大和古仏探訪

京阪神を中心に内外の古仏についていろいろと書いてみたいと思います。

聖徳太子と中大兄皇子

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 聖徳太子(厩戸皇子)の祖父は欽明天皇で、父は用明天皇。母の穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)は欽明天皇の皇女ですね。
 この欽明天皇を基点に中大兄皇子を考えると、欽明天皇の子が敏達天皇、その孫が舒明天皇。さらにその子が中大兄皇子となる。母は皇極天皇(重祚して斉明天皇)です。

 すると、系譜は別としても、一言でいえば欽明天皇の孫が聖徳太子で、玄孫が中大兄皇子ということだな。

 敏達天皇と穴穂部間人皇女は異母兄弟ですから、そこでも聖徳太子と中大兄皇子は繋がっていますね。蘇我氏との関係で見ていくと、聖徳太子は蘇我稲目のひ孫。蘇我稲目ー馬子ー蝦夷ー入鹿だから、入鹿も同じく稲目からみればひ孫。一方、中大兄皇子は皇室系で蘇我氏との縁は薄い。

 推古天皇が死去した後、蘇我蝦夷は、聖徳太子の子、山背大兄皇子ではなく、田村皇子を立てて天皇にした。これが舒明天皇。中大兄からみれば、父を天皇に推戴してくれたのは蝦夷となるね。もっとも田村皇子は馬子からみれば娘婿だ。でも、その子、入鹿は山背大兄皇子を滅ぼし、その入鹿を中大兄が645年大化改新で暗殺するわけだ。

 中大兄はその後、自らは天皇になかなか即位せず、皇子として動くという政治的な活動様式は、聖徳太子に似ていますね。もっとも中大兄(のちの天智天皇)のほうが、政治的には、はるかにやり手であったかも知れませんが。その一方で、中臣鎌足は中大兄皇子とともに権力の階段を上りはじめることになります。鎌足の父は中臣御食子(なかとみ の みけこ)ですが、神官ないしそうした仕事が中心だったという説もあるようですね。鎌足の時代に大ブレークし以降、藤原不比等など藤原一族が蘇我にかわって天下に君臨することになります。ところで、さん、この時代の仏教美術の動向は?

 大化改新以降天智天皇時代にかけては、外交、内政の課題山積で、この間、歴史的に残っている文書で確認できる仏教美術についての動きがあまりありません。あえてあげれば670年(天智天皇9年)の法隆寺全焼でしょうか。

 後世からみればだが、聖徳太子をおそらく相当意識して政治的な舵取りをしてきた天智天皇にとって、これは皮肉な出来事だったかも知れんなあ。

テーマ:文明・文化&思想 - ジャンル:学問・文化・芸術

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