるなどやや無造作なところもある。像表面の仕上げが不十分のためか、全体として造形的に粗雑な印象は否めない。

N-174:蕨手状の文様で装飾される大ぶりの三面頭飾、連珠をあしらう胸飾りや瓔珞、二重に表わす瞼など、本像は7世紀後半に入って一般的となる特色を示している。しかし、端厳な顔立ちや体軀に対して大きめの両手、膝上でX状に交叉する天衣など、古様な要素も多分に残している。

N-184:満面に笑みをたたえ、腰を右にひねって立つ。蓮肉上で一度たるみをつけて裙裾の下を通り垂下する天衣、乳頭を表わす胸など、顔の表情を含めて、像全体に自然な表現が意図されている。特に、抑蓮を銅板切り抜きで別につくり、上下2枚を重ねて蓮肉下の角枘に挿し込んでいる点などは、そうした造形意識をよく示している。

N-190:腰をひねった体軀にはしなやかさがあり、腰裳や天衣の天衣線には軽快なリズムがある。正面頭飾後方の地髪部に丸枘穴が残り、本来別製の飾り(化仏か)をつけていたと思われる。各装身具の連珠の一部に魚々子タガネを使用し、裙と天衣の縁や衣文の稜等には特殊タガネで複連点文を表わすなど、その刻技は多彩でこまやかである。

**********************
(参考)Nナンバー別のインデックス

☆は画像掲載分

☆N143、3.朝鮮三国時代系
☆N144、6.【山田殿像系】
☆N145、1.止利仏師系☆
 N146、3.【中国の影響】
  N147、7.【他寺院仏との比較】
☆N148、6.【山田殿像系】
☆N149、1.止利仏師系
☆N150、1.止利仏師系
☆N151、3.朝鮮三国時代
☆N152、3.【朝鮮の影響】
☆N153、6.【童子形像系】
☆N154、7.【他寺院仏との比較】
☆N155、1.止利仏師系
☆N156、2.半跏思惟像
☆N157、2.半跏思惟像(7.【他寺院仏との比較】に掲載)
☆N158、3.朝鮮三国時代系
☆N159、2.半跏思惟像
 N160、2.半跏思惟像
 N161、2.半跏思惟像
  N162、2.半跏思惟像
☆N163、6.【法隆寺系】
  N164、6.【法隆寺系】
☆N165、1.止利仏師系
☆N166、1.止利仏師系
☆N167、6.【山田殿像系】
 N168、6.【童子形像系】
☆N169、3.【中国の影響】
 N170、7.その他【拾遺集】
☆N171、7.その他【拾遺集】
☆N172、6.【法隆寺系】
 N173、3.【中国の影響】
  N174、7.その他【拾遺集】
 N175、6.【童子形像系】
☆N176、6.【童子形像系】
 N177、6.【山田殿像系】
☆N178、3.【中国の影響】
 N179、6.【童子形像系】
 N180、7.【他寺院仏との比較】
 N181、7.【他寺院仏との比較】
☆N182、6.(画像、関連掲載)
☆N183、6.(画像、関連掲載)
 N184、7.その他【拾遺集】
☆N185、3.【中国の影響】
☆N186、3.【インド的仏像】
 N187、3.【インド的仏像】
☆N188、6.【童子形像系】
 N189、3.【朝鮮の影響】
 N190、7.その他【拾遺集】
☆N191、4.摩耶夫人及び天人像 
☆N193、5.木造仏  【“法隆寺宝物館と飛鳥白鳳彫刻”の続きを読む】

源頼朝と運慶 2

運慶展 (8)
願成就院 毘沙門天像 

2.北条時政 1138年 (保延4年)~1215 (建保3年)

激動の時代を生きた武将であり、常に権力の中心にあることを目指し、鞍替え、謀略など目まぐるしく変転する政治状況のなかにあった。武断的な逸話が多いなかで、歴史的トレースのなかで運慶が登場するのも面白い。以下は諸情報の引用を組み合わせて書いた。

鎌倉幕府の初代執権 (在職 1203~05年) 。通称は四郎。法名は明盛。伊豆国の在庁官人北条時方と伊豆掾伴為房の娘との間に生まれ,「当国の豪傑」と称された。伊豆国北条 (現在の静岡県田方郡) の出身。娘政子は源頼朝の妻。
1180 (治承4) 年8月頼朝挙兵の最初から頼朝に従って功をあげた。挙兵後、頼朝は鎌倉を目指すが、ここは時政の祖先平直方が源頼義に譲った地である。石橋山の戦に敗れて長子の宗時を失うが、次子義時とともに海路安房国に逃れてやがて甲斐源氏を誘い、富士川の戦で頼朝軍と合体する。その後は政子に孫の頼家が生まれたことから,頼朝の外威として重きをなした。

