大和古仏探訪

京阪神を中心に内外の古仏についていろいろと書いてみたいと思います。

神護寺薬師如来立像 再考

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 この仏さまについてはかつて以下のように書いてきた。
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-56.html

 今回は、久野健『神護寺』(1964年 中央公論美術出版)を読んでの再考である。

 「・・・奈良仏教のゆきすぎを是正し、造寺造仏をおさえることを願った光仁、桓武朝になると、官寺附属の造仏所がつぎつぎに廃止になった。延暦元年(782年)には、法華寺の造仏所が停止になり、延暦8年(789年)には東大寺の造仏所も廃止された」(p.14)
 つまり、官寺のおかかえ仏師は、これによって「就職先」をかえねばならなかった。また、官寺に属さない私仏所や山岳仏教の僧が自ら鑿をふるうようになった。久野氏は後者の視点を重視し、本像もそうした人々によってつくられたという見方をとっている。
 南都仏教は、平安京への遷都によって決定的な凋落期にはいる。この転換は、南都六宗(※1)が地盤沈下し、密教こそが時代の主役に躍り出てくることを意味する。


※1:南都六宗
律宗 - 開祖:鑑真、寺院:唐招提寺
華厳宗 - 開祖:良弁・審祥、寺院:東大寺
三論宗 - 開祖:恵灌、寺院:東大寺南院
成実宗 - 開祖:道蔵、寺院:元興寺・大安寺
法相宗 - 開祖:道昭、寺院:興福寺・薬師寺
倶舎宗 - 開祖:道昭、寺院:東大寺・興福寺
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E9%83%BD%E5%85%AD%E5%AE%97

 これ以降は平安二宗(天台宗・真言宗)が支配宗教化していく。飛鳥・白鳳彫刻は平城京遷都以前頃まで、天平彫刻は平城京時代におおむね同期する。貞観彫刻は平安京遷都以降とざっくりと捉えると、彫刻の作り手も、それに応じて変遷していく。奈良の仏師はすたれ京都の仏師が力をえて隆々と発展していく。後世の定朝は、京仏師の頂点に位置することになる。そして、南都仏師が一時的に復権するのは、慶派の活動期の鎌倉時代にはいってからである。
 さて、自分は時代を問わず仏像彫刻に関心があるが、このブログでも書いてきたとおり、特に飛鳥、白鳳、天平、貞観初期までを中心にいろいろと考えてきた。
 それはとりもなおさず、空海、最澄という巨大な頭脳がもたらした密教普及以前の彫刻であり、多くは奈良およびその周辺に残された仏像がその対象となる。関西に住んでいたときも、週末、閑さえあれば大和路快速のお世話になったのもそれゆえであり、京都に足を運ぶ回数は奈良にくらべて少なかった。だが、神護寺は当初の目算からも、どうしても再訪することにしていた。それは、南都仏師との関係について、この薬師如来の来歴がどうしても気になるからである。
 元興寺薬師如来像との比較、神護寺の前身「神願寺」の存在、ほかに京都では類例をみない本像の独自性から、久野氏の見解には大いに魅力を感じつつも、南都仏師、仏所の実力および多様性はけっしてあなどれず、この像もその系譜にある者が作像したのではないかといった秘かな見方は変えていない。
 もっと想像の翼をひろげれば、帰化人、渡来人およびその閨閥の存在はながく根をおろし、難波、河内、法隆寺、奈良、飛鳥へと続く「聖徳太子の道」に、有力寺院関係者が住まい活動していたこと、そして、その人脈からみても、この道にそって大いに行き来があったのではないかということこそ重視すべきと思っている。神護寺の前身の神願寺は河内方面にあり、いまも残る有力寺院でいえば、たとえば観心寺(※2)がある。神護寺のほこる国宝五大虚空蔵菩薩像は、この観心寺如意輪観音像と近似性がある。


