大和古仏探訪

京阪神を中心に内外の古仏についていろいろと書いてみたいと思います。

空海と密教美術展 空海について考える7 時代背景

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 空海についてこのところずっと考えている。湯川秀樹氏の空海についてのコメントを読んで、大秀才が大天才を論じているなあと思ったが、「英雄を知るは英雄のみ」ではないけれど、分野こそ異なれ、その偉大さを常人以上に理解できるのではないだろうか。ほかにも感性鋭い岡倉天心の空海論しかり、南方熊楠またしかりである。

 空海の逸話、伝説も枚挙にいとまがない。これほど庶民に親しまれ、あまた日本中(弟子も唐に留学しておりその空間的な広がりは一部、中国にも及ぶ)に影響をあたえた「伝道師」もまたいないだろう。しかも、そのフィールドは本草学から博物誌まで(いわば自然科学も社会科学も、もちろん本業たる宗教も)など驚くべきほど広く、「お大師様」信仰はいまも根強い。

 だが、そうした一面だけではない空海もいる。統治機構としたたかに折り合いをつけていく、南都六宗を巧みに篭絡(その言葉に問題があれば「教化」)していく、天台宗とのライバル関係にも細かく気を配る・・・。いわば政治力学、宗教界でのイニシアティブを常に意識し、機敏かつ見事に行動する空海像もまたあり、それも興味深い。

 平安京への遷都のあとも、蝦夷(えみし)の反乱は続きその鎮圧は政権にとって大きな課題であったし、足元でも政治的な権力闘争、不穏な内乱の兆しも強くあった。時の政権にとって、空海の知力、法力は欠くことができなかった。呪詛は日常茶飯事であったから、「攻守」ともそれを乗り切るために、「生ける大日如来」とでもいうべき空海はもっとも頼りになる存在だったろう。
 空海が必要と言えば、当代一流の仏師を集め、厳つい明王像を多くつくることも、かかる観点からは朝廷、政権においては否応なく許諾した。空海を味方におくことのみならず、空海は当代きっての技術者として湊の改築にあたり、また人工池を開鑿するなどの行政マンとしての活躍もしている。いつの時代もそうかも知れないが、当時も課題は山積し、人心も不安定な状況にあった。われわれがいま拝顔する仏像のお顔、お姿はその時代の雰囲気を正確に写してもいよう。

 
(参考データ)

空海略年譜

774(宝亀5)  6月15日 讃岐国多度郡屏風が浦で出生。幼名は真魚(まお)。
780       出釈迦寺で、481mの頂から身を投じたという捨身ヶ嶽禅定。
789        母方の伯父、阿刀大足(あとおおたり)に師事。獅子窟で励む。
791(延暦10) 大足に伴われて上京(長岡京)、大学に入学。
793       20歳で出家。ある沙門から「虚空蔵求聞持法」を授かる。
         阿国大滝岳、土州室戸岬、和泉国槙尾山施福寺で沙弥戒を受ける。
797(延暦16) 4月9日 東大寺の戒壇院で具足戒を受ける。
         12月1日「聾瞽指帰(ろうこしいき)」完成。
798       大和国久米寺で「大日経」を感得。

804 (延暦23) (続日本後記)31才で得度。
         7月6日 肥前国田ノ浦(現・平戸)を出帆。
          8月10日 中国大陸福州赤岸鎮(せきがんちん)の南に漂着。
         12月23日 唐の都長安に東門(春明門)より入る。
805 (延暦24) 2月10日 遣唐大使らは長安・宣陽坊を発って帰国の途につく。
          空海は逸勢と西明寺に残る。青竜寺の恵果を訪ねる。
          6月13日 恵果より学法灌頂壇で胎蔵の灌頂を受く。
          7月 恵果より金剛界の五部灌頂を受く大日如来に落花。
          恵果は空海に遍照金剛の名を授く。
          8月10日 恵果より阿闍梨位の伝法灌頂(密教の大法)を受く。
         12月15日 青竜寺の東塔院で恵果が入滅。
806 (大同元) 1月 門下を代表して恩師恵果の碑文を撰した。
           3月 20年滞在の約束にもかかわらず、長安を離れ、帰国の途。
          4月20日 浙江省に到着、ここで4ケ月滞在。
          8月 逸勢と共に寧波から帰路につく。
          12月13日 空海は大宰府に留めおかれる。

809 (大同4)  嵯峨天皇が24歳で即位
         8月24日 最澄(弟子経珍)、空海が請来した密教経典12部を借覧。
         10月4日 「世説」8巻のうちの秀文を屏風にして嵯峨天皇に献上
810(弘仁元) 「東大寺要録」によれば、この年から813年まで東大寺の別当職
         9月に薬子の乱。
        皇太子である高丘親王は廃され、出家して空海の弟子となる。

811       11月9日 乙訓寺の別当に任じられる。
812(弘仁3)  9月11日 空海から最澄へ書状「風信帖」。
         11月15日 空海、高尾山寺の金剛界灌頂。最澄は受者。
         12月14日 空海、同寺の胎蔵灌頂。最澄以下145名が受者。
813       最澄は空海に阿闍梨灌頂を伝授するように願うが拒否。
814       最澄:「法華一乗」と「真言一乗」は大乗で、同じという立場
          空海: 顕教と密教とは次元が異なるとし、双方は離別。
816       6月19日 修禅の道場建立のため高野山の下賜を願い出る。
        当時の帝、嵯峨天皇より高野山を賜わる。
         
          諸弟子や工人等多数を伴って登山し高野山金剛峯寺開創に着手。

818        満濃池決壊。築池使の路浜継は3年で修復を図るも失敗。
821(弘仁12)   4月 満濃池修築別当に任じられ、6月からの3ケ月で完成。
822(弘仁13)   2月 東大寺に潅頂道場(真言院)を建立。
          高雄山寺において、鎮護国家の為に仁王経法を修す。

           平城上皇に密教独特の戒である三昧耶戒を授け、潅頂。
823(弘仁14)   1月19日 嵯峨天皇にも潅頂を授く。
           嵯峨天皇より東寺(教王護国寺)を受預。
824(天長元)   2月 勅命によって神泉苑において雨をいのる。
          翌月、少僧都に、5月には内裏で祈雨法を修し、大僧都に。

828(天長5)    12月15日 綜藝種智院を開設。
830(天長7)    「十住心論」を著す。
832         高野山で万燈会。
          願文「虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば、わが願いも尽きん」。
835(承和2)    3月21日62歳で入定。
921(延喜21)   醍醐天皇、「弘法大師」号を贈る。
   
(出典) http://www.sakai.zaq.ne.jp/piicats/kukainenpyou.htmから作成

テーマ:文明・文化&思想 - ジャンル:学問・文化・芸術

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