大和古仏探訪

京阪神を中心に内外の古仏についていろいろと書いてみたいと思います。

NHK 平泉

中尊寺本尊

【以下引用】
黄金の浄土 庭園の浄土 ~平泉 中尊寺・毛越寺~

大矢邦宣さん(盛岡大学教授)
涌井雅之さん(造園家)

 平安末期、およそ100年間にわたって東北を治めた奥州藤原氏。その当主三代の遺体が眠る岩手県平泉の中尊寺金色堂は、屋根以外すべて金に覆われた、皆金色(かいこんじき)の阿弥陀堂である。
光り輝く堂内には、3つの須弥壇(しゅみだん)が並び、それぞれ、阿弥陀三尊を中心に11体1組の諸仏が安置されている。平安時代の仏師・定朝一門の作と伝えられる穏やかな顔立ちの仏たち。像の高さはいずれも70センチ前後だが、皆圧倒的な存在感を示す。
金に加えて、金色堂をさらに輝かせているのは、荘厳(しょうごん)と呼ばれる工芸、装飾の数々。
きらめく貝殻を漆で固めて模様を描く螺鈿(らでん)細工や、金工の技の数々…。金色堂には平安末期の工芸技術の粋が集められているという。
盛岡大学教授、大矢邦宣さんは、金色堂には、権力の誇示や、自らの霊びょうの飾り立てに留まらない、奥州藤原氏が平泉に築こうとした〝この世の浄土〟、東北の平和への強い思いがうかがえるという。
また、代表的な浄土庭園として知られる毛越寺庭園には、美しく計算された空間美が組み込まれていると造園家、涌井雅之さんは見ている。
紅葉に包まれた平泉に、2つの仏の美、仏の世界を訪ねる。
http://www.nhk.or.jp/nichibi/weekly/2008/1130/index.html
その時歴史が動いた
第325回 興亡 北の黄金王国  〜奥州藤原氏 vs 源氏〜


番組概要
その時: 文治5(1189)年8月22日
出来事: 平泉が源頼朝の手により陥落。その後奥州藤原氏が滅ぼされた

古代から東北に住む人々は、蝦夷と呼ばれ、朝廷から抑圧を受けていた。その状況を覆し、奥州独立というフロンティア精神を持って立ち上がったのが、奥州藤原氏だった。独立を目指す足跡は、源氏との百年以上に及ぶ戦いの歴史でもあった。
事の発端は平安時代後期。挙兵した蝦夷を鎮圧するため朝廷より派遣された陸奥守・源頼義と、その部下・藤原経清の反目にあった。頼義に友人を惨殺された経清は、蝦夷とともに朝廷の先兵・源氏と戦うことを決意。やがてその子孫たちは、中央政局の混乱を巧みに利用して、朝廷と源氏の勢力を奥州から排除、奥州を手中に収める。平泉に金色堂を中心とする壮大な都市を築き、陸奥守の称号も手に入れることに成功した。
しかしやがて、地方で独自の政権を築いた奥州藤原氏の戦略にならう者が現れる。源頼朝だ。頼朝は鎌倉を拠点に朝廷を抑え、奥州を制圧。鎌倉幕府を誕生させる。奥州藤原氏と源氏の戦いとは、京に代わって地方が全国を統御する新たな時代への産みの苦しみでもあったのだ。
番組では、中央の権威に抑圧された地方の民が独立を求めて戦う姿と、その戦略が武家政権の誕生に引き継がれる過程を、奥州藤原氏と源氏の戦いを軸に描く。
番組の内容について
陸奥国・奥州の表現について
当時の陸奥国の範囲は、現在の福島、宮城、岩手、青森、秋田の一部であり、この陸奥国の別の呼び方が奥州であった。番組では、藤原氏の力がまだ弱かった前半は「陸奥」、藤原清衡が平泉に拠点を築き、陸奥の最大実力者となってから以降は「奥州」という呼び方に統一している。
また、陸奥守の支配は当初、陸奥国内だけだったが、藤原清衡が奥州最大の勢力となり、のちに秀衡が陸奥守に任命された段階においては、その実質的な支配は隣国出羽を含めた東北全体に及んでいたと考えられている。よって奥州藤原氏の支配もまた、東北全体に及んでいた。
奥州藤原氏とは
平泉に拠点を移し奥州支配を始めた藤原清衡が初代、二代目藤原基衡、三代目藤原秀衡、四代目藤原泰衡、以上の4人をさして奥州藤原四代という表現が用いられることが多い。藤原経清は、清衡の父にあたるため、番組では「奥州藤原氏の祖」という表現を用いている。

藤原経清の身分について
藤原氏の系図を記した書「尊卑分脈」によれば経清の身分は「亘理権大夫」とあり、陸奥の郡の一つである亘理郡を管理する役人として、多賀城に勤務していたと考えられている。また近年の研究により、藤原摂関家に連なるものであるということが確認されている。

