大和古仏探訪

京阪神を中心に内外の古仏についていろいろと書いてみたいと思います。

興福寺阿修羅像4<時代の背景>

阿修羅7

  阿修羅像がつくられたのはどういう時代だったのでしょう?天平時代といえば、まずは・・・
 あおによし ならの都に さく花は にほふがごとし いまさかりなり
という大らかな万葉集の歌が思い出されますが・・・

  西金堂が建造されたのが天平6年<734年>ということで、ここを基点に阿修羅像がつくられたとして、この時代は、いまから振りかえってみても、とても不安定な時代であったようです。年表を引いてみると

天平元年 長屋王の変
   3年 畿内に惣管(そうかん)、諸道に鎮撫使(ちんぶし)
       を置いて武力をもって社会秩序を維持しようとする
   4年 春から秋にかけて干魃、秋には台風襲来
   5年 その影響からかこの年は大飢饉
   6年 4月と9月に大地震がおこる
   7年 「夜天の衆星交錯乱行して常のところなし」(『続日
       本紀』)で天変地異の予測、この年には太宰府で
       天然痘が流行、不作がつづく
   8年 凶作の続行
   9年 天然痘が平城京に伝染、猖獗をきわめる
      「夏をへ、秋にわたって公卿以下の百姓(ひゃくせ
       い)相ついで没死することあげてかぞふべからず、
       近代以来いまだこれあらざるなり」(『続日本紀』)

 これによって、栄耀をきわめた藤原不比等の4人の息子、長男武智麻呂(むちまろ、「南家」)、次男房前(「北家」)、三男宇合(うまかい、「式家」)、四男麻呂(まろ、「京家」)の4家の当主がすべて天然痘で4ヶ月のうちに亡くなります。 

 それは凄いことですね!「阿修羅像は天平6年(734)、光明皇后(こうみょうこうごう)が母橘三千代(たちばなのみちよ))の1周忌供養の菩提を弔うために造像して以来、戦乱や大火など幾つもの災難を乗り越えてきました」という東博の宣伝(下記、「興福寺阿修羅像1」参照)があったけれど、それを支えてきた藤原不比等一門は根絶やしになるわけですか。

 長屋王の変は、もともと皇族だった左大臣長屋王の勢力を削いで、藤原一門が外戚の光明立后を狙ったものであったといわれるだけに、その後9年の間に起こった劇的な変化は、とても大きな歴史的な出来事だったと思います。なんといっても、長屋王のあとの左大臣は藤原武智麻呂であったわけですから。

  でも、興福寺はいわば藤原一門の私寺(氏寺)でしょ。だから、そうした政治的な影響はあまり関係がないと言えるかも・・・。そこはどうですか?

  ところがそれは養老3年頃までの話なのです。養老4(720)年以降は氏寺というより、官寺、しかも当代1の強大な官寺としての位置づけになります。これも年表を調べてみると、

養老4年  興福寺仏殿司を設ける(政府の正式機関)
   5年  中金堂建造(藤原不比等1周忌)
       ~南中門、南大門、北円堂などの建設がつづく
神亀3年  東金堂建造(聖武天皇発願で元正天皇の病気
        平癒祈願のため) 
天平2年  五重塔建造(光明皇后発願)
天平6年  西金堂建造(同、母橘三千代供養のため)

  そうだったのか!では、阿修羅像のつくられた頃の前後は、天変地異のつづく実に不安定な時代で、かつ、不治の伝染病に怯える辛酸極まる時代だった。さらに、よくセンチメンタルに語られる光明皇后が、母の面影をもとめて、憂いの表情をこめて阿修羅像をつくった・・・といった私的な、ないし詩的なドラマだけで考えてはいけないということですな。

  もちろん、発願者ですからそうした思いはあったかも知れませんが、それだけで阿修羅像の背景を考えることはどうかなとも思います。

(参考文献)『天平・奈良ゼミナール』(朝日新聞社 1973年)

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