大和古仏探訪

京阪神を中心に内外の古仏についていろいろと書いてみたいと思います。

『 日本仏教史 〈古代〉』

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速水侑『日本仏教史〈古代〉』 1986/02 吉川弘文館(以下「速水1986」)

を読む(※1)。大変整理された労作で参考になる。以下、やや自由に、自分なりに聖徳太子時代までの事績をメモしておきたい。

1.中国の仏教受容
 日本に仏教が伝来する以前、中国では仏教について多様な展開があった。さまざまな分派があったとも言えるし経典の解釈にも単線的でない「厚み」があり、偶像信仰についても釈迦、弥勒、観音などのヴァリエーションも展開されていた。また、「先進国」中国は当時にあって文化の坩堝であり、新しいイデオロギーである仏教も、それ以前の既存の価値観との相克、同化、新たな定立の過程で変容していく。
 また、そのなかで、なにが、いつ「属国」にもたらされたかによって、各国内で胚胎の仕様がかわっていくダイナミックなものとして捉える必要がある。

2.属国への伝搬
 まず、高句麗(372年)に、次に百済(384年~)、遅れて新羅(514年~)に仏教は「公伝」されるが、もちろんこれ以外の民間レベルの私伝ははやくからあったと推定される。
 このうち、百済は枕流王(384年)、武寧王(501~523年)、聖明王(523~554年)の時代にそって隆盛をみていくと考えられる。これら三国は当時の中国の「冊封」(さくほう)下にあるいわば属国であり、仏教は宗主国からの一種の文化移入、「公伝」であることが重要である。

3.日本への伝来
 日本への伝来については、壬申伝来説(552年)と戊午伝来説(538年)が従来からあるが、筆者は慎重な検討を行い、どちらかに優位な判定をあたえず、「欽明朝」のいずれかのタイミングとしている。その場合の推定レンジは、欽明元年(532年:法王帝説)から欽明帝の没年(571年:日本書紀)までの間となる。
 これは、あくまでも「公伝」であり、古墳の「四仏四獣鏡」などにはこれよりはやくから釈迦三尊像、二尊像が配されていることからも、仏教的なるものは、日本にも渡来人を中心にもたらされていた。

4.蘇我VS物部抗争
 崇仏派たる蘇我氏と排仏派たる物部氏との抗争という日本書紀の「構図」について、筆者はここでも慎重な見方をしており、東漢氏および所領をめぐる権力闘争論に主軸をおいて解釈している。物部氏にだって、仏教受容の開明性はあったのでないかといった疑問であり実に面白い。
 しかし、その一方で、蘇我一族が仏教受容に熱心であった事実は動かしがたく、それは当時の中国および朝鮮半島情勢を分析していれば、いずれ仏教が、東アジア全体で重要な支配モメンタムになるという可能性をみていたからかも知れない。

5.聖徳太子論
 筆者の聖徳太子の評価には共感できる。このブログでいままで記してきた聖徳太子像にも共通し、秀でた政治家で仏教などの新文物にも明るく、「鎮護国家」論以前の仏教の教典としての意義、大乗仏教のもつ信仰面での重要性を認識していた知識人像が浮かび上がる。その一方で、なんでも自分で成し遂げるスーパースター性には疑問を呈し、一種のブレーン制による共同作業論を滲ませている。


※1:本書の特色(以下は引用)
 近年発展めざましい日本仏教史と関連諸領域の研究成果を総合し、多数の写真を配し、平易に叙述した最新の概説。古代仏教史上の諸現象を一貫した流れとして有機的にとらえるとともに、難読・難解な語句にはルビや訳を付す。

テーマ:文明・文化&思想 - ジャンル:学問・文化・芸術

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