大和古仏探訪

京阪神を中心に内外の古仏についていろいろと書いてみたいと思います。

興福寺阿修羅像2<阿修羅像の来歴>

阿修羅像5

 まず、この仏様の来歴を調べてみよう。野間清六『飛鳥・白鳳・天平の美術』(1968年/至文堂)では興味深い指摘がある。

 興福寺には実は2組の八部衆と十大弟子が一時あった。一組は興福寺固有のセット、もうひとつは額安寺(額田部寺)から移転したものであった。12世紀初頭に大江親通(※1、2)が嘉承年間に西金堂を訪問した際に、この2組の仏様にふれているが、その後、後者はもとの寺院に返却、さらに治承年間に興福寺が炎上。よって、前者はもしかするとこの時に灰燼に帰して、後者が再度、移管されたとの説がある。否、脱乾漆像で軽量なことから、前者は幸運にも運び出され、たとえば猿沢池に投げ込まれ、難をのがれて再度、西金堂に収まったとの説もある。

 いずれにせよ、両セットとも文献上は、天平時代に作造されていると考えられる(前者では天平6年<734年>、後者では天平14年<742年>)ので、そこに大きな差はない。奇跡的に残された天平の名品であることに違いはない。なお、興福寺の公式説では固有のセット説をとっている(※3)。

 後者の場合、大江親通は「不可思議な造様」(p.119)と記していることから、相当ユニークな仏様であったようだ。われわれの現前にある仏様をどうみるか?確かに、この阿修羅像のお顔の美しいリアリティと体躯の空想性の乖離からは、不可思議さが漂う。

 阿修羅像では、もう一体、こちらは塑像だが法隆寺五重塔内にある座像がある。造様では興福寺像との共通点もあるが、法隆寺ー興福寺ー額安寺の結びつきを考えたくなる符牒ではある。


※1:『七大寺巡礼私記』は、序文によれば、大江親通が嘉承元年(1106)、保延6年(1140)の2度にわたって南都の諸大寺(東大寺・大安寺・西大寺・興福寺・元興寺・唐招提寺・薬師寺・法隆寺)を巡礼し、その見聞を記録にとどめたものである。平安後期における各寺院の堂舎や仏像などについての実状を伝えるものとしてその史料価値は高く評価されており、仏教美術研究においてはもっとも基礎的な文献史料のひとつとされている。
http://www.let.osaka-u.ac.jp/kyoushi/syllabus/2007/undergraduate/lecture/lecture_004004.html
※2:田篭美保「『七大寺巡礼私記』の成立について」では次の記述がある。
「大江親通が撰述したとする『七大寺巡礼私記』は、保延6年に南都を巡礼した際の見聞を基礎とし諸文献を参考に記されたもので、南都の寺院史研究上重要な史料とされてきた。12世紀中葉の南都諸寺の建築や仏像等の実状を忠実に伝えるものとして捉えられ、この記述をもとに論じられることも少なくない。
しかし、『七大寺巡礼私記』は多くの記事を「十五大寺日記」から引用するという田中稔氏の説が発表されてから、こうした従来の評価は曖昧となっている。親通自身の記述ではなく「十五大寺日記」等の他史料からの引用がほとんどであるならば、実際の見聞にもとづく史料という前提が崩れることになり、12世紀中葉の実状を伝えるという評価を改めなければならない。『七大寺巡礼私記』序文には大江親通が巡礼した期日と目的が明記されるため作者を否定することはできないものの、親通の実見上の記述を含むか否かを判断することは、南都寺院の歴史を語る上でも重要と考えられる。本発表では、親通が撰述した記事の特定を試みるとともに彼の撰述態度を明らかにし、また成立手順を考察することにより記事の信憑性に及ぶことを目的としたい。
本史料において私が着目したのは「私勘」とする表現である。というのも「私勘」とは作者が自身の意見を述べる際に用いる言葉と捉えられるためそれらを抽出することにより、作者自身の記述を限定できると考えるからである。これにより、親通記述と思われる記事には日付や元号に正確を期すという撰述上の特徴が表れることがわかった。このことから彼がどのような視点で『七大寺巡礼私記』を撰述したかの一端を知る事ができよう。
また、引用記事を詳細に検討すると、興福寺条では前半と後半に典拠の違いを言うことができる。このような典拠史料の相違から、親通は巡礼の際には既存史料から作成した手控えを用意していたようで、実見して特記すべきことや「不可思議也」などの批評はそれぞれに書き加えていき、巡礼後に新たに記事を追加したことが推測できるのである。
このような制作過程を経たとすると、『七大寺巡礼私記』は既存文献を基礎として親通が実見上得た情報や造形物への評価を付加して撰述されたものであり、すこぶる信憑性がある史料と考えられる。
従来『七大寺巡礼私記』に関しては、他史料との比較はされてきたものの、その成立過程が考察されることはほとんどなかった。以上のように考えるならば、本史料は平安時代後期の時代的価値を持つものとして評価することができよう」。
http://www.let.osaka-u.ac.jp/arthistory/jahs/pdf/jahs58y/jahs58_26.pdf
※3:http://www.kohfukuji.com/property/cultural/015.html

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