大和古仏探訪

京阪神を中心に内外の古仏についていろいろと書いてみたいと思います。

帰化人の問題2

野中寺img007

 日本の仏像彫刻を考えるときに、帰化人の果たした役割はどう考えたらいいのか?さんはどう思いますか。

 日本彫刻史の研究でも、この点ははやくから意識されていると思います。たとえば、戦前の研究でも、望月信成『日本上代の彫刻』( 創元社 S18/6初版)では、飛鳥彫刻の源流には2系譜があり、釈迦三尊を<北魏系>とし、それに対して百済観音を<南梁系>として両者の特色を大陸の事例との比較で検討しています。
 釈迦三尊の<北魏系>は、磨崖仏の伝統から「浮彫」的な技法にあり、一方、百済観音の<南梁系>は「丸彫」りを特色とします。そこから前者には正面観照性があるとされ、後者は背面を含むあらゆる角度からの「観照」にたえると推論されます。
 一方で、この飛鳥時代の2系譜のうち、前者は大陸の完全模倣、後者は日本的な展開の萌芽といった分類で論陣をはっていますが、これは戦中の意識を色濃く反映しているようにも思います。これは、大陸模倣(釈迦三尊)よりも日本的な特質の源流(百済観音)を上位にみる見方で、本書第5章の結言にも読み取ることができます。
 しかし、重要なことは、<北魏系>にしても、<南梁系>にしても、これらを支えたのは帰化人であり、その果たした役割は決定的に大きかったと思います。

 広隆寺の弥勒さんはどういう系譜だったけ?

  新羅系というのが有力でしょうか。水沢澄夫『広隆寺』1965年中央公論美術出版を読むと、漢氏(鞍部止利や百済系仏師を輩出)に対して秦氏は新羅系とのことで、その歴史・伝統・嗜好の違いから、弥勒は秦氏にとってとても大切な仏であり、それは当時にあって太子ほかの知識人間では共通の認識であったのかも知れません。あるいは、その高貴すぎる尊顔も、秦氏一族に親しく、懐かしい見慣れたものだったとも考えられます。

 帰化人の系譜をみてみると、<秦>系、<漢>系、<文>系などいくつかの大きな集団があって、これが畿内である程度まとまって居住していたことがわかるようですね。広隆寺のあるいまの京都の西部は<秦>氏の集落、一方、<漢>氏はいまの大阪の南部から飛鳥にいたるエリアなどに拠点をもっていたようですね。だからこそ、ここに四天王寺も、野中寺も、法隆寺も、飛鳥寺もある。

 広隆寺については、2体の弥勒菩薩はいずれも太子との係わりが日本書記などに記載されています。一体は太子が秦氏に授けたもの、もう一体は新羅使・任那使が来朝し献納したものということですが、この記述を正しいとすれば、舶載品で日本での作像ではないですね。

 聖徳太子も帰化人だったという説もあるね。小林惠子『聖徳太子の正体―英雄は海を渡ってやってきた』 (文春文庫)は大胆不敵な本で面白いよ。
 ほら、聖徳太子は一辺に沢山の人の話を聞いてすべて理解したという逸話があるが、あれは、日本語だけでなく、当時の中国語も、韓国語も複数の言語を同時に聞き分けた国際人だったことを言っているんじゃないかと思うね。外国語文献の最たるもの、三教の経典の解説もそこから導かれるだろう。
 帰化人をよく統率できたのも、その言語力にある。崇仏派=国際派、排(廃)仏派=国内派の戦いと捉えると太子は国際派、帰化人系の総帥という考えができるんじゃないかな。

 ああ、また、いつもの大洞がはじまった・・・。


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