大和古仏探訪

京阪神を中心に内外の古仏についていろいろと書いてみたいと思います。

仏像彫刻試論2 歴史的文脈

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 戦前からの仏像研究にはいくつかの留意が必要な気がしている。仏像における「様式論」の展開は、おそらく戦前、日本が相当に先行していたのではないか。フェノロサ、岡倉天心が神としての仏像の封印を解き、法隆寺夢殿の「重い扉」を開けて以降、なんといっても研究素材が国内に多く残されていたのは日本である。修理・修復とともに、その研究も急速に進捗をみることになる。

 さらに、こうした研究は、好むと好まざるとにかかわらず、明治以降の日本の朝鮮半島および中国大陸への軍事的侵攻、政治的支配の影響を受けたであろう。石窟仏を中心とする彼の地の圧倒的な集積・物量は、その細い伝搬ルートによって、「極東」の日本にもかつて伝えられた。さらに、それを伝え、育み、日本仏像彫刻史の基礎を築いたのは、間違いなく渡来人、帰化人の高度な技術者集団であった。日本の研究者は戦前から、統治地であった朝鮮で、中国で、そうした事実を多く知ったであろう。

 だが、戦前の日本彫刻研究の文献を読むと、この点の記述はかなり「微妙」である。もっとはっきりと言えば、朝鮮、大陸からの伝搬、舶載はあったが、それが日本において胚胎して、日本独自の仏教彫刻文化が花開いたといった「史観」をかなり強く感じる。そういう時代であったのだろうが、一度、形成された「学派」は、大学における学問の継承性から、そう簡単には軌道修正できない。その影響は戦後も色濃く残る。

 日本的な特色の抽出という、やや牽強付会の心理と論理が支配したのは、ひとり彫刻研究だけではないだろうが、その視点からは天平以降の彫刻を高く評価し、また、残存作のすくない定朝こそが日本的な特質の表象となり、さらに、康慶、運慶、快慶、湛慶ら慶派彫刻をもって日本のルネサンスに至るというシナリオが形成される。戦後も、こうした一種の「発展史観」はマルクス主義の影響もあってか続くことになる。
 その一方、戦前、戦後直後の学界における飛鳥・白鳳彫刻への相対的な軽視は、こうした視点から自分が感じたバイアスのひとつである。

 こうした一種の<ドクサ>に真っ向から反発したのは梅原猛であったと思う。彼は仏像について、「様式論」からも「文献史学」からも一定の距離をおいて「文明論」からアプローチしようとした。また、久野健は、X線透過という新手法を仏像研究に導入したのみならず、地方仏の発掘や海外事例比較を通じて、新たな研究法を提起した。
 また、学界の閉鎖性、本質的なモノを言わぬ体質に痛烈な批判を加えたのは保田興重郎である。
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-68.html

 最近、評価できるのは、例えばNHKの特集で、古代から中世の歴史に関して、日韓の学者が討論を行うことで比較研究の重要性を示すことである。こうした姿勢は仏像研究でもよりあっていいと思う。日本の資金で、インド、パキスタン、アフガニスタン、中国、韓国などから専門家を招聘して、日本の仏像、工芸品などを見てもらい、共同研究を是非やってみてほしい。凝り固まった<形式知>を考え直す斬新な発想がここから出てくるのではないかと秘かに期待している。

(参考http://www.isr.or.jp/TokeiKen/pdf/gakusai/1_14.pdf

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