※2:観心寺
 伝承では、大宝元年(701)、役小角(えんのおづぬ、役行者)が開創し、当初、雲心寺と称したとされる。その後、大同3年(808)、空海がこの地を訪れ、北斗七星を勧請(かんじょう)したという。これにちなむ7つの「星塚」が現在も境内に残る(なお、北斗七星を祭る寺は日本では観心寺が唯一である)。
 弘仁6年(815)、空海は再度この地を訪れ、自ら如意輪観音像を刻んで安置し、「観心寺」の寺号を与えたという。「空海が自ら刻んで」云々の話は伝承の域を出ないが、現在金堂本尊として安置される如意輪観音像は、様式的に9世紀の作品とされている。また、観心寺には奈良時代にさかのぼる金銅仏4体が伝来することから、奈良時代草創説もあながち否定はできない。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%B3%E5%BF%83%E5%AF%BA

 神護寺のご住職が言っておられた唐招提寺系との関係も有力な糸口である。唐招提寺の諸仏(※3)は、東大寺系ともいわれるが、むしろ南都六宗という宗派を超えて、当時の唐の影響を色濃くうけているだろう。

※3:唐招提寺の諸仏
乾漆廬舎那仏坐像 - 像高304.5センチメートル。奈良時代末期、8世紀後半の作とされる。廬舎那仏は、大乗の戒律を説く経典である『梵網経』(5世紀頃中国で成立)の主尊である。像は千仏光背を負い、蓮華座上に坐す。麻布を漆で貼り固めて造形した脱活乾漆像である。唐招提寺は私寺であるが、本像は制作に手間のかかる脱活乾漆像であることから、造東大寺司の工人による作と推定されている。(一説には、東大寺法華堂の旧本尊。)光背の千仏は864体が残る。

木心乾漆薬師如来立像 - 像高336.5センチメートル。廬舎那仏像とは造像技法が異なり、木心に木屎漆(こくそうるし)を盛り上げて造形した木心乾漆像である。かつては奈良時代の作と考えられていたが、1972年の修理時に左の掌の内側に3枚の古銭が納入されているのが発見され、そのうち最も年代の下る隆平永宝が延暦15年(796年)以降の鋳造であることから、本像の制作もそれ以降、つまり平安京遷都後となる。光背はこの像のものとしては幅が広すぎ、他の像の光背を転用したものと推定されている。

木心乾漆千手観音立像 - 535.7センチメートル。奈良時代末期の作で、廬舎那仏像よりはやや時代が下がるとされている。千手観音像は40手(合掌手を含めて42手)で千手を代表させるものが多いが、本像は実際に1,000本の手を表した例で、大手42本の間に小手をびっしりと植え付ける。現状は大手42本、小手911本、計953本であるが、制作当初は計1,000本の手を有したものと思われる。

木造梵天・帝釈天立像 - 像高はそれぞれ186.2及び188.2センチメートル。奈良時代末期 - 平安時代初期。

木造四天王立像 - 像高は185.0 - 188.5センチメートル。奈良時代末期 - 平安時代初期。

 自分は本像は官寺たる東大寺系仏師が唐招提寺にうつり(ないし行き来し)、ここで唐で開花した文化の息吹を帰化人、渡来僧らから受けて、天平のもつ一面の厳しさ(東大寺法華堂不空羂索観音立像が目を見開いたと思ってみる)を頭部に具現化し、その体躯は、当時流行の独特のボリューム感を実験してみたのではないかと推測する。今日はここで筆を擱く。
001-3
001-2
上の東大寺不空羂索観音さんが、カッと目を見開いたのが下の神護寺薬師如来さんではないか・・・と勝手な想像をする。材質も工法も異なるが、神護寺薬師如来に独特の存在感をだすことーその<技法>は、当時の南都仏師の実力をもってすればたやすかったであろう。なんといっても、かの高貴な薬師寺の三尊も聖観音もつくってしまうその実力は計り知れない。

テーマ:文明・文化&思想 - ジャンル:学問・文化・芸術

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