大和古仏探訪

京阪神を中心に内外の古仏についていろいろと書いてみたいと思います。

実慶

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【以下は引用】

◆東国に住みついた宗慶・実慶などの慶派仏師

 (前略)このような需要にこたえるため鎌倉にしばらく、あるいは長く滞在した、中には住みついて仏所を構えた慶派仏師の存在が当然考えられる。東国武士達による造仏もこの時期に活発化し、その点からもそのような仏師が必要とされたことは、数多くの慶派の遺品が物語っている。

 埼玉県保寧寺の阿弥陀三尊像は銘文によれば、建久7年(1196)大仏師宗慶が造った。施主は武蔵七党の児玉党に属する四方田弘綱にあたると思われる。宗慶の名は静岡県瑞林寺地蔵菩薩像の治承元年(1177)の銘文に大仏師康慶のもとに小仏師としてあらわれ、寿永2年(1183)の「運慶願経」にも結縁した慶派仏師の枢要な一員である。

 同様に「運慶願経」に名があり、運慶の周辺にあって共に仕事をしていたことが確かな実慶の作品が桑原区薬師堂の阿弥陀三尊像と修禅寺大日如来像である。

 前者は作風の上から宗慶の保寧寺像とほぼ同時期の作かと思われ、後者は銘記に承元4年(1210)8月28日の日付けがあり、女性の黒髪とかもじを納入している点から、おそらく重い病のため7月8日に落飾し、間もなく亡くなったと思われる辻殿(源頼家室、後に実朝を暗殺する公暁の母)の供養のための像かと推測される。実慶は当時東国に在住していたのであろうし、あるいは長く滞在していたのかもしれない。

 東国のその他の慶派作品の示す作風は多様である。京都・奈良における慶派の作品の作風変遷との比較を通じて、それぞれの作家のあり方をなお検討する余地があると思う。

http://www.yurindo.co.jp/static/yurin/back/431_4.html

◆木造阿弥陀如来及両脇侍像

 桑原の長源寺の裏山にある薬師堂に安置される、来迎印を結ぶ等身の阿弥陀如来坐像を中心に三尺の両脇侍菩薩立像を配する三尊像である。三尊とも頭体幹部を檜の一材から彫出、前後に割矧【は】いで内刳りを施し(中尊像は像底を上底式に刳り残す)割首とし、玉眼嵌入、表面は漆箔で仕上げる。中尊像首〓内面に「大仏師実慶」両脇侍像頭部内面にそれぞれ「仏師実慶」の作者銘が記される。

 そのはつらつとした作風には鎌倉時代初期のいわゆる慶派の特色が顕著に示されている。中尊像の頬が張り、口角を引き締めて強い眼差しで前方を凝視する若々しい面貌表現は運慶作の神奈川・浄楽寺阿弥陀如来坐像(重文、文治五年・一一八九)に類するが、やや細身で胴の締まった体型やふくらみをもたせた地髪部の形状などは同じく運慶の主宰した興福寺北円堂弥勒仏坐像(国宝、承元二年・一二〇八)に一歩近づいた感がある。その制作年代は十二世紀末から十三世紀初頭にかけてと見られる。

 作者実慶は寿永二年(一一八三)の運慶願経(国宝、兵庫・上野氏他蔵)に快慶らの仏師と共に結縁した実慶と同一人物と思われる。その遺品としては他に承元四年(一二一〇)銘の静岡・修禅寺大日如来坐像が知られるが、その作風は本三尊像に比べやや張りを減じて落ちついた気分を示している。桑原の地には北条時政の子息宗時の墳墓堂があったことが『吾妻鏡』により知られ、ほど近い韮山の願成就院に存する時政発願の運慶作諸像(重文)と同様、本三尊像は北条氏関係の造像である可能性が考えられる。実慶は東国に定住し、幕府関係の造仏に携わった仏師であったと想像され、こうした慶派仏師の活動をうかがう意味でも看過できない遺品といえよう。
 保存状態も総じて良好で、特にその過半を当初のまま残す蓮華座の丈高な概形と力強い各部の意匠に当代この種遺例の典型を見ることができるのも喜ばしい。

http://www.bunka.go.jp/bsys/maindetails.asp?register_id=201&item_id=5118

◆世界に誇る阿弥陀三尊像 -桑原薬師堂内の仏像群・その1

 阿弥陀三尊像は鎌倉時代の仏師を代表する運慶の一門「慶派」のひとり実慶が 今から800年ほど前の鎌倉時代初期(十二世紀末~十三世紀初頭)に作ったもので、保存状態も良く、この時代の特徴をよく示していることから国の文化財(重要文化財)に指定されています。

 中でも当初の状態が残る蓮華座(阿弥陀如来の台座)は、鎌倉時代初頭の蓮華座の特徴を最もよく表す模範となるものと絶賛され、後世の阿弥陀如来の顔面の彫り直しが無ければ国宝であったと高く評価されています。