蝦夷とは
詳細は不明だが、古代より東北地方でいくつかの集団に分かれ生活をしていた人々であり、中央とは違う独自の文化を持っていたと考えられている。朝廷からは征討の対象としてみられていた。安倍氏、清原氏は、その蝦夷の集団がいくつか集まり、豪族として力を持ったものたちである。
中でも朝廷に服属することになった蝦夷は「俘囚」と呼ばれるようになったが、藤原清衡が中尊寺を建立した時に、自らを「東夷」というなど、呼び方が様々にあったことを考慮し、今回の番組では、東北地方に古代から住んでいる人々を「蝦夷」という呼び方に統一した。
スタジオで紹介している蝦夷の絵は、「清水寺縁起」に描かれている坂上田村麻呂と蝦夷との合戦の様子を使用している。

前九年合戦、後三年合戦の表現について
現在の教科書の多くは「前九年の役」「後三年の役」ではなく「~合戦」という表記を使用しているため、それにならった。

平泉のCGについて
平泉全体を再現したCGは、入間田宣夫さん監修・板垣真誠さん作画の平泉再現図を参考にして作成。
平泉の町中を再現したCGは平泉町教育委員会作成のものを借用して使用。

伝源頼朝像について
頼朝の肖像画として知られる、神護寺蔵の「伝源頼朝像」については、歴史学者を中心に、「別の人物の肖像なのではないか」という説が提示されているが、美術史学者の側からは、従来どおり「頼朝像」として支持されている。今回の番組では、教科書等の表記にならって「伝源頼朝像」として肖像画を使用した。

奥州17万騎について
「吾妻鏡 文治5年9月7日」より引用。

平泉が陥落したときのことについて
頼朝が平泉に入ったときは、藤原泰衡は自らの館に火を放ち逃亡していた。最新の研究によれば、平泉の町全体が焼けたわけではなく、藤原氏の館を中心にした一部が焼けたと考えられている。そこで番組では「奥州藤原氏の館は炎に包まれ」と表現した。

番組で使用した写真や資料の所蔵先・出典
「陸奥守源頼義に従い反逆者安倍を討つ」
「陸奥話記」より引用。一部要約。
「安倍氏の女を妻とする者がひそかに謀を巡らせ敵に使いを出してこちらの動きを告げているようです」
「陸奥話記」より引用。

「誠の心を持って将軍につかへんと欲すとも将軍は必ず我を疑わん」
「陸奥話記」より引用。

「朝廷軍大いに敗れ死する者数百人なり」
「陸奥話記」より引用。

「大逆にして無道なり」
「陸奥話記」より引用。

「是れ経清の痛苦を久しからしめんと欲してなり」
「陸奥話記」より引用。

「義家が討ったのは朝敵ではなく 義家が私事で敵とした者たちだ」
「奥州後三年記」より引用。

「私は分不相応にも蝦夷の長の座に座ることになりました。今や出羽陸奥の民の心は風に草がなびくように従順でございます。忠義と貞節を持ち国に尽くす思いを決して忘れはしません」
「紙本墨書中尊寺建立供養願文」より引用。

「奥州藤原一族は源義経と力を合わせ頼朝を討て」
「玉葉」より引用。

番組で登場した史料・所蔵先について
藤原清衡、秀衡の肖像 (毛越寺 所蔵)
伝源頼朝像 (神護寺 所蔵)
源義家肖像 (出光美術館 所蔵)
源義経肖像 (中尊寺 所蔵)
藤原道長肖像 (藤田美術館 所蔵)
※藤田美術館にて平成20年5月20日〜6月15日展示
 http://www.city.okayama.okayama.jp/museum/fujita/ 清水寺縁起 (東京国立博物館 所蔵)
後三年合戦絵詞 (東京国立博物館 所蔵)
陸奥話記 (国立公文書館 所蔵)
奥州後三年記 (国立公文書館 所蔵)
吾妻鏡 (京都府立総合資料館 所蔵)
紙本墨書中尊寺建立供養願文 (中尊寺 所蔵)
玉葉 (国立公文書館 所蔵)
吉記 (京都府立総合資料館 所蔵)

主な参考文献
陸奥話記 新編日本古典文学全集41 (小学館/柳瀬喜代志 矢代和夫 松林靖明 校注・訳)
全譯 吾妻鏡 (新人物往来社)
奥州藤原氏 平泉の栄華百年 (中公新書/高橋崇)
図説 奥州藤原氏と平泉(河出書房新社/高橋富雄 三浦謙一 入間田宣夫 編)
日本史リブレット18 都市平泉の遺産(山川出版社/入間田宣夫)
戦争の日本史5 東北の争乱と奥州合戦 (吉川弘文館/関幸彦)
日本の中世5 北の平泉、南の琉球(中央公論新社/入間田宣夫・豊見山和行)
平泉物語 藤原氏四代の盛衰(熊谷印刷出版部/金野静一)
中尊寺 千二百年の真実 (祥伝社黄金文庫/佐々木邦世)
源平合戦事典(吉川弘文館/福田豊彦・関幸彦)
蝦夷の古代史(平凡社新書/工藤雅樹)

※絶版となったものもあります。出版社などにご確認下さい。
http://www.nhk.or.jp/sonotoki/2008_05.html#02

テーマ:文明・文化&思想 - ジャンル:学問・文化・芸術

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