大和古仏探訪

京阪神を中心に内外の古仏についていろいろと書いてみたいと思います。

興福寺2

興福寺photo01

 興福寺の堂宇は天変地異によって焼失し、また再建されるという循環の歴史。これは興福寺の年譜をみればわかる。しかし、それには<裏面史>がぴたっと張り付く。以下の労作は元祖仏友会HPの抜粋だが、これを見ていると、興福寺の僧兵、悪僧(一般には「悪」は強いの意とも言う)がいかに強大であったかに驚き、かつ、これだけ絶え間ない武闘を繰り返していれば、報復戦争・戦闘によって堂宇損傷・焼失は覚悟せねばならなかったかも知れない。

【興福寺の歴史は以下を参照】
http://www.kohfukuji.com/about/history/index.html

【以下は引用】
元祖仏友会のHPからの年譜(抜粋)
 935/6/3  検非違使に命じ東大・興福両寺の雑人の濫行を糾させる
 968/7/15 東大寺と興福寺と闘乱する
 986/2/26 興福寺僧徒、備前守<藤原理兼>の濫行を訴える
1000/5/8  興福寺の僧徒が大和国の国守の館に乱入する
1006/6/20 大和国司が田畑損亡のことについて興福寺僧<蓮聖>らを訴える
1006/7/13 興福寺衆徒が八省に愁訴する
1037/1/19 興福寺僧徒が東大寺東南院を破壊する
1049/12/28 興福寺僧徒、大和守<源頼親>の第を襲う
1050/1/25 興福寺の訴えにより大和守<源頼親>父子を流す
1063/10/17 興福寺の僧<静範>、御陵の宝物を盗んだ罪により伊豆にその余党16人諸国に流される
1081/3/5  興福寺僧徒、多武峯を侵し民家を焼く、多武峯僧徒入京してこれを強訴する
1085/5/24 興福寺僧徒、大和国十市郡の民舎を焼く
1092/3/6  興福寺僧徒、山城国賀茂荘の民家を焼く
1093/8/26 興福寺衆徒、入京強訴し近江守<高階為家>を訴える
1093/11/3 興福寺衆徒、金峯山を襲う
1101/4    興福寺衆徒、金峯山と争う
1102/8/5  興福寺衆徒が蜂起する
1102/9/28 興福寺衆徒の狼藉のため東大寺衆徒が八幡の神輿を奉じて入京する
1103/3/25 興福寺衆徒、右大臣忠実に惟摩会竪者の改補を強請する
1108/9/10 興福寺僧徒、多武峯の堂舎などを焼く
1110/6/21 摂政<忠実>、興福寺僧徒の兵仗を禁じる
1111/9/3  東大・興福両寺の僧徒が争う
1113/閏3/20 興福寺僧徒、勧学院に行き強訴する
1113/3/29 延暦寺僧徒が清水寺の堂舎を破壊し、法皇御所にいたり興福寺僧徒の罪を訴える
1113/4/5  延暦・興福両寺僧徒の争闘を抑えるため、検非違使<平忠盛>を興福寺に、<源光国>を延暦寺に向かわせる
1113/4/12 延暦・興福両寺に勅して和解させようとしたが、僧徒はこれを拒否する
1117/6/1  春日神人、興福寺僧徒と争う
1120/8/23 興福寺僧徒の強訴によって、和泉守<藤原雅隆>を罷免する
1123/8  延暦・興福両寺の僧徒が相闘う
1129/11/11 源為義らを派遣して、興福寺僧徒の騒擾を鎮定させる
1135/3/11 興福寺僧徒と闘った東大寺の僧を罰して移郷させる
1137/2/10 興福寺の僧徒が神木を奉じて入京し強訴する
1139/3/8  興福寺の僧徒が別当<隆覚>の坊を焼く
1139/3/26 平忠盛らが興福寺僧徒の入京を宇治・淀に防ぐ
1139/11/9 興福寺の僧徒が別当<隆覚>とあらそう
1142/8/3  興福寺の悪僧一五人を勧学院に鞫問して陸奥に放つ
1144/11/6 興福寺の衆徒が内大臣<頼長>に、<源忠清>の配流を請う
1145/3/14 興福寺僧徒が東大寺僧徒と闘う
1145/7/12 興福寺僧徒が金峯山を攻める
1145/9/13 興福寺僧徒が金峯山を攻める
1148/8/26 法皇、興福寺衆徒が蜂起して強訴しようとするのを止めさせる
1151/2/23 <頼長>が興福寺衆徒の兵仗を禁じる
1158/7/17 興福寺の僧徒、大和の公田の検注を不満として上座<信実>の房舎を焼く
1163/7/25 興福寺衆徒、別当<恵信>を逐いその房舎を焼き、<恵信>兵を集めて戦う
1165/10/27 興福寺僧徒神木・神輿を奉じて入京し強訴する
1167/3/10 前興福寺別当<恵信>党与を集め、別当<尋範>を襲い大乗院などを焼く
1171/9/21 興福寺僧徒が入洛して、前下野守<平信遠>を訴えようとし摂政<基房>これを制止する
1173/6/25 興福寺僧徒多武峯を焼く
1173/11/4 興福寺僧徒の入京を<平重盛>に命じて宇治で防がせる
1173/11/6 吉野大衆が興福寺に応じて延暦寺と戦おうとする
1173/11/11 興福寺僧徒が解散したので南都一五大寺の荘園を没収する
1180/12/28 平重盛が東大・興福両寺を焼く
1181/1/4  東大・興福両寺の荘園を収公する
1194/3/14 奈良興福寺の衆徒ら西京を焼く
1198/10/16 興福寺衆徒の訴えにより和泉守<平宗信>の任を停止する
1198/12/16 平宗信を解任して播磨国へ流す
1206/2/14 興福寺衆徒ら、<源空>およびその徒が念仏を唱え他宗を誹謗した事を訴える。源空の弟子行空・遵西ら即日配流される
1209/7/3  興福寺僧徒ら、互いに党を組みたびたび闘争に及んだためその首領捕えられる
1213/11/20 興福寺衆徒ら、山門襲撃を企てて諭止される
1214/8/7  興福寺衆徒、神木を奉じて入洛を計る。是日武士ら宇治・淀などに赴き防ぐ
1227/8/8  興福寺衆徒ら蜂起し多武峯の数百戸を焼く
1228/4/23 興福寺衆徒ら再度多武峯を焼く。このため延暦寺衆徒も蜂起して、近江国の興福寺領を没収する。興福寺衆徒憤って離散する
1235/5/23 石清水神人、興福寺僧徒と水利問題で争う。朝廷<六波羅>に調査を命じる
1235/12/22 興福寺衆徒蜂起する
1236/2/24 幕府の使者、兵を率いて木津川に至り、興福寺衆徒に退去を勧告する
1236/9/   興福寺衆徒築城し、兵具を修備する
1236/10/5 幕府、興福寺衆徒の荘園を没収し大和国に守護・地頭を設置し奈良出入を禁じる
1236/11/14 衆徒鎮静する 大和国の守護・地頭を撤廃する
1255/2/10 興福寺衆徒ら東大寺の房舎を焼く
1266/9/20 興福寺僧徒蜂起する
1278/7/27 興福寺の訴えにより参議<葉室頼親>を安芸国へ配流する
1282/12/19 興福寺僧徒の強訴により、権中納言<久我具房>・按察使<源資平>を配流する
1293/11/17 奈良興福寺一乗院の僧徒ら、大乗院僧徒と交戦する
1296/2/26 南都僧徒闘争する
1303/8/19 興福寺衆徒の訴えにより、延暦寺の僧<慈俊>・<頼俊>を配流する
1304/9/26 幕府、興福寺僧徒の訴えにより大和国の地頭職を撤廃する
1305/4/4  興福寺僧徒、大和国片岡の達磨寺を焼く
1307/10/2 春日神木入洛する
1307/12/6 興福寺僧ら<仙海>・<頼綱>法師の流罪などを訴える
1307/12/15 春日神木、宇治山城国<平等院>に動座する
1307/12/20 神木また入洛する
1311/6/28 興福寺衆徒ら多武峯の僧徒と争う
1318/7/13 興福寺僧徒、春日社神木を金堂前に遷す。ついで帰座する
1327/3/12 興福寺の僧徒闘争する。このため金堂以下焼失

