大和古仏探訪

京阪神を中心に内外の古仏についていろいろと書いてみたいと思います。

大官大寺

0002-1
http://inoues.net/club/asukaagain1.html

 考古学の進展はめざましい。最近の研究によって、かつての通説をおおきく塗り替える場合がある。たとえば、法隆寺や四天王寺の伽藍配置について。いまは、朝鮮半島、中国などとの海外比較の視点をふくめて、その昔、教科書で習ったことがかわり、より豊饒な背景があることが明らかになりつつある。大官大寺もそのひとつである。
 大安寺に先立つ大官大寺の歴史については、『日本書紀』、『続日本紀』、『大安寺伽藍縁起并流記資材帳』(747年)などに記載があり、文献上では、聖徳太子が奈良県大和郡山市に建てた熊凝精舎(くまごりしょうじゃ)を起源として、「百済大寺」→「高市大寺」→「大官大寺」へと改称され、それが平城京遷都とともに移築されて大安寺になったとされる。但し、これには異説も多いようだ。


(参考)
 「資材帳」によれば、大安寺の起源は聖徳太子が建てた熊凝精舎であった。病床にあった聖徳太子は、見舞いに来た田村皇子(のちの舒明天皇)に、熊凝精舎を本格的な寺院にすべきことを告げ、太子の意思を受けた田村皇子が、即位後の舒明天皇11年(639年)、百済川のほとりに建てたのが百済大寺であるという。熊凝精舎については、大和郡山市額田部(ぬかたべ)に現存する額安寺がその跡ともいわれるが、「大安寺資材帳」以外の奈良時代の史料にその名が見えないことから実在が疑問視されており、日本仏教興隆の祖とされる聖徳太子を創立者に仮託した伝承とみるのが通説である。一方の百済大寺については、奈良県北葛城郡広陵町に百済寺という寺が現存するものの、舒明天皇との関連は明確でなく、付近に天皇建立の寺院らしき寺跡も発見されていない。1997年、奈良国立文化財研究所(現・奈良文化財研究所)は、奈良県桜井市南西部(藤原宮跡の東方)にある吉備池廃寺跡が百済大寺跡と推定されるとの見解を発表した。発掘調査の結果、吉備池廃寺は東に金堂、西に塔が建つ法隆寺式伽藍配置の寺院であったことが明らかになり、発掘された古瓦の様式年代からもこの寺院が舒明天皇11年(639年)に建立された百済大寺に該当する可能性は高いと見られている。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%AE%89%E5%AF%BA

0002-4
http://www.news.janjan.jp/culture/0612/0612236993/1.php

 さて、大官大寺の位置を上の地図でみると、平城京における大安寺とおなじように、藤原京の東南におかれていることが確認できる。その伽藍は立派だったであろう。下記にブログでとりあげた興福寺仏頭が当初おかれた旧山田寺は、大官大寺からさらに東南にプロットされている。また、それ以前の都であった飛鳥の諸施設との意外な近接性もわかる。

(参考)
 飛鳥地方にあった7世紀建立の寺院のうち、法興寺(元興寺)、薬師寺、厩坂寺(うまやさかでら、後の興福寺)などは平城京への遷都とともに新都へ移転している。大官大寺も平城京左京六条四坊の地へ移転し、大安寺となった。平城京への移転の年次については正史『続日本紀』には記載がなく、いくつかの説があるが、霊亀2年(716年)の移転とみるのが通説とされている。この説の根拠は、『続日本紀』の霊亀2年5月条に「元興寺を左京六条四坊へ移し建てる」という意味の記載があるが、この「元興寺」を「大官大寺」の誤記とするものである。なお、『扶桑略記』によれば飛鳥の大官大寺は和銅4年(711年)すなわち遷都の翌年に火災に遭ったという。前述の大官大寺跡の発掘調査の結果からも、火災のあったことは確認されている。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%AE%89%E5%AF%BA

0002-7.jpg
http://homepage2.nifty.com/raku-design/4shou.htm

 大官大寺は藤原京にあって、「官寺」中の「官寺」として非常に高い地位にあったであろう。藤原京自体が、風水の思想をもって建都されたが、大官大寺は東南の要におかれ、さらにその淵源からもおおくの帰化人、外国からの僧などが集まっていたことであろう。だからこそ、そこは都の文化拠点でもあり、学問、工学などの一大センターであっただろう。そして、邯鄲夢、うたかたの短い期間ではあったがここに白鳳文化が形成されたといわれる。

