大和古仏探訪

京阪神を中心に内外の古仏についていろいろと書いてみたいと思います。

帰化人の問題6

広隆寺弥勒菩薩

 帰化人の問題を考えようと思って、平野邦男「畿内の帰化人」(坪井清足・岸俊男編『古代の日本 5近畿』1970年 角川書店)を読んだ。

1.活動期
 書き出しは「古代の畿内は、帰化人の集住した地域である」からはじまる。帰化の定義は「『王化にマイオモムク』という大和朝廷成立後の歴史的な概念」であるとされ、既にこのシリーズでもふれてきたとおり、「秦(はた)・漢(あや)・文(ふみ)の三氏を応神朝に渡来するという伝承」を是としている。
結語は、「畿内における帰化人の歴史は、ほぼ9世紀に、その幕を閉じるといえよう」とされるから、5~9世紀が主としてその活動期といえよう。

2.どこに住んだか 
 以下に要約される。「8,9世紀の帰化人の分布の実態をみると、摂津では東生(ひがしなり)・西生(にしなり)、住吉(すみよし)・百済(くだら)などの南部諸群を中心とし、それから北、淀川をへだてた島上(しまのかみ)・島下(しまのした)・豊島(てしま)などの諸群にも及んでいる。しかし、それにもまして、淀川と大和川の<川内>である河内地方、つまり摂津の海辺からやや内陸よりの平野が、帰化人集団のもっとも顕著な居住地であった」。このように海沿い、川沿いの移動のほか、新たに建都された地域への移住を含めて帰化人の分布は広汎におよんでいく。

3.帰化人の役割
 以下の記述がある。「彼らは、豪族に私有されるのではなく、朝廷の支配するなかば国家の民としての立場におかれ、ある者は朝廷の官人として登用され、他の者は朝廷に租税をはらい、天皇の土地を耕し、灌漑施設をつくり、官廷工房で生産に従った。5,6世紀の大和朝廷の飛躍的な発展は、彼らに負うといっても過言ではないのである」。

 この論文では詳細に以上の諸点が明らかにされるが、飛鳥以降の彫刻史の観点からもこの点は考えさせられる。文明の伝承には一般にながい時間がかかるが、帰化人はその時代背景と機能において、「即製的」にそれを成し遂げたのではないか。つまり、建都から、仏教国家的シンボルとしての彫刻の造像まで、彼らが主体的にそれを実行したのではないか。
 9世紀に帰化人の歴史が終わるとすると、それ以降に文明の伝承とその内在化の過程をへて、いわゆる日本的な折衷が顕著になるのではないか。
 われわれが、飛鳥、白鳳、天平、貞観の彫刻に異質、異国のものを直観するのは、そうした帰化人の盛衰を垣間見ているのではないかといったことを感じる次第である。

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