(資料)河出書房新社『日本史年表』
http://homepage2.nifty.com/butuUkai/ganso/kohuku.htm

 平重衡の南都焼討ちといえば、織田信長の延暦寺焼討ちとともに「極悪非道」の所業とされる向きもあるが、当時の政治リアリズムのなかでは、鎮撫すべき命を帯びた敵方武将としては止むを得ない戦術であったかも知れない。それくらい興福寺、東大寺の僧兵の武力は強大であった。しかも、これで根絶やしになったわけではなく、その後も僧兵の政治力、軍事力は保持されていることが上記年譜で確認できる。
 運慶は東国に下向して、鎌倉武士の荒ぶる魂にふれた。このことが、運慶彫刻のマッスルさ、男性的なリアリズムの源泉といった見方も古くからあるけれど、運慶は、仕事場の興福寺や東大寺の境内を歩けば、彫刻のモデルになるような武人(=悪僧)はいくらも居たわけである。
 さらに僧兵は武術も磨いていた。宝蔵院流の槍といえば、幕末の新撰組のファンなら誰しも『燃えよ剣』の谷三十郎を連想するが、これも興福寺に淵源がある。


【以下は引用】
■平重衡南都焼き討ち

治承4年(1180年)12月28日。
平重衡(たいらのしげひら:清盛の子。24歳)、平通盛(たいらのみちもり:清盛の甥。教盛の子。)率いる平家軍が、東大寺・興福寺の僧兵と戦ってこれを破り、その兵火で東大寺・興福寺が焼け落ちた。
東大寺・興福寺は挙兵に失敗した以仁王を支持して平家と敵対していた。この年、清盛が福原遷都を強行したのも、これらの寺社勢力から逃れるためだった、と言われている。しかし、強引な福原遷都の評判はすこぶる悪く、11月にはやむを得ず京都に戻っていた。京都に戻った清盛は南都を攻めると盛んに吹聴し、南都の僧兵らも鞠を清盛の首に見立てて踏んだり蹴ったりして挑発していたという。
この日、南都勢は奈良坂、般若坂に盾と逆茂木を並べて防塞を構築していたが、平家の騎馬武者が僧兵もろともこれを蹴散らし、戦いは平家の勝利で幕を閉じた。東大寺や興福寺が焼け落ちたのは、重衡が夜になって周囲を明るくするために、民家に放った火が瞬く間に延焼したため、といわれている。
http://yururi.aikotoba.jp/samurai/history/shigehira.html

■宝蔵院流槍術
柳生新陰流剣術とともに奈良を発祥地とする日本を代表する武道です。約450年前、興福寺の僧宝蔵院覚禅房胤栄が猿澤の池に浮かぶ三日月を突き、十文字鎌槍を創始したと伝えられています。 鎌槍を活用した槍術は「突けば槍 薙げば薙刀 引けば鎌 とにもかくにも外れあらまし」とうたわれるように攻防にすぐれ、やがて全国を風靡し、最大の槍術流派として発展しました。
http://www4.kcn.ne.jp/~hozoin/

テーマ:文明・文化&思想 - ジャンル:学問・文化・芸術

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