大和古仏探訪

京阪神を中心に内外の古仏についていろいろと書いてみたいと思います。

仏像彫刻試論3 政治との関係

運慶N1

 仏像をつくる、祭るということは古代、中世にあって、いまとは比較にならないくらい重い政治的、祭儀的な意味をもっていた。ゆえに、それは時の政権の意思、庇護なくしてはなしえなかった。寺に仏像が祭られる以上、その寺がどのような位置づけで開山され、また社会的に機能したかが重要である。
 日本における造寺のはじまりは、蘇我一族によって主導された。596年法興寺(→飛鳥寺、日本書紀)、607年法隆寺(法隆寺金堂薬師光背造像記)などが創建されたのは蘇我馬子、厩戸(うまやど)皇子(→聖徳太子)らの皇族・蘇我ファミリーの仏教振興への強いリーダーシップあればこそである。日本書紀などの記述をどこまで信じるかどうかの問題は擱くとしても、587年蘇我VS物部の抗争(蘇我馬子による物部守屋討伐)が、崇仏、排仏を争点としてなされたと伝えられること自体の政治的な意味合いは実に大きい。

 その蘇我一族の強大な権勢を排除せんとしたのが中大兄皇子(→天智天皇)と藤原鎌足である。ここにも日本書紀の潤色があるかも知れないが、この二人の時代は661年白村江の敗戦など外交、内政上の非常な難局に直面していた。律令整備は独立国家としての存立上も不可欠であった。672年壬申の乱により大海人皇子(→天武天皇)の勝利は、その後、天武ー持統ー軽皇子(→文武)ー元明ー元正ー首皇子(→聖武)、光明子ー孝謙(称徳の重祚)まで約100年にわたり(政治的には別だが)「皇族系譜」としては<安定期>を迎える。

 そして、この100年こそ、いまにいたるまで、われわれがその遺産に感歎する白鳳・天平文化の象徴とでもいうべき仏像、建築の集積をみる。たびかさなる遷都については、以下のブログでも記してきたが、710年平城京(奈良)遷都後、はやくも同年(山階寺→厩坂寺→)興福寺、716年(大官大寺→)大安寺、718年(法興寺→)元興寺、薬師寺、728年(金鐘寺→)東大寺などが移設、整備され752年東大寺大仏開眼供養(続日本紀)で頂点を迎える。その後も756年正倉院(東大寺献物帳)、759年唐招提寺(伽藍開基記)などが続くが、この間の律令制の実行と鎮護国家論の影響は造像の背景として忘れてはならない。

 蘇我ファミリーを駆逐した中大兄は大海人にかわったが、もう一人の主役、藤原鎌足はその次男、不比等に見事に家督を譲り得た。この間の歴史を読むと、鎌足が周到に天智、大海人皇子の双方と関係を構築していたほか、669年の鎌足の死は壬申の乱の3年前であり、当時不比等が11才の幼少であったことが、ある意味エアポケット状態で結果的には良かったと思う。不比等が歴史上登場するのは、この後20年後の31才からだが62才(一説には63才)の逝去までの約30年間の政治的台頭はすさまじい。これも下記のブログに記したが4人の息子は有力各家をなした。3人の娘は、宮子(文武夫人・聖武母)、光明子(聖武皇后・孝謙母)、多比能(橘諸兄室)という最強力な「布陣」である。そして不比等なくしては、この間の「皇族系譜」の安定性はなく、それゆえ類いなき文化振興もなかったといえよう。 

テーマ:文明・文化&思想 - ジャンル:学問・文化・芸術

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