 平成3年には、ロンドンの大英博物館で開催された「日本の鎌倉時代展」のメイン作品として出展され、世界の人々を魅了しました。

◆阿弥陀三尊像

 阿弥陀如来が観音菩薩と勢至菩薩を両脇に従えた三尊形式。阿弥陀如来の本来の光背は失われ、現在は近世の新しいもの(頭部、後の金色の輪)が付けられている。

 阿弥陀如来の首の内側に、墨で「大仏師実慶」と書かれている。「実」の部分に「しんにゅう」が見られるが、これは後世に加筆されたもの。両脇侍蔵の首の内側には朱で「仏師実慶」と書かれている。

◆解体保存修理された阿弥陀三尊像

 三尊像は、江戸時代の修理で色づけられたり、金箔が貼られたりしていました。こうした後の時代に付け加えられたものを取り除き、傷んだ部分を直し、制作当初の姿に戻すための解体保存処理を昭和63年に行いました。

 慶派の仏像は、写実的で男性的な力強い表現に優れていることから、武士に受け入れられ幕府の注文による造像も多く手がけるなど、慶派は超一流の仏師の集団でした。
なぜ、桑原の地に、こうした国宝級の仏像があったのでしょうか?
鎌倉幕府の記録書「吾妻鏡」には、源頼朝の義父、北条時政の長男・北条宗時の墳墓堂が桑原にあったことが書かれています。宗時は石橋山合戦(頼朝が平家を滅亡させるための最初の戦い)で平井の周辺地で戦死しました。
墳墓堂は、この宗時の慰霊のために時政が建立したもので、阿弥陀三尊像を本尊(時政の注文により造られた)とした阿弥陀堂であったと考えられます。現存する阿弥陀堂で有名なものに、平等院の鳳凰堂、中尊寺の金色堂があります。
残念ながら阿弥陀堂があった場所は不明ですが、当時、桑原の地に華麗な阿弥陀堂があったことを推測させる阿弥陀三尊像と言えるでしょう。

http://www.izunet.jp/manabu/knm-bunkazai/0005.htm

◆桑原薬師堂阿弥陀三尊像(実慶作) 静岡県函南町桑原区

函南町の桑原区に区有の仏像があります。やはり阿弥陀三尊なんですが、この仏像の首に赤で書かれた字があって「実慶」という名前が読み取れました。この実慶は、さっきの瑞林寺の像に、宗慶と並んで小仏師として名前が出てくる人です。(実慶の作品は)さっきの宗慶とは少し雰囲気が違うんです。もう少し厳しく、ちょっとスリムな感じがこの人は好きなんですね。着物にも一杯襞があって、宗慶のものよりも顔は少し華奢なんです。ところが面白いことに、この実慶は腰から下のボリュームを大きく作るのが好きなんです。

http://www.uehara-buddhismart.or.jp/kouen/h161114-2.html

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本尊の大日如来像は1984年に解体修理され、像内から銘文と納入品が発見された。これによって、1210年に実慶が造ったものとわかった。

実慶は「運慶願経」(1183年)に名前の見える慶派の仏師である。この修理の時点では作品は知られておらず、重要な発見となった。新聞でも報じられたそうである。

納入品は美しい布に包まれた髪の毛であった。1210年というのは、この地で非業の最期をとげた鎌倉幕府の2代将軍源頼家の7年忌にあたることから、頼家ゆかりの人の髪と考えられる。『吾妻鏡』の1210年7月8日の条には、頼家の妻辻殿が出家をしたという記事があり、この髪は辻殿のものである可能性が高いと思われる。

http://web.mac.com/butsuzoutanbou/sekidoyoshio/%E3%83%BC%E4%BF%AE%E7%A6%85%E5%AF%BA.html

 弘法大師が開基し、源氏興亡の舞台となった「修禅寺」には、昭和36年に出土された「独鈷杵」(とっこしょ)を始め、多数の寺宝が展示されている宝物館が本堂に向かい、境内の右手にあります。
この宝物館で11月1日から10日まで特別展観が開催され、修禅寺本尊の大日如来座像が展示されます。この仏像は、通常本堂に安置されて見学できませんが、この10日間に限り、一般に公開されます。
 仏像は、昭和59年に解体修復が行われ、1210年に運慶の流れをくむ仏師「実慶」(じっけい)が制作したものと確認されており、鎌倉幕府二代将「源頼家」(みなもとのよりいえ)の七年忌に母「北条政子」が実慶につくらせたものとされています。
 体内からは二種類の毛髪が発見され、政子と、妻「辻殿」という説が有力になっています。又、平成4年には国の重要文化財にも指定されています。

http://shuzenji.info/dainitinyorai.htm

テーマ:文明・文化&思想 - ジャンル:学問・文化・芸術

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