(参考)
 この藤原京は「大和三山」と言われる、香具山・畝傍山・耳成山という奈良盆地の中に立つ小さな山が作る三角形の真ん中にあります。これは北の耳成山で防御をするとともに龍脈を取り入れ、東西の香具山・畝傍山を青龍砂・白虎砂とする、風水の基本形を使用していることが見てとれます。
http://www.ffortune.net/social/history/nihon-nara/huziwara.htm

 この都で華咲いたのが、おおらかな白鳳文化であった。白鳳文化は、天皇や貴族中心の文化でもあった。大官大寺(高市大寺)や薬師寺らが造営されていた。白鳳文化を代表するものとしては興福寺仏頭などがある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E4%BA%AC

0002-6
http://ao_zatsu.at.infoseek.co.jp/siryo/rekisi_main.htm
0002-5
http://www.mahorobapq.com/hpgen/HPB/entries/72.html

 2つの伽藍配置図は上が大官大寺方式、下は吉備池廃寺方式(→法隆寺方式の淵源?)だが、なお、さまざまな考え方があるようだ。その解釈によって、冒頭記した「百済大寺」→「高市大寺」→「大官大寺」へと改称され、それが平城京遷都とともに移築されて大安寺になったという<通説>にも疑問符がつくのだろうか。
 いずれにせよ、まだまだ謎は多く、考古学的にいえばこれからも系統的に掘ってみなければわからないということかも知れない。しかし、白鳳時代の彫刻がいまわれわれの眼前にあることは奇跡というべきであろう。ある仏様は飛鳥に残され、ある仏様は藤原京へ、さらに平城京へと引越を余儀なくされたかも知れない。そして、いま、われわれがお会いできる、この時代に造られた仏様の一部は、大官大寺の偉容をもの言わず眺めておられたかも知れない。


(参考)
 吉備池廃寺が発掘され、吉備池廃寺が百済大寺とほぼ断定される以前には、木之本廃寺から出土する瓦の年代観から、当廃寺が高市大寺であろうとする説が主流になりつつあった。吉備池廃寺が百済大寺とほぼ断定された今にして思えば、木之本廃寺が百済大寺であることはほぼ否定された。
 木之本廃寺からは吉備池廃寺と同范の軒丸瓦・軒平瓦が揃って出土する。しかも同范である以上に傷の多寡・大小・製作技法・素材の質・焼成なども全く同一と云う。木之本廃寺が百済大寺では在り得ないとすると、出土瓦が意味することは、吉備池廃寺(百済大寺)から瓦(礎石は木之本廃寺が未発掘のため不明)がこの地に運ばれ、高市廃寺として転用されたのでないか という結論に至る。
 つまりは出土瓦の同一・同質性からは、瓦は吉備池廃寺から木之本廃寺に運搬され再利用されたとしなければ、説明がつかない。(勿論同一窯元から同時供給された可能性も残る。)
 但し、現段階では当廃寺の寺院遺構そのものが未発見で、それらの発見によって寺院規模や創建年代等の解明がなされない限り、木之本廃寺=高市廃寺(天武朝大官大寺)説は仮説でしかないのも事実であろう。http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/ato_ootera.htm

0002-3
0201-01.jpg
(参考)
 690年(持統4)に着工され、飛鳥浄御原宮から694年(持統8)に遷都した。完成は遷都後10年経過の704年(景雲元)と言われ、着工時期は676年(天武5)に始められていた。

 『日本書紀』には、持統天皇四年十月条に「壬申に、高市皇子(たけちのみこ)、藤原(ふぢはら)の宮地(みやどころ)を観(みそなほ)す。公卿百寮(まへつきみつかさつかさおほみ)従(とも)なり」とあり、同十二月の条に「辛酉に、天皇、藤原に幸して宮地を観す。公卿百寮、皆従なり」とあって、同八年十二月の条に「藤原宮(ふじわらのみや)に遷(うつ)り居(おは)します」とある。

 遷都日時については、一説に持統天皇は旧暦12月6日(ユリウス暦12月27日)の昼前に飛鳥浄御原宮を発ち遷行された、とされる。710年(和銅3)に平城京に遷都されるまで持統・文武・元明の三天皇が居住した16年間、日本の首都であった。扶桑略記によれば、711年(和銅4)に宮が焼けたとされている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E4%BA%AC

 再掲だが、遣唐使の歴史を下に添付しておく。694~710年までの間に注目。それ以前からの経緯で百済との関係が緊密であったことが類推されるだろう。

0000002.gif

テーマ:文明・文化&思想 - ジャンル:学問・文化・芸術

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバックURLはこちら
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/tb.php/174-88f66347
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

FC2Ad