大和古仏探訪

京阪神を中心に内外の古仏についていろいろと書いてみたいと思います。

平城京を考える

【平城京は整然とした都をめざした】
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http://ducho602.exblog.jp/3371301/

 町田章『平城京』考古学ライブラリー44 ニュー・サイエンス社 1986年)を読んで少しメモをしておく。本書は長年の「平城宮跡発掘調査報告」など先行研究をふまえた労作であり、考古学が対象とする時代において、いかにさまざまな政治、経済、文化現象を明らかにできるかを迫力をもって問うているような書である(上図は別。最近できた平城京の復元イメージだが、大いに想像力をかきたてられるであろう)。

【平城京はけっして安定した都ではなかった】
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http://goryo4.hp.infoseek.co.jp/yw125.html

 ところで、平城京遷都1300年と聞けば、平安京遷都(794年)までは、ここが安定した都といったイメージを持ちがちだが、さにあらず。むしろ、遷都あるいは副都(※1)の存在によって、上図のような、浪費的で神経質な文字通り<迷走の時代>を迎えることとなり、平城京は不安定な都であった、あるいは平安京との比較では将来の発展の芽を摘まれた都でもあったといえよう。

※1:遷都というか副都の設置というかは見解の分かれるところだろう。以下は引用
 「飛鳥 - 奈良時代には、首都機能を経済 ・交通の面で補完する第二首都とも言うべき副都(陪都)が設けられていた時期があった(複都制)。例としては、最初にこの制度を採用した天武天皇の難波宮を始め、淳仁天皇の「北京」保良宮(滋賀県大津市、761年 - 764年)、称徳天皇の「西京」由義宮(大阪府八尾市、769年 - 770年)が知られている。保良宮と由義宮は短命に終わったが、難波宮は長岡京遷都まで副都の地位を保ち続けた」。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E9%A6%96%E9%83%BD

【骨格設計の思想は周到だった】
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http://wiki.wowkorea.jp/?word=%E5%B9%B3%E5%9F%8E%E4%BA%AC

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 これについては、下記の風水論(→大遣唐使展7<風水思想と平城京>)に書いたのでここでは繰り返さないが、法興寺(→元興寺)、大官大寺(→大安寺)や薬師寺といった巨大寺院の移設をふくめ、東大寺大仏殿に限らず、多くの新設寺院の勧請は当時の国力に照らしても凄まじいものだったろう。藤原不比等という稀代の政治家なくしてはなしえなかったことであろう。また、都市経営の視点からも注目される点は多い。

【いまの地図を重ねあわせて見ると・・・】0000007http://www.d1.dion.ne.jp/~s611hr/sub-T/sub-T11/heijyoukyou.html

 平城京の歴史はけっして長くはない。また、平安京遷都後は、町田氏も述べているように宗教都市として、かろうじて命脈を保つことになる。しかし、逆説的ながら「田舎化」したゆえに幸い、保全、保存されたものも多くあったであろう。それが戦後、20世紀後半にいたって急速に変容してしまったことは反省とともに記憶にとどめねばなるまい。「まほろば」的な落ち着きは、無秩序な開発、利便性向上・機能重視といった美名のもと思慮不足のマストラ整備、迫りくる住宅のスプロール化などによって、無惨にその姿をかえてしまった。平城京遷都1300年記念とは、世界遺産の意味ととともに現代日本人がその点を深く考えるための得難い契機ではないかと思う。
<ロケーション図>
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<発掘成果ー復興図面>00000013

<簡易歴史年表>0000006

(参考文献)
発掘奈良 / 坪井清足編<ハックツ ナラ>
東京 : 至文堂, 1984.4
288p ; 23cm. -- (国文学解釈と鑑賞別冊)
注記: 参考文献: 各章末
著者標目: 坪井, 清足(1921-)<ツボイ, キヨタリ>

テーマ:art・芸術・美術 - ジャンル:学問・文化・芸術

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