大和古仏探訪

京阪神を中心に内外の古仏についていろいろと書いてみたいと思います。

空海と密教美術展 空海について考える5 大日如来

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  仏教のなかの一流派として密教を捉えるか、そうではなく密教を仏教をも取り入れた新宗教として捉えるかによって、考え方は当然かわってくる。空海の「独創」は後者に立脚点があったのではないかと思う。しかし、空海が自ら打ち立てた真言宗は、時代とともに次第に前者の枠組みのなかに居場所を求めていったような気もする。

 それは、釈迦(如来)を最高神として捉えるかどうかにもよる。仏教のファウンダーともいえるお釈迦様がなにを語ったかに最高の価値をおくか、あるいはもっと大きな宗教空間・世界が存在し、釈迦をそのなかで相対的な存在として位置づけるかによって位相はかわる。実在の釈迦如来よりも架空の大日如来を評価することには仏教関係者のなかにも抵抗感があるかも知れない。

 空海が構想した彼の密教での最高神は大日如来であり、比喩的にいうならそれは太陽神信仰に結びつく。いわゆる大乗の考え方の範疇のなかでは、そしてとりわけ空海の独創的な世界観からは釈迦は控えめな存在であるかも知れない。


 780年(宝亀11年)空海7歳は、家の西にある捨身岳(しゃしんがたけ)に登り、「私は将来、仏道で多くの人を救いたいと思います。この願いが叶うならば命を救って下さい。もし叶わないならば命を捨ててこの身を仏に供養します」と云い、崖の上から谷底めがけて身を投げると、釈迦如来と天女が現れ真魚を受け止めてくれたので、後にその山の名を空海が我拝師山(がはいしざん)と改め、山上に第73番札所「出釈迦寺(しゅっしゃかじ)」を建立し、本尊として空海が自(みずか)ら刻んだ釈迦如来像を安置しました。
http://urano.org/kankou/topics/kuukai/index.html

 空海のエピソードで釈迦如来が登場するのは、その幼年期である。しかし、その一方、両界曼荼羅の主、大日如来はなぜかくも重要な地位を与えられるのか。永貞元年(延暦24年、805年)のことである。

8月10日には伝法阿闍梨位の灌頂を受け、「この世の一切を遍く照らす最上の者」(=大日如来)を意味する遍照金剛(へんじょうこんごう)の灌頂名を与えられた。この名は後世、空海を尊崇するご宝号として唱えられるようになる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%BA%E6%B5%B7

 空海は大日如来の生まれ変わり、ないし「変身」。そこまでファンタジー的でないとしても、少なくとも空海の生涯の守護神は幼少期の釈迦如来ではなく、大日如来と思っていたとしても不思議ではないだろう。
(参考データ)

大日如来のルーツについて

  大日如来については、文字通りの『大日経』のほかに、どこにその出典を見いだすかに諸説がある。初期仏教経典としての『雑阿含経』(巻第二十二)では太陽神があらわれ、これが「大日」になったという説があるようだ。
阿含経は日本よりも欧米で広く紹介されていたようで、洋の東西で比較研究が行われているが、さすが、金剛峯寺には重文(書跡典籍、古文書の部)『雑阿含経』(巻第三十九)が保存されている。金剛峯寺は空海密教の最大拠点である。果たして大日如来といかなる関係があるのかどうか。


  『華厳経』との関係については、同教では(毘)盧遮那仏が重要だが、「光明遍照」という路線は、その後、この(毘)盧遮那仏が密教において大日如来に転化されていったとの考え方がある。その典型作例は奈良の大仏である(注1)。

  『梵網経』との関係については、唐招提寺の廬舎那仏坐像での記述が参考になる。ほかにも『理趣経』他との関係もあるようだが省略(注2)。
 
   ところで、聖徳太子はかの有名な「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す」という文書を隋の煬帝に送ったが、日(太陽)信仰はわが国でも固有の定着をみていたことだろう。そこからの連想では「大日如来」は、それだけでも有難い存在であったことと思う。空海のことである。そこも周到に考えぬき普及活動を行ったと考える(注3)。