85 (文治1) 年11月には頼朝追討の宣旨が源義経に出されたのに応じて,頼朝の代官として大軍を率いて上洛する。朝廷は義経追討宣旨を出すことでそれに対応したが、時政はさらに諸国、荘園に守護、地頭を置く権限や兵糧米を徴収することを認めさせ、また頼朝の目指す朝廷政治の改革の方針を伝えてこれを実行させた。こうして朝廷からは後白河法皇の近臣が除かれ,幕府の推す九条兼実が関白となって朝廷政治は刷新された。 だがその後の京都での時政の動きは頼朝の望むところではなく、一条能保が頼朝代官として上洛したのを受けて任を解かれ、京都の警備を甥の時定に託して鎌倉に戻る。

その後の動きははっきりしないが、伊豆、駿河の守護として活動し文治5年には奥州の藤原氏追討を願う願成就院を伊豆の北条に建立し、奥州合戦に従う。やがて頼朝の後継者をめぐる動きとともに時政の行動は目立ちはじめ、1192 (建久3)年に源実朝が生まれると、その誕生の儀式を行った。1199 (正治1)年1月に頼朝が亡くなると,政子とともに頼家を補佐して幕府政治を主導した。

1200 (正治2) 年4月従五位下。1203 (建仁3)年政所別当、執権。頼家の親裁権を削減するとともに御家人の意見を幕府政治に反映する体制を築き、自らは頼家の後見として遠江守に任じられた。しかし頼家の側近の勢力を排除するなかで、頼家の外戚となった比企能員と対立が生じ、これを自邸に誘って謀殺し、実朝を将軍に据えて政所別当となって幕府の実権を握った。しかし子の義時や政子と路線が合わず、後妻牧の方の娘婿となっていた源氏の平賀朝雅を将軍に擁立することを計って失敗、伊豆に引退させられその地で亡くなる。

https://kotobank.jp/word/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%99%82%E6%94%BF-132162

(以下は一部重複するがWikipediaからの引用)

文治元年(1185年)11月、頼朝の命を受けた時政は千騎の兵を率いて入京し、朝廷に対して「守護・地頭の設置」を認めさせた(文治の勅許)。
時政の任務は京都の治安維持、平氏残党の捜索、義経問題の処理、朝廷との政治折衝など多岐に渡り、その職務は京都守護と呼ばれるようになる。在京中の時政は郡盗を検非違使庁に渡さず処刑するなど強権的な面も見られたが、その施策は「事において賢直、貴賎の美談するところなり」(『吾妻鏡』文治2年2月25日条)、「公平を思い私を忘るるが故なり」(『吾妻鏡』文治2年3月24日条)と概ね好評だった。しかし3月1日になると、時政は「七ヶ国地頭」を辞任して惣追捕使の地位のみを保持するつもりでいることを後白河院に院奏し、その月の終わりに甥の時定以下35名を洛中警衛に残して離京した。後任の京都守護には一条能保が就任した。時政の在任期間は4ヶ月間と短いものだったが、義経失脚後の混乱を収拾して幕府の畿内軍事体制を再構築し、後任に引き継ぐ役割を果たした。
鎌倉に帰還した時政は京都での活躍が嘘のように、表立った活動を見せなくなる。文治5年(1189年)6月6日、奥州征伐の戦勝祈願のため北条の地に願成就院を建立しているが、寺に残る運慶作の諸仏はその3年前の文治2年(1186年)から造り始められており、本拠地である伊豆の掌握に力を入れていたと思われる

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%99%82%E6%94%BF

****************

願成就院 毘沙門天像は実によきお姿である。それ以前の毘沙門天像(多聞天像)と共通する部分もあるが、力感と生き生きとした顔の表情は抜群である。さて、このお顔に安易に北条時政を重ねることはできないだろうが、施主たる北条時政がおそらくこの像を気にいったことは想像にかたくないだろう。運慶にとって、願成就院は鎌倉幕府の中枢と堅固な関係をもつうえで重要なステップとなった。

FC2Ad