大和古仏探訪

京阪神を中心に内外の古仏についていろいろと書いてみたいと思います。

興福寺仏頭(旧山田寺)

0008

 いまから約40年前、この仏頭をはじめてみた時の衝撃が思い出される。いまでは想像のできないくらい粗末な宝物館で埃まみれ、無造作に置かれていたように記憶している。そして、沸々と疑問がわいてきた。なぜいま、こういう(無惨な)お姿で残っているのだろうか? 仏頭の大きさ(総高98.3㎝)から考えると、像全体の巨大さはいかばかりだろうか? 白鳳彫刻の同時代で似た仏像はあるのだろうか?・・・

 実は、そうした思いはいまもあまり変わっていない。この仏像の発見の経緯などを調べれば、いかに数奇な運命をたどってきたかがわかるが、その尊顔の素晴らしさから、これを破壊せず(鋳直さず)後世に残していこうという強い意思が働いたか、あるいはある種の呪術的な思いから須弥座の下に再度、安置されたのかも知れない。
 全体の像容の大きさは推して知るべしだが、現存の仏像では、作風はいささか異なり、一回り小さいかも知れないが蟹満寺釈迦如来像(像高約240センチの金銅像)がそのスケール感を「追体験」するうえではひとつの参考になるだろう。また、そのお顔についての類似作は、小さいけれど、法隆寺夢違観音、鶴林寺菩薩立像(聖観音)、盗難にあってレプリカしか残っていないが、新薬師寺香薬師如来立像の白鳳名品「3立像」の金銅仏が直観的に思いつく。
 この仏頭の魅力は、頬のふくよかしさ、切れ長で凛々しき目元、アーカイック(古式)の笑いを消した、しかしどこか優しさを湛えたその表情にある。若々しく童子的な印象もあり、否、大人をも超越した神々しさもありといった両義性、それが微妙な均衡を保っている。さらに、観察者が、喪われた巨体を想像し、自ら見上げる姿を思い浮かべるとき、本来であれば、仏頭をこんなに間近で拝顔することはできないし、なにより合わせるべき目線の位置は決定的に異なることに気づくだろう。その1点だけでも他とは違った存在感がある。


(参考)
次に、よくまとまっているブログの記述がある<以下は転載>
(1)戊寅(ぼいん・つちのえとら)678年12月4日に丈六の仏像(薬師三尊)が銅に鋳造され、乙酉(いつゆう・きのととり)685年3月25日に山田寺創建者の蘇我倉山田石川麻呂の祥月(しょうつき・故人が死んだ月)命日に仏眼を点じた。つまり、石川麻呂の自害後36年の開眼供養であった。

(2)1187年(文治3年)、興福寺の僧が山田寺の薬師三尊像を強奪し、興福寺の東金堂の本尊とする。
興福寺は治承4年(1180年)の平重衝の焼き打ちに遭って伽藍の殆どを焼失した。その後の再建の過程で同寺の東金堂の焼けた本尊の代わりとして当時荒廃していた山田寺の薬師三尊像に目をつけ、強奪したのであろう。当時の興福寺の勢力の強さが想像される。

(3)1411年(応永18年)に東金堂は雷の火災で、この仏像の胴体が失われ、頭部だけ残った。

(4)1937年(昭和12年)に興福寺の東金堂の修理中に須弥座の下より仏頭が発見され、大きく新聞などで報道され、その後上述の如く国宝・仏頭(薬師如来)として、興福寺国宝館に展示されている。

(5)この仏頭は童顔の若々しい張りのある肉付き、眉と眼の直線的な切れ味、高い鼻梁(びりょう)、長く垂れ下がる耳は白鳳期の特徴をよく示している。
1023年(治安3年)10月に53才の藤原道長は高野山参詣の途中、飛鳥・山田寺に寄り、堂塔及び堂中は奇偉荘厳で言語に尽くしがたく黙し、心眼及ばずと感嘆した。当時の山田寺の荘厳なことと仏頭(薬師三尊)の凛然(りんぜん)とした姿に感服したのであろう。
http://www.narayaku.or.jp/narayaku/narayaku/03_1.html

テーマ:art・芸術・美術 - ジャンル:学問・文化・芸術

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバックURLはこちら
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/tb.php/170-662cd901
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

FC2Ad