大和古仏探訪

京阪神を中心に内外の古仏についていろいろと書いてみたいと思います。

大遣唐使展 7 <風水思想と平城京>

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 歴史を繙くと、577年造寺、造仏師が百済から渡来とある。すなわち、建築と造形の専門家が来た。588年には瓦博士他がこれも百済から渡来する。推古天皇の即位が592年、聖徳太子が摂政となったのが593年。6世紀末迄は百済、新羅、高句麗など、朝鮮半島から大きな文化の移入があった。
 聖徳太子は(あるいは蘇我ファミリーは)、次に中国大陸からの直輸入ルートの開拓に着手する。607年遣隋使小野妹子の派遣。ここから遣隋使、遣唐使の永い歴史がはじまる。
 さらに約一世紀。710年平城京遷都。そして、ここを基点に1300年記念たる今日を迎えるわけだが、その都市づくりには、早くから風水の思想が取り入れられていた。それが上記の四神が東西南北を司るという考え方である。


(参考)
 四神相応は、東アジア・中華文明圏において、天の四方の方角を司る「四神」の存在に最もふさわしいと伝統的に信じられてきた地勢や地相のことをいう。四地相応ともいう。なお四神の中央に「黄竜」(おうりゅう)、あるいは麒麟を加えたものが「五神」(ごじん) と呼ばれている。
(出典)http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E7%A5%9E%E7%9B%B8%E5%BF%9C

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 四神相応を、<コンポーネント分解>すると上記のような形となる。青春、朱夏、白秋、玄冬といった用語は、われわれの日常生活でもよく使用される。また、青龍刀、朱雀門、白虎隊、玄武館といった用語は、いずれも風水思想を下敷きにしている。平城京もこの考え方のもと建都されており、その歴史的な古層はいまもこの地に息づいていると言えよう。

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(参考)
 平城京はその建都にあたっての詔勅に、「方今、平城之地、四禽叶図、三山作鎮、亀筮並従。(方に今、平城の地、四禽図に叶ひ、三山鎮を作し、亀筮並に従ふ。)」とある。この「四禽図に叶ひ」とは四神相応のことであり、奈良時代には平城京が四神相応の地であると考えられていたことを確認できる。平城京の立地は、平安京で説かれるような山川道澤にはあてはまらない。しかしそれを四神相応とする以上、奈良時代には別の解釈がとられていたことになる。
(出典)同上

 さて、1300年をへた現代。記念会場のイラスト図は、まさに風水思想のもとに作成され、往時の記憶を甦らせている。大遣唐使展でも、遣隋使、遣唐使は優れた外交官であるとともに、派遣された当時の「頭脳」は、抜群の秀才ーわが国のスーパー・エリートたちであり、しかも彼らは必死で大陸の文物を吸収し、それをわが国に移入せんと全力を尽くしたことがわかる。

 そもそも大陸に無事に行き着けるのか、そこで各自の任務を果たしうるのか、仮にそれができたとしても、生身で帰国が可能となるのか・・・。遣隋使、遣唐使の彼らは、報われるかどうかわからない、まさに生死を賭けた大仕事に従事したわけであり、道半ばで大陸で骨となった逸材がいたという展示前では、多くの観察者は溜息をついたと思う。
 彼らの経験、エネルギーは、しかし、帰国できた段階では全開となる。外交官ではない専門家たちは、それぞれの分野で「新知識人」として存分の活動を行ったろう。ある者は建都構想(都市プランナー)に、ある者は最先端の巨大建築たる造寺(建築家)に、ある者は経典解読(僧、博士)に、仏所・工房での造像(仏師、造形アーティスト)に、さまざまな武具、工芸品などの作成(製造業者、工芸家)に、その力を発揮したであろう。

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(出典)考古学ライブラリ-44 町田章『平城京』(ニュー・サイエンス社)P27より
    http://homepage1.nifty.com/o-mino/page950.html

 上記の風水図と見比べてみると、平城宮をはさんで、一条大路を横軸として、東西に東大寺、西大寺が配置されている。同様に二条大路では、興福寺と菅原寺が、四条大路では、元興寺・新薬師寺と唐招提寺が、五条大路では、大安寺と薬師寺が対をなして配置されている。
 法華寺の位置は左京一条二坊だが、ここは当時の最高権力者藤原不比等の邸であり、その後皇后宮、法華寺となっていく。まさに平城宮を固める足下、絶好の位置にあったことがわかる。また、春日大社(東春)や秋篠寺(西秋)が方位上、ピタリとはまることも一目瞭然である。 


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 広域で捉えると、奈良の位置は大阪(難波宮)と近いことがわかる。難波は海の玄関口、いまで言えば、ゲートウエイ都市であり、ここから内陸の新都への道が続く。また、奈良は「南都」と呼ばれるが、京都からみれば、真南にあたるからそう呼称されてもいまは違和感がないかも知れないが、仮に、奈良に京都から再度の遷都が行われたとすれば、いまの京都が、もしかすると「北都」と呼ばれたかも知れない。誇り高き奈良の人たちは実はそれくらいのプライドをもっていると思う。

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(以下は宇宙航空研究開発機構JAXAのHPから引用)
 京都と大阪の境で桂川、宇治川、木津川が合流し、淀川となって大阪湾に注いでいますが、その河口付近に大阪市があります。
 奈良盆地は、北は奈良山丘陵が京都府との、西は生駒山地が大阪府との境となっています。710年に都となった平城京は奈良盆地の北端に位置し、推定10万人が暮らす大都市であったと考えられています。また、周辺には古墳時代の遺跡が多数点在していますが、佐紀盾列古墳群(さきたたなみこふんぐん)には数基の大型前方後円墳が集まっています。

平城遷都1300年を迎える奈良市
 文武(もんむ)天皇が藤原京からの遷都を貴族に諮ったのが707年。その意思を継いだ元明(げんめい)天皇が平城遷都の詔を発したのが708年。そして、造営が進められた2年後の710年、建設途上の段階で、遷都が敢行されました。南北の中央に朱雀大路(すざくおおじ)を設け、南北と東西に街路を交差させる条坊制(じょうぼうせい)を採用した都市計画に基づいて建設されています。その後、784年に桓武(かんむ)天皇が京都府の長岡京(ながおかきょう)に遷都するまで、8代、74年にわたり都として栄えました。
 それまでの都、藤原京は奈良市南方約20 kmの奈良県橿原市(かしはらし)にありました。奈良盆地南部に当たります。古代国家成立期の政治、文化の中心地で、藤原宮跡の他にも、縄文時代の橿原遺跡、各天皇陵などの旧跡が多く見られます。
http://www.eorc.jaxa.jp/imgdata/topics/2010/tp100303.html

 なお、記念事業の主会場の案内図(記念会場のイラスト図)は http://www.1300.jp/ を参照。

テーマ:美術館・博物館 展示めぐり。 - ジャンル:学問・文化・芸術

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