(注1)
◆毘盧遮那仏と大日如来
奈良の大仏は、正式には毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)・盧舎那仏(るしゃなぶつ)・遮那(しゃな)・びるさな・るさな、などと呼ばれておりますが、どれも古代インド語であるサンスクリット語のヴァイローチャナ(Vairocana)の音写、またはその省略形で、いわば「光の仏」を意味しております。
 そこで意訳して、「遍一切処(へんいっさいしょ)」(あらゆるところに現れる仏)、「光明遍照(こうみょうへんじょう)」(すべてを照らし出す光の仏)などともいいます。のちにインドで七、八世紀頃から盛んになり、中国・日本にも伝えられる密教において大宇宙の根本の仏とされる大日如来も、この仏から展開したものです。
 この太陽の光のはたらきに喩(たと)えられる盧舎那仏(ヴァイローチャナ仏)こそ『華厳経』の教主であり、それを『梵網経(ぼんもうきょう)』の構想の助けを借りて具象化したのが「奈良の大仏」です。ですから、「奈良の大仏」にお詣りするということは、『華厳経』の教主を拝んでいるということなのです。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/kegon01.html

 大日如来をインド神話のアスラ神族の王ヴィローチャナに求める学説がある。この名が華厳経の教主の毘盧遮那仏(ヴァイローチャナ)と類似することから、毘盧遮那仏から発展した大日如来とも同一視するというものである。この説は、チャーンドギヤ・ウパニシャッドの説話を根拠としているようだ。 また、インドの叙事詩『マハーバーラタ』においては、ヴィローチャナとは単に太陽神のことを指す場合があり、この時代になると特定のアスラ王の固有名詞以外の意味を持つようになっていた。
マハーバーラタの太陽神ヴィローチャナと、アスラ王のヴィローチャナは基本的には別個の存在である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%97%A5%E5%A6%82%E6%9D%A5

より詳細については以下を参照
http://www10.ocn.ne.jp/~mk123456/daintn.htm

(注2)
◆梵網経と大日如来
乾漆廬舎那仏坐像 - 像高304.5センチメートル。奈良時代末期、8世紀後半の作とされる。廬舎那仏は、大乗の戒律を説く経典である『梵網経』(5世紀頃中国で成立)の主尊である。像は千仏光背を負い、蓮華座上に坐す。麻布を漆で貼り固めて造形した脱活乾漆像である。唐招提寺は私寺であるが、本像は制作に手間の掛かる脱活乾漆像であることから、造東大寺司の工人による作と推定されている。光背の千仏は864体が残る。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%90%E6%8B%9B%E6%8F%90%E5%AF%BA

より詳細については以下を参照
http://www.butsugu.co.jp/dainiti.html

(注3)
『隋書』によれば、遣使の国書は「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す(「聞海西菩薩天子重興佛法」「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」「卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國」)」との文言があり、隋の煬帝(開皇11年(591年)菩薩戒により総持菩薩となる)を「無礼である、二度と取り次がせるな」(「帝覧之不悦 謂鴻臚卿曰 蠻夷書有無禮者 勿復以聞」)と大いに不快にさせた(煬帝が立腹したのは俀國王が隋の皇帝と同位の立場である「天子」を名乗ったことについてであり、「日出處」「日沒處」との記述にではないとする説がある。「日出處」「日沒處」は『摩訶般若波羅蜜多経』の注釈書『大智度論』に「日出処是東方 日没処是西方」とあるなど、単に東西の方角を表す仏教用語であるとする。)。この国書は俀國が隋との対等の外交を目指したものであり、冊封体制に入らないことを宣言したものである。当時、隋は高句麗との戦争を準備しており、背後の俀國と結ぶ必要があった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E5%BE%B3%E5%A4%AA%E5%AD%90

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